Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

マイケル・E・ヴィール『DUB論』水声社

この本の存在を知ったのはこのツイートのおかげ:

「濃密で分厚い」のはその通りだけど――しかも二段組み――「読み進め辛い」ということは決してない。いや,メモしておくべき箇所がありすぎて読み進められないというのはあるけれど,文章は理知的だし,飽きることなく読み進められる。

自分としては,現代のエレクトロニカに与えるダブの影響というところ(最終章)だけでも読めばいいかなと思ったし,ダブとかレゲエとかって自分にそんな関係ないし……と思ったら,案外そんなこともなかった。

まずレゲエ。大学生のとき――京都時代――バイトしていたのが木屋町にあったレゲエ居酒屋〈ラスタキング〉。片桐さんとあっちゃん,元気かな? あとハタ君も。靴ぬいで上がる洞穴のような店内で,レゲエのBGMを聴きながら七輪でししゃもをあぶりつつ酒を飲むという,それこそ何か吸ってないと思いつかないようなコンセプトの店。好きで通ってて,気づいたらバイトしてた――割とすぐ辞めたけど。まかないで鍋やることになってあっちゃんが買い出しに行ったけどマロニー買ってこなくて,そしたら片桐さんがキレて「なんでマロニーちゃんあらへんねん?!」っていうのに,多層的に関西を感じた。

ラスタキングの話はこれまでにしてダブに話を戻すと,本書を読み進めるうちに出てきた名前がマッドプロフェッサー。おぉぉぉぉぉぉ,そうかオレが好んで聴いていたこれ,Massive Attack〈Better Things〉をマッドプロフェッサーがダブリミックスしたということね……。

っていうかもともとこの曲,パトリス・セロー監督『愛する者よ,列車に乗れ』で使われていたから知ったんだけど,それって26年前の話? その26年間,オレは何をやってたんだ。

いずれにしても,学びの多い(多すぎる)一冊だった。

レコーディングの技術が進化して、音楽制作の可能性が一気に広がった。主に、関連性の深い二つの新しい領域で発展がめざましかった。まず、音の質感を重視する作曲が可能になったこと。そして電子技術を用いて(自然界に存在しない)仮想的な音響空間を創り出せるようになったこと。……この二つが新しい音楽の際立った特徴になり、作曲の焦点になった……新しいものがどんどん生まれると思った……私のような人間は、夜な夜な家で機材をいじり、いろいろなことができることに驚き、新しい音の世界に没頭した。……没入感が大切で、その中で泳いだり、浮かんだり、我を忘れるような音楽を作っていた。――ブライアン・イーノ、一九九六年

謝辞

序章

本書はオズボーン・“キング・タビー”・ルドック(一九四一―一九八九)やリー・“スクラッチ”・ベリー(一九三五―)〔一九三六―二〇二一〕、エロール・“エロール・T”・トンプソン(一九四八―二〇〇五)らのレコーディング・スタジオ・エンジニアが開拓したダブという種類のジャマイカ音楽について、その歴史を追って分析し、解説した研究論文である。

エンジニアがレゲエの楽曲をリミックスして、これまでとは違う手法で音処理をし、断片化した歌とリヴァーブをかけたサウンドスケープによって作られた、ユニークなポピュラー音楽がダブである。

今日、典型的なダブの音と手法は電子機器を使用した(ヒップホップやテクノ、ハウス、ジャングル、アンビエント、トリップホップなど)世界中にあるさまざまなかたちのポピュラー音楽で取り入れられているほか、一般的なリミックスという概念に浸透している。

「曲を断片化する」というダブの手法は、デジタル時代のポピュラー・ダンス・ミュージックにおける礎の一つになっており、楽曲のかたちを流動的に再解釈するというアプローチは、現在ポピュラー音楽の中心になっている。ダブが世界のポピュラー音楽を変えたと言っても過言ではない。

さらにこのダブという音楽が(スタジオという外界から進断された空間で作られていたにもかかわらず)その曲の生まれた社会や時代背景、そして二〇〇〇年以降の世界の文化を象徴しているということも示してみたい。

た。ブライアン・イーノはポピュラー音楽におけるサウンドスケーピングの重要な先駆者であり、(ロキシー・ミュージックやトーキング・ヘッズなどとの仕事を通じて)一九七〇年代に行なったアトモスフェリックな質感を作る音の実験は、一九八〇年代のU2などのプロデュースを通じてアンダーグラウンドのエクスペリメンタル・ロックからメインストリームのポピュラー音楽に広まった。やがてイーノの手法は若い世代の電子作曲家を啓発し、「アンビエント」というジャンルを生み出した。

一九七〇年代のヨーロッパとアメリカでは、さまざまなジャンルのダンス・ミュージックが多様な手法で手を加えられた。ラジオ・プレイ用に作られた三分間の曲を、クラブやディスコで長回しができるように引き延ばすことが主な目的だった。ディスコやハウスのプロデューサーは、リミックスやテープ・ループを使って曲を延長した。

マーリーの成功に加え、第二次世界大戦後に膨大な数のジャマイカ人がアメリカやイギリスに移住したことで、アメリカやヨーロッパの主要都市でジャマイカ音楽のマーケットが格段に広がり、ジャマイカのポピュラー音楽が世界のダンス・ミュージックに構造的な影響を与える基礎が敷かれていた。

ジャマイカのレゲエと国際的なレゲエの違いは、音楽消費の場所が違うことである。国際的なレゲエのリスナーはアーティストのコンサートに足を運ぶのに対し、ほとんどのジャマイカ人リスナーは主に野外で録音音楽を提供するサウンド・システムによる移動式娯楽形態、ダンスホールで音楽を楽しんでいた。/おそらくこれら二つのレゲエにおける最も明瞭な違いは、その音にあり、本書では主にジャマイカのレゲエについて論じる。

ある意味、この少年の言葉は私がキングストンを訪れる度に繰り返し考えさせられるテーマになった。二十年以上前に社会・商業・形式的な頂点を迎えた音楽を調査することは、関係者の多くが暴力の犠牲になって非業の死を遂げていることもあり、複雑かつ困難で、超現実感を伴うこともあった。活気と音楽が至る所にあふれる町で、自分は影を追っている感覚にとらわれた。そして皮肉なことに、私がキングストン市内を移動する際に聴いていたダブのエコーが、この印象をより一層強めていた。

ラスタファーライは一九三〇年代に生まれてからずっとジャマイカ社会の過澈派ムーヴメントだと考えられ、その倍奉者である通称ラスタは一般的に社会からあざけりや軽蔑の対象になってきた。しかし最終的には弱者が強者に勝ち、善は悪に打ち克つという千年王国主義的なユートピア思想が、第二次世界大戦後のジャマイカにおける社会政治的動乱と共鳴していた。

ラスタはテクノロジーを拒否し、田舎風(「ルーツ」)のライフスタイルやドレッド・ヘアといった自然主義を好んで、当時「文化的」とされていたものの反対を実践していた。

ピーター・マニュエルは都市部労働者階級の音楽スタイルが社会全般、すべての階級で受け入れられる瞬間こそ、真に国民的なスタイルの生まれる瞬間であると述べている。

本書は基本的にキングストンのスタジオで生まれ、ジャマイカやアフリカ系移民の文化で広く共鳴し、世界中のポピュラー音楽に影響を与えたダブという芸術形態について論じている。

ファイト・アールマンが言うように「音楽分析は.....構造そのものや歌詞を分析することではない。むしろ特定の社会・文化的背景をもつ制作者が特定の音に意味を与えるプロセスを解明すること」である。よって本書では従来型の音楽分析をしつつも、第八章はダブが黒人文化の特定のプロセスを音で表現したものではないかという仮説を元に論考する。黒人文化やディアスポラ、ポストコロニアル研究の視点からダブを見ようとしている読者に、一番興味をもって読んでいただける章だろう。

本書には二つの目的がある。一つはダブとその進化、様式的な特徴、主要関係者、世界のポピュラー音楽に及ぼした影響を伝えること。もう一つはダブが当時のジャマイカと世界を表した音楽であることを伝えることである。

ダブに関しては章単位の文章がたくさんある一方で、ダブに関する本は一冊もない。それにはおそらく三つの原因がある。まず電子的に生成された音楽を分析するのは難しいということ。そもそもこの種の音楽を議論するための標準化された音楽学的言語が存在しない。

ダブが元々存在する曲のヴァージョンで原曲の断片を残していることは、テクノロジーを利用した他の芸術形態でも同じ画像の再利用やコラジュ、質感の操作、偶然性に基づく作曲手法などが有効であることを示している。踊ることを目的としたりアル・タイムの生バンド演奏が、通常ポピュラー音楽に期待されている身体・感情・心理・美的な喜びを提供できるとすれば、レコーディング・エンジニアによる演奏後の操作は他の芸術形態でも利用できる抽象的な理論を構築している。そのため本書ではジャマイカの文脈におけるダブについて忠実に述べつつも、ダブが世界の音楽に与えた技術・概念的貢献についても論じ、ジャマイカ国外のさまざまな芸術形態との類似点も考察している。

