Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

柴田南雄『音楽史と音楽論』岩波書店(岩波現代文庫)

柴田南雄のスケールの大きさ,視野の広さがよくわかる一冊。『若い読者のための音楽史』と似たような本でありながら,モノが違う。日本人が日本人に向けて書いている――放送大学での講義がベースになっている――ということもあって,日本の歴史を軸に据えながら,通時的記述と共時的記述とを組み合わせている。

「作曲様式と演奏様式との間に平行関係が存在する」というところが特に興味深いし面白く読めた。

はじめに

放送大学における音楽学の講義

ヒトは太古から、生活の中でさまざまな形で、音楽と関わってきた。その様相を探究するのにはいくつかの方法があるが、その一つは、古代から現代までの歴史的な時間の経過の中で、諸文明の音楽がどのように変遷したかを調べることであり、他の一つは、いま地球上の各地に生活している諸民族はそれぞれ、どんな音楽を所有しているかを明らかにすることである。この二つの方法を、それぞれ放送大学における「音楽史と音楽論」(テレビ)および「民族音楽」(ラジオ)の二つの講義に反映させた。

通時的な見方においても、諸文明の音楽を時の流れの中で共時的に比較することは必要であり、また、共時的な考察の中にも、それぞれの民族の音楽の過去における変遷を無視することはできない。本講「音楽史と音楽論」では、主として音楽の通時的な発展を追跡するが、しかし、従来の音楽史研究のように、その対象を日本音楽、東洋音楽、西洋音楽、と限定せず、日本を中心におきながら、時代に応じて東洋諸国や西洋諸国のそれを共時的に比較しながら、記述を進めることにした。

「音楽史と音楽論」について

われわれが西洋音楽の歴史を学ぶ際には、一般の西洋史や、科学史や、経済史などを学ぶ場合とは、やや異なる方法、態度がとられてもよいのではないか。否、むしろそれが必要であり、自然であると思われる。なぜなら、一般の諸学科が主として概念的な知識と、その体系化の方法を学ぶのに対して、音楽史の場合はその実体である音楽作品が、すでに先回りしてわれわれの感性に、心情に、すでに何らかの形で影響し、作用し、いわば予備条件を作り上げているからである。

「音楽史と音楽論」における時代区分について

本書の記述をおおむね、次の方針によって進めることとした。すなわち、世界の諸民族の音楽史を万遍なく探索するのでなく、音楽考古学の対象である古代にあっては、日本に焦点をあて、われわれの音楽感覚のルーツを探索しつつ、しかもなるべく世界の過去の諸文明の音楽にも広く触れる。また、古代から中世にかけては、東洋先進諸国の音楽と揺籃時代の西洋音楽に等しく目をくばりながら、それらと日本の音楽史との比較考察を行う。 そして近代以後、現代にかけての音楽状況については、なるべく西欧と日本とに等分に焦点をあてることとした。つまり、われわれの音楽文化への直接の影響が稀薄な地域については触れることは避け、いわば、各章ごとに、一方の目で古代から現代までの日本の音楽史を、もう一方の目で、われわれの過去と現在の文化に関係の深い、同時代の東洋や西洋の音楽史を、同時に観察しようとするわけである。

1 外来音楽と日本人

『日本』へのヒトの渡来と音楽的祖先

いま日本の音楽文化の深層を探り、また、現代の日本人の音楽性や将来の日本音楽の動向を考察するに当たり、われわれも日本人の起源について、最少限の予備知識をもっている必要があろう。

信濃追分などの追分節はモンゴルのオルティンドー(長歌)と呼ばれる歌と酷似しており、また韓国の民謡には日本民謡とよく似たものがある。沖縄の歌に特徴的な音階の中には、中国南部の少数民族や台湾の山地民族の歌との関連を示唆するものがある。おおまかな観点からは、それはインドネシアのペロッグ音階と呼ばれるものや、ビルマのタソョウ音階とも類似していむ。このような事実は、有史以前の日本に、さまぎまな方面から、さまざまな言語と生活様式を持った人々が渡来した事実を暗示している。

音楽史に特有の構造について

西洋芸術音楽に見られるサイクル現象であるが、本書では、西洋芸術音楽の時代区分を、次真に示した簡明な画期法によることとする。これは、その下段に示した区分すなわちドイツの音楽史家モザー Hans Joachim Moser(一八八九~一九六七)が、彼の「音楽辞典」の中で提示した区分に基づくものである。この区分法はヨーロッパの各国を平均的に、粗大な観点から観察した結果で、イタリアとか北ドイツなどと地方を限定すると例外が続出するが、そうした細部にこだわらずに西洋芸術音楽を総体的に概観するには、きわめて都合のよい画期法である。

これによると西洋芸術音楽はほぼ二世紀ごとに様式を更新していることがわかる。一般に、芸術上のある様式が最盛期に達し、成熟の頂点から次第に衰退に向かうと次の新しい様式が発生してくるのは、洋の東西を問わずあらゆる芸術に共通のことではあるが、それが西洋芸術音楽では二〇〇年というほぼ同一の周期で現れるのは興味ふかい。

2 音楽文化の深層を探る

縄文文化の日本の楽器

縄文時代は日本人の文化の深層であり、いわば民族としての意識下の世界である。今日のわれわれはそこにどのような音楽的事象を見るであろうか。

諸外国の古代の楽器

西洋は何といっても音楽国なので、旧石器時代の発掘品にも、これは楽器として考えることはできまいか、という配慮がなされる。しかし日本では従来、明らかに石笛あるいは琴などの出土品が、考古学の領域からは否定的な見解が出され、認知に時間のかかる事例があったし、現にある。それを思うと、過去の出土品の中に、楽器やその断片が他の目的の用具に分類されたり、用途不明品に分類されているものがあることも考えられる。日本からはまだ発見されていない骨笛をはじめ、石製の打楽器類、土器製の鼓の類なども、いずれは発見され記録されることだろう。

3 祭祀の音楽

弥生・古墳時代の日本の楽器

朝鮮半島南部から北九州方面に、縄文人とは異種の長身の人々が渡来して、水稲の耕作をはじめ機織り、金属器などを持ち込み、新たな文化を定着させたのが弥生時代の始まり、というのが従来の定説であったが、それらの人々は揚子江南方地域のいわゆる照葉林帯からの、漢民族ではない人々で、それが九州方面に直接にもやってきたし、朝鮮半島南部にも行き、一部はそこから九州に再上陸したのであろうとされ、しかしその時期は縄文時代晩期にまで遡る、と考えられるようになった。さらに、古墳時代の後期、すなわち四世紀後半に、東北アジアの騎馬民族が朝鮮半島を経由して<日本)に到来し、これが支配者となった、とする江上波夫氏の騎馬民族説(一九四八)に拠るならば、そこに、弥生・古墳時代を通じて、一つの重要な画期の線が引かれねばならないであろう。それは次の世紀の仏教伝来の先触をなす大きなイヴェントに違いない。

