Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

筒井康隆『誰にもわかるハイデガー : 文学部唯野教授・最終講義』河出書房新社 134.96

ここにあるように『存在と時間』の本質が倫理的なもの――人間は死すべきものであり,それを不安に思うから良心を持とうとする――のだとしたら,頑張って読む意味ないな,と思った。

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ハイデガーの基本用語

第一講

被投 企投 開示 現存在(ダーザイン) 平均的日常性 平均的日常性 道具的存在者 配慮的気遣い 世界内存在 事物的存在者 実存 本来性・非本来性 共存在(共現存在) 顧慮的気遣い 世人 情状性 語り 頽落

第二講

空談 空文 好奇心 曖昧性 不安 恐れ 驚愕 戦慄 仰天 狼狽 未了 最極限の未了 先駆 先駆的了解 証し良心 責めあり(責め) 先駆的決意性 時間性 到来 既在 現成化 瞬視 時熟 時間内存在

第一講

1 なぜハイデガーか?

ハイデガーというのはご存じのとおり、二十世紀最大の思想家と言われている人です。 そのハイデガーが三十七歳のときに、一九二七年ですけれども、書いたのがこの『存在と時間』です。二十世紀最大の哲学書と言われている難解な本で、これが中央公論社版の「世界の名著シリーズ」のハイデガー、これ一冊まるまる『存在と時間』なんですね。二段に分かれてぎっしりと難しいことが書かれているんです。

解釈学とは何かと言いますと、ハイデガーの哲学のことを「解釈学」と言うんです。フッサールの哲学のことは「現象学」と言っています。解釈学といっても「唯野教授」に出てくるのは文学理論としての解釈学なんですけれども、どうせ同じことなら、元であるところのハイデガーの『存在と時間』をひとつ読んでやろう、というので読んだんです。

今テキストにしているのは中央公論社版で、原佑さんと渡邉二郎さんが訳していらっしゃいます。これのほうがずっとわかりやすいです。そういうふうにして二つの訳を参照しながら読んだんですね。

2 「現存在」ってどんな存在?

たとえばこの本の中に出てくるいちばん重要な言葉は、現存在(げんそんざい)という言葉です。これは早く言ってしまえば、人間のことなんです。僕はドイツ語を知りませんので聞いたことなんですけども、ダーザインと言うらしいんです。ドイツ語でダー(da)というのが「ここに」とか「そこに」とか「現に」とかそういう意味らしいんです。ザイン(sein)はたんに「ある」という意味らしいんですね。

ところが一週間くらい前に、柄谷行人という人と私は初めてお目にかかりました。いっしょに新潟で講演したんです。そのとき彼の講演を横で聞いていますと、たまたまハイデガーのことに触れて、何かハイデガーという人は非常に言語感覚が敏感で言葉の魔術師みたいな人で、つまりドイツ語で日常使われている言葉を持ってくるんだけれども、その日常使われている言葉の昔の意味とか隠れた意味とか、あるいはそれとギリシア語をごちゃごちゃにしてと言いましたっけね。とにかく駄酒落のようなこともやっているというんです。

現存在、これは任意に引っ張り出してきた人なんですけれども、これはべつにごく日常的に、平均的に、さしあたっては生きている人です。だからハイデガーみたいにものすごく知性的で理性的な人でもないんです。ああいう神様のような人でもない。またその逆に、差別用語が使えないので困りますけれども、そういう人でもないわけですね(笑)。 ただハイデガーみたいな理性的な人でも、ときには理性を失うこともある。いかに知性のない行動をとる人であっても、ときには理性的になることもある。そういう意味での平均性なんですね。

現存在は自分を気遣うんだけど、その次に道具を気遣うんです。自分の身の回りにある道具ですね。これは、ハイデガーはただたんに道具と言わないで、道具的存在者と言っています。わざとこういう言い方をしているのには、意味があるんです。

なぜそういうものを気遣うか。その気遣いを通して自分を気遣っているんです。

だからこの道具的存在者というものは、これは現存在にとっては、人間にとっては、認識されて存在するんじゃないということなんですね。そういうふうにして道具というのが現存在のまわりにあります。そしてその現存在はこの道具を配慮的に気遣いながら道具と交渉しているわけです。人間と道具とが交渉している、人間のまわりを道具が取り囲んでいる、その場が世界だと言うんです。 ですから現存在、人間のことを、世界内存在というふうにもハイデガーは言っています。そしてさっき申しました自然のもの、事物、これはいろいろな事物があります。 自然の木や草も皆そうですし、それから動物たち、あるいは雨であるとか地球や太陽もそれに入るわけです。これを全部、事物的存在者と呼んでいます。 ただ、この事物的存在者と道具的存在者とは、厳密に分けられないんです。我々がその道具的存在者と交渉しているなかで、この事物的存在者があらわれてきたりするんです。

