Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

千野栄一『外国語上達法』岩波書店(岩波新書)

久しぶりに手に取った。著者が自らを「自分は語学ができるわけではない」と謙遜しているのは記憶に残っていたが,本書がもっぱら自らの周囲にいた圧倒的に語学ができた人たちのエピソードやその人たちから学んだ教えをもとに書かれていることに,改めて気づいた。そういったバランスが,本書に独特の魅力と面白さと有益さをもたらしているんだろうな。

1 はじめ――外国語習得にはコツがある

シュリーマンの『古代への情熱』は愛読書の一つで,シュリーマンがつぎつぎと外国語をモノにしていくところは繰り返し読んだ。

今となって振り返ってみると,何カ国語もマスターした人々の間にはいくつかの共通の特徴があり,多くの言語を習得した人が守らなくてはいけないルールがあることに気がつく

才能の差はある。しかしある言語を習得できるかどうかは,その習得の方法に,より多くのことが依存している。

語学の習得で決して忘れてはいけない一つの忠告は,「忘れることを恐れるな」ということである。

考えてみると,英・独・ロシア・チェコ・スロバキアの五つの言語には翻訳されて活字になったものがあるし,外交官の語学養成機関である外務研修所で教えたことのある言語にも,ロシア・チェコ・セルビア・ブルガリアの四つがあり,このほか大学では古代スラブ語を教えている。さらに辞書を引きながら自分の専攻の分野の本を読むのなら,フランス語,ポーランド語と,そのレパートリーは拡がっていく。

2 目的と目標――なぜ学ぶのか,ゴールはどこか

買物のときはお金が無駄になるのにあれほど神経質になる人が,語学の習得のときは,お金以上に貴重な時間がむだになるのに気がつかない。

なぜ英語を勉強しなければならないのかが分かっていない人に英語を勉強させるのは,困難な業としかいいようがない。

外国語を習うとき,なんでこの外国語を習うのか,という意識が明白であることが絶対に必要である。

どの外国語をはぜ選ぶか,を意識することがの問題であるとすれば,その次に問題なのは,その選ばれた外国語をどれだけ勉強するか,というの問題である。

3 必要なもの――”語学の神様”はこう語った

「先生,語学が上達するのに必要なものはなんでしょうか」「それは二つ,お金と時間」

大学生というのは,本来時間はあるがお金のない人たちであり,社会人というのは,いささかお金があるが時間のない人たちである。このことからも明白であるように,資本主義というのは時間をお金に換える制度なのである。

ある外国語を習得しようと決心し,具体的に習得に向かってスタートしたときは,まず半年ぐらいはがむしゃらに進む必要がある。これは人工衛星を軌道に乗せるまでロケットの推進力が必要なのと同じで,一度軌道に乗りさえすれば,あとは定期的に限られた時間を割けばいい。

それではそのお金と時間で何を学ぶべきか(…)「覚えなければいけないのは,たった二つ。語彙と文法」

この語彙(一つの言語にある単語の総和)と文法,という順番がまた大切な意味を持っている。まずは単語を知らなくてはだめである。(…)外国語習得における語彙の持つ意味は,いくら強調してもしきれないものがある。

この二つを覚えるためには何があればいいのであろうか。(…)「外国語を学ぶためには,次の三つのものが揃っていることが望ましい。その第一はいい教科書であり,第二はいい教師で,第三はいい辞書である」

4 語彙――覚えるべき千の単語とは

言語を人間に譬えれば骨や神経は文法であり,語彙は血であり肉である。骨や神経がだめならばその人間はうまく動かないが,血や肉がなけれあ人間ではなく骸骨にすぎない。/ところが外国語に関していえば,「日本中を骸骨が歩き廻っている」ということになる。

語学の習得がうまくいかない理由は,この語彙の習得が面白くないことと,語の数が多く学習に一見終わりがないように見えること,どのような語彙を選択するかの自覚がないことに起因している。

単語の数を増やしていく作業は,決して面白くない。単語の数が自然に増え,しかも,それに喜びが伴うようになるのはだいぶ先のことである。(…)単語を覚えるという作業は単純であり,ゴールがなく,面白くない。それにもかかわらず,単語を覚えなくては外国語の習得に支障をきたす。この矛盾を解決しなければならないのが外国語の学習である。

