Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

ロバート・フィリップ『若い読者のための音楽史』すばる舎

全体通して面白く読める,というわけではないけれど,後半になるにつれて――つまり自分が割と知っているクラシックとそれ以降の音楽――面白くなってきた。特に現代音楽の作曲家,あるいはその作品と大衆との断絶みたいなところが。ワールドミュージック的なものの記述はそこそこある割に――それもポリコレ的観点かと勘繰ってしまうけど;フェミニズム的観点も散見されるので――ポップやロックやジャズや今のエレクトロニカ/ダンスミュージックの記述が薄い。

1 音楽とは何か、そして何のためにあるのか

音楽にはさまざまな用途と効果があるので、「音楽」にひとつの顔しかないと考えると、理解の妨げになるかもしれない。言語によっては、「音楽」を意味する一般的な言葉さえ存在しないこともある。その代わりに、詩を歌にすること、宗教的なテキストを唱えること、楽器を演奏すること、ドラムを叩くことなどを意味する、それぞれ異なる言葉が存在する。宗教音楽はいわゆる「音楽」とは見なされず、単に礼拝にともなう行為と見なされることが多い(たとえばイスラム教)。しかし、歌は言葉をより高いレベルへと引き上げて、神に捧げるに値するものにすると考えられている。

2 古代舞曲の影

しかし、直立姿勢は私たちの頭と幌にも重要な影響をもたらした。頭が脊椎の上に来たため、発声器官である喉頭が暖のより低い位置に来て、より長くなった。これにより、人間は他の類人猿よりも多様な音を発することができるようになった。さらに、舌の形状が変化し、脳の発達が続いたことも可能性を広げた。最終的に、人間は音楽と言語の両方の能力を発達させられるようになったのである。

古代メソポタミアでは、音楽は宇宙および宇宙に内在するさまざまな数学的関係を理解することと深く関わっているとされ、そこから調和(ハーモニー)という考えが生まれた。こうした考え方は、東は中国、南はエジプトまで広まり、そこからさらにギリシャにたどり着いた。そしてギリシャで「宇宙の調和」、「天体の音楽」という考えのもとになった。初期のキリスト教では、こうした考え方に基づいて神の創った宇宙の秩序を説明しようと試み、音楽はその秩序の表れであるとされたのである。

3 歌う詩人

「ギリシャの古典時代」というのは、紀元前5世紀に古代ギリシャが最盛期を迎えた時期を指す言葉である。「古典」という言葉が使われているのは、古代ギリシャ人の思想や成果が、後世のヨーロッパの発展にもっとも大きな創造的刺激を与えたと考えられているからだ。ギリシャ文明の成果が実はより古い他の地域の文明、中でも東のメソポタミア、南のエジプトの文明に多くを負っていると学者たちが私たちに気付かせてくれたのは、ここ数十年のことである。

古代ギリシャ文明の絶頂期は、ホメロスから2世紀を経た紀元前5世紀に訪れる。その中心地となったのはアテネである。文学、演劇、スポーツ、美術、彫刻、建築、哲学、政治の分野で後世の人々に創造的刺を与えた古代ギリシャのさまざまな業績は、すべてこの時代のものだ。古代ギリシャでさまざまな芸術活動の中心になっていたのは、国中のさまざまな場所で行なわれた祭りであり、これは小規模でローカルなものから、古代ギリシャ世界全域から人が集まるような大規模なものまでさまざまだった。

ギリシャの音楽活動と考え方の根底には、音楽はこの世界と宇宙におけるその位置づけを理解するための基本である、という考え方があった。音の高さが数学的な関係に基づいていること、つまり「調和」(ハーモニー)した関係にあるのは、宇宙とその中に含まれるさまざまな天体の調和した関係、つまり「宇宙の調和」の表われだとされた。こうした考え方は、その後何世紀経っても変化することがなかった。

4 リュートと即興演奏

ペルシャやアラブの音階は大きく異なっている。半音と全音だけからできているわけではなく、半音と全音のあいだの音程や全音よりやや広い音程が存在する。また、西洋音楽には長3度〔半音4つ分〕と短3度〔半音3つ分〕があるが、アラブやペルシャの調律法では、西洋の長3度と短3度のあいだの「3度」が存在する。

5 音楽と瞑想

こうした考え方を知ると、インド音楽の特徴が見えてくる。その他の多くの古代文明同様、インドでは音楽と宗教が密接に結びついており、瞑想のための音楽という考えが中心にあった。このことは、音楽に始まりも終わりもないような感覚を与えるドローン(持続低音)楽器の使用からもうかがわれる。

広大な国土と人口を持つインドでは、時間の経過とともに音楽に関して地域によって異なる伝統が根付いた。特に、南部と北部(1947年に英国によってインドから分離独立するまで北インドの一部だったパキスタンを含む)の音楽のあいだには大きな違いがあった。古代から北部は西からの侵略にさらされており、度重なる侵攻によってギリシャやペルシャの文化、仏教やイスラム教が持ち込まれ、さまざまな文化と宗教が混ざり合った。

6 ゴングが奏でる永遠の響き

日本には能楽と歌舞伎という、ふたつのすばらしい演劇の伝統がある。能楽のほうが古い歴史を持ち、その起源は宗教的な民族劇である。14世紀になると、演者たちは上流階級の人々に招かれて能を披露するようになり、まもなく一般の人々だけでなく、将軍を頂点とする武士階級の人々が楽しむ芸術として、確固たる地位を占めるようになった。ひとたび敬うに値する芸術形態と認められると、能は非常にシリアスな性格を持つようになり、それは今日に至るまで変わっていない。

7 リズムとコミュニティ

アフリカの音楽と言語の結びつきは、純粋な器楽にも及んでいる。西アフリカでは、ドラムは文字どおり「話す」楽器だ。アフリカの言語の多くは声調言語、つまり音の高低のパターンで意味を区別する言語だ。言葉の形状と抑揚を模倣できるよう、低い音と高い音を出せるようにしたドラムは、遠く離れた場所にメッセージを伝えることができる。

何百年にもわたる破壊ゆえに、またひとつには口承で受け継がれたがゆえに、アフリカの音楽については、現在残っている伝統に基づいて議論するしかない。文書の記録に頼らなかった文化では、遠い過去にどのようなことが行なわれていたかを理解するには、現存している慣習を見るしか方法がない。

8 祖先の霊

北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカ、および南洋の国々(オーストラリア、ニュージーランド、ポリネシアの国々)は広範な地域をカバーし、それぞれ多様な文化と歴史を持っている。しかし、こうした地域には重要な共通点があり、それはまた前章で見たアフリカの文化とも共通している。 いずれの地域でも何百年、場合によっては何千年も前から先住民族が暮らしていたが、いろいろな時代にさまざまなやり方でヨーロッパ人に侵略され、植民地化された。土着の文化は完全に、あるいは一部が破壊され、彼ら先住民が生き残れるかどうかは、どれだけ征服者たちに溶け込もうとするか、服従しようとするかにかかっていた。南アメリカと中央アメリカにはアフリカと同じように強大な王国が存在し、独自の伝統文化を持つコミュニティが各地に存在していた。またアフリカ同様、ヨーロッパ人が来る前の状況を示す証拠はほとんど残っておらず、入植したヨーロッパ人の報告と、なんとか今日まで存続した古い伝統に頼らざるを得ない。

9 ダンスとハーモニー

古い時代のヨーロッパの音楽について考える際は、想像力が必要だ。長年にわたり、音楽史の研究者たちは記譜法の発明とともに音楽の歴史が始まったかのように、そして楽譜になった音楽だけが重要であるかのように述べてきた。しかし、ヨーロッパで記譜法が進化しだしたのは10世紀になってからである。それまでは、人類が最初にヨーロッパに姿を現わしてからずっと何世紀にもわたり、音楽は地球上の他の地域同様、耳と口を使って作られ、発展し、世代から世代へと伝えられてきた。実際のところ、記譜法が発達したあとの数百年も、人々が聴いたり歌ったり演奏したりする音楽のほとんどは、従来のやり方で作られ、受け継がれてきた。というのも、記譜法を学んでいる人間はごく少数だったからである。徐々に、プロの音楽家の多くが楽譜を使うようになり、やがてアマチュア音楽家もこれに倣った。しかし、それには非常に長い時間を要したのである。

ひとつはっきりしているのは、ヨーロッパの東と西で民俗音楽、あるいは伝統音楽が大きく異なるということだ。東のアジアとの境界線は常に、現実を反映したものというよりは建前上のものであり、アジアの音楽文化は何世紀もかけてヨーロッパの奥深くまで浸透した。イスラム教の国であるオスマン(トルコ)帝国――14世紀から20世紀初頭――はヨーロッパと国境を接しており、多くの場合異なる宗教や文化に寛容で共存共栄を許したため、さまざまなスタイルが混じり合って豊かな音楽文化が生まれた。今日でも東欧の伝統音楽には、アジアを起源とする要素が多く含まれている。その一部はイスラム教が広がるずっと前からあった可能性が非常に高い。たとえば、「非ヨーロッパ」的な調律と旋法、他の言語用に一部改変されたアラブ・ペルシャ風のメロディー、複雑な拍子の踊りなどである。特にブルガリアとその周辺では、5、7、9拍子といった変則的な拍子の踊りがいまだによく見られる。

ヨーロッパ全土に見られる伝統音楽の特徴のひとつは、ひとつのメロディーラインだけでなく、同時に複数のメロディーラインを歌ったり演奏したりすること(ポリフォニー)であり、これは世界中の伝統音楽でも行なわれている。西欧よりも東欧の農村などでよく見られ、どの程度まで不協和な(音と音がぶつかる)音楽を許容するかという点で地域ごとに大きく異なっている。

ハーモニー同士がぶつかり合うようなポリフォニーの伝統は、これ以外にもジョージアの東部地域で見られる。ジョージアの音楽スタイルはとりわけ変化に富んでいて複雑だ。男たちが三部に分かれて哀悼歌などを歌う。こうした歌唱スタイルは山岳地帯の村に今も残っていて、かなり古い時代から続いていると考えられている。「不協和音のハーモニー」は、ロシア、ポーランド、チェコなどのスラブ諸国にも見られる。北方のリトアニアには、少人数の女性たちが歌う不協和なポリフォニーの伝統がある。声部は2つだけだが、各パートが密に絡み合うため、錯綜して濃密な演奏効果が生まれ、不協和音が同じ空間を占拠しようと争い、ぶつかり続けているように感じる。ただし、そう感じるのは一般の西洋人の感覚であり、リトアニアの人たちにはハーモニーが「ぶつかる」感覚はあっても、不協和とは感じておらず、鳴り響く鐘のようだと表現する。このようなリトアニアの伝統は、ロシアの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーにインスピレーションを与え、かくして不協和音の連続で有名な20世紀の記念碑的作品、『春の祭典』が生まれた。この曲については第32章で取り上げる。

10 教会の歌、街の歌

キリスト教会がヨーロッパで勢力を拡大するにあたっては、音楽が重要な役割を担った。10世紀から記譜法が普及するにつれて、聖歌が楽譜に書き留められるようになり、教会音楽の正式な「レパートリー」と呼べるものが生まれた。/一方、教会の外では、これとはまた異なる種類の音楽 特に歌と踊りの音楽が広まっていった。初期の教会音楽同様、人々はこうした音楽を耳で聴いて覚え、伝えた。記譜法の発展とともに、一部が最初に詩が、あとになってから音楽がし書き留められるようになったこともあり、この時期に教会の外で音楽を奏でていた人々についても、ある程度はその様子がわかっている。

11 熟考せよ、記録せよ

このような神を中心に据えた音楽観は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの著作が12世紀に発見されたことで揺らぎ始める。アリストテレスは、人間の理性、合理的な思考が知識の本質だと説いていた。この哲学、「ヒューマニズム(人文主義)」は、科学的探求から人間の行動倫理に至るまで、あらゆる分野に浸透していった。自分たちは神の意志を遂行していると考える教会権力とアリストテレスの考え方が、将来的に衝突する可能性については容易に想像できる。何世紀にもわたり、ヒューマニズムと合理的思考は、ヨーロッパ文化の発展に大きな影響を与え、そのためヨーロッパの文化は他の地域の文化とは明らかに異なる道を進んだ。こうした違いは、ヨーロッパの歴史に見られる一連の大きな変化ールネサンス、啓蒙運動、資本主義の興隆、産業革命、さらにはコンピューター技術が発達した現代の状況から明らかである。その影響はすべての分野に及び、音楽も例外ではなかった。

11世紀になると、イタリアの修道士、グイード・ダレッツオが、現在「五線譜」と呼ばれている楽譜を発明した。「五線譜」では、線と線のあいだの音程が3度であることを示している。音符を線上ないしは線と線のあいだに記入することで、メロディーの音の高さを正確に示せる。当初は4本線の「五線譜」が一般的だったが、しばらくすると現在の5本に落ち着いた。

