Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

塩崎省吾『カップ焼きそばの謎』早川書房(ハヤカワ新書) 383.81

表1にある糸井重里のコメント,余計だよな。それにしても,カップ焼きそば食いたくなってきた。バゴーン,石立鉄男,懐かしい。

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まえがき

カップ焼きそばの人気は、二〇一七年に出版された書籍『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(神田桂一・菊池良、宝島社)の大ヒットからもうかがえる。著名な文豪や文筆家の文体を真似たパスティーシュがツイッターで話題となり、書籍化されてシリーズ累計一七万部以上を売り上げた。発想と内容が秀逸なのはもちろんだが、数多くの読者がカップ焼きそばの作り方を一般常識として共有していなければ成立しなかった企画だろう。

世界初のカップ焼きそば発売は一九七四年のこと。つまり昨年二〇二四年に誕生から五〇周年を迎えた。本年二〇二五年は、新たな五〇年への第一歩を踏み出す年となる。半世紀に及ぶカップ焼きそばの歴史を振り返るには、いまがちょうどよいタイミングだろう。

即席麺メーカーで大手とされる会社は五社ある。日清食品・東洋水産(マルちゃん)・サンヨー食品(サッポロ一番)・明星食品・エースコック。その五社に、ペヤングのまるか食品、元祖のエビス産業を加えた七社は、それぞれ時代を画するカップ焼きそばを発売してきた。各メーカーの社風や経営理念、開発に至った経緯、発売時点の社会情勢などなど、商品の背景は様々だ。/ 本書では、それら時代を代表するカップ焼きそばを年代順に取り上げてみた。

プロローグ カップ焼きそば食べ比べ

二〇二五年六月九日付の『食品新聞』(六頁)の特集記事によると、二〇二四年度の日本国内での即席麺総需要は約六〇億食だった。そのうちカップ麺が六六%、袋麺が三四%の割合を占める。/ さらにカップ麺の生産食数、約三一億六〇〇〇万のジャンル別構成比は、ラーメンの醤油味が一六・四%、味噌味が七・二%、塩味が一二・三%。うどんが一五・四%、そばが九・〇%となっている。対するカップ焼きそばのシェアは、それらを凌ぐ一七・五%という高さで五億五千万食余りの生産量だった。/ つまりカップ麺のジャンル別でいうと、醤油ラーメンやうどんよりも、カップ焼きそばの方が売れているのだ。

カップ焼きそばは地域性による好みの違いも大きい。〈ペヤングソースやきそば〉は関東でのシェアが高いが、西日本では〈日清焼そばUFO〉の方が優勢だ。/ さらに北海道では〈やきそば弁当〉、東北・信越では〈焼そばバゴォーン〉の人気が圧倒的である。また四国では〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉が強い

第一章 幻の「世界初」 — 一九七四年〈エビスカップ焼そば〉

元祖カップ焼きそばの謎

世界で最初のカップ焼きそばは、一九七四(昭和四九)年の七月二〇日に発売された。商品名は〈エビスカップ焼そば〉。販売元はエビス産業という会社だ。/ 〈エビスカップ焼そば〉はどのような商品だったのか?その実態はほとんど知られていない。発売直後はある程度話題になったが、一~二年の間に他社から後発のカップ焼きそばが次々と発売され、ほどなくして市場から消えてしまった。

〈エビスカップ焼そば〉レビュー記事

成長著しいカップ麺業界にあって、ユニークな商品開発で知られるのがエビス産業株である。同社のカップ入り焼そばで特徴的なことは、湯を注ぎ数分後に容器に穴をあけてこの湯をぬくという方法で、焼そばの作り方としては画期的な方法で業界に一大改革をまき起こした。同社ではこの製品を49年7月に発売したところ、非常に好評で、売上高は前年度に比べて一気に倍増するという成果を収めた。

幅広の麺に液体ソース、かまぼこ入り

世界初の〈エビスカップ焼そば〉がどのような品だったのか、大まかな実態は把握できた。ではなぜその商品が、一九七四年にエビス産業というマイナーなメーカーから発売されたのだろうか? 日清食品のような大手から発売されるのが、自然なように思われるのだが……/ その謎を解明するための前提として、一九七四年に至るまで即席麺業界がどのように発展してきたのか、大まかな歴史を紹介しておこう。

即席麺業界の黎明期と大手五社

一九七四年当時の即席麺業界は、大手五社と中小メーカーの間での競争が過熱し、市場は飽和状態だった。大手五社とは、日清食品・東洋水産(マルちゃん)・サンヨー食品(サッポロ一番)・明星食品・エースコックを指す。これら五社の業界内でのポジションは、一九七一(昭和四六)年の〈カップヌードル〉登場以前、いわゆる袋麺だけの時代に確立されたものだ。

中でも画期的だったのは、一九六二(昭和三七)年に明星食品から発売された〈スープ付明星ラーメン〉だ。最初期の即席麺は〈チキンラーメン〉のような、揚げ麺に味付きスープを練り込んだ“スープ練り込み方式”しかなかった。しかし〈スープ付 明星ラーメン〉は、麺質向上のためにスープを別添えにした“スープ別添方式”だった。/ 〈スープ付 明星ラーメン〉の大ヒットで、即席麺業界は新局面を迎えた。スープが別添えになったことで、味付けの制約が大幅に緩和されたのだ。

テレビの普及とカップ麺の登場

即席麺の売れ行きには、味だけでなくテレビCMも大きく影響した。即席麺の市場拡大と時を同じくしてテレビが急速に普及し、一九六五(昭和四〇)年には白黒テレビの世帯普及率が九〇%を超えた。十分な宣伝広告費を割ける大手ほど、テレビCMで大きくシェアを伸ばすことができた。/ 例えば日清食品は一九六二年から一九六五年にかけて、『日清オリンピックショウ地上最大のクイズ』というフジテレビの番組の単独スポンサーを務めた。袋麺の即席焼きそば〈日清焼そば〉の発売はこの時期だ(一九六三年七月二日)。

そして一九七一(昭和四六)年九月。日清食品が〈カップヌードル〉を発売した。当初〈カップヌードル〉は、専用の自動販売機および百貨店・遊園地・KIOSK・官公庁などの特殊なルートでのみ販売され、スーパーや小売店には並ばなかった。価格が従来の袋麺の三倍程度に設定されていたため、食品問屋から高すぎると敬遠されてしまったのだ。しかし箸ではなくフォークを使い、野外で食べるというスタイルが、当時の若者=ヤング層に大いに受けた。

〈カップヌードル〉は業界内の予想を大きく上回る勢いで売上を伸ばした。さらに決定的だったのが、一九七二(昭和四七)年二月に発生した浅間山荘事件だ。長時間のテレビ中継で〈カップヌードル〉が注目を集め、爆発的な大ヒットへと繋がった。

高度成長期の終わりとともにカップ焼きそばが現れた

オイルショックの影響で、これまで拡大し続けてきた即席麺市場にもブレーキがかかった。高騰した原価を反映して、一九七四年の年頭に各社が一斉に値上げすると、販売個数はたちまち減少してしまった。

一九七四年、〈エビスカップ焼そば〉が発売された当時の即席麺業界は、右のような状況にあった。高度成長期の終わりとともに、カップ焼きそばは現れたのだ。

エビス産業の沿革と社風

〈エビスカップ焼そば〉を販売したエビス産業は、埼玉県大里郡妻沼(めぬま)町(現在は熊谷市)にかつて存在した会社だ。創業者は奈良原常太郎。創業年は一九四六(昭和二一)年。

そして一九四五(昭和二〇)年八月。終戦を迎えて軍需工場は閉鎖され、大勢の従業員が失職の危機に直面する。奈良原常太郎は、元製麺会社だった従業員の技術を活かそうと、郷里の妻沼町に戻って乾麺の製造業を始めることにした。爆弾生産から乾麺製造へ、大胆な方針転換である。/ さらに同書では、《奈良原社長は乾麺の裁断機の発明者》であり、《今日では全国の乾麺工場が例外なくエビス式裁断機の愛用者である》と、乾麺業界における奈良原の功績を紹介している。

即席麺の製造に着手したのは一九六ー(昭和三六)年だ。一九六九(昭和四四)年時点の主な販路は関東・東北が主力だった。カップ麺登場以前の広告が残されており、〈エビスラーメン〉〈エビスチャイナ〉などの商品を販売していたことがわかる

前述した通り、一九七三年一〇月に発生した第一次オイルショックの影響で、即席麺市場は飽和状態に陥った。中堅メーカーのひとつだったエビス産業は、創意工夫でどうにかして生き延びようとした。/ そうして生み出されたのが、一九七四年七月二〇日に発売された〈エビスカップ焼そば〉、世界初のカップ焼きそばだったのである。

カップ焼きそばシェア争いの幕開け

創業者ご親族の話によると、『純愛山河愛と誠』というテレビドラマで、〈エビスカップ焼そば〉のCMが流れていたらしい。同作品は一九七四年一〇月から翌一九七五年三月まで、東京12チャンネル(現テレビ東京)で放映された番組だ。残念ながらCMの詳細まではわからないが、放映エリアにおられた読者は内容をご記憶かもしれない。

エビス産業の狙い通りカップ焼きそばというジャンル自体は大当たりした。しかし一年も経たないうちに、競合がひしめき合ってシェアを争うレッドオーシャンと化してしまった。なんとも皮肉な展開である。

初めてのカップ焼きそば人気ランキング

カップ焼きそばが登場して約一年。いわば黎明期の商品群で人気があったのはどの銘柄か?/ 一九七五(昭和五〇)年八月一五日。三〇年目を迎えた終戦記念日の新聞『サンケイ経済版』に、カップ焼きそばの市場調査結果が掲載された

「食べた」「買った」の両方をあわせると四六・四%。登場して一年しか経っていないのに、すでに約半数のモニターがカップ焼きそばを手に取っていたことになる。さらに詳細な分析もある。

十代・二十代という若者の半数以上がカップ焼きそばをすでに食べていた。テレビCMの効果が大きかった時代だとしても、驚くべき普及速度である。

一番人気は日清食品の〈ジョイカップ101 焼そば〉だ。同商品はクロスレビューでも、最も評価が高かった。/ 二番人気はエースコック。やはり大手が強い。

深底の丸型容器がカップ焼きそばの標準

イラストに描かれているカップ焼きそばは縦型あるいは深底の円形容器だ。次の章で詳述するが、同年三月にペヤングソースやきそば)が、九月には〈カップ焼そばバンバン大判〉が発売され、どちらも角型容器だった。しかし同号の発売時はまだ角型容器の普及前で、カップ焼きそばは縦型あるいは深底の円形容器という認識が一般的だった。それがこのイラストから推測できる。