同時代の中国の音楽

中国に目を転じると、時代はほぼ秦の始皇帝(在位BCニニー~BC二一〇)につづく前漢(BC二〇二~AD八)、後漢(二五~二二〇)、晋(二六五~三一六)、北魏(三八六〜五三四)、宋(四二〇~四七九)をへて、隋(五八一~六一八)までにあたる。まず秦代は、儒教の衰退につれ正楽も振るわなかったが、漢代には復活し、また五行の舞が作られ、楽器類も三〇種を数えるに至った。

同時代の西洋の音楽

次に弥生・古墳時代、東洋以外の世界の先進文明国ではどのような音楽があったろうか。西アジア、東欧、西欧はギリシャ未期のいわゆるヘレニズム文化(BC三三六~BC三〇ごろ)からローマ帝国(BC一五~AD三九五)の時代であり、西欧ではさらにカール大帝(即位は八〇〇)までのキリスト教的古代を含む時期、すなわち一般の西洋音楽史の書物の最初のページに該当する年代を含んでいる。

ごく初期のころのキリスト教音楽は、ギリシャ語聖歌、ユダヤ教讃歌をとり入れた単旋律の歌が基調となっていた。

この時代の音楽論としては、中世キリスト教の偉大な教父で、前記アンブロジウスに洗礼を受けたアウグスティヌス(三五四~四三〇)の六巻から成る「音楽論」(三八九~三九一ごろ)が重要であり、音楽の機能や音の物理的性質、人間の音に対する心理や生理にまで言及している。

この時代までは、ギリシャの音楽論がまだ脈々としてキリスト教世界に流れているのを実感する。しかしまた、ギリシャから中世に至るまでの音楽観は、今日の西欧における音楽の概念や存在の仕方のなかに、明らかに色濃く残存している。即ち、音楽は単なる感覚の楽しみのための娯楽ではなく、音による秩序であり、調和の知識であり、学芸の一分科である、という考えである。

以上のように、日本の弥生時代・古墳時代に相当するBC三世紀からAD六世紀ごろまでの音楽は、世界各地の文明度の差に伴って、原始宗教的、シャーマニズム的、あるいはより進んだ諸宗教の差はあるが、それらの祭祀の音楽がほとんどであった。器楽(石笛や楽弓、琴)は神おろしの異機に、歌は宗教心への誘いと揚に用いられた。とはいえ、生活のさまざまな局面とともに、恋愛、気晴らし、遊戯、狩猟、踊りなどに伴う歌や音楽も少なからず生まれていたにちがいない。

4 制度化と学習

本講の対象は飛鳥時代(五三八〜七一〇)と奈良時代(七一〇~七九四、その前半は自鳳文化、後半は天平文化)が中心であり、その前後にわたり、大陸の先進諸国から日本への音楽輸入のさかんに行われた時代を扱う。

大陸からの音楽の輸入と雅楽寮の設立

今日でも、東京、大阪など日本の大都会では、しばしばアフリカ、インドネシアの民族音楽、ラマ教の宗教音楽などの上演が行われ、FM放送の番組ではほぼ全世界のあらゆる種類の音楽を取り上げている。外からの音楽に強い関心を抱くのは昔も今も変わらぬ日本人の特性であろう。

この時代の主な楽器
雅楽と声明の伝来
西洋における聖歌の集大成と聖歌学校

目を西方に転じると、この時代はササン朝ペルシャの末期、サラセン帝国の初期であり、東欧では東ローマ帝国の初期、ヨーロッパではフランク王国のメロヴァンジアン(メロヴィング)朝、そしてカロランジアン(カロリング)朝のころである。

このように六世紀末から八世紀に至る間、ヨーロッパ各地の教会が礼拝の歌声で満たされていく様相は、日本の大和諸寺の行事が声明の歌声で荘厳されていくのと、極めてよく似た経過をたどっているように思われる。ただ、ヨーロッパでは聖歌の統合、歌唱法の統一がこの時代から行われていたのに対し、日本では、伝来のままさまざまな歌唱法が寺ごとに、少なくとも宗派ごとに多様のままに共存したと思われるが、その多彩な様相は今日にまで尾を引いている。声明の唱え方の伝承者による微妙な変化、その自由さと多様さは、グレゴリアン・チャントの比ではない。さらに、雅楽における楽器の種類の豊富さも、同時代の西欧をはるかに引きはなしていたであろう。むろんそれは、中国という先進文明の全面的な影響下にあったからであるが。

5 芸術音楽の胎動期

平安時代(七九四〜一一八五)、すなわち、ほぼ九~一二世紀の四〇〇年間の音楽が本講の対象である。西洋においては、フランク王国のシャルルマーニュ(カルル大帝、在位七六八〜八一四)の治世中、とくに同帝の西ローマ皇帝(在位八〇〇〜八一四)の時代から以後、ヨーロッパ各地にゴシック式大聖堂がさかんに建てられつつある時期までである。それはようやくキリスト教的古代から脱した、中世の初期に相当するが、西洋音楽史では中世の単旋律聖歌の盛期から、やがてパリのノートルダム楽派あたりで大規模な多声音楽の誕生を見るころまでに相当する。日本でも西欧でも、この時代には詩や物語が多く記録され、歌われた詩やそれに関する記述も前時代にくらべてはるかに豊富な、東西ともに発展と成就の時代といえよう。

平安時代の日本の音楽

飛鳥時代・奈良時代に懸命に輸入し、学習した諸国の音楽は、平安時代に入ると整理続合され、使用されなくなった楽器は博物館入り(正倉院蔵)となり、楽曲もまた統合が行われ、次第に日本人の作曲が行われ、日本独自の曲種が生まれるようになっていた。

「枕草子」の冒頭と「紫式部日記」の冒頭には、期せずしてともに、秋になると風の音、虫の音、読経の声、梵鐘の音などであたりが満たされる情景が描かれている。それは、日本の秋が湿度が低下して物音がよく響く事実を表してもいるが、聴く、ということへの心くばり、心づかいの微妙さをそこに感じとることができる。そしてまた、西洋ふうにいわゆる楽音と騒音とを峻別するのでなく、風の音、虫の音、読経の声、燃鐘の音もまた、日本人にとっては妙なる楽の音といわば等価値であるという美意識が、ここに表れている。

