国民民主党が〈103万円の壁〉を持ち出して先の衆院選で大躍進したことで,この本も注目を浴びている。制度を詳細にみると〈103万円の壁〉というのは制度上存在しないらしいのだが,だからといって
こんなふうに言い切るのもちょっと違うんじゃないの? だって著者は以下のように書いているのだから:
就業調整の激化が,このような賃金率の増加によるのであれば,対策は単純である。賃金上昇の原因となっているであろう,インフレに合わせて閾値を上げれば良いからである。ここ30年以上本格的なインフレが無いため意識され難いが,税制の控除額や社会保険制度における扶養条件は物価水準に応じて調整する必要がある。というのも,担税力を均すという所得控除の本来の機能からすると,その額がインフレと共に増額されるのは当然であり,また,インフレの中で社会保険の扶養条件が固定されているのも理に適わないからである。当然,図表1-13に示すように,これまでも物価上昇にあわせて,所得控除額や扶養条件は増額されてきた。
そんな〈年収の壁〉を皮切りに,面白いトピックと深い分析が続く。日本の税制とかってなんて複雑なんだって改めて分かったり,途中数式が駆使されていて,経済学が現実の分析に使われていることに感動したり。こんなクオリティーの高い文章が雑誌――月刊誌『税務弘報』中央経済社――に連載されていたという事実にまた驚くのだが……。
- はじめに
- 第1章 「年収の壁」と配偶者控除:配偶者控除は就業調整を引き起こすのか
- 第2章 課税と労働供給:労働所得税は勤労意欲を削ぐのか
- 第3章 課税と再配分:税は格差の縮小に貢献できているのか
- 第4章 企業課税と経済活力:企業減税は経済成長を促進するのか
- 第5章 消費税と今後の税制:軽減税率は役に立っているのか
- 終章 「きちんと考える」ということ
はじめに
高度成長期のような経済成長が期待できない現代においては,税制改革は必ず誰かの痛みを伴うものになる。そこで政策当局は,国民や各種団体に対して税制改革の必要性を丁寧に説いて,税負担増への理解を求める必要がある。万人が納得できる税制改革は稀であるから,最終的には日本の民主主義制度下で許容される意思決定過程の中での政治的な判断に依らざるを得ない。しかし,そうであっても,その判断に至る過程において,事実と異なる思い込みや,根拠のない言説が影響を持つことは許容されるべきではなかろう。
第1章 「年収の壁」と配偶者控除:配偶者控除は就業調整を引き起こすのか
1.1 配偶者控除バッシング
本章では,この配者控除による「103万円の壁」を始めとした,これらの既婚女性の就労に係る「年収の壁」にかかる言説を考察する。ここでの関心ごとは配供者控除が様々な言説が示唆するように,既婚女性の就労を阻害していか否かであるが,それと同時に就労を阻害するような,税や社会保険料のしくみについても吟味していきたい。
1.2 既婚女性の年収分布
複数の異なったデータを用いた研究が示しているように,既婚女性パート就労者による給与収入の分布を見ると,その分布には100万円付近で不自然な塊を見つけることができる(大石 2003, Akabayashi 2006, Abe 2009,高橋2010,横山・児玉 2016, Yokoyama 2018,児玉2022,近藤・深井 2023)。つまり,これらの結果が示すところは,103万円の壁を巡る言説と矛盾しない。
経済学では,このような収入分布における不自然な塊のことを「集群(バンチ=bunch)」,そして,その発生を「集群化(バンチング=bunching)」と呼ぶ。
1.3 制度の確認
つまり,納税者(もしくは,主たる稼得者)の合計所得金額が1,000万円以下である世帯においては,103万円では配偶者控除の消失の効果は現れない。換言すれば,この多数を占める世帯では,配偶者(もしくは,従たる稼得者)の収入が103万円に達しても,配偶者控除の効果として屈折も離断も発生せず,配偶者控除による103万円の壁も存在しえない。したがって,敢えて当時の配偶者に関係する控除に「~万円の壁」というフレーズを使いたいのならば,国税(所得税)では「105万円の壁」,そして,地方税(個人住民税所得割)では,「110万円の壁」とするのが正しい表記であった。
その一方で,110万円以上に発生する,配偶者特別控除による離断は比較的大きい。2017年までは,110万円から130万円の間で配者の給与収入が5万円増える毎に,所得税と個人住民税所得割の配偶者特別控除が5万円ずつ減少していた。この減額は105万円での控除額の2.5倍であり,所得税と個人住民税所得割の2つに適用される。ここで,これら2つの税を合わせた限界税率は30%であるから,離断の規模は年間15,000円(=5万円✕30%)となる。
社会保険料は,所得課税のように収入が特定の閾値(所得控除の合計値)を超えた部分に課されるのではなく,収入全体に関して比例課料されるからだら。したがって,閾値(130万円)を少しでも収入が上回ると,収入増以上の社会保険料(図表1-3の設定では約15万円)が発生することになり,大きな手取りの逆転が起こることになる。
1.4 何が100万円での集群を発生させているのか
このように,税制や社会保障制度が配偶者の収入分布における集群に影響を与えている点は否定できない。しかし,100万円付近の集群に限れば,配偶者控除や配偶者特別控除のしくみを正確に理解し,さらに,2018年の配偶者特別控除の改定前後の収入分布を比較すれば,配偶者控除や配偶者特別控除が当該集群を生んでいると主張するのはやや無理があることは容易に理解できるであろう。そもそも,以下に述べるように,税制や社会保障制度以外でも,当該集群に影響を与える要因は複数指摘できる。