元祖カップ焼きそばのたそがれ

〈エビスカップ焼そば〉の発売から約一年が経ち、大手の後発製品が普及する一方、元祖カップ焼きそばの存在感は早くも薄れ始めていた。/ エビス産業も、手をこまねいているだけではなかった。創意工夫を再び発揮し、一九七五年九月一日に〈エビスカップ焼そば大判〉を発売。業界初のタイマー付き商品というのが売りだった。

創業者のご親族によると、後年のエビス産業はラドン温泉などの健康施設を運営していたそうだ。また『季刊エイジング』という産業誌の一九九六年冬号(五〇~五一頁)では、旅館の経営者としても紹介されている。エビス産業があった妻沼町には歓喜院聖天堂という国宝があり、その参拝客が宿泊するための旅館を営んでいたという。

第二章 角型容器で市場を席巻 — 一九七五年〈ペヤング ソースやきそば〉

半世紀愛される東の横網

カップ焼きそばの市場調査を行うと、人気の銘柄は東西で大きく二分される。関東を中心とした東日本で圧倒的な支持を集めるのが〈ペヤング ソースやきそば〉だ。/ 〈ペヤング ソースやきそば〉は今から半世紀前、一九七五年三月一三日に発売された。今年二〇二五年は、発売からちょうど五〇周年という節目の年である。発売元は群馬県伊勢崎市にある「まるか食品」。即席麺業界では中堅とされるメーカーだ。

まるか食品創業者・丸橋嘉蔵

まるか食品の創業者は丸橋嘉蔵という人物だ。/ 書籍『食品産業:企業のめばえ』(一九六九、日本食糧新聞社)(一五〇~一五一頁)によると、嘉蔵は一九〇五(明治三八)年に、群馬県佐波郡茂呂村(現在の伊勢崎市茂呂町周辺)にあった豪農の三男として生まれたという。

結局、丸橋嘉蔵は善一に説得され、一九六二(昭和三七)年四月に有限会社丸橋製麺工場を設立し、同年一〇月から即席ラーメンの下請け製造を開始した。さらに一九六四(昭和三九)年三月一七日には、即席ラーメン部門を独立した形で「まるか食品」を創設。社名は「丸橋」「嘉蔵」から一字ずつ取って、「まる」「か」と命名したそうだ(『日本経済新聞』二〇一四年一二月二八日、一〇頁)。

袋麺〈味の大関〉が大ヒット

まるか食品の転機は、一九六六(昭和四一)年五月におとずれた。袋麺〈味の大関〉を、小売価格一五円という当時としては破格の安さで発売し、それが大ヒットしたのだ。

〈味の大関〉の大ヒットは、まるか食品を大きく飛躍させた。前掲した『食品産業:企業のめばえ』は〈味の大関〉発売から三年後に出版された書籍だ。その中でまるか食品と〈味の大関〉は、《中小即席ラーメン業界の生き方に指針を与えたメーカー》《「味の大関」は当社の成長を決定づけた》《中堅への第一歩を踏み出した》と、高い評価を受けている。

〈ペヤング〉とは「若い二人連れ」?

〈味の大関〉発売から五年後の一九七一(昭和四六)年。九月に日清食品から〈カップヌードル〉が発売され、カップ麺に注目が集まった。消費者の予想以上の好反応を受け、まるか食品も参入を決意する。/ 開発を担当したのは嘉蔵の息子で当時専務だった丸橋善一。一九七三(昭和四八)年七月一三日、〈ペヤングヌードル〉というカップラーメンを発売した。〈ペヤング〉シリーズの誕生である。

「で、だんだんその袋ラーメンのブームからですね、カップラーメンのブームになりまして、当社でも社長の丸橋善一が、当時専務だったんですけど、カップラーメンっていうのが若者がターゲットになるんじゃないかということで、ま、お湯をかけるあったかいペアーアンドヤングっていう意味なんです」/ ──はぁ、そうですか。あのペアっていうのはつまりそのカップル。/ 「『ペアーアンドヤングラーメン』っていうのを作ったんですよ」/ ──あの、そのペヤングじゃなくて、ペアーアンドヤングで…。/ 「そう、ペアーアンドヤングで」/ ──売り出したんですね。/ 「発売しないで発表したの。ところがそのペヤングペヤングっていう風に注文がありまして、で、じゃロゴを変えようってことでペヤング」/ ──というのは、つまり取り次さんからですか?/ 「もう、お客さんから」/ ──お客さんからペヤングってもう言われちゃったんですか?/ 「もう、言われましてねぇ。ペアーアンドヤングラーメンとは言わないんですねぇ。ペヤングペヤングっていう、そんなことから」(一二九頁)

常識を覆す業界初の角型容器

〈ペヤングヌードル〉を発売した翌年の七月、〈エビスカップ焼そば〉が発売されて各社も続いた。そして翌一九七五(昭和五〇)年三月一三日、まるか食品によって〈ペヤングソースやきそば〉が発売された。/ 〈ペヤング ソースやきそば〉といえば、弁当箱を思わせる四角い角型容器が最大の特長だ。前章で紹介した『食品と科学』一九七五年九月号には、〈エビスカップ焼そば〉を含む六種のカップ焼きそばの写真が載っていたが、どれも〈カップヌードル〉のような縦型容器か、広口・浅底の円形だ(一九頁参照)。カップ焼きそばだけでなくスープ麺も含めて、当時のカップ麺の容器は縦型か円形しかなかった。そこに突然登場したのが、弁当型角型容器の〈ペヤングソースやきそば〉である。

質にも量にも妥協せず

丸橋善一は容器だけでなく、もちろん中身にも妥協しなかった。/ 一九八八年二月二五日付の『日本食糧新聞』の丸橋善一の述懐によると、麺は焼きそばに適した食味を目指し、ラーメンとは異なる麺質を心がけたという。

二〇二四年一二月八日にテレビ東京で放送された『バクタン 時を戻そう!ヒット商品が生まれるまで』という番組で、〈ペヤング ソースやきそば〉の開発秘話が明かされた。その中で、“麺には醤油が練り込まれ、揚げ油はパーム油とラードの混合油を使っている”と紹介されていた。醤油を麺の下味に使うことで、麺質が改善されたそうだ。

重量一二〇グラム、うち麺は九〇グラム。その満腹感も、〈ペヤング ソースやきそば〉の革新的な特長だった。

半年がかりの“生きたソース“

二〇二四年一二月五日付の『読売新聞』夕刊では、ソース開発時に丸橋八重子が《混ぜやすさと「生きたソースの味」を追い求めた》(三頁)とも紹介されている。/ テレビ東京『バクタン』によると、最終的に八重子がOKを出したのは、“ネギ油を隠し味に使ったソース”だった。おそらく普通に食べただけでは気づかないだろう。まさに隠し味である。

何度食べても飽きない味を

二〇二五年四月六日付の『毎日新聞』に、 〈ペヤング ソースやきそば〉を取り上げた記事がある。その中でペヤングホールディングス上席課長・小島裕太が、《オリジナルの味は50年間、全く変えていない》(WEB版より)と語っている。つまり麺もソースもかやくもふりかけも、当時のままだという。

キャベツ・鶏肉・青のり・紅生姜は、初期も現在も完全に一致している。ごまと香辛料はおそらく省略されているのだろう。〈ペヤングソースやきそば〉は、発売当時の麺・ソース・かやく・ふりかけのまま、現在も売れ続けている類まれなロングセラーなのだ。

四角い顔のテレビCM

丸橋善一は〈ペヤングソースやきそば〉発売に当たって、テレビCMにも力を入れた。/ 起用されたのは落語家の九代目・桂文楽(当時の名は桂小益)だ。筆者が所有する当時の販促物でも、若き日の桂文楽が満面の笑みを浮かべている(左頁)。

桂文楽のテレビCMは、他のバージョンも含めると一五年にわたって放送された。筆者が記憶に焼き付いているのは、三人の柔道着を来た若い客が登場するバージョンだ。/ 店主「どうだい味は?」三人「まろやか〜」/ 店主「もう一丁、行く〜?」/ 三人「押忍ッ!」

新商品発表会で予想以上の反響

一九七五年春、上野の東天紅で開かれた新商品発表会。営業担当の義雄は会場の控室で、開場を待つ招待客のこんな声を聞いた。「もう、いろんな焼きそばが出てるのにね」「何を今さら」。しかし招待客は会場に入ったとたん、一斉にどよめいた。四角い容器のために無駄なすき間も無く積まれた新商品。バックにはユニークなCMが大々的に流されていた。問屋を中心とした招待客は「四角なら箱にも詰めやすい」と、興味深々〔原文ママ〕だった。中身は液体ソースに、パック詰めの具材、表裏を逆に詰めためん。すべてが斬新だった。招待者の表情を見て、義雄は「これは、いける」と思った。(六頁)

角型容器を巡る二つの法廷闘争

さて、ヒットした商品は模倣されるのが、即席麺業界の常である。〈ペヤング ソースやきそば〉の反響を受けて、各社もそれに倣った角型容器のカップ焼きそばをすぐに販売し始めた。/ 一九七五(昭和五〇)年八月に東洋水産が〈マルちゃんやきそば弁当〉を発売。続いて九月五日には、エースコックから〈カップ焼そばバンバン大判〉が発売された。大手二社が続けざまに四角い容器のカップ焼きそばを販売開始したのだ。まだ増産体制が整っていない中堅のまるか食品にとっては、見過ごすことのできない大きな脅威である。

翌一九七六(昭和五一)年、エビス産業も〈角型カップ焼そば〉発売を発表した。まるか食品は今回も製造中止・販売差止の仮処分を裁判所に申請し、今度は認められた。詳細は不明だが一度敗訴した貴重な経験を活かし、万全の準備で臨んだのだろう。

貧乏学生から売れっ子作詞家まで愛食する存在に

ロッキード事件の黒幕、児玉誉士夫の邸宅に出入りする誰かがカップ焼きそばを食べていた。記者の日記には〈カップヤキソバの容器〉としか書かれていない。つまり容器だけでカップラーメンではなくカップ焼きそばと判別している。三月は〈日清焼そばUFO〉の発売前なので、おそらく角型容器だったのだろう。当時の東京でのシェアを考えると、その容器は〈ペヤング ソースやきそば〉だった可能性が高い。

さらにはこの時代、貧富にかかわらず食べているものに大きな違いはないという点にも注目したい。高度成長がもたらした“一億総中流階級”という国民意識は、こうした大量生産・大量消費の積み重ねにより形成されたものなのだろう。

