Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ:心・テクノロジー・知能の未来』春秋社 007.11 114

どうい経緯で,なんでこの本を読もうと思ったんだっけ? それを忘れると,なかなか入りづらい。力作なのはよく分かったけど──ただ訳者解説にあるように,内容的に少しアップデートが必要な箇所もあるらしい。

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謝辞

本書は既に確立されている考え方や研究プログラムに多くのものを負っている。わたしはただ、これらの考え方を変形して、近年のテクノロジーの発展および、わたしたちが誰であり、何であり、どこにいるのか、という古来の問題とより直接的に関連づけたにすぎない。

わたしが特に影響を受けたフィクション作品には、バーナード・ウルフ、ニール・スティーヴンスン、ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング、モーリーン・マクヒュー、ウォーレン・エリスの作品(それぞれ『リンボー(Limbo)』、『スノウ・クラッシュ(Snow Crash)』、『ニューロマンサー(Neuromancer)」、『ホーリー・ファイアー(Holy Fire)』、『チャイナ・マウンテン・チャン(China Moun-tain Zhang)』、「トランスメトロポリタン(Transmetropolitan)』)が含まれる。

序論

生身のサイボーグ

サイボーグは、20世紀後半に大きな影響力をもった文化的アイコンである。それは、人間と機械のハイブリッドや、肉体と電子回路の物理的融合、といったイメージを呼び起こす。わたしの目的は、こうしたイメージを乗っ取り、それを作り変え、それが(奇妙なことに)わたしたち自身が生物としてもつ本性の、正体を偽ったビジョンであることを示して見せることにある。

しかしこの本は、主として新しいテクノロジーについての本ではない。むしろ、わたしたちについての本であり、わたしたちの自己感についての本であり、そして人間の心の本性についての本である。本書は、生物、自然、文化、テクノロジーの間の、複雑で、対立し合い、そして驚くほど正しく理解されていない関係を標的とする。未来に関するマニフェストではなく、科学志向の哲学の著作である。わたしの目的は、わたしたちがこれから何になるのかを言い当てることではなく、既に何であるのかをより良く評価することにある。つまりわたしたちは、まさしくその心が多種多様な融合と連携のためにあつらえられているという理由で、特別な心をもった生物なのだ。

接続されて

テクノロジーが携帯性、普及性、肩頼性、柔軟性を増し、ますますカスタマイズされていくにつれて、わたしたちの道具はますますわたしたち自身の一部になっていく。

心身問題という古来の難問が、本当は隠れた第三の当事者を含んでいる、ということに。それは心–身–足場問題なのだ。それは、人間の思考と理性が、物質的な脳、物質的な身体、そして複雑な文化的・技術的環境の間のループする相互作用からどうやって生じるのかを理解する、という問題である。わたしたちはこのような支えとなる環境を生み出すが、環境の方がわたしたちを生み出しもする。脳、身体、社会的・技術的足場の不可解なダンスのおかげで初めて、わたしたちは、現にそうであるような、思考するものとして存在するのだ。進化の歴史のなかでも斬新なこの配合を理解することが、わたしたちの科学、わたしたちの道徳、そしてわたしたちの(個人としての自分たちと一つの種としての自分たちの両方に関する)自己イメージにとって、決定的に重要なのである。

第1章 サイボーグ・アンプラグド

宇宙空間のネズミ

実際に初めて「サイボーグ」という用語を提案したのは、マンフレッド・クラインズだった。クラインズはその当時ロックランド州立病院の主任研究科学者で、生理学的測定機器の設計と開発のエキスパートだった。その当時には既に、呼吸を介した心拍数のコントロールについての研究で高名なべイカーアワードを受賞し、その後、今日いまだに多くの病院で使用されているCATコンピューター発明していた。自分たちの思い描いていたような種類の人工物と有機体から成るハイブリッドシステムを言い表すためにクラインズが「サイボーグ」という用語を作り出したとき、クラインはそれが「デンマークの街の名前のように」聞こえる、と述べた。それでもその言葉は正式に新しい言葉として造り出された。そして事実とフィクションの用語を永久に変えたのだ。

「サイボーグ(cyborg)」という言葉は、「サイバネティックな有機体(cybernetic organism)」または「サイバネティックな方法でコントロールされた有機体(cybernetically controlled organism)」を表す略語である。それは、人間–機械間の融合という考え方と、その際に思い描かれている融合の幾分特殊な性質との、両方を捉えるように意図された専門用語である。

