Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

中村雄二郎, 山口昌男『知の旅への誘い』岩波書店(岩波新書) 002 290.9

知人と〈旅〉の話になって,この本を思い出した。本書のにある中村雄二郎の文章のどこかが,中学か高校の国語の教科書に載っていて,それがずっと心に残っているからだ。

本書を再読するたびに山口昌男のところはちゃんと読んでいない気がするけれど――中村雄二郎のとはあまりに雰囲気が違いすぎるのと,自分語りが濃すぎてちょっとついていけない――「4 旅の宇宙誌」は面白かった。そのすべての文言を精読するような文章ではないけれど,行く場所,会う人々,語られる内容のすべてが広範囲かつ濃密で,自分もこんな人生を送ってみたかったものだ,としみじみ思った。

旅のはじめに 中村雄二郎

現在広く人々の間で、〈知〉の革新あるいは活性化が、いよいよ切実に求められてきている。ということは、ただ単に、時代の大きな転換期のなかで重層的な現実が提起してくるさまざまな根深い問題を既成の諸学問や諸理論が十分に受けとめえないことを示しているだけではない。学問や理論の現段階がふつうの意味で現実に遅れをとっていることを示しているだけではない。 それとともに、学問や理論というものの在り様そのもの――とくに硬直した糞真面目主義、身体性や深層の現実に対する無感覚など――が根元から問いなおされていることを示しているのである。

学問や理論を含む私たち人間の知の営み――このなかに芸術上の創造行為も入れられていい――は、日常生活の情性化された在り様を超えて、いきいきとした生の回復をもたらすはずのものであった(理論的な素養や技法上の訓練という迂路は必要であるにしても)。まさにその点において、私たち人間の知の営みは、冒険を含んだ〈旅〉にたいへんよく似ている。およそ人間と社会に関する〈知〉の営みは、ただ書斎に閉じこもって観念を操作していればできるものではなくて、足で歩き身体で感じることを本来不可々な前提としている。そのことが次第に明らかになってきている。そうだとすれば、人間にとって〈旅とはなにか〉ということをあらためて振りかえりながら、〈知〉を〈旅〉と重ねて捉えてみるなら、知の営みの通常は見えにくい活動的、躍動的な姿に光をあて、これを浮かび上がらせることができるのではなかろうか。ことばを換えていえば、〈知〉の営みのメタファ(隠喩)として〈旅〉を考えることによって、現在、知の営みにおいてどのような諸点がいちばん欠けているか、またどのようなことがいちばん問題であるか、を示しうるのではなかろうか。

すなわち第1部「知の旅へ」(執筆者、中村雄二郎)では、人間にとって〈旅〉とはなにか、〈旅〉においていかに人間の根源的な在り様と問題が露呈されるか、また、そういう〈旅〉をメタファとして考えるときどのような〈知〉の世界が開かれてくるか、が示されるだろう。ここで「好奇心」「身体」「ブリコラージュ」「食べもの」「方向」「記憶」「同行者」「迷路」「時間の発見」「遍歴」という項目が選ばれ主題化されているのは、さまざまなかたちで人間活動の基本的な在り様にかかわるこれらの問題が〈旅〉という場面において互いに結びつき、もっとも切実な意味をもってあらわれると考えられたからである。次に第II部「知の冒険へ」(執筆者、山口昌男)では、第I部「知の旅へ」の原理的な考察のあとを受けて、自己の冒険にみちた〈知〉の旅のさまざまな経験が、「旅のはじまり・はじまりの旅」「旅の文体」「越境について」「旅の宇宙誌」「周縁への旅」「旅の軌跡」という主題のもとに惜し気もなく披露される。それは一人の人間の〈知〉の遍歴の歴史であり、新旧・内外のさまざまの刺的な理論や事物や人物との出会いの記録であるが、同時にまたそれは、現代という〈知〉の組みかえの時代、学問再編成の時代の孕むさまざまな問題点を、おのずとしかも縦横に照らし出すことになるはずである。

I 知の旅へ

1 好奇心——知的情熱としての

私たちは旅、未知と供然の要素を多く含んだ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的をもった自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。それは一味の不安をまじえた心の華やぎであり、それによって旅への出立というものに、独特の感情の色づけがなされる。「いい日旅立ち」などという国鉄の広告もあったが──多分これは「思い立ったが吉日」という昔からある諺にヒントをえたものであろう──旅への出立がすぐれて演劇性あるいは祝祭性をもちうるのは、そのような感情の色づけのためであろう。旅立ちの場所である駅やプラット・フォームや空港が現代生活のなかでは珍しく濃密な意味場を形づくり、そこに毎日多くの小さな──ときには大きな──ドラマや祝祭が見られるのは、誰でもよく知っているところだ。

旅は私たちの心を開かれた、予感にみちたものにする、といった。しかしそれは、旅に出かけるとき、旅立ちに際してだけのことではなくて、およそ旅をしているかぎり、いつでもいえることである。これは誰でも経験していることだけれど、旅先で見たものや聞いたものは、しばしば私たちに新鮮なおどろきを与え、旅先で出会った出来事はしばしば私たちにつよい感動を与える。旅に出るとひとは誰でも〈芸術家〉になり〈詩人〉になるといわれるのも、そのことを指している。/ この場合〈芸術家〉になり〈詩人〉になるというのは、なにか特別な力を新しく手に入れることではないだろう。それはむしろ、人間がもともと持っているいきいきとした感受性をとりもどすことである。

控え目な感情は凡庸な人間をつくり、ひとは小心翼々としていると創造的でありえなくなる。これは行きすぎた抑制や禁欲的態度がおちいりやすい築を示している重要な指摘である。いうまでもなくそれは、詩・絵画・音楽といった狭い意味での芸術にかかわるだけではなく、もっと広い人間の知的活動や精神的活動にもかかわっている。だから、たとえどんな小さなことにせよ、日に日に発見や創造のよろこびをもって生きていくためには、通常考えられているより以上に、知的情熱としての好奇心をいきいきと保っておかなければならないのである。

知的活動のなかで私たちは〈面白さ〉ということをもっと重視してもいいのではなかろうか。幸い同じような観点から、福田定良氏(『〈面白さ〉の哲学』平凡社)が、〈面白さ〉ということを問題にしている。すなわちここでは、その手がかりをまず、英語の(インタレスティング)に求める。福田氏によれば、インタレスティング(interesting)とは、なにかの〈間〉(inter)に〈ある〉(est)ということ、すぐれて間柄にかかわることである。ここでその〈間〉とは、たとえば芸術と娯楽、演劇と生活との間ということでもあるが、もっと根本的には人と人との間ということである。人間にとって人間ほど面白いものはない。ところが今日では、人間にとって人間がなんとも面白くなくなっている。また、政府と国民、教師と学生、親と子との間にも明らかに断絶があるし、人々の抱く思想と思想との間にも断絶がある。(…)福田定良氏によるこのような〈面白さ〉の解明は、氏自身も気づいているように、〈インタレスティング〉の語源的な説明としては少々無理ではあるが、〈関心〉や〈興味〉ということを人と人、ものともの、問題と問題との、等々の、関係の活性化として、拡げて捉えているのはすぐれた着眼である。

知的情熱としての好奇心に対応する日本語の古語には〈すき〉(好き、数奇)があるけれど、これもなかなか含蓄あることばである。たまたま司馬遼太郎・林屋辰三郎両氏の対談集(『歴史の夜咄』小学館)を読んでいたら、その点について示唆的な話に出会った。すなわち、日本語の〈すき〉は第一には、気に入ったものに向かって、ひたすら心が走る、一途になる、熱中するという意味があるが、実はその裏にいわば紙一重のものとして、「歯どめがきかなくなって不平な運命を招く」(数者な運命)という意味があり、さらに「自由にしたい放題のことをする」(好きにします)という意味もある。ここに日本語の〈すき〉が「非常にきわどい言葉」、きわどい心の在り方であることがわかるだろう、と。この〈すき〉のきわどさも、私たちは十分心得ておくべきだろう。