四年で売上一三倍、七年後にはシェア六〇%

テレビCMを通して世間一般での認知度も高まっていた。たとえば一九七七(昭和五二)年に長野の松商学園からドラフト四位でロッテに入団したプロ野球選手の川島正幸は、顔が四角ばっているという理由で、入団一年目に先輩から“ペヤング”というあだ名をつけられたと述懐している(『週刊ベースボール』一九八二年三月八日号、一三頁)。

一九八八年二月二五日付の『日本食糧新聞』で丸橋善一は当時の状況をこう振り返る。/ あの当時の私共に、赤堀工場と今の規模の新工場があったらと仮定すれば、あの焼そばは全国に流せました。当時九州、北海道から大きな引合をいただきました。(九頁)

一九八二年一月二六日付の『日経産業新聞』は、《関東・甲越を中心に岩手県から愛知県まで一都十五県にまたがる販売地域に限ると》《六〇%強はペヤング製品》と報じ、《販売地域は拡大せず、“ペヤング”製品の定着、浸透をねらう作戦》(一〇頁)と伝えている。

ジャンプ黄金期の陰で盛り上がっていた「ペヤング算」

一九八九年、昭和から平成に変わるころには、〈ペヤング〉はカップ焼きそばを代表する銘柄として完全に定着していた。その頃の普及度を示すエピソードとして、少年漫画誌『週刊少年ジャンプ』で話題になった“ペヤング算”に触れておこう。

根強いファンに支持されるロングセラーに

二〇一回(平成二六)年一二月二日。”〈ペヤング ソースやきそば〉に虫が混入していた”。一消費者のそんな投稿が写真付きでSNSで公開された。初期対応の不手際もあって投稿は拡散し、いわゆる炎上状態になる。/ 一二月一一日、まるか食品は全商品の自主回収と全工場の停止を発表。半年間をかけてエ場を全面リニューアルし、徹底的な防止策を講じた。『日経ビジネス WEB版』二〇二〇年六月二五日の記事によると、工事費用は四〇億円に達したという。/ 販売休止中、従業員は一人も人員整理せずに、ボーナス二ヶ月分も含めて給与を満額支給。新入社員も受け入れた。それだけでなく販売休止で行場のなくなった在庫や、廃棄される食材・容器も、取引先から全て買い取った。まるか食品の経営理念を体現したようなエピソードだ。

〈ペヤング ソースやきそば〉は事件前の業績と比較して、最終的に五年間で売上がほぼ倍増するV字回復を成し遂げた。長年培われてきた〈ペヤング〉ファンの商品愛は、マスコミの想像が及ばないほど深く根強いものだった。

漫画『東京卍リベンジャーズ』で「ペアなヤング」が実現?

〈ペヤング〉ファンの熱意を実感できる近年の漫画作品を二備紹介しておこう。/ 一つは、二〇一七年から二〇二二年にかけて『週刊少年マガジン』で連載された『東京卍リベンジャーズ』という作品だ。作者は和久井健。不良少年たちのグループ抗争にタイムリープ(時間跳躍)のSF要素を加味したヤンキー漫画で、アニメ化・実写化もされて大人気となった。/ その『東京卍リベンジャーズ』に、二人の不良少年ー場地圭介と松野千冬ーが〈ペヤング ソースやきそば〉を半分ずつわけあって食べるというシーンがある。

「僕ヤバ」ヒロインを虜にする四角い容器

〈ペヤング〉ファンの熱意を実感できる近年の漫画作品、二つめは桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』だ。秋田書店が運営するWEBコミック配信サイト『チャンピオンクロス』で連載している作品で、『僕ヤバ』の愛称で知られている。内容は、主人公の男子中学生・市川京太郎とヒロイン・山田杏奈を中心としたラブコメで、二人の成長が丁寧に描かれている。/ その『僕ヤバ』だが、二〇二二年一〇月二五日に公開された「Karte・107 僕は楽しみ」(単行本第八巻収録)の冒頭で、食いしん坊のヒロイン・山田杏奈が、登校中に歩きながら〈ペヤング ソースやきそば〉を食べる様子が描かれている。

アレンジ版の新商品を次々と発売する理由

〈ペヤング ソースやきそば〉の味は、発売から五〇年間変わっていない。しかしアレンジを加えた製品は数多く発売されている。/ たとえばサイズ違いだ。一九九八年の麺一・五倍〈大盛〉、二〇〇四年の麺二倍〈超大盛〉、二〇一八年には麺四倍の〈超超超大盛GIGAMAX〉、二〇二〇年には七・三倍の超超超超超超大盛やきそば〈ペタマックス〉と、ボリュームアップした商品が順次発売されている(それ以前に発売された〈パーティーサイズ〉については第四章で触れる)。

まるか食品に限らず、他社でもロングセラーの派生商品を次々と発売している。それも同様の理由だろう。小売店での陳列スペースを自社商品で維持できる、という効果もある。

堅実経営という生存戦略で半世紀

ただ、そろそろ時が満ちたのかもしれない。二〇二五年一〇月二一日、まるか食品三代目社長だった丸橋嘉ーが会長職に退き、嘉一の次男・丸橋克守が四代目社長に就任した。同年一一月一八日付の『上毛新聞』によると、新社長は海外への輸出も視野に入れているという。/ ペヤング商品が海外にも受け入れられるのか、足を運んで試食や販売をして反応も見たい。品質のルールが厳しい米国から始め、アジアを視野に海外仕様のペヤングをいずれ輸出してみたいと考えている。(七頁)

第三章 「打倒! カップヌードル」後継者の挑戦 — 一九七六年〈日清焼そばU.F.O.〉

トップメーカーが誇るトップブランド

トップメーカーが誇るトップブランド〈日清焼そばUFO〉 は一九七六年に日清食品から発売されたカップ焼きそばだ。人気ランキングで長年一位をキープするトップブランドである。正確な商品名は〈U.F.O.〉とピリオドが付くが、縦書きだと間延びしてしまうため本文中では略させていただく。

〈チキンラーメン〉で即席麺という市場を創り出し、爆発的なヒットで急成長した日清食品だが、実はシェアー位の座から陥落した時期があった。また〈カップヌードル〉に次ぐ社運を賭した新商品が不発に終わり、余儀なく撤退を決断した手痛い失敗があった。/ それらの経験を踏まえ、安藤百福率いる日清食品は全く新たな戦略による商品開発を模索した。その新たな戦略で最初に生み出された商品が〈日清焼そばUFO〉だ。

〈カップヌードル〉発売初年度で業界二位

第一章で紹介した通り、安藤百福も自伝『魔法のラーメン発明物語』で《カップヌードルは火がついたように売れ出し、生産が追いつかなくなった》(一〇五頁)と振り返っている。〈カップヌードル〉は大ヒットしたが供給体制が追いつかず。結局、初年度の売上高は、袋麺165億円に対して〈カップヌードル〉は2億円という少額にとどまった。

安藤百福・日清食品は〈カップヌードル〉の類似品に法的措置で対抗するとともに、レッドオーシャンと化した即席麺業界への対処を検討した。〈チキンラーメン〉〈カップヌードル〉での成功体験を踏まえれば、革新的商品による新たな市場開拓が、同社のそれまでの基本戦略だ。/ その戦略に基づいて発売されたのがカップ入りの即席ライス、〈カップライス〉だった。

一九七五年一〇月〈カップライス〉発売

一九七四(昭和四九)年七月。〈エビスカップ焼そば〉が発売されたのと同じ月に、日清食品は新商品〈カップライス〉を発表した。カップに熱湯を注いで数分待てばご飯が食べられるという即席ライスだ。/ 安藤百福「魔法のラーメン発明物語』によると、〈カップライス〉は余剰米をどうにかしたい日本政府の肝いりで開発されたという。

“砂上の楼閣“から苦渋の撤退

〈カップライス〉は前評判のおかげもあって当初は大量の注文があった。しかし追加注文が全然入ってこない。安藤百福はスーパーで消費者の声を耳にして衝撃を受ける。/ 「高すぎます、カップライス一個で袋入りラーメンが十個買えますから」「よく考えると、ご飯は家でも炊けますからね」(『魔法のラーメン発明物語』一ー二頁)/ 〈カップライス〉の原料である米は、小麦粉に比べて原価が五倍。そのため一個二百円という価格設定にしたが即席麺に比べて高すぎた。〈カップライス〉は消費者の需要にマッチしない商品だったのだ。

一九七六年四月にマーケティング部を新設

〈カップライス〉での苦い体験を経て、安藤百福は日清食品の基本戦略を練り直す必要性を痛感した。『野田経済』一九七八年四月一九日号のインタビューでは、《これまでは一つ生み出しては一つ離していくということをやっていた》(六四頁)と語っている。たしかに〈チキンラーメン〉を発売し、競合が増えたら〈カップヌードル〉を開発して発売した。さらに〈カップヌードル〉の競合が増えてきたら、今度は〈カップライス〉を開発して発売した。”しかし、その手法には限界がある”というのだ。

一九七六 (昭和四一)年、四月一日。安藤百福率いる日清食品は、多様化する消費者ニーズを正しくとらえることを目的として、マーケテイング部を新設した。

マーケティング部初代部長・安藤宏基

一九九二(平成四)年に出版された『食足世平:日清食品社史』によると、マーケティング部の初代部長には、取締役開発部長だった安藤宏基が就任した(二三〇頁)。二〇二五年現在、日清食品ホールディングスの代表取締役社長・最高経営責任者(CEO)を務めている人物だ。

《いい商品は必ず売れるという強い信念》から、《すべての発想の起点を「消費者の欲求に応える」こと》へと、日清食品の企業戦略を大きく転換させる。その実現が新設マーケティング部の最重要課題だった。

カップ焼きそば開発が最初の任務

社長安藤百福が“カップ焼そば”開発の意向を初めて関係スタッフに明かしたのは、昭和51年3月28日の営業会議の席上であった。開発作業は4日後に発足するマーケティング部に一任される。(二三四頁)

容器で差別化、丸い皿型カップを採用

安藤宏基はカップ焼きそばを開発するにあたり、まずは容器での差別化をコンセプトに据えた。/ 当時、私は味や香りや具材で製品の差別化を図ることは難しいだろうと考えた。焼きそばやうどんを、カップヌードルと同じような縦型の容器で食べることにも抵抗があった。そこで最初にマネージャーに指示したのは、容器のバリエーション開発だった。(『カップヌードルをぶっつぶせ!』六七頁)