12 古い腐敗したもの、新しい考え方

いくつかの政府の例でもわかるように、権威を頑なに主張する者はいつか腐敗する。14世紀になると、西方教会も腐敗への道をたどった。もっとも顕著な腐敗の例が「贖宥状」(しょくゆうじょう)を売りさばいたことだ。罪を犯した者は、教会に寄附をすれば、死後に神から受けるはずの罰を軽減されると保証したのだ。これが腐敗をともなう詐欺行為へと発展し、教会や聖職者を富ませ、ついには教会に代わって統治者やその軍隊を戦争に送り込む手段として使われるまでなった。

地獄を描いたダンテの長編叙事詩「地獄備」(「神曲」の第一部)は、のちの時代の音楽家に大きな創造的刺激を与えた。ダンテは抒情的な詩も書いたが、ボッカチオによると、音楽家の友人に詩を提供し、そこに音楽を「まとわせて」もらうのが好きだったという。ペトラルカとボッカチオも、歌のための詩を書いており、そのいくつかが残されている。

この頃の歌に関する知識を楽しく集めたいなら、こく初期のフィクション作品のひとつである、ジョヴァンニ・ポッカチオの「デカメロン」を読むという手がある。この大作は1350年頃に書かれている。物語の舞台は、ペストによって町が壊滅的な被害を受けた1348年のフィレンツェだ。

13 作曲家が羽ばたくとき

ジョスカンを有名にしたのは、こうした繊細な表現を可能にするために彼が生み出した自然な響きである。そして、ハーモニーの変化によって、音楽の中で旅をするという感覚を生み出し、さらに一歩進んで劇的展開を作り出すための手法を突き詰めた。「カデンツ」ー終止を表わす定型的な和音進行ーがあることで、曲の始まりから終わりまでを一定の長さを持つスパンとしてとらえ、そのあいだに曲が一定の方向へと進展していく感覚を醸し出せるようになった。改革者マルティン・ルターはジョスカンについて、「他の作曲家は音符を使ってできることをする。ジョスカンだけが自分の望むことをする」と述べている。ジョスカンの音楽表現は非常に広いジャンルに及んでいる。

14 リュートと鍵盤楽器

鍵盤楽器がよく使われるようになったのは、鍵盤自体が進歩したからである。おなじみの白黒の鍵盤の起源は15世紀までさかのぼる(ただし、初期の楽器の一部は白黒の配置が逆だった)。「白い」鍵を押すと出る音(現代の一般的な楽器の場合)を使うと、もっとも一般的な音階や和音に必要な音のほとんどをカバーすることができる。そこに「黒い」鍵の音を加えれば、理論上は曲をどの音からでも弾き始められるし、あらゆる調性の音階や和音を弾くことができる。実際には、どの音とどの音を組み合わせても完全に「調和」した響きになるよう調律できるかというと、これは非常に説明が難しい問題である。

時代が下るとともに、音楽家たちはより多彩なハーモニーと和音を求めるようになり、健盤楽器の調律はどんどん難しくなっていった。そして、すべての音程から納得のいく響きを引き出すためには、調律を「加減する(temper)」必要があった。このように妥協の産物として、ある程度加減して作られた音程の組み合わせからなる音階の調律法を「音律(temperament)」と呼ぶ。現代の西洋音楽では一般的に「平均律」が使用されている。これはすべての音の高さを加減して、オクターヴの音程を均等な周波数比で分割した音律である。しかし、過去にはこれとはまた別の音律が使用されていたこともあった。15世紀とその後しばらくのあいだは、すべての調性でうまく機能する音律は必要なかった。一般的に使用される調性は非常に限られていたため、鍵盤楽器はそれに合わせて調律され、演奏する楽曲に登場しない音程がひどく耳障りな響きでも気にしなかった。

15 教会改革、市民教育

ルターの宗教改革はヨーロッパの歴史おける大事件であり、その影響は音楽にも及んだ。プロテスタント〔新教〕の最初の音楽的成果は、言者たちが自ら歌うための新たな賛美歌(またはコラール)の出版だった。ルター自身もいくつかの曲のメロディーと多くの詩を作り、作曲家や詩人と協力して賛美歌を作った。最初の賛美歌集が登場したのは1524年で、教会だけでなく家庭や宗教的な集いで歌われた。教会は言者たちが次の日曜礼拝で新しい賛美歌を歌えるよう、平日に練習のための会を催した。こうした賛美歌はその後集められて出版され、非常に人気が出て、英語を含む他の言語にも翻訳された。初期の賛美歌集では、メロディーが印刷されているだけだったが、ルターの初期の協力者のひとり、作曲家のヨハン・ヴァルターは複数の声部(通常は4声部)の楽譜を出版した。メロディー(主旋律)はテノール(上から3つめの声部)に置かれており、これはテノール声部に定旋律をもつ多声ミサ曲の伝統を引き継いだためだ。ルターは、シンプルで飾り気のない音楽を人々が歌うのを望んでいたが、自身はポリフォニーが大好きで、聖歌に他の声部を加えて複雑な音楽を作ることを「一種の神の踊り」と表現しており、中でもジョスカン・デ・プレをこうした音楽スタイルの大家として絶賛していた。こうした影響はヴァルターのポリフォニックな賛美歌にも現われており、各声部が優雅に絡み合いつつも、ハーモニーの流れは明確な方向性を示している。

ルターの改革は幅広い層の人々の支持を得た。しかしそれはまた、プロテスタント内の競合する各派閥のあいだに、そして何よりもプロテスタントと従来のローマ・カトリック教会とのあいだに、さらなる裂をもたらした。こうした対立が最終的に三十年戦争(1618~48)を引き起こす。戦争は、神聖ローマ帝国内の諸国間の対立から始まり、周辺の大国を巻き込み、大規模な破壊を招いた。

良い影響は、誰もがふだん自分の使っている言語で聖書を読めるようにすべきだとルターが主張した結果、読み書きを学ぶ人の数が劇的に増加したことだ。これにはまた、一枚の紙、小冊子、本といった形で印刷物が手に入るようになったことも貢献した。印刷物はどこでも手に入るようになり、ますます多くの人々が文字を読みたがるようになった。この頃から、ドイツ語圏では賛美歌であれ、民衆の歌であれ、聖俗を問わず歌の歌詞はラテン語ではなくドイツ語が広く使われるようになる。こうして理解可能な言語と音楽が結びついたことで音楽自体もわかりやすくなり、その後4世紀以上にわたり、ドイツ語の歌詞を持つ楽曲がどんどん作られるようになった。

16 征服、また征服

今日、私たちは「ラテンアメリカ音楽」という言葉を使うが、スペイン征服後の約100年間に集まってきたさまざまな要素が、「ラテンアメリカ音楽」を構成している。スペインのビリャンシーコもそのひとつで、形を変えながらさまざまな地域へと入り込んでいった。

南部の大規模農場にアフリカから連れてこられた奴隷が増えるにつれ、ヨーロッパの賛美歌とアフリカの歌や踊りという異文化の音楽が融合して、新たな音楽ジャンルが形成される素地が生まれた。こうした動きはすべて、その後の北米の音楽の発展に大きな影響を与えることになるが、それが根付いたのはあくまでポピュラー音楽であり、複雑な伝統音楽と結びつく機会は少なかった。

17 言葉を歌い、音楽を語る

のちにオペラと呼ばれるようになるもののアイデアは、古代ギリシャで上演されていた劇に基づいている。これを研究したフィレンツェのアカデミアのメンバーは、古代ギリシャ劇の台詞がすべて歌われていたと考えた(現在では一部が歌で、あとは語られたと考えられている)。ローマのヴァチカン図書館で古代ギリシャの聖歌の写本が発見され、それをもとに、ギリシャの詩には原則としてひとつのメロディーラインが付けられ、そのメロディーの上下の動きとリズムが、実際の詩の抑揚をなぞっていたという結論が導き出された。 音楽は言葉のしもべだったのだ。この考え方をもとに、「レチタティーヴォ」と呼ばれる、なかば話すような歌い方が生まれ、それが新たな音楽劇であるオペラの基盤となった。

18 劇的な音楽の魅力

英国人は演劇に対する愛が非常に強いらしく、イタリアのオペラを全面的に取り入れる気にはならなかったようだ。しかしこのとき、ひょっとしたら音楽史はまったく別の方向に展開していたかもしれず、それを思うと切なくなる。というのも、時代を代表する英国の作曲家であったパーセルが、36歳という若さで悲劇的な死を遂げたからだ。彼は舞台音楽だけでなく教会音楽においても大家であり、その業績は偉大である。もし彼が長生きをしていたら、『ダイドーとイニーアス』を手始めに、英国オペラの発展をリードしていたかもしれない。しかし、それは叶わなかった。

英王室でのマスク、オペラ、セミ・オペラの上演は、もちろん社会の一番上の階層に属する観客を対象としたものだった。しかし、英国ではパブリック・シアターの数が増えたため、下層階級の人々も同じ音楽を楽しむ機会があった。そのため、それまで上流階級のパトロンに頼っていた作曲家や音楽家は、それ以外の収入を得る機会を得た。劇や芝居が好きな人間の数が増えて、ロンドンが注目されるようになった。さらにそうした人々は、劇場に行くだけでなく、劇場で聴いた音楽を自ら歌ったり演奏したりしたいと思うようになった。劇音楽を書いたパーセルをはじめとする作曲家たちは、こうした新たな市場向けの音楽も提供した。そして有名な歌手たちも、歌の人気で人々を惹き付けられるよう協力した。出版社はこの新たなトレンドを早速利用し、劇場で歌われる歌やその他の流行歌の楽譜を次々と印刷し、販売したのである。

19 さまざまな楽器とオーケストラの台頭

何千年にもわたり、音楽の歴史の中で楽器は重要な役割を果たしてきた。声をともなうか否かにかかわらず、何百年ものあいだ、さまざまな文化がさまざまな楽器の使い方を発展させてきた。17世紀になると、ヨーロッパでは楽器が特に重要な役割を担うようになる。そして、楽器の使い方が、今に至ってもヨーロッパの音楽と世界中の他の音楽とを隔てる要因になっている。

17世紀には、ヨーロッパの音楽、たとえば踊りのための曲は、鍵盤楽器やリュートでも演奏できるようになっていた。また、複数の楽器がそれぞれひとつの旋律線を演奏するという形で協力し、鍵盤楽器で演奏した場合と同じ和音を奏でて、音楽の流れを作り出すこともできた。この場合、重要なのは「和音」という概念だ。ほとんどの音楽文化には、和音という考え方自体が存在しない。複数の音楽家が一緒に演奏する(または歌う)場合、彼らはそれぞれが同じメロディーを少しだけ変化させて演奏するか、それぞれの文化の慣習に従い、演奏中のメロディーと一緒に演奏するにふさわしいとされる別のメロディーを演奏するのが普通だった。また以前述べたように、協和か不協和かについては文化によって捉え方がまちまちで、一部の音楽文化は他の文化よりも不協和音をより積極的に取り入れている。しかし、異なる声部が同時に響けば、われわれが和音だと受け止めるものが必ず生じてくる。

17世紀のヨーロッパでは、和音自体が音楽の作り方の中で重要な役割を果たすようになった。和音は単にポリフォニーを奏でた結果生じるものではなく、楽曲を和音の連続と捉えた際に、楽曲の「構造」や「推移」を決定づける基本要素となった。そして、和音は楽曲の雰囲気を決定する際にも、ますます重要な役割を果たすようになる。これについては、「長調」と「短調」の和音の響きの違いを考えれば明らかだ。また、ひとつの「終止形」(カデンツ)から次の終止形へと進行する中で奏でられる一連の和音は、メロディーがどのように絡み合ってポリフォニーを形成するかを決めるひとつの要因にもなった。このように絶えず変化する和音とハーモニーが、ヨーロッパの音楽を他の音楽と異なるものにした。各地の「民俗」音楽や他の文化の音楽では、ハーモニーが刻々と変化することはない。

20 スター歌手とオペラという市場

17世紀から18世紀初頭にかけて、音楽家とその聴衆との関係は大きく変化し、音楽活動に対するお金の出所についても大きな変化があった。 ヒューマニズムの浸透とルネサンス以降に起きた社会全体の大きな変化については、これまで述べたとおりである。つまり、教会の権力の衰退、それにともなう教会以外のパトロン、特に貴族の宮廷への権力基盤のシフト、さらには商人や知的専門職階級の台頭といったことである。それにともなって、そうした人々を楽しませるためにパブリック・シアターやコンサート会場がどんどん建てられていった。しかし、こうした変化が一気に進んだわけではない。教会と貴族は依然として巨大な権力を持ち、音楽家は手を差し伸べてくれるパトロンのあいだを行ったり来たりしていた。

ここで重要なのは、スター歌手が登場してきて、17世紀以降のオペラ界が彼らを中心に回り出したことだ。そしてここで私たちは、21世紀に生きる人間から見て音楽史上もっともグロテスクだと言わざるを得ない現象に直面する。オペラの女役の多くは男のソプラノとアルトによって歌われていた。男性ソプラノはカストラートと呼ばれ、彼らは思春期を迎えて声変わりする前に去勢手術を受けた男性だった。去勢されるとボーイ・ソプラノの声を維持することができるが、大人になるにつれてその声は力強さを増し、女性の声とは異なる特性を持つようになる。