第一章ジャマイカの電子音楽:ジャマイカ音楽の連続体におけるダブ

ダブは黒人ポピュラー音楽のサウンドスケープの中では特殊かもしれないが――他のカリブのポピュラー音楽同様――新世界におけるヨーロッパ人の征服、奴隷制、植民地化、工業化、都市化、グローバル化を包括する歴史的な連続体の産物として生まれた。よって過去数百年に及ぶジャマイカ音楽の連続体の中にダブもあてはめることができる。

コクソン・ドッドやデューク・リードなどのサウンドマンは六〇年代初頭に魅力的なアメリカ黒人 音楽を失い、ジャマイカ人好みの音楽を作るため、国内のミュージシャンに目を向けたのである。コクソン・ドッドはいう。「一九六〇年頃、ジャマイカ録音の必要性を感じ始めたのは、R&Bが衰退してロックンロールの時代になったからだ。ジャマイカでロックはあまり人気がなかった。 ジャマイカじゃ流行らなかったよ。多かれ少なかれ自分たちでスタジオに入って、ヘヴィなダンスのビートを作らないといけないと思った。それでジャマイカでレコーディングし始めたんだ」。

最初のロック・ステディ曲はホープトン・ルイスの(テイク・イット・イージー Take It Easy)だといわれることが多いものの、どのようにしてこのような音楽的変化が生まれたかについてはさまざまな説がある。デイヴィスとサイモンによると、一九六八年の異常な夏の暑さのせいで、ゆったり踊れるテンポの遅いロック・ステディが生まれたというジャマイカ人が多いという。

サウンドマンはR&Bとスカの時代から低音を最大限出してリスナーを喜ばせると同時に圧倒し、できるだけ遠くまで自分たちの音が聞こえるようにしていた。そのためジャマイカ音楽におけるエレキ・ベースはとても重要なものである。

レゲエは一般的なハーモニーと歌、攻撃的にシンコペートするベース・ライン、ミニマルな(だがかなり装飾の効いた)ドラム・パターン、八分音符のオフビートをくっきり押さえる和声楽器(通常ギターと/やピアノ)、十六音符のダブルタイムでオフビートを強調しながらシンコペートする「シャッフル・オルガン」という、楽器ごとの役割がかなり厳格に決まったネオアフリカ音楽的な構造をもつ。

レゲエは独自の様式をもった音楽形態だが、構造的に見ると(先にも述べたように)スカやロック・ステディでも使われている要素の大半を精製したかたちになっている。スカやロック・ステディとの一番大きな違いは、レゲエの音楽構造が洗練されていることと、社会情勢の根本的な変化を反映した歌のテーマである。アフリカを文化的故郷として見始めたことから、アーナ・ブロドバーは「何十年にも渡って地下で流れ続けてきた感情の川が突如表面化した」と表現している。

歌詞に政治や階級、宗教的な内容が盛り込まれるようになったのは、レゲエがルード・ボーイとラスタ、二つの体験に基づいていることを反映しているからで、それゆえreggae(レゲエ)という言葉の語源が「raggedy」(ラゲディ、下層)だという人と、「regal」(リーガル、ラスタファーライ)だという人に分かれている。

ジャマイカでは一九七〇年代に社会・政治・技術的要素が結合して整然としたポピュラー音楽の概念が奇妙な変化を遂げた。密度と隙間という独特の相互作用から成るルーツ・レゲエが質感と空間を重視するダブの基盤になり、スタジオ・エンジニアはジャマイカのポピュラー音楽を電気的に分解・再編成してアフリカや宇宙空間、自然、サイケデリア、後期モダニズム的機械の可能性のようなものにかたちを変えていったのである。

スカ、ロック・ステディ、ルーツ・レゲエは、すべて程度に差はあれ人種や国家、一続きの歴史解釈、善悪の明確な区分など、従来型の伝統的な概念に基づいている。しかしダブはこれらをすべて破壊し、言語・形式・象徴的不確実性のためにポストソングという領域を(のちに世界のポピュラー音楽でも)生み出した。しかし同時にダブは当時のジャマイカをよく映し出してもいる。クミナの伝統的な癒しの儀式で使われるバスドラムの響きが生者と死者の世界をつなぐ「心の琴線」だとすれば、レゲエの轟き渡るエレキ・ベースの音は独立後のジャマイカ人に彼らがアフリカ系子孫だということを思い出させ、ジャマイカはイギリスの奴隷植民地だったという「死んだ」過去をよみがえらせた上で、アメリカの新植民地衛星国としての不確かな未来に目を向けさせるものだろう。

第二次世界大戦後の音楽全般におけるレコーディング・スタジオの役割を考慮すると、通常「プロデューサー」や「エンジニア」と呼ばれている人たちは、場合によっては「作曲家」と呼ばれる方がより正確なのかもしれない。彼らが使う技術と制御されたスタジオ環境は作曲の過程で不可分になり、絵画や彫刻、文学や詩などの一人で行う芸術活動と録音音楽を近づけ、より「画家のような」(ペインタリー)作品作りを可能にした。実際、音響機器の使用(空間や運動の操作)こそが、ポピュラー音楽の「絵画的」(ピクトリアル)側面を浮かび上がらせたのである。

もちろんジャマイカのエンジニアは先進国の作曲家のように精巧なテクノロジーに触れることはできず、技術・制度的な制限があったからこそ、ダブ第二世代のエンジニア、マッド・プロフェッサーに関して以下のように言われることになる。「イギリスのダブ・プロデューサーであるニール・フレイザー、通称”マッド・プロフェッサー"はサウンド・テクノロジーが彼の頭の中で聞こえている音に追いつく日を待ち望んでいる。時代遅れのステレオ技術にやきもきしているマッド・プロフエッサーの頭の中には、四チャンネルステレオで五音音階、幾何学的で無痛的、催淫的でサイケデリックなフル・スクリーン、フル・サウンドがあふれており、今ある機材を限界まで使って最新の創造物をたった二つのスピーカーで聴けるようにしている」。

第二次大戦後の西洋芸術音楽を語る上で電子と実験という言葉は互換性をもって使われているが、同義語ではない。しかしある程度互換性をもって使われることが多いことから、アフリカとアフリカン・ディアスポラの音楽文化の実験的な前衛の概念について問題提起するために、本書ではあえて「電子音楽」という用語を使用している。このテーマはミュージシャン/学者のジョージ・ルイスがジャズその他の即興音楽で実質的に探究しており、私はその議論をポピュラー音楽の領域にまで拡張しようと試みている。

基本的にジャマイカは楽器演奏者が少ないため、喋りや歌などの口頭技術と、機械を使った創造性に重点の置かれる傾向がある。しかしキャロリン・クーパーやノーマン・ストルゾフはサウンド・システムが単なる楽を超越し、独立後のジャマイカを最も強烈に象徴するものの一つだと述べている。

第二章 「失敗もスタイルのうち」:一九七〇年代のダブの進化

ポピュラー音楽の革新は、かなりの割合で機械を本来の目的以上に使おうとして起きた、必然と偶然の歴史である。

リディムは元々英語のリズムという単語をジャマイカ風に発音したものだが、次第に特定のコード進行や楽曲の基盤となるベース・ラインを指すようになった(本書では特定のリズム・パターンを指す場合にジャマイカ流にリティムという表現を使い、一般的な使用法に応じた意味を指す言 薬としてリスムを使用する)。

ジャマイカのプロデューサーは自身が管理する楽曲から長期にわたって利益を得る一方で、実際にそれらの楽曲を作った(最初のレコーディングで買い切りの報酬を一回もらっただけの)ミュージシャンはまた別の仕事をもらえるよう、プロデューサーの長期的な収入源になる素材を作り続けるしかなかった。しかしジャマイカのポピュラー音楽に大変革を起こしたのは、この利益を追求した音楽素材の再構成だったのである。

一般購入の可能なダブ・プレートと似た形態のものが、四十五回転シングルのB面に収録されているヴォーカルなしの「リズム・ヴァージョン」である。インストウルメンタルのダブ・プレートと同じくらい効果的だが誰でも買え、自分たちのオリジナル・ダブ・プレートを録れない小さなサウンドは市販のリズム・ヴァージョンを使用していた・それゆえライトとレフト、それぞれにヴォーカルと楽器演奏を分けて入れ、再生機のバランス・コントロール操作でインストウルメンタル・トラックだけをかけられる「スタジオ・ワン・ステレオ」が人気を博した。

「ヴァージョン」という名詞がジャマイカ音楽では「ヴァージョニングする」という動詞に変化していったのは興味深い。ダブ・プレートは最初の「ヴァージョニング」プロセスだと考えられ、資金やミュージシャンの数に限りがある中、録音された楽曲からできるだけ長く利益を得るために、プロデューサーが一つの音源を何度も再利用した。