インプラントと融合

内耳インプラントのケースを思い出してほしい。 そして今度はこのテクノロジーがたどってきた軌跡に特有のパターンに注目してほしい。この軌跡は、聴覚神経に結合される単純な内耳インプラントから始まる。実のところこれは、補聴器類を一歩進めたものにすぎない。次の段階では、聴覚神経は迂回され、信号が脳幹そのものの表面上の端子に送り込まれる。そして最終段階(古典的サイボーグの楽園)では、微小電極が実際に様々な深度で腹側蝸牛神経核そのものを貫いている。あるいは、ウォーリック教授のことを考えてほしい。彼の最初のインプラントは、腕の内部に装着されてはいるにしても、スマートバッジとほとんど違いはないという印象を与える。わたしが抱いている印象では、生物と電子装置のインターフェースが複雑さを増し、内側へ、脳の奥深くへ、そして皮膚・骨・感覚器官の周辺から遠くへと移動するにつれて、わたしたちはこれと相関して、本物のサイボーグテクノロジーを取り扱っているのだ、と考えることに抵抗を感じなくなっていく。

現代の民間航空機の操縦という課題において、人間の脳と身体が、流動的な仕方で統合された生物と技術から成る問題解決マトリックス全体のなかの一要素として振る舞うということは、明らかだと思われる。だがそれでも、これは最新式のハイテク技術のことではないか、とあなたは言うかもしれない。確かにある意味で、少なくとも飛行機を操縦している間は、パイロットは一種の(一時的な)サイボーグ的存在の一部となり、クラインズとクラインの言い方では、自動化された電子回路が「(一定の)問題が自動的に処理されるような、組織化されたシステムを提供する」ことを可能にする、と言えるかもしれない。しかし、わたしたちの大多数は、民間航空機を操縦することはなく、一日たりともサイボーグであるわけではないのだ、と。

ア・デイ・イン・ザ・ライフ

わたしたち自身のますます増していくサイボーグ的本性を見えなくさせているものは、ある西洋古来の偏見である。すなわち心を、自然界のその他の部分からきっぱり区別されるほどに、根本的な点で特別なものと見なす傾向なのだ。唯物論の勢力が強くなっている近頃では、この偏見は必ずしも霊魂の存在への信仰という形をとるわけではない。その代わり、皮膚および頭蓋という原初的な生体絶縁材(自然界のダクトテープ!)の内部にたまたま収納されている認知機構にはどこか絶対的な仕方で特別なところがある、という念の姿で現れる。その内部で生じる物事は非常に特別であるため、人間と機械の真の融合を達成する方法は、皮膚および頭蓋という寝室のドアの背後に何か純然として物理的なインターフェースを設けることによってそうした融合を完遂すること以外にはない、と考えてしまいがちなのだ。 しかし、皮膚と頭蓋の内部にそれほどに特別なところは何もない。

嵌入接合(ダブテーリング)

非貫通方式のサイボーグテクノロジーは、わたしたちの身の周りのいたる所に存在しており、今まさにある革命の瀬戸際に差し掛かっている。「非貫通方式のサイボーグテクノロジー」という言葉でわたしが意味しているのは、(先ほど述べたように)既にわたしたちの生活、計画、そして自分の能力についての感覚を変形しつつある技術的トリックと電子的補助装置の一切である。生体電子的インプラントの実物を扱っている場合でさえ、最も重要なのは、流動的な統合と個人に合わせた変形のための潜在能力である。

第2章 接合されるテクノロジー

ヘビーメタル

ニューメキシコ州のロスアラモス国立研究所は、標高も高いがテクノロジーのレベルも高い。わたしは心とテクノロジーの相互作用に関する講演を行うために、この1999年5月の暑くて晴れた日にここに来ている。

透明な道具

認知科学者であり、現代という「情報アプライアンス」の時代の指導者でもあるドナルド・ノーマンは、不透明なテクノロジーと透明なテクノロジーの間を流れるルビコン川を、「技術中心的」製品から「人間中心的」製品への歴史的進歩の観点から説明する。人間中心的製品は、その機能が一目でわかるようになっており、人間の脳と身体に生来的に具わった長所を活用する。ノーマンが強調するのは、それは使用者がほとんど一度もマニュアルを開く必要がないような製品だ、という点である。 しかし今日では、わたしたちがもっているハイテク技術、情報ベースの製品の中に、そうした製品はほとんどない。悲しいことに、非常に不透明で、毎日マニュアルを探さなくてはいけないような製品が、あっという間に何千個も思い浮かぶ。その例は、ビデオカセットレコーダーや写真コピー機から、電子手帳やラップトップコンピューターにまで及ぶ。