西洋の単旋律聖歌・世俗歌と,多声音楽の発生

さてヨーロッパの音楽史に目を転じると、九世紀に入り、ようやく音楽に関係ある人々の名前や曲名の記録が多くなってくる。

6 諸国を行脚する音楽

本講では、鎌倉時代(一八五~一三三三)と、室町時代の前半である南北朝時代(一三三六~一三九二)のほぼ二〇〇年間を対象とする。これは日本史における中世の前半に相当し、ほぼ一三世紀と一四世紀の二世紀間である。なお、一般の日本史では鎌倉幕府成立の時点を古代と中世の区分点とし、江戸幕府の成立から近世が始まる、とするのがふつうだが、芸能史のうえでは、むしろ院政の開始(一〇八六)を中世の上限とし、室町幕府の崩壊(一五七三)をその下限と見るほうが実情に合うという見解もあることを付言しておこう。/一三、一四世紀の日本と西欧の音楽における共通した特質は、歌物を中心とするさまざまな曲種が起こり、しかし様式的な完成には至らず、一種の過渡期ないしは準備期の様相を呈することではあるまいか。

鎌倉・南北朝時代の日本の音楽
西洋のさまざまな声楽曲種と記譜法の成立

日本の一三、一四世紀には以上に見たように平曲、早歌(そうが)、田楽、猿楽といった曲種が発生し、前時代からの今様も残り、雅楽は衰えたが声明(しょうみょう)はますますさかんに行われつつあった。普化尺八の輸入もあった。それと同じように西洋の一三、一四世紀もまた、さまざまな声楽の曲種と、踊りのための器楽を生み出し、その曲譜を今に残しており、またこの時代の音楽理論書もいくつか伝わっている。

7 ルネサンス

南北朝が解消して、室町時代(一三三四~一五七三)の後半に入るが、応仁の乱につづく戦国時代(一四六七〜一五七三)、さらに室町幕府が倒れたあとの安土・桃山時代(一五七三~一六〇三)まで、即ち一五、一六の両世紀、二〇〇年あまりを本講の対象とする。第六講の初めにも触れたように、芸能史、あるいは日本音楽史のうえでは、室町時代の終わりまでを中世、安土・桃山時代と江戸時代を一括して近世と呼ぶのが実情に合うかもしれないが、ここでは西洋音楽史との比較をしながら進めていく関係もあり、前講と同様の二世紀間を画期のめやすとした。

室町,戦国,安土・桃山時代の日本の音楽

前代の発展をうけて室町時代初期に世阿弥(ぜあみ)により龍楽が大成したことは、この期間の第一の重要事であり、第二に一節切(ひとよぎり)の輸入、第三にキリシタン音楽の舶来とその影響、第四に薩摩琵琶の起こり、第五に琉球からの三味線の渡来、という大きな出来事があった。/一方、この時代の西洋の音楽界は、ルネサンス時代の多声声楽曲の花が咲き競った時代であり、また器楽曲が勃興した時代でもある。日本でも、桃山時代の華麗な芸術の開花が、ある意味では西欧のルネサンス期を思わせるものがある。

西洋ルネサンス音楽の開花

一五、一六世紀の西洋は前述のようにルネサンス音楽の開花期であり、その頂点は一五〇〇年から一五三〇年ごろまでである。そして一五五〇年以後はしばしば後期ルネサンスと呼ばれ、先進国イタリア、とくにヴェネツィアでは、すでにバロック様式に踏み込んでいる。

要するに作曲家たちが音響学的に自然な法則を発見し、その聴覚への合理的な作用の圏内で音を自在に操作する方法に到達した、といえよう。その一四三〇年代を事実上、アルス・ノヴァとルネサンスの交替期と考えてよいと思う。結局それは、作曲技法上では完全五度と長三度の重視につながるが、日本の音楽は本質的にその事実と無縁のまま今日に至っている。日本音楽では、完全四度の間隔が核音を形成し、隣接音の長短二度がそれについで重要なのである。

ルネサンス時代の西洋音楽を概観すると、一四三〇年代のデュファイらによるTDSの機能的和声法、つまり音響学的遠近法の《発見》と、同じころに成立した白色符定量記譜法によって、作曲という作業に科学的な基礎づけと、表現上の実際的な約束が成立し、いわば楽才のある者なら誰でも容易に作曲に手がつけられ、またそれが紙に書きとどめられ、印刷されて頒布され、階級の上下を問わず人々は音楽にかかわり、作られた音楽は後世に残されることになった。西洋近代の成立は、音楽世界にそのような大きな変化をもたらした。/日本には、音楽に関してこうした近代化のチャンスはなかった。

8 キリシタン音楽

日本における西洋音楽の原点は、キリシタン音楽である。西洋音楽は決して明治になって初めて渡来したのではない。本講では、布教時代のキリシタン音楽の概観を主とし、その日本音楽への影響と、最後に隠れキリシタンの《オラショ》が今日なお歌いつがれている現況に触れることにする。

ザビエルの来日とキリシタン音楽の初期
セミナリヨの創設と天正の少年使節
キリシタン音楽の日本音楽への影響

周知のようなきびしい禁教により、楽器など、遺品として痕跡をとどめるものは今日皆無である。いわゆる南蛮美術の中にそれらが描かれているが、それとても西洋の絵画の模写の可能性が大いにある。しかし、これだけ各地に広まり、浸透した西洋音楽が、当時の日本音楽に何らの影響をも及ぼさなかったはずはない。その後遺症が全くないということは、むしろ不自然であり、考えにくいことである。

今も歌いつがれる隠れキリシタンの《オラショ》

隠れキリシタンのくわしい実情については、専門書にゆずるほかないが、今日でも例えば長崎県の離島である生月には、さまざまな宗教行事を伴うキリシタン信仰が、現に生きつづけているのを見ることができる。祈禱は日本語、ポルトガル語を含む日本語、ラテン語、とさまざまでオラショと称して、旋律をもった、歌われる部分もある。なおポルトガル語もラテン語も三百数十年の口伝えの伝承の間に誰りがはなはだしいが、しかし、それらを今日のポルトガル語、今日の教会ラテン語(カトリック典礼に用いられる、イタリア語に近い読み方)を基準にしてその訛り方を云々するよりは、当時のポルトガル語の発音や、当時のポルトガル人、スペイン人宣教師によるラテン語の発音法と比較するならば、むしろ伝承の力の強さ、そのアクセントをよく保存した伝承に驚かされるのである。

