原書の半分しか訳出していないし,そもそも原題は《Englishness》ではなかった。ジェレミー・パックスマンのコメントがちょいちょい出ていたのは面白かった。〈文化人類学〉臭をなくして全部訳出したらもっと面白いだろうに……っていうか原書読むか。
と,いろいろ残念な面はあるにしろ,仕事やらなんやらでイギリス人/イングランド人と関わる機会のある人は,読んでおいた方がいい本だと思う。
日常生活の人類学
イングリッシュネスの「文法」
わたしはこの二〇年をイギリス文化とイギリス人の社会行動のさまざまな側面について、パブで、競馬場で、店で、ナイトクラブで、電車のなかで、路上で、人びとの家庭で、調査に費やした結果、「イギリス国民性」は存在すること、それが消滅したという説は非常な誇張であると確信するに至った。本書のための調査のなかで、わたしはイギリス人の行動を支配する不文律とも言うべき隠れたルールを見出し、それらが明らかにするイギリス人のアイデンティティを把握しようとした。 わたしの目的は、階級、年齢、性別、地域、サブカルチャー、その他の社会的区分の如何にかかわらず、イギリス人の行動に見られる共通項を把握することであった。
参与観察とその欠点
人類学者は「参与観察」として知られる研究方法を用いる訓練を受ける。「参与観察」とは、研究の対象である集団の生活と文化に参加して、その慣習や行動にたいする内部の人間の見方を体験し、同時に距離を置いて客観的に科学者としてそれを観察する方法である。
良い、悪い、しっくりしない
わたしの場合、研究対象としてわたし自身の文化の複雑性を選んだので、「参与」の困難はいくらか少ない。イギリス文化それ自体が他の文化よりおもしろいと思ったゆえの選択ではなく、わたしは臆病で、勇気のある同業者たちが研究する「部族」社会につきものの、泥で作った小屋や赤痢、毒をもつ昆虫、ひどい食べ物、原始的衛生状態などが苦手なのだ。
わたしの家族、および他の実験用モルモット
イギリス人というわたしの立場は、参与観察の「参与」の部分にかんしては有利である。だが「観察」にかんしてはどうだろうか? わたしは距離を置いて、客観的科学者として自分自身の文化を観察できるだろうか? 実際には、比較的馴染みのないサブカルチャーの研究に多くの時間を費やしたとはいえ、依然「自分の国の人びと」のサブカルチャーだから、民族誌学者のあと半分の観察者として、自分の客観的観察力を疑ってみる必要はあると思われた。 このことで長く悩むことはなかった。どう見てもわたしには、「形成期」(五歳から一六歳まで)を外国で過ごしたという利点があった。
信用して。わたしは人類学者です
人びとのふるまいにある規則性やパターンを見て、そこに含まれた不文律を暫定的に把握すると、民族誌学者はそのようなルールの存在を確認するための「テスト」をする。人びとのなかから代表的グループを作り、彼らの行動パターンについての自分の観察を話し、自分が正しくルール、慣習、原則を把握しているかと問うこともあれば、仮説的ルールを破棄して反証を求めることも、積極的な「認可」を求めることもある。ポーランドにおける第三車線のルールのような場合には、そのルールに従って、うまくゆくかどうかを見ることが「テスト」になる。
退屈だが重要
このように、イングリッシュネスのルールを明らかにするわたしの試みは、行動にかんする特定のルールにかぎらず、基準、規範、理想、指導原理、そして「正常で普通の」イギリス人のふるまいについての「事実」を含んでいる。
文化の性質
ルールを把握することが、イングリッシュネスの「文法」という構築物への最も直接的な道である。 それでイングリシュネスの分析を試みるこの本ではルールが中心になる。だがわたしが「ルール」ということばを非常に広い意味で使っている以上、イングリッシュネスのルールの探求は、事実上イギリス文化を理解し定義する試みにつながる。
ルール作り
ある文化と他の文化を区別するさいの主要な手段は、ルールの違いである。旅行や出張で海外に出かけるとき、われわれがまず気づくのは、他の文化には「物ごとをおこなう違うやり方」があるということだが、それは普通、その文化のルール──たとえば食べ物、食事時間、衣服、挨拶、衛生、商売、もてなし、ジョーク、地位の差異などについてのルール──が自分の文化のルールとは違うということなのだ。
グローバリゼーションとトライバリゼーション〔部族化〕
イギリスでは、アメリカ文化の明らかな影響にもかかわらず、文化的多様性の減少よりも増大するトライバリゼーションを示す証拠がはるかに多い。スコットランドやウェールズの民族主義者たちの熱情と迫力は、アメリカのソフトドリンク、ジャンクフード、映画から、これといった影響を受けているようには見えない。イギリスにおける民族的マイノリティの人びとは、以前よりも懸命に自分たちの文化的アイデンティティを保持しようとしているし、イギリス人でさえ、(彼ら特有の抑制のあるやり方で)自分たちの文化的「アイデンティティ・クライシス」を言い立てている。イギリスでは地方主義が強く根づいており、グローバルな単一文化の一部であることを拒否するのはもちろん、イギリスがヨーロッパの一部だというコンセプトにもかなりの抵抗がある。
階級と民族
まだ構想の段階にあったとき、この本の話をした誰もから、階級についての章を設けるのかという質問を受けた。わたしは一貫してそのための独立した章は不適切だと感じていた。階級はイギリス人の生活と文化のあらゆる側面に浸透しており、それゆえこの本が取りあげるあらゆる領域にかかわっているからである。
ブリティッシュネスとイングリッシュネス
なぜイングランド人か? 答えはわたしがブリティシュネスというよりイングリッシュネスについて調査した結果を書いているからである。それは幾分かは
- まったく怠慢のため。
- イングランドはひとつの国家で、当然他国とは違う、まとまりのある文化ないし国民性を有することが予想されるが、ブリテンは、それぞれ独自の文化をもつ数個の国家から成る純然たる政治的構築物である。
- それらの文化には共通部分も多いが、それらは明らかに同一ではなく、「ブリティッシュネス」とひとまとめにして扱うべきではない。
- 加えて「ブリティッシュネス」がわたしには無意味なことばに思われる。「ブリティッシュネス」と言うとき、その真意はほとんど常に「イングリッシュネス」であって、際立ってウェールズ人、スコットランド人である人間はそこに含まれていない。
ステレオタイプと文化的ゲノム
イギリス国民性を解明するさいにわたしが用いた半科学的方法を説明しておくべきだろう。それには三つの段階があった。
- まず、さまざまな調査方法(観察、参与観察、インタビュー、グループ・ディスカッション、国家的規模の調査、約二年間にわたる野外実験など)を用い、イギリス人の行動のなかの際立ったパターンないし規則性を把握しようと試みた。
- 次にそのような行動のパターンを支配している不文律を見出し、可能な場合には主として野外実験、ディスカッション、インタビューを使って、その不文律を「吟味」ないし「証明」しようとした。
- 最後に、それらの不文律が語るイングリッシュネスを明確にしようとした。
1 天候
イギリス人の会話が天候から始まるように、彼らの会話についての考察も天候から始めなければならない。こうして伝統的アプローチを踏襲する以上は、イングリッシュネスを論じたすべての著者がするように、わたしもジョンソン博士の有名なことば「イギリス人ふたりが出会うとき、彼らの最初の話題は天候である」を引用し、これは二百年後の現在でも、ぴったり当てはまると言っておきたい。
言い換えればイギリス人の天候の話は一種の「グルーミング・トーク」〔潤滑油の働きをする会話〕で、類人猿に見られる「ソーシャル・グルーミング」(たとえ毛が完全に清潔であろうと、相手との絆を保つために、互いに何時間も毛繕いをしあう行為)に匹敵する。