強烈な液体ソースとネーミング

まるか食品が〈ペヤング ソースやきそば〉で重視したのは、"何度食べても飽きのこない味”だった。一方、〈日清焼そばUFO〉は“一ヶ月に何回も食べたくなる”味を志向した。目指している地点は似ているようで全く違う。それが味付けの差として現れるのだろう。

当時、日本はUFOブームで、テレビや新聞では連日、目撃情報が飛び交っていた。また、謎の飛行物体を連想させるフリスビーやゲイラカイト〔三角型の凧の一種〕が売れていた。その場で「焼きそばUFOでいこう」と決まった。(六八~六九頁)

発売当初は湯戻し五分の太麺だった

〈日清焼そばUFO〉 は商品名の「F=太い」という語呂合わせの通り、太い麺を使っているのが特長のひとつだ。現在でも他社に比べて太い。しかし発売当初はもっと太かった可能性がある。というのも湯戻し時間が三分ではなく五分だったのだ。

一九七六年五月〈日清焼そばUFO〉発売

そして一九七六(昭和五一)年五月二一日、〈日清焼そばUFO〉が発売された。マーケティング部が発足し、カップ焼きそばの開発を任されてから、わずか二ヶ月足らずのことである。/ 余談になるが食品業界では、焼きそばなどの汁なし麺は基本的に夏の商材とされている。ラーメンやうどんなど熱々の汁麺は夏場に売上を落とす。かたや汁なし麺は夏にシェアが伸びる傾向にある。そのためメーカーが特に期待するカップ焼きそばの新作は、シーズン前の春に発売されることが多い。

初年度でシェア六〇%超の大ヒット

消費者のニーズに沿った商品開発に加え、メディアを使って認知を高めた効果もあり、〈日清焼そばUFO〉 は大いに売れた。マーケティング部が次に手掛け、八月に発売したカップうどん〈日清のどん兵衛きつね〉とともに大ヒットとなった。

発売二年目には漫画『エスパー魔美』にも登場

たとえば藤子・F・不二雄(当時は藤子不二雄名義)が、小学館の漫画誌『マンガくん』で連載していた『エスパー魔美』だ。一九七七年五月号の「未確認飛行物体」という回では、主人公の中学生・佐倉魔美が間食として〈日清焼そばUFO〉を平らげ、さらに空飛ぶ円盤の写真トリックに思い至る(単行本第二巻収録)。発売からわずか一年で、早くも漫画でギミックとして使われるほど、世間で認知されていたことがわかる。

一九七八年「パワーアップ作戦」で全面リニューアル

ピンク・レディーは当時絶大な人気を誇った女性デュオだ。一九七七年一二月五日、折からのUFOブームを取り入れた『UFO』というタイトルの新曲をリリースした。この曲が翌一九七八(昭和五三)年の音楽シーンを席巻する。一〇週連続オリコンチャート一位。レコード大賞受賞。販売枚数は一五五万枚。結果的にピンク・レディー最大のヒット曲となった。/ 日清食品はこの二人を〈日清焼そばUFO〉の広告宣伝に起用し、『UFO』に似た曲調のオリジナルソングをテレビCMに採用して大きな注目を集めた。

浮き袋キャンペーンで一五四万通の応募

インスタントラーメンのような薄利多売をせざるを得ない大的商品は、発売と同時に一気にブランド認知を図らないと生き残れない。ハイ・インパクト型の宣伝と、プレミアム・キャンペーンなどによる購買促進策が重要になる。それが、私がUFOの成功で掴んだマーケティング・ノウハウだった。 (『カップヌードルをぶっつぶせ!』七二頁)

東日本向けに味を変えた新商品を発売

日清食品は首都圏のカップ焼きそば市場を攻略すべく、一九八〇年三月に関東版〈日清ソース焼そばUFO〉を発売した。ソースの味を関東好みに変え、商品名に“ソース”という文言を追加した新商品である。広告でも二種類のパッケージを配置し、関東版を《ソースにも東と西があるとしたら、ずばり関東風》とアピールした(『総合食品』一九八〇年六月号、一六九頁)。

西で味を変える効果のほどは?

首都圏のカップ焼きそば市場を攻めあぐねていた日清食品は、一九八三年に味だけではなくパッケージのデザインも大幅に変更して、さらなる差別化と浸透を図った。/ しかしこのテコ入れでも東日本での売上は期待ほど伸びず、〈ペヤング〉のシェアを大きく切り崩すには至らなかった。一方、西日本の販売数量は安定して好調だった。/ 結局その二年後、一九八五年に〈日清焼そばUFO〉の味とデザインは元に戻された。

日清食品のカップうどん〈どん兵術〉は、一九七六年の発売当初から東西で味を変えており、それが成功している。しかしカップ焼きそばに限ると、味を販売地域に応じて調整するのは、東西どちらの場合も消費者のニーズにマッチしていないらしい。/ 基本的にカップ焼きそばは、麺やソースの差異よりも他の要が重視されるのかもしれない

新社長として「ブランド・マネージャー制度」を採用

一九九〇(平成二)年、それまでのプロダクト・マネージャー制を改めて、「ブランド・マネージャー制度」をしいた。目的はマネージャー間に競争構造を導入して、新製品の開発に弾みをつけることだった。(『カップヌードルをぶっつぶせ!』九五頁)

〈チキンラーメン〉〈カップヌードル〉〈UFO〉〈どん兵衛〉など、ブランドごとに「ブランド・マネージャー」(BM)を置き、カニバリゼーション(自社製品同士でシェアを奪い合うこと)をいとわず競わせる。安藤宏基はそんな組織を構築した。《BMはブランドの経営に全責任を負う「ブランド会社の社長」》(九九頁)とも説明されている。

「UFO仮面ヤキソバン」のヒットと止まらぬ進化

一九九三年から一九九五年にかけて、日清食品は〈日清焼そばUFO〉のテレビCMで、「UFO仮面ヤキンバン」というヒーロー物のパロディを放映した。/ 主役は俳優のマイケル富岡が演じるヒーロー・ヤキソバン。敵は外国人タレントのデイブ・スペクター演じるケトラーだ。ピンチに陥ったヤキソバンがお湯をかけられて強くなり、「ソースビーム」や「あげだまボンバー」などの必殺技でケトラー一味を倒す。そんな構成になっている。

一九九九年には「ターボ湯切り」を採用。蓋の一部を覆っているシールを割がすと、湯切り用の穴が多数開けられており、それらの穴から一気に湯切りできるという、シンプルながらも画期的な技術だ。蓋は蒸着されているため、湯切り時に蓋が取れてしまう危険がなくなり、”麺ダバー”の恐怖から解放された。これ以降、安心してカップ焼きそばを作れるようになったのだ。

第四章 カップ焼きそばが「食事」になった — 一九八八年〈スーパーカップ 大盛りいか焼そば〉

〈スーパーカップ〉シリーズの第一弾

”東のペヤング、西のUFO”というカップ焼きそばの勢力地図は、二〇二五年現在に至るまでの約五〇年間、基本的に変わっていない。ただこの五〇年の間に、二大巨頭をヒヤリとさせる後発商品は何度か現れた。そのひとつが、一九八八年にエースコックから発売された〈スーパーカップ 大盛りいか焼そば〉だ。/ 同社の〈スーパーカップ〉シリーズは、一般的なカップ麺に比べて一・五倍もの麺が使われている。そのボリュームが最大の特長だ。詳しくは後述するが、同シリーズの食べ応えがリリース当時の消費者ニーズにピタリとはまって大ヒットした。しかも、単に発売元・エースコックの売上を伸ばしただけではなく、カップ麺の可能性を大きく広げ、即席麺業界全体を飛躍させる結果に繋がった。

即席麺の草創期には業界二番手

エースコックの創業者・村岡慶二は、一九四八(昭和二三)年に大阪の住吉でパンの製造販売を始めた。食糧難の中、商売は繁盛して一九五四(昭和二九)年に梅新製菓という会社を設立。パンからビスケット・クラッカーへと主力製品を変えた。しかし大手に押されて、事業は伸び悩む。そんな中、次の新商品を模索して行き着いたのが即席麺だった。/ 日清食品が〈チキンラーメン〉を発売した一九五八(昭和三三)年の翌年、一九五九(昭和三四)年に〈北京ラーメン〉を発売。同年一〇月には、〈エースコックの即席ラーメン〉通称〈エースラーメン〉を発売した。「エースコック」というブランド名は、この時点から使われ始める。即席麺業界の大手五社の中では、日清食品に次ぐ参入二番手の古株だ。

カップ麺に注力するも業界六位に転落

一九六四(昭和三九)年に社名を「エースコック」へと変更。しかし〈即席ワンタンメン〉に続くヒットがなかなか出ず。後発の明星食品・サンヨー食品・東洋水産に抜かれてしまい、一九七〇(昭和四五)年度には業界五位へと追いやられてしまった

翌一九七四(昭和四九)年の一二月五日には〈カップ焼そばバンバン〉を発売した。テレビCMには、俳優・石立鉄男と雑誌編集者の嵐山光三郎を起用。「自分でバンバンしなさい!」というフレーズがお茶の間に受けたそうだ。

一九八一年、サンヨー食品の連結子会社に

本業の即席麺で伸び悩むエースコックは、多角化で始めたゴルフ場経営の失敗などもあって、経営状況がさらに悪化する。その結果、一九八一(昭和五六)年七月、エースコックは、〈サッポロ一番〉ブランドで知られるサンヨー食品から資本提携を受け、同社の連結子会社になった。

一九八〇年代に即席麺市場が低迷

ところで一九八〇年代(昭和五五年~)に入ると、即席麺の市場が成熟に達したのか、需要に陰りが見えはじめた。/ エースコックがサンヨー食品の連結子会社になった頃、『総合食品』一九八一(昭和五六)年七月号に、《”限界説”飛び交う即席めん業界》という特集記事が掲載された。一九八〇(昭和五五)年の即席麺出荷量が四二億食だったという実績を踏まえ、おおまかに“国民が即席麺を食べる頻度の平均は五日に一回”と計算し、限界の予感を次のように伝えている。

コンビニの普及でカップ麺の需要も低下

一九八〇代後半、日本がバブル経済期に突入したころ、コンビニエンスストア(以下、コンビニ)やファストフードが日本中に普及し、日本人の生活スタイルや嗜好は大きく変化した。なかでもコンビニの影響は大きかった。

実際にこれまでの章で紹介した通り、カップ焼きそばは朝食や間食として消費されていた。/ 即席麺業界の希望だったカップ麺まで、こうして市場の限界が囁かれるようになった。そんな中、エースコックはサンヨー食品との資本提携以来、活気を取り戻していた。