2 身体——歩くということ

遠いところへの長い期間の旅に出るとき、私たちが否応なしに振りかえらざるをえないのは、自分の軀の状態であり、身体的なコンディションである。自分のに自のある人とない人、年齢的にいって若い人と年とった人とでは、むろんその在り様はちがうけれど、基本的には事情は変わらない。そして旅に出てからも、ふだんよりもずっと体調を整えておくことが要求される。昔から「水が変わる」とか「枕が変わる」とかいわれて旅での体調の変化がいわれてきた。それというのも、旅先では私たちのなま身の軀がちがった環境にさらされ、バランスやりズムを崩しやすいからであろう。昨今ではその上、飛行機の旅行による時差ぼけが、昼と夜の循環についての私たちの生体リズムまで狂わせるということもある。/ このようなわけで、旅は私たちのなま身の軀を、いろいろな点でふだんとはちがった環境にさらす。そこで私たちは、軀の生体としてのバランスやリズムを崩さないように、また病気にならないように、旅ではとくに注意しなければならなくなる。そういうことを考えると、私たちの軀は旅にあたってもっとも巨介な〈お荷物〉である。そして一人で外地の辺鄙な場所を旅行していて、急に軀の具合がわるくなったりすると、まったくそのお荷物がうらめしくなってしまう。

旅での私たちの本来の知覚や経験が、ふつう考えられているよりはるかに身体的であり体性感覚的であることがわかる。ここで体性感覚とは、触覚、筋肉感覚、運動感覚を含んだもので、いわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を統合する根源的感覚=〈共通感覚〉の基盤をなしている。空間の質、場所の気配、そして人間的なリズムや時間を知覚するのは、この体性感覚を基礎とした共通感覚である(詳しくは、拙著『共通感覚論』〔岩波現代選書〕を参照)。旅にあって私たちは、ちがった環境や異質の場所のなかで身をさらしつつ、いろいろなリズムや時間をもった文化や習俗に触れる。これこそ旅の経験そのものなのではなかろうか。

その点で甚だ興味深いのは、夏目漱石と小林秀雄という、わが国きっての二人の知的巨人、近現代日本人の知の深部を支配している二人の巨人に対して、その知の在り様と秘密が、ほかならぬ〈活動し運動する身体〉の観点から解き明かされるようになったことである。まず漱石についていえば、その小説の不思議な魅力と在り様の重要な側面が、蓮質重彦氏(『夏目激石論』青土社)によって「横たわる漱石」として捉えられている。/ すなわち、蓮實氏によれば、「生憎主人はこの点に関して顔る猫に逝い性分」で「昼夜は吾輩に劣らぬ位やる」と話者たる猫を慨嘆させている苦沙弥の午睡癖からはじまって、「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した」という冒頭の一行が全編の作品風土を決定している絶筆『明暗』の療養生活に至るまで、漱石の小説のほとんどは、きまって、横臥の姿勢をまもる人物のまわりに物語を構築するという一貫性をもっている。多くの漱石の人物たちは、そのようにすることで主人公としての確かな資格を準備しているかのように、いたるところでごろりと身を横たえてしまう。横たわること、それは漱石の小説にあっては、なんらかの意味で言葉の発生と深くかかわった身振りである。

このように運動する身体のイメージを使って近代日本人の屈折したエネルギーと心情を縦横に表現したところに、漱石の作品のたぐい稀な浸透力と深層性があるのであろう。漱石の作品が知識人の文学でありながら単なる観念性を大きく脱して、人々の共通感覚や無意識につよく訴える力をもっているゆえんもそこにあるのであろう(なお念のためにつけ加えておけば、漱石の作品中には『薤露行』『草枕』『行人』『道草』など旅や歩くことにちなんだ表題が多い。これなども私たちの観点から甚だ興味深い)。

では小林秀雄の場合はどうか。小林秀雄については、いっそうはっきり〈歩く人〉として高橋英夫氏(『小林秀雄歩行と思索』小沢書店)によって捉えられている。高橋氏によれば、〈歩く人〉という再度に着眼したのは、小林秀雄の文章のなかに歩く話や歩く比喩が多く出てくるためである。たとえば次のような叙述がある。「モオツァルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した」「モオツァルトは、歩き方の達人であつた。現代の芸術家には、殆ど肩じられない位の達人であつた」(「モオツァルト」)。「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」(『ランボオ』)。

3 ブリコラージュ——蒐めるということ

仏僧として説法・修行のために日本全国各地をめぐり歩いた智真房一遍は、〈遊行上人〉の名でよく知られているけれども、また他方では〈捨聖(すてひじり)〉とも呼ばれている。説法・修行の旅が、同時にまた、捨てる旅、つまりこの世の人情を捨て、縁(えにし)を捨て、家を捨て、郷里を捨て、名誉財産を捨て、己れを捨てという具合に、一切の執着を捨てるための旅だったからである。捨てることに徹底した旅だったからである。まさしく捨てることと旅とがもっともよく結びついたのが、この一遍上人の場合であった。果ては、捨てることへのこだわりそのものも捨てられなければならないことになった。

一遍上人のように一切を捨でることが、いったいどうして、私たち人間にとって切実な、すぐれて宗教的な意味をもちうるのであろうか。やはりそれは、私たち人間のものへの執着、所有することへの執着がきわめてつよいからであろう。ものを所有し自分のまわりにとどめておくことへの欲求がきわめて根づよいからであろう。

所有が──その否定面をも含めて──人間文化に対して大きな意味をもっていることは、よく知られている。けれれども、集(蒐)めるることも人間文化の形成の上で並々ならぬ重要性をもっている。ことばやことわり(理)を示すギリシア語の〈ロゴス〉──厳密にはそのもとの動詞の〈レゲイン〉──が、ものを比較したり秩序立でたりするに先立って集めるという意味をもっているのは、決して偶然ではない。

「蒐集とは一種の愛の遊び=働きである」(モーリス・レーム)というのは正しい。子供にとっては蒐集は外的な世界を支配するもっとも基本的な方法である。それは呪術的なやり方であるけれど、そこにはまぎれもなく世界に対する整理・分類・操作といった働きが含まれている。また蒐集家たちは自分たちの振舞いをきわめて高級な行為だと考えている。それは彼らが集めている物そのものの性質によってではなくて、むしろ蒐集という情熱に彼らが誇りをもっているからである。

いま私たちは、ボードリヤールにふれて情熱としての蒐集について見てきた。けれども、ものを集めること=蒐集は、もちろんそのようなかたちでだけ問題になるのではない。私たちがそれぞれによく生きるために必要な知識、学問や文化の創造に役立ちうるような知識を集め、わがものにすることもまた蒐集である。

すなわち、近代科学は技術文明と結びついて、多くの精密機械やそれを使う機械作業を生み出したとはいえ、私たち人間の生活世界、生きられた経験のなかで重要なのはむしろ、身近にある使い慣れた道具や材料を自在に組み合わせ行なう創造的行為であり、その重要性が忘れられてきた。そのような行為のあり方、知のあり方が、〈ブリコラージュ〉と呼ばれるものである。あり合わせの道具や材料を十分生かして自分の手でものをつくること、つまり手仕事=器用仕事を意味するこの〈ブリコラージュ〉は、〈野生の思考〉にひそむ知恵としてレヴィ=ストロース(『野生の思考』)によってうち出されたものだが、やがて〈日曜大工〉や〈ドゥ・イット・ユアセルフ〉の意味でも使われるようになった。つまりそれは、身体性の回復としての手づくり再認識の時代にふさわしい技術のあり方、知のあり方なのである。