ところで、カストラートたちはどうなったのだろうか。流行が終わってその数は徐々に減っていったが、 19世紀に入っても一部のカストラートが活動を続けていた。少年歌手の去勢がイタリアで正式に禁止されたのは、1861年になってからである。ヴァチカンの聖歌隊に残っていた何人かのカストラートのひとり、アレッサンドロ・モレスキは20世紀のはじめにソロでいくつかのレコーディングを行なっている。その歌声は、なんとも不気味で一度聴いたら忘れられない。

21 宮廷および教会での作曲家の暮らし

ヘンデルが生まれた1685年には、あとふたり、著名な作曲家が生まれている。イタリアのドメニコ・スカルラッティとドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハである。3人の作曲家を見れば、従来のパトロンによる庇護と新たな音楽市場が並存していた18世紀初頭の音楽界では、置かれた状況によって作曲家の暮らしがどれほど異なるものになり得たかがよくわかる。/ヘンデルはこの3人の中でも、新しい観客層と音楽市場の可能性にすばやく対応し、それを最大限に利用したすぐれた音楽家だった。一方、その対極にあったのがスカルラッティで、彼は当時の音楽市場とほとんどかかわりを持たず、非常に限られた聴菜のために作曲した。バッハはその生涯の大半を、ドイツのルター派教会に昔ながらの形で雇われる音楽家として過ごした。オルガニストであるとともに作曲家であり、作曲の中心は教会音楽だったが、教会の外では器楽曲の作曲にもかなり力を入れた。

この頃、スカルラッティはすでに当時としてはかなり高齢と言える53 53歳になっていた。しかし、彼にはま だ実り多き年月が残されており、こうした「練習曲」は彼の業績のわずかな部分でしかない。スカルラッティのソナタのもっとも偉大な作品はその晩年に書かれており、華やかさと深みを併せ持っている。スカルラッティはもちろんイタリア人だったが、スペインのさまざまな光景や音を吸収し、自分の音楽の中で鮮やかに再現している。中でも顕著なのはフラメンコからの影響で、手と足で執拗に打ち鳴らされるリズム、激しい嘆きの歌といった要素が感じられる。彼はよく、フラメンコのギタリストがスパイスとして加えるギターの不協和音をチェンパロで再現しようとした。これは、その国でもっとも位の高い人たちのために作曲されたソナタに、貧しい人々の音楽が取り入れられた一例だと言えるだろう。スカルラッティは本来なら同時代の作曲家たちに大きな影響を与えていたはずである。しかし、こうした晩年のソナタは宮廷のごく内輪の人々にしか知られておらず、完全な形で出版されたのは、20世紀になってからだった。

歴史的な観点からすると、スカルラッティが音楽史に占めるポジションは興味深い。通常、私たちが重視するのは、その周辺およびのちの世代の作曲家にもっとも大きな影響を与えた作曲家である。では、スカルラッティのような孤高の存在をどこに位置づけたらよいのだろうか。歴史的な観点からすると、スカルラッティは重要ではないと言えるかもしれない。しかし、彼は独創性に満ちた作品を書き、それがひとたび世間に知れ渡ると、今日に至るまで音楽家からも聴染からも高く評価されているのである。

こうした目的のはっきりした作品以外にも、バッハはさまざまなジャンルの音楽の可能性を極めるための作品群を常々作曲しており、それは教材としての意味を持っていたかもしれない。1750年に亡くなったときには、「フーガの技法」という、非常に込み入った楽曲に長期にわたり取り組んでいた。この作品で、バッハはたったひとつの主題から20ほどのフーガを作り、その中でさまざまな要素を組み合わせたり発展させたりしている。対位法を駆使したこの巨大な作品では、ヒューマニズム的な関心に寄り添う18世紀の音楽の考え方よりも、音楽は神のつくった宇宙の複雑さを表現する手段だと捉える、ルネサンス以前の考え方のほうにより多くの共通点を見いだせるのではないだろうか。しかし、バッハにとって対位法への取り組みは、単なる知的な演習ではなかった。彼のすぐれたフーガの数々は、聴きとおしたときに圧倒的な充足感をもたらすという意味で、当時のいかなる器楽曲よりも強烈な人間ドラマを感じさせる音楽なのである。

同じことが、ほかのふたつの記念構的な作品にも当てはまる。チェンバロのための『ゴルトベルク変奏曲』は単一主題に基づく変奏曲で、当時のほぼあらゆる種類の音楽スタイルを取り入れており、バッハが特に好んだカノンが含まれている。一方、『平均律クラヴィーア曲集』(どの調性でも演奏できるように調律された鍵盤楽器のための曲集)は、1巻と2巻があり、それぞれ24すべての調による前奏曲とフーガで構成されている。今ではこの曲をコンサートで全曲演奏する鍵盤楽器奏者がいると聞かされたら、バッハはびっくりするだろう。もともとはひとつひとつの曲が、それぞれさまざまな音楽スタイルやテクニックを示すために書かれたと思われるからだ。

後世の音楽家たちは、バッハとヘンデルが、グルック、ハイドン、モーツアルトから、ベートーヴェン、シューベルトを経て、シューマン、メンデルスゾーン、そしてブラームス、ヴァーグナーへと続く偉大なドイツ音楽の伝統の創始者だと見るようになった。バッハとヘンデルが非凡な想像力で当時の音楽言語の枠組みを独自のやり方で押し広げたのは間違いないし、その音楽は今も高く評価されている。ふたりのために多くのスペースを割いたのはそのためだ。しかしこれまで見てきたとおり、ふたりの音楽はドイツ人だけでなく、イタリア人やフランス人の音楽家からも、同じくらい多くのものを受け継いでいる。ふたりを「ドイツ音楽」の創始者とみなす考え方は、後世の音楽ライターたちが強烈なドイツ・ナショナリズムに駆られて、熱心にロビー活動を行なった結果だと言えよう。

※訳注:ドイツ語の曲名は Das Wohltemperierte Klavier (英語では The Well-Tempered Clavier)であり、Wohltemperirte というのは、「ほどよく加減された」あるいは「気持ちのよい音律による」というような意味である。つまり、『平均律クラヴィーア曲集』という日本語の曲名は、ドイツ語の曲名の直訳ではない。

22 啓蒙思想と革命

音楽の技術と複雑さをめぐる論争がもっともしかったのはフランスである。論争の口火を切ったのは、フランスの作曲家ジャン=フィリップ・ラモーが1722年に出版した音楽理論書『自然の諸原理に還元された和声論』だった。これは、ヨーロッパで和声(ハーモニー)が進化してきたちょうどそのときに、和声の原則について解説し、さらに和声を用いて自然倍音列や音符の数学的関係性を説明しようとする試みだった。執筆に際してラモーは数学的、科学的な根拠を重視しており、こうした姿勢はその後音楽理論書を書く際の手本となった。

ルソーのもっとも重要な著作は、人間の本質と人間社会に関するもので、それがどのように発展したか、その過程で何を得て何が失われたかを描いている。そして、現代人は人間としての本質を見失ってしまったという結論を導き出した。ルソーによれば、「原始的な」人間はシンプルな生活を送っていたが、徐々に洗練と複雑化ー私たちが「文明」と呼ぶものーを目指す波が押し寄せてきて、本来持っていた性格が破壊されたのだという。シンプルなものをなんとか取り戻そうとするルソーは、「高貴な野蛮人」という考え方に行き着いた。これは原始的な生活を送ることで純粋無垢な状態を保ち、文明化されていない人間のことであり、賞賛に値するとされた。

植民地の支配者たちは、支配下に置いた人々の文化を正しく評価できなかったかもしれないが、宣教師、ライター、哲学者の中には、もっと現地の人々に寄り添った見方のできる者もいた。1768年、ルソーは「音楽事典」を出版した。「音楽」の内容は多岐に及び、(ヨーロッパの記譜法を使って記された)「中国の旋律」、「ペルシャの旋律」、そして「カナダの野蛮人の歌」などが含まれている。長きにわたり芸術を育んでくる中で、「地球上の誰もが音楽とメロディーに親しんできたが、(……)そのうちヨーロッパ人だけが和音でハーモニーを奏でる術を知っていた」とルソーは述べている。この「ヨーロッパ人だけがハーモニーを奏でる」という事実から、ルソーは驚くべき結論を導き出す。東洋や古代ギリシャの音楽が「(ハーモニー)の助けを借りずに大きな感銘を与えたのであれば、われわれのハーモニーはどう考えても粗野で野蛮な発明であり、もしわれわれが芸術の持つ真の美しさと本当に自然な音楽の美しさに対してもっと敏感であれば、今あるような音楽を追い求めることはなかっただろう」というのである。

23 アフリカから連れてこられた奴隷、流行を追うヨーロッパ

18世紀は、さまざまなものを「分類」しようとした時代であり、研究者たちは植物や動物を分類し、さらには人間の多様性を分析して、そこに隠された普遍的な真実にたどり着こうとした。人間の解剖に基づく研究が進み、異なる人種、特にヨーロッパ人とアフリカ人との違いが明らかになった。こうした研究結果は、アフリカ人がヨーロッパ人よりも「劣っている」とする一般的な見解を確認する目的で、あまりにも安易に利用された。啓蒙時代のもっとも急進的な思想家の中にも、こうした一般的な考え方の誤りを見抜けなかった人々がいた。たとえば、哲学者のヴォルテールやディヴィッド・ヒュームは、他の多くの問題では明晰な思考を展開して見せたが、アフリカ人はヨーロッパ人より劣っているとする見解を受け入れた。これについては宗教的な側面もあり、それが科学をゆがめたと言える。つまり神ははじめに人間を含む完璧な種を創り、それが長い年月を経て堕落・衰退したという考え方である。これが、現在人種差別と呼ばれるものにつながった。こうした差別に反対の声を上げる人々は昔から存在していて、19世紀にかけて奴隷制度に反対する運動が広がった。しかし、それは非常に長い戦いとなり、いまだに終わっていないと言える。

奴隷にされたアフリカの人々の音楽が、ヨーロッパの人々の注目を集めるようになるのは、19世紀も半ばに入ってからである。現代の音楽がアフリカからどれほど多くの影響を受けているかを考えると(第34章で取り上げる)、これは衝撃的な話かもしれない。しかし、アフリカ人は常に奴隷制度というゆがんだレンズを通して見られ、判断されていた。一方、通常奴隷にされることのなかったインド人や中国人、北米の先住民の音楽は、それに比べるとヨーロッパ人の興味を引く機会があったが、そうした音楽に真剣に向き合おうとする者はまれだった。ヨーロッパの社会はこの時すでにアフリカ人を自分たちより劣っている人間というカテゴリーに「分類」し、それによって奴隷制度を正当化したのである。多くのアフリカ系奴隷がいた北アメリカやカリブ海地域でさえ、彼らの音楽に関する資料は残されていない。プランテーションを監督する白人たちは、常日頃からアフリカの歌を聞いたり、踊りを目にしたりしていたはずだ。しかし、彼らの最優先事項は奴隷たちを支配下に置いておくことであり、執拗に繰り返されるリズムを持ち、踊りをともなう奴隷たちの音楽は、脅威と見なされた可能性が高い。ヨーロッパ人やアメリカの白人が、アフリカの音楽にしっかりと耳を傾けるようになるには、100年以上の月日を要した。

24 舞台上で、そして頭の中で吹き荒れる嵐

それまでの作曲家とは違うエマヌエル・バッハの「感性」は、さまざまな形で音楽に影響を与えた。絵画の分野で嵐を描くのが流行したことについてはすでに触れたが、家族の親密な様子を描くこともまた流行りだった。詩人たちは、より直接的な新しい表現方法を探していた。エマヌエル・バッハは、詩人のフリードリッヒ・ゴットリープ・クロプシュトックと交流があった。クロプシュトックは詩の分野で新たな自由を模索しており、それはエマヌエル・バッハの音楽における自由で驚きに満ちた表現法に通じるものだった。

音楽と文学は同じではない。そして、文学のこうした変化に相当する動きを音楽に見いだそうとするのはいかにも安直な考えだ。しかし、こうした自由な表現と「内なる嵐」を音楽の発展段階の中で見つけたいと思うなら、目を向けるのにもっとも適した場所は18世紀末から19世紀初頭のウィーンである。ウィーンでは、音楽史上の3人の巨人、ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯が重なり合い、新たなものが創り出された。

25 「古典」の成立

18世紀末から19世紀初頭にかけて、重要な音楽の多くがウィーンで作曲されたため、後世の歴史家たちはこの時代を「ウィーン古典派」と呼ぶようになった。この時期に活躍したもっとも名高い大作曲家は、ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの3人である。しかし、この精力的に活躍した3人の音楽家に付けられた「古典派」という呼称は、いかにもそっけない響きを持つかもしれない。3人が当時の音楽表現の限界を押し広げていったやり方を考えるなら、初期の「ロマン派」と呼ぶ方がふさわしいだろう。もっとも、そうした呼称が本当に必要ならの話だが。3人はオーケストラ音楽においてはマンハイムやパリの作曲家たちの、そして鍵盤楽器のための音楽においてはエマヌエル・バッハが推し進めた新たなドラマティックな音楽スタイルの後継者だった。また、お互いから多くのことを学んだ。しかし、彼らが当時の文化や社会からどのような影響を受けたかを見れば、さまざまな事柄が時代とともに刻々と変化しつつあったことがわかる。