天候の話のルール
応答が大事
実は「うわー、寒いですね」とか「いいお天気ですね」というような問いかけは、「お話ししたいのですが、かまいませんか」とか、ある場合には単に「ハロー」というかわりにイギリス人が使う決まり文句なのである。
天候の話が登場する場面
事実天候の話がふさわしい特定の場面がある。つまり
- 単なる挨拶として
- 他の話題へとつなぐための準備として
- 他の話題にかんして会話が停滞し、気まずい不快な沈黙が生まれたとき、その場しのぎの、沈黙を埋める、あるいはそれにかわる話題として
- 話者が個人的な内輪の話題を避けたがっているというシグナルとして
- 不平を漏らす恰好の口実として
- ユーモアやウィットを発揮する機会として
- 相手の機嫌を探る方法として
- ストイックな精神を示す機会として
このように多様な場面で天候の話が出るので、イギリス人は天気のことばかり話すという印象を与える。
天候の話には同意すること
ここで天候の話にかんするもうひとつの重要なルール、つまり「いつも同意すること」が登場する。ハンガリーのユーモア小説作家ジョージ・ミケシュはこのルールに注目して、イギリスでは「天気の話では相手が誰であろうと決して反駁してはならない」と書いている。「寒いですね」という天候を使った挨拶、あるいは会話の口火が常に互換的であるべきことはすでに述べたが、加えて応答では同意を示すことがエチケット上要求される。
同意ルールの例外
「うわー、寒いですね」と言われて、相手に同意できない場合の適切な返答は「ええ、でもわたしはこういう天候が本当は好きでしてね。とても爽快じゃありませんか」あるいは「ええ、でもご存じのとおりわたしは寒さが気にならないたちでね。わたしには結構暖かく感じられます」
さらによい応答は「文句を言うべきではない」という伝統的な反応である。「ええ(さもなければも候ごもご言って頷き)、でも少なくとも降っていませんね」寒い天候が好きだとか、寒いと思わないときは、この返答によってあなたと、あなたの震えている相手は具合よく同意に達することができる。寒いが晴れた日のほうが、寒い雨の日よりもよいということには誰しも同意する。少なくともそう思うのが習慣である。
天候のヒエラルキー
イギリスの天候には非公式なヒエラルキーが存在していて、ほとんどすべての人間がそれに従っているからである。最高から最低まで順に挙げれば、ヒエラルキーは以下のようである。
- 晴天で暖か/穏やか
- 晴天でひんやり/寒い
- 曇天で暖か/穏やか
- 曇天でひんやり/寒い
- 雨天で暖か/穏やか
- 雨天でひんやり/寒い
降っていて寒いとか、とにかくむしゃくしゃするとき、われわれはジェレミー・パックスマンが言う「静かに嘆くというイギリス人特有の能力」を発揮する。これはうまい表現だが、このような天候についての「嘆きの儀式」は重要な社交的目的を有することを指摘しておきたい。つまりその儀式は友好的な同意をさらに深め、この場合には「あいつらとわれわれ」的要素を帯びさえする。
雪と節度
雪がヒエラルキーのなかに登場しないのは、幾分かはヒエラルキーに含まれる他の天候──始終現れ、時には一日のうちにすべて出揃うような──にくらべて比較的稀だからである。
自信をもって雪に適用できるルールは一般的で、きわめてイギリス的な「節度というルール」である。すべての過剰なもの同様、雪の降りすぎも嘆かわしい。温かさや日光でさえほどよいときだけ受け入れられ、照りつける暑い日が何日も続けば、人びとは干ばつを案じ、ホースによる放水の禁止に文句を言い、悲劇を予告する口調で互いに一九七六年の夏の話を始める。さもなければ、地球温暖化を嘆く。
天候は家族
イギリス人は自国の天候を長々と嘆くかもしれないが、外国人がそれを悪く言うことを許さない。その点でわれわれはイギリスの天候を家族の一員のように扱っている。自分の子どもや親たちについて不満を口にするのはかまわないが、家族ではない者が少しでも非難めいたことを言うのは禁物だし、非常に無礼な行為である。
ジェレミー・パックスマンは、同様に愛国的だが、もっと優雅にビル・ブライソンが挙げたモンスーン、荒れ狂うブリザード、竜巻、電などを「芝居じみたもの」として退けている。実にイギリス的な非難である。
天候の話とイングリッシュネス
イギリス人の天気の話をするとき、そこに見られるルールは、イングリッシュネスについて多くのことを語っている。天気以外の会話についての決まりや、生活の他の側面における行動のルールについて詳細な検討を始める前に、すでにこれらのルールはイングリッシュネスの「文法」についてたくさんのヒントや手がかりを与えてくれる。 天候をめぐる応答と、天候の話が登場する場面には、社交上のタブーが見てとれると同時に社交上の「潤滑油」の巧みな使い方が見られる。同意のルールとその例外は、礼儀の重要性と摩擦の回避(また特定の社交的場面における摩擦の是認)、および論理よりもエチケットを優先させる現象を示している。 同意のルールのバリエーション、および天候のヒエラルキーに附随する事柄にかんしては、エキセントリックなものの受容とストイックな態度が見られる。後者はイーヨー的悲嘆への偏愛によってバランスが保たれている。節度という習慣は極端なものを嫌い是認しない態度を表わし、天候を家族のようにみなす態度は驚嘆すべき愛国心と、控えめな魅力をよしとする奇妙な態度を示している。以上に述べたことすべてには、さらにユーモアという底流と、物ごとを過度に深刻に受け取らない態度があるように思われる。
2 グルーミング・トーク
紹介
グルーミング・トークは挨拶から始まる。ここで天気の話が必要とされるのは、幾分かは挨拶や紹介がイギリス人にとって、きわめてきまりの悪い場面だからである。そのことは”How do you do?”という標準的かつどんな目的にもかなう挨拶がすたれて以来、ことに深刻なものとなった。
ぎこちなさ
実際、イギリス人の紹介や挨拶は、しばしばぎごちなく、不器用で優雅さを知いている。友人同士ならそれほどのぎごちなさはないが、それでも手をさしだすべきか、ハグカキスか、を決めかねる。両頼にキスをするフランス人の習慣は、トレンディな人びとや、その他の上層中産階級の人びとのあいだで流行したが、他の多くの社会集団はそんな作法を愚かでわざとらしいと感じていた。
名乗らない
完全に社交的な状況では、さらなる困難が生じる。最初の紹介のとき、握手するという一般的なきまりはなく──実際握手はビジネスライクすぎると感じられるだろう──この時点で名前を名乗るというビジネスの慣習もまた不適切とみなされる。パーティで(もしくはバーのカウンターなど、知らない人間との会話が許容されるような場面で)イギリス人が誰かに近づいて「やあ、ぼくはジョン・スミスです」とか「やあ、ぼくはジョン」と言うことはない。実際にはそのような場面での唯一の適切な態度は、自己紹介をまったくせず、天候の話をするなど、会話を始めるほかの方法を見つけることである。
「お目にかかれて幸いです」にかかわる問題
現時点で最も普通の挨拶は「お目にかかれて幸いです」(”Pleased to meet you”)あるいは”Nice to meet you”や”Good to meet you”など同様の意味のものである。だがある社会集団ー上流階級および上層中産階級の上位に位置する人びとにとって、この平凡な挨拶の難点はまさに平凡であること、すなわち下層階級的だという点である。
きまり悪さ
事実、初対面の場面と挨拶のこうした混乱状態のなかで、多少なりとも確言をもって示すことのできるルールは、完全にイギリス的であるためには、人はそうした挨拶をぶざまにやらなければならない、ということである。自意識過剰で、落ち着かず、ぎごちなく、とりわけきまり悪そうに見えねばならない。滑らかな身のこなし、口達者、自のある態度は不適切で、非イギリス的である。躊躇し、うろたえ、不器用な対応をすることこそ、意外に思われようとも、正しいふるまいである。