ところで、蒐集やブリコラージュと根紙で結びついているもう一つの現代的な問題がある。それは〈引用〉の問題である。引用の理論とは、一口でいえば、すべてのテキスト(作品、文章)を、〈引用のモザイク〉(クリステーヴァ)あるいは同じことだが〈引用の織物〉(宮川淳)として、引用という見地から徹底的に考えることである。そしてこの場合〈引用〉とは、ただ単にいわゆる引用文、はっきりそれと示された引用文だけでなく、意識的であると無意識的であるとを問わず、作者がそこで前提としているもの、作者の着想の源となっているものについてもいわれる。また、テキストといった場合、それはいわゆる言語によって書かれた文章だけではなく、もっと広く、絵画、音楽、建築などの芸術一般の作品を含む、創造的行為一般の作品をさしているのである。/ かつては作者の独能性、他に少しも依存しない独創性こそが創造の根源であり原動力であると考えられていた。それに対して引用の理論の目ざしているのは、ほかのテキスト(プレ・テキスト)からの直接、間接の引用、既存の諸要素(先立つほかのテキストの諸部分)の組みかえのうちに、作品形成の仕組みと秘密を見出すことである。とすれば、引用の理論は創造活動の否定、否認にはならないであろうか。そんなことはない。たしかに〈引用〉の観点が導入されることによって、かつてのような素朴で牧歌的な〈独創性〉の観念は崩れ去るであろう。けれども実際には、引用においても既存の諸要素の自由な組みかえという点で、創造活動はまぎれもなく働いている。むしろ引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提に行なわれるのではないこと、創造活動の実際の在り様は既存の諸要素を大きく媒介にしていることを、かえってよく示しているのである。

4 食べもの——味分け(みわけ)ということ

国の内外を問わず、旅に出かけたときには、できるだけ私はその土地の食べものを食べ、その土地の飲みものを飲むことにしている。根が喰いしんぼうだからなのだろうか、新しい土地に行くとすぐに、さてこの土地のうまい食べもの、独特の食べものはなんだろうか、と考えて物色することが多い。風俗習慣などがひどくちがう国などで、たまにはどうしても口に合わないものに出会って閉口することもあるし、またときには胃の調子が狂ってあまり重いものをさし控えることもあるけれど、大体のところはその流儀で通してきている。

さて、このパレルモの町についての私の印象と記憶は、とりわけその街角で味わった三つのものと強く結びついている。その一つは、船で朝パレルモの港に着いてからすぐあとで、波止場のすぐわきの小さなバー(カフェ)にとびこんで飲んだカプチーノ(一種のミルク・コーヒー)の力強くてまろやかな味である。このイタリア式ミルク・コーヒーは濃いコーヒー(エスプレッソ)の上に泡立った熱いミルクを注いだもので、カップの上のその泡が――ジョッキの生ビールの泡よろしく――盛り上がったかたちになる。(カプチーノ)というその名は、カプチン派の修道士が茶褐色(つまりコーヒー色)の修道服を着て先の尖った頭布(カプチオ)を被っていることに由来しているらしい。私のとび込んだ波止場のわきのそのバー(カフェ)は、街の人々がたくさん入っていたなんの変哲もないありきたりの店であった。けれども、パレルモ以外、シチリア以外も含めて、ほかのところで私はこんなにうまいカプチーノについぞ出会ったことがなかった。

食べものや飲みものの、旅先の現地でうまいと思った味は、その食べものや飲みものそれ自体に属している固有の味であるよりも、その土地のいろいろな食べものや飲みものとの関係のなかで成り立っている味なのではなかろうか。つまり、ものの味とは、もともと一定の具体的な場所(トポス)あるいは空気(雰囲気)のなかでしか、厳密には成り立たないものなのではなかろうか。

ところで、ものを味わうという人間の能力、知覚としての味覚については、永い間正当に考えられることがほとんどなかった。人間のいわゆる五感のなかでも、視覚や聴覚が高次の精神的な感覚とされたのに対して、味覚は次の身体的な感覚として貯められてきた。他方で料理や酒が世界中の多くの文化のなかでほとんど芸術に近いものと見なされてきたことと考え合わせると、それは奇妙なことである。

私たち人間の生活や文化のなかで味覚がもつ並々ならぬ意味を、逸早く真向から主張したのは、十八、九世紀のフランスに生きたブリア・サヴァランであった。彼は、その『美味礼讃』(関根秀雄他訳、岩波文庫。原題はもっと散文的で『味覚の生理学』)のはじめに、味覚と美味についての一群の味読すべき「アフォリズム」を載せている。

5 方向——意味を生むもの

平常の生活、住み慣れた町や村の生活ではふつうひとはとくに考えないでいても、旅先では否応なしに考えさせられるものに、〈方位〉や〈方角〉がある。まず、その土地その土地で東西南北の方角がどこに当たるのかがわからなければ、地図を地図として見ることもできなければ、自分がいまどこにいるのかもわからない。また、行きたいと思うところがあっても、どちらの方向に行ったらいいのかもわからない。私も旅先などで、知らない街を地図をたよりに歩いていて、方角を勘ちがいしたため、四つ角を反対方向へ行ってしまい、かなり遠くまで行ってからその間違いに気がついて、しまったと思いながら引きかえすことがよくある。とくに地下道や地下鉄の駅のたぐいから地上に出てきたときがいけない。

そういう意味での〈方向〉や〈方角〉についていえば、かつて中学生の頃に読んだ誰かの本のなかに、「プラトンは言った、偉大とは方向を与えることだ」とあったのを想い出す。プラトンがいったい、どの本のどのような場所でそうしたことを言っているのか、また厳密にどういう意味でそれを言っているのか、実はたしかめもしないで今日に至っている。そういうことはあっても、「偉大とは方向を与えることだ」とはいいことばである。たとえプラトンがいったのでなくとも意味深いことばなので、出典も気にならないほどなのである。

空間を縦・横・高さの拡がり(延長)に還元した近代世界では、均質空間の考え方の支配とともに次第に空間から宇宙的・人間的意味が奪されていった。そしてその結果、居住空間、都市空間は固有の方向性のきわめて弱い場所になっていった(「この無限の空間の永遠の沈黙が私をおののかせる」というパスカルの『パンセ』のことばはそのような事態の先駆的表現であった。永遠の沈黙とは別の角度からいえば意味の喪失のことにほかならないからである)。そして、方角や方向についての関心は、現在のわが国では、家相や地相をめぐる民間信仰としてわずかに残っているにすぎない。そこで問題にされている方向や方角は宇宙論的意味を失って、著しく部分化され、矮小化されたものでしかない。

バリ島では、人々は方向がわからなくなることをひどく怖れる。なぜなら、方向がわからなくなると、精神的にひどい混乱に陥り、文字どおり途方に暮れてしまうからである。バリ島ではそのような精神錯乱と正気喪失の状態のことを〈パリン〉と呼んでおり、このことばは「どちらが北だかわからなくなる」ことを意味している。つまりパリンとは、方向感覚をまるで失うこと、世界のなかでの自分の位置の感覚を失うことにほかならない。ひとはなにかの理由で方向感覚を失うとき、目がまわって気持がわるくなるだけではなく、なにをしようとしても手につかなくなってしまうのである。

6 記憶——〈方法〉が追い出したもの

旅に出たとき、どうしてひとはお土産を買うのだろうか、自分をも含めての話だけれども。あるいは言いかえて、旅のお土産というのは誰のためのものであろうか、としてもいい。さてその問いへの答えだが、まずお土産をお土産として考えるかぎり、それは誰かへのお土産だから、他人のためだということになるだろう。ところでお土産品のことを英語ではスーヴェニアという。この場合のスーヴェニア=想い出は、明らかに他人のためではなくて、自分のためのものであろう。そうだとすると、お土産とスーヴェニアはもつ意味がちがったものになる。そんなことをずっと、また漠然と思っていて、あるとき気になったので、日本語の〈みやげ〉ということばの語源を調べてみた。/ すると、〈みやげ〉はみあげ=見上げに由来し、「よく見、えらんで、人に差し上げる品物」を意味するとあった(『岩波古語辞典』)。みやげ)が結構なもの、価値のあるものと無関係ではないと思っていたとはいえ、「よく見、えらんで」というのがやや意外であり、それだけに面白かった。