箸で持ち上げてわかる差別化

サンヨー食品と資本提携する数ヶ月前、一九八一(昭和五六)年三月に、エースコックはカップ焼きそばの新商品へいか焼そば)を発売し、好調な売行きを見せていた。また提携直後の同年八月に発売したもち入りカップ麺〈うどん〉も好評だった。/ さらに消費者の健康志向の高まりもあって、一九八三(昭和五八)年には即席麺業界でわかめラーメンがブームになった。エースコックも六月に〈わかめラーメン ごま・しょうゆ〉〈同ごま・みそ〉を発売した。石立鉄男を起用したテレビCMを活発に展開し、「お前はどこのわかめじゃ?」の台詞が流行して大ヒット。同時期に他社からも類似商品が発売されたが、エースコックの〈わかめラーメン〉は今でもロングセラーとして売れ続けている。

カップ麺の量は十分か、という素朴な疑問

商品開発のきっかけはマーケティングの技術スタッフの一人が「即席メン、とくにカップメンに消費者は不満があるのではないか」という疑問を投げかけたことだった。/ そのスタッフはまだ入社二年目の若手とあって、どうもカップメンが現在の量では物足りない、というのであった。/ この疑問は、さっそくマーケティング部の大きなテーマとなった。(『オール生活』一九八九年八月号、一七三頁)

まずはモニター調査で実態をつかもうと企画調査課が動きだした。/ 結果は意外なことに、量については概ね満足という答えが九〇%を占めていた。これでは議論の余地はないところだが、言い出しっぺの若手技術スタッフはどうしても割り切れないものがあった。(『オール生活』同号、一七三頁)

「量に不満を感じるのは、決して自分一人だけではないはず」と調査の結果はどうであれ、自分の勘が正しいことをじて疑わなかった。(同前)

潜在的な消費ニーズを顕在化

普通のカップ麺を食べさせて感想を聞いただけでは、潜在的な需要まで汲み取ることができない。きっと彼はそう考えたのだろう。まったく逆の発想での調査方法を考案した。すなわち袋麺のボリュームと等しい九〇グラム=通常の一・五倍の麺量のカップ麺を自分で作り、企画調査課に再調査を依頼したのだ。

結果はどうだろう。量的には前回より五〇%もアップしているカップメンにモニターになった人のほぼ全員が「量については概ね満足」という答えを出している。さらに驚いたことに「この量はいつも食べている」と答えた。(同前)

「これまでの商品は消費者のニーズが十分に生かされていなかったわけです。六〇グラムのカップメンしかないのですから消費者もこんなものなんだと思ってしまっていた。ところが九〇グラムという商品が出ることによって、これまで潜在化していた本当の消費ニーズが顕在化されたわけです」(一七四頁)

一九八八年二月〈大盛りいか焼そば〉発売

大型カップ焼きそばの発売に当たっては、新銘柄を立ち上げるのではなく、《根強いファンを持つエースコックの定番商品として人気があった》、既存の〈いか焼そば〉をリニューアルする形が採用された。

人間が違いをはっきり意識するのはルート2以上である。「ひとよひとよ…」を超えた差があると、人は心理学的に差を意識する、だから思い切って1・5倍にしましょう、と。そしてデジタル表示にする、と。これまでラーメン屋さんというのは大盛りとか替え玉はあっても、1・5倍といったデジタル表示はなかったんですね。(『産経新聞』二〇二〇年九月二四日、一二頁)

テレビCMには、それまで〈いか焼そば〉のCMに出演していた石立鉄男をそのまま起用。それに加え、若者に人気だった女性アイドル・立花理佐も共演し、ターゲットとしている世代にアピールした。

〈ペヤング〉に肉薄する大ヒット

二月に発売された〈大盛りいか焼そば〉だが、反響を得るまでには少しタイムラグがあったようだ。『エースコック50年史』によると、コンビニでは最初から好調だったが、本格的に売れ始めたのは気温が高くなる四月に入ってかららしい。

後発品もコンビニ中心に爆発的ヒット

〈大盛りいか焼そば〉発売から五ヶ月後の一九八八年七月。並行して準備が進められていた汁ものの大型カップ麺・三種が、エースコックから発売された。/ 商品名は〈スーパーチャーシューラーメン生しょうゆ仕立て〉〈スーパーみそラーメン生みそ仕立て〉〈スーパーとんこつラーメン博多味〉。まだ正式なシリーズ名はなく、〈スーパーラーメン〉や〈大型カップ麺〉などと総称されていた。/ この三種は発売直後から爆発的に売れた。

一九八〇年代のコンビニの普及により、一部でカップ麺の需要低下が危ぶまれた。しかし、エースコックはそのコンビニを利用する十代・二十代の若者層に潜在的ニーズを見出し、変容した生活スタイルにピタリとハマった商品を生み出すことに大成功したのだった。

カップ麺を主食に高め、エースコックは業界四位に

翌一九八九(昭和六四/平成元)年の年明けに三種を追加し、ラインナップを拡充。同年三月には日本食糧新聞社が主催する昭和六三年度「食品ヒット大賞」を受賞した。授賞理由として《カップめんを間食品から主食品への地位に高めた》《爆発的なヒット、即席めんの流れを変えてしまう売れ行き》などのコメントが寄せられたという(『エースコック50年史』九四頁)。

若者以外も魅力的に感じる満足度

一九四七年一二月生まれの山上たつひこは、右の回の掲載時点で四一歳だった。すでに中年に差し掛かっていた彼にとって、一・五倍はヘビーに感じるボリュームだったのだろう。それでも《この量が魅力的なのは確か》と述べ、アレンジ次第で《完璧にうまいよ》とポジティブな評価を与えている。若者中心にブームとなった〈スーパーカップ〉シリーズだが、ミドル世代にもしっかりと受け入れられていたようだ。

一九八九年、カップ麺の販売数が袋麺を逆転

〈スーパーカップ〉シリーズはエースコックだけでなく、同業他社にも大きな影響を与え、カップ麺の大型化を促進させた。特にカップ焼きそば市場での反応は顕著だった。

大型カップが定着、エースコックはベトナムに進出

一九九〇(平成二)年に入ると、大型カップ麺の売上は下降線をたどりはじめ、ブームとしては一旦落ち着いた。といっても、単にブームが終わったというわけではなく、大型カップ麺はその後もジャンルとして定着した。/ エースコックの業績も同年に高止まりし、明星食品に再逆転され、業界五位のポジションにおさまる。

二〇一九年、平成の終わりに無念の販売終了

二〇一九(平成三ー/令和元)年、好調な〈焼そばモッチッチ〉と入れ替わるように〈スーパーカップ 大盛りいか焼そば〉は販売を終了した。発売から三一年目で、根強いファンも多かったが、二〇〇〇年以降の売上低迷と、数年に渡るイカの不漁による原価高騰が主な理由だ。

第五章 袋麺の王者が放ったスマッシュヒット — 一九九二年〈サッポロ一番おたふくソース焼そば〉

袋麺トップシェアのサンヨー食品

一九九二年に発売された〈サッポロ一番おたふくソース焼そば〉も、一時的に〈UFO〉〈ペヤング〉の二強に迫ったカップ焼きそばだ。何度もリニューアルされ、現在の商品名は〈サッポロ一番オタフクお好みソース味焼そば〉に収まっている。実は一度、販売を終了したこともある銘柄なのだ。/ 販売元はサンヨー食品というメーカーだが、〈サッポロ一番〉というブランド名の方が通りがよいだろう。袋麺の〈みそラーメン〉や〈塩らーめん〉、カップ麺の〈カップスター〉など、同ブランドの商品にはロングセラーが多い。/ サンヨー食品の即席麺のシェアは、二〇二五年現在、グループとして業界三位。袋麺に限ればトップシェアを誇る。

“東のラーメン王“井田毅

サンヨー食品の初代社長は井田文夫という人物だ。戦前から群馬県前橋市で酒販店を営んでいたが、一九五三(昭和二八)年、長男・数の勧めで転業し、富士製麺を立ち上げる。〈サッポロ一番〉というブランド名が有名なので、北海道のメーカーだと思い込んでいる人も多いそうだが、創業の地は群馬だった。

この市場をつくった安藤百福さんを表敬訪問しようと関東の同業者のみなさんと大阪にある日清食品にお邪魔したことがあります。安藤さんは製造現場も何一つ隠すことなく案内してくださいました。「なんて開けっ広げな人なんだ」と心底、驚きました。33歳くらいの頃〔一九六三年頃〕です。(同前)/ “西のラーメン王”安藤百福と、将来の“東のラーメン王”井田毅のファースト・コンタクト。なんとも運命的な場面である。

〈サッポロ一番〉シリーズで業界トップに

井田毅は〈長崎タンメン〉が大当たりしたのを受け、次の商品も地名を冠した名前に決めた。それが〈サッポロ一番〉だ。/ 長崎タンメンで当たったので、商品名に「札幌」を付けることはすんなりと決まったのですが、「札幌ラーメン」では類似品が出てくる恐れがあり、やめました。〔中略)誕生したのが「ラーメンサッポロ一番」。スープを別添方式にして、ニンニクのきいた新しい味を実現、乾燥ネギを入れたのも良かったと思います。(『日本経済新聞』二〇一二年六月二八日夕刊、九頁)

慎重さと大胆さ、異能のセンス

井田毅は自分の味覚の確かさを指して、“俺の舌は百万ドル”と自称していたそうだ。袋麺の〈サッポロー番〉トリオも、色褪せぬその味に注目されることが多い。ただ、味に加えて、あえて統一していない商品名やパッケージにも長く売れ続ける理由の一端が潜んでいるのではないか。筆者にはそう思えてならない。

一九七五年〈サッポロ一番カップスター〉発売

毅は袋麺専業から商品の多様化路線に舵を切る決心をした。まずは、市場の感触を確かめるため、試運転的に73年夏、「サッポロ一番スナック」を市場投入。その手応えをもとに、約1年半かけて商品を練り上げて、75年年明け、「サッポロ一番カップスター」を発売した。(『サッポロ一番を創った男 井田毅』一三三頁)

〈サッポロ一番〉5食パックで袋麺のシェアを安定化

〈サッポロ一番〉トリオの5食パック販売は様々な効用があった。消費者にとっては定番商品を割安で購入できる。小売店にとってはまとめ買いされることで客単価があがる。そしてサンヨー食品にとっては商品棚の自社占有率を高め、他社が割り込む余地を狭めることができる。/ サンヨー食品は5食パックによって袋麺市場でのシェアを安定化させ、トップの座を確固たるものにした。後年、二〇一一年の東洋水産〈マルちゃん正麺〉と二〇一二年の日清食品〈ラ王〉の連続ヒットで、二年間だけトップの座から陥落した。しかしすぐに返り咲き、二〇二五年現在も“袋麺の王者”のポジションを維持している。

一九九二年三月〈サッポロ一番 おたふくソース焼そば〉発売

〈お好みソース〉ほどの知名度はないが、オタフクソースは一九六〇年から〈焼そばソース〉も販売している。筆者が調べた限りだが、“焼きそば専用”を謳ったソースとしては、おそらく日本で初めて発売された製品だ。サンヨー食品のカップ焼きそばは、その〈焼そばソース〉をベースにしたカップ焼きそばだという。 〈長崎タンメン〉や〈サッポロ一番〉など、サンヨー食品は“地名を冠した商品名”で成功を収めてきた。〈おたふくソース焼そば〉も、広島という地域性を感じさせる商品名だ。また僧然にも発売の前年、一九九一年には山本浩二監督率いる広島東洋カープがセ・リーグで優勝した。その流れに乗って、カップ焼きそばも大当たりできたのだろうか?