9 東と西のバロック音楽

今、われわれが立っているのは、一六〇〇年という時点である。この年、日本では関が原の戦いがあり、三年後の一六〇三年、家康は征夷大将軍となって江戸幕府が始まる。同じ一六〇三年、イギリスでは女王エリザベス一世が没して、ジェームス一世のステュアート朝となる。フランスはブルボン王朝のアンリ四世(一六一〇年からはルイー三世)、ロシアはボリス・ゴドノフの治世、スペインのフェリペ三世はポルトガル王をも兼ね、イギリス・フランス・オランダでは東インド会社が設立される、といった東西ともに動きの大きくはげしい時代である。

江戸時代の音楽ではまず、劇場音楽が大きな分野を占め、一方、箏(そう)曲や三味線音楽のような室内楽もさかんになった。それらは曲種ごとに特徴を有してはいるが、総じて形式のよく整った、輪郭の明瞭な、分かりやすい音楽であり、したがって広く市民層に浸透していった。西洋では、まさにバロック音楽の時代であるが、やはり劇場音楽が大きな分野を占め、また、管弦楽は大編成のものは未発達なので、小規模な管弦楽、弦楽合奏、室内楽がさかんな時代であった。市民生活が文化の中心となりつつあり、したがって、やはり明快で分かりやすいスタイルがとられている。西洋の教会音楽の領域が日本に知けている点を除けば、彼我の状況はスタイルの相違を越えて、よく似ていると思うので、筆者は江戸時代の音楽を以前から《ニッポン・バロック》としばしば戯れに呼んでいるほどである。

さらに両者に共有の特質に具体的に立ち入ってみるならば、ともに声楽が主流であり、前時代にくらべて歌詞のもつ繊細なニュアンス、微妙な情緒の表現が可能となったこと、その間奏部分に伴奏の器楽の見せ場があること、そこから発展した独立の器楽曲があること、器楽のある音型が特定の情緒や事物を象徴的に表現すること、声楽・器楽とも演奏の名人芸を目標とすること、などを挙げることができる。またそれらと表裏一体の関係で、前時代にくらべて楽曲の規模が大きくなり、一曲の演奏時間が長くなった。

第一講の「日本音楽史上の四つのサイクル」の図(二三ページ)に見るように、平安時代に始まる伝統邦楽のカーブは、江戸時代を頂点として、放物線にそって下降をたどり、創造のエネルギーは明治時代にはほとんど枯渇する。明治以後の邦楽界には、一時的に輸入された明楽や、宮城道雄らの、洋楽の影響を受けた新日本音楽は見られるが、かつてのような、内部からの真の革新や創造は見あたらない。今日のいわゆる現代邦楽は、客観的に見て、邦楽自身の発展の成果というよりは、第二次大戦後に西洋音楽が世界音楽へと膨張し変容していく過程で、諸国の民族音楽への再評価が起こったのに伴って発生した、一つの新しい演奏様式である。

上方芸能優勢の江戸時代前半
西洋バロック音楽の盛期

バロック音楽の主流は、大規模なオペラ、オラトリオ、受難曲などであり、第二次大戦後にいわゆるバロック・ブームの名のもとに流行した器楽協奏曲、室内楽、独奏曲などは、量的にはむしろ小さい領域を占めるにすぎない。初期にモンテヴェルディ、後期にヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、テレマンといった多作家が輩出した。通奏低音と呼ばれる低音の声部が基本になる作曲様式が優越しているので、以前は「通奏低音法の時代」と称した。

10 古典派=ロマン派

本講の対象は、西洋音楽史の年代としては、古典派=ロマン派の発端からその最盛期まで、すなわち全体のほぼ三分の二に相当する時期である。伝統的な画期法では、バロック時代を終わって前古典派、古典派、ロマン派の最盛期までをカバーする時代である。いいかえると、今日、オペラ劇場や音楽会場でもっとも上演頻度の高い音楽の作られた時期である。

この時期は日本の年号では、元文から宝暦・明和・天明・文化・文政・天保・弘化・嘉永・安政・文久・慶応(途中を省略している)をへて、明治に変わるまで、すなわち江戸時代約二七〇年間の後半である。それは、一七三六年から一八六八年までのほぼ一三二年間にあたる。前講で述べたように、この時期の日本音楽には、もはや画期的な新様式の出現は見られないが、既往の諸様式の枠内での、演奏者の特性的な個人様式には見るべきものが少なくない。

元文以降,江戸時代後半の方角
東西の音楽のあり方の相違

以上、不完全ながら江戸時代後半の日本音楽界の主たる出来事を概観したが、西洋の同時代の古典派=ロマン派の音楽史に多少とも関心と予備知識のある人は、ここへきて東西の音楽のあり方が非常に大きく相違したことに改めて驚くにちがいない。仮に、西洋音楽史の筆法を基準としてこの時代の日本音楽史の記述を観察するならば、それはほとんど演奏の様式史である。西洋音楽においても、ヴァイオリンの演奏史、鍵盤音楽の演奏史は成立するが、この時代になると音楽史の主流は作曲家と作品の歴史であり、作曲家やきき手の音楽観、世界観がどのように作曲様式や題材に作用し、影響するかが興味の対象となる。音楽創作が他の精神活動の分野とならんで、同一水準での芸術創造にまで高められていた西欧にくらべると、日本の社会の中で、音楽と音楽家の与えられていた場所は、ごく限定されていた、といわざるを得ない。

この江戸時代後半の時期は、西洋ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ヴェーバー、シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンの全生産の創作期間であり、さらにりスト、ヴァーグナーの前半生の、ブラームスの初期の創造期に相当している。このほか、フランス、イタリアなどの諸国からも、多くの作曲家と作品が輩出しているし、またロシア、ボヘミア(チェコ)などからは、民族的色彩の特に豊かな作品が生まれている。

たびたび指摘してきたように、近世邦楽の真の創造的エネルギーは江戸時代前半で枯渇し、後半はおもに演奏の個人様式のうえでの洗練、繊細優美、象徴性といった面を深化徹底する方向に進んだ。あるいは、日本音楽のライフ・サイクルは中国という先進国の影響の下で、西欧のそれに比して出発が早くそれだけ終焉も早かったと見ることもできよう。