図表1-1や図表1-7が基づくデータはサーベイデータであり,調査対象となった個人が配布された調査票に記入した情報を利用している。記入者が正確な情報を提供しようとすると大きな負担がかかる場合が多いであろうから,大まかに100万円や50万円単位で記入することも多かろう。/例えば,図表1-1や図表1-7をよく見ると195万円超200万円以下の比率も高くなっている。また,5万円超20万円以下のようにキリの良い10万円単位の数字を含む範囲のほうが,10万円超15万円以下のように10万円単位の数字を含まない範囲より,高い度数を示している。となると,その程度は分からないにしても,面倒臭がり屋がテキトーに100万円と丸めた数字を書き込んだケースも,100万円付近の集群に貢献していると考えるのが自然であろう。
彼女たちの就業調整の主要な理由は,所得税の課税最低限に関する項目(「自分の所得税の非課税限度額(103万円)を超えると税金を支払わなければならない」)と社会保険の扶養条件に関する項目(「一定額(130万円)を超えると配者の健康保険,厚生年金等の被扶養者からはずれ,自分で加入しなければならない」)の2つである。意外なのは,それ程大きな効果を生むとは考え難い103万円の閾値が,明らかに大きな効果を生むと考えられる130万円の閾値と同程度に意識されている点である。また,この2つとも2016年から改定されていないにもかかわらず,前者のみ5%ポイント以上(全体のシェアでは2%ポイント以上)シェアを減らしているのも不自然かもしれない。
以上は,少なくなるな性が気では制度を正確に理解していない主がを示するかもしれない。加えて,総合実感調査の設計者自体も諸制度を正確に探えていないのではないかと悪念される点がある。というのも,就業調整の理由の項目に,個人住民税を理由とする項目がないからだ。既述のように年収100万円付近では,個人住民税において定額の均等割と限界税率10%の所得割の課税が始まる。そして,この効果は103万円からの超過所得に限界税率5%を課す所得税(国税)の効果よりも大きいと考えられるので,所得税のみをとり上げ,個人住民税を無視することは筋が通らない。
1.5 配偶者控除による就業調整の規模
これら4つの研究結果を総合すれば,配偶者控除・特別控除を全廃しても女性配用者の労働供給の増加率は1%にも満たないと考えられるであろう。図表1 -12の①✕②として算定できるように,既婚の女性パート労働者は全就業者の16%程度である。つまり。配信者控除・特別控除を全廃しても,全労働者の16%程度を占める女性パート労働者が,労働時間をせいぜい1%増やすかどうかという規模感になる。ここから,配者控除・特別控除の全廃によって労働供給量は増加するものの,その規模は微々たるものであることが理解できる。
1.6 結局,何が問題なのか
もちろん,労働増加の程度が軽微であったとしても,労働力が増えるに越したことはないという議論もありうる。ただし,それは控除撤廃による予算の縮小に対応したマイナスの所得効果としての結果であり,労働時間の増加によって就労収入が増えるとしても,それによって必ず既婚女性労働者(もしくはその世帯)の効用は減少する。また,100万円付近の収入を得ている既婚女性労働者は非正規労働者である点も忘れてはならない。配偶者控除・特別控除の全廃により,非正規労働者が以前よりも低賃金で長時間働かざるを得なくなる。そして,その追加的な長時間労働の見返りは,せいぜい20~30万円の収入増加にすぎない。また,配偶者控除・特別控除の廃止により夫の税額は増加する(図表1-6のケースでは約11万円の増加)ため,世帯の可処分所得で考えると,妻の労働時間増加による収入増の少なくない部分が相殺されることとなる。
配偶者控除・特別控除の見直しは「働き方改革」の柱として「女性の社会進出」と「すべての女性が輝く社会」の実現と関連づけられていたが,このような社会を,「すべての女性が輝く社会」と呼ぶのは欺瞞ではなかろうか。
しかし,就業調整の激化が,このような賃金率の増加によるのであれば,対策は単純である。賃金上昇の原因となっているであろう,インフレに合わせて閾値を上げれば良いからである。ここ30年以上本格的なインフレが無いため意識され難いが,税制の控除額や社会保険制度における扶養条件は物価水準に応じて調整する必要がある。というのも,担税力を均すという所得控除の本来の機能からすると,その額がインフレと共に増額されるのは当然であり,また,インフレの中で社会保険の扶養条件が固定されているのも理に適わないからである。当然,図表1-13に示すように,これまでも物価上昇にあわせて,所得控除額や扶養条件は増額されてきた。
重要なのは,税制と社会保険料制度の間に整合性のある,そして,理屈として筋の通った仕組みを作り上げることであろう。おそらく,この「壁」の問題は,社会保険内部の改革だけでは十分に対処できない。結局は,消費税を含む税制全体と社会保険制度の双方を考える総合的な視点に基づく改革が望まれるであろう。この点については,不完全な形ではあるが,第5章で再度,触れることにする。
第2章 課税と労働供給:労働所得税は勤労意欲を削ぐのか
2.1 税制と活力
減税が経済に活力を与えるという命題は古くから様々な場所で主張されてきた。最近では目にすることは少なくなったが,一昔前までは公的な答申や報告でもよく見られたものだった。(…)ここで「活力」という言葉に明確な定義が与えられている訳ではない。しかし,これらの言説では,税率を上げる,もしくは税率が高いまま維持することで,労働や資本などの生産要素の供給が抑制され,それが経済活動に負の影響を与えると考えられているように思われる。それでは,そのような言説を支持する理論的な議論や,データを用いた実証研究は存在するのであろうか。
2.2 税率と労働供給の反応