ダブ・プレートはマルチトラック録音で楽曲の分解が可能になったことと、レコードに入っているヴォーカルを即興の喋りで中断することに何の抵抗も感じていなかったサウンド・システムDJのパフォーマンス・スタイルが融合したものの象徴だった。スタジオ・エンジニアが楽曲を骨組まで削る手法はDJの流儀と深い関わりがあり、DJが外側から曲を破壊するようになってから、エンジニアはミキサーを使って曲を内側から解体するようになった。

ドラム&ベースはリズム・ヴァージョンよりもさらに音を削ぎ落とし、ベースとドラムに重点を置いて、ホーンとギター、鍵盤楽器の存在感を薄くしたミックス・スタイルだ。典型的なかたちは全体を通してドラムとベースの推進力のある動きを強調し、和声楽器の音はたまにしか聞こえない。この和声楽器の音を目立たなくする方法が、ダブにおける二大手法、断片化と未完成である。これにより本来重視されているわかりやすいハーモニーの動きは減り、ミニマルなドラム&ベースに色彩や質感を加える時、簡単にコード進行の断片だけが使われるようになった。

ダブ・ミックスの成功は、少なくとも部分的にリディムの独創性、特に革新的なベース・ラインのおかげだという音楽関係者は多い。

純粋に音楽的な観点からいえば、ドラム&ベースの最も重要な意義は、モーダル・ジャズがビバップに、ヒップホップがファンクやR&Bに対してそうだったように、ダブがレゲエに対してハーモニックな景色を解体し、より自由な即興演奏を可能にする手段になったことだった。しかもこのインプロヴィゼーションはヴォーカルや楽器演奏に限らなかった。ドラム&ベースはリズム・セクションとヴォーカルだけでなく、エンジニアによる独創的なアドリブ・ミックスのためにも空間を開いたのである。実際、仮にドラム&ベースがレゲエの構造を核の部分まで蒸留したものだとすれば、次なるミックスの進化は和声とメロディの再導入ではなく、音質と空間、質感に重点を置いたアトモスフェリックなリミックス・テクニックだった。

しかし「ダブ」という用語の最も明瞭な使い方はレコーディングと直接関係しており、「上から別の音をかぶせる」もしくは「音源をコピーする」ことを意味する。ほとんどのミュージシャンやエンジニア、プロデューサーによるダブの定義は、どれもりズム要素(ドラムとベースのパターン)や音処理、リミックスに結びついている。

さまざまな定義を総合して見ると、「ダブ」には大きく分けて二つの意味がある。まずレコーディング・スタジオという場所や、マルチトラック録音と音処理によって可能になったクリエイティブな音の操作。そしてアフリカに起源をもつポピュラー・ダンス・ミュージックの一般的なかたちをなすサウンド・システム/ダンスという場。ファンクのヴァンプやサルサのモントゥーノ、メレンゲにおけるメレンゲ・セクションのように、ダンスホールで一番盛り上がるのがダブの部分で、リズム・パターンの力を発揮させるために過剰な装飾を削ぎ落としてより強烈でエロティックなダンスに駆り立て、即興者に自由な空間を与え自然な妙技で聴衆を(何回も)湧かせる――いわば「クライマックス」に導くのである。他の音楽と大きく異なるのは、ミュージシャンが前に出て即興演奏で興奮を高めるのではなく、ダブの即興部分はDJで構成されている点だ。そしてさらに重要なのが、DJの前にダブ・ミックスを作る段階でエンジニアが即興を施している点である。以上二点から、ダブはダンスを盛り上げるためにスタジオでリミックスされた音楽といえる。そして次第に単体で意味をなす一つのジャンルになっていった。

このような歌詞の消去をクルト・ザックスが「言葉から生まれた(ロゴジェニック)」音楽(理解可能な言葉が曲の基本になっている音楽)と呼ぶものから「感情から生まれた(パソジェニック)」音楽と呼ぶもの(感情から沸き起こる純粋な音でできている音楽)にかたちを変えていると見ることもできる。それゆえこれらの歌詞の断片に詩的要素を見出そうとするのは無意味に思われるかもしれない。しかし断片化された歌詞は謎めいたカをもって一元的な元の歌詞をしばしば超越し、より開かれた解釈を可能にしている。

ロラン・バルトは読むという行為のみがテキストに一時的な一貫性をもたらすと言ってお児ダブのような歌詞の加算・減算は明らかに解釈の可能性を広げている。そしてその手法はいずれもテクノロジーの進化と経済的必要性の等高線上でテキストの意味の境界線を広げていた。どんなに過潔な歌詞の曲よりも、この堆積の美学はエンジニアやプロデューサーが人気のあるリズム・トラックから最大限の利益を得ようとする姿勢がうかがえる。

ダブ・ミックスにおけるもう一つの代表的手法はリヴァーブの使用である。リヴァーブ・ユニットはさまざまな残響感を連続して作れ、空間的な深みや広がりを生み出す。リヴァーブをかけることによってレコーディング・スタジオという音響的には「死んでいる」(完全に消音された)空間で録音されていても、劇場やアリーナ、洞窟の中で演奏されているように聞こえる。

仮に断片化された音がダイナミックな緊張感を生み出しているとすれば、リヴァーブ(とリスナーが内面化している演奏の連続している感覚)は異なる音を一つにまとめる結合材だ。各パートがミックスの中で現われたり消えたりする際、その残響音が音に連続性をもたらす。

一般的にディレイとリヴァープは同じものだと思われているが、ディレイは音声僧号を再生するタイミングを調整することで「エコー」のような効果を生むことから、概ねリズムに影響を与えるエフェクトである。

音処理によって和声、または形式的な解決というシステムを破壊するというダブの手法は、やがてデジタル時代のポピュラー音楽における構造の概念を大きく変えるという最も変革的な貢献につながっていく。

概念的な意味でダブ・ミックスは、一九七〇年代以降のジャマイカのポピュラー音楽の制作アプローチを要約している。マルチトラックのミキシング・コンソール上で、エンジニアによって行われるリアルタイムの即興演奏の一形態であるダブは、断片化と空間操作の組み合わせでポピュラー音楽に新たな視点をもたらした。通常完成形で自己完結していると思われていたポピュラー音楽を、ダブは建築図面――平面図、断面図、立面図――のように内部構造を明らかにしたのである。

この手法はアフリカに起源をもつ文化表現ではなく、日本古来のわび・さびの哲学/美学の観点で見ると理解しやすい。サイエンティストはリスナーの期待を操作することの重要性を無り、シャーウッドはダブにおける音の減衰が切なさを生むと話っている。アンドリュー・ジュニパーはわび・さびを「移ろいやすく非対称で未完成な性質」だと述べている。

エリック・グードは芸術制作における大麻の影響が表れた特徴を特定し、「無意味に思える非合理なものの賛美、『線状の』常識的論理の放棄、『モザイク的』な表現、思考の連鎖というよりもひらめきの放出」が中心になっているという。

総じてミュージシャンもプロデューサーもダブが「大麻の音楽」だという過度な単純化には異議を唱えているが、ダブの創造や受容において大麻が重要な役割を果たしていたことは全員認めている。ウィンストン・ライリーはダブの体験を増大するものはいくつかあり、大麻はその中の一つに過ぎないと感じていた。

ダブとサイケデリック・ミュージックの最も大きな共通点は、両者とも――状況に応じて暗黙的または明示的に――精神に作用する物質の体験を補完することを目的に作られた音楽だと捉えられていることである。両者ともそのような物質が(特に音楽とセットで)文化的変革と既存の秩序に対する挑戦の手段だと見なされていた時代に生まれた。

いずれにしてもフェスティヴァルの精神が復活したようなレイヴ・カルチャーと最近のエレクトロニック・ダンス・ミュージック・ブームでダブやダブのパイオニアが再び注目されるようになった。一九八〇年代からダブにインスパイアされたサウンドスケーピングとヒップホップの制作テクニック、一九六〇年代のサイケデリアを再構成したヴィジュアル・イコノグラフィーの融合が徐々に進み、エレクトロニカ・ブームに火をつけた。その点を考慮すると、ダブは少なくとも部分的にカリブのサイケデリック・ミュージック、プロト・エレクトロニカに位置づけられるかもしれない。

ダブには原曲があるため、ダブ・ミックスはリスナーの記憶を操作する。馴染みのある楽曲に手を加え、予想を裏切る展開で独特の緊張感を生み出すことが多い。ヴァースとリフレイン、緊張と緩和、ベースになるグルーヴの連続性という一般的な形式に対するリスナーの期待を裏切る。さまざまなかたちで聴く者に形式的な「完成形」を渇望させることが重要で、少なくとも部分的にその欲求を満たすことが市場から期待されている。