ところで、とくに旅において想い出が問題になるのは、未知のところ、珍しいところを訪れることが多いからでもあるが、実はそれにもまして、愉しい自分の過去がそこにあるからであろう。そのような過ぎ去ったかつての自分をふたたび現前させ、それによっておのれのアイデンティティ(自己同一性、存在証明)を確認することができるからであろう。アイデンティティとは自分が自分であることにほかならないが、あらためてそれを根拠づけようとすると、なかなか難しい。自分が自分であることを根拠づけるためには、少なくとももう一つ別の確実な自分、存在感のある自分がどうしてもなければならない。なぜなら、そのもう一つの自分との関係のなかで、はじめて、自分が自分であることが根拠づけられるからである。/ 旅券(パスポート)による身分証明の場合は、そのいちばんわかりやすい例である。パスポートを持って外国を歩いているときほど妙に自分が日本政府と結びついていること、日本という国家に帰属していることを感じさせられることはない──そういう思いをしたことのある人は少なくないだろう。

まことに旅においては、私たちは実にいろいろな意味、いろいろなかたちで、自己同一性、自分が自分であることが問われるのである。そして旅をメタファ(隠喩)とする私たちの一生には、節目をなすいくつかの時期があって、それらの時期をきちんと通過することが人間としての自己確立=アイデンティティ強化のために必要なものと考えられている。すなわち、〈通過儀礼〉と呼ばれているものがそれにほかならない。

想い出とは、しばしば誤って考えられるような、単なる感傷的な追憶などではない。それはもっと積極的な精神態度なのである。人間生活における想い出の働きの並々ならぬ意味を逸早く捉えて鋭く指摘したのは、小林秀雄氏(『無常といふ事』)であった。

記憶と思い出についての小林氏のこの刺激的な区別は、ベルクソンの習慣的記憶(機械的記憶)と想起的記憶(純粋記憶)という区別に多くを負っている。/ そこで、そのベルクソン(『物質と記憶』)の記憶の区別を見ておくと、それは次のようにいわれている。記憶には二種類のものがある。一つは身体運動の反復によって得られる習慣的な記憶である。それはたとえてみれば、繰りかえし練習して身につけたタイプライターの技術のようなものだ。この種の記憶も、われわれの過去の経験をなぞりはするが、この場合にはそれを表象としてよび起こすことはしない。もう一つは、自発的で想起的な記憶である。それは過去を表象として思い浮べる精神の記憶であり、しかも記憶の本来の姿なのでわれわれはこれを純粋記憶と呼ぶことができる。この想起的記憶においては、われわれは過去の或る時点に自分自身を位置づけるのである、と。

想起的記憶はたしかに、すぐれて人間的な記憶である。けれどもそれは、これまでしばしば考えられてきたように──ベルクソンの場合も小林秀雄氏の場合もそうだ──必ずしも身体を排除した精神の純粋記憶であるとはいえない。あらためていうまでもなく、私たち人間は、高次の統合活動をそなえた生命存在であり、人間において精神は身体の基礎の上に、それと不可分なものとして成り立っている。想起的記憶はそのような人間存在の全体的な仕組みと活動にかかわっているのである。とくにそのことをよく示すのは、想起的記憶が、表象的で無意識的な記憶であることである。そういうものとして想起的記憶は、すぐれてコスモロジカルでもあり身体的でもあるのである。

〈方法〉ということばが特別な意味をこめて積極的に使われるようになったのは、なんといってもデカルト以来のことであるけれど、そこには現在から見てなかなか興味深い問題が含まれている。もともと〈方法〉の意識には、すべてのもの、とくに過去や記憶にまつわるものを疑って、ゼロから再出発する姿勢があった。すなわち近代のはじめに、人々は歴史や伝統の束縛や重圧からのがれるために、また共同体から個人が独立するために、記憶や習慣による過去とのつながりを断ち切る必要があった。そこで要請されたのが、デカルト的な意味での〈方法〉であった。/ 〈方法〉とは、記憶や習慣によらずにひたすら理性によって人々を真理へと導くものでなければならなかった。そして〈方法〉はこのようなものとして、数学的な演繹やテクノロジーと結びついて、近代科学を飛躍的に発達させた。

デカルトは、自分が記憶型の人間でないこと、記憶力にめぐまれた人間でないことをよく知っていた。事実彼は、「私はつねにほかの何人かの人たちと同じように」「豊かで、なんでもすぐに思い出せる記憶力をもちたいものだと願った」(『方法序説』)と書いている。そこでデカルトは、古代・中世からルネサンスに至るヨーロッパにおいてレトリック(修辞学、雄弁術)の一部として存在してきた伝統的な(記憶術)を退けて、ものごとをその原因へと還元していく〈方法〉、近代科学の機械論的な因果関係に結びつく〈方法〉を、それに代わる新しい記憶術にしようとしたのであった。それを彼は或る断片(『思索手記』)のなかでかなりはっきりいっている。

7 同行者——もう一つの眼

旅は一人でするのがいいだろうか。誰かと二人でするのがいいだろうか。それとも、グループでするのがいいだろうか。これは意外に答えにくい難問である。がそれでも、一度考えてみるに値する問題を含んでいるといえるだろう。なぜなら、旅を一人でするか、二人でするか、それともグループでするかによって、同じく旅とはいってもかなり性格のちがったものになるからである。/ 本当に旅の好きな人は、ふと思い立ったときに一人でぶらりと旅に出かける、といわれる。日常の人間関係のしがらみから離れ、足の赴くままに旅をするには、一人の旅がいちばんいいであろう。誰と相談する必要もなく、自分一人の思うがままにどこへでも行くことができる上に、旅の仕方についても誰の遠慮もいらないからである。旅の在り様として自由と偶然性をもっともよく享受できるのは一人旅である。また、旅先でもっとも直接に現実と触れうるのも、自分をよく見つめうるのも、一人の旅であろう。

同行者としていい相棒が得られれば、旅をする上でなにかと好都合な相談相手になるし、話し合うことで旅での経験を確かめ合うこともできる。ただし実際には、この道づれのえらび方はたいへん難しい。不適当な道づれをえらべば、互いに相手の自由な行動を牽制し合ったり、束縛し合ったりすることになるだろう。互いに相手の独立性と自由をできるだけ尊重しながら、しかも必要なとき、いざというときには力になり合い、よき相談相手になるような関係がもっとも望ましいわけだ。いや、それほど理想的な関係が成り立たなくとも構わない。旅において道づれがいることは、自分以外のもう一つの眼=他者を含み、その他者との対話をもちうるという点で貴重なことなのである。

どうも実際の旅の道づれ、同行者に少しばかりこだわりすぎたが、〈知の旅〉にとっても同行者の有無や在り様は、なかなか大きな問題である。というより、実際の旅について見られたことは、ほとんどそのまま〈知の旅〉についてもいうことができる。すなわち、〈知の旅〉においても、旅はなによりも冒険と探険と自己解放とをめざしたものである。だから、〈知の旅〉において自己の問題として自分一人でやらなければならないことがあるのは当然である。が、それだけでは十分とはいえない。さらにそこには、大局的にいって同じ方向へと歩む同行者たち、とくに、よき理解者であると同時にきびしい批判者でもあるような同行者たちが、どうしても必要である。

また、〈学際〉ということばがにぎやかに唱えられたとき、必要なのは〈学際〉ではなく、さらにすすんで〈学芸際〉ではなかろうか、とひそかにつぶやいていた人がいる。それは林達夫氏である。日本語として熱していない〈学際〉ということばに対して、それを十分承知の上で、あえて〈学芸際〉などといういっそう熱していないことばを林氏がぶっつけたのは、一つにはことば遊びであった。が、もう一つには、真の知の革新には、学問相互の間だけでなく、学問とアート(芸術、技術)との交流・提携が必要なことを言わんとしてであった。学問とくに近代の学問は、分析の方向をいっそう推しすすめ、アート、とくに芸術のもつイメージ的な全体性を失っていった。学問のなかでも総合化の努力はいろいろなかたちで行なわれてきたものの、なんといっても、根源的なイメージ的全体性から離れていったのである。