西洋音楽において、中世以来キリスト教と合理主義精神に支えられ、一筋の発展を見せてきた多声の芸術音楽のライフ・サイクルは、第二次大戦で終わりを告げ、一九五〇年代から、世界のさまざまな音楽様式をとり込んだ世界音楽の形で、新たな出発を開始している。そういう意味での西洋音楽の終末到来にくらべ、日本音楽の位相は少なくとも一世紀、あるいは二世紀先行していたと考えることもできる。

11 隆盛の絶頂と無からの出発

明治の初年から第一次大戦の終了、すなわち大正七年までを本講の対象とする。それは一八六八年から一九一八年までの五〇年間であるが、むろん必要に応じて記述はその前後の年代にも及ぶだろう。

西洋音楽は創造活動の絶頂期

いうまでもなく、西洋音楽の本格的輸入の開始がこの時期の主要主題となるが、ヨーロッパでは時あたかも、西洋音楽史上、創造活動の絶頂期にあった。/試みにこの半世紀の西洋音楽の重要な成果をあげてみると、まずヴァーグナーのオペラ「ニュールンベルクのマイスタージンガー」(一八六七完成、六八初演)、「ニーベルングの指環」の四部作、「パルシファル」、ブルックナーの「第二」以後の八つの交響曲、ブラームスの交響曲の全四曲、マーラーの全交響曲、R・シュトラウスの交響詩と交響曲のすべてと「サロメ」「ばらの騎土」など主要なオペラ、シェーンベルクの「浄夜」「グレの歌」「月に憑かれたピエロ」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、オペラ「ペレアスとメリザンド」、管弦楽曲「海」、ストラヴィンスキーの三大バレエ曲「火の鳥」「ペトルシュカ」「春の祭典」、バルトークのオペラ「青ひげ公の城」といった諸家の絢爛たる大作、問題作が、この半世紀、すなわちわが明治時代の前半の期間に作曲されている。

リアリズムの絵画が印象主義や抽象絵画へと移っていったのと時を同じくして、音楽においても、調性感が次第にあいまいな作曲様式が台頭してくる。既に述べたように長調と短調を基調とする機能的和声法は、写実の基本である遠近法と姉妹関係にある。ヴァーグナーでは不協和音を協和音に解決する時期をできるだけ引き延ばし、また転調を頻繁に行って安定した調子感を避け、シェーンベルクでは、元来何調にも属しないような組合せの和音や旋律を好んで用い、いわゆる無調の作風に行きつき(一九〇八)、ドビュッシー、スクリャービンなどもそれぞれ非調性的な音楽を書き、またそれに伴ってリズムや拍子や楽節構造も、古典派におけるような整斉感にとらわれない自由な形が好まれるようになった。

楽器の用法や編成法においても同様で、要するに従来の音楽美の規準は大きくゆらぎ、声楽曲においては、この時代に生まれた文学作品の新しい内容に応じた表現が可能となった。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」(ジロー詩)における、歌うような語るような期唱法と前例のない室内楽編成による無調的な音楽などは、その一例である。

《無》の状態からの吸収・模倣

このように、中世初期の多声楽以来、キリスト教と合理主義(とくに音響学的な合理性)のもとに発展してきた西洋音楽は、この期に至ってロマン主義精神の場と、個性の極度の発現と、それに伴う情熱の噴出により、形式は膨張し、変形し、かつてないほど多彩きわまる内容を表現し得るようになったのである。/こうした隆盛の絶頂、爛熟の極にあった西欧音楽文化を、明治の日本はほとんど《無》の状態で受容し、輸入し、吸収し、模微しようとしたのであり、その当初の受け皿として の音楽取調掛(一八七九設置、のち一時音楽取調所と称した)・東京音楽学校(一八八七設立)での伝習の困難さは、往年の雅楽寮(うたまいのつかさ)(七〇一設置)の草創時における彼我の落差どころではなかったはずである。

西洋音楽の体系の摂取と移植にもっとも必要であったと思われる作曲科が東京音楽学校に設置されたのも、実に音楽取調掛の発足から半世紀あまりをへた一九三二(昭和七)年のことであり、ようやく一九三六(昭和一一)年に最初の二名の卒業生を出している。このおくれは、邦楽界における音楽創造の伝統的な如、その領域においては、師匠の演奏様式の忠実な伝承のみが最重要事であった事実が、西洋音楽の当事者に影響したためと思われる。

作曲という行為が、当時どのように認識されていたかを示す逸話を紹介するならば、山田耕筰は東京音楽学校の声楽科を一九〇八(明治四一)年に卒業しているが、入学当初に合唱曲を作曲して同級生と歌ったところ、作曲など大それたことはすべきでない、と上級生から制裁を受けた、という逸話もそのことを物語る一例であろう。

音楽取調掛は一八八〇年にアメリカから一五種類、七九冊の楽譜を輸入しているが、その中にドイツの音楽教育者バイエルの著述にかかる教則本が二〇冊含まれており、これがピアノ学習の基本書であったと思われる。そして、まさに一世紀をへた今日、なおピアノの初歩教育にバイエルが用いられているという事実も、日本人が音楽に接するのにいかに保守的であるかを示す事例といえよう。

12 両大戦間の状況

<両大戦聞)とは、いうまでもなく第一次世界大戦の終結(一九一八年一一月)から、第二次世界大戦勃発(一九三九年九月)までの間のニー年あまりの年月を提た。しかし、ヨーロッパにおいてこそ、前後の境界の明瞭な一時代に違いないが、他の大陸、例えば南北アメリカやアジア諸国や日本では、必ずしもそれは鮮明に印象づけられる概念とはいえない。西洋音楽の全体の姿を考えても、ドイツにおけるヒトラーのナチ政府の樹立(一九三三)以後、ユダヤ系の音楽家は大量にアメリカに亡命した。例えばシェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヒンデミット、ミヨー、ブロッホ、ヴァイルなどの作曲家はみな、第二次大戦中もアメリカ合来国で休むことなく創作活動を継続した。ただしそのスタイルはアメリカ合果国における音楽生活の諸相を反映しているとはいえ、ほぼヨーロッパにおける一九二〇年代の彼ら自身のスタイルと同様と認められるので、ここでは、両大戦間の音楽状況は、第二次大戦後の新たな様式による創造が本格的に開始される一九五〇年ごろまで、おおむねひとつながりと見て、その三〇年間あまりを本講の対象とする。