単語の学習には,この精神力が必要なのである。このことについては,次のラテン語の格言がすべてを物語っている。Repetītiō est māter studiōrum.(繰り返しは学習の母である)

もし千語をモノにできれば,その言語の単語の構成がなんとなく分かるようになり,千五百にするには最初の千語の半分よりはるかに少ないエネルギーで足りるようになる。そして千五百語覚えさえすれば,もう失速することはない。ただし,この千語なり千五百語を覚えるというのは確実に覚えることで,なんとなく霧の中にあるような覚え方は意味がない。確実な五百語は不確実な二千語より,その言語を習得するのに有効である。

もし,辞書を引き引きその言語で書かれたテキストを読みたいというのであれば,二~三千語で足りる。ここまで覚えれば,その言語に関しては一応の”上がり”である。

言語学の知識が教えるところでは,言語により差があるとはいえ,大体どの言語のテキスト(書かれた資料)でも,テキストの九〇パーセントは三千の語を使用することでできている。すなわち,三千語覚えれば,テキストの九〇パーセントは理解できることになる。そして,残りの一〇パーセントの語は辞書で引けばいい。これならもう絶望的ではない。

最初の千語で平均六~七〇パーセントの語が分かるようになり,このあとしだいにゆるい割合で九〇パーセントに近づいていくのが普通である。もっとも言語によってはフランス語の話しことばのように千語で九〇パーセントを超すものもあれば,日本語のように一万語で九〇パーセントに達するような言語もある。

どの範囲の語は覚え,どの語は見送るか,のもっとも確実な基準は頻度数である。(…)語の頻度が分かっている言語では,これを徹底的に利用することが必要である。

この頻度数の表があるかないかは,単語を覚えるためだけではなしに,辞書や教科書を書くときにも必要であり,教師にとっても必要である。ここでもまた外国語を選択するとき,このような基本的なデータの揃っている有力な言語の学習が有利なことを示している。

頻度数の高い語は原則として短いのである。こうして見ると,短い語はなるべく覚えた方がいい,という結論に達する。

外国語の習得に際して,語彙に関してはこれまであまり無視されていたので,もっと関心を持つ必要があり,語彙の習得にもっと計画的に時間をかけることが絶対に必要である。

5 文法――“愛される文法”のために

世界中のどの言語でも単語のない言語はないのと同様に,その単語をより大きな単位――例えば,文――へと組み上げていくルールのない言語はない。そのルール――文法――の存在はユニバーサルなものである。文法はどの言語でも欠かすことのできない大切な要素であり,これを習得しないことには外国語を習得したことにならないのみか,その外国語は全く役に立たない。

ロシア語,ラテン語,ギリシャ語などで文を組み立てている仕組みで大切な役割を果たす「格変化」なるものは,中国語ではそれを表現する形式を全然持たない。ある言語では不可欠なものが,他の言語では存在しないのである。それだからといって中国語が不完全なのではなく,中国語もロシア語と同じ完全な言語であり,伝達の機能を十分に果たしている。それだからこそ,中国の長距離ミサイルもソ連やアメリカのミサイルのように何千キロ離れた目標に命中するのである。

世界中の言語を見渡したとき,それぞれの言語に違いがあるが,文法のあり方はそれぞれがどうしてこんなに違うのかと思うくらい絢爛豪華に異なっている。そこに,文法の面白さの一つの理由がある。

自動車の運転免許を得るためには,交通法規を覚えることが要求される。これは本来,自動車の運転技術とは関係のないことである。しかし,無事に自動車を走らせるためには必要である。(…)どのようなルールを作れば交通事故が少なく,安全にスムーズに交通が行われるかを考える人,いいかえれば法規を作る人の立場に立てば,これらの法規を作る意味が理解され,どうしたら最高の法規ができるかは一転して面白い問題になる。