8 迷路——深層世界へ

知らない土地で道に迷うのはおそろしいことである。ことばがあまり通じないところでは、いっそうおそろしい。どんな目に会うかわからない別の世界にまぎれこんでしまって、もといた世界には二度とふたたび戻れないのではないか、などと思ったりする。実際にそういう経験はしなくとも、そういう夢を見て魔されたことのある人は少なくないだろう。見知らぬ土地で道に迷うことは、たしかにおそろしい。しかし、ただおそろしいだけかというと、そうではなくて、むしろそこには私たちをつよく惹きつけるものがある。迷いそうな道、迷路性をもった道とは、どうやら私たちがおのずと歩きたくなる道、歩いていて愉しい道であるらしい。/ 私なども旅行していて、自分で好んでそういう道にはいり込み、歩いていることが多い。こわいもの見たさということもあるが、歩いて愉しいのは、そのためだけではなく、都市空間の在り様に大きくかかわっている。ルネサンス期イタリアの建築家アルベルティ(『建築十巻』)も、理想的な都市では街路は迷路性をもったものであるべきだとして、次のように述べている。町の中心部では、街路は真直ぐであるよりも曲りくねっている方がいいだろう。狭い街路は暑いときには陽の光を防いでくれて、しかも風通しがいい。曲りくねった街路は心地よいそよ風は通すが、氷のように冷たい風は悪ってくれるのである。そのほかに美学=感性論上の利点もある。曲がりくねった街路では、そこを一歩あゆむごとに新しい光景があらわれ、またすべての家の前面と入口は直接街路の中央に面するようになるのだ。街路の屈折によってどの家の視界もこのように開けていれば、人々にとって健康でしかも愉しいだろう、と。

R・カイヨワ(『遊びと人間』清水幾太郎他訳、岩波書店)が〈遊び〉の四つの基本要素の一つとして挙げためまいにくらべるとはるかに路軽いめまいだけれど、めまいであることにはかわりない。/ カイヨワの遊びの四つの基本的要素の一つのめまいとは、次のようなものだ。彼によれば、遊びの基本要素は一、アゴーン(競争)、二、アレア(偶然、サイコロ遊び)、三、ミミクリー(擬態、演戯)、四、イリンクス(めまい、渦巻)にある。このうちイリンクスとは、みずからすすんでめまいを求めることから成る遊びであり、それは一瞬だけ知覚の安定を崩し、明確な意識のうちに一種の心地よいパニックを惹き起こす。つまりそれは、現実を一挙に無化させてしまう一種の感、忘我(トランス)、麻痺状態に入ることである。そしていろいろと身体を動かすことで、この感覚が惹き起こされる。たとえば空中ブランコ、墜落、跳び降り、急速な回転、滑走、スピード、直線運動の加速、およびそれと回転運動との組み合わせなど。またそれと並んで、精神面でのめまい状態、個人を急に襲う恍惚状態もある、とカイヨワは言っている。

9 時間の発見——リズムと祝祭

旅といえば一般には、住み慣れたところからへだたった遠いところへ行くこと、つまり空間的な移動だともっぱら考えられている。しかし私たちは、そのとき実際には、むしろ時間を旅しているのではなかろうか。たしかに旅において私たちは、徒歩によるにしろ、汽車や自動車や飛行機によるにしろ、明らかに空間を横切って一つの地点から、へだたった他の地点へと赴く。そして、旅先のそれぞれの場所で、住み慣れた場所のものとは異なった、いろいろな自然や人間や文化に出会い、そのときの感銘や印象をとおして、旅をしていることをつよくわが身に実感するといえるだろう。

旅の日記や紀行文のたぐいにしても、それらがもし経験としての旅をよく表わしている場合には、旅先で出会った多くのことをただ単に事実として、また時間的な経過の順序に書き並べたものにはとどまらないはずである。たとえばゲーテの『イタリア紀行』は──そのかたちをとって刊行されたのは、実際の旅行から三十年後のことであるとはいえ──古今の数ある紀行文のなかでも事実の観察と描写が多く、それらの克明な観察と描写がほぼ時間の経過の順序に並べられていることで知られている。そのような事実の克明な観察と描写は、もちろんゲーテのつよい知的好奇心のあらわれにほかならないけれど、しばしば読者をして退屈させかねない。/ ところが良く読んでみると、私たちはそこに、単なる物理的な時間の経過ではない別の時間が流れていること、またそれこそが『イタリア紀行』の全体をすぐれた紀行文にしていることがわかる。時間上の過去・現在・未来をそれぞれ人間の記憶・知覚(あるいは直感)・期待の働きに対応するものとして捉えたのは聖アウグスティヌスであった。すなわちアウグスティヌス(『告白』)によれば、時間というものは過去と現在と未来とから成るが、これらの三つはそれぞれ性質が異なっている。

ゲーテの『イタリア紀行』の場合でも、そのときどきの現在が、沈満したうっとうしい過去の記憶からの脱出と、明るくはればれとした未来への期待とを孕んだものとして描き出されているのである。

このようなわけで、経験としての旅、生きられた経験としての旅では、旅はおよそ物理的な時間の経過のなかでの空間的な一つの点から他の地点への移動などにとどまらない。それは、記憶=過去と期待=未来とによって成り立つ内的時間を孕んだ人間が、土地それぞれの風士や生活の固有のリズム=時間のなかを経めぐることなのである。そしてなにもゲーテの場合だけに限らず、一般に旅の経験においては〈現在〉がいきいきとした現前(プレザンス)でありうるのは、記憶と期待によって成り立つ内的時間によるのであり、また、旅が私たちについてつよい印象、おどろき、感銘などをもたらすのは、土地それぞれの固有のリズム=時間との接触によるのである。

10 遍歴——知識の内面化

旅が面白いのは、行った先で思いがけない物事に出会って、出かけるまえの当初の目論見とはまるでちがった関心をもつようになったり、かなりちがったところに足をのばして深入りするようになったりすることがあるからである。だから、あらかじめあまり細かく計画を立てて予定以外に身動きできないようにしたり、余所見をしないでただ予定どおりに歩いたりしたのでは、旅としての魅力は半減する。なにも徒らにきょろきょろ余所見をするのがいいというのではない。そうではなくて、歩いていておのずと見えてくるものに対して目をふさがず、見えてきたものにつよく心を惹かれれば、それに深入りすることもおそれるべきではない、というのである。

〈知の探索〉において折角多くのものを見、沢山の書物を読みながら、硬直した見方や概念的な見方に囚われているために、対象のもつ豊かな問題性を貧しく平板なものにしてしまう人たちが少なくない。硬直した見方、概念的な見方によって対象に接するとき、対象は豊かな多義性をもあらわさなければ、問題として動き出したり躍動したりすることもない。そこでは対象=問題は、ただ単にいわば制製として標本化され分類されているにすぎないのだ。学問の名において、また科学の名においてそうした在り様がしばしば一般化した。そのために、〈知の探索〉が人々に、どんなに無味乾燥なものと思われるようになったことか。/ そのことは、知の探索において、ただ多くのものを見、多くの書物を読めばいいのではなく、どのようにものを見、どのように書物を読むかという、対象についての読解(知覚を含めた)の在り様にもかかわり、したがって次にここに、その在り様そのものが大きく問われることになる。硬直した見方、一定の価値判断に囚われた見方を排して事象そのものへと迫ろうとする〈現象学〉をはじめ、あらゆるものやことを記号としてそれが表わす意味作用を読みとろうとする〈記号学〉、また、すべての言説をその概念的意味だけではなく能記(記号表現)を重視して、多義的なものとして捉えようとする〈テキスト読解の理論〉などが、近年いよいよ重視されるようになったのは、そのためである。/ ところが、それらの方法や理論にしても、十分に使いこなされて対象=問題のもつ豊かな多義性への解明に役立てられず、方法のための方法、理論のための理論にとどまることがあまりにも多い。