西洋音楽は新古典主義の時代

第一次大戦が終わり、再び音楽の創造が開始されたとき、戦前の後期ロマン派の主観主義を排して客観的な古典主義を、戦前のぼう大な管弦楽編成でなく簡素な合奏を目ざし、音楽を夢や理想よりは日常的な営みの傍らに置こうとした。その新しい理念に立つ創作運動を、ドイツではノイエ・ムジーク(新音楽)と呼んだ。/しかし、今から振り返ると、それは真の新しさではなく、一七五〇年ごろから一九五〇年ごろまでの二世紀間におよぶ「古典派=ロマン派」の最後のステージなのであり、前講の対象であった第一次大戦直前の半世紀間に繁栄の頂点に達したのちの、もはや新鮮な創造力の枯渇した回顧の季節での創造であった。

この時期の作曲様式上、シェーンベルクによる一二音技法への到達は重要である。前講で触れたとおり、彼は「第二弦楽四重奏曲」(一九〇八)で無調の作風に到達したが、一九二一年七月、組織化された無調というべき一二音技法を、初めて「ピアノ組曲」作品二五で全面的に使用した。

シェーンベルクの一二音技法は、いわばその感覚を作曲技法に組織化したもので、一曲には一個の一二音列とその変型のみが用いられる。このような中心音のない作曲法によりながらも、後期ロマン派の表現主義に新古典的な形式主義の色合いが加味された。前記「ピアノ組曲」「管弦楽の変奏曲」(一九二八)、オペラ「モーゼスとアロン」などはいずれも厳格な一二音技法を駆使した秀作である。

この時期には周知のように、ドイツとロシアでそれぞれヒトラーとスターリンによる民族的社会主義政策の異常な高まりが見られたが、それが音楽創作にも影響し、民的な平易な作風の奨励、難解な前衛芸術への批判が両国に起こった。

日本の洋楽――その演奏と創作活動

当時の作風について、例えば前記コンクール応募作を回想してみるなら、ごく初期は学校教材音楽の観を呈し、やがてベートーヴェンの模倣から次第にロマン派のスタイルへと進み、一方では日本民謡の音階や雅楽の音色などを基調とした民族主義的な作品もあった。一二音技法(シェーンベルクの到達は一九二一年)は、この期の日本人の作品にはまだ見られない。

13 第二次大戦後の作曲界

「現代音楽」の語は、長いあいだ曖昧に用いられてきたが、ほぼ一九七〇年代以後は、第二次世界大戦後に新しく起こったスタイルの音楽に限定して用いられるようになった。

年代としてはほぼ一九五〇年以後の創造である(ただし、オペラ作品の場合は、例外的に二〇世紀前半の作品をも「現代オペラ」と呼ぶ場合がある)。さて、これに先立つ「古典派=ロマン派」時代(一七五〇~一九五〇)の末期、すなわち、二〇世紀初頭以来、アーノルト・シェーンベルク(一八七四~一九五一)は、何世紀ものあいだ優位を保っていた長調・短調の調子感を極度に拡張し、一九〇六年頃には無調音楽を、やがて一九二一年にはそれを組織化した一二音音楽を創始し、数々の大作を残した。しかし、一方一九二〇~三〇年代は、新古典主義の時代と呼ばれていることからも判るように、古典派初期の作風への回顧的な風潮が強かった。だがそれは「古典派=ロマン派」の時代に限らず、どの音楽時代においても、その末期にあらわれる共通の傾向だが、第二次大戦直後の一九二〇年代には、とくにその傾向が著しかった。

音列音楽(ミュジック・セリエル)

ともあれ、そこから生まれた最初の新様式が「音列音楽」(ミュジック・セリエル)である。その創始者はフランス人のオリヴィエ・メシアン(一九〇八~一九九二)であり、彼が一九四六年の夏、講師をしていたダルムシュタットで作曲したピアノ曲「音価と強度のモード」はこのスタイルの最初の代表作となった。この曲では、シェーンベルクでのように、音の高さ(ピッチ)だけをセリー(音列)化するのでなく、音素材の他の要素、すなわち音価(音の持続、長さでリズムを形成する。この曲では二四種)、アタック(ピアノ曲ならタッチの差異。音色に関係する。この曲では一二種)、強度(最強から最弱まで七種)の三つの要素をセリー化した。

こうした様式の出現にともない、「古典派=ロマン派」の時代の『音楽の三要素』、すなわち音楽はメロディー、リズム、ハーモニーの三者から成る、とする定義は現実と合わなくなり、新たに『五つのパラメーター』として、/音高(メロディーの要素)/持続 (リズムの形成要素)/音色(種々の楽器の音色による。ピアノ曲ならタッチの種類)/強度(ピアノからフォルテまでの諸段階)/方向(音源の方角。また、固定か移動か)/が提唱された。

初期の電子音楽

第二次世界大戦は軍事通信技術に大なる進歩をもたらし、音響の電子的発生や録音の技術を容易にした。その技術を応用して西ドイツ、ケルンの放送局のスタジオでヘルベルト・アイメルトの指揮下で一九五〇年ころから電子音楽の実験が始められた。シュトックハウゼン(一九二八〜二〇〇七)の「習作一番、二番」が一九五三年に発表され、日本では諸井誠・黛敏郎共作の「七のヴァリエーション」が一九五六年にNHKで制作された。

ミュジック・コンクレート

ケルンにおける電子音楽の実験よりむしろ早く、一九四八年からパリで、ピエール・シェフェール(一九一〇~一九九五)が、フランス放送協会実験グループを主宰して、ミュジック・コンクレート(具体音楽)の実験を開始していた。これは上記の(A)や(B)と比べても、従来の作曲という概念や思想からは程遠いもので、とくにドイツ的な音楽の観念とは背反している。いかにも戦後(アプレ・ゲール)のフランスに生まれた音楽らしいものである。これは要するに、マイクロフォンでさまざまな音を拾い、録音して、その声、騒音、楽音の別なく集められた素材音を変形したり合成するなどして、一曲の作品とするもので、初めはレコードに、後にはテープに作成された。在来の抽象的に構成された音楽とは無縁という意味で、「具体音楽」と命名された。

ここでは、いわゆる楽音という観念が無視され、それへの依存が断ち切られた点がまさに画期的である。西洋では中世以来、ひたすら、より洗練された楽音を求め続けてきたのに対して、東洋では楽音と騒音とを峻別することのないのは改めて指摘するまでもないであろう。邦楽器は西洋の楽器にくらべれば、明らかに多量に騒音含みである。シェフェールは音響技術者であって、元来は音楽家ではない。そのために、彼の発想は従来の西洋音楽の観念にとらわれることなく、自由であり得た。彼の芸術感覚は非凡で鋭い。