イギリス的ゴシップ
しかし友人間で最も一般的なグルーミング・トークは、イギリスでもゴシップである。イギリス人は確かにゴシップ好きの国民である。イギリスにおける最近の研究によれば、イギリス人の会話の三分の二はゴシップに費やされている。誰が何を誰とやったか、誰がかかわっており、誰がかかわっていないか、それはなぜか、ややこしい人間関係にどのように対処すべきか、友人、家族、有名人のふるまいや恋愛、家族、友人、恋人、同僚、隣人と自分とのあいだの諸問題、日常的社会生活の詳細。要するにすべてゴシップである。
ブライバシー
わたしが言いたいのは、イギリス人にとってゴシップがことに重要であるのは、プライバシーにこだわるせいかもしれない、ということである。年齢も背景もまちまちなイギリス人にインタビューをし、グループ討論をおこなったとき、明らかになったのは、ゴシップの楽しみは、ゴシップに含まれる「リスク」と大きな関係がある、ということだった。ほとんどのゴシップは無害なものだが、それでもなお、ゴシップは他人の「プライベートな」生活についての話で、本来してはいけない、禁じられたことをしているという意識をともなっている。
イギリス人は冷淡で打ち解けず、非友好的で人を見下しているという、外国人がしばしば口にする不満の原因のひとつはこれである。他の大部分の文化においては、基本的な個人情報──自分の名前、職業、結婚して子どもがいるか否か、どこに住んでいるか──を示すことは大きな問題ではない。だがイギリスでは、新たに知り合いになった人から、そのような一見細な情報を引き出すことが、歯を抜く行為に匹敵し得る。質問のひとつひとつに相手は顔をしかめ尻込みするのだから。
推理ゲーム
女王が訊くなら別だが、「お仕事は何ですか?」と尋ねることは礼儀にかなったものと普通思われていない。考えてみれば、それは新たな知己にたいする至極ありきたりの質問で、最も容易に会話を始める方法なのだが。だがプライバシーへのこだわりに加えて、われわれイギリス人、ことに中産階級の人びとは、人づきあいをことさらむつかしいものにするという倒錯的なニーズをもっているようである。そのため相手が生計のためにどんな仕事をしているかを知るために、遠回りで間接的なアプローチがエチケット上要求されている。禁じられた質問をすることなく、新たな知己の職業を確認するために、四苦八苦しつつ遠回りする長い会話に耳を傾けるのは、時にたいそうおもしろい。この推理ゲームは、中産階級の社交の場ではどこでも、初めて会った相手とのあいだで頻繁におこなわれ、他の事柄についてのコメントに含まれた「ヒント」から相手の職業を推理することも、そのひとつである。
距離
ひとつの例を挙げれば、結婚のような微妙な問題について、イギリス人の態度や考えを知ろうとする場合、彼/彼女自身の結婚について質問をする必要はなく、誰か他の人の、できれば個人的にまったく付き合いのない著名人の、結婚の話をすればよい。より親しい相手ならば、同僚、隣人、あるいは友だちや親類の恋愛問題を引き合いに出せるだろう。(たまたま同僚や親類の結婚が、都合よく破綻しかかっていない場合は、そういう人間を創り出せばよい。
相互的開示計略
イギリス人と友だちになった場合、その人の結婚について、または他の「私的な」事柄をなんとかして知ろうとするならば、相互的開示の計略を用いる必要があるだろう。これは多かれ少なかれ普遍的なルールで、われわれはほとんど無意識的に会話のなかで、ある程度の均衡ないしバランスをとる。たとえばこちらが自分の私生活についてなにがしかのことを話すと、相手はたとえ反射的な礼儀からであっても、それに匹敵するような個人的情報を伝えなければ、と感じる。その後は、こちらが次の話でより多くを打ち明け、それに匹敵するような応答を相手から期待するというように、親密さのレベルを上げてゆくことができる。
プライバシーの例外
活字という例外
プライバシーの決まりには奇妙な例外があり、それは主としてイギリス社会のある特権的な人びとにしか適用されないにせよ、イングリッシュネスにかんしていくばくかのことを教えてくれるので、触れておく必要がある。わたしはそれを「活字という例外」と呼ぶ。つまり活字(新聞、雑誌、本など)の世界では、たとえばパーティで新たに知り合いになった人などには話さないような、私的な事柄を取りあげるということである。奇妙で、倒錯的にさえ見えるかもしれないが、どういうわけか自分の私生活の詳細を漏らすのは、小さな社交的集まりという公共から遠い場よりも、本、新聞のコラム、雑誌記事などのほうがやりやすい。
インタネットという例外
「活字という例外」に見られた作法は、「インタネットという例外」にも当てはまる。ネット上の「友だち」は自分の私生活をネット上で打ち明けるからといって、顔を合わせた相手にそうした事柄を話すわけではない。逆に彼らはそういう話題をもち出されるだけで不快に感じるだろう。サイバースペースが抑制を解除された場であること、そこでのコミュニケーションと実生活でのそれとのあいだに断絶があることは、イギリスにかぎらず他の文化も同様である。しかしその差はイギリス人の場合ことに顕著である。彼らがインタネット上では喜々として抑制を捨てる一方で、一対一の会話はプライバシーという決まりに固く縛られているからである。
イギリス人のゴシップにおける性差
実は男性のゴシップと女性のゴシップとでは内容にかんして、ひとつだけ重要な違いがあることを調査は明らかにしている。男性は女性とくらべて自分のことを話すということである。人間関係についての会話で男性は三分の二の時間、自分自身のことを話しているのにたいして、女性は三分の一の時間しか自分の話をしない。
明らかに、イギリス人男性のあいだではゴシップは好ましからぬものとされており、たとえゴシップをしていようとも、それは別の名で呼ばれるべきだという暗黙のルールが存在する。たぶん重要なのは、それがゴシップのように聞こえてはならぬ、ということであろう。ゴシップについての調査でわたしが発見したのは、ゴシップにかんする男女間の主要な違いは、女性のゴシップがいかにもゴシップだという話され方をするということである。そこには三つの重要な要素が含まれているように思われる。声のトーン、ディテール、フィードバックについての決まりである。
声のトーン
わたしがインタビューしたイギリス人女性は皆、特定の声のトーンがゴシップにふさわしいという点で意見が一致していた。
男の人たちは適切な声のトーンを使わず、他の情報を伝えるときと同じ平板な、感情のこもらない話し方でゴシップをします、とインタビューのなかで多くの女性が不満を述べた。「ゴシップだとはわからないような話し方なんです」とある女性は言ったが、もちろん男性はそういう印象を与えたいのだ。
ディテール
女性はまた、ゴシップのさいのディテールの大切さを強調し、この点でも男たちの久点は「ディテールを知らないことだ」と言った。
フィードバック
イギリス人女性のあいだで了解されていることだが、「よいゴシップ」の条件は生き生きとしたトーンとディテールの重視だけでは十分ではない。さらに必要なのはよい聴き手で、よい聴き手とは話をよく理解し、適切なフィードバックを十分にする人のことである。
イギリス人男性:感情表現および三つの感情のルール
ゴシップにまつわる性差が、「ゴシップは女のもの」という神話の根強さの説明になるかもしれない。高い声で口早に勢いこんで話す様子や「ねえ、聞いて。聞いて」とか「まさか!嘘でしょ?」などの頻発をゴシップと結びつけるならば、少なくともイギリス人男性の会話は、たとえその内容がゴシップと同じであるにせよ、まずゴシップのようには聞こえない。ゴシップをしているイギリス人男性たちは、「重大な問題」(あるいは車かサッカー)の話をしているかのような印象を与えるが、まさしくそれが彼らの狙いなのだ。