このような着眼がきっかけになって、わが国西洋経済史学の閉鎖性を破る快著『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』(平凡社)が生まれることになったのである。この場合に〈知の探索〉が成功したのは、テーマとの最初の偶然的な出会いに際して、阿部氏のとった態度がよかったからであろう。つまり、一見自分の専門的研究と関係のなさそうな〈鼠捕り男〉=〈笛吹き男〉伝説に対して、心を開き、おのずとものが見えてくるかたちで接したからであろう。それに、私たちの見地からいっそう興味深いのは、この〈笛吹き男〉の話が、まさに笛を吹いて各地を通歴して歩く旅人にかかわっており、この話において旅と身体性と宇宙性とシンボリズムとが結びついていることである。それこそまさに、悪しき専門的閉鎖性の殻を破るにふさわしいテーマであったわけだ。

II 知の冒険へ 山口昌男

1 旅のはじまり・はじまりの旅

谷川俊太郎氏のこの文章は、二つの点で私の関心をそそる。その一つはそぞろ歩きの旅が気まぐれな側面、つまり好奇心を介して、知の旅へ転じるきっかけが、この文章において語られているということである。この部分を読みながら、私は、西アフリカで採集した昔話=神話におけるトリックスター“野兎”のことを想い出した。野兎は、町にじっとしていられなくて、「地の果てまで駆ける者」として語られる。彼は、玉の馬のマグサを刈るため、町から外へ出て行くが、好奇心のかたまりで、すぐ本来の使命を忘れて、脇道に外れ、出遭った廃屋にあがり込んでしまう。結果において、野兎は未知の事物をもたらし、人々の生活を活気あるものにする。谷川氏の語る「初めての道」を行く行為は、何も知の旅に限られたものでなく、言葉の未踏地、知的感受性の未だ探られていない部分を旅するという意味での、詩を書く行為に他ならないことは言うまでもない。/ 引用した谷川氏の一文の、私の関心をそそるもう一つの点は、探検=旅が「光より闇」、「人間の魂の暗黒をたずねる努力」にあると言い切っているところである。/ 旅には、たしかに日常の整除された空間から出て行くという動機が含まれている。何処へ向うか。一方では「視界の彼方」へと、他方では「精神の深淵」へという期待が旅には働いている。

2 旅の文体

旅をする時、目的をきめた上で、きちっとスケジュールを立て、前もって旅館を予約し、予算を立てて出発する人がいる。これに対して、目的もきめず、もちろんスケジュールなぞ気にせず、旅館の予約なぞ一切せず、予算を気にせず出発する人もいる。性格とかタイプの違いと言ってしまえばそれまでだが、ここにはやはり、スタイルの違いと言えるものがあるようである。直線的で厳格なスタイルが好きな人と、曲線的でルーズな道くさを喰うスタイルの好きな人との違いにそれは還元できるかも知れない。このように考えてみると旅もやはり人生の一種の縮図であるから、旅について言えることは人生についても言えるようである。生涯をきちっと予定を立てて過す人と、道くさを愉しみながら過す人のスタイルの違いを、特に後者に照準を合わせながら語った昔話に、日本版のトリックスター野兎とも言うべき、豊後の古ちょむ噺(ふつう「三年寝太郎」として知られている)がある。吉ちょむは、他の人のように、目標をきめて働いたりせず、三年間まったくのらりくらりと過す。ところが三年経つと人があっということを考えたり、実現したりして、生活の中に思いもかけない新しい要素を持ち込む。吉ちょむは、人が彼のことを怠けていると考えていた間に、定型化してしまったチャンネルをはずれるか、これをまったく別のものに組み変える方法を考えていたということになる。ただし、人によっては、反復的な作業をしている時の方が、色々と考え事ができるという人もいるから、これはまったく身ぶりと思考の関係が人によって違うと言うより外はないかも知れない。しかしながら吉ちょむ噺は、文化が、一般にうけ入れられるスタイルと反すると思われるような部分をも許容していることを示すものである。

旅についての二つのスタイルは、別の形で言えば、台本と即興性という演技の二つの型に還元することもできるようである。台本に定められた通りのコースを歩む旅には危険性が伴わない。あらかじめ定められたコースでは偶発性に由来する危険性は注意深く排除されている。色々冒険が仕組まれていても、それは解決可能な範囲に限られている。台本が扱える(消費できる)限りの現実の中でしか、台本は書かれない。特に身体と精神が演技という形で表現できる範囲に、台本の書き割りは限定される。/ これに対して即興性に基づく旅では、新しく現われる要素や事情に応じてスケジュールを立てなおし、時によっては軌道からどんどん外れて行く。従って振幅が極めて大きくなって行くけれど、また危険の伴うことも多い。ある意味では即興ということは、外見上即興に見えるだけで、それほど即興ではないということが言えるかも知れない。というのは、即興は、よほどの訓練を予め積んでおかないと成り立たないからである。イタリア喜劇の例を見るとよくわかるはずである。イタリア喜劇は本来即興に基づく滑替劇であった。台本などなく、各々の上演のたびに座長役者が、「今日はこれでいく」と粗けずりな筋を伝える。すると舞台で役者たちは、自分たちが各々自家薬籠中のものにしているラッチ(ギャグのような趣向)を場面に応じてどんどん取り出し、当意即妙の演技を展開する。であるから即興と言っても無から有をひねり出すわけではない。むしろかなりの場面に対応できるようなラッチに属するものを訓練によって蓄えておく。とすれば、二人のイタリア喜劇役者が演じたのはゲームのようなものであったはずである。一つの情景または場面について、一人がいくつかのラッチの中から選び出して問いかける。それに対して、またいくつかのラッチの中から選び出して他方が答える。

私にできるのは、知の旅について私が描いて来た見取図を語ることと、その見取図の通時的な動態を見てもらうことである。それは次のごとくである。/ 私が大学に入ったころ、世界はまったく動かないもののごとく受けとられていた。現実と言えば日常生活の現実だけを指し、現実が複数であると考えるきっかけすらなかった。一九五一年頃のことである。この頃、哲学は、この学問が第二次大戦中に演じた役割りの故に、知に飢えた若者の食指をそそるものではまったくなかった。哲学はその役割りを演じ切って消滅するのを待つばかりの知の形態であると考えられていた。世界解読の鍵は弁証法的唯物論にあるというのは、大学で意欲的に自からの知の射程を拡大しようとする若者が、余り疑いを挟(さしはさ)まず受け容れた前提ではなかったかと思われる。私などもこのまま、素直に学びの道を歩むことができれば、何も問題がなかったはずである。しかし、それを許さないのが時代であり、「目的地を過ぎても、どこまでも先へ行きたくなる」(谷川俊太郎)一人の人間のあり余る好奇心のなせるわざであった。

人はそれぞれ集中力を発揮する場所と対象があるが、私の場合に、それはむしろ本屋、古本屋めぐり、あるいは展覧会や音楽会のスケジュールを調整する方に発揮されたといえる。教科書型の勉強と、カタログ型の勉強の二つのスタイルがあるとすると、私の場合は、文句なしに後者に属する。教科書型は与えられたものをそのまま消化する能力であり、後者は選択型であるといえよう。本を読む愉しみの大部分は、ある本が前提とする知識の目録を作るところにあるというのが、私の長い間試みている本の読み方である。いきおい、参考文献目録を舐めるように読むということになる。参考文献目録から、私の知らない文献について導かれる愉しみもさることながら、文献を通して、こちらにとっては未知の一つのシステムが浮び上って来るのに出遭う驚きは新鮮なものであった。私がマルクス主義の著作から得た刺戟も、そうした方向からのものであったが、マルクス主義から遠ざかったのも、そうした刺激の消滅がきっかけであった。

それにしても、王権から知識人を中において道化にいたる、こうしたバラバラな関心を、どうして統一してよいかという見通しは、昭和三十年代の私にも、知の世界にも無かったように思われる。今流の言い方をすれば、私の関心は、当時存在していたパラダイムの中では満たし得ないものであった。当時私は次のような比喩を使ってこの分裂症的関心の拡がりを説明していた。それはちょうど、何本もの釣竿を使って釣をする太公望と同じようなものである。つまり、極端な場合、五、六本の竿から釣糸を垂れている。手応えあるものから引き揚げていけばよい。釣竿間の関係は、場所の選択から餌のつけ方に至るまで、本人が意識するとしないとにかかわらず、釣る人間の「主体」が貫かれているはずであると。