偶然性の音楽

アメリカの作曲家ジョン・ケージは、第二次大戦直後の作曲界に、非常に大きな影響を及ぼした。ケージはシェーンベルクに師事したにもかかわらず、彼とは全く正反対の道を進んだ。彼の偶然性の音楽、不確定性の音楽、ハプニング、図形楽譜、プリペアード・ピアノ、などの前衛的な試みは、音楽の中からヨーロッパ的な要素を排除し、いわば西欧的なエッセンスを抜き去って、音楽の非ヨーロッパ化を果たそうとする運動にほかならない。彼やその仲間の意識がどうであろうと、少なくともその当初の運動は、芸術音楽を西欧の占有物から解放し、その世界化に向かわせようとするものである。

プリペアード・ピアノというのは、ピアノの弦に木片や釘、鋲、消しゴムなどを挟み、音色と音程をさまざまに変化させるものだが、曲想や奏法と相俟って、インドネシアのガムラン音楽などを髣髴とさせる。これは、ピアノによる民族音楽の再現、より適切には、想像の民族音楽の創作である。そのための作品では、「ソナタとインタールード」(一九四八)がよく知られている。いずれにせよ、これも、音楽の非西欧化の方向にちがいない。

諸民族の音楽語法の借用

ヴァイオリンの指板や胴体を指で叩くとか、チェロの裏板を指先でこするとか、弦楽器の駒の向う側の弦を弓でひいて非常に高い音を出すなど、従来に無かった各種の奏法が現代音楽には少なくない。木管楽器には、二重音や三重音を吹かせたりするし、ピアノの鍵盤を指の代りに掌や下で、一度に押さえる奏法も珍しくなくなった。しかし、これらをたんに新奇な音を求める前衛的な試みと片づけることはできない。/こうした奏法は、いずれも非西欧の諸民族の楽器の音色、奏法、音楽観などを西洋の楽器にやらせているのであり、長期的に見るならば、音楽が専一に西欧のものであった状態から、世界音楽へと変貌していく徴候の一つと見ることができる。

ミニマル・ミュージック

ほとんどの場合、演奏会場でなく、画廊や美術館や野外で、時には夜を徹して長時間、えんえんと演奏を続ける。構成的な要素はほとんどなく、聴き手は演奏者のたんたんと作り出す音の流れに浸り、クラシック名曲を聴くのとは別の、瞑想的な雰囲気に誘いこまれる。テリー・ライリーの「in C」(一九六四)や、モートン・スボトニックの「タッチ」(一九六九)などが初期の例である。

ロマン主義の復興

14 第二次大戦後の演奏界

作曲の時代様式との平行関係

本講の目的である第二次大戦後の演奏様式の変遷を観察するに先立って、ある時代の作曲様式と演奏様式との間に平行関係が存在する事実を述べておきたい。/今日、レコードやかつて存在したピアノ・ロール(演奏の情報を巻紙に穿孔し、ピアノのアクション機構に連動させて無人演奏するもの。自動ピアノ)にその演奏が録音されている演奏家は、一八四〇年代生まれの世代から一九六〇年代生まれの世代に及んでいる。ということは、演奏家の個人様式が二〇歳前後に形成されると仮定して、少なくとも一八六〇年代から一九八〇年代までの演奏上の時代様式が、演奏家の個人様式に反映している記録と情報を、われわれは所有していることになる。その期間の作曲様式の変遷は、いうまでもなく楽譜で検証できる。その両者の間には、明らかに平行関係があり、ある時代の音楽精神、音楽観、音楽趣味、音楽への人々の嗜好は、作曲様式と演奏様式の両者に対して同じように影響力をもち、それぞれに反映するのである。従来作曲についてはともかく、演奏については、とかく音楽家の個性のみに注目して論じられる傾向があった。しかし、演奏の場合も時代様式が個人様式を規定している事実に注目したいと思う。

録音による演奏の比較

つづく世代のコルトー(一八七七~一九六二)、フリードマン(一八八二~一九四八)の場合は、作曲では後期ロマン派の最後の段階の表現主義(マーラー、シェーンベルクら)の特徴を共有しており、速度、強弱の突然の変化、細部の拡大、高音部や低音部など極端な音域の強調が目だつ。前者より一層破格であり、コルトーはしばしばミスタッチさえするが、それはシェーンベルクのシャープやフラットの多いデフォルメされた旋律を思わせる。チェロのカザルス(一八七六~一九七四)、ヴァイオリンのフーベルマン(一八八二~一九四六)、ピアノのシュナーベル(一八八二~一九五一)、指揮者のフルトヴェングラー(一八八六〜一九五四)などもこの世代に属している。もちろん、それぞれが偉大な個性の持主で、音楽の質をそれぞれ異にしていることはいうまでもないが。

次の世代の演奏様式は、その反動で、楽譜に忠実な、正確なテンポ、正確なリズム、極端を排しバランスのよくとれた、一見古典的な調和が重んじられた。主観性よりは客観性が優位に立つスタイルで、しばしば、演劇の用語を借用して新即物主義と呼ばれる。時期的には今世紀の両大戦間で、作曲における新古典主義にまさに対応している。ピアノのギーゼキング(一八九五〜一九五六)、ルドルフ・ゼルキン(一九〇三〜一九九一)、ホロヴィッツ(一九〇四~一九八九)、ヴァイオリンのシゲティ(一八九二~一九七三)、指揮のベーム(一八九四~一九八一)、セル(一八九七~一九七〇)、カラヤン(一九〇八~一九八九)などがこの世代の代表的名演奏家である。

(D)の偶然性(不確定性、即興性)はいわばへの反動であるが、ピアノのグレン・グールド(一九三二~一九八二)の画期的なバッハ演奏などはまさにこの様式の演奏面への影響であり、とくに、彼の型破りなモーツァルト演奏は、この西洋音楽の正統な嫡出子を予想外の非伝承的な演奏スタイルで扱った、という意味で、ケージの沈黙のピアノ曲「四分三三秒」の対応物である。その他、カラヤンのオーケストラ演奏も、一九六〇年代にはメンバーの即興性に賭ける奔放な様式がとられていた。その様相はベートーヴェン交響曲の全曲録音の二回目のものに記録されている。

(F)のミニマル・ミュージックに対応する演奏家は、ピアニストならブレンデル(一九三一~)や、ルプー(一九四五~)、ベロフ(一九五〇〜)といった世代のグループであり、遅目のテンポで丹念に音を拾い、決して興奮して劇的なクライマックスを作らず、いわば低カロリーの、クールな演奏スタイルである。指揮者のチェリビダッケ(一九一二~一九九六)の演奏スタイルもこれに属する。

