図書館でたまたま手に取って読んでみたわりには、最後まで面白く読めた。音楽について何かが分かったような気がしつつ、結局のころ何も分からなかった、という、複雑な読後感。
- はじめに
- 第1章 前奏曲:世界は音楽に満ちている
- 第2章 序曲:音楽とは何か、そしてどこから来たのか
- 第3章 スタッカート:楽音とは何か、また使う音はどう決められるか
- 第4章 アンダンテ:良いメロディとは何か
- 第5章 レガート:音楽とゲシュタルト原理
- 第6章 トゥッティ:協和音と不協和音
- 第7章 コン・モート:リズムとは何か
- 第8章 ピッツィカート:音色
- 第9章 ミステリオーソ:音楽を聴くと、脳はどう活動するのか
- 第10章 アパッショナート:音楽はなぜ人を感動させるのか
- 第11章 カプリッチョーソ:音楽のジャンルとは何か
- 第12章 パルランド:音楽は言語か
- 第13章 セリオーソ:音楽の意味
- コーダ:音楽の条件
- 訳者あとがき
- 原注
- 参考文献
- 図版出典
はじめに
この本で私は、「音楽を聴く能力」も立派な「音楽的才能」であるということを証明したいと思っている。一定のパターンの音の変化、組み合わせを音楽であると認識できる、というのがいかに大変な才能であるかを知ってもらいたい。また、この本では、その才能、能力がどのようにして生まれたかも追究してみたい。もちろん、偉大な音楽家によって演奏される名曲を聴くというのは、この上もない喜びである。しかし、それだけが音楽を楽しみ、音楽から満足を得る方法ではない。
第1章 前奏曲:世界は音楽に満ちている
「音楽」と呼ばれる音の連なりを私たち人間が理解できるのはなぜなのか。また、「音楽が理解できる(できない)」とはどういう意味なのか。なぜ、音楽に意味があるように感じられるのか。美しいと感じたり、感情を動かされたりするのはなぜなのか。ボイジャーにレコードを積んだ科学者たちは「異星人にも音楽が理解できる」と考えたようだが、果たして、異星人や、あるいは人間以外の動物も、音楽を人間と同じように理解できるのか。これはつまり、「音楽は普遍的なものか」という問いだ。音楽には、全宇宙共通の価値があるのだろうか。
振幅、振動数が様々に違っている音を複雑に組み合わせると、人に何かの意味を感じさせることができる、というのは考えてみると非常に不思議なことである。音楽を聴くだけで楽しい気分になることもあれば、涙が出ることもある、というのは不思議だ。ただ、その謎は少しずつだが解き明かされている。音楽を聴いているときには、たとえいい加減に聞き流していても、私たちの脳はとても活発にはたらいている。そして、とてつもなく見事な芸当をやってのけている。聞こえてくる音をふるいにかけ、秩序立て、また、次に聞こえてくる音の予想もしている。すべては私たちが意識しなくても自動的に行われることだ。音楽は、とても簡単な数式で説明できるようなものではない。音楽というのは、芸術、科学、論理、感情、物理学、心理学などの要素が恐ろしく複雑に絡み合ったものだ。これほど複雑なものは他に例がないかもしれない。この本では、音楽という不思議なものについて、現状で何がわかっていて、何がわかっていないかを明らかにしていこうと思う。
知性のチーズケーキ
認知科学者、スティーヴン・ピンカーは、一九九七年に出版された『心の仕組み』という本の中で、「音楽は、精神機能のうちでも、少なくとも六つの特に敏感な部分を快く刺激するように精巧に作られた聴覚のチーズケーキである」と書いている。
ミズーリ大学セントルイス校の英語学教授、ジョセフ・キャロルもピンカーの主張に対しては反対意見を述べている。ただし、彼の反対意見は、他の多くの人のものとは違い、そう簡単に退けられるものではなかった。「絵画や音楽、文学などは、単に人間の認知能力が向上したことによって生じた副産物などではない。」というのだ。
ピンカーの言うことにもキャロルの言うことにも、確かに一理あるが、どちらも実のところ、的外れである。なぜ、そう言えるのか、その理由をこの本では明らかにしていきたいと思う。
音楽は確かに私たちを豊かにするのかもしれないが、食べ物が栄養になるような単純な意味で私たちの糧になるわけではない、という点には注意しなくてはならない。
音楽は誰のものか?