ジャマイカには(音楽ジャーナリズムや研究の安定した伝統など)情報を記録・保存をする機関がなく、地元の音楽市場が不安定なため、黒人音楽にはよくあることだが国際市場の搾取に弱い。ダブはポピュラー音楽史において重要かつ産出力のある音楽形態であるにもかかわらず、ダブを元に発展した他の音楽ムーヴメントの、ただの補足になる危険性がある。現にティモシー・テイラーは「エレクトロニカ」が黒人ダンス・ミュージックから強い影響を受けているにもかかわらず、エレクトロニカの歴史的記述は西洋の実験/電子音楽をベースに語られる傾向があると指摘している。

仮に一九七〇年代のレゲエが英語圏カリブにおける最先端の文化意識の象徴だとすれば、ダブ(とそのベースになったルーツ・レゲエのリズム)は最先端の音楽的表象だった。リー・ペリーやエロール・トンプソン、キング・タビー、その他たくさんのエンジニアやプロデューサーの手によって、ダブは作曲者が解体者であると同時にサウンドスケープの創造者でもあるという独自のジャンル、芸術形態になった。

第三章 スタジオ・ワンの「大黒柱」

ジャマイカ音楽史におけるシルヴァン・モリスの最大の功績は、スタジオ・ワンのチーフェンジニアとしてスカ、ロック・ステディ、レゲエの音を洗練し、誰よりもスタジオ・ワンを支えたことにある。スタジオ・ワンがダブ制作の中心になったことは一度もないが、ダブを語る上でその道筋をつけた彼の影響は無視できない。

多くのミュージシャン[やアーティスト]によると、コクソンは唯一スタジオで大麻の喫煙を許可していたプロデューサーで、スタジオ・ワンには特別な雰囲気があり、音――特に一九七〇年代の音にそれが表れていたという。

マーリーが世界で活躍している間、彼の作品がほとんどダブ・ヴァージョンにならなかったのは注目すべき点だ。アストン・バレットの記憶によれば、これはマーリーが歌詞のメッセージ性に妥協をしなかったためだという。しかしアストン・バレットとエロール・ブラウンによると、ダブ・アルバムの企画はあったものの、一九八一年にマーリーが亡くなったため発売が保習になったという。

シルヴァン・モリスのダブ・ミックスにも同様の苦労があったと思われる。おそらくハリー・Jで仕事をする難しさは、洗練された機材を使いながら、キング・タビーのスタジオやチャンネル・ワンで作られたダブと同じくらいむき出しの「ゲットー」の音を作ることにあっただろう。ダブは生のジャマイカらしい雰囲気を出すためにかなりシンプルな機材でミックスする方がいいというマイキー・ドレッドの意見は、ジャマイカ人ミュージシャンの声を代弁している。

第四章 「頭の中で火山が噴火するみたいだ!」

ダブの隆盛において、もし誰か一人中心人物がいるとすれば、それは間違いなく「キング・タビー」の通称で知られるオズボーン・ルドックだろう。タブを「頭の中で火山が噴火するみたいだ!」と形容していたタビーは、ジャマイカ音楽業界で長く幅広いキャリアを築いている。サウンド・システムやプロデューサー用のダブ・プレート・カット、サウンド・システム用の機材の構築と修理、自身のサウンド・システムの運営、レコーディング・スタジオニつの創設、そして独自の音楽を生み出した人物でもあり、技術・創造的なすべての段階でジャマイカ音楽と関わっていた。

サウンド・システムはタビーのスタジオ・ワークにも影響を与えていた。彼はダンスで客の反応を見たあと、実験室のような自分のスタジオでそのエフェクトを再現し、それをレコードとして出すようになった。

サイエンティストは一九八〇年代初頭にタビーがギターの音を修正していたことについて、このように語っている。「ギターの音を弦ごとに入力して、別々に出してたことがある。弦ごとにイコライザーやエフェクトをかけてたんだ。でもギターを改造しないといけなかった」。

タビーはバンド演奏の録音こそしなかったが、電子回路に関する知識があったため、斬新かつ独創的に機材の特質を使い、他のエンジニアが作ったダブに比べて、ある意味最も自然で「音楽的」なダブを作った。音の細かいところにまで注意が払われているのは、タビー個人の音楽的な好みを反映しているのかもしれない。彼の同僚全員が、タビーは熱烈なジャズ・ファンだったと語っており、迅速な判断が求められる複雑なジャズで育まれた感性が、マルチトラックのミキシング・ボードを即興演奏の楽器として使用することや、ダブ・ミックスをリアルタイムの即興演奏として開拓したことに反映されているように思われる。そのため都会的でジャズの変形のようなタビーのダブの音は、彼の電子工学に関する知識とサウンド・システムでの経験、即興音楽に慣れ親しんでいたことから生まれたと推測できる。

タビーのダブは基本的に暗めだ。初期のミックスは構造的にミニマルで硬く、物悲しく不穏な印象を与えるものが多い。後期のミックスはフィルターをかけた腐食的な音のパッセージや、エコーをかけた不気味なヴォーカル処理、不規則な音による曲の衝撃的な中断という手法を用いて独創性をさらに強めた。もちろんタビーのスタジオがある環境もその要因の一つである。一九七〇年になるとウォーターハウスは暴力事件があまりにも増えていたため、住民が「ファイヤーハウス」とあだ名をつけるほどの状態で、タ方タビーのスタジオに来てミックスをしていた者が、まわりで銃撃戦が始まったため明け方まで外に出られないこともよくあった。

一九七七年にリリースされた(オーガスタス・パプロがプロデュースし、タビーがリミックスしたコンピレーション・アルバム)ヘキング・タビー・ミーツ・ザ・ロッカーズ・アップタウン)はダブの進化における最高傑作で、ダブの中でも長年愛され続けている名盤だ。このアルバムが名作と称されるのには、おそらく二つ理由がある。まず一 九七〇年代半ばまでにタビーは自らのリミックス言語を完全に確立し、自然と磨きをかけられた美学と絶え間ないスタジオのアップグレードがあったこと。そしてオーガスタス・パブロが提供したリズム・トラックの質の高さである。音的にも作品のテーマ的にも、パブロが〔自身の〕制作チーム、ロッカーズと生み出した音は、当時の雰囲気を色濃く反映している。重いマイナー・キーのグルーヴと、一九七〇年代で最も印象的なエレキベースのパターンが、ラスタファーライの影響が色濃い歌詞のテーマを支えており、ラスタが礼拝で用いるハンド・ドラミングのスタイルやパブロの哀調を帯びたメロディカが多用されている。パブロのはかないメロディカの即興演奏は、タビーが切り取り、伸ばし、深い感動を誘う作品に仕上げている。

サイエンティストの音は意識して未来的に作られており、アルバム・ジャケットにも彼がヒーローになってエイリアンやサイボーグと戦う漫画風サーガなど、SFをモチーフにしたものが描かれている。これらは(…)ジャマイカ人が世界(主にアメリカ)のポップ・カルチャーのイメージやテー マを消費し、再解釈するための便利な手段を提供した。いずれにしても、音は戦うヒーローの武器である。ダブ・エンジニアやSF、漫画のスーパーヒーローの未来的イコノロジーと同じくらい、単純にサウンド・クラッシュの精神を示している。

第五章「生きたアフリカの鼓動」をたどる

リー・ペリーの名作はジャマイカで生み出されたものだが、彼は同世代の他のプロデューサーと比べても世界屈指の独創的なポピュラー音楽プロデューサー/エンジニアとして認知されるべきである。その革新的な作品は、一九六〇年代のキングストンのスタジオで醸成された創造的な流れに根ざしていた。彼のキャリアは、技師として技術的な観点からミキシングの芸術に取り組んでいたキング・タビーやエロール・トンプソンのようなダブのパイオニアとは異なる。

ペリーはダブをこう定義している。「わかりやすくて踊りやすい[スタイルの]音楽。ホーンやキーポードの音が入りすぎていなくて、全部の楽器が一度に演奏するよりも踊るスペースがあって、ずっと楽しくて気持ちのいい音楽」。

ペリーのダブがもつ音の厚みやぼやけてくすんだ感じと湿り気は、ジャマイカの自然の音や緊張感を彷彿させ、彼が自然の力から直接インスピレーションを得ていたことを示唆している。アメリカ黒人のリズムと、狂乱と恍惚が交錯するアフリカ系プロテスタントの信仰、「ルーツ」と自然を称えることで呼び起こす祖国アフリカに加え、国際市場に対する洞察力、レコーディング・テクノロジーの進化が加わって、ペリー独自の音の世界が生まれた。

ビートルズの《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band》やジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスの《アクシス――ボールド・アズ・ラヴ Axis: Bold as Love》(共に一九六七年)などで使用された、テープの逆回しがまだ新しく、プログレッシブ・ロックにとって重要な手法だった一九六八年に、ペリーはバート・ウォルターズがドリフターズの曲をカヴァーした〈ハニー・ラヴ Honey Love〉のシングルB面に、リズム・トラックはそのままでヴォーカルだけ逆回しし、タイトルも逆に綴った〈イヴォル・イェノーEvol yenoh〉というヴァージョンを入れている。

