Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

今井むつみ『ことばと思考』岩波書店(岩波新書)

私たちは,ことばを通して世界を見たり,ものごとを考えたりする。では,異なる言語を話す日本人と外国人では,認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現,ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など,興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら,認知心理学の立場から明らかにする。

序章 ことばから見る世界――言語と思考

現実に,世界には「緑」や「左」に対応することばを持たない言語がたくさん存在するのである。

三省堂の『言語学大辞典』では,世界には八〇〇〇以上の言語があるとしている(ただし,どのような基準で言語のバリエーションを同一言語の方言としたり,別の言語とみなしたりするかによって,この数字は大きく異なるはずである。)

私たちが「見ている」世界は,ことばが切り分ける世界そのものなのだろうか。それとも,ことばが切り分ける世界は,私たちが「見ている」世界とは別のものだろうか。

心理学では,「思考」はしばしば人が心の中で(つまり脳で)行う認知活動のすべてを指すのだ。/心理学ではこのような,意識を伴った認知プロセスのみでなく,モノや,あるいは目の前で起こっていることを見る,見たものを理解する,理解したものを記憶する,という,人が無意識に行っている「認識」行為も含めて,包括的に「思考」と呼ぶのである。

日常的には,「見る」ということは「それが何かわかる」,つまり認識する,ということと同義なのである。

金田一晴彦氏の『日本語 新版』では,土居健郎氏や芳賀綏氏が日本語らしい語彙として考察した「甘える」「けなげ」「いさぎよい」などの例を挙げている。第二章で詳しく紹介するベンジャミン・リー・ウォーフやジョージ・レイコフなどの言語学者たちも,言語における世界の切り分け方が,その言語の話者を支配する無意識の思考パターンの反映であると論じた上で,異なる言語の間の異なる世界の切り分け方は「翻訳不可能」なのだ,と述べている。

言語と思考の関係については,これまでほとんど,文化人類学や言語学の研究者によって,異なる言語の話者の思考は異なるか,という観点から語れてきた。しかし最近では,認知心理学や発達心理学からの,この問題への別のアプローチが注目されている。

本書は「異なる言語の話者は,世界を異なる仕方で見ているか」というこれまでの問いを実験によるデータに基づき,科学の視点から考え直すものである。同時に,ことばの学習が子どもの知識や思考の仕方をどのように変えるのか,ことばの存在あるいはことばの使い方が私たち大人のモノの知覚の仕方,記憶,推論や意思決定にどのような影響を与えるかという発達心理学,認知心理学,脳科学の観点を織り交ぜて,人にとって言語はどのような存在なのか,という問題に対して新たな視点で迫る。

本書では「ことば」とう語を使うときにはword,「言語」というときにはlanguageという本来の意味で二つの語を使い分けていくつもりだが,ときには,両方の意味で使う場面もあって,すっきりと使い分けができない場合もあると思う。

第一章 言語は世界を切り分ける――その多様性

助数詞を持たない言語を話す人たちにとって,助数詞でのモノの分類は,私たちが「女性,火,危険なもの」をいっしょにくくることが驚きなのと同じくらい理解しがたい,不思議なものに見えるらしい。

インドのハウザという言語では,正面(顔)のないモノさ,自分と同じ方向に外に向いていると想定している。つまり,「木の前」は木に対して話し手から遠い方,つまり木の向こう側にある。

第二章 言語が異なれば,認識も異なるか

一九九〇年代から認知心理学者がこの問題に積極的にかかわるようになり,統制された実験手法を用いた実験が多く行われて,議論の様相が変わってきた。言語学や人類学の研究者が見出した驚くべき言語の多様性の中で,単に言語が違うと思考が違うか,という単純な観点では説明できない結果が多数報告されるようになったのである。また,認知心理学者たちは,ウォーフの仮説を考えるにあたって,単にウォーフ仮説が正しいか正しくないかということではなく,言語の影響が,認知プロセスの,あるいは脳の情報処理の,どの時点でどのような形で現れるのかということを明らかにしようとしてきた。筆者も,この観点から,ことばと認識の関係について述べていきたいと思う。

ことばを持たないと,実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく,ことばがあると,モノの認識をことばのカテゴリーの方に引っ張る,あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。

どの名詞についても,必ずそれが可算なのか,不可算なのかを,明らかにしなければならないという英語の性質が,初めて聞く名前の意味を考えるときに,形に注目するように英語話者にバイアスをかけるということがわかったのだ。

中国語では助数詞は英語でいう指示詞(this,that),不定冠詞(a)と定冠詞(the)を併せ持ったような働きをするわけである。

子どもにとって,本来関係ないはずの動物の性と動物の名前の文法的性を,まったく分けて考えることは難しく,動物の名前の文法的性は,その動物の属性についての推論にも影響を与えるようだ。

ドイツ語話者は大人になっても,動物の場合には生物的性と文法的性を混同してしまうようだ。ただ,文法的性が影響を与えるのは,対象が動物の場合に限られ,文法的性があるからといって,生物でない(したがって生物的性を持たない)人工物にまで,文法的性を投影して誤った演繹推論をしてしまうようなことはない。

また,混同は,実際に冠詞が名詞といっしょに表示される場合に起こるが,名詞のみの場合には起こらなかった。つまり,文法的性と生物的性の混同は,動物の概念そのものに対して起こるのではなく,冠詞で表される文法上の性を脳が処理するときに起こることがわかったのである。