ハイドンはその長い人生のあいだに膨大な数の楽曲を作ったが、彼を有名にしたのはその中でも2つのジャンルである。ひとつは小規模な、もうひとつは大規模な楽曲だ。小規模なほうは弦楽四重奏曲(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ)で、実際にはハイドンがこのジャンルの創始者ではないにもかかわらず、昔から「弦楽四重奏の父」と呼ばれている。以前から人々が集まると、手もとにある楽器を適当に組み合わせて合奏を楽しんでおり、そうした際に弦楽器は特に人気があった。ハイドンが最初の弦楽四重奏曲を書いたのは1750年代のウィーンで、まさに周然集まったアマチュア・グループのためだった。この試みが成功したため、ハイドンはその後何年にもわたり、弦楽四重奏の可能性を最大限に引き出していった。

弦楽四重奏曲は、非常に多くの可能性を秘めた楽曲だ。4つの弦楽器があれば、鍵盤楽器なしでも完全な和音を奏でられる。チェロは力強いベースラインを奏で、第1ヴァイオリンはソロでメロディーを演奏したり、第2ヴァイオリンとともにデュエットを披露したりする。ヴィオラはフレキシブルで、和音のすき間を埋めたり、ヴァイオリンのメロディーをなぞったりする。ヴィオラとチェロがヴァイオリンの下で対位法的な動きを見せながらデュエットをすることもある。チェロもときおりメロディーを奏でるが、チェロに名人芸を披露する独奏楽器としての可能性が見いだされたのは、このときがはじめてだった。この時期の弦楽四重奏の魅力をひとことで言い表わすとすれば、音楽的な「対話」と言えるだろう。実際、ハイドンのごく初期の弦楽四重奏曲が1764年にパリで出版された際、その表紙には「quatuors dialogués(対話的な四重奏曲)」と記されていた。ハイドンの四重奏曲はウィーンの人々から熱狂的に受け入れられ、その後徐々にヨーロッパ中の音楽愛好家から愛されるようになった。

ハイドンは、昔ながらの対位法の技術とエマヌエル・バッハの緻密で劇的な音楽を徹底的に研究した。しかし、ハイドンにはまたユーモアのセンスと豊かな想像力があった。かくして彼は弦楽四重奏曲という楽曲を利用して、ドラマティックかつユーモラスな要素を自分が学んだ音楽に組み込んだ。

あるパリの評論家は特に「この偉大な天才が(……)、ひとつの主題からこれほど多くのものを引き出して、豊かで変化に富む展開部を作る能力」に衝撃を受けた。それはまさに、ほかでは誰も聴いたことのない、ハイドンの音楽スタイルの特徴だった。ハイドンは非常に少ない素材からひとつの楽章を構築し、きびきびとした楽器同士の掛け合いから非常にドラマティックな効果を引き出した。こうした手法は、若きベートーヴェンに影響を与えることになる(ベートーヴェンについては次章で取り上げる)。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはハイドンよりも23歳年下だが、その年齢差にもかかわらず、ふたりは親しい友人となり、音楽の世界で互いに影響を与え合った。ハイドンは、楽しく生き生きとした音楽から暗い悲劇的な音楽までさまざまな曲を書いた。モーツァルトも同じだが、ハイドンとの違いは、表面的なムードとは別に、その下でそこはかとなく忍び寄る、さまざまな感情を音楽でほのめかす手法を身につけていたことである。

義理の妹は、モーツァルトの性格をこう記している。「機嫌の良いときでさえ、物思いにふけっているようで、鋭いまなざしで人の目を覗き込みます。どんなことにもよく考えてから返答し、楽しくても悲しくてもじっと考え込み、いつもまったく新しいことに取り組んでいるように見えました」。彼の音楽も同じように聞こえることが多い。あらゆる人情の機微に通じているような印象を与えるのだ。

26 芸術家は聖職者であり、未来を見通せる存在である

ベートーヴェンのスケッチブックや草稿は、再考や再々考の跡を示す走り書き、乱黒な取り消しの跡、複数の異なる作品のアイデアがごっちゃになったメモなどで埋まっている。彼はハイドンから、断片にすぎないものを使って曲を作り上げる技法を学んだ。こうした小さなピースを積み上げるからこそ、簡単にはバラバラにならないような、論理的かつ劇的な構造物を作れるのだ。たとえば、4つの音からなる印象的なモットー主題を持つ第五交響曲の第一楽章は、まったく妥協を許さない曲作りが徹底されており、モットー主題は4楽章のすべてに繰り返し現われる。第七交響曲でも、小さなピースを積み上げる作曲法が見られるが、全体的なムードは喜びにあふれており、その凝縮されたエネルギーには逆らいがたい魅力がある。それが飛び跳ねるようなリズムの第一楽章から、熱狂渦巻くフィナーレまで持する。偉大なる第九交響曲は、合唱付きのフィナーレを持つ長大な曲で、さまざまな要素を含み、表現の幅が広く、とてもスケールが大きい。しかし、ここでもまたすべての主題は相互に関連していて、とげとげしい主題と穏やかな主題が交互に現われるが、クライマックスの「歓喜の歌』では穏やかな要素が勝利を収める。

ひとつにはその音楽ゆえに、そしてもうひとつにはその性格とその生涯にまつわる物語のせいで、ベートーヴェンは後世の人々から偶像視される存在となった。彼を手本にした場合、そこには良い影響と悪い影響があった。音楽家がベートーヴェンのように高い志を持つのは良いことだ。しかしその一方で、自らの芸術の重要性をじる者は、自分は誰にも説明責任を持たないという傲慢な姿勢に陥りやすい。19世紀初頭の「ロマン主義」を標する音楽家、詩人、画家にとって、芸術家の役割はある意味聖職者の役割とかぶるようになった。創造と精神、さらには無意識と呼ばれるものをどう理解するかという問題は、それまでは宗教の問題だったが、この時代には芸術家もまた口を出すようになった。作曲家の中でも、ベートーヴェンは自らの芸術家としての重要性を主張した最初の人物であり、その音楽でその使命の重要性をアピールした。ベートーヴェンのこのような主張はのちの世代の心に響き、作曲家たちを競わせて、よりスケールの大きなプランへと向かわせた。そして、たとえ聴衆がついてこられなくとも、新しい領域へと常に踏み出していかねばならないと考えるよう、彼らを仕向けたのである。

ベートーヴェンの二長調の大ミサ曲『ミサ・ソレムニス』を聴けば、それがヘンデルのオラトリオ、そしてバッハの『ロ短調ミサ曲」というスケールの大きな作品から影響を受けていることがよくわかる。合唱曲ならそれはある意味当然だと思われるかもしれない。しかし驚くべきは、バッハとヘンデルの精神が、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲にも宿っているということだ。難聴が進む中、ベートーヴェンは崇高な精神を忘れまいと苦闘した。ピアノ・ソナタ変イ長調作品110は、『ミサ・ソレムニス』と並行して作曲された。このソナタのふたつの緩徐楽章では、バッハの『ヨハネ受難曲』の中でイエスの死の瞬間に歌われる悲痛なアリアが引用されている。そして、ソナタの最後にはふたつのフーガが奏でられる。最初のフーガのあと、曲はバッハのアリアが抱える闇の世界へといったん戻るが、ふたつめのフーガは確に満ちた輝かしいクライマックスへと上り詰める。それはあたかも来世に向けた仰宣言のようだ。後期の弦楽四重奏曲からも、断固たる気持ちで臨んだ闘いを経て手にした、バッハ風の崇高な静けさが感じられる。

作曲家として成熟する過程で、シューベルトもまたベートーヴェンの挑戦を無視できなくなったことだ。彼の晩年の作品、たとえば大ハ長調交響曲や弦楽五重奏ハ長調などは、ベートーヴェンの強い意志を感じさせる音楽スタイルをさらに発展させて、非常に大きな広がりを持つ作品となっている。しかし、それはまた非常に個性的なスタイルであり、私たちはベートーヴェンの模倣としてではなく、シューベルトの音楽として楽しんでいる。シューベルトがこのような音楽に行き着いたのは、ひとつにはベートーヴェンの大胆極まりない音楽と、モーツァルトの心に染み入るような哀愁に満ちた音楽とを組み合わせて、独自の抒情的な音楽スタイルを創り上げたからである。

27 荘重にして軽快、崇高にして軽妙

19世紀のはじめに、喜劇的なオペラを書いて経済面でも人気の面でももっとも成功したのが、イタリアの作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニである。ロッシーニは、ウィットに富み、実利主義者で交渉術にも長けていた。ある意味、ヘンデル(イタリアオペラを得意としたドイツ人)の流れを汲む本場イタリアの作曲家と言えるだろう。ロッシーニは、人々の好みは何か、どうしたらそれを提供できるかを見抜く目と耳を持っていた。ライバルを巧みに退け、ヘンデル同様、自作の素材を異なる作品で何度も再利用した。悲劇のために作曲した序曲を喜劇に使うこともあった。

ヴァーグナーはベートーヴェン同様、自身の芸術家としての役割を真っ向から受け止めた。彼は芸術の目的を「宗教心を大事にすること」だと公言していた。これは、同じく創造的破壊者だったピアニスト・作曲家、フランツ・リストの言葉に倣ったもので、リストは「祭壇がひび割れ、崩れるとき(.....)芸術はその神殿から出でて、『光あれ』と言わねばならない」と述べている。リストとヴァーグナーはともに「未来の音楽」なるものを標榜した。これは、ベートーヴェンの革新的な業績(特に壮大な第九交響曲)を礎とし、そのうえで表現しがたいものを表現するというロマン主義の大望を実現しようとする試みだった。

ヴァーグナーは初期のオペラ、たとえば「タンホイザー」では、ヴォルフラムが歌う「夕星の歌」のような、いかにもアリアという感じの美しい曲を書いた。しかし、後期の作品、『指環』や最後の作品である『パルジファル』には、独立した「歌」はまったく見当たらない。ヴァーグナーは「歌」と思わせるような楽曲はめったに書かず、クライマックスのために取っておいたので、いざそうした「歌」が歌われると絶大な演奏効果を発揮した。たとえば、「ヴァルキューレ」の第1幕でのジークムントとジークリンデの愛の場面、同じ曲の第3幕で神々の長ヴォータンが愛想ブリュンヒルデに別れを告げる場面などだ。

ヴァーグナーの音楽はその後の音楽史に多大な影響を与えたが、そのひとつは和声機能の限界を押し広げたことだった。「ラインの黄金』の冒頭、ヴァーグナーは持続する和音の上に上昇するアルペッジョ〔和音の各音を同時にではやく、順次演奏する奏法〕を重ねて、ライン川の深い川底を表現した。一方、『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲では、ハーモニーがくねるように進行し、延々と解決が先延ばしにされることで、ふたりの恋人たちの苦悩を巧みに表現している。ハーモニーの可能性をギリギリまで押し広げたこのような作曲スタイルは、のちの作曲家に避けて通ることのできない影響を与えた。

ヴァーグナーの手法を受け入れて進むべきか否か、という問いを突きつけたのだ。ヴァーグナーがオペラの可能性を広げたように、交響曲の可能性を広げたグスタフ・マーラーは、交響曲第四番の民謡を思わせる単純明快な響きから、交響曲第九番や『大地の歌』の苦悩に満ちた暗い響きまで、ハーモニーのさまざまな可能性を模索した。

リヒャルト・シュトラウスは『サロメ』と「エレクトラ」でヴァーグナーの不協和音の可能性をとことん追求し、病的なまでの熱狂と暴力を舞台上に生み出した。

アルノルト・シェーンベルクは、ハーモニーの従来の機能そのものを放棄し、彼なりの論理的帰結を目指した。

ヴァーグナーとリストが駆使したライトモティーフと主題変容の技法は、これまで言及してきたように、その後多くの作曲家に受け継がれた。19世紀の終わり頃には、おもな作曲家はみな、ヴァーグナーの考え方や作曲技法の中から、自分の利用可能な部分を吸収したと言えるだろう。もっとも彼らは、自分の個性や国民性を維持しながらそれを行なうことができた。ヴァーグナーの影響を一部受け入れながら、一定の安全な距離を保った作曲家としては、ヴェルディ、チャイコフスキー、スメタナ、ドヴォルザーク、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、プッチーニ、ドビュッシーなどがあげられる。彼らの多くについては、後続の章で詳しく取り上げる。

28 家庭の内と外での女性演奏家の活躍

小説家ジェーン・オースティンの家族は、ピアノ、ハープ、声楽のための楽譜をまとめたものを多数持っており、19世紀初頭に書かれた彼女の小説には、家庭内での演奏の様子が描かれている。同じような楽譜集は、アメリカ合衆国の裕福な白人の中流階級のあいだでも人気があった。中には奴隷から解放された黒人の若い女性が幸運にもそうした楽譜を手にして、時間があるときに演奏していたケースもある。