スマートワールド

かつて時間管理に対して生じたことが、いま情報の流れそのものに対して生じている。マーク・ワイザーのユビキタスコンピューティングのビジョンは、「情報アプライアンス」とノーマンが呼ぶものを設計し販売する試みのうちに、具体的に表現されている。わたしたちは既に一度か二度この言葉に出会っているが、今こそ詳しい説明を試みるべきときだろう。情報アプライアンスは三つの中心的特徴によって性格づけられる。

ウェアラブルコンピューターとは、使用者と深い意味で(ただし侵襲的という意味ではない)一体化された、情報処理を行う道具のことである。それは持ち運び可能で、常時作動的で、使用者が動き回っている(あるいは何か別のことに携わっている)ときにも使用可能である。このためには、ハンドフリーで使用することができ、いつでもそれ〔道具〕が適当と見なすときに、使用者に対して目立たない仕方でデータを提示することができなければならない。このような装置は、「着用者ができる限り労力を使ったりその一番重要なタスクから注意を逸らしたりすることなく、いつでも使用できるようにデザインされているのであり、ここで一番重要なタスクとは、コンピューターを使用することではなく、環境に対処することなのだ」。従ってウェアラブルコンピューティングは、ある非常に広い意味では、人間中心的テクノロジーとノーマンが呼ぶものの、もう一つの実例である。つまり、使用の際に背景へと退き、わたしたちがそのテクノロジーにではなく当面のタスクに注意を向けられるような仕方で支援を提供するような種類のテクノロジーに属す、あるいはそれを目指すのだ。ただし、計算技術を世界に埋め込むのではなく、それを使用者に貼り付けることによって、このことを達成するのだが。

前進し続ける

まとめの時間だ。わたしたちはこれまでに近未来についてのいくつものビジョンに出会った。目に見えない計算技術、触れられる計算技術、着用可能な計算技術、そして拡張現実の各ビジョンだ。 この中でも、インビジブルコンピューティングとタンジブルコンピューティングの二つは、一見すると真っ向から対立し合う研究プログラムのように思われるが、実際にはそうではない。両者の間には確かに相違があるが、それは過大評価されやすい。腕時計は、目に見えないテクノロジーと触れられるテクノロジー、どちらの例だろうか? ノーマンとワイザーの元々のビジョンが要求するのは、完全に目に見えないことではなく、使用の際に目に見えないことであり、この点で両者は一致するのだ。別の例を挙げれば、ビー玉式留守番電話は情報アプライアンスの好例であるが、それと同じ程度にタンジブルコンピューティングの一例でもある。そして、それを日常的使用の際に目に見えなくさせるものは、それを「触れられる」ようにするものとまさに同じ特徴(わたしたちが日常的対象に対して抱く気安さとなじみ深さを利用する方法)なのだ。

第3章 可塑性のある脳、ハイブリッドな心

調整可能な身体

おもしろい実験を紹介しよう。家でもできるような実験だが、重要かつ示唆に富むものだ。考案したのは、カリフォルニア大学サンディエゴ校脳認知センターの教授かつ所長のV・S・ラマチャンドランである。簡単な指示に従えば、(成功確率約50%で)自分の鼻が数十センチも伸びたように感じられ、机を身体の一部のように感じて痛みさえ覚えるようになり、ゴム製のダミーの手に感覚をもつようになるのだ。

脳のご都合主義

脳のその他のいくつかの性質が組み合わさって、わたしたち人間が生物体と技術の共生というプロセスに向かって足を踏み出すのをとりわけ容易なことにしている。そのような性質の一つを「脳のご都合主義」と呼ぶことにしよう。椅子にゆったり座って、部屋の中を見回してみてほしい。何が見えただろうか?たぶん、椅子や本、テーブル、CD、オーディオ機器などなど、といった一連の豊かな視覚イメージが得られただろう。わたしに見えるのは、本を詰め込みすぎた見苦しい本棚だ。惜しくもまだ読んでないものばかりで、色とりどりの背表紙には、心を誘われる表題がいやにくっきりと見える。視線をめぐらすと、開いたクローゼットから派手なアロハシャツが何枚もはみ出していて、その奥にある平凡で暗い仕事着と対照的なことといったら。それはさておき、ここで一つ質問をしよう。ひときわいじわるな問いかけである。今見たような一連の視覚経験を生成するにあたり、わたしの生物的な脳は、いったいどれだけの情報を、実際に骨を折って抽出し処理したのだろうか? 実は……思ったよりはるかに少ない情報しか処理していないのだ。