増税によって受取り賃金率が下がり,その結果,労働時間が変化する(後に見る通り,必ずしも労働時間が減少する訳ではない)ということは直感的に理解できる。経済学的に重要なのは,この課税を通じた労働供給の変化によって効率性が毀損されることである。この毀損を表現する場合,経済学の教科書では,既述の『世界経済の潮流』からの引用でも用いられている「歪み(distortion)」,もしくは,「厚生損失(welfare loss)」や「死荷重損失(deadweight loss)」という用語が用いられる。
この例から,労働供給が価格に敏感に反応するほど,税による非効率性の度合いが大きくなることが理解できる。逆に言うと,労働供給が賃金率に敏感に反応しないなら,それに応じて税による非効率性は小さくなることになる。
実際の労働供給は価格(受取り賃金率)の変化に対しどのように反応するのであろうか。欧米では,多くの実証研究が世帯単位のデータを用いて労働供給関数を推定し,価格への反応度(賃金弾力性)を推定してきた。その結果,次の2点が明らかになっている。①税率変化(税引き後賃金率変化)に対する就労者の労働時間の反応は,女性や高齢者では比較的大きいが,働き盛りの男性では極めて小さい。②税率変化(税引き後賃金率変化)が就労参加に与える影響は,労働時間に与える影響よりは大きい。
2.3 課税所得を用いた評価
2.4 最高税率引上げと税収
2.5 最高税率の上昇は高所得者の流出を招くのか
日本のデータを用いた本格的な実証分析が存在しないため,本来ならば,日本における税率と国外流出との関係については何も言えないかもしれないが,今回概観した海外の研究結果からでも何らかの推論は可能であろう。海外でも通用する技量をもつ個々の高所得者は,増税に敏感に反応し国外へ流出することが示唆される。しかし,国境を越えて通用する技量の持ち主達からの税収が総税収に占める規模は大きくない。また,これから増税する場合に考慮しなければならないのは,既に海外で就労している者ではなく,未だ国内に留まっている者たちである。既に見たように,そのような者達の税率への反応は,既に海外に居住している者達の反応よりかなり小さいと考えられる。特に日本人の場合,欧米の人々と比べ海外移住への金銭的・心理的コストは大きいと考えられるから,未だ国内に留まっている高スキルの高所得者の反応はこれらの研究が示す値よりも更に小さいと考えられる。したがって,日本で最高税率が上げられ,それが高所得者の域外流出に繋がるとしても,その流出の度合い自体は小さく,それが税収に大きな影響を与える程には至らないと考えるのが自然であろう。
2.6 低所得者への課税と給付
今までは高所得者への課税を議論してきたが,最後に低所得者への「課税」を扱うことにしよう。課税最低限以下の収入は課税されないため,多くの人は,低所得者に対しては,専ら給付が問題になり,所得税制の議論で低所得者を取り上げることは奇妙と思われるかもしれない。しかし,経済学的には給付は負の課税と考えられ,課税と給付は表裏一体の関係にある。また。実務的にも,低所得者への給付については,福祉事務所のような福祉サービス実施機関に任せるより。税制の枠組の中で対処し,税務署のような課税当局による「運付」で対応するほうが良いという議論もある。/海外においては,このような観点をもって低所得者への給付を加味した所得税制の設計が議論されてきた。実際に複数の国では,後述する米国の勤労所得控除のように,所得税制の改革を通じて低所得者対策が図られてきた。また,低所得者の厚生を第1に考えるのは大前提であるが,それと同時に給付・課税による低所得者の労働インセンティブのあり方にも注意が払われている。/つまり,税制と労働供給をテーマにした本章で,低所得者対策を考えることは不自然ではない。
上記の議論から分かるように,RTC〔refundable tax credits: 還付型税額控除〕の成功如何は,税務当局の執行体制に依存する。日本の文脈では,RTCから還付を受ける場合,確定申告が必要となる。しかし,多くの就労者が源泉徴収制度の対象となっている日本ではRTC制度を導入すると,いままで確定申告していなかった人々も申告することになるため,税務署の業務量が現状から大きく拡大することは容易に想像できる。日本でも就労促進的なRTCを求める声は強いが,このような税務体制の充実も伴わなければならない点に十分留意する必要がある。
補論1 労働市場における需要と供給
補論2 日本における労働供給関数の推定
第3章 課税と再配分:税は格差の縮小に貢献できているのか
3.1 税制の再配分効果は減少しているのか
近年,税による専分配効果の低下が指摘されている。ここで「再分配効果」とは,何らかの公共政策による個人所得のバラツキの縮小を意味する。したがってここでは,課税される前の個人所得のバラツキが,課税後にどのように変化するかを問うている。そして,課税後の所得分布のバラツキの縮小度合いをもって,再分配の効果が測られる。なお,個人が支払う税でも,所得税や個人住民税のような直接税や,個人が消費を行うときに課される消費税や他の物品税のような間接税がある。過去の研究をみると,多くの場合,前者の直接税(個人所得課税)の再分配効果が関心ごとになっているようだ。
日本の個人所得課税は国税たる所得税と地方税たる個人住民税からなる。日本の所得課税が対象とする所得の種類(区分)は多岐にわたり複雑であるが,経済学では,個人所得を労働提供の対価としての「労働所得」と資本提供の対価としての「資本所得」の2つに区分する。
多くの国において所得課税は,このように超過累進的に設計されている。限界税率が累進的であることは,平均税率も累進的になることを意味する。/一方,地方税である個人住民税所得割の限界税率は,2007年以降10%と一定であり,累進的ではない。しかし,個人住民税にも複数の所得控除が存在するから,その平均税率は累進的になる。ただし,既述のように,個人住民税の所除額は所得税のそれより小さいので,同じ収入でも個人住民税の課税所得の金額は所得税のそれより大きくなる。したがって,所得税を支払っていない低所得者でも,所得税の限界税率(5%)よりも高い限界税率(10%)で個人住民税を支払うという奇妙なケースも発生する。