現存在というのはさっきも言いましたように、死ぬということですね。死ぬという自分の存在を引き受けて存在しているという、その実存という形での存在のしかたなんです。人間ではなくて、人間の存在のしかたという意味で現存在と言っていて、だから「者」というのをつけないんですね。

3 実存とは人間の可能性のこと

ここで実存という言葉が出てきました。この言葉はご存じでしょうし、それから実存か、実存主義か、サルトルか、メルロ=ポンティかと、あるいはその程度はご存じかと思いますけれども、実存という言葉の意味をご存じない方はこの機会に知っていただきたいと思います。実存というのは人間の可能性のことです。

実存というのは自分の可能性を見つめて生きる存在のしかたです。可能的存在のことです。つまり自分から常に抜け出て、また新たに自分である。現存在というのは、一人の人について一つの個性しかありませんから、固有の自分であること、それを見つけていくということですね。つまり自分の可能性というのは未来にあるわけなので、それに向かって努力していくということでもあるんです。

本来性というのは死を見つめる、自分が生きているのに、いずれ死ななければならないのに生きているという苦しみ。その苦しみとか悲しさとかそういうものを生きていく上で、どれほどその生き方が苦悩や悲哀に満ちていてもそれを引き受けていくという生き方なんです。

非本来性というのはどういうものかと言いますと、できるだけ死から目をそむけるようにする生き方です。自分はまだまだ死なないとか、自分だけは死なないとか、あるいはそれを忘れるために気晴らしをするとかですね、そしていろんな人と付き合って、世の中の人と調子を合わせて面白おかしくやっていくというのが非本来的な生き方ですね。そして我を忘れて仕事に夢中になるというのも、非本来的な生き方になってきます。

現存在が道具的存在者に対して配慮的気遣いをしたように、現存在は、主人公は、共現存在に対してやっぱり気を遣うんですけれども、気を遣うといってもこれは顧慮的気遣いと言うんですね。自分を顧みての顧慮的気遣いですね。これは共現存在を気遣うことによってやっぱり自分を気遣っているということです。

これらはみな本来的なことなんだけど、それが非本来的になってくるとどういうことになってくるかと言いますと、頹落という現象があります。これは非常に有名な、ハイデガーのつくった言葉なんだろうと思いますけれども。この頽落(たいらく)というのは、こういう、すごい字を書くんですね。これは非本来的なあり方なのですが、しかしながらべつに悪い意味ではない。これがもともとの我々の状態なのだから、平均的、日常的に落ち込んでいる状態なんだから、べつに悪いことではないので、道徳的、倫理的に判断してはいかんと、それがいちばん我々の日常的、平均的なあり方なんだから、とハイデガーは言ってますけれども、柄谷行人に聞いてみるとやっぱり悪いことだそうですね。

第二講

4 死を忘れるための空談(おしゃべり)

卑近な例で言えば、私がこうやってしゃべっていること。これは本来的なのか非本来的なのか。ハイデガーのやった本来的な語りを、要するに希釈心して、薄めて、面白おかしくやっているわけだから、非本来的な空談をやっているだけではないのかという疑問が出てくる。 しかしそうなってくるとですよ、今度はハイデガーがこの『存在と時間』をフライブルク大学ですか、マールブルク大学とかそういった所で講義をした彼の講義録があって、まだ翻訳されてないんですけれども、非常におもしろいらしいですね。この『存在と時間』を読むよりもその講義録を読んだほうがおもしろいと言われています。じゃあ、それは非本来的な空談ではないのかということも言えるわけで、曖昧性というのがどこまでもついてまわるんです。それが頽落ですね。落していることによって我々は要するに安らぎを得ているんです。

ところが不安というのは、対象がないんです。なぜないかというと、ないのが当然で、これは不安のもとは自分自身なんですね。自分が死ぬということです。そしてこのときに初めて本来的な自分に直面しているんです。皆さん方、そういう経験をなさったことがおありかもしれないですね。そういうときに、世人との今までワーワーやっていた関係が全部崩壊してしまうんです。今までの安らぎがなくなってしまう。つまり世界との、今までの慣れ親しんできた、なあなあできた親密さ、そういったものがなくなってしまうんですね。

5 「時間」とは何か?