発売直後は〈ペヤング〉を抑えて売上二位に

毎年春にカップ焼きそばの新製品が発売されるが、《「おたふくソース焼きそば」は例年の2倍のペース》で売れたそうだ。初年度は幸先の良いスタートを切ることができた。

残念ながら二シーズンで販売終了

この年、一九九三年も序盤は売れ行き良好だったようだ。『酒類食品統計月報』の同年五月号によると、甘口のオタフクソースが差別化につながり、《動きは西日本地区の方が良く、焼そばの上位に顔を出している》(五二頁)と報じられている。しかし翌一九九四(平成六)年は販売休止になった。/ 実はニシーズン目の一九九三年は、第三章の最後に紹介したヤキソバンのCMが大人気を呼んだ年だ。CMの影響で〈日清焼そばUFO〉のシェアが伸びた一方、〈おたふくソース焼そば〉を含む競合商品は低迷したのではないか。具体的なカップ焼きそばの各社売上データはないが、そのように推察される。/ 発売当初は”〈ペヤング〉や〈大盛りいか焼そば〉を抑えて、売上二位”という華やかなデビューを飾った〈おたふくソース焼そば〉だが、たったニシーズンで姿を消してしまった。ただし、まだ後日談がある。

世界で一・二のシェアを誇る康師傅の筆頭株主

一九九八(平成一〇)年六月。サンヨー食品社長の井田毅と、副社長の井田信夫が揃って勇退し、毅の長男の井田純一郎が三代目として社長を次いだ。三六歳という若さでの就任である。/ その翌年、一九九九(平成一一)年の四月。アジア通貨危機の影響で、中国最大の食品会社・天津頂益国際食品有限公司(以下、頂益)が経営危機に陥っている。そんなニュースがサンヨー食品にもたらされた。/ 頂益は台湾の頂新グループが大陸に創設した会社で、即席麺や飲料水などを製造・販売するメーカーだ。以前、サンヨー食品が中国進出を試みた際、同社経営陣との人脈が作られていた。/ 社長の井田純一郎と相談役の井田毅は、状況をつぶさに把握した上で支援を決意。同年六月に約一七〇億円で三三%余りの株式を買い取り、頂益との資本提携を締結した。

一九九九年〈サッポロ一番おたふくソース焼そば〉復活

ところで〈おたふくソース焼そば〉が一旦販売終了したのは、一九九四(平成六)年二月だった。そのちょうど一年後。一九九五(平成七)年の二月に、カップ焼きそばの市場を大きく揺るがすできごとがあった。もしかしたらその影響もあって、サンヨー食品がカップ焼きそばのマーケティング戦略を一から練り直し、一九九九年に〈おたふくソース焼そば〉を復活させた可能性もある。そのできごととは何か?/ 〈UFO〉〈ペヤング〉のシェアをもおびやかす、強烈な存在感の第三勢力。〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉の登場である。

第六章 三強時代のはじまり — 一九九五年〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉

カップ焼きそば二〇年目の新時代

二〇二五年現在、ウェブサイトなどでカップ焼きそばの人気投票が行われると、〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉はほぼ必ず三位圏内に入ってくる。発売は今から三〇年前の一九九五(平成七)年二月だ。/ 一九九五年は、まさに激動の年だった。一月には阪神淡路大震災が、三月には地下鉄サリン事件が発生した。〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉は、その狭間に発売されたことになる。

武蔵野の地で創業した「麺の明星」

明星食品は一九五〇(昭和二五)年、東京都三鷹市=井の頭公園の西側にあたる武蔵野の地で創業した。創業の中心となったのは京都府舞鶴市出身の奥井清澄と、愛媛県松山市出身の八原昌元という二人の男性だ。

ちなみに社名は創業地の通称「明星台」から命名された。その通称も、大正一三年に同地で創立された明星学園に由来するらしい。

ちなみに即席麺の大手五社の中で、創業時点から製麺を本業としてきたのは明星食品しかない。乾麺や即席麺だけでなく、ゆで麺やパスタも長年手がけていた。それもあって同社は”麺の明星”という二つ名で呼ばれることもある。

“スープ別添方式”で業界を代表する大手に

一九五八(昭和三三)年に日清食品が〈チキンラーメン〉を発売した。その大ヒットを知った奥井清澄は、即席麺を自社で製造できないか、一九五九年の夏頃から研究を開始する。翌一九六〇年の正月には工場規模での試作に取り掛かり、同年五月に〈明星味付ラーメン〉を発売。即席麺業界に参入した。

韓国・三養食品に無償で技術供与

一連の経緯をまとめたノンフィクション小説、村山俊夫『インスタントラーメンが海を渡った日』の表紙には、発売当初の〈三養ラーメン〉のパッケージが〈スープ付 明星ラーメン〉と並んで掲載されている(右の画像)。

台湾・ベトナムへも技術供与、両国でロングセラーに

さらに明星食品は、台湾の味王酸酵工業股份有限公司への技術供与もおこなった。

長期低迷の後、袋麺〈中華三昧〉が大ヒット

一九七三(昭和四八)年には奥井清澄が死去。一九七九(昭和五四)年に東証二部へ上場。そして一九八〇(昭和五五)年九月、故・奥井清澄の盟友、八原昌元が新社長に就任する。/ 明星食品の社史『めんづくり味づくり』によると、八原昌元は社長就任の挨拶で、明星食品の「第三次創業」を宣言したという(四四二頁)。乾麺製造を軌道に乗せた時期が「第一次創業」。スープ別添方式で躍進した時期が「第二次創業」。それに匹敵する成長を、という決意表明だ。

一九九〇年代、バブル崩壊で再び苦境に

バブル崩壊によって社会全体の消費が冷え込み、即席麺業界は再び安売りが横行するようになった。それだけでなく第四章で触れたように、コンビニやファストフード、持ち帰り弁当チェーンなどが八〇年代に普及し、中食・外食産業が即席麺の手強い競合相手となっていた。/ さらに外食チェーン店による低価格競争=外食デフレが始まった。一九九二(平成四)年にすかいらーくが「ガスト」一号店をオープンし、ハンバーグステーキを三八〇円という安さで販売開始。それに引っ張られるようにして、他の外食チェーンも低価格戦略を取り始める。/ 即席麺業界も影響を免れなかったが、エースコック〈スーパーカップ〉シリーズが牽引したおかげで、カップ麺の市場は着実に成長を続けていた。一方、袋麺は下落傾向が止まらなかった。/ カップ麺より袋麺を主体とする明星食品は、同業他社に比べて大きな影響を受けた。特に高級志向の袋麺<中華三昧)は低価格路線に転ずるわけにもいかず、売り上げが伸び悩んだ。/ この状況を脱するために、カップ麺のヒット商品が急がれた。しかし、一九九一年に発売した生タイプのカップラーメン<夜食亭)は発売直後に失速。期待に遠く及ばない売上不振を招いた。

〈明星一平ちゃん〉シリーズ発売

商品企画担当によると〈一平ちゃん〉は「こってり味」を志向したという。「いっぺん食べたら、やめられない」というキャッチコピーの通り、中毒性の高さを狙ったのだろう。

一九九〇年代初頭は「環七ラーメン戦争」「背脂チャッチャ系」など、こってり味のラーメンが注目され始めた時期である。バブルの崩壊で高級グルメよりもエネルギッシュな味への回帰が始まっていた。〈一平ちゃん〉の狙いは、そうした時代の変化に沿ったものだった。

〈一平ちゃん〉ヒットするも、創業以来の赤字決算

ラインナップも順次強化された。発売から二ヶ月後の一九九三(平成五)年三月には東日本エリアで〈たっぷり野菜タンメン〉が、五月には西日本エリアで〈こってりとんこつ味〉が追加され、販売エリアを拡大していった。/ しかし、ニシーズン目の一九九四年は猛暑で、即席麺全般の売り上げが低調だった。一九九三年九月に発売された袋麺〈明星一平ちゃんコクしょうゆ味〉や翌年三月発売の〈一平ちゃんミニカップ〉二種の売り上げも低調に終わった。さらに〈夜食亭〉の不振やアメリカ進出の失敗が重なった。

ー九九五年二月〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉発売

「二〇代の独身男性層がターゲット」「下町をイメージさせるこってり味」。それがカップ麺〈一平ちゃん〉シリーズのコンセプトだ。〈夜店の焼そば〉にも同じコンセプトが踏襲された。そして採用されたのが、ソースねり込み麺とからしマヨネーズだった。

「麺の明星」が試行錯誤したソースねり込み麺

一平ちゃん夜店の焼そばの「こってり味」は、長い道のりの末に完成した。/ 発売以前、明星食品では濃い味の焼そばを目指して、ソースで着味した麺をフライ麺にしたカップ焼そばを販売していた。ところがフライヤーの油の劣化が激しく、フライヤーの油の管理に苦労していたのだという。/ その経験を活かし、試行錯誤の末に開発したのが、麺を練る段階でソースを加える製法だった。この製法が開発されたことで、スパイシーなソースの香りの、香ばしい麺が完成。さらに細麺を採用して、濃厚なソースと絡まりやすくした。(『賞伝会議』二〇一五年四月号、一三六頁)

からしマヨネーズで「こってり味」を実現

〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉の最大の特長といえば、からしマヨネーズだ。商品企画担当者は、からしマヨネーズを採用した理由についても、こってり味を追求したためだと語っている。