絆(ボンド)を深めあう会話
女性のボンディング・トーク――褒めことばのやりとり
イギリス人女性のボンディング・トークはしばしば褒めことばの儀式的なやりとりから始まる。事実、この儀式は二、三人の女性が集まるほとんどすべての社交的な場で見られる。
この儀式の数多くのバリエーションを観察し、しばしばわたし自身それに加わって、気がついたことは、褒めことばは恣意的にではなく、わたしが「褒めかえすルール」と名づけるに至ったルールに沿っしばしば明白なパターンに沿って交わされるということである。
男性のボンディング・トーク――「ぼくのもののほうがきみのよりもいい」
イギリス人男性は女性とは異なるやり方で絆を深め、そのやり方は一見、女性のめあいの原則とは正反対のように見える。イギリス人女性が懸命に褒めことばを交わしあうのと逆に、イギリス人男性は普通、「自慢のゲーム」とでも言うべき競いあいの儀式で相手を貶める。 この場合「ぼくのもの」は何でもよく、車の造り、サッカーのチーム、政党、旅行の目的地、ビールの種類、哲学理論──主題は重要ではない。イギリス人男性は主題が何であろうと、ほとんどすべての会話を「自慢のゲーム」に変える。
ボンディング・トークのふたつの例──褒めあいと自慢しあい──は一見非常に異なっているように見えるし、事実それは男性と女性の深部に存在する普遍的な違いを反映しているかもしれない。社会言語学の分野での多くの調査はこの〈競争的/協力的〉相違に焦点を当てており、より極端な「ジェンダー別言語」の理論をもち出さずとも、女性のボンディング・トークは調和と協力を含むのにたいして、男性のボンディング・トークはしばしば競争的になりがちだということは明らかである。 しかしこれらのボンディング・トークの儀式は、その根底に存在するルールと価値観において、ある重要な特徴を共有しており、それはイギリス国民性について多くを教えてくれる。たとえば両者とも高慢を非とし、ユーモアを是としている。両者ともある程度の礼儀正しい偽善――少なくとも自分の本当の考えや感情の隠蔽(褒めあいの儀式においては称賛を装い、自慢のし合いにおいてはこだわりのなさを演出し)を必要とし、どちらの場合にも真理や理性よりも礼儀が大切とされている。
そして最後に……長いお別れ(ロング・グッドバイ)
イギリス人は出会いのときよりも別れのときのほうが手際がよいというプラスのイメージを与えられればと思うのだが、事実はわれわれの別れ際も紹介のさいと同様に、不器用でぎごちなく要領が悪い。ここでも挨拶のさい、誰も何を言ったらよいかわからず、握手をしかけてやめたり、ぶざまに頬をぶつけたり、言いかけたことをうやむやにしたりする。唯一の違いは、出会いの挨拶ができるだけ早くぎごちない場面を終わらせようとしてそそくさと終わるのにたいして、あたかもそれを補うかのように、別れの挨拶はしばしばうんざりするほど長いということである。
グルーミング・トークとイングリッシュネス
紹介のルールは、天候の話が社会的抑制にかんして明らかにしたことを裏づけ、「潤滑油」なしにはイギリス人が抑制や禁忌を克服できないことを示している。
名前を名乗らぬというルールはイギリス人のプライバシーへのこだわりと、用心深さ、打ち解けにくさをクローズアップする。
ゴシップのルールは、いくつかの重要な国民性を明るみに出す。そのなかで最も顕著なのはまたしてもイギリス人のプライバシーへのこだわりで、それは推理ゲームのルール、距離のルール、活字メディアの「例外によって存在が証明される」ルールによって強調される。
ボンディング・トークも男女差を際立たせる。だが表面の著しい(人を惑わしがちな)違いの下に、男性用ルールと女性用ルールは、共通点をもっていることがわかる。すなわち自慢を禁じ、ユーモアをよしとし、「大真面目」になることを避け、礼儀にかなう偽善を装い、理性よりも礼儀を上位に置く態度である。
最後に、長いさよならもまた、イギリス人の人間関係においてきまりの悪さ、不器用さが大きな部分を占めていることを──出会いの挨拶や暇乞いのような簡単な事柄を合理的に優雅におこなうことができないというイギリス人共通の特長を──示す。同時にイギリス人の、不合理にも過剰な礼儀正しさについての、際立った実例である。
3 ヒューモア (ユーモア)・ルールズ
英国人の会話におけるユーモアについての最も顕著で重要な「ルール」はユーモアが会話を支配し浸透している、という現象だからである。ユーモアは支配し、統率する。ユーモアは遍在し万能である。
イギリス以外の文化では、ユーモアに割り当てられた「時と場所」がある。つまりユーモアは特別で、種類を異にするトークなのである。だがイギリス人の会話では基底に常にユーモアがある。「ハロー」であろうと、天候についての話であろうと、イギリス人はそこからジョークを僅かでも作り出そうとする。であるからイギリス人の会話のほとんどに、少なくとも何らかの冷やかし、からかい、皮肉、過少化した表現、ユーモラスな自己卑下、嘲り、などがつきまとう。いうなれば、ユーモアはイギリス人の「初期設定」なのだ。
むきにならないこと
最も基本的なレベルにおいて、イギリス人の会話すべての根底には「むきになること」をよしとしない態度がある。イギリス人はユーモア、ないしアイロニーを独占していないまでも、おそらく他のどの国民よりも「真面目」と「むきになること」の違い、「誠実」と「しかつめらしさ」の違いにかんして敏感である。
七年後のオリンピックの開会式もまた、イギリス式ユーモアを示す絶好の例で、自己嘲笑やむきになることへの嫌悪が遺憾なく表現されていた。開会式のスペクタクル的部分は、その場にふさわしく壮大で立派ではあったが、このような式典に普通つきものの過剰な尊大さや、もったいぶった演出は微塵も見られなかった。そのかわりにほとんどの場面に少なくともひとつアイロニックなひねりがあり、われわれはこんなことに過度に肩入れしているわけではありませんよ、というユーモラスな仄めかしが少なくとも一か所はあった。一例を挙げれば、ロンドン交響楽団による、よく知られた感動的な曲「炎のランナー」の演奏のあいだじゅう、コメディアンのローワン・アトキンソンはふざけたしぐさで、うんざりして、心ここにあらずのミュージシャンを演じてみせ、感動を中和した。開会を宣言する女王が会場に到着するさいにさえ遊び心が発揮され、ジェイムズ・ボンドの映画をもじった場面で女王は楽しげに役を演じた。壮麗な愛国的ショーをやるつもりなら、オリンピックの主催はまたとない機会である。だがわれわれイギリス人はその機会を捉えて自分たちを嘲り、自分たちが最も大事にしている王室という制度を茶化した。
隠れた愛国心
だがわたしは、参与観察による調査をとおして、イギリス人の愛国心の久如と見えるものは、国民としての誇りがないというよりも、むしろ熱くなることへの嫌悪、およびそれと密接に関連したイギリス国民性の他の側面と関係があるのではないかと感じている。独自の調査のなかで、より詳細な設問をしてみると、イギリス人は実は「隠れた愛国者」なのだというわたしの印象が裏づけられた。
ひとつ告をしておこう。慢性的に冷淡で、あいまいで、無関心なイギリス人が、たまにそうではないとき、彼らはしばしば君主制や王族について活発に議論をし、不満を漏らす。だがイギリス人でない者はその議論に加わりたいという誘惑を抑えたほうがよい。イギリス人は何であろうと──本心では誇りに思い、気に入っているものも含めて──嘆くのが楽しいのだ。
「やめてよ」