ペリーは自分が理想とする音について、次のように語っている。「俺の音はビートが違う。ゆっくりして柔らかい、糊の上を歩くようなビート。ベースの音も違う。聴く者に銃をつきつけるような、反抗者のベースだ」。

また注目すべきは〈コネクション Connection〉や〈キル・ゼム・オール Kill Them All〉などの荒削りなテープ・コラージュである。不遜なフランク・ザッパ風とでも言うように複数の演奏を切り貼りし、音程やグルーヴ、テンポ、テーマの一貫性というダンス・ミュージックやポピュラー音楽の慣習を破っている。

ペリーとフランク・ザッパのもう一つの共通点は、奇怪なスキャットやモノローグ、イントロを通じて、プロデューサーである自分を音楽に参加させている点だ。ペリーはこういう時、自分の声が奇妙な秘密の洞窟や地下の実験室、熱帯のツリーハウスから聞こえているように、ふざけた感じでリヴァーブをかけることが多い。彼は明らかにレコーディング・スタジオをただの記録の場ではなく、創造の道具として見始めていた。

リー・ペリーとキング・タビーの共同作業は、間違いなくダブの進化を大きく促した。ペリーの豊かな想像力とタビーの機械に関する専門知識、そして両者の実験をいとわない姿勢は、彼らの提携関係が互いにとって実り多いものであることを保証していた。

日本のローランド社は有名なスペース・エコーのユニットを何種類か製造しているが、一番有名なのは一九七三年に発売されたRE201で、ペリーもブラック・アークで幅広く活用していた。スペース・エコーは応用のきく機材で、一つのユニットにテープ・ディレイとスプリング・リヴァーブを搭載し、リズム的(ディレイ)、空間的(リヴァーブ)エフェクトの多彩な組み合わせが可能になっている。値段も手頃だったため一九七〇年代には多くのスタジオで使用され、その特徴的な音は、当時無数のニュー・エイジ・ミュージックやポピュラー音楽、SFのサウンドトラックで聴くことができる。

ペリーはコンソールから複数のエフェクターまで忙しく手を動かして「ライヴ・ミックス」、つまり先に演奏を録音をしてあとからミックスするのではなく、ミュージシャンが演奏している最中にエフェクトをかけながらミックス・録音している。 この手法はペリー独自のスタイルで、スライ・ダンバーなどプラック・アークで仕事をしたことのある多くのミュージシャンが記憶している。

タビーのダブが基本的にシングル・レコードB面の収録曲に限定されていたのに対し、ペリーはよくA面のヴォーカル曲でタビーの最も独創的なダブ作品と同じくらい超現実的で幻想的な別世界の風景を作り上げていた。このような手法を通してダブの進化と歴史には久かせない三つの作品を作り、スタジオの革新者として伝説的な地位を獲得したのである。

ペリーはたしかにレゲエの預言者だった。キング・タビーらが自らを「キング」や「プリンス」など、イギリスに端を発する王族の称号を名乗って自分の権威を象徴していたのに対し、ペリーは音の「マッド」サイエンティストという役割を引き受けることで西洋のサウンド・テクノロジーとのアンビバレントな関係を正当化した最初の人である。仮に「科学」の象徴が、作品を作るために使用した西洋のサウンド・テクノロジーだとすれば、非科学的な狂気の象徴は、必然的にオービアの伝統など、ネオアフリカの非合理性のステレオタイプから引き出される。

自分のスタジオがないため、以前と同じような自由さで実験することはできない。そしてペリーは過去二十年間、大陸から大陸へと渡り歩き、霊感を受けたマッドマンーレゲエにインスパイアされたエレクトロニカの歩くワン・マン・アート・インスタレーションとして自らのイメージを作り上げた。しかし一九六七年から一九八〇年の間に作られた彼の作品は、今なお世界中のミュージシャンにインスピレーションを与え続けている。

第六章「ジャヴァ」から「アフリカ」

トンプソンとチンはダブが発展する過程で実験的な音作りに携わる先駆者だった。他のエンジニアがヴォーカル・トラックを取り除いて「リズム・ヴァージョン」を作ることでダブの道筋をつけたとすれば、トンプソンはトラックをさらに剥ぎ取ってドラムとベースの基礎まで音を削った初期のエンジニアだといわれている。

トンプソンは通常の音量以上で録音・再生して音を歪め、パーカッシヴにユニゾンするギターとベース・ラインの質感を変えて曲を推進させるという、初期レゲェの時代にはよく使われたテクニックを用いている。

第七章「シティー・トゥー・ホット」:ルーツ期の終焉とデジタル期におけるダブの意義

ボブ・マーリーは一九七六年の暗殺未遂事件以降、断続的に海外で亡命生活を送って一九八一年五月に亡くなった。マーリーの死去によってレゲエは最も強力な国際的スポークスマンを失った。海外のレコード会社は、マーリーに続いて海外で認知度を高めつつあった他のジャマイカ人アーティストのサポートを徐々に放棄し、一部の超有名アーテイストを除いてレゲエ業界の外資のパイプラインがゆっくりと干上がり始めた。

第一章でも述べたように、ルーツ・レゲエはアフリカ系ジャマイカ人が奴隷制と植民地支配の辛い過去を掘り起こし、アフリカの文化的ルーツに対する誇りに変える文化的ナショナリズムと密接に結びついており、その流れはマイケル・マンリーが民主社会主義の試みを通じて政治的に定義していた。しかしマンリーが二期に渡って努力したにもかかわらず、一九八〇年までにはその変化に対する向かい風が強まっていた。マンリーはジャマイカの上流階級層と敵対し(上流階級層の多くはマイアミに逃れた)、キューバのフィデル・カストロと緊密な友好関係を築いたり、(アンゴラなど)他の新興社会主義政権に支援を提供してアメリカに楯突いていた。その間、世界的な石油価格の変動や、ジャマイカで最も収益の高い輸出品であるボーキサイトの需要が下落したことで、ジャマイカ経済は一九七〇年代を通して下降していった。

現在のジャマイカでは一九七〇年代のようにダプは作られていないが、主要な革新的手法はデジタル時代のジャマイカ音楽の中核要素になっていると考えられる。

電子的に作られた音楽が劇的かつ急にルーツ・レゲエに取って代わり、それが一九八〇年代のジャマイカにおける社会政治的な変化と同時に起きたため、ルーツ・レゲエと、ラガやダンスホールなどの名称で知られている電子的に生成された音楽は、対照的な音楽ムーヴメントを表象していると考える人が多い。しかしこの議論は音楽の制作方法(生バンドかデジタルか)や関係者のイデオロギー(ラスタやマンリー時代の民主社会主義か、シアガ時代の保守主義か)に論点が集中しがちだ。その場合、その音楽は技巧や美学の観点だけでなく、より幅広い社会/文化/哲学的見解を反映するものとして見ることになる。

基本的にデジタル音楽は、大麻の影響が感じられるルーツ・レゲエよりもかなりテンポが速く攻撃的になっている。その理由を、マンリー政権後の社会政治的な変化やコカインの流行などの社会病理にあると考える者もいるが、デジタル音楽は本質的に生き生きしている。ラスタの影響は過去十年で再び強まりつつあるものの、ルーツ期の重い「一人寂しく叫び声を上げる」タイプのものや、黙示録的なもの、父権的なメッセージは減り、肉欲や官能、尊大さを祝福する若々しい曲が増えた。

第八章 スターシップ・アフリカ:ディアスポラの響きと旧植民地

本章ではダブの純粋な音の領域にあるかすかな共鳴を取り上げ、さまざまに想像されたアフリカン・ディアスポラ(全般)、(特に)植民地支配後のジャマイカの過去と未来を「ヴァージョニング」することで、その反響をたどっていく。

私はマジックリアリズムの小説や映画とダブのシュルレアリズム的な側面には類似性があると考えており、最終的にはそれが(アフリカン)ディアスポラの文化体験を特に反映している美学だと主張する。

抽象的な意味では、アフリカン・ディアスポラの間でアフリカの象徴が意識的に再活性化されていた時代に、ダブでエコーを多用していたということは、ダブのクリエイターたちがリヴァーブやエコー、アフリカに起源をもつさまざまな音楽的手法を頻繁に使用することで、祖国アフリカのルーツに対する文化的記憶を喚起していたのではないかと推測している。

仮に一九七〇年代のレゲエがさまざまな方法で、当時のカリプ海地域に想像上の安全な空間として新たに「アフリカ」を呼び起こそうとする音楽的な試みだったとすれば、残響音は存在と不在、完全さと不完全さというダブの相互作用を結合する媒体になり、異国生活と故国への郷愁が絡み合った経験を想起し、サイードが言う異国生活の特徴 「根本的に断絶された状態」を反映しているのではないだろうが。