税の累進度が高くなるほど,課税後所得(税を払った後の所得)のバラツキは,課税前所得(税を払う前の所得)のバラツキよりも小さくなる。
多くの研究では,この課税前ジニ係数から課税後ジニ係数への減少率をもって,「税の再分配効果」を表している。なお,このジニ係数の減少率はデータが揃う年毎に算定できるから,その通年的な変化を眺めることで,課税の再分配効果がどのように変化してきたかも観察できる。
このように考えると,これらの指標には一長一短がある。しかし,経年的な傾向として見るならば,所得再分配調査を用いた結果がより妥当かもしれない。つまり,この結果を用いると,税の再分配効果は継続して低下していると理解できる。/なお,2018年分以降は,高所得者に対する配者控除の廃止(第1章参照)や給与所得控除の上限の引下げなど,再分配効果を強めるであろうと考えられる一連の改正が行われている。これらの施策を正確に評価するためにも,直近のデータを利用した所得課税による再分配効果の算定が待たれるところである。
3.2 課税による再配分を阻むもの
既述のように日本の所得課税は労働所得に関しては累進的ではあるが,分離課税の対象となっている資本所得(利子所得,配当所得,株式等の譲渡益など)に関しては比例的である。既述の通り資本所得は分離課税され(ただし,配当所得は総合課税も可能),その税率は2024年現在,所得税と個人住民税を合わせて一律20%である(これに復興特別所得税0.315%が加わる)。なお,土地を資本と見做すことには議論の余地があるが,土地建物の譲渡益にかかる税事は,保有して5年以下の短期譲渡の場合39%,5年超の長期譲渡の場合20%の比例税率となる。
このような議論からは,資本所得課税の税率を労働所得課税の税率より低くすることが望ましいことが示唆される(e.g., Boadway 2012)。それを体現化したのが,労働所得に超過累進課税する一方で,資本所得に比例課税する二元的所得課税(DIT: dual income taxation)である。DITは90年代初めに北欧諸国において制度化され,現在では多くの国で実施されている。日本においても,既に見たように労働所得に対しては超過累進的に,そして,資本所得には比例的に定率で課税が行われている。
3.3 資産の世代間伝達
北村(2018)の推計によると,日本における親から子への資産移転(世代間移転)の規模は,1984年から2014年の年平均で80兆円(相続48兆円,贈与31兆円)にも達し,各年の金額は年々増加傾向にあるという。
2020年春からのコロナ禍に伴い,各国ともコロナ対策のため目額の財政赤字を計上する中で,世界の富豪上位10人はコロナ禍を利用して資産を倍増させたと報じられている。このような動向も,資産課税の強化に向けた動きを加速させている。
3.4 資産関連課税
本節では資産課税にかかる議論を整理することにするが,詳しい議論を展開する前に,幾つかの言葉を整理することにしよう。今までは特に詳しい定義もせずに,「資本」や「資産」という言葉を利用してきた。この「資本」と「資産」はほぼ同一のものとして考えて良いが,ニュアンスの違いとしては,家計が保有する資源として「資産」,そして,企業が生産活動に利用する資源として「資本」という言葉が用いられると理解しても良いかもしれない。/経済学において「資本(capital)」は,企業が利用する典型的かつ主要な生産要素の1つとしてみなされ,企業によっていまひとつの主要な生産要素である「労働(labor)」とともに用いられることで,財やサービスが生産されると概念化される。ここで「資本」とは,典型的には「設備投資」を通じて整備された諸施設・設備としてイメージされることが多い。
最近の英語圏の研究では,資本や資産にかかる複数の税をまとめて,「capital and wealth taxation」(Piketty et al. 2023)や「wealth and capital taxation」(Blanchet 2022)と呼んでいる。ここでは,そのような包括的な呼称を「資産関連課税」と訳し,伝統的な分類に従って,以下のように3つに分ける。/第1は,資本や資産が生み出す所得(運用益)を課税標準とする「資本所得課税(capital income taxation)」である。(…)第2は,資本や資産の保有額を課税標準とする「資本課税(capital taxation)」もしくは「資産課税(asset taxation)」である。(…)第3の資産関連課税は,「資産移転課税(asset-transfer taxation)」である。これは対価無しに経済主体間で移転される資産を課税客体とする。日本では,贈与税や相続税がこれにあたる。
相続税にも数々の負担軽減措置があり,相続税の課税件数は驚くほど低い。後述するように,相続税の控除額が引き下げられる2014年までは,死亡件数に占める相続税納付数の割合は5%以下であったし,引き下げ後でも8%台に留まっている。(…)このような日本の相続税で,どれくらい資産の集中を抑制できるのであろうか。残念ながら,相続税の資産分散効果を実際のデータを用いて検証した研究はないようだ。しばしば,「相続資産は相続税を通じて3代でなくなる」と主張されるが,この言節には実証的な裏付けは存在していないのである。