様々な音楽の「複雑さ」を調べた調査では、インドネシアのガムランが最も複雑、という結果が得られている。西洋音楽は確かに今や、世界の広い地域で愛好されているが、それがすなわち西洋音楽の優秀性を意味するわけではないということは強調しておくべきだろう。
音楽は「贅沢」ではない
音楽は、子供を教育する上で、久かすことのできない、重要な科目である。音楽を教えていない教育は、とても豊かな教育とは言えない。音楽は、心、知性にとっての体育のようなものである。脳のこれほど多数の部位を同時に使う活動は、音楽以外にはないだろう。音楽に触れるとき、人の脳では多くの部位が統一的にはたらくのだ(「右脳」、「左脳」といった、すでに使い古された似非科学的分類は、音楽の前にはまったく無意味である)。
第2章 序曲:音楽とは何か、そしてどこから来たのか
太鼓や角材、金属片を打ち鳴らし、それを音楽と称している文化もある。彼らにとっては、メロディよりもリズム(そして、おそらく音色)の方が重要なのだ。一方で、楽器と言えば専ら人間の声、という文化もあり、あるいは音楽が踊りと切り離せないという文化もある。音楽は特別な日のためのもので、普段の生活にはどこにも音楽がないという文化もあるかと思えば、日常生活が音楽とともにあり、一人一人が「自分の人生のサウンドトラック」を持っているような文化もある。いわゆる典型的な西洋音楽以外は音楽と認めようとしない人もいる。音楽の細部を執拗に分析しないと気が済まない人もいれば、音楽について言葉で論じること自体に困惑する人もいる。一つ重要なのは、あらゆる音楽が何か一つでも共通する特徴を持っていなくてはならない理由など、どこにもないということだ。
世界各地の音楽
音楽は、情報伝達の手段にもなり得る。しかも、極めて精度の高い情報を伝えることが可能である。中でも有名なのは、アフリカのトーキングドラムだ。モールス信号のような複雑なコードを使い、非常に具体的な情報を伝達できる。このコードは、アフリカのいわゆる「声調言語[訳注 音の高低のパターンに意味を持たせるタイプの言語のこと。中国語などもその例]」で用いられる抑揚と強く結びついている。コードを使い、部族の誰かをからかうような冗談を言うこともできる。トーキングドラムの音が聞こえてきた途端に、その場にいる村人たち(からかわれた本人を除く)がどっと笑い出す、というようなこともあり得るわけだ。
古代や中世の人々(少なくとも知識人たち)は、音楽を一種、「道徳的なもの」とみなしていたようである。美しいもの、快楽、喜びをもたらすものというよりは、人間の魂を正しい方向へ導くものとみなしていたようだ。プラトンやアリストテレスにとって音楽は、社会の調和を高めるための道具であった。逆に、音楽を不適切に使えば、社会が不調和になると考えていた(英語で「調和」を意味する“harmony”という言葉、「不調和」を表す“discord”という言葉はどちらも音楽用語にもなっているが、これは偶然ではない。音楽用語では前者は「和音」、後者は「不協和音」を意味する)。
西洋音楽が世界で最も優れた音楽だなどと言うつもりはない。だが、これほど高度に洗練された音楽が他にほとんどないのも疑いようのない事実である。それだけで詳しく調べてみる価値があると言えるだろう。
人類初の音楽家
一八六六年、パリの言語学会は、会員たちに対し、言語の起源について論じることを公式に禁じる決定を下した。あまりに独善的で無意味な憶測ばかりがやりとりされることに業を煮やしたのである。/音楽の起源を巡る議論にもそれに似たようなところがある(二つはただ似ているというだけでなく、おそらく互いに関係し合っているのだろう)。
ピンカー説の妥当性
音楽は人間の脳の進化に密接に関係していると証明しなくては気が済まない人も多い。「音楽は聴覚のチーズケーキである」と言い、音楽には特に進化的に重要な意味はないと主張したスティーヴン・ピンカーの説が誤っていることをどうしても証明したい人たちだ。進化的に意味はないと言われると、音楽の尊厳をすべて否定されたように感じるらしい。音楽がどのようにして生まれたのか、ということと、音楽が現在の私たちの生活にとってどういう意味を持っているかということはまったく関係がない。二つを安易に結びつけるのは大きな間違いだろう。ピンカーの言うことが正しいかどうかは今のところわからない。だが、彼が「自分の意見についての議論を、音楽に価値があるか否かという議論にすり替えるべきではない」と言っているのは正しいことと言えるだろう。芸術の価値を判断するのは進化生物学者の仕事ではない。もし、彼らがそんな仕事をしようとするのなら、実に困ったことと言うほかないだろう。
