Dribs and Drabs

The author hereby agrees to cover each and every topic that caught his attention.

[本]鈴木美勝 『日本の戦略外交』ちくま新書

日本の戦略外交 (ちくま新書 1236)

日本の戦略外交 (ちくま新書 1236)

高坂正堯『国際政治 - 恐怖と希望』中公新書のような「一般的」な本も面白いのであるが,あるいは福永文夫『日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄』中公新書のような本で過去を知るのもためになるのであるが,「いままさに何が起こっているか」「安倍晋三首相は何をしてきたか」ということを丹念に書いたこのような本も,大変面白いです。

本筋ではないですが,安倍首相が国内外でなすスピーチ,この作成にはしかるべきスピーチライターがいて,念入りなリサーチと推敲(首相直々の手直しも含む)が実はなされている,という点が,個人的には大変興味深く思えました。「文章を書く」という仕事には,そういうかたちもあるんですね。*1

以下,興味深かった箇所をランダムで抜書します。

サンフランシスコ講和にあたっては,日本をめぐる米ソ暗闘のドラマがあった。敗戦国日本が,放棄させられた千島列島に関して将来の日ソ間の火種となる米国外交による仕掛けがあったためだ。それが,今日の北方領土問題を形成する。講和条約には米国がヤルタ会談ソ連に約束した「南樺太・千島列島をソ連へ譲渡する」との表現は条文になく,日本の放棄のみが明記された。それがどこに引き渡されるかも書かれなかったのは,「事実上はソ連の占領が続くが,それに法的な根拠は与えない」ことを意味する。また沖縄の扱いと同格にせず,日本の「潜在主権」をも認めなかったのは,将来の火種を除去しておくとの配慮が働いたためと言われる。(改行)だが,実際は違う。そこにこそ,講和会議を舞台裏で仕切ったジョン・F・ダレス(米国務省顧問)の仕掛けがあった。千島列島の範囲がどこまでなのかの記述がなく,その解釈にも火種が残された。米ソ冷戦が本格化しようとする中で,「反共の砦」にと位置付ける日本と宿敵ソ連との間を離間させておくには,北方領土問題は格好の火種となった。(p.22)

そのアメリカの「仕掛け」は見事に機能したかたちになりましたね。

「価値観」をめぐっては,政治的,経済的視点で捉えるか,文化的,歴史的視点で捉えるかによって,その見え方は随分違ってくる。(改行)日本は政治的,経済的には価値(欧米の民主主義,法の支配,市場経済)の共有でつながることは容易だが,文化的,歴史的にはむしろ日中で共有する価値が多い。これを,外交戦略の中に取り込んだ場合,どうなるか。冷戦時代のようにイデオロギー対立で色分けして単純化した世界を形成するのは容易なことではない。(p.65)

自分の仕事に引きつけて考えても,東京とロンドンとのビジネス上の結びつき,地理的なAPAC内での東京の位置(しかし関連の薄さ),みたいな関係性との類似が想起されます。

「インドの対中国戦略は,協力と競争,経済利益と政治的利益,そして二国間の文脈と地理的な文脈,それぞれの間で,慎重に帳尻を合わせなければならない。インドと中国の間に能力と影響力という点で,現時点と未来の非対称性が所与のものとしてあるならば,われわれはこのバランスを正しいものにすることが絶対に必要だ。恐らく,これこそが,数年先のインドの戦略のための唯一,重要な挑戦なのである」(改行)政策提言書「非同盟2.0」には,中国の「真珠の首飾り」戦略を念頭に置いた表現が明確に見られる。(p.161)

今まで外交・国際政治・安全保障という観点からインドを見たことがなかったのですが,この本を読んで初めてそれを意識させられました。

象徴的なシーンがある。1957年に訪米した祖父・岸信介首相とアイゼンハワー大統領がゴルフを通じて交友を深めたエピソードに絡めて,安倍がオバマとの初の首脳会談の際に和製パターをオバマにプレゼントする演出を凝らした場面だった。プレゼントとして贈呈した「山田パター工房」(社長・山田透)のパターは,2012年5月の米ゴルフ・ツアーで,豪州のライン・ギブソンが,ゴルフ史上最少スコアの55を記録し,一躍,全米に知れ渡るようになったパターだ。ところが,オバマの反応は例を一言述べただけの愛想のないものだった。場は白けそうになったが,パターの価値を即座に見抜いた社交上手のバイデン副大統領がギブソンの快挙に触れ,話をつないでその場を和ませた。(p.220)