どのような資本関連課税を用いれば,資産格差を効果的に削減できるのであろうか。このような問いに答えるためには,長期的にわたる資産情報を含む個票データを用いて実証分析を行ったり,動学的な最適化モデルを用いて,異なった資本関連課税の下での個人資産形成の経路をシミュレートしたりする必要がある。後者に属する研究の一つが,Blanchet (2022)による数値分析である。彼は米国の経済を前提とした動学モデルを用いて,世代間移転への課税(日本でいう相続税)と保有資産への課税による資産分布への効果をシミュレートしている。米国経済を前提としているこの研究では,世代間移転に税率100%の課税を行うことで資産集中を抑制する効果は,保有資産に毎年税率3%の課税を行うことで達成できることが示されている。つまり,この研究では相続時の課税は経常的な資本保有課税ほど資産格差の解消には役立たないことが示されている。
冒頭の相続税に対する不満は,多額の資産を相続する極一部の大変恵まれた者たちの不満に過ぎないことが分かるであろう。
補論 ジニ係数
第4章 企業課税と経済活力:企業減税は経済成長を促進するのか
4.1 企業税制と民間投資
これらの法人所得にかかる法定税率を全て考慮した総合法定税率(combined statutory tax rate)は,現在では29.74%となる。この税率については以下の2点に注意しよう。第1は,法人事業税や特別法人事業税は法人税の税額を算定する際に損金算入されるので,この税率は既述の税率を単純に足し上げた数字ではない。政府文書では,この法人税の損金算入を考慮した総合税率が「実効税率」と呼ばれる場合があるが,この呼称は,この章の補論で説明する経済学的な「実効税率」と混同しやすいので注意が必要である。/第2は,既述の総合法定税率(29.74%)を算定する際に利用されている地方税率は地方税法に規定されている「標準税率」であり,実際の地方税率ではない。上限の制限はあるにしても,法人住民税や法人事業税の税率は地方が自由に設定できるため,地方が実際に設定する税率は異なっている場合もある。それに応じて,地方によって総合法定税率は異なることになる。
日本では投資促進を目的として多様な投資税額控除や加速度償却(特別償却)が提供されているが,そのような投資促進効果を検証する研究は,研究開発投資(以下,「R&D投資」と略)への税額控除に限られているようだ。
論的には,法人所得税の法定税率の引下げや各種控除の拡大等を通じた法人減税は投資を増加させ,この投資増加を通じた資本蓄積は,生産能力を向上させ,経済成長を促進すると考えられる。また,研究開発投資では全要素生産性の上昇(資本や労働の投入量を固定したときの生産性の上昇)も期待され,中長期的には更なる経済成長に貢献すると考えられる。/多くの研究は,法人課税が経済成長に与える影響を様々なデータや手法を用いて検証してきた。しかし,それらの結果は大きく異なり,統一した見解を得ることは難しいようだ。このように異なる結果を有する実証研究が多数存在する場合,メタ分析(meta-analysis)と呼ばれる手法によって,実証分析の結果にどのような要因が影響を与えているかが探られる。
法人減税の効果は,市場の反応や構造,そして,政府予算を通じた他の政策の動きに大きく依存する。実証分析において,これらの要因は交終因子として働くため,適切に減税の効果を推定するためには,これらの因子をどう統制するかが要となるであろう。
4.2 譲渡所得課税と事業活動
ロックイン(凍結)効果とは,資産譲渡所得への課税により,資産保有者が譲渡を渋り,資産の流動化が阻害される効果である。米国ではロックイン効果について多くの実証研究があり,その一部では資産譲渡の税率弾力性(税率が1%増加した場合に資産譲渡が何%減少するかを示す指標)が推定されてきた。近年の研究では,ロックイン効果は存在するにしても,反応の期間を長くとることで,税率に対する弾力性の規模は小さくなることが示されている。
Edwards and Todtenhaupt(2020)は,IPO前後の米国企業の資金調達データを利用して,この減税がスタートアップに与えた影響を検証している。そして同研究は,①当該減税はスタートアップへの資金提供を平均12%増加させ,②マネジメント能力が高い企業ほど多くの資金提供の増加は大きくなり,そして,③その減税の恩恵の3分の1は投資家によって享受されたと分析している。/この米国の研究結果は示唆的ではあるが,国による制度や文化等の違いを考えると,日本での結果は大きく異なる可能性もある。また,本来あるべき課税軽減の対象は,革新的なスタートアップである点も重要である。スタートアップの全てが革新的であるという訳ではない。日本のエンジェル税制を対象にした本格的な実証分析が待たれるところである。
国外への財政転出は,国内移動では存在しない追加的なコストを生むはずである。また。日本の資産家が海外へ移住し,株式等の資産も転出させる場合は,有価証券が譲渡されたとみなし,その含み益に譲渡所得税分の「出国税」が課される。高所得者にとって日本より低い譲渡所得税を有する主要先進諸国は少ないから,その他の移住コストも鑑みると,譲渡所得の税率差を理由にして海外転出する資産家は極めて少ないのではないだろうか。
本節では譲渡所得課税(キャピタルゲイン課税)にかかる3つの命題(ロックイン効果,スタートアップ抑制,海外への財政転出)について,海外の実証分析を参考にしながら考察した。また,海外の研究からは,株式譲渡所得を含む資本所得に対する税率が労働所得に対する税率より低い場合,労働所得を株式譲渡に振り替えるという租税回避行動も指摘されている。この租税回避による追加的な資源配分の歪みは,譲渡所得課税の減税によって更に悪化することが懸念される。したがって,これら海外の研究を参考にすると,譲渡所得課税が与える負の効果について過度に心配する必要は,そこまで大きくないようにも思える。日本のデータを用いた本格的な実証分析が待たれるところである。
4.3 相続税と事業承継
