Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

細谷雄一『安保論争』筑摩書房(ちくま新書)

「安保論争」といって,「1960年代の」ではなく「2015年の」,である。「集団的自衛権」という言葉だけが独り歩きした感のある2015年の「安全保障関連法」に関して肯定的な評価をする著者が,その必要性について,歴史的・現代的な背景を踏まえながら,丁寧に,真摯に,そして苛立ちをもちながた解説していく。

なぜ「苛立ち」か。それは,安保関連法に反対する人たちの態度に「誠実さ」が欠けていると,著者が感じているからだ。

本書は,二〇一五年に見られた安保関連法をめぐる論争のなかで,いくつもの疑問を感じたことを契機として,書き上げることになった。その疑問の一つは,政治的な議論をする際の誠実さについてである。(p.13)

そもそも,

われわれはいま,新しい二一世紀の時代に生きている。それは,七〇年以上前の,国民が総動員体制により徴兵制を通じて戦争に動員されて,悲惨で非人道的な太平洋戦争の時代とは異なる。(中略)こうした新しい時代にふさわしいように,従来の安全保障法制を整備しなおすことが,今回の安保関連法の主たる目的であったのだ。(p.20)

であるのに,反対の立場の人たちは,それを理解しようとしない。新しい安保関連法が必要とされる現代の状況に,目を向けようとしない。その帰結として,

安保法制に反対して,平和を叫び,平和を求める多くの人々に共通のことがある。それは,真摯に平和を求め,心底戦争を嫌悪することに何の疑いもない一方で,それではどのようにして実際に平和を確立し,戦争を防止するかについて,驚くほどまで,その具体的な政策措置をめぐる提案が不明瞭であるということである。(p.28)

その苛立ちはSEALDsの参加者たちにも向かうし(以下の引用文には著者の若者たちに対する優しさを感じさせる),

外交の歴史とは,その成功の歴史であると同時に,幾多の挫折と失敗の歴史でもある。どのようなときに交渉が合意に到達して,どのようなときに交渉が行き詰まり決裂するのか。本当に平和を願うのであれば,SEALDsの参加者もまたそのような外交の歴史を真摯に学ぶ重要性を感じてもらいたい。(p.151)

本質的な議論を避けて政局的な振る舞いに終止する野党の言動にも向かう。

民主党政権は「政治主導」の旗の下で,内閣法制局の硬直的な憲法解釈に対抗するために,内閣が責任を持って解釈を変更する必要を主張した。官房長官時代の仙谷由人は,「憲法解釈は,政治性を帯びざるを得ない。その時点,その時点で内閣が責任を持った憲法解釈を国民のみなさま方,あるいは国会に提示するのが最も妥当な道であるというふうに考えている」と述べている。

「内閣法制局」もまた,2015年の安保論争の中で注目されたわけだが,

内閣法制局は,純粋に司法的な判断をするというよりも,与党と野党の双方の主張を聞き入れた上で,政治的な妥協のあり方を模索して,国民に受け入れ可能な政治見解を産み出す傾向が強かった。(p.178)

そもそも集団的自衛権の行使に関しても,

その後に確立する集団的自衛権の行使禁止の論理は,あくまでベトナム戦争への日本の参戦や,第二次朝鮮戦争の可能性が国会で議論される中で,政治的および政局的な理由から自衛隊を海外に派兵しないという確約を示す目的で,これ移行に浸透していく。(p.177)

ということで,本書を読んで初めて知ったのだが,もともとは「われわれは,いずれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従うことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じる」という,日本国憲法前文に記された国際協調主義の精神に則って,集団的自衛権の行使については制限付きで容認されていたものの,上記のように1960年代後半にそれを一切禁止する論理が(政治的・政局的に)確立され,以降は「不磨の大典」と化していく。当然,「集団的自衛権の行使は違憲」「内閣による憲法解釈は立憲主義への挑戦」と主張した人たちの多くは,その事実を知らないことだろう(あるいは知っていたとしても意図的に無視している)。

メディアや知識人が目立たぬかたちで立場を転換することや,イデオロギー的な変更に基いて報道していることは,二〇世紀を代表するイギリスの作家,ジョージ・オーウェルが最も嫌悪したものであった。そのような嫌悪感が,オーウェルの政治評論ではしばしば噴出している。(p.15)

ジョージ・オーウェルが最も嫌悪したものは,21世紀の日本にも見られ,そしてそれは悪化の一途を辿っているようである。