この「55」は,ツアーの大会ではなく,普通のラウンドで出したみたいですね(ソース)。しかし,トランプに贈ったホンマのドライバーといい,この山田パターといい,安倍も気を利かせて頑張っているのだが,効果の程は微妙である。

オバマのゴルフといえば,イギリスのデビット・キャメロン元首相とThe Groveで仲良くラウンドする姿がニュースになりましたが,やはりオバマはキャメロンみたいなピカピカの「エスタブリッシュメント」を気が合うのだろうか……。

*1:そういうふうな感想を抱くのは,けっきょく自分がかつて出版社で文章を書く仕事をし,そののちに広告業界でコピーライターのようなことをし,という,少なからず「文章を書く」ことを仕事にしていた経歴からくるものだと思う

[本]杉田浩一『「こつ」の科学―調理の疑問に答える』柴田書店

もともと『Cooking for Geeks』を買ったときに求めていた内容が,この本にコンパクトにまとめられていた,という感じですね。

「こつ」の科学―調理の疑問に答える

「こつ」の科学―調理の疑問に答える

「葉物はお湯から,根菜は水から(茹でる)」といった,よく言われていることの理由を,科学的に明確に説明してくれている。しかもそれが,「洗う」「ひたす」「切る」「する・おろす」「こねる・混ぜる」「冷やす」「焼く」「炒める」「揚げる」「蒸す」「ゆでる」「煮る」「たく」「電子レンジでの調理」「味つけ」「保存・加工」「食品の組み合わせ」というカテゴリーごとに,まんべんなくトピックがカバーされている。これはやはり,この界隈の書籍では信頼と実績のある柴田書店ならではの編集力,といえましょうか。

文中で過去の研究結果がいろいろと引用されているのですが,そのオリジナルの研究が1920年代のものもあったりして,この書籍の初版が1971年であったということを加味しても古いものを引いてくるもんだな,というか,それが悪いということではなくて,そんな古い時代から料理に対する科学的な検証というのがなされていたという事実に,感動と畏怖の念を抱くわけです。

[本]高坂正堯『国際政治 - 恐怖と希望』中公新書

ここ(最近の読書を通じて思ったこと - 主に「反権力の権力化」ついて - Dribs and Drabs)で書いた『外交感覚』の高坂正堯が,国際政治に関する自らの考えを「改めて」「一般的に」考えてまとめたのが,この『国際政治』であります。

ということで,他の高坂正堯の著作を読むときにこの『国際政治』がひとつの参照点になりうるのかな,と思いつつ,「一般的」であるがゆえのもどかしさ,というのも,読みながら感じてしまうのである。「概念的にものを考えることに慣れていない」と高坂が述べているのは多分に謙遜であろうけれど,『外交感覚』の鋭さ,時流を捉えていながらも普遍的な何かを感じさせるあの文章で高坂を知った僕にとっては,少しもどかしさを感じてしまう…。

高坂正堯という人はほんと時流の捉え方,描き方が上手いなと思ったのは序章のこんな出だしで,

昭和十四年(一九三九)八月の末,独ソ不可侵条約の締結の報に接した平沼(騏一郎)内閣は,「複雑怪奇」という有名な言葉を残した退陣した。〔中略〕少し誇張して言えば,この「複雑怪奇」という一語に,戦前の日本外交の失敗は現れている。なぜなら,国際政治が複雑怪奇であるのは当然のことにすぎない。それは,特に驚くに値するものではないし。まして内閣の辞職の理由になるものではとうていない。〔改行〕しかし,当時の日本人のほとんどすべては,国際政治の「複雑怪奇」に当惑し,なすところを知らなかったのである。

といった感じで始め,筆を進め,展開し,「序章」を序章たらしめている。この筆致は実に鮮やかだなと思うのです。

[本]福永文夫『日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄』中公新書

「あとがき」で著者はこう述べます。

本書では,二つのことを問いかけた。一つは,日本国憲法日米安保という,染料が戦後日本に残した遺産を総括することである。もう一つは,占領が日本を駄目にしたという論調に対する,違和感である。六年八ヵ月ばかりの占領で,日本および日本人は駄目になるほどひ弱で怠惰なのだろうか。それこそ自虐史観ではないのあろうかと。(p.347)

という割に,この著者の問いかけが前面に出てくることはなく,通奏低音のように文書を下支えして,記述は淡々とクロニクルに進められます。それが物足りないといえば物足りないし,しかしまぁこれはこれでいいんでしょうね。