このように声に出して読むという習慣があったことをぜひ覚えておいてほしい。今日、家庭で音楽を聴くというと、録音された音楽をスピーカーやヘッドフォンで聴くことを意味する。同様に、読書と言えば、ひとりで静かに本を読む姿を思い浮かべるだろう。みなで歌を歌ったり演奏したりする昔からの習慣は、互いに読み聞かせを行なうという、時代を超えた習慣と密接に関わっているのだ。

19世紀のもっとも著名な女性ピアニストは、作曲家ロベルト・シューマンの妻であるクララ・シューマンだ。彼女の父、フリードリッヒ・ヴィークは名高いピアノ教師で、若いクララの才能に気付くや、レオポルト・モーツアルトがウォルフガングとナンネルにしたように、クララを公の場へと押し出した。しかし、クララはナンネルとは異なり、9歳でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との演奏会でデビューを飾ると、その後60年以上にわたり公の場でのキャリアを積み上げた。当時男性のヴィルトウオージ・ピアニストと肩を並べるほどの名声を獲得した女性ピアニストは彼女だけだった。結婚後、彼女は派手なショー・ピースは演奏せず、J・S・バッハからベートーヴェン、そして夫であるロベルト・シューマンの作品のように、情感に訴えかける力を持つ、深みのある楽曲をもっぱら演奏するようになる。年を重ねると、その真摯な姿勢、そして教師としての大きな名声もあり、リストなどからは音楽の「巫女」と呼ばれた。

29 聴衆を見つける

もっとも野心的な音楽祭を企画したのはヴァーグナーだ。彼が創設したバイロイト音楽祭では、ヴァーグナーの作品のみが上演された。新しいオペラハウスを建てる場所としてバイロイトを選んだものの、ヴァーグナーは莫大な建設資金を調達する必要に迫られた。これはちょうど1871年にドイツ諸国が一緒になり統一ドイツを形成した時期にあたっている。ヴァーグナーは、自身のプロジェクトを偉大なドイツのための一大事業と位置づけ、主要都市にヴァーグナー協会を設立して資金を集めた。バイエルンの王、ルートヴィヒ2世は、長年ヴァーグナーの大ファンで、この事業を可能にするための多額の融資を行なった。かくして、ヴァーグナーの新しい劇場での最初の音楽祭が1876年8月に行なわれた。音楽祭は芸術的にも社会的にも成功したものの多額の損失を出したため、ヴァーグナーはその後6年にわたり音楽祭を開くことができなかった。2回目の音楽祭では「パルジファル」が初演されたが、開催されたのはヴァーグナーが死ぬ数か月前だった。

リストの同時代人であるフレデリック・ショパンも、鉄道を利用してさまざまな場所へ演奏旅行に出かけた。ショパンはその性格からしても、リストとは非常に異なる演奏家だった。リスト同様、古い時代の木製フレームのピアノで演奏したが、その演奏はずっと親密な雰囲気を持ち、外に向かってアピールする性質のものではなかった。彼は控えめで、他人と打ち解けず、あまり健康ではなかった。そのためサロンなどの小さめの会場で演奏するのを好んだ。その演奏は繊細かつ叙情的で、彼が書いた音楽も同じである。ピアノの響きの可能性を知り尽くしており、マズルカ、ワルツ、ノクターンといった繊細かつ優美な楽曲から、非常にドラマティックなバラードまで、さまざまな曲を手がけた。

30 自国へのあこがれ

「民俗」音楽を本格的に作曲に取り入れるという考えは、かなり以前からあった。しかし、広い意味で国民的な特徴を音楽に反映するという考え方が出てきたのは、19世紀になって政治的ナショナリズムが高まりを見せたのと同時期だった。時代の経過とともに、作曲家たちは、自国に特有のスタイルを音楽の中で模索するようになる。そこで作曲家たちは、はるか昔からずっと存在してきたと思われる音楽、つまりその土地のコミュニティに昔から伝わる音楽や教会の古い音楽に目を向けた。

ロシアの若い作曲家たちは、民族性という点でより徹底した方向に向かっていた。ミハイル・グリンカは、ロシアの他の音楽家同様、ドイツとイタリアのクラシック音楽を学んで育ち、1830年代のはじめには3年間をイタリアで過ごした。しかし、イタリアの音楽スタイルで作曲しようとしても不自然だし、うまくいかないと感じた。そして、「私たち北の住人の感じ方は違う。私たちにとってなじみがあるのは、狂ったような大騒ぎか、苦い涙のどちらかだ。(…...)祖国へのあこがれが高じて、私は徐々にロシア人ならではの書き方をしようと思うようになった」と記している。グリンカはロシアの民謡の特徴――反復、簡潔なフレーズ、執拗なリズム、アジアを思わせる音階――を自作に採り入れ、まさにロシアを感じさせる音楽表現を生み出した。グリンカの主要な作品はふたつのオペラ、『イワン・スーサンニン(皇帝に捧げた命)』と『ルスランとリュドミラ』である。その鮮烈な劇的効果と大胆なコントラストにより、この2作品は、のちのロシアの作曲家がオペラを書く際の手本となった。しかし、次世代の作曲家のひとり、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、グリンカの重要性を理解したいなら、管弦楽のための小品『カマリンスカヤ』を聴けば十分だと述べている。これは速いテンポのロシア民謡に基づくシンプルな変奏曲で、グリンカがやったことと言えば、変奏ごとに楽器の音色、ハーモニー、対位法を変化させながら、何度も同じメロディーを繰り返しただけだ。これは昔ながらのロシアの楽団が結婚式で演奏する際に使うテクニックである。

グリンカの影響を受け、バラキレフは彼らに民謡(または民謡風の素材)を使って大規模な楽曲を書いてみたらどうかと提案した。ロシアの作曲家たちはさまざまなやり方で民謡を取り入れた。もっとも大胆な手法を採ったのはムソルグスキーで、強烈で荒々しい効果を演出した。また、彼はロシア語の発音に沿ってリズムを付ける独自の手法を編み出し、この試みは壮大なオペラ『ボリス・ゴドウノフ』となって結実した。

ロシアの作曲家たちが自国の民族的要素を取り込むにあたって用いたアプローチ方法は、20世紀に入っても変わらなかった。妥協を廃し、粗暴とも言えるような極端な例としては、1913年にパリで初演されてセンセーションを巻き起こしたストラヴィンスキーの『春の祭典』があげられる。この曲はほとんどすべてが民謡風の(そして実際の民謡の)素材から成り立っており、それがどんどん積み重なっていくような構造になっている。この対極にある、もっとも「西洋的」な作曲家はセルゲイ・ラフマニノフだ。彼は交響曲やピアノ協奏曲を書いており、その惑いを帯びたメロディーは、民謡とともにロシア正教会の典礼音楽の影響を受けている。ふたりの作曲家の中間に位置するのがプロコフィエフとショスタコーヴィチで、彼らの音楽は西洋音楽の交響曲の伝統をしっかりと引き継ぎつつ、そこにいかにもロシア風の要素をふんだんに盛り込んでいる。

ボヘミアの人々にとって、ロシアにおけるグリンカのような存在となったのが、ベドルジハ・スメタナである。スメタナはプラハに新たに建てられたチェコ劇場の音楽監督に任命され、1866年には彼のもっとも有名なオペラである『売られた花嫁』が同劇場で初演された。これはチェコ語で書かれたオペラで、登場人物たちはごく普通の村の人々である。当時の教養のあるボヘミアの人々と同じように、スメタナはドイツ語で教育を受けていた。母国語であるチェコ語を話すのはもっとも貧しく、教育をほとんど受けていない社会の最下層の人々だった。そのため、このオペラを書くにあたって、スメタナはチェコ語を学ばねばならなかった。

スメタナが率いていたプラハのオペラハウスのオーケストラには、アントニン・ドヴォルザークという若いヴィオラ奏者がいた。ドヴォルザークはスメタナに触発されてその後継者となり、ボヘミアを代表する作曲家へと上り詰める。父親が村の宿屋の主人兼肉屋だったたため、ドヴォルザークはスメタナと異なりチェコ語を話す環境で育った。彼はチェコの民族的な要素を、リストやヴァーグナーの「新ドイツ楽派」の自由な作風、およびベートーヴェンやメンデルスゾーンに代表される従来の「古典的」なスタイルと融合させたいと考えていた。そのドヴォルザークを支援したのが、ウィーンの音楽界に大きな影響力を持っていたブラームスである。ブラームスのおかげで、ドヴォルザークはオーストリア政府からの奨学金を得て、作曲を続けられるようになった。ドヴォルークは自分のルーツに忠実であろうとしたが、ウィーンの批評家たちは彼の音楽に含まれるボヘミアの民族的要素に対して反感を示すこともあった。

ドヴォルザークの次の世代の作曲家は、レオシュ・ヤナーチェクである。今日では、ドヴォルザークもヤナーチェクも「チェコ」の作曲家と考えられているが、ヤナーチェクはドヴォルザークの出身地であるボヘミアの東に位置するモラヴィアの出身である。ヤナーチェクは、その方言や話し方が独特のリズムを持つモラヴィアの民俗音楽に大いに魅了され、それがヤナーチェク独自の音楽スタイルを形成した。ヤナーチェクの音楽では、歌をともなわない曲でも独特の「話しているような」響きが聴き取れる。『イェヌーファ』、『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』といったオペラを聴けば、ヤナーチェクの大胆な音楽語法の全貌が聴き取れるだろう。声楽パートは限りなくレチタティーヴォに近く、これはヴァーグナーが編み出した音楽語法の魅力的なニュー・ヴァージョンと言ってよいだろう。歌はチェコ語のリズムをほぼ正確になぞり、それを支えるオーケストラパートは、その強烈で目の覚めるような色彩で聴く者を驚かせる。

20世紀に入ると、ハンガリー出身のもうひとりの作曲家、ベーラ・バルトークが、リストの弟子が教授陣に名を連ねるブダペスト音楽院に学び、リストの『ハンガリー狂詩曲』を練習していた。ところが1904年のある日、彼はハンガリーの田舎からやって来た小間使いの少女が、りんごが水に落ちたという歌詞の民謡を赤ん坊に歌っているのを耳にした。この歌は彼にとって神の啓示だった。バルトークはふだんからブダペストの通りやカフェでジプシーの音楽家の演奏に耳を傾けてきたが、このとき突然、ハンガリーの本当の音楽が聞こえてきたように感じたのである。/バルトークは学友のゾルタン・コダーイとともに、その後30年にわたり取り組むことになる活動を始める。ふたりは蓄音機を持ってハンガリーや周辺国の農村地帯をまわり、その土地の人々の歌や踊りをワックスシリンダーに録音した。これを機に、バルトーク自身の音楽は大きく変化する。複雑なリズム、執拗な反復、ときにはアラブ風の音階を持つ自由なメロディーを用い、新作の中にそうしたものをそのまま取り入れた。「原始的」なものと洗練されたもの、西洋と東洋、現代と古代を巧みに組み合わせて魅力的な音楽を書いた。

ヴォーン・ウィリアムズとバルトーク、アルベニスとシベリウスは、それぞれ遠く離れた非常に異なる国に住んでいた。しかしみな、ほぼ同じ時期に、それぞれの祖国の人々が昔から奏でてきた音楽の魅力に引き寄せられた。なぜだろうか?ひとつには、当時の政治情勢が関係している。ハンガリーは、ボヘミアやモラヴィアと同じように、不本意ながらオーストリア帝国の一員にとどまっていた。バルトークらハンガリーの作曲家にとって、「本当の」自国の音楽スタイルを見つけようとすることは、政治的な行為でもあった。そして、第一次世界大戦後にハンガリーが共産主義の独裁的な軍事政権下で苦しむようになると、こうした姿勢は政権に対する反逆行為と見なされるようになる。

作曲家が他国の文化的要素を自作に取り込む場合、それは他国の文化に対する敬意の表われ(オマージュ)と見なされることが多い。ビゼーやドビュッシー、ラヴェル、バルトークの音楽のように聴く者を納得させるような作品である場合は特にそうだろう。しかし、利用された国の音楽家とそれを利用した作曲家との関係は、実際にはそれほど単純ではない。今日、私たちは他国の文化を「取り込む」にあたって、細心の注意を払うようになっている。特に問題となるのは、ヨーロッパや北アメリカの博物館に収蔵されている物理的な「モノ」の場合だ。もちろん、音楽は「モノ」ではないので、作曲家がそれを取り上げて本来とは異なる文脈で使用したとしても、オリジナルの音楽に影響が出るわけではない。しかし、伝統文化としての音楽にも、一定の権利があると広く認められるようになった。バルトークがその歌を録音した農民たちは、どう考えても自分たちの音楽に関する「権利」について聞かされていなかったし、つい最近までは、そんなことを考えるだけでもばかげていると思われていただろう。しかし、現代社会ではそれがますます問題になってきている。作曲家は、自作の中で他国の伝統音楽を使用したり参考にしたりした場合、その国の文化団体から勝手に自作に「取り込んだ」と非難されないよう、場合によっては法的に訴えられることのないよう、細心の注意を払って仕事をする必要があるのだ。

