Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社(光文社新書)

はじめに,この本の存在を教えてくれた同僚YKに感謝。とっても面白かった。

分類的には「視覚障害者」にフォーカスした「社会福祉」の本ってことになるのかもしれないけど,実体はもっと「身体論」とか「コミュニケーション論」とか寄りの内容。

「もともと生物学者を目指していたけど文転して現在は美学者」という著者が,いい意味で障害者に好奇のまなざしを向け,彼らの「世界の見方」をいい意味で面白がっている。ここで何度も「いい意味で」と敢えて書いたのは,障害者に「好奇のまなざし」を向け彼らを「面白がる」という行為がアンチモラルと見なされる現代の風潮があることを浮き彫りにしたかったからなんだけど,著者は「自分と異なる体を持った存在のことを,実体として感じてみたい」というピュアな気持ちで,視覚障害者たちに接して,その結果をこの本にまとめている。「障害者の体を知ることで,これまでの身体論よりもむしろ広い,体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています」と語っている。

ひとつ印象的だったのは,目が見えない人というのは「見ている状態を基準として,そこから資格情報を引いた状態」ではないとして,それをこう譬えている。

それはいわば,四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら,その椅子は傾いてしまいます。壊れた,不完全な椅子です。でも,そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば,三本でも立てるのです。

ということで著者は,

変身するとは,そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本しかないという「欠如」ではなく,三本が作る「全体」を感じるということです。

このへんのイントロダクションが非常に丁寧に書かれいるなという印象。著者の真摯さが伝わってくる。

いまWindows10でこの文章を書いていて,「しょうがいしゃ」と打つと変換候補の筆頭に「障碍者」が出てくるんだけど,著者はこの「障碍者」だったり「障がい者」という表記を否定している。それは,そういった表記のずらしは「問題の先送りにしかすぎない」からであり,また「障害」とは,個人の「できなさ」や「能力の欠如」ではなく,「社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられること」のことである,つまり「個人モデル」から「社会モデル」への転換であり,「むしろ『障害』と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか」というのが,著者の考えであるそうな。

障害者の身体性についていろいろと面白い話が出てくるけど,僕自身がいちばん面白いと思ったのはこのへん(の著者の考え方)かな…。

ところで著者がいうには「美学」とは,

芸術や感性的な認識について哲学的に探究する学問です。もっと平たくいえば,言葉にしにくいものを言葉で解明していこう,という学問です。

ということで,この本を読み終わってみると,あぁこれってこの中にある「ソーシャル・ビュー」に被るな,と思う。

369.275

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社): 2015|書誌詳細|国立国会図書館サーチ