知らないことばかりで大変勉強になりましたが,気づいたこと・分かったことは,

  • 占領時はマッカーサーも頑張ったが日本人も頑張った。国民は耐えたし,政治家も民主化を推し進めた(非民主的思想の政治家はパージされたというのもあるが)。
  • 新しい憲法の第9条は明らかに「非軍備」を意図していた。自衛隊警察予備隊)の設立は,朝鮮戦争を契機になし崩し的に行なわれたものである。ということで,日本国憲法が「押し付け」かどうかはともかく,時流に合わせて憲法をアップデートしていくというのは,至極まっとうなことであると思う。し,「個別的自衛権」だからOKで「集団的自衛権」はNGというのも,なんともバイアスのかかったものの見方だと思う([本]細谷雄一『安保論争』ちくま新書 - Dribs and Drabs
  • この時期,かなりの政党の変遷(分裂・合併)があった。「55年体制」といわれても全然ピンとこなかったが,確かにこうグチャグチャしてたのが,自由民主党日本社会党・(日本共産党の再統一)にまとまったのは,大きな区切りとして認識されるべきものなのだということが分かった。
  • 沖縄はたいへん悲しい運命をたどった。「サンフランシスコ講和条約が発行した四月二八日,日本から分離された沖縄は,この日を『屈辱の日』として記憶することになった。」(p.336)という一文は,なんとも象徴的である。

[本]細谷雄一『安保論争』ちくま新書

「安保論争」といって,「1960年代の」ではなく「2015年の」,である。「集団的自衛権」という言葉だけが独り歩きした感のある2015年の「安全保障関連法」に関して肯定的な評価をする著者が,その必要性について,歴史的・現代的な背景を踏まえながら,丁寧に,真摯に,そして苛立ちをもちながた解説していく。

安保論争 (ちくま新書)

安保論争 (ちくま新書)

なぜ「苛立ち」か。それは,安保関連法に反対する人たちの態度に「誠実さ」が欠けていると,著者が感じているからだ。

本書は,二〇一五年に見られた安保関連法をめぐる論争のなかで,いくつもの疑問を感じたことを契機として,書き上げることになった。その疑問の一つは,政治的な議論をする際の誠実さについてである。(p.13)

そもそも,

われわれはいま,新しい二一世紀の時代に生きている。それは,七〇年以上前の,国民が総動員体制により徴兵制を通じて戦争に動員されて,悲惨で非人道的な太平洋戦争の時代とは異なる。(中略)こうした新しい時代にふさわしいように,従来の安全保障法制を整備しなおすことが,今回の安保関連法の主たる目的であったのだ。(p.20)

であるのに,反対の立場の人たちは,それを理解しようとしない。新しい安保関連法が必要とされる現代の状況に,目を向けようとしない。その帰結として,

安保法制に反対して,平和を叫び,平和を求める多くの人々に共通のことがある。それは,真摯に平和を求め,心底戦争を嫌悪することに何の疑いもない一方で,それではどのようにして実際に平和を確立し,戦争を防止するかについて,驚くほどまで,その具体的な政策措置をめぐる提案が不明瞭であるということである。(p.28)

その苛立ちはSEALDsの参加者たちにも向かうし(以下の引用文には著者の若者たちに対する優しさを感じさせる),

外交の歴史とは,その成功の歴史であると同時に,幾多の挫折と失敗の歴史でもある。どのようなときに交渉が合意に到達して,どのようなときに交渉が行き詰まり決裂するのか。本当に平和を願うのであれば,SEALDsの参加者もまたそのような外交の歴史を真摯に学ぶ重要性を感じてもらいたい。(p.151)

本質的な議論を避けて政局的な振る舞いに終止する野党の言動にも向かう。

民主党政権は「政治主導」の旗の下で,内閣法制局の硬直的な憲法解釈に対抗するために,内閣が責任を持って解釈を変更する必要を主張した。官房長官時代の仙谷由人は,「憲法解釈は,政治性を帯びざるを得ない。その時点,その時点で内閣が責任を持った憲法解釈を国民のみなさま方,あるいは国会に提示するのが最も妥当な道であるというふうに考えている」と述べている。

内閣法制局」もまた,2015年の安保論争の中で注目されたわけだが,

内閣法制局は,純粋に司法的な判断をするというよりも,与党と野党の双方の主張を聞き入れた上で,政治的な妥協のあり方を模索して,国民に受け入れ可能な政治見解を産み出す傾向が強かった。(p.178)

そもそも集団的自衛権の行使に関しても,

その後に確立する集団的自衛権の行使禁止の論理は,あくまでベトナム戦争への日本の参戦や,第二次朝鮮戦争の可能性が国会で議論される中で,政治的および政局的な理由から自衛隊を海外に派兵しないという確約を示す目的で,これ移行に浸透していく。(p.177)