31 西洋化と近代化

クロード・ドビュッシーは、自作の中でスペイン的な雰囲気を醸し出すのが得意だった。しかし、彼の音楽スタイルにより大きな影響を与えたのは、もっとずっと遠くからやって来た音楽だ。1889年、パリで万国博覧会が開催され、アフリカ、インド、ジャワなど世界中から音楽家たちが集まってきた。その中で、フランスの音楽家たちにもっとも強烈な印象を与えたのが、ゴングやメタロフォンなどから構成される、ジャワ島のガムラン・オーケストラだった(本書の第6章で取り上げた)。ドビュッシーはその演奏に何時間も耳を傾け、次のように述べている。「永遠に続く海のリズム、木々のあいだを吹き抜ける風の音、その他何千という自然の音が彼らの音楽院だ。身勝手な学者が書いた専門書などなくとも、そうしたものは理解できる」。

アフリカの複雑なリズムはヨーロッパの音楽に浸透していった。南アフリカでは、さまざまな国の労働者階級の音楽が混じり合い、19世紀末になると、とりわけ豊かな音楽文化が生まれる。ダイヤモンドと金を目当てに集まってきたヨーロッパとアメリカの労働者に現地アフリカの人々が加わり、それぞれの音楽が合体して、新たなスタイルのダンス音楽へと進化した。同じようなことが、南北アメリカ大陸のプランテーションでも起きており、音楽の未来に大きな影響を与えるようになる。

こうした音楽の西洋化に向けた動きの中で非常に重要な意味を持つことになったのが、1932年にカイロで開催されたアラブ音楽会議である。その目的は、現代社会で競争できるよう、アラブ音楽を「文明化」し、「広く認められた科学的原理に基づいて再構築」する方法を話し合うことだった。会議にはアラブの音楽家だけでなく、ヨーロッパから作曲家のパウル・ヒンデミットやベーラ・バルトーク、そして著名な音楽学者が参加した。会議では、微妙な音程を持つ伝統的なアラブの音階のメリット、そして調律法の関係でアラブの音階と相容れないピアノの使用が増えていることなどが討議された。バルトークなど一部の人々は、偉大なアラブ音楽の伝統を守るべきだと主張したが、その一方でヒンデミットらは、西洋音楽の調律法を取り入れることで、アラブ音楽をヨーロッパ風のポリフォニーへと発展させられると主張した。

日本では、1860年代から「近代化」が正式に国家の方針となり、伝統的な日本音楽は背景に押しやられてしまった。20世紀初頭になると、日本の作曲家は日本とヨーロッパの音楽スタイルをともに取り入れて作曲するようになり、それが今日に至るまで続いている。第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けて敗戦したのち、日本の急速な復興はすべて西洋化によって推進された。それは音楽も同様だった。日本の交響楽団、音楽家、作曲家はまもなく世界中で尊敬を集めるようになった。しかし、復興が進む中で、伝統的な日本音楽への関心もふたたび高まっていった。これは、新しい技術と古代からの風習が、日本では共存していることが大いに関係している。

32 闇の中へ

緊張と不安が支配する時代、芸術で表わされる一般の人々の気分は、暗さと明るさというまったく正反対の方向へ向かう傾向があると言えるかもしれない。当時、人々の精神生活をおおう暗い側面の探求が進んでいて、性的感情の強い働きかけと無意識の作用に関する研究がさかんに行なわれていた。ウィーンの医師で神経病学者のジークムント・フロイトは、精神分析学の創始者となり、1899年に『夢判断』を出版した。作曲家グスタフ・マーラーは、妻アルマとの結婚生活が危機に瀕したとき、フロイトに助言を求めた。

フロイトは、マーラーが心理学について驚くほどよくわかっていて、精神分析の要点を即座に理解したと報告している。常に移り変わる感情とムード、あこがれ、呼び覚まされる記憶、傷つきながらもひたすら求める解放と解決を特徴とするマーラーの音楽を聴けば、そこに「精神分析学」的な要素が詰まっているのがわかるだろう。そして、第一次世界大戦の前、作曲家としてのキャリアが終わりに近づく頃、最後のお別れを前にマーラーの音楽は、人生の大切なものを失うまいとする彼自身の壮絶な戦いを聴き手に感じさせるようになった。

交響曲第9番や未完に終わった第10番でもマーラーのこうした戦いは感じ取れるが、それがもっともはっきり現われているのは『大地の歌』(1909)である。これは中国の詩に基づくオーケストラと独唱者のための作品で、大地の美しさと人間の哀しみのもたらす痛みが美しいコントラストを醸している。曲の中では、酔っぱらいが大地の哀しみに寄せる歌から、痛切な諦めの歌まで、さまざまな心情が歌われる。最終楽章は長大で聴き手の心に強く訴える大地への「告別」の歌となっていて、もとの中国の詩の最後に、「愛する大地、春には至るところで花開き、新たな緑が萌え出でる。永遠に、永遠に、永遠に」というフレーズがマーラーの手によって付け加えられている。これはマーラーが闇と光を、そして闇と光とともに生きる人間の一生を音で描いたもっとも雄弁な作品である。

シェーンベルクはすべての音符を平等に扱い、これを「不協和音の解放」と表現した。他の作曲家の楽曲にもすでに多くの不協和音が含まれていたが、新たな「セリー音楽」ではこれを機に不協和音が当たり前になった。伝統的なハーモニーは、必要以上に過去を思い出させるがゆえに避けられた。これは、ハーモニーの原点、つまり自然倍音列からの決別と見ることができるだろう。しかしシェーンベルクは、カオスから抜け出すためにはこれが不可避であり、偉大な伝統を持つドイツ音楽の未来を安泰にするための手段だと考えたのである。

新しい音楽のための作曲技法として民謡を取り入れたバルトークは、ときに純粋に「民謡風」のスタイルでも作曲したが、その過澱なまでの厳しさを感じさせるハーモニーのせいで、音同士がぶつかり合うような響きが強調され、その音楽は民俗音楽風というよりはずっと、20世紀の現代的なトレンドを感じさせるものだった。そして、彼のぶつかり合うようなリズムは、いかなる民俗舞踊のリズムよりもずっと荒々しく複雑だった。

もし20世紀初頭の音楽界の本質を明らかにし、音楽を真に新たな方向へと導いた作品をひとつだけあげるとすれば、それはストラヴィンスキーの『春の祭典』(1913)になるだろう。これはオーケストラのためのバレエ音楽で、神々に生け贄をささげる古代の宗教儀式とそれにともなう踊りを描いている。舞台ではひとりの少女が長老たちによって生け贄に選ばれ、死ぬまで踊り続ける。題材は古代の部族文化の研究をもとにしており、ストラヴィンスキーはそれにふさわしい音楽スタイルを創造した。彼はバルトークのように民謡を収集したりはしなかったが、リトアニアの民謡をいくつか実際に引用しており、その特徴である不協和音のぶつかり合いの度合いをさらに高めている。彼は短い「民謡風」の旋律とリズムをひとつのブロックとして扱い、グリンカが考え出した手法に倣って、オーケストレーションとハーモニーを変化させながら、そのブロックを繰り返し演奏させている。しかし、ストラヴィンスキーはこの手法を極限まで推し進め、断片化と容赦のない繰り返しによって、とてつもないパワーを持つ音楽に仕上げた。

ストラヴィンスキーに影響を与えたもうひとりの先駆者がドビュッシーで、彼は和音とリズムという異なる要素を独特の方法で結び付け、そこからまったく新たな響きを生み出した。ドビュッシー自身は『春の祭典』についてストラヴィンスキーに手紙を書き、「音の帝国で許される限界をあなたがどれほど広げて見せたか、それをお伝えできることに大きな満足感を覚えています」と述べている。パリで行なわれた『春の祭典』の初演は、乱闘事件にまで発展した。しかしその原因のほとんどは、ヴァーツラフ・ニジンスキーのいかにもぎくしゃくとして荒々しいスタイルの振り付けに、バレエ愛好家の観客たちが反感を覚えたためだった。その後に行なわれたコンサートでの演奏は大成功だった。直接訴えかける音楽のパワーとエネルギーによって、聴衆はたちまち魅了された。それは今日に至るまで変わっていない。

ドビュッシーとストラヴィンスキーが主導した革命は、シェーンベルクの革命とはその性格がまったく異なっていた。ふたりの音楽言語はその根本において、依然として自然倍音列に、そしてそこから導き出される音階と和音という従来の考えに基づいている。これがときに歪められ、不協和音が付け加えられ、びっくりするような方法で異質なものが結びつけられ、そしてストラヴィンスキーの場合はさらに、執拗に繰り返される不規則なリズムの支配下に置かれた。しかし、そこには一般の音楽愛好者が今までどおり当てにできる、なじみの要素が感じられる。こうしたアプローチ方法――「馴染みのあるものを馴染みのないものに感じさせる」手法と言ってもよいかもしれない――は、従来のハーモニーを根底から覆すようなやり方で新たな音楽語法を創ろうとしたシェーンベルクの試みよりもはるかに持久力があり、最終的には影響力があったことが証明されている。

33 光を求めて

エリック・サティは、パリのキャバレーのピアノ弾きとしてスタートし、『パラード』はキャバレーの音楽を風刺を交えて再構築したような作品だった。キャバレーはドイツでも人気が出たが、その雰囲気は当初フランスに比べて比較的おとなしいものだった。しかし、第一次世界大戦後、国家と社会が破壊され、屈辱を味わったドイツで、キャバレーはダークな方向へと転じ、辛辣な風刺を特徴とするようになる。こうした雰囲気を見事に伝えるのが、劇作家ベルトルト・ブレヒトと作曲家クルト・ヴァイルのコンビによる『三文オペラ』(1928)である。これは18世紀に成功を収めた『乞食オペラ』を、犯罪が蔓延する社会の底辺の人々を登場人物として、辛辣さを込めて再構成した作品だった。

プッチーニが最後のオペラ『トゥーランドット』を未完のまま残して1924年に亡くなったとき、ストラヴィンスキーの「春の祭典』は初演から10年が経過していたし、シェーンベルクはすでに12音技法を用いて曲を書いていた。西洋音楽史上、作曲においても演奏においても、その様式やアプローチ方法がこれほど多様で、一向にかみ合わない考え方が同居していた時代はどう考えてもほかには見当たらない。しかし、20世紀初頭の音楽を変革し、もっとも強大で持続的な影響を与えたものは、音楽院ともオペラハウスともコンサートホールとも無縁であり、この時点まで音楽史に表立って影響を及ぼすことが一度もなかった階層の人々からやって来た。

34 ブルース、ラグタイムからジャズへ

プランテーションで働く奴隷たちにとっては、歌ったり、太鼓を叩いたり、手を叩きながら踊ったりするのが、彼らのあこがれや夢、宗教観などを表現するためのはけ口だった。労働のリズムに合わせて歌われる労働歌が、腰の痛みに耐えて働く苦しみを和らげるのに役立った。歌の文句は、うわべは切ない思いを歌うものであり、ときには喜ばしさを表現することさえあったが、解放奴隷のひとりであるフレデリック・ダグラスが書いているように、「すべては奴隷制度に反対する心の声であり、鎖からの解放を願う神への祈りだった」。時代を経てキリスト教に改宗する奴隷が増えると、その歌詞はキリスト教的な表現に沿ったものとなり、聖書の物語から引用されるようになった。

南北戦争のずいぶん前から、ニューオーリンズはアフリカ系アメリカ人にとって音楽の中心地だった。日曜日の午後になると、奴隷か自由人かを問わず黒人たちが広場に集まり、歌ったり踊ったりした。コンゴ・スクエアはそうした集まりの場として有名になり、はるか遠方からも人々が集まってきた。

アフリカ系アメリカ人の音楽のもっとも注目すべき特徴のひとつは、規則的に刻まれるビート(拍)に対して、メロディーはいたって自由で、規則正しいリズムから外れたり、ときにはリズムに逆らったりするような動きを見せることだ。こうした「シンコペーション」がアフリカ系アメリカ人たちの器楽の特徴となり、軍隊用のマーチ(行進曲)にも用いられた。

ラグタイムの人気が盛り上がりつつあった頃、ブルースも新たな音楽ジャンルとして人気を博するようになった。ブルースは、ラグタイム以上に抑圧されたアフリカ系アメリカ人たちの憂鬱な心情を表現した音楽である。ブルースは、ニューオーリンズのストーリーヴィルのバーや売春宿で人気が出て、観客はさまざまな種類の思いを表現する、露骨なまでにセクシュアルな歌詞を楽しんでいた。シンプルな形式を持つブルースは、繰り返される失望の中でも断固として屈しない気持ちを表現しており、12小節のメロディー、一定のパターンで繰り返される3つのコード、そして独特な「ブルー・ノート」(長音階の第3音と第7音をほぼ半音下げた音)を特徴としている。

