Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

鈴木孝夫『ことばと文化』岩波書店(岩波新書)

まえがき

この本の中で私が文化と称するものは,ある人間集団に特有の,親から子へ,祖先から子孫へと学習により伝承されていく,行動及び思考様式上の固有の型(構図)のことである。

1 ことばの構造、文化の構造

普通の人が気付く,いわゆる文化の相違とは,比較的目につきやすい,具体的な現象に限られていることが多いのである。一部の学者が,あらわな文化(overt culture)と呼ぶ,文化の側面がこれである。/この顕在的な文化に対して,目に見えにくい,それだけに,仲々,気が付かない文化の側面のことを,かくれた文化(covert culture)と呼ぶ。/文化というものは,このような,当の本人が自覚していない,無数の細かい習慣の形式から成立しているのであって,この,かくれた部分に気付くことこそ,異文化理解の鍵であり,また外国語を学習することの重要な意義の一つはここにあると言えよう。

2 ものとことば

ことばが,このように,私たちの世界認識の手がかりであり,唯一の窓口であるならば,ことばの構造やしくみが違えば,認識される対象も当然ある程度変化せざるを得ない。/なぜなら,(…)ことばは,私たちが素材としての世界を整理して把握する時に,どの部分,どの性質に認識の焦点を置くべきかを決定するしかけに他ならないからである。

人間の視点を離れて,たとえば室内に飼われている猿や犬の目から見れば,ある種の棚と,机と,椅子の区別はできないだろう。机というものをあらしめているのは,全く人間に特有な観点であり,そこに机というものがあるように私たちが思うのは,ことばの力によるのである。/このひょうにことばというものは,混沌とした,連続的で切れ目のない素材の世界に,人間の見地から,人間にとって有意義と思われる仕方で虚構の分節を与え,そして分類する働きを担っている。

ものにことばを与えるということは,人間が自分を取りまく世界の一側面を,他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。

人間は生のあるがままの素材の世界と,直接ふれることはできない。素材の世界とは,混沌とでも,カオスとでもいうべき,それ自体は無意味の世界であって,これに秩序を与え,人間の手におえるような,物体,性質,運動などに仕立てる役目を,ことばがはなしていると考えざるを得ない。

3 かくれた規準

誰の目にも明らかな省略のために,表面に現れていない物差しと,ことばを使う人に自覚されない,潜在的た物差しは別のものとして区別する必要がある。

4 ことばの意味、ことばの定義

私にとってもっとも重要と思われる発見は,辞典の製作者たちが一様におかしている誤りが,私の言うことばの「意味」と,ことばの「定義」の区別をはっきりと認識していないで,そのために,しばしば不必要な困難に陥っているということである。

私たちが,ある音声形態(具体的ち言うならば,『犬』ということばの『イヌ』という音)との関連で持っている体験および知識の総体が,そのことばの『意味』と呼ばれるものである。

ことばの社会的学習とは,どんた場合でも,まさに今述べたようなしくみで行われているのである。*1 私はこれをことばの「定義」と呼ぶ。「定義」とはあるものの限界を明らかにすることに他ならない。対象そのものを教えるのではなく,対象の含まれる範囲を明確にすることなのである。

動詞,形容詞そして前置詞の意味研究が,比較的どこの言語でも進んでいて,名詞の意味の研究には,それ自体が構造的な関係を内蔵する親族名称のようなもの以外は,あまり見るべきものがないのは,名詞が本質的に「定義」されにくい,多面的多価値的な存在である具体的な事物に関係しているということに原因があるらしい。

5 事実に意味を与える価値について

ヨーロッパの芝生がきれいなのは,土地の植物生産性が低く,大げさに言えば唯一生育する雑草が芝生なのだ

6 人を表すことば

「あなた」「おまえ」「こちら」「どなた」といった人を指すことばも,元来は,場所や方向を表わす指示代名詞であったものを転用して,間接的に,その場にいる人を表現するという,一種の暗示的で迂言的な用法に由来している。

(この章,自説の開陳を滔々と)

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001259686:

801

*1:「渋い」を定義するときに「未熟な柿を食べたときに味わう舌の感覚」と言うように