絶好調の売行き、黒字化への糸口に

〈夜店の焼そば〉の売行きは発売当初から絶好調だった。一月に発生した阪神淡路大震災の影響による仮需もあって、即席麺全般の売上げが拡大したが、〈夜店の焼そば〉の売行きは新製品の中でも群を抜いていた。

単品で年間売上げ八〇億円の大ヒット

前述した通り、一九九四年の年末に就任した明星食品・社長の大谷善教は、一九九五(平成七)年一月に開催された専門紙記者との懇談で、《三年後にはカップを五割以上に》という目標を披露していた。袋麺に依存した体質からの脱却は、明星食品の悲願だった。/ その目標も〈一平ちゃん〉シリーズ、なかんずく〈夜店の焼そば〉のおかげで、思いのほか早く実現できた。『激流』一九九六(平成八)年六月号によると、一九九五年の時点でカップ麺は五五%を達成したという。

カップ焼きそば市場のシェアが拡大し通年商品へ

〈明星一平ちゃん夜店の焼そば〉は爆発的に売れた。当然、コンビニやスーパーの売り場で一定の面積を占めることになる。ただカップ焼きそばの売り場から、ロングセラーの定番商品〈UFO〉〈ペヤング〉を外すわけにはいかない。〈大盛りいか焼そば〉も売れているし、季節限定のスポット商品も発売される。/ その結果、カップ焼きそば自体の売り場面積が拡がり、即席麺市場における同ジャンルのシェアが拡大した。/ 一九九六(平成八)年六月一〇日付の『日本食糧新聞』によると、同年一~四月のカップ麺・袋麺を合せた即席麺全体の生産数は前年比で一・五%減だった。その中でカップ焼きそばは〈夜店の焼そば〉が火付け役となり、一〇%も拡大したという。

〈夜店の焼そば〉がヒットしたことでカップ焼きそば自体の売り場面積が拡がり、結果的に競合する他社のカップ焼きそばも陳列されやすくなった。かつてエースコックの〈スーパーカップ〉シリーズが、カップ麺市場全体を活性化させたのと似たような構図だ。/ 即席麺という市場は、各メーカーが必死に競争し合うことで活性化し、新たなジャンルが開拓されて成長し続けてきた。競争相手がいなければ、これほどの市場にはならなかったことだろう。それを実感させるエピソードである。

マヨネーズ付き先行商品と「マヨラー」流行

仮に〈夜店の焼そば〉の売れた理由がマヨネーズだけだとしたら、これらの先発商品が大ヒットしてもおかしくないはずだ。しかし実際には市場から消えてしまった。東洋水産の〈バゴォーン〉シリーズに至っては、一九九六(平成八)年ごろから東北・肩越地方の限定販売となり、関東以西は〈昔ながらのソース焼そば〉という新製品に切り替えられた。/ つまり〈夜店の焼そば〉が売れた要因は、からしマヨネーズだけではない。麺やソース、商品名やパッケージ、テレビCM・プロモーションなど、複合的なマーケティングが成功したことで大ヒットに繋がった。そう捉えるべきである。

前述した通り、一九八〇年代に消費者の嗜好が大きく変化し、マヨネーズが様々な料理に使われるようになった。そのうえで一九九五年に〈夜店の焼そば〉が登場することで、マヨネーズの汎用性に気付かされた消費者も多かったと思われる。コンビニやファストフードの普及が「マヨラー」増加の主因だったのだろうが、〈夜店の焼そば〉の果たした役割も小さくなかったように思う。

業界初の「油そば」もロングセラーに

一九九七(平成九)年の四月に発売された〈明星 油そば〉についても触れておきたい。/ 「油そば」はラーメンの麺と醤油ダレを使った、汁なしの和え麺・まぜそばだ。発祥については、東京都国立市の「三幸」、あるいは武蔵野市境の「珍々亭」という二つの説がある。/ 長年、「油そば」は東京の西部エリアで限定的に食べられていたが、一九九五年三月に吉祥寺でオープンした「ぶぶか」というラーメン店がメニューに採用した。それをきっかけに急速に広まり、多くの店が「油そば」を提供するようになった。/ あまり知られていないが、「ぶぶか」は明星食品グループの外食部門を担う会社が運営するラーメン店だった。二〇二五年現在は部門ごと他社グループ傘下になっているが、明星社員のラーメンマニアが社内ベンチャーとして企画し、創業の地にほど近い吉祥寺で開業した店である。/ つまりカップ麺〈明星 油そば〉は、グループ企業の実店舗で販売されている看板メニューの商品化だった。即席麺業界で初めての「油そば」だ。

再びの赤字から株価低迷、敵対的TOBへ

翌一九九九(平成一一)年九月期は黒字に転換したが、その後も業績は伸び悩み、株価は緩やかに下落し続けた。『実業界』一九九九年一〇月号によると、一九九七年に五百円台だった株価が、一九九九年には三百円を切ってしまったという(一〇九頁)。/ 一方、明星食品の経営から離れた創業者一族は、持ち株を「スティール・パートナーズ」というアメリカのヘッジファンドに売却した。二〇〇三(平成一五)年末に明星食品の筆頭株主に収まったスティール・パートナーズは、翌年さらに村上ファンドからも株を大量購入。全明星食品株の二三・一%を保有する大株主となった。/ そして二〇〇六(平成一八)年一〇月二七日、スティール・パートナーズは株式公開買付け=TOBを発表する。直前の株価六〇九円に対し、提示された買い取り額は七〇〇円。仮に過半数の株式を取得できた場合、明星食品の経営権はスティール・パートナーズに渡ることになる。/ 明星食品の経営陣はそれに反発。自社を正当に評価し、より高い金額で株式を買い取ってくれる会社──敵対的TOBを阻止する”ホワイトナイト”──を探すことを決定した。

二〇〇六年、日清食品グループ傘下に

明星食品の要請を受けて最終的に“ホワイトナイト”となったのは、長年のライバル・日清食品だった。一一月一五日、日清食品社長の安藤宏基(第三章参照)と、明星食品社長の永野博との間で資本業務提携が結ばれ、友好的TOBが発表された。提示した買い取り額八七〇円への応募が多数あり、スティール・パートナーズも保有株を全て日清食品に売却した。/ その結果、一二月一五日には友好的TOBが成立し、同月に日清食品が明星食品を連結子会社化。翌年三月には株式交換により完全子会社化された。

カップ焼きそば三国時代の幕開け

一九九五年、〈夜店の焼そば〉が発売された当時、〈日清焼そばUFO〉はテレビCMのヤキソバンシリーズで盛り上がっていた。しかし、強力な競合相手が現れたことでシェアが低下し、たまたまかもしれないが、テレビCMも翌年から切り替わった。とはいえ、ジャンル一位の座は揺るがなかった。/ 一方、〈ペヤングソースやきそば〉は〈夜店の焼そば〉の急上昇で、市場占有率はジャンル三位に転落してしまった。ただ売上げが大きく下がったわけではなく、根強いファン層に支えられていた。/ こうして〈UFO〉〈一平ちゃん〉〈ペヤング〉という三つのブランドが競い合う、カップ焼きそば三国鼎立の時代が幕を開けた。

第七章 オープン価格帯の頂点に立つダークホース — 二〇一〇年〈マルちゃんごつ盛りソース焼そば〉

コンビニには売られていない隠れた大ヒット商品

あなたは〈マルちゃんごつ盛りソース焼そば〉をご存知だろうか?もちろん食べたことがある読者もおられるだろうが、正直なところ知名度は低い。筆者の周りに確認したが、実食した人はほとんどなく、商品名さえあまり知られていない。この本の担当編集者も知らなかった。/ 認知されていない最大の理由は販路だろう。詳しくは後述するが、〈ごつ盛りソース焼そば〉は一般的なカップ焼きそばとは異なり、オープン価格帯と呼ばれるジャンルに属する。主な販路はスーパーやドラッグストアだ。ボリューム満点でお得感のあるカップ焼きそばとして、陳列棚やワゴンに山と積まれている。

水産品の加工から国内シェア二位の即席麺メーカーに

東洋水産は社名の通り、もともと水産品を取り扱う会社だ。創業者は森和夫。静岡県の賀茂郡田子村(現在の西伊豆町)という漁村の出身だ。

一九六三(昭和三八)年に発売した袋麺〈たぬきそば〉でシェアを伸ばし、一九七八(昭和五三)年発売のカップうどん〈赤いきつねうどん〉、一九八〇(昭和五五)年のカップそば〈緑のたぬき天そば〉も大ヒットした。そのことから東洋水産は、和風ジャンルの即席麺に強いメーカーと業界内で位置付けられている。

北海道・東北・静岡で圧倒的シェア

水産物を加工するのが本業だったため、東洋水産の工場は大きな漁港の近くが多い。即席麺に参入する前年の一九六〇(昭和三五)年に静岡県の焼津工場を建設。一九六四(昭和三九)年に北海道の札幌工場、一九七〇(昭和四五)年には青森県八戸市に尻内工場を建設した(後の八戸東洋)。また一九七一(昭和四六)年には福島県の伊達食品を子会社化し、商号を福島東洋に変更した。

その結果、他社がまだ手をつけていないエリアの即席麺のシェアを、東洋水産は独占できた。「経済知識』一九七三(昭和四八)年二月号で、即席麺市場における東洋水産の地域別シェアが報じられている。それによると東京は二〇%・関西エリアは五%なのに対し、東北と静岡は四五%という高さに達している。北海道に至っては八五%という圧倒的な占有率だ(八八頁)。

ー九七五年発売の〈やきそば弁当〉は北海道限定に

カップ焼きそば市場に東洋水産が参入したのは、一九七五(昭和五〇)年三月六日発売の〈マルちゃんホット焼そば〉が最初だった。同年八月の首都圏を対象としたカップ焼きそば市場調査では、かろうじてランキング六位に商品名が載っていた。得票率はわずか一・二%だ(四一頁参照)。

〈やきそば弁当〉には、湯戻し後に捨てるお湯を再利用した粉末の中華スープが付く。〈やきそば弁当〉の代名詞ともいえるこのスープは、発売当初に販促用のおまけとして付けたキャンペーンが始まりだった。

北海道の工場で作られ、北海道民の好みに併せた甘めの味付け、温かいスープ付きというスタイルに落ち着いた〈やきそば弁当〉。その後、現在にいたるまでの五〇年間、北の大地で圧倒的なシェアを維持している。

一九七九年発売の〈焼そばバゴォーン〉は東北・信越で

北海道以外ではどうなったか。一九七九(昭和五四)年三月一五日に〈マルちゃん焼そばバゴォーン〉が発売された。最初は中京エリアから、その後北海道を除く全国に展開された。