抑圧された経験があれば誰でも偉大な音楽家になれるわけではない。音楽家には才能だけでなく、助言と練習、そして断固たる意志が必要なのだ。

トランペット・プレーヤーのルイ・アームストロングは、ニューオーリンズのカラード・ウェイフス・ボーイズ・ホームという学校のバンドリーダーから最初の指導を受けた。W・C・ハンディはアラバマ州にある黒人のための「フローレンス・スクール」という学校に通っていた。その学校にはピアノもオルガンもなく、音楽教師は(楽器の調律に使う)ピッチパイプしか持っていなかった。それでも教師は音階に含まれる音符、さまざまな調性、複数のパートに分かれて歌う技術を教え、生徒たちはクラシック音楽の曲を合唱で歌えるようになった。恵まれない環境下で献身的な教師に支えられた経験を多くの音楽家が持っており、もっともしっかりと支え合っているのは、何も持っていない人々だということを示している。

ブルースとラグタイムからやがてジャズが生まれるわけだが、ジャズが内包する対照的とも言える要素は、このふたつの音楽からそれぞれ受け継いだものだ。器楽としてのジャズが大衆的な人気を獲得できたのは、社会のあらゆる階層の人々に、ダンス音楽としてアピールしたからだ。

ジャズでは個人の技術を見せつけることよりも、一体感のほうが重要だった。しかし、トランペット奏者のルイ・アームストロングの登場によって、演奏スタイルの変化が一気に進んだ。彼もまたニューオーリンズ出身で、さまざまなバンドと共演し、1925年、シカゴで「ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・ホット・ファイブ」を結成する。アームストロングはその華麗なソロで知られ、ジャズの即興演奏に「競い合い」の要素を持ち込んだ。このスタイルが、その後何年にもわたって定着していく。これが――歌手と一部のピアニストを除き――ビッグバンドの時代になって、ジャズが圧倒的に「男の世界」になった要因のひとつである。

35 ビッグバンドからビバップへ

即興的なスウィングを、非常に精度の高い演奏でかせた1930年代や40年代のビッグバンドは、歴史に残る大成功を収めた。しかし、この成功によって、ビッグバンドは単に人気を獲得しただけでなく、クラシック音楽のオーケストラに匹敵するようなシリアスで洗練された演奏ができることを示すチャンスを得たのである。そして、この分野で傑出した存在となったのがデューク・エリントンであり、彼は自分のバンドのレパートリーの多くを自ら作曲した。

ベニー・グッドマンもまた、エリントンと同じようにクラシック音楽との溝を埋めたいと切望していたが、エリントンとは違い、作曲ではなくクラリネット奏者としてクラシック音楽界に受け入れられることを目指した。1938年、グッドマンはベーラ・バルトークに依頼して、クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲『コントラスツ』を書いてもらった。これは、ジャズっぽい音楽ではなく、完全にハンガリーの音楽からインスピレーションを得た楽曲である。

サクソフォン奏者のチャーリー・パーカーは大きな影響力を持つプレーヤーで、多くのミュージシャンを音楽的な実験へと駆り立てた。1939年、ギタリストと一緒に即興で演奏していたとき、パーカーは、コード(和音)の一番上の音を一番下に持ってきて新たなコードを作り、実質的にふたつの異なる調を同時に奏でるというやり方――ドビュッシー以降のクラシック音楽の作曲家たちがよく使った手法――を始めた。彼は、トランペット奏者のディジー・ガレスピーやピアニストのセロニアス・モンクといったミュージシャンとともに、この新しいアイデアを1940年代にハーレムのジャズクラブで発展させ、「ビバップ」と呼ばれる奇抜で魅力的なジャンルを作り上げた。

チャーリー・パーカーを崇拝していたミュージシャンのひとりが、トランペット奏者のマイルス・ディヴィスである。彼はクラシックの音楽学校で教育を受けたが、その教育が「あまりにホワイト」だと感じていた。そして、パーカーとガレスピーから新しい、複雑なコード変化を学び、そのうえで「新しさ」を失わずに、それをよりシンプルにする手法を模索した。かくして、より瞑想的なスタイルのジャズが生まれる。この新しい「クール」ジャズで幅広い聴衆を魅了した画期的な録音が、デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』(1959)であり、録音にはサクソフォン奏者のジョン・コルトレーン、ピアニストのビル・エヴァンスなどが参加した。録音スタジオで、デイヴィスはミュージシャンたちに特定の音階やモード、いくつかのメロディーの断片は提示したものの、従来とは異なりコード進行や歌詞は提示しなかった。その結果生まれたのは、眠りを誘うかのように動きが少なく、ごくわずかなコードのあいだを揺れ動くように進行する音楽で、ビバップのような荒々しさとは無縁であり、浮遊感のある即興演奏だった。それはジャズというよりも、インドやアラブの即興演奏を思わせる音楽だったのである。

36 弾圧への反抗

ラジオから聞こえてくる音楽は、心に安らぎを与えると同時にプロパガンダに利用される可能性もあった。顕著な例が、『リリー・マルレーン』という兵士の愛の歌だ。この曲は、ドイツの歌手ララ・アンデルセンが1939年に陽気なマーチのテンポで録音し、ドイツの兵隊たちのあいだで大変な人気となった。その後、1944年になると、枢軸国側の士気低下を狙ってアメリカが立ち上げた「士気作戦部」が、ドイツ生まれの歌手マレーネ・ディートリッヒを使って同じ曲をメランコリックな曲調で録音させ、それがドイツ中にある秘密のラジオ局から流された。ドイツ兵をホームシックにさせるうえで非常に効果的だったと言われている。

戦後、注目すべき大きな変化がいくつかあった。そのひとつは、ヒトラーが特定の種類の音楽の演奏を禁じたことに端を発するものだ。ナチスは、「劣等な」人種とのつながりを理由にジャズの演奏を禁じた。同時に、不協和音を多く含む音楽、聴き手に知的挑戦を強いるような音楽を禁止した。これはひとつには、インテリのユダヤ人音楽家――特にシェーンベルク――に対する間接的な攻撃だったが、不協和音好きの「活れた」音楽家たちにも迫害の対象が拡大した。こうした動きは現代美術への攻撃とあいまって進行した。1937年にミュンヘンで「退廃芸術」に関する展覧会が開催され、翌年には「退廃音楽」に関する展覧会も開かれた。ジャズから現代クラシック音楽の作曲家の作品まで、さまざまな音楽がやり玉にあがった。展覧会はどちらも大成功だったが、それは人々が「退廃」について学びたいと思ったからではなく、「退廃」とされた美術作品を見たり、音楽を聴いたりしたかったからにすぎない。

ロシアのスターリンも不協和音を多く含む音楽の演奏を禁じた。そして西側諸国では、ロシアとの冷戦が進むにつれて、ヒトラーとスターリンが従来の音楽語法に挑戦するような音楽を禁じたことに対する反動、とでも言うべき動きが見られるようになった。ヒトラーやスターリンが禁じた音楽は、何らかの形で自由を象徴する音楽だと考えられ、それゆえバックアップする価値があると見なされるようになった。ヨーロッパやアメリカでは政府も芸術団体も、もっとも「前衛的な」音楽を財政的に支援するという政策を採用した。つまり、理解しやすい音楽よりも前衛音楽のほうが重要だと言い出したのだ。英国では、BBCが1927年の設立以来ずっと、新しい音楽を定期的に放送していた。第二次世界大戦が終結してから1年後の1946年、BBCはもっぱらシリアスな芸術と討論を放送するための「サード・プログラム」を立ち上げた。特に1960年代には、もっとも先鋭的な作曲家たちの多くに楽曲を依頼し、それを演奏して現代音楽を積極的に支援した。

カールハインツ・シュトックハウゼンやピエール・ブーレーズといった若手作曲家のグループは、シェーンベルクとヴェーベルンの音楽原理をもとに、新たな作曲技法の開発に取りかかった。シェーンベルクと同じように、彼らは自分たちが奉する音楽原理は、主観に基づく単なるひとつの選択ではなく歴史的な必然であるという、ほとんど宗教的とも言うべき信念を貫き通した。このグループの中でもっとも明確な方針を示したのがブーレーズで、彼は「セリー」の考え方を音高(音の高さ)だけでなく、音価(音の長さ)、音質、音量、アタック(音の出だしの部分の明確さ)など音楽のあらゆる要素に当てはめた。このことで並外れて複雑で繊細な音楽が生まれた。こうした音楽では、楽曲の各構成要素は互いに独立したものとして扱われ、それぞれ異なる原理に基づいて決定され組織される。シュトックハウゼンは、ごく細かな部分から全体的な構造まで、作品のすべてが「フォルメル技法」なるものによって構成される巨大な音楽作品を作るようになった。その集大成が、1970年代に製作が始まった、7作からなる連作オペラ『光』で、その28時間に及ぶ音楽はまさにヴァーグナーに匹敵する創作意欲の表われと言えるだろう。

ケージの考え方は東洋の宗教、特に禅仏教の影響を強く受けている。禅では欲望や期待をすべて捨て去ることが目的とされる。しかし、ケージは依然として期待を捨てていない。聞かれること、反応されることを求めている。彼の場合、自己の消失は絶対にあり得ないのである。

ブーレーズは1950年代の一時期、ケージと親交があった。しかし、彼は秩序と正確さにあくまで忠実であり、作曲家としても指揮者としても、その長いキャリアを通じてそれが彼の基本理念となった。ブーレーズは1955年に初演された「ル・マルトー・サン・メートル(主なき)」で一気に名声を得た。これは、アルト歌手、フルート、ヴィオラ、ギター、ヴィブラフォン、打楽器のための連作歌曲集である。解説者たちは、ブーレーズが複雑で精妙な手法を使って音列を操作していると論じた。しかし、その様子を耳で感じ取ることはできない。聴に聞こえてくるのは、主題やメロディーが明確に示されず、跳躍するフレーズの断片が入り組んだような音楽である。歌の部分も同じだ。わざと音が混じり合わないように組み合わされた楽器が生み出す万華鏡的な音色効果は、東南アジアの打楽器アンサンブルを思わせる。ストラヴィンスキーは『ル・マルトー・サン・メートル』を「戦後の探究期における数少ない重要な作品のひとつ」と評した。

ハンガリーでは、ジョルジ・リゲティがまずナチスの、次いでスターリンによる弾圧を経験し、1956年、ハンガリー動乱がソ連によって鎮圧されると、オーストリアに亡命した。彼は、先輩作曲家のバルトーク同様、ハンガリーとルーマニアの民俗音楽からインスピレーションを受け、加えて数学や物理学、そして最新の音楽界の動向にも興味を抱いていた。しかし、リゲティはこうした音楽の可能性を公然と追求する自由を与えられなかった。ハンガリーにいるあいだ、彼は広場で演奏する民謡の編曲という簡単な仕事をせざるを得なかったが、その一方では密かに実験的な試みを行なっており、特にピアノのための新たな作曲書法を模索していた。彼の『ムジカ・リチェルカータ』(1951~53)は、いわば作曲法の実演と言える曲で、ひとつだけの音から始めて、曲が変わるたびに音を加えていき、最終的にはオクターヴの12の音をすべて使って曲が作られる。これは、対位法、リズム、そしてピアノの音色の可能性を追求した魅力的な試みである。『ムジカ・リチェルカータ』は1969年になるまで公の場では演奏されなかった。

37 宝石をジャラジャラさせていただけますか

ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスンの3人は代の頃、リヴァプールでスキッフル・グループを立ち上げた(ドラマーのリンゴ・スターが参加したのは数年後)。スキッフルというのは、アマチュアが間に合わせの楽器などを使って即席で演奏する音楽ジャンルで、労働者階級の少年であってもすぐに参加できた。アメリカ合国で生まれた多くの音楽グループ――手作りの楽器やときには安物のギターやバンジョーを使うこともあったようだ――をまねたものである。エレクトリック・ギターの普及により、大西洋の両岸での始まったこの草の根の音楽活動から、やがてロックンロール・バンドが生まれる。

ザ・ビートルズは、ロックンロールがブルースなど黒人の音楽から影響を受けているのをよくわかっていたが、自分たちはむしろ地元に根ざしたアプローチを行なった。おもにレノンとマッカートニーが書いたザ・ビートルズの曲はシンプルながらエレガントで、ほとんどフォークソングのようなメロディーを持っている。彼らのリヴァプール訛りもあいまって、それが彼らの明確な個性になった。そして、他のロックンロールのグループと比較して、2声ないし3声からなるそのハーモニーは並外れて洗練された響きを持ち、また驚くようなコード・チェンジがちりばめられていた。そのため、それまでロックンロールを無視していたクラシック音楽の評論家たちでさえ、その魅力を認めるようになった。

ザ・ビートルズがとりわけ賢かったのは、彼らが年配の人々を脅かすことなく若者にアピールし、同時に労働者階級の出身者としてリヴァプールのルーツに忠実であることによって、人々からの倍頼を失わなかった点だ。わが家でも、家族の全員が彼らの演奏を楽しんでいた。1963年、『シー・ラヴズ・ユー』を手にしたのと同じ年、私はザ・ビートルズがテレビの「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」に出演して女王の前で演奏するのを目にした。4人は楽しそうで、ウィットに富み、生意気で、まさにイメージどおりだった。最後の曲の前に、ジョン・レノンが安い席の観客のほうを向いて手を叩くよう促し、「そして、他のみなさんは、宝石をジャラジャラさせていただけますか」と言った。そこでレノンはニヤッとして首をすくめ、父親に生意気な口を利いた少年のように尻を叩かれるのを避けるような仕草をした。それがすべてを物語っていた。ザ・ビートルズは支配者層をからかうことはあっても、彼らを本気で心配させることはなかったのである。