ギルバート・ルジェは一九八五年に音楽と意識変容に関する研究で、音楽が誘発する意識状態を恍惚とした黙想と憑依の二つに分けている。

ルジェは執拗に繰り返されるリズムの唐突な崩壊が――リスナーの神経システムを混乱させ――トランスや憑依を誘発する事例について研究していぶ。このダイナミックな緊張感を生んで操るアフリカ由来の手法は、ジャマイカのサウンド・システムの轟音によって新たな側面をもった。低音の効いたリズムに何時間も絶え間なくさらされた結果、ダンスがピークに達すると興奮した叫び声が上がり、残響音に包まれたリズム・セクションが乱暴に出たり入ったりしてDJが客をあおる。ロビー・シェイクスピアによると、このような激しさゆえ、悪名高い「リックショット」(ドラマティックな曲のパッセージに興奮して天井や空に向かって銃を発砲すること)など、聴衆が過撤な反応をすることもあったという。

しかしリヴァーブとエコーは西洋クラシック音楽の録音物で、教会や大聖堂などの伝統的な演奏環境がもつ音響効果を再現するために、それ以前から使用されていた。それに必然的に付随する音響的作用――時間を超越した感覚と瞑想――は、リヴァーブを多用するダブでも同じように示されている。マッド・プロフェッサーはこの特質ゆえイングランドで「第二世代の」ダブ・エンジニアになって、ダブを作るようになったという。「ダブはリスナーを不思議な気持ちにさせて、音楽や瞑想の媒体になってることに気づいた……歌詞がないから、頭に浮かんでくる思考のための空間があるんだ」。

マジックリアリズムのテキストはさまざまな解釈が可能で、一般的には二つの関連するテーマに集約されることが多い。まず、カリブ海地域は地球上の異なる文化が交わる場所で、文化的なハイブリッド性が極めて高いという考えに基づき、空想と現実の間を行き交うマジックリアリズムの文学的な空間が、さまざまな文化の流入するカリブ海地域の調和をはかる役割をしているという解釈。多様な文化的歴史や念体系が調和しているということは、新しいものが融合する過程で古いものが破壊されていることを意味する。カリブ海地域のハイブリッドな性質は、(特に旧世界の政治・経済・文化的構造の優位性が継続している文脈において)断片化と混在の受容が必要な適応戦略であることを示している。

それではダブとマジックリアリズムの共通点は何だろう。テキストや音楽のシンタックスを中心からずらし、曲のかたちを超現実にする音処理、断片化、あるいは累積したナラティヴの声は、テオ・ダハーンが「夢想的ではかなく、新しい視点を与え、日常の存在を催眠状態で再評価する」と述べたマジックリアリズム文学の特徴と通じている。

この解釈でいけば、ダブのような芸術形態はフェルマンなどのトラウマ研究者が言う「証言」を表していることになる。その解体された曲の形式はギルロイが言う「未完成形」を彷彿し、テキストを無意味な音素になるまで減らしていることは「言葉にできない(歴史的)恐怖」を表している。その流れでいくと、ダブにおける破壊の重視は、文化的記憶の途絶や歴史に粉砕された実存的な平和をコード化して文化的な神経系に埋め込み、音楽的な音に昇華したものと理解できる。

ダブにあるSF的な要素ゆえ、ジャマイカ国外で、実験的で電子的な西洋ポピュラー音楽を好むリスナーに、かなり支持されていることは否定できない。これはジャマイカ国外用のアルバム・ジャケット――基本的にイングランドのレコード会社が決め、ジャマイカの音楽関係者は関わっていない――の影響もある。しかしダブがアフロフューチャリズムやSFの影響を受けた音楽だという認識はあまり進んでいない。

テクノロジーの位置づけに関する結論はこうである。音声録音や映画などのバーチャル技術は当初なかなか理解されず、純粋な記録目的でしか使われていなかった。その創作物は現実の劣った模倣として片づけられていた。しかし俯瞰で見ると、これらの技術は「補装具」のような役割を果たして新しい現実のかたち(世界を「聴く」という新しい方法)を生み出し、最終的には人間の知覚を新たな領域に拡張している。同時に、これらの技術は本質的には幻想の投影装置として機能しており、「現実」かと見紛うほど正確に模微することで、人間の「現実」理解を混乱させる可能性を含んでもいる。当時の文脈において、これはジャマイカのダブ・クリエイターを理解する一つの方法である。

最終章 エレクトロニカ、リミックス文化、そして世界のポピュラー音楽を変えるジャマイカ

現代のダンス・ミュージックのスタイル的な特徴をダブだけに帰することはできないものの、アメリカやヨーロッパのリミックスの多くが「ダブ」ミックスと呼ばれている事実から、多くのダブの概念が、今日「エレクトロニック・ダンス・ミュージック」「エレクトロニカ」「DJ文化」そして/または「リミックス文化」と呼ばれているものの核にあることを証明している。

ジャマイカ音楽は一九六〇年代初頭にジャマイカ移民の多いロンドンのブリクストンやシェパーズ・ブッシュなどでキングストン・スタイルのサウンド・システムが登場して以来、少しずつ存在感を増していった。

しかしイギリスでジャマイカ音楽の普及を促したのは、レコードやコンサートだけではない。サウンド・システムの影響も大きかった。ノッティンガムやブリストル、リヴアプール、カーディフ、バーミンガム、ロンドン、ダンカスター、マンチェスターなど、ジャマイカ系移民が多いほとんどの都市にサウンド・システムができた。

クラッシュがリー・ペリーやマイキー・ドレッドと仕事をしているという事実は、イギリスのパンク・ミュージシャンがジャマイカ音楽全般、特にダブを好んでいたことを表している。パンクは(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・ドールズ、パティ・スミスなど)一九六〇年代後半から一九七〇年代のアメリカのロック・グループに起源をもつ音楽だが、一九七〇年代後半のイングランドで特定のスタイルと社会的スタンスが確立された。パンクがイギリスのポピュラー音楽の最先端にいた頃、パンクとレゲエの音楽関係者は、音楽・社会的対話を行っていたのである。

踊るという目的とアトモスフェリックな雰囲気の強調が融合したダブは、エレクトロニック・ダンス・ミュージックの作曲家と強く共鳴していく。一九七〇年代と一九八〇年代を振り返り、「トリップホップ」グループのマッシヴ・アタックのマーク・スチュワートは、このスタイル的な異種交配を総括して、「プリンス・ジャミーやサイエンティストのダブを買うことは、パティ・スミスやテレヴィジョンのレコードを買うのと同じくらい大切だった」と語っている。同グループのロバート・デルナジャは、一九七〇年代のイングランドで「ダブは本当に救世主だった。いろいろなものを全部一つにまとめてくれた世主だった。いろいろなものを全部一つにまとめてくれたんだから」と述べている。ダブの見かけ上の形式のなさは、作曲やナラティヴの論理、作者性、ジャンルの排他性、演奏の文脈などの通常の概念を逸脱し、新たな融合の媒体を提供したのである。

イングランドがジャマイカの録音物の、収益性の高い輸出市場を形成する一方で、イングランド国内においても、リー・ペリーやキング・タビーのような伝説的ジャマイカ 人を賛美する(そしてのちにコラボレーションをする)若い世代のミュージシャンやプロデューサー、エンジニアが先導する、固有のダブの伝統が根づき始めた。中でもよく知られているのが、エイドリアン・シャーウッドと二ール・“マッド・プロフェッサー”・フレイザー、デニス・“ブラックベアード”・ボーヴェルや、サウンドマンのジャー・シャカ、アルファ&オメガ、(クリスティーン・ウッドブリッジとジョン・スプローセン)である。彼らの作品はジャマイカの革新にインスパイアされており、多くの場合、それらのアイデアを新たな実験の領域に広げていた。

ニール・“マッド・プロフェッサー”・フレイザーは、ネオダブにおける重要人物の一人である。彼はダブについて、「自由の音楽だよ。リスナーの乗り物。一日の終わりに自由と創造性を解放するんだ」と語っていぶ。マッド・プロフェッサーは一九五〇年代半ばにガイアナで生まれ、一九六〇年代後半にジャマイカ音楽のラジオ番組を通じてレゲエへの情熱を育んだ。彼がデイヴィッド・カッツに語ったところによると、「デニス・アルカポーンやリジー、バニー・リーやスタジオ・ワンの曲をたくさん聴けるから、毎週土曜の夜にはラジオを聞いていた」。彼は機械に詳しかったため、現在のあだ名はガイアナで学校に通っている頃につけられた。

一九九〇年代以降はリミックス・エンジニアとしての需要が高まり、オーブやラッツ、UB40、ジャミロクワイ、ビースティ・ボーイズ、マッシヴ・アタックなどとの仕事を通じて、ダブとメインストリームのポピュラー音楽との距離を縮めている。彼がマッシヴ・アタックの一九九四年のアルバム《プロテクションProtection》をリミックスしたアルバム(同年にリリースされた《ノー・プロテクションNo Protection》)は、トリップホップとして知られるようになる音楽の発展において、重要な作品として名前を挙げられることが多い