典型的な同族事業の承継者は,該事業の非上場株式や土地等の事業用資産を受け取ることになるから,当該移転に際して相続税や贈与税が課されることになるからだ。この「資産移転課税は事業承継を阻害する」という命題は,海外でも古くから存在し,いくつかの研究が相続税や遺産税の同族事業への効果を検証している。そこでは,次の2つの命題が検証されている。
日本のデータを利用した同様の研究が待たれるが,上記の海外における研究を見る限り,日本でも,相続税や贈与税(以下,便宜的に「相続税」と表記)は同族間の事業承継を阻害すると考えても良いかもしれない。しかし,仮に相続税の減免を通じ事業が円滑に承継され,その後の承継事業の成績が伸びたとしても,経済全体としては必ずしも望ましい結果につながるとは限らない。というのも,多くの内外の研究によって,同族企業の生産性は非同族企業の生産性よりも低いことが示されているからである。
現行の日本における事業承継時の相続税は非常に寛容で,実質無税となっている。しかし,事業承継税制は全ての同族間の事業承継を一様に促すことになり,既述の同族企業に関する実証分析の結果を前提とすると,日本経済の生産性,ひいては,経済成長を大きく毀損するのではないかと懸念される。現在では事業承継税制に加えて,(税制の外での)M&Aを通じた選択的な事業承継への支援も準備されてはいるが,本来ならば,非同族による外部承継を促進する形で,事業承継税制を再設計するべきであろう。
補論 企業投資の理論と企業税制
第5章 消費税と今後の税制:軽減税率は役に立っているのか
5.1 消費税のしくみ
日本に現行の形の消費税が初めて導入されたのは1989年4月1日である。導入当初の税率は3%であり,1997年4月1日に5%に増税された後,17年後2014年4月1日からは更に8%へと増加した。このとき1年半後(2015年10月1日)の10%への引上げも決定されたが,その実施が2014年中に1年半後(2017年4月1日)に延期されただけでなく,2015年の年末に更なる変更が加えられ,「外食と酒類を除く食品」と「週2回以上発行される新聞」の税率は8%に据え置かれることとなった。つまり,この時点で約30年にわたる日本の消費税史で初めて複数税率の導入が決定した。なお翌年2016年5月に10%への増税実施は更に2年半後へと延期され,ようやく2019年10月1日に,軽減税率として「食品」と「新聞」の税率が8%に保たれたまま標準税率が10%となった。
各流通段階で業者が支払う仕入税額控除後の消費税の合計額は,消費者が最終消費段階で支払う消費税額と全く同じになる。このことは,消費者が実際に消費税を支払う前に消費税が各流通段階の事業者によって納付される,つまり,「前取り」されることを意味する。
海外において,日本の消費税に相当する税は,一般的に「付加価値税(VAT:value added tax)」と呼ばれる。これは「付加価値」を課税標準にしているためであるが,その理由は各流通段階での仕入税額控除の仕組みを見れば理解できる。
消費税を付加価値税と一致させる際の肝は,この仕人税額控除を適切に実施することである。軽減税率の導入前の単一税率の時代においては請求書等保存方式に従って仕入税額控除が実施されていた。そこでは,取引先が発行する請求書の情報を帳簿に記録させ,その帳簿の保存を義務づけることで,仕入税額を確定していた。帳簿方式とも呼ばれたこの方式では,当然ながら異なる税率は想定されていなかった。/2019年10月の軽減税率の導入後から,仕入税額控除のために請求書に税率別の情報を記載することが必要となった。そこで暫定的に導入されたのが区分記載請求書等保存方式である。ここでは請求書に税率区分毎に小計した請求額を記載するよう義務づけ,帳簿もこの区分に基づいて記録することが求められた。/2023年10月からは,「インボイス制度」が開始された。正式には適格請求書等保存方式と呼ばれるこの方式では仕入税額控除に利用できる請求書は,課税当局に登録した事業者(適格請求書発行事業者)が発行した「適格請求書」のみである。適格請求書の形式も指定され,同請求書には従前の税率毎の消費税額と適用税率に加え,同請求書を発行した適格請求書発行事業者の登録番号の記載が義務づけられている。/このように,仕入税額控除を通じて消費税を付加価値税として課税するために,請求書や記帳の方式は消費税の制度変更に合わせて変化してきた。しかし,以下のような複数の付加的な制度の存在により,消費税は完璧な付加価値税とみなすことが難しくなっている。
消費税を付加価値税から乖離させる制度のひとつは,非課税(exemption)制度である。非課税制度の下では,一部の財サービスの取引は課税対象とならない。また,消費税が課されない財サービスを提供する事業者は消費税を納付しないので,仕入税額控除も利用できない。この仕入税額控除の非適用により,その程度は別にして,非課税制度は消費税を純粋な付加価値税から乖離させることになる。
5.2 軽減税率(複数税率)を巡って
複数税率化は納税と課税にかかる事務を複雑化させ,納税コストと徴税コストを増大させる。既述の通り,軽減税率が適用されてから,納税者は仕入税額控除の算定にあたり10%課税の仕入額と8%課税の仕入額を分ける必要があるし,課税当局はその算定が適切かを確認する必要がある。そのため,2023年10月から適格請求書等保存方式が導入されているが,この方式は,以前の単一税率下での方式よりも手間がかかることは自明である。納品する側は適格請求書を発行しなければならないし,仕入れる側も適格請求書の情報に基づき取引毎に軽減税率適用の有無等を判断し,仕入税額控除のための情報を整理する必要がある。 然,これらにより納税費用(遵守費用)は増大することになる。/同様に課税当局の徴税費用も膨らむ。複数税率化により税務調査に必要とする情報は増加するし,手続きの複雑化は脱税方法の多様化・複雑化につながり,より一層の監視が必要となる。実際,日本に先んじて複数税率とインポイス制を導入している欧州諸国では,2000年代中頃からインボイスを巡る不正が大きな問題になっている(Keen and Smith 2006)。
