Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

遠藤嘉基, 渡辺実『現代文解釈の基礎:着眼と考え方』筑摩書房(ちくま学芸文庫)

「半世紀近くにわたって読み継がれた,至高の現代文教本」(裏表紙より)だそうだ。たしかにその解説は懇切丁寧だし,ボトムアップで体系的に書かれている。たとえば「文学的な文章」の解釈において,「主人公の人物像を把握せよ」→「主人公の人間関係を把握せよ」→「物語で起きる〈事件〉とその影響を把握せよ」→「全体の主題を把握せよ」といった具合に。だけど本書を眺めていて,暗い気持ちになる。それは,「われわれはずっとこんなことをしなければいけないのか?」と思うからだ。

それは〈日本における国語教育の問題〉という話になるのだけど,つまり〈他人の書いた〉〈難解な文章を〉〈読み解く〉という作業,これが〈国語力〉だと見なされている現状が腹立たしいということ。これをいくら繰り返したって〈分かりやすく〉〈論理的に構成された文章を〉〈自分が書く〉には到達しないと思うんだが……。本書は前半が「文学的な文章」,後半が「論理的な文章」の〈解釈〉の仕方に当てられているのだが,その構成――つまり〈文学〉が先で〈評論〉が後――もまた,国語教育の不毛さを象徴しているように思う。もうちょっと言えば,その「文学的な文章」の解説の中で〈作者の価値観〉を考えるくだりがあって,たとえば芥川龍之介『羅生門』の中で,下人は老婆とのやりとりを経て「生きるための必要悪は本当は悪ではない」という結論に至るけれど,「では,この主張をするために,作者はこの作品を書いたのでしょうか。」という例題が出される。

とんでもないことです。作者が力を入れて描写しているのは,もっとほかのところにあるというべきでしょう。それはいうまでもなく,こうして変わっていく下人の心理の追求です。

って,知らんやんそんなの! 「とんでもないこと」と頭ごなしに否定する割にはその論拠を示さず「…というべきでしょう」と曖昧な言い回しをし,「それはいうまでもなく」って決めつける。それって解説者の〈主観〉にすぎないし,こうやって〈文章の解釈〉を〈価値観の判断〉にすりかえる態度こそ,文章の解釈では避けるべきことのひとつなんじゃないの?

ということで,このような本が「至高の現代文教本」と見なされている現状に滅入るのであった。

817.5

現代文解釈の基礎 : 着眼と考え方 (筑摩書房): 2021|書誌詳細|国立国会図書館サーチ