もっと良い脳を構築する

最後に、ここまで述べてきたことに、神経生物学的な要素を加えることにしよう。人間の脳は、地球上にいるどの動物の脳よりも、構成的学習という名で知られるようになったものの恩恵に浴しているという証拠が、次々と挙げられている。構成的学習システムとは、大まかに言うならば、システムの学習が進むにつれてシステム自身の基本的な計算・表象リソースが変化し拡大(あるいは収縮)するというものだ。このアイディアを理解するには、短期記憶の容量が固定されているシステムと、一定の発達期間があってその間に短期記憶の容量が少しずつ増加するシステムとの違いを考えてみればよい。あるいは、スピードと処理能力が固定されたシステムと、それらが増大可能なシステムとの違い。あるいは、表象リソースのストックが(例えば収録語が固定されている辞書のように)固定されているシステムと、必要に応じて自身の辞書や語彙に新しい項目を追加できるシステムとの違いでもよい。

第4章 わたしたちはどこにいるのか?

ぴったり伸ばそう

わたしの友人のある哲学者は、かつて次のように評した。「隔たりとは、そこでいかなる行為も行われていないもののことだ」。この言葉には、相当の叡智が含まれている。今度あなたが混雑した列車に乗っているときや地下鉄の駅にいるときに、携帯電話で通話している周りの人々全員を見渡してみてほしい。彼らはどこにいるのだろうか?なるほど、あなたと一緒に駅にいたり、列車に乗っていたりするのは明らかだ。だがしばしば彼らは、これらの身の周りの場所にはあまり引き込まれていないことがある。少なくとも一時的には、今いる物理的位置をわざとないがしろにするような、プライベートおよびビジネスのためのコミュニケーションの網のなかへ没入しているのだ。行為の有効性という基準に従って近く/遠くを区分する線を引いてみよう。すると、この話し手たちにとって、プラットホームにいる見知らぬ人々よりも、自分の同僚や恋人の方が近くにいると言えるような、仮想的な近接性というものが姿を現す。

テレロボティクスの進歩

しかし、この診断はまだ少し性急すぎる。その理由を理解するためには、わたしたちの旧友、生物的脳を再訪してみなければならない。だが手始めに、ABS(自動ブレーキシステム)に頼る運転手の例(第1章)を思い出そう。ABSに慣れてしまうと、運転手はブレーキを掛けることが「自分にはコントロールできない」かのようにはまったく感じなくなる。だが、足を動かすことと現実にブレーキを掛けることを媒介するこの機械は、以前よりもずっと知的になり、ブレーキを掛けるのに必要とされる行動を調節し、修正することができるようになっている。しかし、それなりの知能をもつこうした媒介物の存在は、わたしたちがもつ直接的関与とコントロールの感覚を損なうとは限らない。 こういった半-知的なテクノロジーは、他のどんなものにも負けないくらい、使用の際に透明になりうる。実のところ、わたしたちは誰もがこの種のケースに慣れ親しんでいる。と言うのも、わたしたちの日常的な身体活動の多くが(それどころか、多くの日常的な意思決定までもが)、これと同じカテゴリーに含まれるからだ。

拡張、変化、そしてテレプレゼンスの感覚は一般に、神経指令、運動行為、(大抵は複数の感覚モダリティの)入力の間の進行中の緊密な相関の結果として生じるわけだ。単純な遠隔操縦機やテレオペレーターシステムは、この種の濃密でリアルタイムの相関を提供する。その結果生じるのは、身体が増強され、拡張されたという抵抗しがたい感覚であり、(控えめなものだとしても)本物のテレプレゼンスの感覚である。しかし、このような身体の高度な作り替えに必要な緊密に相関した信号と反応のネットワークは、非常に脆弱で容易にバラバラになりうる。最も重要な種類の解体は、時間に関するものである。つまり、指令の発信と感覚フィードバックの受肩の間に顕著なタイムラグがある場合や、(さらに悪いことに)例えば電話線の通話量次第でこのタイムラグが変動しうる場合、錯覚は崩壊する。そして、こうしたタイムラグの発生や変動が起こるのは、アプリケーションが複雑さを増したり、距離が大きくなったりするときである。

プレゼンスの再形成

テレプレゼンステクノロジーの潜在的変形能力は莫大なものではあるが、ここで想像したような空間内の結節点の正確なあり方を特定することは依然として困難である。単純に、こうしたテクノロジーの最も有効な使用法が、わたしたちが現在慣れ親しんでいるのと同種の対人的接触および交流を細部まで再現しようと試みることにある、と想定すべきではない。このようなテクノロジーに対して、わたしたちが「通常の」日常生活において目にするのとまさに同じ種類の感覚入力と相互作用能力を遠くへ届けることを期待するならば、ほとんど確実にそれは期待を裏切り続けるだろう。このテクノロジーに対してはむしろ、本物の行為と介入のための真新しいニッチを定めさせてはどうだろうか?