「左」「右」ということばを持たないということは,左右の方向だけの違いに注意を向けず,胸像関係を同じものとして考える,ということのようだ。

大勢では,ウォーフ仮説は正しい,といえそうである。特に,本省の後半で紹介した空間関係や時間に関しては,どのような言語を話すかによって,大きく認識の仕方が異なってるといえそうだ。/しかし,本章で紹介した様々な実験の結果からは,色やモノの認識では,言語による話者の認識の違いは,広範囲に及ぶ本質的なものではなく,カテゴリーの境界を歪めたり,分類のときに注目する知覚特徴が少し変わったりする程度,といえそうだ。

第三章 言語の普遍性を探る

人の思考に,言語に関わりなく共通の基盤があるのなら,言語自体にも,その背後に何がしかの規則性,共通性が潜んでいるのだろうか。

名前のつくカテゴリーが文化にとっての有用性のみによって決まるとはいえないようである。つまり,基礎語のカテゴリーのつくり方は言語の間でかなり普遍性がある,ということがわかったのだ。

基礎レベルのカテゴリーの特徴は,同じカテゴリーのメンバーの間で類似性が非常に高く,しかも隣のカテゴリーのメンバーとの類似性が低く,混同しにくい,ということだ。

アメリカの文化人類学者のブレント・バーリンは基礎レベルのカテゴリーを「世界が自分自身を分割し,名前をつけられるべく待っている」と言っている。

日本語,英語,スペイン語,オランダ語といった多様な言語で,確かに日本語でアルク,ハシルと表現できる一連の動きをどのくらい細かく分割するかは異なるのだが,日本語のアルクとハシルの境界は,どの言語でも守られており,アルクとハシルの境界をまたいで同じ動詞が使われることはなかったのである。/このことから,アルクという動作とハシルという動作に本質的な違いがあること,どのような言語の話者もその違いを近くすることができて,それが語の使い方に表れていると考えることができそうである。

名詞を分類する文法は,英語のような可算性,つまり数えられるか数えられないかを基準にして分類する言語,イタリア語やドイツ語のように名詞を性で分類する言語,それに日本語のように助数詞で名詞を分類する言語,と大きく三つに大別できる。/つまり,モノの可算性,性,動物性(動物であるか否かの区別)や形,機能などは人にとってあまねく重要な特徴で,言語はそれらによって,名詞を分類する。しかし,その特徴のどれを選択するかは,それぞれの言語によって異なるのである。

私たちが知覚する外界に,誰にでも知覚可能な明確な区切りが存在する場合には,様々な言語の間に共通の普遍的傾向が強くなる。しかし,知覚的な類似性が直接訴えてくるモノの基礎レベルのカテゴリー以外の領域では,すぐにわかるような直接的な言語不変性は薄まり,共通性は抽象的なところでのみ,見られるようになる。

それぞれの言語の特徴に目を向けると,多様性のほうが目立つし,違いのほうが共通性よりも見つけやすい。しかし,人の思考の性質,言語の性質をともに理解するためには多様性のみならず,共通性の理解は非常に重要で,それに目を向けることは必須なのである。

第四章 子どもの思考はどう発達するか――ことばを学ぶなかで

赤ちゃんは,最初はそれぞれの言語でつくる音のカテゴリーというものは明確に持たないが,生まれてから自分の母語にさらされ,そればかりを聞くうちに,母語の音のカテゴリーを学習し,音に関しての母語特有のカテゴリー知覚をつくり上げるのである。(聞き分け能力は一歳の誕生日ころまでに失われてしまう。)

ことばは子どもが自分で概念を学習し,大人の持つ概念構造を自らつくり上げていく際に,大きな役割を果たす。ことばが存在しなかったら,幼児が素早いスピードで概念を学び,効率よく概念体系をつくり上げていくことは不可能なのである。

言語は,私たち人間に,伝達によってすでに存在する知識を次世代に伝えることを可能にした。しかし,それ以上に、与えられた知識を使うだけでなく,自分で知識を創り、それを足がかりにさらに知識を発展させていく道具を人間に与えたのだ。

異なる言語が話者にどのような認識の違いをもたらすかを知ることは,確かにとても大事なことだ。しかし,相対的にいって,言語を獲得した後の,異なる言語の話者の間の認識の違いより,言語を学習することによっておこる,子どもから大人への,革命といってよいほどの大きな認識と思考の変容こそが,ウォーフ仮説の真髄であると考えてもよいのではないだろうか。

第五章 ことばは認識にどう影響するか

動きといっしょに擬態語を見た場合,「歩く」「はやく」などの普通の動詞や副詞といっしょに同じ動きを見た場合よりも,運動を知覚する部分や,運動を実際に行ったり,これから行う運動のプランニングをしたりする部分の活動が多く見られた。

終章 言語と思考――その関わり方への解明へ

言語と思考の関係を考える場合に,もはや,単純に,異なる言語の話者の認識が違うか同じかという問題意識は,不十分で,科学的な観点からは,時代遅れだといってよい。いま私たちがしなければならないことは,私たちの日常的な認識と思考--見ること,聞くこと,理解し解釈すること,記憶すること,記憶を思い出すこと,予想すること,推論すること,そして学習すること--に言語がどのように関わっているのか,その仕組みを詳しく明らかにすることである。

外国語と母語での世界の切り分け方を意識的に理解することは,外国語の熟達にとって重要だ。しかし,言語を聞いて理解し,話すためには,語の意味や文法の知識などのほかに,自動的に行う情報処理がとても大事である。

あとがき
参考文献

wrong, rogue and booklog - Amazon.co.jp: ことばと思考 (岩波新書): 今井 むつみ: 本 これは面白い。 ...

ことばと思考 (岩波新書 ; 新赤版1278) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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