外国の政治家や公人に見られる感情過多でもったいぶった行動がイギリス人の嘲笑を招くことを以上で述べたが、くそ真面目を非とし、ことに自分をむきになって前面に押し出すのを嫌う傾向は、イギリスの政治家をはじめ著名人にとっては辛いことである。敏感なイギリスの一般大衆は、本国では一層そうしたルールへの違反を許さず、ごく僅かの過失──話者が熱くなりすぎて、誠実さとむきになることとのあいだの細い境界線を越えそうだという微少な気配──を捉えて鼻を鳴らし、「やめてよ」(ないし同様の嘲り)を浴びせるだろう。
アイロニー
イギリス人は普通自国の自慢をしない。実際、愛国主義も自慢も見苦しいとみなされるので、そのふたつが連結すれば二重にみっともないことになる。だがこれにはひとつだけ重大な例外があり、それはイギリス人が己のユーモアのセンスにかんして、とくにアイロニーの玄人であることについて抱く国民的誇りである。一般に言じられているところによれば、イギリス人は他のどの国民より優れた、微妙な、はるかに進化した、ユーモアのセンスをもっており、他の国民は皆、思考がうんざりするほど即物的であり、アイロニーを理解し、楽しむことができない。わたしがインタビューをしたイギリス人のほとんどすべてがこの信念をもっており、驚くべきことに多くの外国人も謙虚にそれを認めた。
アンダーステートメント
アンダーステートメント〔控えめな表現〕をアイロニーのなかに含めたのは、それがユーモアのなかに独立して存在するというよりも、アイロニーの一種だからである。それは非常にイギリス的なアイロニーでもある。アンダーステートメントは、「むきにならないこと」というルール、「やめてよ」というルール、イギリス人の日常的人間関係を支配するさまざまな自制と謙遜と密接にかかわっている。もちろんそれは、英国の専売特許というわけではなく、この場合も問題となるのは質よりも量である。ジョージ・ミケシュのことばを借りれば、「アンダーステートメントは単にイギリス的ユーモアのセンスの一部であるにとどまらず、イギリス的生き方である」。
卑下する
イギリス的謙遜というテーマはこの本で繰り返し登場すると思うので、それにまつわる誤解を今すぐ一掃しておきたい。「謙遜というルール」というとき、大事なのは「ルール」であり、イギリス人が他国人とくらべて生まれっき謙虚だとか、自己主張をしないというのではなく、彼らは厳密なルールのもとに謙遜を舞っているということである。そのルールには、「消極的」ルール(たとえば自慢をはじめ、すべての自己顕示はご法度である)と「積極的ルール」(進んで卑下し謙遜する)がある。こうした不文律的な「ルール」が浸透しているという事実そのものが、イギリス人が生まれつき、本能的に、謙虚ではないことを示している。せいぜい言えるのは、イギリス人は謙虚さを重視し、謙虚であろうと努めているということ。彼らが実際に示す謙遜はたいてい偽の謙虚で、より好意的な言い方をすれば、アイロニカルなのである。
ユーモアとコメディ
コメディについて何ら専門的知識をもたぬ者の立場から言うのだが、イギリスのコメディは、以上でわたしが述べたような日常に見るイギリス的ユーモアのルールと、他の章で指摘したところの「イギリス国民性」のいくつかの特徴(たとえばぎごちなさ。イギリスのほとんどのコメディは、本質的にぎごちなさのコメディである)に明らかに影響され、本質を規定されている。イギリスのコメディは、予想されるように、イギリス的ユーモアの諸ルールに従うが、同時にそのルールを伝達し、強化する役割を果たす。最上のイギリスのコメディはすべて、イギリス人自身に向けられた笑いを含んでいると思われる。
ユーモアと階級
イギリス的ユーモアは確かに階級を越えているが、断っておかねばならないのは、日常的なイギリス人のユーモアには階級問題が溢れている、ということである。イギリス人が階級に取り憑かれていること、彼らがあらゆることをユーモアの種にすることを思えば、これは驚くにあたらない。彼らは常に階級にまつわる習慣や弱点を笑い、社会的上昇主義者の志や彼らの悲しむべき過ちを嘲り、階級というシステムを穏やかにからかっている。
ユーモアとイングリッシュネス
これまで見てきたユーモアの特質はイングリッシュネスについて何を語っているだろうか?すでに述べたように、イギリス人がユーモアに付与する価値、イギリス文化とイギリス人の会話にユーモアが占める重要な位置は、特定のユーモアの内容自体よりも、イギリス人を定義する特徴である。
4 言語と階級
近年ではそのような階級意識は薄れたと思いたいところだが、ショーの観察は今なお通用する。認めるか否かにかかわらず、すべてのイギリス人には、誰かが口を開くや否や階級地図上のその人の位置を知らせるGPSが装着されている。 この位置を測定するさいには、ふたつの要因が作動する。用語と発音、つまりどんなことばを用いるか、それをどう発音するか、である。発音のほうが言頼できる指標なので(異なる階級の用語を習得するのは比較的容易である)まず発音を取りあげよう。
母音と子音
おそらく階級を見分ける最上の方法は、どの文字を発音するかに注目することである。発音しない文字に、と言ったほうがよいかもしれない。社会の最上層にいる人びとは、自分たちの話し方が明瞭で正確だから「正し」くて、下層階級の話し方は不明瞭でまったくでたらめ、「正しくない」し「しまりがない」と思っている。この論拠として、子音を発音しないこと、とくに声門閉鎖音(グロッタルストップ)──tを発音しない〔のみこむようにして脱落させる〕──とhの脱落を挙げる。しかしこれは自分のことを棚に上げた主張で、下層階級は子音を発音しないが、上流階級も母音を発音しないという過ちを犯している。時間を尋ねてみるとよい。下層階級は「アーフ・パスト・テン」("alf past ten”)(「アー・パス・テン」("ah pas ten")のほうが近いかもしれない)と答え、上流階級は「ハップストゥン」("hpst")と言うだろう。同様に「ハンカチーフ」を労働者階級は「アンカーチーフ」("ankercheef")と言い、上流階級は「ハンクチフ」("hnkrchf")と言う。
上流階級の話し方と一教養ある」話し方は必ずしも一致しない。「BBCイングリッシュ」や「オックスフォード・イングリッシュ」と呼ばれるものが「教養ある」話し方にあたるが、この話し手は上流階級より上層中産階級に多い。上流階級に見られる、気取ったくぐもり声、母音の消失/長音化、人称忌避の癖がないので、慣れない者にもより聞き取りやすい。ウィリアム王子、ハリー王子、アン王女の娘のザラなど、王室の若い世代は意識してBBCイングリッシュに近い話し方をするので、上流階級というより上層中産階級のようである。女王の話し方でさえ、耳につく上流英語から「教養ある」英語へと移行しつつある。
用話──U言語と非U言語再考
ナンシー・ミットフォードは一九五五年、『エンカウンター』に掲載されたエッセイで、上流階級とそれ以外の人びとの使用する用語を指す「U言語と非U言語」〔U=upper class.「上流階級の言語と非上流階級の言語」という新語を提示した。彼女が示した階級を見分けることばのなかには今や時代遅れになったものもあるが、考え方は健在である。階級識別用語には変化したものもあるが、残っているものも多く、たとえば現在でも昼の食事を「ランチ」と言うか「ディナー」と言うかで階級を見分けることができる。 しかしミットフォードの単純な二分法ではわたしの論旨を説明しきれない。階級識別用語には単に上流階級を他と分けるものもあれば、より厳密に、労働者階級と下層中産階級、中層中産階級と上層中産階級を区別できるものもある。労働者階級と上流階級の使うことばが非常に似ていて、中間層とは著しく異なる場合もある。
七つの大罪
ただし、次の七つは、確実に階級を識別できる用語だと上流階級と上層中産階級が認めている。上流階級の前でこの「七つの大罪」のひとつでも口にすれば、彼らのなかの階級識別レーダーが作動して響報が鳴り響き、よくても中層中産階級、おそらくはもっと下に降格させられるだろう自動的に労働者階級とみなされることもあり得る。