第5章 わたしたちは何なのか?

ステラークの第三の腕

1982年、東京の法政大学にて。ステージ上の男には腕が3本ある。そのうち二本は標準的な生物的キットで、三本目は電子式義手である。それは、生身の右腕の前腕および手に寄り添う、いくぶん固定された電子的な影のように見える。義手は生身のものと同じサイズで、右腕に取り付けられ(図5.1を参照)、手を握る・開く、指でつまむ・離すことができ、手首は290度回転可能だ。この第三の手は男が自分でコントロールしている。戦略的に選ばれた足と腹部の筋肉部位四点に電極を装着し、そこで検出されるEMG信号を介して動かしているのだ。つまり、この筋肉部位に男が指令を送ると、そこが(電極を介して)ある種の中継センターとして機能して義手にメッセージを送り、それによって第三の手がコントロールされるのである。これらの筋肉は通常は手のコントロールには使用しないので、第三の手は他の二本とは完全に独立して動かすことが可能だ。

ステラークが、機知と知能、そして激しく芝居がかった感受性を注いで行っているのは、彼自身の神経系を非生物的な空間へ拡張し、それと同時に、他の人々の神経系が彼の生物的な身体の一部を侵略し、操作し、寄生するに任せることである。実際は、この描写でも簡単にすぎるかもしれない。なぜなら、ステラークが最終的に関心をもっているのは、単なる拡張でもなければ縮小でもないからだ。そうではなく、サイボーグテクノロジーがもたらす、新たな種類の協力や技能的行為、親密さの可能性に関心をもっているのである。

思考による(マインド)コントロール

「第三の手」について考えてみよう。第三の手は、ステラークの脳が発した神経信号(手を動かせという指令は、肢や腹部の特定の筋肉を動かせという指令を経由して伝えられる)によって、間接的にコントロールされているだけだ。それよりもっと直接的な「思考によるコントロール」は、発展著しい科学的研究として、既に話題に上がっている。

柔らかな自己

アイデンティティの危機がぼんやり姿を現してくるのを感じるだろうか? このますます密になる、生物と技術で構成されるマトリックスのなかにあって、わたしたちは(人間としての?)自分自身をいったいどこに位置づけたものだろうか?この疑問はたちまち人々を困惑させる。なぜなら、自己やアイデンティティの概念は、周知のとおり捉えどころがないのだから。そもそも自己とはいったい何なのか? それをどこかに位置づけしようとするなんて、意味のあることだろうか?哲学者ダニエル・デネットは以下のような原則を提唱している。コントロールが究極の基準であり、「わたしとは、わたしが直接的にコントロールする諸部分の総和である」というのだ。

道具はわたしたちである。だがわたしたちは、とりわけ危険な種類の認知上の幻想を抱きがちである。自身の心が働いているのを観察しようと最大に努力しても、考えや意思決定から成る意識の流れに行き着くだけであるため、わたしたちは誤って自分自身を意識の流れと同一視してしまう。そうして、もっと科学的な局面において心と自己の物理的な土台を調査し始めるやいなや、周りを取り巻く社会的・技術的なネットワークについては言うまでもなく、脳の多くの部分(ただしすべてではない)と脳以外の身体の全部は、意識的な使用者というものにとっての道具にすぎないかのように思えてしまう。

わたしたちの世界、わたしたち自身

一つのより良い意見として、哲学者ダニエル・デネットが力強く擁護する、心と自己の機構というビジョンがある。デネットの著作はデカルト劇場という魅惑的なイメージに異議を唱えようとしている。デカルト劇場とはわたしたちの脳内にあり、そこで感覚入力や思考やアイディアがすべて「中心の意味主体」によって精査され、その者が十分な情報を得たうえで行った選択がわたしたちの意図的な行為を決定するという神話的な場所である。

わたしたちは自分の本当のあり方を直視するという課題をずっと先延ばしにしてきた。そして、その課題は科学、道徳、教育、法律、社会政策に影響するのである。なぜならこれらはわたしたちを支配する制度であり、わたしたち(柔らかな自己、生物と技術の脈動的なハイブリッド)はその枠内で問題を解決し、生活を築き、愛する者を慈しまなければならないのだから。だが、これらの制度は変化するのがとても遅い。電子商取引の複雑な現実に対して法律が明らかに後れを取っているように、生物と技術との間にある相互依存や相互浸透の加速するサイクルに対して、わたしたちの社会構造や価値体系は明らかに後れを取っている。