第3章 スタッカート:楽音とは何か、また使う音はどう決められるか
現代ではおそらく、音楽についてロマン派の音楽家たちと同じような考え方を持っている人が多いだろう。音楽を、一種、霊的、神秘的なひらめきによって生まれるものととらえているのだ。そういう人たちは、音楽をばらばらに分解し、単なる空気の振動と聴覚による現象に還元してしまえば失望するだろうし、嫌悪感を覚える人もいるだろう。音楽が単に物理学と生物学の話にされてしまうのは許せないという人は多いに違いない。この章を読むと、最初のうちは、私もまさにそういうことをしようとしていると感じられるかもしれない。だが、しばらく読み進めてもらえれば決してそうではないことがわかってもらえると思う。私は、数学や物理学、生理学、音響科学の話をすることを決して悪いとは思っていない。まず、音楽がどんな材料からできているのかを明らかにするにはどうしても避けられないことだからだ。そして、それは単にやむを得ないこと、というだけではない。知り始めれば非常に面白いことである。
音の波
世界中の音楽の大部分は、「楽音」から成っている。楽音には普通、「音程」がある。音程というのはつまり、その楽音の持つ周波数のことである。複数の楽音が連なるとメロディ(旋律)になる。また複数の楽音が同時に鳴るとハーモニー(和音)が生まれる。その楽音の持つ「質」、あるいは「聞こえ方」のことを「音色」と呼ぶ。そして、楽音の長さや鳴るタイミングによって、その音楽の「リズム」が決まる。音楽家、演奏家は、こうした要素をすべて組み合わせて曲全体を作り上げる。歌曲だろうが、交響曲だろうが、オペラだろうが、コマーシャルソングだろうが、それはすべて同じである。ただ、何をどう組み合わせるかで音楽のスタイル、ジャンルは変わってくる。
音の階段の構成
楽音の周波数と音程との関係は、基本的にはごく簡単である。周波数が上がるほど、音程は高くなる。ただ、興味深いのは、ほぼすべての文化で、楽音の音程が「不連続」になっているということだ。人間の耳に聞こえる周波数帯域の中には、無限の音程が存在する。二つの周波数の間は、そうしようと思えばいくらでも細かく分割できるからだ。もちろん、あまりに分け方が細かくなると、隣り合う音程の違いを聞き分けることは不可能になる。目で何かを見たときにも、あまりに微妙な違いを見分けることはできない。それと同じである。それでも、かなり細かいところまで聞き分けができるのだから、それを音楽に使っても不思議はないはずである。なのに実際には、使える音程のごく一部しか使われていない。それはなぜなのか。また今使われている音程はどうして選ばれたのか、ここからはそれについて見ていこう。
よく考えてみると、ある音と、その一オクターヴ上または下の音が「同じ音」に聞こえるというのは、まったく当たり前などではない。とても不思議なことだ。こんなことは音楽以外にはない。視覚にも味覚にも、それと似たことは起きないのだ。
音階と音程
一オクターヴの中には、ダイアトニックスケールの七つの音以外に五つの音が存在する。音階が「ド」で始まるとすると、ピアノの黒鍵にあたる五つの音である。この音は本来、ダイアトニックスケールには含まれないのだが、西洋音楽ではよく使われている。一二音全部を含むスケールは「クロマチックスケール(半音階)」と呼ばれる。ダイアトニックスケールに含まれない音を多用した音楽を「クロマチックな音楽」と呼ぶこともある。
調(キー)の変更
♯や♭などのいわゆる「臨時記号」は元々、モードの体系の中でやむを得ず使われたものだ。はじめは「シ(B)」を半音下げるために、次に「ファ(F)」を半音上げるために使われた。だが、このやむを得ず考え出された記号のおかげで、音階は変えずに主音を自在に変える、今で言う「移調」ができるようになった。
ピタゴラス音階を使っていると、移調や転調がまったくうまくいかないということである。 完全五度移動の起点となった調から離れれば離れるほど、音楽は調子外れになっていく。この問題を解決するには、五度圏が閉じるような音階、「ファ(F)♯」と「ソ(G)♭」が一致するような音階を作る必要がある。
調律