パードン 「パードン」は上流階級と上層中産階級が忌み嫌う悪名高いことばである。ジリー・クーパーの息子は「ママが「パードン」は「ファック」よりずっと悪いことばだって言ってた」と友だちに話していたというが、その通りである。
試しに、わざと相手が聞き取れないくらいの小さい声で話しかけてみれば、下層中産階級か中層中産階級なら「パードン?」、上層中産階級なら「ソーリー?」(あるいは「ソーリー・・ホワット?」か「ホワット・ソーリー?」)と言うだろう。しかし上流階級と労働者階級はともにただ「ホワット?」と言う。労働者階級はtを省略して「ホワッ?」と言うだろうが、これが唯一の違いである。上層労働者階級でも中産階級志向の人は、上品に聞こえると思いこんで「パードン」と言うだろう。
トイレット
「トイレット」もまた上流階級がたじろぐ──あるいは成り上がりらしき人が使うと目くばせする──ことばである。上層中産/上流階級は「ルー」("loo”)か「ラバトリー」("lavatory")(一音節目にアクセントを置いてlavuhtryと発音する)と言う。たまに「バグ」("bog")を使うが、それは皮肉や冗談交じりに言う時だけである。労働者階級は皆「トイレット」("toilet")と言う。
セルヴィエット
パードン族はナプキンを「セルヴィエット」("serviette")と呼ぶ。これもお上品ことばのひとつで、普通の英語でなく気取ったフランス語を使うことでステイタスを上げようとする、見当違いの例である。「セルヴィエット」は、「ナプキン」が「ナッピィ」〔おむつ〕と似ているので、ほかに上品に聞こえる言い方はないかと考えた下層中産階級が、気取って使い始めたと言われている。発端がどうあれ、「セルヴィエット」は紛れもなく下層階級のことばとみなされる。
ディナー
「ディナー」ということば自体に問題はない。だが昼の食事を「ランチ」と呼ばずに「ディナー」と言うと、労働者階級の烙印が押される。わたしは講演で階級を当てる「余興」をすることがある。イギリス人の聴衆に向かって、昼食のことを「ディナー」と言う人、続いて「ランチ」と言う人に手を挙げてもらう。(そして後者には親が昼食を「ディナー」と言うかどうかを尋ね、社会的流動性を予測する。)言うまでもなく非常に粗野なやり方だが、聴衆は瞬時に、イギリスの階級制度において、いかに言語的「文化資本」が重要であるかを認識する。そのうえ必ず笑いがとれる。
夕食を「ティー」と言うのも労働者階級の証で、上流階級はこれを「ディナー」、または「サパー」と言う。
高い階級の人たちにとって「ティー」は、四時ごろにとるお茶とケーキ、スコン(「スコーン」と伸ばさない)、または軽いサンウィジュ(「サンドウィッチ」とは発音しない)のことである。低い階級の人たちはこれを「アフタヌーン・ティー」と言い、「ティー」は夕食を指す。このことは外国人客の混乱を招く。「ディナー」に招かれたら、昼と夜のどちらに訪問すればよいのか、「ティーにおいでください」と言われたら四時なのか七時なのかを尋ねたほうがよい。答えによってあなたをもてなす家の階級を見分けることができるだろう。
セティ
家具の呼び方を尋ねてみるのもよい。二、三人掛けの布(革)張り椅子をセティまたはカウチと言うならせいぜい中層中産階級、ソファと言うなら上層中産階級かそれ以上である。
ラウンジ
セティあるいはソファを置く部屋の呼び方でも階級がわかる。セティは「ラウンジ」か「リビングルーム」に、ソファは「シッティングルーム」か「ドローイングルーム」に置かれる。「ドローイングルーム(ウィズドローイングルームの略)」は、かつては唯一の「正しい」用語であったが、ありふれたテラスハウスの狭い一室を「ドローイングルーム」〔ディナーの後、食堂から下がって女性たちがくつろぐ部屋〕と呼ぶのはおかしいと感じる上層中産階級と上流階級が増えたため、「シッティングルーム」に落ち着きつつある。上層中産階級は「リビングルーム」と言うこともある。中層中産と、それより下層の階級にかぎって「ラウンジ」と言うが、これには人は眉をめる。「ラウンジ」は、上層中産にのし上がろうとする中層中産の人たちを特定するのにうってつけの語である。彼らは「パードン」や「トイレット」と言ってはいけないことを知っているようだが、「ラウンジ」と言うことで大罪を兆していることにはほとんど気づかない。
スイーツ
「スイーツ」も「ディナー」と同じく、何をそう呼ぶかによって階級がわかる。上層中産階級と上流階級は料理のコースの最後に供されるものを「プディング」と言い、決して「スイーツ」「アフターズ」「デザート」とは言わない。それらは下層階級のことばで、許しがたく思っている。「スイート」は形容詞としてはよく使うが、名詞としては甘い菓子類――アメリカ人が「キャンディ」と呼ぶもの――のみを指す。料理の最後に出るものは、アップルタルトであろうとレモンシャーベットであろうと「プディング」である。料理の最後に「スイーツがほしい人は?」と尋ねれば、自分が中層中産階級以下であることをさらすことになる。「アフターズ」も階級格下げレーダーを作動させる。「デザート」は、アメリカかぶれの上層中産階級の若者たちが使うようになってきたため、三語のなかでは最も無難な一階級が見分けにくい話である。また上流階級にとっての「デザート」は、ディナーの最後の最後、プディングのあとにナイフとフォークで食べる果物を指すので、混乱のもとにもなる。
「スマート」と「コモン」
「七つの大罪」は階級を見分けるのに最もわかりやすく確かな手段だが、われわれの高度精密階級レーダーにひっかかる語はまだたくさんある。「ポッシュに〔上流階級のように〕話し」たいなら、まず「ポッシュ」という語を使ってはいけない。上流階級は「スマート」と言う。上層中産階級や上流階級のあいだでは、「ポッシュ」が下層のことばであることを心得ているのが伝わるように、皮肉をこめて冗談めかして使う。
「スマート」の反対語は「コモン」で、これは「労働者階級」を婉曲に指すお高くとまったことばである。しかし使いすぎると階級へのこだわりを露呈するので、気をつけねばならない。何であろうと「コモン」と言うのは行きすぎで、下層階級から距離を置くのに必死だととられる。
階級の否定
われわれは依然として強く階級を意識する一方で、「偏見のない」この時代に階級にこだわるのは恥ずかしいという思いから、階級を否定したり隠したりするのに必死になる。中産階級はとりわけ階級に不快感を覚え、善良な上層中産階級は最も神経を尖らせる。彼らは「労働者階級」という語を使わないように非常に苦心する──「低所得層」「非特権者」「一般人」「低学歴者」「普通の人」「タブロイド読者」「ブルーカラー」「公立学校出身」「公営団地族」「大衆」などの婉曲表現に頼る。
階級的言語コードとイングリッシュネス
まず、われわれが確認した言語コードから、イギリスの階級は収入や職業とは関係がないことがわかった。「文化資本」として考えるとよりわかりやすいが、実生活(調査ではなく)のなかで、ほぼ間違いなく階級を識別するものとして機能する唯一の文化資本形態が「言語資本」である。話し方がこのうえなく重要である。上流階級の語彙を上流階級のアクセントで話す人が上流階級だと認識される。たとえ所得が貧困線ぎりぎりであろうが、汚い単純作業の職に就き、さびれた公営団地に住んでいようが関係ない。職にあぶれた貧困層やホームレスであっても変わらない。同様に、労働者階級の発音でソファを「セティ」、昼の食事を「ディナー」と言う人は、巨額の富を得た大邸宅に住むビジネス界の大物でも「労働者階級」に振り分けられる。服、家具、装飾、車、ペット、愛読書、趣味、飲食などで階級を見分ける方法もあるが、話し方は即座に、明確に見分ける手段である。