第6章 世界規模の群行動

ナメクジ、アリ、そしてアマゾン

移動するナメクジが残す痕跡は大部分が水分で、若干の塩分と糖蛋白質が混ざっている。種によっては最大で40日も残っていることがある。あの特徴的な粘り気は糖蛋白質によるものである。この複雑な化学的化合物からなる粘液を生産することは、あの小さな生き物にとっては、代謝における大きな投資を意味する。実際、ナメクジとカタツムリが粘液を作ることに費やすコストは、他の動物が走ることや泳ぐことに費やす(エネルギーの)支出のおよそ10倍であるように思われる。食物を消費することによって生み出されるエネルギーの70%が粘液の生産に使われるのである。だとすると、粘液を生み出すことにはそれだけの価値があるのか、というのはもっともな疑問である。この痕跡は極めて非効率な移動方法の無益な副産物なのか、それともこの粘液のモノレールは目に見える以上の価値があるのか。近年のいくつかの研究は後者であることを示唆している。ナメクジの痕跡は、予想もしなかった機能性に溢れている。

餌を探すアリが残すフェロモンの痕跡は、痕跡の利用のもう一つの、おそらくよりよく知られた例だろう。

しかしこれがわたしたちに何の関係があるのか、と当然尋ねたくなるだろう。いくらかの香水とフエロモンを別にすれば、明らかにわたしたち人間は痕跡を残す技術を生まれつきもってはいないように思われる。ここにおいて現代のサイボーグは際立った長所をもっている。というのも彼女は既に電子的にタグ付けされた存在であり、気付かないうちに相互に通信し合う情報アプライアンスの海を泳いでいるからだ。物理的空間の中を移動し、ネット上で売買をし、知的活動を行うにつれて、わたしたちは自動的に電子的痕跡を残している。そしてその痕跡はたどられ、分析され、他の人々の残した痕跡とともに集積される。

探索でより良い生活を

進行中の利用のパターンに応じて結びつきや痕跡を自動的に強めるあるいは弱めるという一般的な考えは、ウェブそのものを一種の群知能へと変えるかもしれない。ロスアラモスに本拠地を置くもう一つのグループ、分散知識システムプロジェクトは、プリンキピアサイバネティカウェブと呼ばれる一種の自己組織化的ウェブサーバーのパイオニアである。このサーバーの最も重要な特徴は、ユーザーの利用の結果を反映して自動的にページ間にリンクを張ったり、強化したり、あるいはそれを切ったりすることができることである。よく使われるリンクはより目立つところに表示され、これによって上述した正のフィードバックのプロセスが進行する。一方でほとんど使われないリンクは衰え、次第に消えていく。このシステムはあるテクニックを用いて新しいリンクを作ることもできる。システトランジティビティームの開発者の一人である、ブリュッセル自由大学のフランシス・ヘイライアーはそれを「推移」と呼ぶ。大まかに言うと、多くのユーザーがサイトAからサイトBへと移動し、その後サイトCに移動するならば、システムは一種のショートカットとしてAからCへの直接のリンクを推進する。個々の人間と機械との融合という本書のもともとのテーマに話を戻すと、サーバーはいつかこれをユーザー単位にもっと近い形で行うようになるかもしれない。あなたがログインすると、システムはそのことを認識して、ハイパーリンクの構造を特にあなたに適合するように変化させるのだ。

スターロゴ、シムシティ、世界規模の情報的ただ飯

いかにして若者を群れ状のシステムについてよりよく考えるように訓練するか? 私たちがもっているような脳はこの仕事に理想的という訳ではない。しかし現在わたしたちは、より良い思考習慣を徐々に浸透させ、そしてそれを支援するのに適したデザイナー学習環境を構築することができる。このようにしてわたしたちの生物的脳は、これらの新しいテクノロジーと協調して、脳自身を構成要素として含むようなシステムをよりよく理解することができる、ハイブリッドな心へと成長することができる。

第7章 悪のサイボーグ?

不平等

もちろんわたしたちのなかには生物と技術から成る巣の中で心地よく繭にくるまれているものもいる。人間中心のテクノロジーの新しい波からわたしたちは直接に利益を得るだろう。互いに関連付けられながら消費し、選択し、学習する群知能の一要素であることにわたしたちは満足するだろう。しかしこれはアンフェアで不平等な世界の序列を固定化する新たなやり口の一つにすぎないのではないだろうか? 楽観的な見積もりでは2004年には世界の人口の10%が手軽にインターネットを利用できるようになるそうだ。一方で1990年、世界の人口の70%が電話をかけたこともなかった。

プライバシーの侵害......