ピタゴラス音階のこうした陥を克服するために、代替となるいくつかの音階が考え出された。ピタゴラス音階の持っていた最大の長所は、音程の周波数の関係が簡単な比で表せるという点だった。また中世まで、協和音とみなされたのは、オクターヴと五度、四度の関係にある音だけだった。しかし、一五世紀になると、音楽は次第に多声化し始め、同時に二つ以上の音を鳴らすことが増えてきた。そのため、協和音とみなされる音の組み合わせも増えることになった。三度(「ド(C)」と「ミ(E)」など)や、六度(「ド(C)」と「ラ(A)」など)の関係も一応、協和音とみなされるようになったのだ。三度の音と主音の周波数比は、ピタゴラス音階では八一対六四であり、これはとても「簡単な比」とは言えない。そこで、音程の修正が行われ、三度と主音の周波数比は八〇対六四と、より簡単なものに変えられた。八〇対六四は「五対四」なので非常に簡単である。六度と主音の周波数比も、同様に二七対一六から、二五対一五に改められた。これは五対三ということだ。(…)この音階は「純正律」と呼ばれている。
本当に一オクターヴを一二分割できる半音の幅は一つしかないはずである。その幅を求める方法は、中国とオランダという二つの場所で同時に発見された。一二乗して「二」になる数字を求めればいいのその数字が半音の幅を決めるということだ。(…)この値を使った音階を「平均律」と呼ぶ。
五度圏の両端が閉じるような音階、どのように移調をしても、調子外れな音ができない音階を作ろうという試みは一六世紀以降も続けられた。よく使われたのが、音程の間隔に違いを作るという妥協案である。完全五度にいたる途中の音程に間隔の広いものと狭いものを作るのだ。ピアノで言うと、音程の差を白鍵と白鍵の間では少し狭め、黒鍵と黒鍵の間では少し広げるということがよく行われた。ドイツの音楽理論家、アンドレアス・ヴェルクマイスターも、一七世紀の終わりにその種の音階をいくつか提案している。この音階をヴェルクマイスター自身は「快適不等分律(ウェル・テンペラメント)」と呼んだ。バッハの「平均律クラヴィーア曲集』は、長調、短調、合わせて二四の調で書かれた前奏曲とフーガからなる作品集だが、これがいわゆる平均律のために書かれたものなのか、それとも、快適不等分律のために書かれたものなのかは、長い間、議論の的になっている。いずれにしろ、この作品集は、五度圏の両端が閉じる音階ならば、すべての調を同じように使って作曲ができるということを証明する見本とするために書かれたものである。つまり、一種の広告ということで、これほど見事な広告が作られたことは歴史上まず例はないと思われる。だが、この作品集をもってしても平均律をすぐに普及させることはできなかった。平均律が本当に広く使われるようになったのは、一九世紀になってしばらく経ってからのことだ。
主音と完全四度や完全五度の周波数比が簡単で、なおかつ移調は自在にできる、そういう音階を作ることは数学的には不可能だ。音響科学者のウィリアム・セサールは、自由に調律を変えられる電子楽器を利用した独創的な解決策を提案している。
一音のコード
ピタゴラス音階では、三度と主音の周波数比は八一対六四である。これは簡単とは言えない。にもかかわらず、音楽において、完全四度を入れた和音よりも三度を入れた和音の方が一般に重要性が高いのはなぜだろうか。
このように倍音が発生するということは、人間の声を含め、あらゆる楽器の音はどれも正確には「和音」であるということを意味する。しかし、人間の耳にはそうは聞こえない。私たちの耳、脳は、基音、倍音をすべて合わせて一つの音と認識するのだ。
基音と同時に強く聞こえることの多い第一倍音を、脳は「基音と同じ種類の音」とみなすように進化した。そして、二つをまとめて一つの音として聞く能力も進化させたのだ。従って、逆に、一オクターヴ上の倍音が同時に鳴っているとき、意識の上ではっきりと「鳴っている」と気づくのは難しくなっている。
打楽器の中には、倍音の周波数が基音の完全な整数倍になっていないものが多い(鐘などもそれに含まれる)。そういう、いわゆる「不協和」な音が聞こえたとき、脳は倍音の集合を一つの音程にまとめることができない。その結果、音程の曖昧な音として認識することになる。一つの音には聞こえるが、どの高さの音なのかはっきりとはわからなくなるということだ。ドビュッシーは、『沈める寺』という曲の中で、あえて不協和な音を重ねることで音程を曖味にし、ピアノで鐘の音に似た音を作り出している。ド(C)とレ(D)という長二度の音を重ね、さらに一オクターヴ上でも同じ組み合わせの二音を重ねている(図3・20を参照)。周波数のずれた倍音が重なった場合に似た効果を出しているのだ。