5 パブの作法
パブはイギリス人の生活と文化のひとつの中心である、とはガイドブックの決まり文句だが、事実そのとおりである。イギリスの文化におけるパブの重要性は、強調してもし足りない。成人人口の四分の三以上がパブに通い、その三分の一以上が「常連」で、週に一度は行く。多くの人にとってパブは第二の家である。年齢、社会的階級、教育レベル、職業を問わず、あらゆる人がやってくるパブは、社会科学者にとってイギリス人の「縮図」を観察できる絶好の場所でもある。イギリス人を少しでも理解しようと思うなら、パブで多くの時間を費やす必要がある。パブを知れば、イギリス国民性をほぼ完全に理解できよう。
パブでの会話
社交性
なぜパブがイギリス文化の重要な一部なのか?それは第一に、パブが独特の社交場だからである。 パブのカウンターは、まったく面識のない相手と話をすることが許容される数少ない場所のひとつである。そこではプライバシーや遠慮という通常のルールが停止され、慣習的な抑制が一時的に解除される。見知らぬ人と親しくことばを交わすことが、ここでは正常かつ適切なふるまいとみなされる。
見えない列
酒場では列を作らず、カウンターに思い思いに集まる。これは一見、イギリス人の性質、作法、習慣に反するようだが、実は見えない列ができており、バーの店員も客も、順番を心得ている。注文は先にカウンターに着いた人からで、順番を飛ばして注文しようとすれば、店員に無視され他の客たちの顰蹙を買う。完璧とは言わないまでも、イギリスのバーテンダーは、次は誰の番かを見極めることに驚くほど長けている。並ばないというカウンターでの例外は実は見かけの例外で、秩序化されたイギリス的無秩序性のもうひとつの例にすぎない。
パントマイム
一番よいとされているのは、微妙なパントマイムである。クリスマスに演じられるものではなく、イングマール・ベルイマン監督作品に見る、眉に語らせるたぐいのパントマイムである。バーテンダーと目を合わせたいとき、大声で呼ぶ、カウンターでコインをコツコツと鳴らす、指を鳴らしたり振ったりするなど、露骨に注意を引く行為はいずれも顰蹙を買う。 お金や空のグラスを手にもつことで、オーダーの順番待ちをしていることを知らせるのはよい。空のグラスを傾ける、ゆっくりと円を描く、のパントマイムも許容される(年季の入った常連によれば、これで時間の経過を表わすのだという)。このさいの作法はおそろしく細かい。たとえば、お金や空のグラスをもってカウンターに肘をかけるのはよいが、腕まで上げて紙幣やグラスを振ってはいけない。
パントマイム・ルールの例外
パントマイムにも重要な例外がひとつある。これもまたルールの存在を示す例外である。パブのカウンターで順番待ちをしているとき、バーテンダーに向かって「おい、今世紀中には酒が飲めるんだろうな」「早くしてくれ。先週の木曜日から待ってるんだ」と叫ぶなど、露骨なルール違反をする客がいるかもしれない。しかし彼らの真似をしてはいけない。こうしたふるまいは馴染みの「常連」だけに許される。無作法なもの言いの背後には、店員と常連間の特別な作法がある。
プリーズとサンキュー
しかし、飲み物を注文するさいは皆がルールに従う。通常、ひとりかせいぜいふたりがカウンターに行って仲間の分を注文し、勘定はひとりがまとめてする。(この方法はバーテンダーの負担を軽くするのみでなく、イギリス人が嫌う「ごたごた」が避けられる。これはもうひとつの複雑なルールとも関連している。順番におごるルールで、あとに述べる。)次に、ビールの正しい注文の仕方だが、「パイント・オブ・ビター(あるいは「ラガー」)・プリーズ」、半パイントなら、縮めて「ハーフ・ア・ビター・プリーズ」と言う。(特定の銘柄を注文するときは、「パイント・オブ・(銘柄)・プリーズ」「ハーフ・ア・(銘柄)・プリーズ」と言えばよい。)
「あなたもどうです?」
パブという特殊な社会的限定区域においては、対等関係を保つ礼儀作法がはるかに複雑で、固く守られている。たとえば、パブの主人やバーテンダーにはチップを渡す習慣がなく、かわりに一杯おごる。店の人にチップを渡すことは、相手にサービスを催促する無作法な行為になりかねないが、一杯おごるのは相手を対等とみなすことになるからだ。飲み物をおごるやり方は、礼儀正しさによる対等主義と、金銭の話を嫌悪するイギリス人の性質を反映している。注文のあとに「あなたもどうです?」と控えめに相手の意向を問うのが決まったやり方で、指図したり、空気を読まずに大声で気前のよさをひけらかしたりしてはならない。
常連の会話
前述したように、「常連客」のパントマイムのマナーには特別な決まりがあり、彼らのあいだではそれを破っても許される。無論、見えない列に割りこんでよいわけではない。割りこみはイギリス人が最重視する順番待ちのルール、ひいては、公平を重んじるという原則に違反する。ただ、常連ことばは「慣例からの、慣例化された逸脱」を具現し、イングリッシュネスを明確にするさらなる手がかりを与えてくれるので、詳しく見ておこう。
挨拶
常連がパブに入ると、他の常連客や店のスタッフに一斉に親しげな挨拶で迎えられる。店主やバーテンダー、常連客同士はたいてい名前で呼びあう。まるで「一族」のメンバー間の親密さや人脈を強調するかのように、パブでは必要以上に名前を呼ぶ。「本来の」イギリス人の会話の慣習では、他の文化にくらべて名前を呼ぶことが著しく少なく、頻繁に呼ぶと、アメリカ人のようで鼻につくと蹙を買うのとは対照的である。 パブの常連客同士の連帯は、ニックネームを用いることでさらに深まる。
コード化された会話
全国規模の学術的パブ巡りでは、どのパブにも内輪の冗談、ニックネーム、決まり文句やしぐさにかんする独自のコードがあることが明らかになった。家族や夫婦、学友、同僚など他の社会的グループにおける「内輪ことば」同様、コード化されたパブ・トークは常連客同士の社会的連帯のみならず、対等意識も強固にする。「本来」の社会的地位とは関係なく、パブでの待遇や人気は、まったく異なる要素、つまり個性や癖、習慣にかかっている。
パブでの口論
パブでの口論も、この特殊な状況でどのような社会的行動をとるべきかを定めた「暗黙の掟」の原則に従っている。この掟によれば、パブでは対等で相互的で親密な交流を深め、相手を攻撃しないことを暗黙の了解としている。人間関係を研究する者は、この原則があらゆる交流の基盤にあり、パブでの口論の本質的な目的は交流を深めることであると認めるようになるだろう。
自由連想法
パブでは、数分で話題を変えないと、むきになっているととられるかもしれない。精神分析医が用いる療法に「自由連想法」がある。セラピストが患者に、特定のことばやフレーズからの連想を自由に話させるものだが、イギリス人のパブでの会話は、自由連想療法を想起させる。自由連想法と重ねて考えれば、パブでの会話がもたらす効果を明らかにするのに役立つだろう。パブでは普段控えめで用心深いイギリス人が自制を解いて、心によぎったことを何でも声に出す。
パブの作法とイングリッシュネス
コード化されたパブでの会話からは、イギリス人が苦手とする社交を促進する酒場の機能に加えて、「逸脱」という、本来の社会のヒエラルキーから抜け出させる機能が浮き彫りになる。親睦を深めることと対等関係を結ぶことは酒場の普遍的な機能だが、とりわけイギリス人の場合は日常的規範との対照がそれを際立たせている(唯一日本人が似ている。おそらく慎みや形式、社会的立場の違いにひどく敏感な文化をもつ、狭く密集した島国社会だからだろう)。また、コード化されたパブでの会話と口論には、鋭いウィットや言語にかんする創意に加えて、イギリス人の会話における最大の特徴であるユーモアが根底にある。最後に、自由連想式会話にも、規制された規制緩和、秩序化された無秩序、分別のある(見せかけの)無分別が確認できた。
6 競馬