あなたはスマートワールドの中で暮らし、仕事をしている。あなたの車はあなたのコーヒーメーカーに話しかける(そして保険会社に告げ口する)。あなたの薬箱とトイレはあなたの入力と出力を見張る(そしてかかりつけの医師、保険会社、それからもちろん薬事管察に告げ口する)。あなたのスマートバッジ(あるいは携帯電話)は確実にあなたの物理的な移動の痕跡をたどることを可能にし、そしてあなたの電子的な痕跡は誰でも見られるところに残されている。いまいましいネット販売業者はあなたの魂を知っている。彼らの機械はあなたの心の最も奥にある好きと嫌いを覗いてきた。小さな空間、ちょっとした安らぎとプライバシー、静かな営み、心の中の小さな楽園での休暇はどうなってしまったのだろう?

結局わたしたちが生きているこの社会では、非合法でも有害でもない多くの振る舞いが、公にされたならば、自分の生活やキャリアにマイナスの影響をもたらしうるのだ。少しだけ考えてみてほしい。 自宅でひっそり女装することを好むが、オンラインでは服を買わず、他のサイトやチャットルームで自分の発見と経験を共有する小学校の教師について。あるいは暴力的な小説を好みアマゾンのワンクリックアカウントをもっている平和運動家について。あるいは女性の下着に対する微妙な嗜好をもつカトリックの司祭について。あるいはイギリスで本当にあった例であるが、マリファナに目がない無政府主義でゲイの警部について。読者も自分の特殊な興味を当てはめてみればよい。このリストはいくらでも続けられ、グレーゾーンに属するものは枚挙に暇がない。

コントロール不可能性

プライバシーを守るためではなく、わたしたちの運命をコントロールし、本質的な人間性を保護するために、技術的な補助具に対する依存を積極的に制限するべきだと主張する人々もいる。本書のタイトルが示すとおり、私はこのような意見には与しない。人間と機械の共生は、ごく自然に達成されるものにすぎない。

過積載

最も恐ろしい害悪の一つは、それほど抽象的でも劇的でもない。それは単純な過積載、すなわちゆっくりと通信の海の中で溺れていく危険性である。

疎外

第四回認知テクノロジー国際学会が、イギリスのコヴェントリーにあるウォーリック大学のキャンパスで、リラックスした友好的な雰囲気の中で行われた。その会合は2001年の8月に行われ、わたしは光栄にもそこで開会の基調講演を行うという役割を与えられた。わたしはいつものアップビートな調子でもって、思考システムとそれが利用する思考のための道具の間の既に曖昧な境界を、人間中心のテクノロジーがますますほかしていく近未来について語った。わたしはそのことがむ問題と見落とされがちな危険にも言及したが、しかし大方はテクニカルな、あるいは方法論的なことについて話した。このような事情に通じた熱心な科学者たちからの反応としてはとりわけ意外だったのだが、わたしたちの行う相互作用のかなりの部分が、生身の人間相手ではなく、いわゆるエージェントテクノロジー相手になる将来に対して、多くの人々は本当に肯定的な感情と同時にためらいをかなり強くもっていた。実際、この問題がこの学会全体を通じて主要な議論のテーマになったのである。

視野狭窄

あなたが読むべき新しい本、あるいは聴くべき新しい音楽を推薦してくれるソフトウェアエージェントの単純な使用について考えてみよう。そのようなエージェントは、国あなたが以前にどんな本あるいはCDを購入したかについての知識と、何どの本あるいはCDが一番気に入ったかについてあなたから何らかのフィードバックがあれば、そのフィードバックと、(あなたと同じものを気に入っている他のユーザーが、他に何を気に入っているかについて、第6章で論じた協働的フィルタリングとデータマイニングのテクニックを使ってそれが得た知識に基づき、新しい本あるいはCDを推薦している。

欺瞞

1996年、『エマージ(Emege)』誌に「情報ハイウェイの害悪──ハイテク化する白人至上主義」という記事が掲載された。その記事は、インターネットを利用した悪辣な中傷活動が増加していることを明らかにしていた。あるケースでは、白人至上主義者がアフリカ系アメリカ人になりすまし、小児性愛の合法化に対するけしからぬ要求をネット上に投稿した。これはインターネットの手軽さと匿名性の悪質な濫用である。このような濫用は幸いなことにそれほど一般的ではなく、また多少なりとも既存の法律で取り締まることができる。

クオリティの低下

欺瞞についての懸念と似たものに、クオリティ管理の久如に関する懸念がある。ワイヤーで接続された(そしてもうすぐワイヤレスになるだろう)世界においては誰もが考えを公開することができ、そして何千何万という人々の受信トレイに電子メールを送り込むことができる。どうすれば籾殻の中から小麦をより分けることができるだろうか? 前述した過積載という非常に現実的な問題を考えると、この問題は取り分け差し迫ったものである。時間は限られた資源であり、何が最も権威あるものか、あるいは最も重要なものかを決定する(仮にその決定が可能だとして)ために、すべての人が提案してくるものの一々をすべて読んでいる余裕はない。