アメリカでは、カントリーのミュージシャンたちは、伝統的なアコースティック・ギターしか使わなかった。これは、危険でエッジが効いた都会の音楽と違い、カントリー・ミュージックが持つ、シンプルで清く正しい田舎暮らしのイメージには、アコースティック・ギターがぴったりだったからだ。

38 プロテストからポップへ

1960年、ふたりのアフリカ系アメリカ人のソングライター、ベリー・ゴーディとスモーキー・ロビンソンが、デトロイトで「モータウン」というレコードレーベルを立ち上げた。レコーディングやプロモーションの対象は、もっぱら黒人アーティストだった。最初のヒット曲となったのは、スモーキー・ロビンソン自身が率いるザ・ミラクルズの『ショップ・アラウンド』である。その後もメアリー・ウェルズ、ザ・マーヴェレッツ、ザ・スプリームス、マーヴィン・ゲイ、そして11歳で最初のレコーディングを行なったスティーヴィー・ワンダーなどのアーティストが次々とヒットを飛ばした。モータウンの音楽スタイルはアップビートと陽気さが特徴で、大衆にアピールすることでソウル・ミュージックをひとつ上のレベルに引き上げ、さまざまな障壁を乗り越えるのに貢献した。

ウッドストック・フェスティバルは単なる抗議の場だったわけではなく、新しい世代が自分たちのフラストレーションとともに未来に向けた希望を表明した、という意味で重要な音楽祭であり、現代音楽史における大きな節目と見なされている。ウッドストックで奏でられた音楽は、ハードロックから穏やかなフォーク・ミュージックまで幅広く、出演者もザ・フーからジョーン・バエズまでさまざまだった。失望感や可能性への期待をもっとも明確に表現したのはフォークソング風の歌だった。その後、ジョニ・ミッチェルがフェスティバルの精神を体現する『ウッドストック』という曲を書いた。歌詞の中では、ベトナム戦争の爆撃機が蝶に変わり、リフレインでは神がアダムとイヴを追放したエデンの園へ帰ろうと歌われ る。

2016年、ボブ・ディランはノーベル文学賞を受賞するが、それに対する反応は予想どおり賛否が分かれた。では、ジョニ・ミッチェルがノーベル賞を受賞するのを想像できるだろうか。歴史を見ると、何かと問題を抱え、行動が予測不可能な男性は、同じように才能に恵まれ、安定した生活を送る女性よりも常に注目を集めていることがわかる。実際のところ、ディランとミッチェルはいずれも、長年にわたり音楽界に大きな影響力を持ち続け、商業化の傾向がますます強まる中で、才能あるシンガーたちに真剣な歌作りを続けるよう、その背中を押してきたのである。

1960年代の抗議運動のあと、次の10年でブラック・パワーの主要音楽ジャンルとして台頭してきたのがジャマイカのレゲエだった。レゲエは、リズム・アンド・ブルースの影響とさまざまなアフリカ音楽の要素を融合させて生まれた、カリブ海発祥の音楽ジャンルのひとつである。ボブ・マーリーは『ゲット・アップ、スタンド・アップ』(1973)で、人々に自分の権利を主張して立ち上がるよう促した。『ノー・ウーマン、ノー・クライ』(1974)は彼の最初の世界的なヒット曲であり、最後にはすべてうまくいくという希望のメッセージが込められている。レゲエは、語りかけるような歌詞と繰り返されるリズムを特徴としており、そこからヒップホップやラップが生まれた。

年月を重ねるにつれて、ラップのスタイルは非常に自己主張の強いものからマイルドで人を楽しませるものまで、いろいろと変化していった。かつてはもっぱら黒人のジャンルだったが、白人の男性アーティストが登場するようになり、さらに近年では女性アーティストがどんどん増えている。とはいえ、依然として政治的な問題に対する切れ味の鋭さは変わらない。2018年のブリット・アワードでは、英国の黒人ラッパーのストームジーが、ロンドンのノース・ケンジントン地区にある高層住宅グレンフェル・タワーで発生した火災で72人が亡くなった件について、テリーザ・メイ首相の対応の不備をラップで非難した。4年後、女性の黒人ラッパー、リトル・シムズが、英国のマーキュリー賞で年間ベスト・アルバムを受賞した。パキスタンには、エヴァ・Bという女性ラッパーがいて、彼女のビデオを数百万の人々が見ている。彼女は「私はごく少数の女の子しか仕事に就けない地域の出身で、人々はラップをする少女など尊敬に値しないと考えています。そんな状況を変えたかったのです」と述べている。

ビヨンセは、自分の祖先をさかのぼると奴隷と結婚した奴隷所有者の「壊れた男女関係の家系に行き着く」と述べており、そして「過去につながって、自分たちの歴史を知ると、人は傷つくとともに美しくなる」と付け加えた。このアルバムはフェミニズムの歴史と黒人の歴史という、ふたつの問題を力強く結びつけたものとして、多くの人々から称賛された。

39 「グローバル・ヴィレッジ」の音楽

第二次世界大戦後、復興の必要性からふたたび西洋化が推し進められた。これを受けて、日本の音楽家が西洋クラシック音楽、ジャズ、ポピュラー音楽などの分野で非常に優れた結果を残すようになった。

興味深いことに、日本人は西洋人が他の方向に目を向け始めたちょうどそのときに、西洋の近代化に興味を持ち始めたと言える。1961年、「東西音楽会議」が東京で開催された。アメリカの反共産主義団体がその資金の一部を負担していた。アメリカとヨーロッパから著名な現代音楽の作曲家が何人かやって来て会議に参加し、日本の作曲家たちとアイデアを交換した。翌年にはジョン・ケージが日本を訪れ、即興演奏の新たな方向性を模索していた日本の音楽家グループとコラボレーションを行なった。

同じ頃、日本の古典芸能を存続させるべし、という声が高まった。近年では、日本と西洋それぞれの音楽的伝統が相互に影響し合い、日本の国の内外でさまざまな作品やアイデアが生まれている。日本の尺八は、その独特な音色だけでなく、瞑想や禅仏教との関わりもあって西洋で人気を博している。アメリカのミュージシャン、ジョン・海・ネプチューンは、伝統的な日本音楽からジャズ、インド由来の音楽まで、尺八で幅広いジャンルの音楽を演奏することで有名だ。

第二次世界大戦以降、世界的に注目を集めた日本の作曲家と言えば武満徴の名があげられる。彼はまず、戦後の米軍占領下のラジオ放送で西洋音楽を知り、特に現代音楽に魅了された。当時、彼は自分が日本文化から疎外されているように感じており、日本の伝統音楽をよく知らなかった。その後、日本の操り人形浄瑠璃芝居「文楽」の音楽に目覚め、これがきっかけとなって、日本と西洋のそれぞれの音楽的要素を組み合わせて自分の音楽を書くようになった。

2012年には、韓国のポップスター、PSY(サイ)による『カンナム・スタイル』という曲が世界でもっとも視聴されたビデオとなり、多くのパロディを生み出した。しかし、『カンナム・スタイル』という曲自体、もともと東洋と西洋それぞれの音楽のステレオタイプを巧みに取り入れて作られた、K-POPのパロディーである。

最後に、「パン・アフリカ主義」、そしてそれに関連して、音楽はアフリカ大陸全体の表現手段である、という考え方に言及したいと思う。かくも広大な地域をひとつに束ねる、このような考え方にはたして意味があるだろうか。こうした考えを推進した人物のひとりが、ナイジェリア出身のフェラ・クティだ。クティはロンドンでトランペットを学び、1963年に新たに独立国家となったナイジェリアに戻ってきた。さまざまな音楽 ジャズ、カリプソ、ファンク、アフリカの複数の伝統音楽からの影響をミックスさせてバンドを結成し、当時から自身の音楽を「アフロビート」と呼んでいた。

40 昨日、今日、そして明日

こうした問題はこの事例にとどまるものではない。20世紀のある時点まで、コンサートで演奏される曲目には、聴衆が理解できる音楽語法で作曲された新作が、それなりの割合で含まれているのが普通だった。ところが20世紀後半になると、教師から「妥協しない」スタイルで作曲するよう常々言われてきた若手作曲家の多くが、コンサート用に新作を委嘱されたものの、再演の機会を見いだすのに非常に苦労するという状況が生まれた。一方、音楽を愛する一般の人々は、不協和音がいつ終わるともなく続く楽曲に親しみを覚えることがどうしてもできなかった。その結果、クラシック音楽界では、コンサートで取り上げられるのも、録音されるのも、楽譜が売れるのも、もっぱら過去の偉大な作曲家の楽曲ばかりという「博物館文化」が栄えるようになったのである。

従来のクラシカルな音楽スタイルの曲を書く作曲家たちは、今日ではもっぱらスペシャリストとして活動している。テレビや映画以外の分野としては、合唱音楽があげられる。合唱団というのは多くがアマチュアであり、当然ながら不協和音だらけの音楽と一晩中格闘する気はない。そのため合唱音楽の作曲家たちは、過去100年のモダニズムを回避し、従来のクラシカルな音楽スタイルの範囲内で悠然と仕事をしている。ジョン・ラターはそうした作曲家のひとりで、キャロルなどの彼の合唱曲は非常に人気がある。スコットランドの作曲家、ジェームズ・マクミランは宗教的な合唱音楽で称賛されており、彼の作品の多くは特定の合唱団のために書かれたものだ。ウェールズ出身の作曲家、カール・ジェンキンスは、クラシックの音楽教育とジャズ・ロックのグループでの経験をうまく組み合わせ、大規模な「クロスオーバー」合唱曲を生み出した。2000年の作品『武装した男:平和のためのミサ』は、プロとアマチュアの合唱団がこぞって演奏する人気曲だ。

シェーンベルクは「大多数の人間の敵意は常に、知的世界で未知の領域に突き進もうとする者たちに向けられる」と述べている。しかし、大衆がいつも芸術の世界の挑戦を拒絶するわけではない。書店には現存作家による著作がたくさん並べられている。演劇の世界では最新作を見ようと、熱心な一般のファンが劇場に殺到し、現代アーティストの展覧会を見るために人々が美術館に詰めかける。こうした新しい作品はさまざまな挑戦の結果である。しかし、こうした挑戦は音楽のモダニズムにおける挑戦とは異なり、作家やアーティストが、一般の人々との接点を失ってはいけないということを、しっかりと理解したうえで行なわれているのだ。

2019年にある調査が行なわれ、174人の作曲家が、音楽史上トップ50に入ると自分の思う作曲家の名をあげるよう求められた。その中で、もっとも高く評価された現役の作曲家(17位)は、フィンランド出身のカイヤ・サーリアホだった。彼女はシェーンベルク後の厳格なセリー音楽を奉する教師のもとで学んだが、伝統的なハーモニーやメロディーと関わりを持たない音楽は空虚だと気付き、「何かを否定しながら音楽を書きたくない」と述べている。サーリアホは、ブーレーズが率いるパリのIRCAMで電子解析技術を用い、さまざまな楽器の「音響スペクトル」、つまり各楽器の特徴的な音色を作り出している倍音の構成を分析した。それを使って、徐々に変化していく、濃密で魅力的な――基本的に不協和ではあるが、過度に不協和ではない――音の「雲」を作り出す手法を開発した。2016年、サーリアホは、ニューヨークのメトロポリタンオペラで自作が上演される史上ふたりめの女性作曲家となった。

もうひとり、もっとも重要な現代の作曲家としてよく名前をあげられるのが、タタール系ロシア人のソフィア・グバイドウーリナだ。スターリン圧政下のソビエト連邦で育った彼女は、両親にさえ自身の強い僧仰心を隠さねばならなかった。グバイドゥーリナの音楽は、スピリチュアルな性格が顕著である。彼女は「音楽は(……)私たち人間をもっとも高い場所に近づけてくれます。音楽という芸術は、宇宙やこの世界に存在する神秘や法則に近づき、直接触れる力を持っているのです」と述べている。不協和音を恐れることなく用いるのは他の作曲家と同じだが、彼女の場合はそれを破壊的な力を持つもの、ハーモニーやメロディーがその存をかけて闘いを挑む相手であるかのように扱っている。もっとも驚嘆すべき作品のひとつに『深き淵より』という曲がある。これは、ロシアのアコーディオン(バヤン)のために書かれた曲で、苦しげな息遣いから、低いうめき声、咆哮する不協和音、恍惚とした歌声まで、あらゆるものを想起させる音が奏でられる。

人類は何百万年ものあいだ、音楽を作り続けてきた。そして、そのあいだずっと自分たちが置かれた状況にふさわしい音楽を作り出す方法を模索してきた。音楽は常に人間にとって基本的な表現手段であったし、私たちの健康と幸福に不可々なものだ。そして、未来がどのようになろうとも、音楽は私たちとともに進化を続けていくだろう。

若い読者のための音楽史 (Yale University Press Little Histories) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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