競馬人口は、パブの人口にくらべてかなり少ないが、競馬場はパブ同様にイギリスを代表する場である。実際それはイギリスのあらゆる階層の人びとを満遍なく引き寄せる点で、サッカーよりも国民的スポーツと呼ばれるのにふさわしい。パブと同じく、競馬に集うのはあらゆる年齢の、あらゆる階級の人びとである。最上層と最下層の人びとが実際の人口に照らしてやや多く、中間層にはいくつか小さな空白部分も見られる。たとえば上層中産階級のインテリはやや少ないが、この口うるさい少数者は他の場所で十分注目を集めているので、競馬場での数の少なさはさほど問題にしなくてよいだろう。
競馬場での会話
紹介
パブのカウンターは遠慮という一般的なルールの例外である。競馬場ではこのルールからのさらに著しい逸脱が見られる。パブでは、未知の人に話しかけないという通常のルールが破られてもよい領域はカウンターだけである。競馬場ではカウンターのみならず、正面観覧席、下見所、馬券売り場の列、ほとんどの場所で、まったく知らぬ同士が目を合わせたり、微笑んだり、親しくことばを交わしたりしている。 だがここはイングランドだから、当然そのような会話も厳密かつかなり複雑なルールにのっとっておこなわれている。それは普通「次のレースはどれにしますか?」という質問で始まる。(あるいは「二時半のレースはどれにしますか?」「次のレースの予想は?」など。ことばは決まっていないが、特定のレースで相手がどの馬が勝つと予想するかの問いでなければならない。)
謙遜
コラムに自分の予想を書き、誰が最高の的中率かを互いに競う職業的競馬ジャーナリストさえ、社交の場面では常に謙遜のルールに従っている。実際、次のレースの予想を尋ねたときの、最もおかしな答えをしたのはある競馬ジャーナリストで「ぼくに予想を訊くなんてよそうや」 この答えが気に入ったわたしは、競馬場での調査のさいにそれを何度も借用したが、そのたびに笑いを誘い、いつも親しい気分を盛り上げてくれた。だが親密さを醸し出すのに、おかしな語呂合わせがいつも必要なわけではなく、自分が勝ち馬を当てられないことを卑下的に表現するのが、予想を訊かれたときの適切な応答であり、それによって競馬仲間たちの好感を引き出すことができる。
礼儀
イギリス人は礼儀正しさで知られており、幾多の例外や逸脱にもかかわらず、礼儀は、この本の序章で述べた「ルール」のどの意味においても、イギリス人のルールである。それはいまだにガイドラインであり基準であり、物ごとのあるべきかたちとみなされている。すべてのルールの例に撮れず、それはしばしば破られるが、違反が注目され非難されることで、原則の健在が証明される。だが競馬場では「正常な」礼儀正しさが拡大され誇張され、違反は稀である。
嘆き
競馬の世界は優しく光に満ちた場所だと読者が思わないように、競馬に行く人びとにも不満や不機嫌の種があり、その点では騎手、調教師、役員なども同様だと言っておきたい。イギリス人が好むところの、イーヨーふうの静かな嘆き方は、競馬場でもよく見られる。そして競馬レースをめぐる苛立ちゃ不満の表し方の決まりは、この本の始めのほうで述べた天候をめぐる「嘆きの儀式」とほぼ同じである。 不平の種はさまざまだが、ここでも天候がしばしば不満のもとである。
レースのあとの反省
レースが終わるたびに、調教師、馬主をはじめ着外の(四着以下の)馬の「関係者たち」は反省会を開き、レースを仔細に分析し敗因を究明する。 このような話し合いは、負けたのは馬が速くないからではないという暗黙の了解に支配されている。 二、三の反省会を立ち聞きして(たいそうおもしろい経験でお勧めである)耳に入るのは、馬が負けたのは運が悪かったから、厩舎で落ち着けなかったから、休憩をとりそこねたから、囲まれたから、ぶつかったから、コースの状態が悪かったから、急な曲がり角に対応しそこねて曲がり方が膨らんだから、レース経験が足りなかったから、レースが多すぎて疲労したから、あの隙間に入ったらよかったのに、外側を行くべきだったのに、明るいところに出るのが早すぎた、もっと早くから走らせればよかった、一マイル走らせてみればよかった、遮眼革(ブリンカー)つきの頭巾を被らせ、スタミナを蓄えれば、次に出るときは向上して、なかなか立派にやるでしょうよ。
金の話はタブー
金銭への関心は競馬のどの部分にも浸透しているが、それを口にするのは──少なくとも直接的にズバリと言うことは、適切ではない。 この点でアイルランドとの比較がおもしろい。
お金をめぐるイギリス的こだわりは会話のルールにも表われている。アイルランドの競馬ファンが相手の賭けがうまく行ったかを訊くのに「儲かりましたか?」と無骨に質問するのにたいして、イングランドの競馬ファンは「勝ち馬がいましたか?」と訊く。どちらの国でも、レースの結果は騎手が「後検量」を受け、検量委員がレース前の「前検量」以後に体重の増減がないかをチェックするまでは決して公表されない。だがアイルランドの競馬場ではマイクがレース結果とともに「勝ち馬はオーライ」つまり勝ち馬に賭けた人の金は保証されているということを告げる。それに相当するイングランドの知らせ方は、婉曲表現で「後検量済み、後検量済み」と単調に告げるだけである。
競馬場での会話にみるイングリッシュネス
謙遜にかんしては、競馬場での会話がイングリッシュネスを論じるさいに生じる混乱を解明してくれる。上に示した例から、イギリス人の謙遜は「真の」「混じり気のない」謙遜ではないこと、自分には何も特別なものがなく、いかなる称賛にも値しない存在だという確倍から生まれた謙遜とは違うことは明らかである。「イギリス的謙遜」の実態は、彼らの生まれつきの謙虚さ、自己主張のなさではなく、彼らが謙遜にかんして守る明白なルールである。そのルールに従って、彼らは謙虚を装い、爽められれば心では自分を誇り自分に満足していようとも、肩をすくめたり、卑下的ジョークを口にしてそれをかわす。礼儀はもっとわかりやすい。誰しも礼儀とは自分の素の気持ちがどうであれ、ルールを守ってよいマナーを保つことだと心得ている。
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訳者あとがき
イギリスらしさ、イギリス文化の特性、イギリス人の言動の特徴、イギリス国民性、それらを包括的に表すことばとして「イングリッシュネス」を邦題に選んだ。原書は Kate Fox, Matching the English: The Hidden Rules of English Behaviour、本書は前半の大部分を訳出したものである。初版は二〇〇四年、一〇年後の二〇一四年にアメリカ人読者に向けた増補版(かなり大幅な増補がおこなわれている)が出た。本訳書は増補版に基づいている。
本書で訳出したのは前半のみなので、簡単に後半に触れておこう。原書では前半に「会話のコード」、後半に「ふるまいのコード」という見出しをつけている。しかし会話とふるまいはそれほど整然と分けられるものではなく、前半はむしろ基礎編の趣がある。グルーミング・トークやユーモアはイギリス人の言語行動の基盤であり、パブと競馬場はイングリッシュネスが集約された場である。言語と階級の章も基礎的知識を提供している。 後半はさらに多様な場の多様な条件のもとで、イングリッシュネスがどのように発揮されるかを、応用編ともいうべきかたちで示している。路上で、交通機関で、職場、家庭、学校でのイギリス人のふるまい、衣食住と階級、恋愛と結婚、冠婚葬祭などに発揮されるイングリッシュネスのさまざまな姿が描かれている。他国のものとくらべてイギリスの広告やコマーシャルにはどのような特色があるか、アメリカとイギリスの連続テレビドラマはどのように違うかなど、比較文化的話題も提供されている。
参考文献
索引
イングリッシュネス : 英国人のふるまいのルール | NDLサーチ | 国立国会図書館
361.42
