Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

松崎隆司『ロッテを創った男 重光武雄論』ダイヤモンド社

たまったまこの本の存在を知って,表紙を見て名著の予感しかしなかったんだけど,その予感は的中した。

ロッテを創った男 重光武雄論

ロッテを創った男 重光武雄論

いや,ロッテの創業者である重光武雄については何も知らなかったけど,それもそのはず,

日韓をまたいで大きな足跡を残した不世出の企業人である重光の本当の姿は,いまだにほとんど知られていないといっていい。寡黙な重光は人前で話をすることがあまり好きではなかったし,メディアのインタビューを受けることもまれだった。自分が目立つことを嫌ったからである。

であり,それは

日本のロッテが非上場企業ということもあり,マスコミへの露出は極力抑えられていた。千葉ロッテマリーンズと韓国ロッテ・ジャイアンツという日韓2つのプロ野球球団のオーナーを務めても,前面に立つことはなかった。

というぐらい,徹底した態度だった。

戦後の日韓関係の中で,重光もまた政治の渦中に巻き込まれていく。日本では岸信介以来,歴代の総理大臣と親交を結んだ。与党政治家を中心に支援した者も少なからずいる。こうした政治人脈があったから,高度成長期の日本人に最も人気があったプロ野球球団を,日本国籍のない重光が引き受けてオーナーになることができた。

というような派手な経歴ではあるのだけど,しかし幼少時はだいぶ苦労して,

年に一度,村に飴屋がきた。古いゴム靴やすりきれた麻布の衣服を持っていけば,飴を一棒くれたりした。大人になって飴を好き放題食べられたらいいなと考えたこともあったという。のちに菓子メーカーで成功を収めた遠因がここにあるのかもしれない。

というほどだった。

そんな実家から逃げ出すように,日本に渡り,東京で学び,そして仕事を始め,空襲で二度も工場を焼かれながらも成果をあげていく。運もあった。

(太平洋戦争終盤,東京にいた)重光の下に電報が届いた。長らく音信を断っていた故国の実家からである。「母親死亡。今すぐ帰って来い」。やっと彼の居所を突き止めた本家が,彼をどうしても帰国させようと打った偽りの電報だった。そうとは知らず,彼はあわてて東京駅のチケット売り場に並んだ。ところが,彼の3つ前の人でチケットが売り切れてしまった。「もう葬儀には合わせなくなった。仕方がない」と彼は帰郷を諦めた。同じ記事中で重光は,「そのとき,私にまで順番が回ってきたら,また違う人生を歩いていたかもしれない」と語っている。

途中,興味深いエピソードも登場する。たとえば,

スケトウダラのことを韓国では「明川郡に住む太氏が初めて釣った魚」を由来とする「明太(ミョンテ)」と呼び,その卵巣(たらこ)を明太子と呼ぶ由来となっている。

とか,

「確か最終的に3つの社名が候補にあがりましたが,そのうちの一つが私の愛読書でありました『若きウェルテルの悩み』で,ヒロインのシャルロッテは永遠の女性であり,誰からも愛されたことに感銘して社名とすることに決めました」

とか,

当時18歳の浅丘ルリ子を起用,「ロッテのガムは,お口の恋人!」とアピールし,若者の心をとらえた。このフレーズ,ドリフターズの仲本工事の母親が応募した庵を重光が採用したと伝えられている。

とか。

誠実・勤勉・愚直な重光だが,こんなチャーミングな面もある。

子どもができて,重光の人生も変わった。仕事一辺倒高級外車を4台購入して毎日順番に乗るようにもなった。ドライブは囲碁と並ぶ重光の楽しみである。「私はスピード狂だ。瞬間速度が200キロを超えると怖いけれども楽しい気分が入り混じってしまうが,自動車の魅力は全速力で踏む時だ。その瞬間の気分はなんとも形容することができない」と話したこともある。

ガムで成功を収め,チョコレートに手を出そうとしていたとき。

設備投資資金の確保が,チョコレート進出にあたって越えなければならない大きな山の一つだった。当時のメインバンクである第一勧業銀行(現・みずほ銀行)と三和銀行(現・三菱UFJ銀行)には融資を断られた。そこで,原料輸入で付き合いのある大手商社から商社金融を受けることにした。8割方は丸紅が,残りは三菱商事が応じた。

このへんなんか,今にも通じる日本の銀行のしょうもなさを見事に表わしているような…。

それはともかく,なぜ「重光武雄商店」であるロッテがこれほどまでに成功したのか。

(1965年に)『ロッテのあゆみ』が初めての社史として発行された。同書の冒頭で,発刊によせて重光が今日のロッテの繁栄の要因を3つ挙げている。

一,常に消費者の立場に立って,質の良い製品をつくることに心がけて来たこと
二,ガムの宣伝・普及に努力し,消費者(需要)の開拓を行なったこと
三,特約代理店をはじめ販売関係者のたゆまざる努力があったこと

ほんともうこれに尽きる(本人が言ってんだから,そりゃそうだ)し,本書を読めば納得ができる。「暗躍」とか「裏の手」とかそういうのが一切ない。

とはいえ,日本ロッテから韓国ロッテへのカネの流れは微妙なものがあり,

「この時の文書が『前例』となり,重光武雄は母国投資に何ら制約を受けることなく,日本に一銭の配当を行わずに韓国ロッテを拡張し続けていくことができた。このような内容の文書を官僚たちの反対にもかかわらず承認した日本の当時の大蔵大臣は福田赳夫だった」

というのは,「韓国籍のままでありながら,しかし日本に長らくいて成功を収めた」重光武雄だからこそできたことだろう。

「日本の利益を日本の社員に還元しない」という社員からの批判に対して,このように続ける。「ロッテの母体は日本にある。しかし,より大きなリターンを期待できるところに投資するのは企業家の務めだ。内と外を区別して回収を急ごうとするのは,島国根性の日本人的発想ではないか。今の日本の状態がいつまでも続くわけはなく,将来は日本のロッテが助けてもらうこともある」

というのも至極まっとうなんだけど。

最後にもうひとつ。いまロッテ葛西ゴルフ練習場のあるあたり。あれはもともとロッテワールド建設のためにロッテが土地を買ったところだったけど,しかし

東京ディズニーシーが2001年9月に開業,ディズニーリゾートも立ち上がるという強力なライバルの出現により,重光の夢は頓挫してしまう。ロッテワールド東京の計画は2001年に凍結が発表されている。

とのこと。