時代の音楽様式を決定するもの

どんな作曲様式もそれぞれ出現の当座には現代音楽であった。演奏の場合も同様で、どのスタイルも例外なく当時にあっては現代感覚のひらめきを鋭く感じさせたに違いない。おそらく、それゆえに批判の対象になったものも少なくないであろう。今日でもその点は同様で、どうしても一時代前の演奏様式を身につけて円熟した巨匠の演奏スタイルが、演奏一般の評価の基準となりやすい。もちろん、作曲でも演奏でも、新しい様式そのものにつねに価値があるとはいえないが、一般的にいって、新美学よりは旧美学が一つの基準となりやすいことは否定できない。

それでは、それぞれの時代の音楽様式を決定するものは何であろうか。これに明解な答を出すのは困難だが、民族の音楽嗜好と世相(政治)の交点に生まれるポピュラー音楽が一方の牽引力になり、音楽家の生活を支えるパトロン(昔なら王侯貴族や都市の役人、今日なら放送、レコード、音楽祭など、音楽産業の主宰者、当事者)の影響力と音楽家の個性的創造力の総和(両者は相反発することもあり得る)が現実の形成力となり、伝承との複雑なからみ合いのもとに、次々と演奏様式が更新されていく、というのが実情であろう。

15 未来の展望

ヒトの年齢
世界の諸文明の年齢

日本とイギリスはともに島国であり、その上、北半球のユーラシア大陸の東端と西端の、ほぼ対称的な位置にある。つまり、それぞれモンゴロイドとコーカソイド(ユーロポイド)の最先端、または未端に位置している。ところで、古代からの日本とイギリスの音楽の歴史を比較するとき、その実態や内容は大いに相違しているが、そうした相違を超えて、両者にはある共通した性格が認められる。それは、大陸から高度に発達した音楽文化が大量に流入する時期と、政治的・社会的・文化的要因から、輸入が休止状態となる時期が交替し、その休止期間には独自な音楽文化の発展が見られる、という事実である。この原則は、上記の二つの島国に明らかに共通している。しばしば、島国の文化は吹き溜りの文化であると言われる。それは、島国は大陸のように広大な背後地を持たぬために、伝来した文化が新陳代謝することなく次々と重畳し、古いものと新しいものが雑然と同居する傾向が強いからである。

諸芸術連鎖説

イギリス人の音楽史家セシル・グレイCecile Gray(一八九五~一九五一)はその著書『音楽はどこへ行く』の中で、同国人の地質学者で考古学者のピートリー Sir Wiliam Matthew Petrie(一八五三~一九四二)の説を援用して、ある一つの文明においては、諸芸術は次々に連続して最盛期を迎えると説いた。これは興味深い着眼である。すなわち近代の西洋文明では一二四〇年ごろを頭に、建築―彫刻―絵画―文学―音楽―舞踊、の順にいわば連鎖反応的に諸芸術が栄え、この一順が終わると非芸術的な経済と技術と富の時代がきて、その文明は生命を終える、と説く。しかも、どの文明においてもこの順序に変わりはなく、エジプト文明ではBC一五五〇年ごろが、ギリシャ文明ではBC四五〇年ごろが、近代ヨーロッパ文明では前記のように一二四〇年ごろがこのサイクルの開始点であるという。グレイによるとこのサイクルは中国文明にも該当するというが、筆者は日本についても仏教伝来から江戸時代までの期間に、ほぼ、この説が当てはまると思う。

二〇世紀の後半に入ると、音楽は技術、とくにエレクトロニクスの影響を強く受け、電子音楽や電子楽器が創作にも関与するようになる。しかし、それはピートリーとグレイによれば、もはや芸術の時代が終わった後の時代の姿、ということになる。

西洋音楽史におけるサイクル現象について
気候変化と半音階様式の相関関係

こうした芸術様式に認められるサイクル現象についてさらに付言するなら、銀河系宇宙の回転運動、太陽の黒点の変化、いわゆる太陽風その他の地球外からの周期的な自然現象もまた、人間生活に、とくに音楽のような感性の芸術の様式に、大局的な影響を及ぼすにちがいないのであるが、こうした因果関係の探究はすべて将来の課題である。

音楽史のリズム論について
ヴィオラの「世界音楽史――四つの時代区分」
未来の音楽はどのような形をとるか

あとがき

さまざまな制約から、意を尽せなかった点が多いが、本書における筆者の意図を要約するなら次のようである。

  1. 日本におけるヒトと音楽の関わりの歴史を、考古学の時代から現代までたどり、これと同時代の他の諸文明の音楽にも注目した。結果としては世界音楽史のミニ版を指向する形態となったが、諸民族の音楽の歴史に満遍なく触れることは避けており、日本の音楽史を軸に、古くは主として中国大陸・朝鮮半島など、北半球の欧亜大陸の東の縁辺に位置する先進諸国の音楽文化と比較しながら考察し、中世以降は主として欧亜大陸の西の縁辺の先進諸国の音楽と直接に対比させながら記述した。

  2. その場合、直接の影響以外に、時代を同じくする日本の音楽上の事象と西欧のそれとの間に、しばしば類似の現象が存在し、いわば時代様式を共有している事例をいくつか指摘した。

  3. 音楽史におけるサイクル現象に注目し、とくに奈良時代に仏教とともに輸入された東洋先進諸国の音楽の学習と、明治の文明開化とともに入った西洋先進諸国の音楽の学習・受容のパターンとが酷似していることを指摘した。また、こうしたくりかえし現象は、西洋芸術音楽の四つの時代様式そのものをはじめ、他の種々な点にも表れていることに注目した。

  4. 第二講・第三講では、音楽考古学上の近年の成果をなるべく網羅的にとり上げ、あわせて有史以前の日本列島のヒトの動静に注目し、日本の音楽文化の深層が決して単一相ではなく、重層的である点に触れた。

  5. 西洋芸術音楽のバロック時代、古典派=ロマン派時代については、鑑賞の機会も多く、参考書も多いので、つとめて簡略に記述した。

  6. 一九世紀末以来の西洋音楽では、作曲様式の変遷と演奏様式の変遷の間には平行関係が認められ、時代様式を共有している点を第一四講で指摘した。

  7. 今日、西洋芸術音楽はキリスト教と合理主義に支えられて中世以来歩んできた一筋の発展の時代を終え、世界音楽の一部に組み込まれた形で新たな発展に向かっていることを結論的に述べた。

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音楽史と音楽論 (岩波現代文庫. 学術 ; 310) | NDLサーチ | 国立国会図書館