どこでこの本の存在を知ったんだっけ? そもそも自分は「監視」なんかに興味あったんだっけ?
しかし「監視文化」を考える際に,『一九八四年』は脇にどけましょうというのが,本書の提案である。
ということで,ふーんそうですか。そして,
本書は,監視が生活様式全体の一部となったありさまを研究するので,「文化」という言葉を選んだ。
とな。なるほど。なんとなくスコープは分かった。
しかし,訳者あとがきの中で「私はライアンの記述が「混迷の度を増している」とは全く思わないが」と言っているのは,大黒岳彦の評に対してで,それはつまり
ライアンは多作ではあるが,記述が多く,また論点を網羅しようとする余り帰って議論の焦点が拡散して総花的となり,一つの論点を掘り下げるというよりは,多数の論点の連関や軽重が顧みられない儘,単にそれらをディスクリプティヴに列挙する傾向が顕著である。時系列に著作を通覧してみても,一作毎に論点が深まって行くというよりは分岐することで混迷の度を増している。
というものに対してらしいんだけど,この本の序章を読む限りでは,その大黒の言いたいことはなんとなく分かった(し,それがある程度以上に意味をなすからこそ,わざわざ訳者も引用したんだろうと思う)。
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