ということで,本書を読んで初めて知ったのだが,もともとは「われわれは,いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従うことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じる」という,日本国憲法前文に記された国際協調主義の精神に則って,集団的自衛権の行使については制限付きで容認されていたものの,上記のように1960年代後半にそれを一切禁止する論理が(政治的・政局的に)確立され,以降は「不磨の大典」と化していく。当然,「集団的自衛権の行使は違憲」「内閣による憲法解釈は立憲主義への挑戦」と主張した人たちの多くは,その事実を知らないことだろう(あるいは知っていたとしても意図的に無視している)。

メディアや知識人が目立たぬかたちで立場を転換することや,イデオロギー的な変更に基いて報道していることは,二〇世紀を代表するイギリスの作家,ジョージ・オーウェルが最も嫌悪したものであった。そのような嫌悪感が,オーウェルの政治評論ではしばしば噴出している。(p.15)

ジョージ・オーウェルが最も嫌悪したものは,21世紀の日本にも見られ,そしてそれは悪化の一途を辿っているようである。

[本]日本再建イニシアチブ『民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか』中公新書

『現代日本の地政学』に続いて,日本再建イニシアチブの書いたものを読んでみました。

民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)

民主党政権 失敗の検証 - 日本政治は何を活かすか (中公新書)

この本が出版されたのが2013年9月。そこから民主党民進党へと名前を変え,そして希望の党立憲民主党などへと分裂し,本気で政権交代を目指す気がないかのような「国会対策」だけに終始している昨今,

日本に複数の政権交代能力のある政党があるのが望ましい。それでこそ,日本に政党デモクラシーをしっかりと根づかせることができる。野党第一党民主党はとりわけ大きな責任を負っている。その責任を放棄することは,三年三ヵ月の政権党としての失敗以上に大きな罪を犯すことになるだろう

という,日本再建イニシアチブ理事長・船橋洋一の「はじめに」での言葉が虚しく響くだけなのですが,かといってこの本の今日的な価値がないかといえば,そうではない。なぜなら本書は,

過去の検証だけではなく,日本の議会制民主主義の将来のために活かすべき教訓は何か,という視点を大切に(p.10)

して書かれているからであります。しかし,

いま求められているのは,民主党の政治主導への挑戦と失敗を笑うことではない。謙虚にその失敗を分析し,次の政治に活かすことこそ求められる。(p.85)

とせっかく書かれているのにも関わらず,肝心の旧民主党系の議員たちにその「謙虚さ」が見られないような現状は,なんと不毛で非建設的で皮肉なことであろうか……。

さて,民主党政権の「失敗の本質」。それは簡単にいえば「高い理想と,それに見合わない経験不足とプアな政府・党運営」ということになろうかと思うのですが,

「そもそも明確な論理や解答がない問題だからこそ政治の場へ持ち込まれているわけで,明確な論拠があって判断できるものであれば政治問題にはならない。なのに,民主党の議員は朝の四時までも徹底的に議論すれば答えが出ると思い込んでいる」(逢坂誠二
自民党の場合,総務会で反対を叫んでいた議員が,最後に決めるときはいなくなるという不思議な大人の文化がある。しかし民主党の場合は,最後まで残っている人って反対している人なんですね」(野田佳彦

こんなところも「頭でっかち」あるいは「幼さ」を感じるところであって,しかしこれって民主党に限らず日本人によくある光景なんじゃないかと思うと,薄ら寒い感じがするわけです。

さて,次の政権交代はいつ起こるのか,そして日本にちゃんとした二大政党制あるいは民主主義は根付くのでしょうか(いま左側の人たちが叫んでいるような意味での「民主主義の危機」という意味ではなく)……。

[本]保井俊之『保険金不払い問題と日本の保険行政-指向転換はなぜ起こったのか』日本評論社

保険金不払い問題と日本の保険行政: 指向転換はなぜ起こったのか

保険金不払い問題と日本の保険行政: 指向転換はなぜ起こったのか

件の保険金不払い問題に対する包括的な分析ではあるが,ジャーナリスティックというよりアカデミックなアプローチであり,そもそも論あるいは抽象論(なぜ民間当事者同士の契約の不履行の問題に,保険規制監督当局である金融庁がなぜ,そしてどのように関与することになったのか,など)が多く,「システムズ・アプローチ」という著者が採用した分析の方法論に対する言及が序盤で多く目につき,そして不払い問題の当事者のコメントはほぼ登場しないことが特徴的だなぁと思いました。

「第3章 保険規制監督行政の国際比較」は参考になるかも。