商品名については、現在公式サイトで次のように説明されている。/ BAGOOON(バゴォーン)は、元々アメリカンコミックなどの中でピストルの発射音として使われていた擬音です。1979年の発売当時メインターゲットである若年層に、「自分の夢や将来の目標に正確に照準をあわせ頑張って欲しい」との思いを込め名前をつけました。

八〇年代、各メーカーからカップ焼きそばの新商品が次々と市場に投入される中で、〈バゴォーン〉は善戦した。特に東北では強かった。

日清食品とは対照的な販売戦略

〈やきそば弁当〉や〈バゴォーン〉に限らず、東洋水産の即席麺は袋麺・カップ麺とも地域限定が多い。グルメ情報サイト『みんなのごはん』で二〇二二年二月二四日に配されたライター・辰井裕紀の記事によると、同社の地域限定商品は約五〇種類もあるらしい。

カニバリゼーションへの対応方針に限らず、日清食品と東洋水産の販売戦略は対照的である。

日清食品は広告宣伝でブランド価値を高め、コンビニでの定価販売に重点を置く。それに対し、東洋水産は条件対応での販売促進を主軸とする。/ 東洋水産にもテレビCMの印象が強い商品があるが、それはごく一部で、基本的には広告賞伝をかなり抑えている。同記事によると、東洋水産の手法の場合は、広告宣伝に予算を割くよりも販売促進に力を入れた方が、費用対効果は高いらしい。/ それを踏まえると、東洋水産が地域限定商品を多発するのも納得がいく。広告宣伝を戦略の起点に位置付けている場合、全国的にブランドを統一することで、マスメディアを使った広告が最大限の効果を発揮する。一方、広告富伝しない場合、ブランドを統一するメリットは比較的小さい。むしろ個別のブランドとして扱う方が、当該市場の嗜好・状況に即した商品展開が可能になり、取引条件・出荷量調整などの小回りがきいて臨機応変に対応できる。

安価と満足度を両立させた〈ごつ盛り〉シリーズ

二〇〇八年九月のリーマンショックで小麦価格は一時的に下落したが、それ以上の不況が追い打ちをかけてきた。株価の下落、賃金の減少から個人消費は急速に冷え込んだ。そんな状況下で、東洋水産が発売したのが新ブランド〈マルちゃんごつ盛り〉シリーズだ。

二〇一〇年〈マルちゃんごつ盛りソース焼そば〉発売

大型カップラーメン三種が発売された翌年の二〇一〇(平成二二)年三月一日、〈マルちゃん ごつ盛りソース焼そば〉が発売された。/ 先行した三品と同じくニュースリリースはないのだが、WEBアーカイブで当時の商品ページを発掘できた。商品説明はごくあっさりした内容だ。/ 麺130g、スパイス感のあるブレンドソースに「キューピーからしマヨネーズ」が付いた大盛ソース焼そば。

現在販売されている商品を実際に食べてみると、もちっとした中細麺にスパイスと果実の風味を感じるまろやかなソースが絡み、からしマヨネーズで全体を引き締めている。そんな印象を受ける。具のキャベツはわずかで麺の量がかなり多いが、最後まで食べ飽きず、満足度が高い。

〈ペヤング〉不在で〈ごつ盛り〉躍進

〈マルちゃんごつ盛りソース焼そば〉に大きな動きがあったのは、二〇一五(平成二七)年のことだ。/ 二〇一四(平成二六)年の年末に、〈ペヤングソースやきそば〉の異物混入事件が発生した。まるか商品は全商品を自主回収すると同時に、全工場を停止。販売再開する二〇一五年六月まで、半年もの間〈ペヤング〉が店頭から姿を消した(第二章参照)。/ その間に、〈ごつ盛りソース焼そば〉は大きく売上げを伸ばした。

二〇二三年には売上げ一位に

さらに二〇二〇(令和二)年の世界的な新型コロナ禍、二〇二二(令和四)年のロシアによるウクライナ侵攻で、小麦粉や石油価格、人件費が急騰した。原価の高騰を受けて各社の即席麺が段階的に値上げを繰り返す一方、オープン価格の〈ごつ盛りソース焼そば〉は相対的に割安感が高まり、さらに売上げを伸ばした。

コンビニの陳列棚を巡る権謀術数

オープン価格帯の〈ごつ盛りソース焼そば〉はコンビニで売られていない。それだけでなく東洋水産の〈マルちゃん〉ブランドのカップ焼きそば自体、──北海道〈やきそば弁当〉と東北・信越〈バゴォーン〉は例外として──コンビニで見かけることはまずない。

ただ〈マルちゃん〉ブランドはなくても、東洋水産のカップ焼きそばは存在している。実はセブンイレブンとファミリーマートのプライベート・ブランド(以下、PB)、「セブンプレミアム」や「ファミマル」のカップ焼きそばを、東洋水産が製造しているのだ。

カップ焼きそばのシェアが話題に上がると、〈UFO〉〈ペヤング〉〈一平ちゃん〉に注目が集まりがちだ。東洋水産=〈マルちゃん〉ブランドのカップ焼きそばについては、北海道や東北・倍越など地域限定での人気の高さにのみ触れて終わることが多い。しかし実態を掘り下げてみると、東洋水産はオープン価格帯や各社PBの製造など、消費者の目に止まりにくい販路を通じて、想像以上にカップ焼きそば市場のパイを確保していることがわかる。

創業者・森和夫の人となり

ふたつ目の理由は“アピールが苦手な社風だから”という予想外の答えだった。それを聞いて筆者は驚いたと同時に、とても納得できた。その社風はおそらく創業者由来の伝統なのだろう。/ 東洋水産の創業者・森和夫は恥ずかしがりで、自分が表舞台に立って注目を浴びることを好まなかった。自伝の類はなく、インタビューなどを探してもあまり残っていない。/ ただし森和夫を主人公に据えた『燃ゆるとき』という経済小説ならある。

これらのエピソードから想像できるように、森和夫は誠実さや公正無私を旨としていた。口下手だが曲がったことが嫌いで真っ正直。しかもノモンハン事件の生き残りだけあって、いざというときの胆力と決断力を持ち合わせている。生前の森を知る人々の評価から、そんな人物像が見えてくる。

東洋水産に息づく森和夫イズム

会社を愛し尽くした森さんだが、さりとてオーナー経営者にありがちな公私混同を何よりも嫌い、みずからを厳しくしていた。「身内は会社に入れないのが主義だ」と公言し、それを実行した。いても地方の子会社に遠ざけ、決して本社の中枢に置くようなことはしなかった。 (『週刊水産タイムス』二〇一一年八月二二日号、一頁)

過剰なアピールは慎み、誠意をもって淡々と製造・販売に進する。東洋水産の〈マルちゃん〉ブランドは、そんな泥臭い経営方針によってシェアを拡大してきた。

麺類全体で売上高1位!〈マルちゃん焼そば 3人前〉

東洋水産の寡黙で地道な経営方針・販売戦略を象徴する商品がある。全国のスーパーの冷蔵コーナーに積まれている〈マルちゃん焼そば 3人前〉だ。/ 〈マルちゃん焼そば 3人前〉は、一九七五(昭和五〇)年に発売された、焼きそば用の蒸し中華麺だ。冷蔵で保存・流通するこの種の麺類は「チルド麺」と呼ばれる。

その〈マルちゃん焼そば 3人前〉がどのくらい売れているか。POSデータを調べてみると、実は全ての麺類で最も売れていることがわかる。チルド麺はもちろん袋麺やカップ麺、素麺・パスタなどの乾麺も含めた全麺類の総合ランキングで、金額ベースでも販売数でも、一〇年以上にわたって圧倒的なトップシェアを維持し続けている。

二〇二五年にはカップ麺〈マルちゃん焼そば〉発売

二〇二五年三月、東洋水産は〈マルちゃん焼そば〉というカップ焼きそばの通年販売を開始した。このカップ麺は、チルド麺の〈マルちゃん焼そば 3人前〉をカップ麺化した商品だ。二度の期間限定販売を経たのち、〈マルちゃん焼そば3人前〉の発売五〇周年を記念して、正式に通年販売されることになった。

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エピローグ 麺を蒸して揚げるということ

明星食品の創業メンバーで四代目社長を務めた八原昌元は、各メーカー創業者の功績と競争の重要性について、自著で次のように述べている。/ 殊に「チキンラーメン」や「カップヌードル」のような先駆者的な商品を開発された日清食品の安藤百福会長の功績は大きいと思います。また「サッポロ一番」という不のロングセラー商品を開発されたサンヨー食品の井田毅社長、そして背骨がしゃんとして常に前向きに挑戦している東洋水産の森和夫社長、それにひかえめにみえながら常に新しい企画を考えているエースコックの村岡慶二会長、そして最後に業界との協調を図りながら常に独創的な商品の開発を心掛けていた明星食品の奥井清澄社長(故人)。この人たちの旺盛なバイタリティとフレキシビリティによってインスタントラーメンの業界が急成長をとげ、世界の八十ヶ国に普及する「世界の食品」になったのだとしみじみ思います。 (『食の原点に生きる』一二四頁)

あとがき

いわば、ソース焼きそばが中華料理の「ヤキソバ」のパロディとして生まれたのと同様に、カップ焼きそばはソース焼きそばのパロディとして生まれた。カップ焼きそばは本質的な意味において、ソース焼きそばの正当な後継者なのだ。

これも詳しくは「あんかけ焼きそばの謎」を読んでいただきたいが、ソース焼きそばのパロディの元ネタである中華料理の「ヤキソバ」は、実はカタ焼きそばだった。カタ焼きそばはかん水入りの麺を蒸し、その蒸し麺をパリパリになるまで油で揚げる。/ この揚げ麺の作り方は、基本的に〈チキンラーメン〉など一般的な即席麺と同じ工程だ。違いは麺自体に味を付けることと、お湯で柔らかく戻して食べること。ノンフライ麺や生麺を使う場合は例外だが、カップ焼きそばも含めてほとんどの製品は麺を蒸してから揚げている。つまり麺を茹でてスープに浸すラーメンやうどん・そばよりも、カタ焼きそばの方が即席麺に近い存在なのだ。/ 極論すれば、油揚げ麺を使った即席麺はすべてカタ焼きそばの発展型である、という解釈も成り立つ。もちろんカップ焼きそばも例外ではない。ゆえにカップ焼きそばも焼きそばの一種だ。

カップ焼きそばの謎 (ハヤカワ新書 ; 050) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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