このトリックスターという神話の主人公の概念は、世界を対立と交換、そして交換を通しての変換過程と見なす立場の形成において重要な役割りを果しているが、私の知の旅において出遭った重要な里程標の一つにもなった。このトリックスターに対しては様々のレッテルを貼ることができる。曰く、いたずら者、秩序の擾乱者、混沌の使徒、神話的道化、気まぐれ者、予測不可能の行為をするもの、あらゆる矛盾を取りこむことができるもの、非連続の象徴等々......。それは、人間行為の中に潜んで重要な役割りを果たしているが、近代の正統的な思考の中にほとんど組み入れられることのなかった里程標であった。ついでながら、ギリシャ神話で典型的なトリックスターであるヘルメスは、本来ヘルム柱という十字路の里程標として、旅と交易の守護神であった。旅と交易は当然コミュニケーションを意味する。今日商科大学の校章に使われている蛇のからまった錫杖(しゃくじょう)(カドケウス)は、本来ヘルメスの所持品であった。であるからヘルメスは、むしろ本来は精神分析学者ノーマン・ブラウンが『ヘルメス』という著作で示したような泥棒の守護神であると共に、知の旅の守護神であってもいいはずである。ヘルメスのエジプトにおける原型であるトト神は、そういった知の神として理解されている。フランスの小説家のミシェル・ビュトールが『仔猿のような芸術家の肖像』(清水徹・松崎芳隆訳、筑摩香房)で描こうとしたのは、こうした策略神=知の守護神としての芸術家の姿であった。/ こうしたトリックスターとの出遭いは、私の知の旅のスタイルを決定するための極め手ともなった。

3 越境について——歩きながら考える

いつごろからか、私につきまとったある一つの疑問があった。この世界を構成している現実は果して単一のものなのか、眼に見える部分、可視的な部分だけが現実のすべてなのかという極めて素朴な問いであった。とはいえ、こういう書き出し方をしたからと言って、私は七面倒くさい認識論の論議を持ち込もうというわけではない。私は職業的哲学者ではないから、こうした疑問も古典の学習の中から出て来た訳ではない。何といっても時代の支配的風潮もあり、私の世界についての考え方はマルクス主義のリアリズムの影響下に形成されたと言えるからである。仮りにリアリズムから脱したとしても、社会科学の周辺を徘徊している限り、可視的現実の不動性は支配的なイデオロギーであった。

馬淵氏からエリアーデの『イメージとシンボル』を借りて読んだのもこの頃のことである。たしかエリアーデは一九六三年頃、国際宗教史学会に招かれて来日したはずである。旧師、岡正雄氏の「古日本の文化層」というウィーン大学の博士論文を読んでいて、岡氏に東京で会えたことを大そう喜んだと岡氏が語ったのは、この頃のことである。エリアーデが、学会で報告した「象徴」の問題について又聞きに聞いた「象徴とは一つの語またはイメージの中にいくつかの意味が未分化のまま負荷されている状態をさす」という表現が、この頃ひとしお気に入っていたことを思い出す。一対一の対応が倍号であるとすれば、それと対極をなすのが象徴であるという理解の上に立って、私は現実の重層性を考える手懸りを少しずつ掴みはじめていたはずである。象徴という言葉は戦前の日本では紋章程度にしか理解されず、戦後日本では法的な意味での象徴天皇制といった制度的側面においてしか考えられることはなかった。今の言葉で言えば、象徴とは多義的なアイコンであると一言で済ますことができそうであるが、象徴という言葉を位置づける思考の枠組が私の知の見取り図の中で形づくられつつあったと言うことができるかも知れない。

私が携わっている文化人類学は、レヴィ=ストロースが「人類学の父ルソー」(『構造人類学』所収、荒川幾男他訳、みすず書房)で示したように、本来西欧の理性仰に対する異議申し立ての学問分野として展開して来た。この点を軸にして一九六五年に、私は「日本における人類学の認識論的諸前提」(『新編・人類学的思考』所収)と題するエッセーを『思想』に寄稿した。この中で人類学を相対化の学と規定した私は、多様な現実を捉えるために現象学的視点を導入しなければならないことを説いた。今日でこそC・ギャーツをはじめとした人類学者が現象学的視点による人類学の展開を行なっているので、必ずしも定着しているとは言い難いが、目新しい視点ではなくなっているけれど、現象学的視点つまり、文化の中に内在する現実の諸相と人類学者の生きる現実の相対性を分析の視角に導入する方法は、当時、世界的にほとんど誰も問題にしていなかった。当時の社会科学は行動科学のごとく、現実を数量で処理できる範囲に閉じ込めることで満足していた。複数の現実がそういった処理を越える化物であるという認識は、ついぞなかったと言ってよい。こうした見通しに立った時、私は、いよいよ、近代の大学の学問が前提として来た認識論的囲い込みの柵を破って、外界に出なくてはならないと感じはじめていた。ちょうど、ジュクン族のトリックスター野兎が、町から原野へ自由に出入りするように、囲い込まれた現実からの越境を試みる時にさしかかって来ていたのである。

夢、無意識、祭り、極限状況、芸能、神話といったいくつかの人間的経験の枠組を通して見てもわかるように、人間は因果論的につじつまのあう方向だけに沿って生きているわけではない。こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮りにこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間は、こうした影の部分との秘かな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。そこで人間の生を構成する光と影の部分を対比させると前頁のような表を作成することができる。/ こうした二つの極を往還する作業が、一九七〇年以降の私の照準になった。「始原的世界の復権」「文化と狂気」(いずれも『新編・人類学的思考』所収)、『道化の民俗学』(新潮社)、『歴史・祝祭・神話』(中公文庫)といったいくつかの私の「知→非知」の旅の里程標は、社会科学における支配的なパラダイムを構成するイデオロギーに対するドン・キホーテ的な挑戦であったと言うことができるかも知れない。

4 旅の宇宙誌

そもそも旅にはどのような種類があるのか。といっても、外形から判断すれば、それは人間の数と同じだけあると言うことができるからきりがない。結局は、自らの経験を振りかえるほか、確実に何かを述べることは難しい。そこで、今度は、今私がその流れの中にある旅について述べてみよう。このように述べるのは、実際の地理的空間の移動としての旅は一九八〇年十一月から八一年一月にかけて行なわれたわけだが、旅というものが一つの時間ではなく、様々の時間の流れの中にあることが明らかになるからである。

旅の途中でふりかえってみると、私の旅はほとんどまわり道、より道で構成されている。その点で私の旅は、はじめに引き合いに出した西アフリカの昔話のトリックスター野兎のそれに似て来ていると言えるかも知れない。トリックスター野兎は、いつも王の馬のマグサを刈るために叢林の中に出て行くが、すぐ目的を忘れ、偶然視野に入って来るものに心を奪われ、それに埋没し、思いもかけない事物を町の中にもたらし、文化の未知の部分を開拓する。まわり道、より道に満ちた私の旅はまだ続く。「目的地を過ぎても、どこまでも先へ行きたくなる」(谷川俊太郎)。

一月二十三日(金)──ロンドンを発って、東京に向う。無理して日程をきりつめたような帰り方であったが、二十五日(日)の、私たちの世代の、最も知的に出した編集者の一人であった塙嘉彦氏の一周品に間にあうように、スケジュールが組んであったからであった。氏は、私のような即興の独り旅を知的放浪者として娯しみながら続けていた人間を、よかれ悪しかれ活字の世界に定着させた、知の旅のこよなき伴侶であった。従って、相変らずぶらぶら歩きを続けて止めそうもない私の旅(「イレギュリエ」ということばが、そうした当面の目的を定めず、ぶらぶら歩くスタイルを指すことばだと教えてくれたのも塙氏であった)を中断させたのも塙氏にまつわる行事であったのは、奇しき因縁であったが、これからも私の旅は、お遍路さんのようにこうした人の想い出を背負いながら続いて行くであろうことに間違いはないと思われる。

