比較的少ないページ数(253)でソ連の歴史を述べたからなのか,もともとこの筆者がこういう書き方をするからなのか,たまに意味がとても取りにくい文章が出てくる.例えば,
指導者であるレーニンがソヴェト権力樹立を訴えていたボリシェヴィキに対する支持が都市の労働者の間に広がった.
この係り受けがね....
最初読んで,「なんでこの筆者は歴史的な事実を淡々と語るだけなんだろう」と思ったけど,それもそのはず,これはズバリ『ソ連史』,サブタイトルも何もないソ連史であって,たぶん筆者は真面目というかサービス精神のようなものがないというか(文体的に),まぁそういう人なんだろう.慣れてくると,愛着がわいてくる(少なくとも竹内薫や望月衛のような我が強い文体よりは遥かに好感が持てる).
参考文献が最後にあるのもやっぱり好感が持てる.
ものすごく個人てきには,クンデラ(イレシュ)の『冗談』でなんで「トロツキー万歳」がダメだったのかが理解できて,良かった(というかたぶん,『冗談』の背景を理解したいというのが,僕にとって「東側のことを理解した」っていうモチベーションにずっとなっている).
- 誤解のないようにあらかじめ強調しておくが,筆者にはソ連や社会主義を擁護する気はまったくない.同時に,非難する気もない.筆者が本気で取り組むのは,ソ連の歴史をその善き面も悪しき面も含めて描くことである.
- 一九二四年にレーニンが死去したのち権力闘争を経て一九三〇年代にはスターリンの独裁が実現していくことになる.書記長として党の人事を握るスターリンは権力闘争で有利な立場にあったが,戦術も巧みであった.スターリンはまず,レーニンに匹敵する能力と威信を持っていたともされるトロツキーを,より古参の幹部であったジノヴィエフ,カーメネフらと結んで排除し,ついで,レーニンが「党の寵児」と評したブハーリンと結んでジノヴィエフ,カーメネフらを排除し,最後にブハーリンらを排除して,独裁的な地位を固めていったのである.
- 独ソ戦の過酷な経験は,戦後のソ連の政治や社会のあり方,人々の意識に影響を残した.戦後,ソ連が東ヨーロッパに勢力圏を作り上げたことは,ナチスドイツに侵攻された経験の故とも言われる.冷戦期を通じて主として「西側」から膨張主義と批判されたソ連の対応は,自国の安全を過剰なまでに確保したい意識の現れという指摘もあり,この点で独ソ戦は,その後の世界のあり方にも大きな影響を残したのである.
- (ソ連が対独戦争に勝利したことで)ソ連の国力と軍事力に対する評価,そしてこれを作り出したソヴェト体制と社会主義経済への評価は高まり,ソ連は,国際連盟に代わって創設された国際連合の安全保障理事会常任理事国となり,国連加盟国への強制力を持つ同理事会の議決に対する「拒否権」を手にして,戦後の国際社会において大きな影響力を確保した.
- 第二次大戦後,ソ連が東欧諸国を自国の勢力圏としようとした理由は,社会主義を輸出することよりも,緩衝地帯を確保することであったという指摘がある.ドイツの侵攻は悪夢としてソ連指導部の記憶に留まり続けたのであり,ドイツ以東に「友好国」を作り出すことをソ連は強く求めた.
- 一九六〇年になると,共和国内に複数の国民経済会議が設立されていたロシア,ウクライナ,カザフの三共和国では,国民経済会議の活動を調整する目的で共和国国民経済会議が設立された.一九六二年までに連邦政府にソ連国民経済会議といくつもの工業関連の国家委員会が設立され,一九六三年三月にはソ連最高国民経済会議も設立された.こうして,工業管理のあり方は以前よりも一層複雑なものとなった.
- フルシチョフによるスターリン批判は,体制にとって深刻な危機を招くおそれもあったが,犯罪的な行為をスターリン個人と個人崇拝を原因するものと主張し,同時に社会主義的適法性を強調し,文学や芸術,科学における一定の自由化や西側諸国との交流などを進めたことによって,ソ連社会においては体制改革の可能性と一定の自由化への期待が高まった.この点でフルシチョフ時代は,「雪どけ」と呼ばれるにふさわしい,期待と楽観の時代であったと言えよう.この頃に青年期を過ごした人々は「六〇年代人」と呼ばれ,のちに異論派や体制内改革派となり,ゴルバチョフの始めるペレストロイカの担い手ともなった.ゴルバチョフ自身「六〇年代人」であった.
- こうした努力によってソ連はようやく一九四九年八月に原爆実験に成功したが,その後もしばらくは,運搬手段がなかったため合衆国本土への核攻撃能力は持たなかった.
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