五度圏を壊す
民族音楽学者、ノーマン・キャズデンは一九四五年に「数学的な比率が、何か神秘的な力によって我々の耳には音楽として知覚される、というごく素朴な考え方はすでに否定されたと言っていいだろう」と発言している。彼は、カーネギー・ホールで演奏されるような音楽だけが音楽ではないということをよく知っていたからだ。西洋文化以外の音楽に目を向けると、周波数の差を簡単な比で表せるような音階を使っている音楽ばかりではないことがわかる。
例外が少なくとも一つある。インドネシアのガムランである。非常に洗練された複雑な音楽だが、この音楽では「完全五度」というものがほぼ無視されている。ガムランには主としてペロッグ、スレンド口という二つの音階がある。ペロッグは一オクターヴが七音から構成される音階で、音の数は西洋音楽のダイアトニックスケールと同様だが、その構成音の音程は西洋音楽とは大きく違っている(図3・21を参照)。しかもその中に、西洋音楽で言う五度にあたる音程はない。どの音も、音階の起点となる音との周波数比が簡単になる音ではないのだ。
楽音に名前をつける
ほとんどの音楽は四から一二という、ごく限られた数の音だけで演奏されている。それは一体なぜだろうか。その理由は容易に推測できる。まず、一オクターヴが四音より少ないと、ごく単純なメロディしか作れず、音楽の創造性が極めて低くなってしまう(もちろん、必ずしもメロディを複雑にしなくても、良い音楽はできるがそれは別の話である)。逆に音があまりに多いと、個々の違いがわかりにくくなってしまうだろう。人間の耳には、一応、半音の二〇分の一から三〇〇分の一くらいの違いを聞き分ける能力がある。しかし、音程をあまり細かく分けても音楽にはほとんど役立たない。
このことは簡単な実験によって確かめることができる。はじめに主音と短三度の和音を聞かせ、短三度の音程を徐々に高くしていき、最後には長三度にする、というような実験である。音を聞いた人は、音程が徐々にではなく、ある時点で突然に短三度から長三度に変わったと感じる。ほんの少しの違いで、高い方にずれた短三度が、低い方にずれた長三度に変わるのだ。
広い幅と狭い幅
なぜ均等にしないのだろうか。なぜ、音と音の間の幅が広いところと狭いところを作るのだろうか。理由として一つ考えられるのは、どの音がその曲の「調性の中心音(つまり主音)」であるかがわかるようにするため、である。間隔が不規則なおかげで、聴き手は、どの音がその調(キー)の主音であるか識別でき、今、どの調で演奏されているかがわかるということになる。段の高さが不規則なおかげで、階段の違いの区別がつくということだ。
子供でも生後六ヶ月から九ヶ月くらいになると、間隔がすべて均一な音階よりも、間隔が不均等な音階の方に強く関心を示すようになる。その頃にはすでにどのような音階がより一般的で、広く好まれているかを学んでいるということだ
音階の中でも特に広く使われているのは、五音、あるいは七音から成る音階である。前者は「ペンタトニック(五音音階)」と呼ばれる。ペンタトニックの代表例としては中国で使われている音階があげられる。中国の代表的なペンタトニックは、ちょうど音程の間隔が、ピアノの黒鍵と同じになっている。音階の多くが五音か七音になっているのは、五音か七音だと、調を変えることが容易だからだと思われる。一オクターヴの音の数が五つか七つだと、構成音のうちの一つに変更を加えるだけで、調を変えることができる。
音楽理論家ジェラルド・バルザーノは、ダイアトニックスケールのような音階、つまり一二音から七音を選んで使うような音階には他にも大きな特徴がいくつかあることを示した。一オクターヴの音の数が七ではない他の音階のほとんどが持っていない特徴である。まず、ダイアトニックスケールのような七音の音階の場合、すべての調の構成音が他の調とは違っているという特徴がある。構成音は同じなのに、場合によって違う調になり得るということがない。一二音のうちどこを起点にするかで、他のどれとも違う音階ができるのだ。しかも、隣り合う音どうしの間隔は、どの調でも一定に保たれる。主音が決まれば、構成音はすべて自動的に決まるのだ(どの音が短二度か、どれが長二度か、短三度かがすべて自動的に決まる)。そして、調が違えば、音の組み合わせは完全に変わる。つまり多様性が最大限に高まるというわけだ。