5 周縁への旅——埋れた「世界」との出遭い

未だ出遭ったことがないのに、別の道を並行して歩みつづけて、ある時、ふと極めて近いところを旅していたと思われるような著作及び著者がある。十一月から一月にかけての旅においてもそのような書物に出遭った。

何度も強調したように、情報過多に悩まされる我々の時代に、確固不動の知などというものはあり得ない。知というものが、積極的な形で存在するとすれば、それは、不可視の現実を可視のものとする作業の中にのみあるのではないかと思われる。安定した教養の体系の中に知が安住し、それをなぞることによって知的生活が成り立つと思い得るためには、我々を支える日常生活の現実は、余りにも頼りないものになってしまっている(もっとも私はこうした事実を大いに歓迎するものであるが)。/ この章で私の試みたのは、シャーマンの天空飛翔のごとき知の旅によって、歴史の可視的部分の裏側(谷川氏の言う「光より闇」)を垣間見せる充分な力量を示した、ギンズブルグの開拓した世界のパノラマを示すことにあったのである。

6 旅の軌跡

『闇夜の闘い』の序文の中で、ギンズブルグはこの書を「民の言仰の全体像についての歴史の分析」と規定している。私が、本書で、私個人の知の旅の軌跡をたどり、併わせて、自己顕示的とそしられるのを敢ておそれもせず、手の内を公開したのと似たような形で、ギンズブルグも、自らのテーマの展開の跡を二つの書の序文及び『闇夜の闘い』に付載されたダニエル・ファプレとの対談で語っている。

私は、ギンズブルグがこうした歴史の匿れた次元を顕在化するために試みて来た知の旅に使った里程標としての書物が、氏とまったく無関係に並行して、極東の知的後進国において、独り旅を長い間続けて来た私のそれと似ているのに驚いた。

旅の終りに

何度も強調したが、私たちは、知を知識と重なりあうものとしても理解しなかった。知識は知をもたらす道具建てであるかも知れないが、知は、むしろそうした道具の配置を置き換える技術の中にあると理解した。道具、または家具あるいは舞台装置のようなものとして、我々が生きる空間が整備されているとしたら、その道具立てに対する我々の関係には二つのあり方が考えられる。一つは道具あるいはデコールを色々な角度から計測すること、そして計測した結果を綜合してこれを「知識」と呼ぶ行為である。経験主義と呼ぶ、現実に対する態度はこうした技術を前提にして成立していた。これに対してもう一つのかかわり合い方は、一つの物体の姿は、それを異なった関係の中に置き換えてみるときに、それまで匿れていた部分、影にしかすぎなかった部分が姿を現わすので、新鮮に映るとする立場であり、我々は谷川俊太郎氏の言葉を借りて、むしろこうした行為を「知」と考えることから旅をはじめた。旅とは、そうした配置転換の技術と言えるかも知れない。家でも、間でも、我々が見慣れているすべてのものは、異なった環境に置き換えるだけで異なる相貌を示す。我々は、造化の神ではないからそうしたすべての事物を置き換えるようなことはできない。従って、我々の身体を移行させることによって、様々の事物を別の環境においてみるという可能性を実現するのである。西行の旅も、芭蕉の旅も、青江真澄の旅も、あるいは、空想の中の旅、つまりジョン・バニアンの『天路歴程』の中の旅も、『ガルガンチュア』の中のパニュルジュの冥界への旅も、ネルバルの東方への旅も、旅は、そうした、事物、さらに事物を通して世界の、その世界の裏側に拡がっている可能態としての世界を引きよせる知の技術であったと言えるかも知れない。そうした旅から持ち帰った手土産を、人は、詩、または哲学的省察、文学、絵画、その他のあらゆる表現技術を介して表現する。そこから、つまり知とは旅の過程そのものの中にあるという立場が導き出されて来る。別の言い方で言えば、ふつう「知的生活」と言われているものと、我々が「知」と呼んで来たものは、重なるようで、あまり重ならないということになる。「知的生活」とは、金で眠うことのできる一定のパックされた室内装飾のごとく、知識を身につけることを言うのに対して、「知」は、そうした、世間の目には「優雅」と見えるものから身を引く行為に始まる。客観的に語りうる、かつて「教養」という言葉で言い表わされていたような客観的に存在する「知的」と言われる構成体は、あるいは、パラダイムという言葉で簡単に退治される幻影であったのかも知れない。

私たちがカッコつきの「知」という言葉を過程として、また旅のメタファを使いながら説明して来たものこそ、こうした精神の動きに他ならない。旅というのはもちろんメタファである。従って身体を移動させる旅は、「知」の旅の動因であっても、十分条件ではない。身体が移動しても精神の移動を伴わない場合、「知」という行為は発動しそうにない。逆に身体の移動を伴わない精神の旅としての「知」の発動はいくらでもあり得る。結局「旅」に出るか、出ないかという選択は、世界を固定させるよう希むか、それが流動的な状態にあることを希むかという、二つの方向の中からなされるのかもしれない。

私が本書の共著者中村雄二郎氏と出遭ったのは、奇しくも本書の中で触れた一九六八年の西アフリカから日本への帰途という旅の中においてであった。「知」の中心と考えられていた哲学専攻の氏は、これまた「知」の中心の一つと考えられていたパリに滞在していた。「知」の周縁と考えられていた人類学の調査で、「周縁」の地西アフリカの奥地に滞在していた私は、偶然大使館で読んだ日本の新聞の消息欄で、「『思想』の思想史」で戦前から戦後にかけての日本の知のすぐれた見取図を描いた中村氏が一年間パリに滞在していることを知った。帰途パリに立ち寄った私は、大使館で中村氏の住所を知り、訪ねていった。私の『道化の民俗学』に哲学者N氏として出てくる、ピッコロ・テアトロのことを教えてくれた人は中村氏であった。私は、氏にジュクン族の宇宙論とか、その周辺の諸部族の瓢箪の装飾デザインの分析の話をした。当時、構造分析が燎原の炎の如く、「知」の分野を覆っていたが、中村氏は、私の視点が、そのような方向と並行関係にあることを直ちに見抜き、私を驚かせた。実を言うと、一面識も無いにもかかわらず、氏と会おうという気になったのは、私の専門分野における中村氏の世代に属している人たちの、私の世代の「知」のスタイルに対する無関心に私がいささかいらだっていたからに外ならなかった。氏を通して私は、私のような知の位相が決して孤立したものでないことを知った。ある意味では氏は私のような「知」の野人の理解者であり、すぐれた調教師であった。氏との接触を通して、私は「知」は「中心」と「周縁」の往還の過程にあることを確することができた。本来「中心」的「知」であった「哲学」を「周縁」に導き、「周縁」の知たる「人類学」的「知」を「中心」へと注いで、これを「周縁」化するのに、氏のここ十年の果した役割の大きさには、はかり知れないものがある。/ 氏も、私もまた時間性の中に「知」の位相をたしかめる「演劇的知」を世界解読のモデルとして使っているという事実は、我々をこよなき「知」の旅の伴侶とするに充分であった。こうしてここ五年の間、私は、氏と組んで「知」の往還運動を続けて来た。『現代思想』連載の座談会(福階秀部・中村・山口著『書物の世界』青土社)または、大江健三郎氏らを含めて編んだ『文化の現在』(岩波書店)、その前提となった「例の会」などの活動がそれである。中村氏と私の資質は随分違うと思うが、世界を根源的な地点から見直してみたいという熱情には共通なものがあり、この熱情の中に、「知」への関心を強烈に抱いている人を捲き込むのは、決して無益なことではなかろうという想いが、こうした変則的な書物の型として結実したといって、私たちが責められることもないはずである。「知」を演劇的な演技(パーフォーマンス)として示すために、旅というメタファが最も適しているという共通の意見が本書の始発の点であり到達点である。

知の旅への誘い (岩波新書) | NDLサーチ | 国立国会図書館 002 290.9