税率設定は政治的プロセスの結果であり,それを実現するためには関係者から合意を得る必要がある。欧州やカナダにおける付加価値税の導入過程を精査すると,軽減税率は低所得者対策というよりも,利益団体が政治的に働き掛けた結果としても解釈が可能である。これについては,日本における新聞に対する軽減税率適用プロセスを想起すれば容易に理解できるであろう。/また。軽減税率の導入には政治的障害は殆ど無い一方で,軽減税率の廃止には,それに抗う政治的圧力が激烈になる。つまり,一旦軽減税率が導入されると,その後に軽減税率を改廃することは非常に困難になる。そこで税収確保のため,軽減税率の改廃の代わりに標準税率を引上げようとすると,以前は標準税率の対象になっていた別の製品に対し軽減税率を求める政治的圧力が発生するかもしれない。実際,欧州諸国では標準税率が高くなるほど軽減税率の対象範囲が広がり,また。軽減の程度も大きくなる傾向があるという。つまり,複数税率化は将来の税制改革に要する政治的コスト増加の温床になる。
5.3 消費課税と所得課税
それでは単一税率のデメリットは何であろうか。おそらく,その最も大きなデメリットは負担の逆進性であろう。実際,現行の軽減税率導入の理由は低所得者の負担緩和であった。既に見たように実証分析によって弱分離性は否定されているが,弱分離性が成立しない場合の消費課税構造については理論分析からの明確な指針はないようだ。ただし,理論分析が提示した消費課税と所得課税を組み合わせるという発想は,日本の税制を考えるにあたって重要な見方を提供すると考えられる。
以下に述べるように,消費課税(比例部分)と(狭義の)所得課税(累進部分)には短所と長所がある。幸いにも,消費課税の短所は(狭義の)所得課税の長所によって,そして,(狭義の)所得課税の短所は消費課税の長所によって補うことができる。したがって,この2つを同時に考えることで,効果的な税体系を築き上げることができるであろう。
よく知られているところであるが,消費課税における軽減税率より,所得課税における還付方式のほうが,給付(もしくは減税)に用いられる費用のうち,本来の標的(=ターゲット)とする人々に届く金額の割合が高い。つまり,軽減税率の「ターゲット効率性」は低い。軽減税率によって便益を受けるのは低所得者だけではない。高所得者も食事はするし,新聞の定期購読もする。むしろ,高所得者が食費や新聞に支弁する金額は低所得者のそれらより大きいから,高所得者が軽減税率から受け取る消費税の減免額も低所得者のそれより大きいはずである。つまり,余計な対象(高所得者)に対しても多額の減税を施す軽減税率は,低所得者対策としてはターゲット効率性が著しく低いと考えられる。
単一税率の消費課税は所得課税よりも徴税費用が低く,捕提率が高いと考えられるから,消費課税によってできるだけ多くの税収を得るという発想は自然であろう。その反面,消費課税では,複数税率の場合を含め,十分な低所得者対策をとることはできない。したがって,消費課税のウエイトが高まることによる低所得者が被る不都合は,RTC等を通じて,ターゲット効率性が高い所得課税で対処するという発想に繋がる。
5.4 消費課税と社会保険料
家計は税に加え社会保険料も負担している。ここで社会保険料とは,社会保険と呼称される制度からの給付を得るための拠出金の総称である。日本の社会保険は,公的医療保険(国民健康保険・各種組合健保・協会けんぽ・各種共済・船員保険・後期高齢者医療),公的年金(国民年金・厚生年金),介護保険,労働保険(雇用保険・労災保険)等から構成されており,個々人の状況に応じ特定の社会保険に加入し,保険料を支払うことが義務づけられている。例えば,20歳以上で扶養から離れている者は公的医療保険と公的年金に加入すると共に,それらの保険料を支払う義務がある。そして,40歳以上になると介護保険へ加入し,ここでも保険料を支払う。労働保険への加入は雇用主の義務であるが,うち雇用保険の保険料は被用者も負担する。
社会保険制度を詳しく見ると,税と社会保険料の境界は非常に曖味であることが分かる。そもそも社会保険給付は社会保険料だけで賄われている訳ではない。例えば,国民年金・国民健康保険・後期高齢者医療・介護保険といった主要な社会保険制度の歳入構成をみると税は半分以上を占めている。
保険料率を上げることが容易であっても,それにより納付率が低くなれば,給付のための財源調達に支障が生じることは十分に考えられる。そうであるならば,保険料制度を無くして,その収入を消費税の増税で代替することも一案かもしれない。その理由は以下の通りである。第1に,消費課税は,誰に対しても等しく消費額に応じて課されるから,保険料のような未納や滞納が存在しない。また,日本国内で生活すること(消費すること)が拠出要件になるという解釈も可能である。/第2に,既述のように遺産にも同率の消費税率を課すことができれば,現行の保険料体系と比べ低所得者に優しい料率(税率)になると考えられる。この章で何回も繰り返し述べているように,遺産にも同率の税率を課すことで,単一税率の消費課税は控除のない比例所得課税と完全に一致する。給与所得者に対する厚生年金や健康保険組合の保険料は標準報酬額に対して比例的ではあるが,ある一定の閾値に達すると,収入が増加しても保険料は増加しない。つまり,この部分で保険料は逆進的になる。また。国民年金の場合,保険料は定額であるし,国民健康保険は,所得に依存する部分はあるものの定額部分の影響は小さくない。つまり,被用者以外を対象とする保険料体系は逆進的な特徴をもつ。もちろん,低所得者に対しては,このような逆進的な現行の保険料より比例(単一税率の消費課税)のほうが優しいはずである。