第二編で、それでは現存在の本来的な生き方とは何か、そして我々はなぜ存在しているのか、人間の存在性とは何かを論じています。人間の存在性というのは早く言ってしまえば、時間だというふうに言っています。ですから「存在と時間」というタイトルになったわけですね。

だから死ぬことをハイデガーは最極限の未了と言っています。そしてこれが死ぬことなんですけれども、ここまで来る間は未了ですね。ずっと未了、未了、というのが続くわけです。そして最極限の未了というものがあるわけで、ここでハイデガーは非常に刺意的な言い方をしています。つまり現存在というのは常に未了であると同時に、いち早くそのつどの終わりであると言っているんです。ですからいつ死んでも不思議ではないということです。いつでも死ぬということなんですね。

そしていよいよ次に時間性というところに入っていきます。現存在、人間の存在している意味というのは時間性であるというふうにハイデガーは言っています。さっき言いましたように、人間が死という可能性を目指して死と向かい合うわけです。先駆けて決意をもって死と向かい合う。それは大変なことだろうと思います。

6 現代に生きるハイデガー

ここで皆さん、疑問に思われると思いますが、じゃあいったい、歴史というのはどうなっているのかと。一人の人間が生まれる、その人が生まれる前にも長い長い歴史があったはずだと。その歴史はいったいどうなっているのかという疑問です。 そうするとここで、ハイデガーは、歴史というのは全部、自分自身の固有の過去、つまり既在に含まれるのだと言っています。そこに歴史が含まれているんだというふうに言うんです。つまり既在の優位と言いますか、歴史に対して既在が優位なんだと。既在することの中にはすでに歴史的なものが含まれているんだと言うんですね。

たとえば精神分析の分野では現存在分析なんてものがあります。これはビンスワンガーという人が創始して、R・デヴィッド・レインという人の書いた本で有名な現存在分析。普通の精神分析というのはですね、これは例えばその人の過去、多くは幼少期を振り返って、そのときの精神のありようといいますか、精神的外傷、トラウマと言いますけど、それを探って、そこに病根があるというので精神分析するんですけど、レインの場合は、現存在分析というのはそういうことじゃないと。本当はもっと難しいんですけどわかりやすく言いますと、たとえば四十、五十の海千山千のおっさんがたまたま精神病に罹ったからというので、何も世の中をいっぱい経験している人のわざわざ幼児のときに帰って病根を掘り出しても意味がないと。やっぱり現存在としてその人を分析しなきゃいけないということを言い出して、これは実際はもっと難しい理論なんですが、そう言ったわけです、ハイデガーを応用しまして。

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解説 「誰にもわかるハイデガー」への、わかる人にだけわかる補遺 大澤真幸

最初にはっきりと記しておく。唯野教授の「よくわかる」解説は、『存在と時間』の理解としてまことに正確である。子どもやサルでもわかるとか、一時間程度の短時間でわかるとかということを売りにした哲学の入門書は、巷に溢れているが、そのほとんどが原典の最も肝心な部分を逸している。

唯野教授も説明しているように、ハイデガー自身が、この種の語り口による会話を「空談」とかと呼び、顔落したものだと書いているからだ。それは、非本来的なもの、つまり「死」から目を背けさせる手段になっている、と。要するに、唯野教授の講義は、ハイデガーが深刻そうに書いていることを、あえて空談の流儀で論じているのである。これは、専門の研究者には怖くてとうていできないことである。

私はここで、「存在と時間」の中に示された着想を前に進め、それを徹底させたら、どのようなことが言いえたのか、どのような転回がありえたのかを考えてみよう。大哲学者を相手にそんな大それたことをする勇気が出てきたのは、唯野教授の語り口のおかげである。もし、唯野教授の講義を読まなかったら、私は、決して、以下のようには考えることができなかっただろう。

最初に「存在と時間」というテクストをめぐる事実を確認しておこう。このタイトルで今日われわれが手に取る書物は、実は、完結していない。ハイデガーは、もともと、「存在と時間」を二部構成で考えていた。各部は、それぞれ、三編から成るものと予定されていた。実際に出版された「存在と時間」は、第一部の第二編までである。つまり、もともとの構想の半分にも満たないところで、現行の『存在と時間』は終わってしまっているのだ。

人は、どうして、「平和だ、そして安全だ」などと言って、気遣いの感度を下げてしまうのか。なぜ、のんびり居眠りをしてしまうのか。『新約聖書』によれば、終末が、もういつ来てもおかしくないほどに切迫していることへの自覚がないからである。

こうして、われわれは、「存在と時間」の議論に到達することができる。気遣い(Sorge = cura)が極大化するのは、死をまさにいつでも到来しうる差し迫った可能性として覚悟したとき、つまり──ハイデガーの表現を用いれば──死へと先駆したときである。

『存在と時間』によれば、死への先駆──死を不可避の可能性として受け入れ、それがいつでも到来しうることとして覚悟すること──は、現存在が倫理的であるための条件である。死への先駆から生ずる不安は、良心の呼びかけであり、その呼びかけに応じて、現存在は「良心をもとうと決意する」ことになるからだ。と、唯野教授が要約しているように、ハイデガーはこのように論じていくわけだが、この辺りの論旨は、わかりにくい。

『存在と時間』は、まだ実現していない、将来の「終わり」へと差し向けた視線の中から、人間の倫理性を引き出そうとしている。そのような視線を前提にしたときには、過去(既在)を、つまり自分がそれまでやってきたことを、まずは丸ごと肯定しなくてはならない。それらを引き受けてこそ、将来への選択があるからだ。

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