ポピュラー音楽に音の実験と(一部のケースでは)政治批評のための空間を開拓したことから、パンクとエクスペリメンタル・ロック、ダブは、一九八〇年代後半からデジタル・サウンド・テクノロジーの拡大と共に進化した、(しばしば「エレクトロニカ」と呼ばれる)エレクトロニック・ダンス・ミュージックの台頭における重要な先駆者になっ たと考えうる。

エレクトロニカという用語自体は一九九〇年代初頭に生まれ、一般的にはアンビエント、ハウス、テクノ、ジャングル/ドラム&ベース、トリップホップ、そして無数のサブ・ジャンルを指すとされている。

これらのジャンルの演奏者はさまざまな多様な楽器を組み合わせて使用するが、彼らを最終的に結びつけているのは、デジタルを用いた制作方法と、ダンス・クラブ、レイヴというパフォーマンスの文脈、いくつかの広範なスタイルの類似点は、深みである。エレクトロニカ現象の基盤になっているデジタル・テクノロジーは、ありとあらゆる音情情報の操作を手軽にし、現象としてのエレクトロニカの創造的な領域は、第二次世界大戦後に進化してきたポピュラー音楽、即興音楽、実験音楽などの創造的な流れを結集させる触媒になっている。

ダブの遺産の影響は、これらのデジタルで制作された音楽ジャンルに強く感じられ、その影響がかなり明白なものも、概念的で内在的なものもある。しかし音楽的構成の観点で見ると、前述したエレクトロニカのジャンルはすべて、一般的にリズムの複雑さや歌詞、主題部分の断片化、アトモスフェリックなサウンドスケーピングを強調している。したがって程度に差はあれ、どれもダブの手法の影響を受けたジャンルだといえる。

ダブの影響を最も聴覚的に反映しているエレクトロニカのジャンルは、シャンクルノトラム&ベースとトリップホップである。どれも一九八〇年代と一九九〇年代に結合してグローバル・ポピュラー・ダンス・ミュージックの文法を変える一端を担った、ダブ(ドラムとベースを強調した ミックスとアトモスフェリックなサウンドスケーピング)とヒップホップ(抜粋したブレイクビーツとサンプルの重層化)の影響を同時に受けていることが表れている。

ジャングル(別称ドラム&ベース)は一九九〇年頃にイングランドで発展した、ジャマイカのダブとDJミュージック、イギリスのテクノのハイブリッドだ。このスタイルの実践者は無数に存在するため全員挙げることはできないが、有名な先駆者にはゴールディやL・T・J・ブケム、ロニ・サイズ、フォテック、フォーヒーロー、ア・ガイ・コールド・ジェラルドなどがいる。

「ジャングル」と「ドラム&ベース」という互いに置き換えのできるジャンル名は、明らかにジャマイカ音楽の近代史に由来がある。「ジャングル」という呼称はキングストンのサウンド・システム、特に一般的に「ジャングル」(地元では「ダングル」)として知られているジョーンズ・タウン地区に起源をもつ。そして「ドラム&ベース」は明らかにルーツ・レゲエの用語を借用している。それに加えて(特に初期の)ジャングルではしばしばジャマイカ式のDJトーストが使用されており、部分的にでもイギリスのジャマイカ移民コミュニティに重要なルーツがあることを示している。

過度に活発なテクノ由来の特性は、ダブにあるカリブ海地域ののんびりした感じからはほど遠いが、アトモスフェリックなサウンドスケーピングと断片化されたヴォーカルの挿入、重いベース・ラインが混在していることは、ジャマイカに直接の起源をたどることができる。この二重の影響が、レイノルズにジャングルを「ステロイドを使用したポストモダンなダブ」だといわしめた。

イングランドはネオダブの非常に盛んなところだが、唯一の場所ではない。ドイツでは主に移民というかたちではなく、エレクトロニカの流行と、一九九〇年代に始まったエレクトロニカのルーツ探究を通じてジャマイカの影響が広まった。その結果、一九九〇年代後半以降に独自のネオダブのかたちがいくつかでき、現代のエレクトロニカの流れの中でダブがよみがえった。

ポールやリズム&サウンドなどのドイツ人アーティストが行ったのは、「クリック&カッツ」という言を取り入れ、それをダブのサウンドスケープのテクニックを通じて空間化したことである。

ポールという名前で活動するステファン・ベトケ(一九六七年ドイツ生まれ)はジャマイカのダブの言語を直接取り入れた、質感豊かなサウンドスケーピングと、それをドイツの電子音楽と実験音楽のミニマリズム的かつコンセプチュアルな傾向の枠組みで再編成することで知られている。

サイモン・レイノルズはベトケのことを「モノクロの巨匠」と呼び、視覚的にベトケのCDはどれも均一な単色のジャケットなので他と区別しやすい。このミニマリズムはベトケの音楽に対するアプローチとも一致しており、各CDは特定のコンセプチュアルなパラメーターに捧げられている。本人いわく、ヴァージョニングがもつコンセプチュアルな意味合いと思われるものに影響を受け、モジュール式で創造過程にアプローチするようになったという。

ミニマリズムというと、「トラックを骨格まで削って、どうやってリスナーを退させずに八分間もたせられるのか」という疑問が生まれる。でも毎回[音楽を]再定義する必要はなくて、毎回新しい文脈にもち込めばいい。まったく同じ曲を使って違う曲を作る。レゲエでいい曲があったら、たくさんのシンガーがそれに違う歌詞をつけて歌ったり、違う伴奏で同じ歌詞をつけて歌うのと同じだ。一つのアイデアを、最終的には違う環境や機能、文脈に変えて、メッセージが伝わるようにする。それがたぶん、ヨーロッパのアーティストがジャマイカ音楽から学んだことだ。

私はすごくコンセプチュアルに仕事をして、すべてコンセプトアートのかたちで実現する。だからCDのジャケットに青、赤、黄色を使っている。すごく厳格に発展させるんだ。ドイツ人は芸術を分析的、知的に考えることで知られている。だから私の音楽は何らかの理由でかけ離れていて、ドイツ音楽にはならない。そこが気に入っている。

モーリッツ・フォン・オズワルドとマーク・エルネストウスは長年に渡ってドイツのエレクトロニカを支えており、ヴィンテージ・ダブの再発売だけでなく、ダブの影響を受けた新しいエレクトロニカ作品の制作も行っている。

ダブはエレクトロニカのサウンドスケープの中心になっており、他のポピュラーなスタイルに「感染」し、それらを多様かつ新たなスタジオ・ベースのサウンドスケープのジャンルに変異させる、とスティーブ・バロウは「ウイルス」というメタファーを使って言っている。エレクトロニカにおけるダブの影響を理解するためのよい全般的な手引きは、バロウの「ウイルス」という表現を元にしたタイトルがつけられた、二枚から成るコンピレーション《マクロ・ダブ・インフェクションズ Macro Dub Infection》である。それぞれ一九九五年と一九九六年に発売され、ネオダブやドラム&ベース、ハウス、アンビエント、エレクトリック・ワールド・ミュージック、多種多様な伝統的楽器演奏など、録音後に音処理を施した幅広いジャンルにおけるダブの影響例を示している。

ジャングルの作曲家スクエアプッシャー(トム・ジェンキンソン)が一九九六年の社会・創造的な環境について総括したコメントは、一九七〇年代のキングストンでも聞けそうな内容だ。「かなり攻撃的で、暗くて複雑な音楽なのは、イングランドが無茶苦茶だからだ。すべてが間違った方向に向かってる。政府は破綻している。……誰も国を信用してない。やつらの方針は、みんなを幅がらせて、従順にさせることだ。そういう態度が恐術を生んでいる。イングランドは締め付けられて、怒りが山積みになってる。今[ジャングルの]曲がたくさん生まれてるのは、そういう事情からさ」。

ロイド・“ブルワッキー”・バーンズ(一九四四年ジャマイカ生まれ)はジャマイカの経験にしっかりと根ざした方法をもって、ジャマイカ国外でダブの発展に寄与した重要人物である。しかしベルリンを拠点とするベーシック・チャンネルが再発をするまでは、彼の重要な作品はジャマイカでもほとんど知られていなかった。

ベーシスト、プロデューサー、コンセプチュアリスト、そしてレコード・レーベルの創設者/オーナーでもあるビズ・ラズウェルは、ダブにハイブリッドなアプローチをしている。一九五〇年生まれの彼は、一九七〇年代後半からアメリカの幅広い音楽ジャンルで実験的な音作りをしている。一九八三年にハービー・ハンコックのエレクトロジャズファンク〈ロキット Rockit〉をプロデュースして最初の商業的大成功を収め、ミック・ジャガーやホイットニー・ヒューストン、スティングなど、他のメインストリームの人気アーティストとも仕事をしている。しかし彼の名声の大半は、ジャズとファンク、電子音楽、その他さまざまなワールド・ミュージックの実験的クロスオーヴァー作品で築かれている。その過程で、これらの多様なジャンルで探究されている多くの概念的な関心が共鳴する(そしてミニマリズム的な美意識が、それらを結合するテンプレートを提供する)ダブに、インスピレーションを見出したとしても不思議はない。