脱身体化

わたしはこの話題については特別の利害関係者である。というのも長らく心の科学における身体の重要性を訴えてきたからである。拙著の一つには「脳と身体と世界を再び統合する」という副題がつけられているほどである。ではわたしの恐怖を想像してほしい。テレプレゼンスとデジタル通信について熱狂的に書くことによって、お前は宗旨変えをしたのかと疑われるかもしれない恐怖を。身体は重要ではなく、心は何かしら天上のもの、身体とは切り離されたものだと今では肩じているのかと疑われるかもしれない恐怖を。

第8章 結び──わたしはポストヒューマン?

人間の脳は自然が作り出した偉大な心のカメレオンである。生まれもった可塑性に後押しされて、脳はそれを取り囲む記号、文化そしてテクノロジーのネットワークと深く融合する用意ができている。 生物的脳と身体は巣の中で、非生物である補助具と協調して、デザイナー環境を際限なく構築し、そこから利益を享受し、その後また作り直す。人間の思考と理性とはそのような巣から創発するものなのである。そのような環境の一つ一つにおいて、わたしたちの脳と身体は新しい道具とカップリングして、拡張された思考のシステムを生み出す。これらの新しい思考のシステムは、デザイナー環境のニューウェーブを作りだし、そしてそのなかでさらに別の種類の拡張された思考のシステムが創発する。言語そのものの出現がはるか昔に種を播いたこのマジックによって、ラチェットが噛み合い、心の設計、再設計、再々設計という黄金の機構が躍動する。

サイポークという言葉はかつて電線やインプラントのイメージを呼び起こした。しかしこれまでに見てきたように、そのような貫通式テクノロジーの使用は本質的ではない。それらのテクノロジーに焦点を当てることは、昔ながらの生物学的スキンバッグに譲歩することである。最も重要なのは、生物と技術から成るネットワークを執拗に際限なく編みあげること、生物的ウェットウェアと、道具・メディア・補助具・テクノロジーの間の絶え間ない双方向の通行である。これらの資源の最良のものは、使われるというよりもユーザー自身に取り込まれる。それらは思考のプロセスの一部として収まる。自己について、居場所について、身体性について、自分の心的能力についてのわたしたちの感覚を変容させる力をもつ。わたしたちが誰であり、何であり、どこにいるのかに影響を与える。

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原註
訳註
訳者解説

本書の著者アンディ・クラークは、エジンバラ大学の哲学教授(論理学・形而上学講座)。今日の認知科学の哲学および心の哲学の分野における代表的な論客であり、特に「身体性認知科学」の世界的なリーダーとして名高い。

「人間は生まれながらのサイボーグである。これは科学的真理である」。センセーショナルなテーゼをキャッチコピーとする本書は、哲学や認知科学の専門家だけでなく一般の人々を含んだ幅広い読者層に対して、「わたしたちは誰であり、何であり、どこにいるのか」という問題を解き明かそうとしたものである。ここで著者クラークは、非生物的リソースとの融合による心と自己の拡張というアイディアを、人間論および技術論に即して展開していると見なせる。この過程で、心理学、神経科学などの諸科学の近年の成果に加えて、コンピューターやインターネット、携帯機器のようなメディア、インプラントやブレイン–マシン・インターフェース(BMI)に代表されるサイボーグテクノロジー、といった発展目覚ましい様々なテクノロジーが話題に挙げられる。しかし著者の意図は、よくあるポピュラーサイエンスの本のように、これらの新しいテクノロジーの登場によって引き起こされる「人間の変貌」について語ること、あるいはそれを賛美したりそれに告を加えたりすることにはない。クラークはむしろ、こうしたテクノロジーの発展の中で明らかになっていく人間本性に焦点を当てる。すなわち、人間の心と自己は、その脳の並外れた可塑性によって、非生物学的な回路、道具、環境を自らの一部として取り込んでいくような特性をもつのであり、まさにこの点で他の動物たちと区別される。ここから、われわれ人間は、SF作品に描かれてきたような古典的なワイヤー–インプラント型のサイボーグではなく、「人間と技術の共生体、すなわち生物的な脳と非生物的な回路とにまたがった心と自己をもつ思考および推論システム」(序論)という意味でのサイボーグである、と言えるのだ。

索引

生まれながらのサイボーグ : 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 ; Great Works) | NDLサーチ | 国立国会図書館