金田一(注:京助)の書いたいくつかの言語調査のエッセイのなかに,アイヌ語の動詞の構造を明らかにしていくプロセスを書いたものがあり,「人称代名詞の一部が動詞の活用で繰り返される」というたった一つのことに気がつくのに苦労している様子が描かれている。文法とはこのような苦労の産物であり,このような苦労をしないで済むための特急券なのである。

外国語の学習に必要な文法は手段としての実用的文法であって,目的となる学術的な文法とは違うのである。文法は補助手段であって,それ自体が学習の目的ではないことをよく理解しておく必要がある。

6 学習書――よい本の条件はこれだ

「そうねえ,名著ねえ」と,先生は一瞬考えておられたが,「ケーギとか,マクミランなんかいいんじゃない?」という返事がもどってきた。ケーギというのはAdolf Kaegi(著者名),マクミランというのはMacmillan(出版社名)のことである。前者は古典ギリシャ語,後者はラテン語の学習書である。

この両者とも,初めに少数の文法項目を習得し,その文法項目に関する例文をまず外国語から母語へ訳し,次に母語から習得中と外国語への作文をするようになっている。そして,この方針で一冊終りまで通すのである。

とりわけ初歩と語学書に関しては"mega biblion — mega kakon"(大きな本は大きな悪)という格言は的を射ている。

文法に関していえば,大切で重要な項目をまず重点的に覚えさせるようになっている学習書がよい。

学習の基本原則の一つは「易しいよのから複雑なものへ」であって,これは語学書としても守らなければならない。重要性と難易度を巧みに組み合わせて学習書を作るところに学習書がよくなるか悪くなるかの一つのポイントがあり,これは著者の腕のみせ所の一つである。

繰り返していうことが重要になってくる。大切な項目として早い時期にとりあげられた項目は,その後も何度か本の中に登場させ,容易に記憶させるような工夫が大切なのである。新しく出た単語がそれっきりでは,読者にとっても楽しくない。そこで,その単語を次あるいはその次の課で繰り返しテキスト中に登場させ,読者は記憶した語が再出したことを喜び記憶を強化する――,このような工夫がなされている本が,いい本である。

「ねえ君,いい辞書とかいい学習書とかいろいろ心配しているけどねえ,二葉亭四迷だって,坪内逍遥だって,森鴎外だって,いい辞書も,いい学習書もなかったのにあんなにできたじゃない。これどういうわけ? やる気よ,やる気。やる気されあればめじゃない,めじゃない」

7 教師――こんな先生に教わりたい

私は何人ものよい先生にいろいろな言語を習ってきたが,こと初歩の文法や,その外国語の全体像を習うには,一般言語学の素養のある,その言語の語学の専門家がいい。

外国語上達法には,ことばについての理論である言語学と,学習の中で重要な意味を持つ記憶を扱う心理学と,教授法を論ずる教育学の三つの基礎が必要である。

よい教師の第三番目の資格*1は,教えることに対する熱意というか,その先生の個人的魅力というか,この先生についていかないと損をするというような気持にさせる全人格というようなものである。なかでも初級の語学では熱意が,中級から上級にかけては知的な魅力が必要である。

このことに関しては,神田盾夫著『新約聖書ギリシア語入門』(岩波全書,一九五六年)の「はしがき」にあった「著者は,語学の勉強は,やがてはその歴史的研究に進まねば本格でないとも信じている」という言葉が私の心の大きな支えであったことは忘れるわけにはいかない。

8 辞書――自分に合った学習辞典を

辞書を上手に使うためには絶対に読む必要のある編集主幹のはしがき,編集の方針,使い方への指示は必ずしも読まれていない。そこには少しのスペースの中に編集者の血の滲むような思いが込められているのに,である。

一般に,よい辞書とは次のような辞書のことをいっているようである。

  1. 探している語が出ている辞書
  2. その語に,自分の読んでいるテキストに合う訳の出ている辞書
  3. 訳の他にも,必要とする文法的事項が出ている辞書
  4. 熟語と一般的にいわれている,語以上のレベルで現れる養蜂がよく出ている辞書
  5. よい用例のあがっている辞書
  6. 読み易く,興味を持たせるように作られている辞書
  7. 引き易い辞書
  8. 持ち運びに便利な辞書
  9. 値段の安い辞書