スタイル的に、ディスコはファンクの革新的なポリリズムを簡略化した(それによってファンクにあった政治的な響きを和らげた)ため、黒人のポピュラー音楽評論家の中には、ディスコを顔も名前もない汎用的な音楽として退け、革新的で社会意識の高いアフリカ系アメリカ人のダンス・ミュージックの時代に、終焉をもたらしたと非難する者もいた。しかし、もっと深い真実は、ディスコが純粋な踊る喜びを強調し、一九三〇年代の「ジャズ・エイジ」や一九五〇年代のロック誕生以来の方法で、黒い身体の美学をメインストリームのアメリカ文化に投影していることである。

一九七〇年代後半までに資金不足の公立学校で十分な音楽教育を受けられなかった若い世代の音楽志望者が、親のレコード・コレクションと家庭用オーディオ機器にインスピレーションと音楽素材を求め、ニューヨーク市内のブロック・パーティやディスコ、ハウス・パーティで、ファンクとディスコのさらなる解体を進めたのである。DJは抜粋した曲の断片(「ブレイク」または「ブレイクビーツ」。中には数秒のものもある)を長い形式のミニマルなグルーヴ組曲にし、他の録音物から抜粋したホーンやリズム・セクションのリフを重ねるために、二つのターンテーブルを使ってミックスする手法を編み出した。ジャマイカのサウンド・システム同様、これらの「組曲」もMCのラップが増強し(ジャマイカのDJと同じ役割)、ラッパー/MCやダンサーの希望に応じて無制限に延長されることがあった。

ヒップホップ最大の功績は、のちにデジタル・サンプリングの出現によって形式化されたブレイクビーツの美学にある。両者ともリスナーを制作の微細なところに敏感にさせる解体的な作曲手法だ。異なる時間と場所で録音された(つまり、異なる音の雰囲気をもつ)サンプルを重ね合わせることで、リスナーは制作の非常に些細な動きに対しても敏感になる。たった数秒しかない音楽の断片でも、リスナーの感情に響かせることに成功しているのである。その結果、リスナーは録音物の音色や質感に対する新たな感受性をもつようになった。この意味で、ボム・スクワッドやDJレッド・アラート、RZAなどのヒップホップ・プロデューサーは、ポピュラー音楽の音のパラメータを増やしたという点で、キング・タビーやリー・ペリーなどのジャマイカ人プロデューサーに似ている。

簡単にいうと、ヒップホップがサンプルの重ね合わせを通じて累積の手法に頼る傾向がある一方で、ダブはミニマルな未完成の美学を追求する傾向がある。アフリカに起源をもつヴィジュアル・アート形態における累積と未完成という概念的な特徴についての研究は多いが、私の知る限り、それがアフリカン・ディアスポラの音楽形態の分析に本格的に適用されたことはない。両者とも西洋のポピュラー音楽のアフリカ化において重要な手法だった。

ニューヨークを拠点とするDJ/コンセプチュアリストであるポール・D・ミラー(別名DJスプーキー)の作品は、ダブがどのように実用的な方法で伝統的な電子音楽や実験音楽の潮流と交差しているかを示している。また、ダブがどのように実験音楽の理論的な側面と相互作用して新しいモデルを生成し、実践に影響を与えているかも証明している。

確立されていたアンビエントという名称を明らかに言葉遊びにしたイルビエント(illbient)という用語は、ダンスのリズム(通常ダブや減速したヒップホップを元にしたもの)を純粋に電子的な質感と融合させて、アンビエントなアプローチをした音楽を指すが、ブライアン・イーノのような癒しのアンビエントとは異なり、耳障りな都会の音や機械の騒音、案内音などをアトモスフェリックに処理している。

間接的とはいえ、社会学者ボール・ギルロイの著作においてもダブは有力な存在だ。ジャマイカ音楽への言及は彼の研究に頻繁に見られるが、主要な著作のいずれも、現在のところダブに言及して着いたものはない。しかし黒人文化の歴史と状態を表す意も信頼のおける指標の一つとして音楽を描写する研究者のギルロイは、いくつかの重要な仮説にダブを含めている。

二〇〇五年にパリのポンピドゥー・センターで開催された「アフリカ・リミックス」展は、現代のアフリカン・ディアスポラ・アーティストが「アフリカン・アート」を一括りにした短絡的なステレオタイプを、旅とテクノロジーを通じていかに打読しているかを考察するためにリミックスのテーマを使用していた。こうした音楽外の解釈は、おそらくダブの即異的な性質に触発されている。まずダブは何よりもダンスミュージックであり続けているが、概念的なプロセスが前面に出る場合や、思考や経験の他のパラメーターを示唆する際に、特に有益であることが証明されている。

音楽を説明するために学術的な理論を使用するか、音楽に文脈を提供するために社会を使う代わりに、これらの思想家は音楽の特定の構造的傾向に着目し、(美学、社会、政治、生物学、テクノロジーなどの)非音楽的なプロセスを理論化する基盤に使用している。このようなリンクが可能なのは、テクノロジーと、その芸術・社会的な実践の変化があるからである。このようにして音楽は理論化のための媒体として書かれた言葉と競合し、最終的には理論の行為そのものとして位置づけられる。音楽を理論として理解するこの考え方は、前述した、音楽を歴史として捉えるアフリカ起源の考え方と共鳴しており、同時に、芸術が理論を活性化、再活性化する方法を示している。

もちろん断片化は非常に明確な理由から、私たちの時代の中心的な対処メカニズムであると反論することができる。情報過多の時代において、断片化の美学は芸術を用いて過剰な言葉の力を弱める方法と見なすこともできる。したがって、ファッション、デザイン、広告における断片化の美学の拡散は、必然的に独自の洗練された精巧さと抽象の様式に進化していくだろう。断片化は、あらゆる種類の文化的コードが前例のないスピードで解体、再構築、再結合される時代に避けることができないともいえる。

参考文献

エンジニア別推薦盤リスト

シルヴァン・モリス

スタジオ・ワン

(スタジオの全盛期がダブの台頭よりも前だったため、以下の音源は、ほとんどがヴォーカル曲で構成されている)

Horace Andy: 《Mr. Bassie》 Heartbeat CD HB 88 Burning Spear: 《Creation Rebel》 Hearbeat 11661=7664-2 Gladiators: 《Bongo Red》 Hearbeat 11661-7662-2 Jackie Mittoo: 《Tribute to Jackie Mittoo》 Heartbeat 189/190 Jackie Mittoo: 《The Keyboard King at Studio One》 Universal Sound USCD 8 Various: 《Best of Studio One》 Heartbeat HB 07 Various: 《Studio One Classics》 Soul Jazz SJR 96 Various: 《Studio One Roots》 Soul Jazz SJR 56 Various: 《Studio One Rockers》 Soul Jazz SJR 48 Various: 《Studio One Scorcher》 Soul Jazz 67 『The Studio One Story]』(DVD) Soul Jazz CD/DVD 68

ハリー・J (プロデューサーはウィンストン・ロドニー。スピアのアルバム <Social Living>と<Hail HIM.)に収録されている曲のダブ・ヴァージョン) Burning Spear: (Original Living Dub, Volume 1) Burning Spear BM 316 Bunny Wailer: (Dubd'sco, Volumes 1-2) Solomonic/RAS 3239 Man) <Bunny Wailer Sings the Wailers» ‹Roots, Radics, Rockers, Reggae KI#6*Л • ДА-»)) Augustus Pablo: <East of the River Nile) Shanachie CD 45051 (プロデューサーはオーガスタス・パブロ。インストウルメンタル曲とダブ・ヴァージョン) キング・タビー

訳者あとがき

一読していただければわかるように、本書は著者であるヴィール氏の綿密なフィールド・ワークと、芸術・文化にかんする知見、そして何より、ダブに対する深い敬意に基づいた、類をみない研究書です。自身もアフリカ系であるヴィール氏がダブへの好奇心を突き詰めた結果、アフリカン・ディアスポラの文化表現がもつ力や可能性に確言を強めていくさまが感動的な記録でもあります。

ヴィール氏の原書が発売された二〇〇七年当時、「すごい本が出たな」と思いました。というのも、ジャマイカのポピュラー音楽を音楽学的視点で学術的に書いた研究書を初めて読んだからです。

記憶が正しければ、ジャマイカでリミックスという言葉が使われ始めたのは、ヒップホップ文化がポピュラーになった一九九〇年代半ば以降だったような気がします(いわば逆輸入)。本書でダブはリミックスの原型のように扱われ、実際その通りではあるのですが、ダブを生み出したジャマイカのエンジニアに「再び(リ)ミックスする」という感覚はなかったのではないかと想像しています。彼らの意識は、たとえその素材が昔からあったものでも、常に”新しいオリジナル”を目指していたからこそ「ヴァージョン」「スペシャル」と呼んでいたのではないでしょうか。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I033168060

764.7