また,社会保険料の消費課税化により,社会保険時の未納・滞納や標準報酬額の上限がなくなるため,社会保険料の代替となる消費税率の増加分は,社会保険料率と比べ低率となるであろう。/第3に,社会保険料の代替としての消費増税は,高齢者に対しても無差別に課される。したがって,その消費増税からの収入が年金給付にも充てられるなら,高齢者になっても実質的に年金保険料を支払うことを意味する。ただ,消費課税では,消費額が高い高齢者ほど高い負担額となるから,消費に応じて負担額の調整が行われる。また,高齢者に課税すること自体も,高齢者に有利な現行の世代間の不公平を緩和する手段になるかもしれない。もちろん低所得の高齢者には配慮は必要である。これに対しては,所得課税のなかでRICを通じた給付を行うことで対処することも可能であろう。/このように,単一税率の消費課税で現行の社会保険料を代替することには十分考慮に値する利点がある。しかし,消費税方式をとると,社会保険料式では可能であったかもしれない柔軟な負担率(税率)の調整は格段に難しくなろう。この点が担保できない限り,単一税率による消費課税への移行は難しいのかもしれない。
補論 社会厚生関数
終章 「きちんと考える」ということ
数年前から様々な界隈でEBPM (evidence-based policy making)という言葉を耳にするようになった”。EBPMとは,その字面からは,エビデンスに依拠して(evidence-based),公共政策を形成・実施すること(policy making)と理解できる。/そもそもEBPM というフレーズ自体は医療分野におけるEBM(evidence-based medicine)に倣っているようだ。(…)このEBMとの類比でEBPMを考えると,それは「政策決定者(政治家および官僚)がその良心と分別に従って,最も頼性が高い研究結果に基づいて政策形成・実施すること」となろう。このように理解すると,EBPMには2つの要素があることが分かる。ひとつは研究者が提供する「エビデンス」であり,いまひとつは政策決定者が従う「政策形成・実施(のしくみ)」である。
当然,エビデンスとは,政策決定者や研究者の「勘と経験と思い込み(KKO)」ではない。いままで見てきたように,しばしば過去の日本の税制改革においては,一見尤もらしいが,根拠の無い言説が流布されてきた。
若干古いデータではあるが,医療研究においては,研究結果100点のうち,学術誌での出版時点では7点の結果が,そして,出版から2年以内に23点の結果が覆されるという(Shojania et al. 2007)。社会科学の研究でも同様であろう。むしろ,観察データが中心となる社会科学の研究では,さらに酷い数値かもしれない。このように考えると,如何に念入りに研究されていようとも1つの研究だけで頼性が担保されているとは言い難く,単一の研究結果だけに政策を依拠させることは心許ない。
日本の政策のために信頼できるエビデンスを得るには,日本のデータを用いた質の高い研究が繰り返し行われること,そして,その過程でデータをアップデートし,直近の情報を反映した研究結果を得ることが重要である。
それでは,国内の研究を充実させるためには何か必要なのであろうか。第1は政府の対応であり,研究に必要とされるデータの整備とデータ利用の容易化である。データ利用が容易であるほど多くの研究者が参入し,多くの実証研究が生まれる。(…)第2は研究者側の問題である。繰り返しになるが,信頼性の高い研究の前提となるのは,多くの研究者が日本のデータを利用した質の高い実証研究を生み出すことである。そして,質の高い研究のためには,適切なピア・レビュー(査誌)を経た論文の発表が必須となる。しかし,評価の高い欧米の主要学術誌の掲載可能本数には限りがあり,また,そのような欧米誌が,日本の政策課題を主要題材とする研究に関心を持つことは稀であろうから,そのような研究の主たる受け皿は日本国内の学術誌が担うことになる。しかし,質の高い研究であっても,国内学術誌掲載の研究は欧米学術誌掲載の研究ほど評価されない場合が多い。また,少なくない日本の大学では,査読論文を昇進や昇給に必要な業績としていない。
本書で筆者が目指したことは,筆者が以前から疑問を持っていた税にかかる言説を取り上げ,それらを経済学のロジック,実際の制度やデータ,そして,既存の研究結果(エビデンス)に照らし合わせて「きちんと考える」ことであった。その背後には,エビデンスに基づいた政策が重要と主張する一方で,エビデンスが薄い,もしくは,それが全くない命題を,あたかも真実のように 吹聴する一部の論者たちへの反発や,実際に,そのような論説が広く流布していることへの苛立ちがあったのかもしれない。/ただ,いざ自分で本書を書き上げてみると,果たして自分自身が「きちんと考える」ことができたのかと,いささか不安になる。もちろん,そのように努めることで,勘違いや思い違いの部分は少なくなってはいよう。しかし,正直なところ。それらを皆無にできたとは思っていないし,読者からすると筆者が気づくことができない筆者自身のバイアスも存在するであろう。加えて,この終章で外的妥当性の問題を指摘したにもかかわらず,本書では海外や過去の実証分析を多く引用している。/したがって,筆者の議論に疑問を持たれる読者も少なくないであろう。そのような読者におかれては,是非,筆者が取り上げた命題や言説につき,ご自身で,関連する経済学的な考え方,実際の制度や基礎データ,そして,該当する言説のエビデンスを確認しながら「きちんと考える」ことで,筆者の議論に当然存在するはずの瑕疵を見つけて頂きたい。それによって,税制を「きちんと考える」方々が増えることは,今後の日本の財政や公共政策にとって何物にも代えがたい支えになるはずである。
税制と経済学 : その言説に根拠はあるのか | NDLサーチ | 国立国会図書館
345.1