ところが,これらの条件をすべて同時に満たすことは論理的に不可能である。

どういう学習辞典がいいかは「まえがき」を読むといい。頻度数への配慮があり(時には頻度数の印がついていたり,活字の大きさを変えたりしてある),その外国語を母語としている人のチェックがあり,読み易く,使い易く,と工夫してあるのがいい学習辞典である。そして,訳語の日本語がこなれているかどうかも大切なチェックポイントである。

9 発音――こればかりは始めが肝心

『どのように外国語を学ぶべきか』という本の中で,著者のJ・トマン博士は発音について次のように述べている。/「外国語を正しく学ぶための重要な前提になるのは,正しい発音の知識である。/文法上での誤りをとんでもないミスと見なす人々が外国人を仰天させるようなひどい発音で話すのに出会うのは,興味をひく事実としかいいようがない。しかもその際に,外国人は文法上のミスのある文章の方を,ひどい発音で話された文よりもむしろ理解ができるということをわきまえておく必要がある」

外国語の発音を学ぶ場合,日本語とどう違うかをよく理解することはとても大切である。そしてその違いがどこからきているかを見極めて,その違いを自分で発音し分けてみないと,聞き取ることは困難である。

10 会話――あやまちは人の常,と覚悟して

外国語を学ぶ場合,その外国語の知識がアクティブであるかパッスィブであるかの区別は大切である。前者ではその外国語を書いたり,話したりする能力のあることを示し,後者では話されたことがどうにか理解でき,書かれたことが理解できることを意味する。

もっともラテン語や古代ギリシャ語で会話を学ぶ必要はないが,現代語の中でもロシア語,ポーランド語,チェコ語などのスラブ語やリトワニア語などはラテン語や古代ギリシャ語と似たタイプの言語で,これらの言語での会話のためには語を覚え,変化形式を習い,語の結合の規則を習うことが会話の第一歩である。

チェコ語に’Chybami se člověk učí.’(人は間違いを重ねることで学んでいく)という諺があるが,まさにこの精神が大切である。

会話というものは自分が相手の人に伝えたいことを伝え,相手の人が伝えたいと思っていることを聞くことであって,自分がたまたまその外国語で知っている句を使ってみるということではない。

本当に会話が上手になるにはどうしたらよいかを,語学の神様といわれるS先生におたずねしたことがある。一瞬,目をつむって考えておられた先生は,「いささかの軽薄さと内容だな」と答えられたが,この二つはもっとも大切なポイントなのである。

S先生は,人と会ってしかるべき会話をかわすためには常に準備が必要で,絶えず本を読み,政治や経済や,文化や芸術に関心を持たなければ格好の話題を提供できないとおっしゃるが,まさにその通りである。

11 レアリア――文化・歴史を知らないと

チェコ語に「レアーリエ」(reálie)という語があり「ある時期の生活や文芸作品などに特徴的な細かい事実や具体的なデータ」という説明がついている。これは本来ラテン語から来た語で,英語にもrealia,ドイツ語にもRealien,ロシア語にもреалииという形で姿を留め,これらの語はいずれも複数扱いされている。

注意すべきはチェコ語の例であがっている「ギリシャのレアリア,ローマのレアリア」という組み合わせで,本来ギリシャやラテンの古典語を読むのに,このレアリアが必要であったことを示している。

そもそも言語というものは,それ自体が目的ではなく,伝達を始めとするいくつかの機能を果たすために存在している。すなわち言語は「自目的」的ではなく,「他目的」的なものである。そして,言語はそれだけで単独に使われるのではなく,必ず何かある状況の中で使われる。

12 まとめ――言語を知れば人間は大きくなる

「人生は短く,言語の数は多し」で,もしつぎつぎに外国語を学ぼうと決心すればいくら日本人の寿命が延びようとも死ぬまで退屈するひまはなく,することのない老年の不安からは永遠に解放されるのである。

あとがき

外国語上達法 (岩波新書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

807

*1:第一は教師自身その語学がよくできること,第二は教え方が上手であること