ダイアトニックスケール以外の音階
西洋の調性音楽ではダイアトニックスケールだけが使われてきたわけではない。すでに見てきたとおり、古くから「モード」と呼ばれる音階も使用されてきた。ルネッサンス以降、クラシック音楽の大半ではモードに代わってダイアトニックスケールが使われるようになったが、モードも民族音楽などでは使われ続けた。現在でも、特にロックやポップスなどではよく使われている。
ロックやジャズでは、「ブルーススケール」と呼ばれる音階もよく使われる。ただ、どういうものをブルーススケールとするかについては厳密な定義があるわけではない。ブルーススケールの中でも最も簡単なのは、五音から成る「ペンタトニックブルーススケール」である(図3・26を参照)。あえて譜面に書くと図のようになるが、「ブルーススケールはこの音から構成される音階」と言い切ってしまうと、最も大切な要素が抜け落ちてしまうことになる。このスケールの持つ表現力の豊かさのようなものがまったく伝わらないのだ。
二〇世紀の作曲家の中には、通常のダイアトニックスケールとは違う音階を採用するか、自ら作り出すかして、非常に独自性の強い音楽を生み出した人が何人かいた。たとえば、ドビュッシーの音楽には独特の浮遊感と優美さがあるが、それを生み出す大きな要因となっているのが「全音音階」である。これは、一オクターヴが六音から構成される音階で、音と音の間隔がすべて同じ全音になっている
音階の風景
世界の様相をおおまかに知るための地図のようなものは作ることができる。その際に考えるべきなのが「音程空間(ピッチスペース)」だ。音程空間とは、音楽を構成する楽音が作り出す空間のことである。その空間の形がどうなっているかを考えるのだ。音響物理学者から見ると、音程空間は、緩やかな上り坂のようなものである。周波数が上がるにつれて楽音が徐々に高くなっていくからだ。しかし、私たち人間の聴覚は、それを単純な上り坂とは認識しない。ある程度高いところへ行くと、また同じところへ帰ってきたように感じるのだ。少なくとも、前にいたのと似たようなところへ来たと感じる。音程が一オクターヴ上がる度に、音の「色合い」のようなものが一オクターヴ下の音と同じ、あるいは似ていると感じられる。この状態を絵に描くと、螺旋状の上り坂のようになるだろう。
スイスの数学者、レオンハルト・オイラーも一七三九年に楽音の関係を図示する試みをしているが、おそらくこれはこの種の試みとしては最初期のものだろう。オイラーが図示したのは、純正律の楽音の関係である。この図(図3・31aを参照)では、オクターヴの違いが一切無視されており、すべての音程が一オクターヴにまとめられている。いわばこれは、縦方向、横方向の座標を持った平面的な地図である。地図の中で上に進むと音程が長三度上がる。左から右に進むと音程が五度上がる。つまり、どの行でも左から右に次々に移動していけば、自動的に「五度圏」をたどることができるのだ。
第4章 アンダンテ:良いメロディとは何か
この章では、なぜ最初の音を聞くだけでその先が予測できるのか、そして、並んだ音をなぜメロディとして、音楽として認識できるのか、ということを考えていきたいと思う。
メロティとは、簡単に言えば、「音の連なり」である。連なる音の高さ、長さ、リズムは様々に変化する。中には極端に短く単純なものもある。アメリカ先住民の歌の多くは極端に短い。ワンフレーズのみで、音程は、まったく変化しないか、せいぜい半音変化するくらいである。逆の極端には、チャーリー・パーカーやオーネット・コールマンなどの即興演奏が位置する。その、まるで洪水のような音の連続は、変化も極めて教しく、果たして「メロディ」と呼んでいいものか迷うほどだ。だが、そうした極端なものも、マザーグースの『ヒッコリー・ディッコリー・ドック』のような曲のメロディも、私たちの脳は同様の方法で理解しているのだ。
「メロディ」とみなせるものとそうでないものとの間に、明確な境界線はない。音の配列は、大きくは「素晴らしいメロディ」、「平凡なメロディ」、「奇妙なメロディ」、「メロディとは言えない支離滅裂な配列」というように分類できるのだが、個々の境界線は非常に曖昧である。一体、この四つは何がどう違うのだろうか。
正しい音楽とは
調性音楽の調は、「どの音が使えるか」で決まるわけではない。調は、「どの音がどのくらい使われているか」で決まるのだ。
こうした音の差別化は認知の手がかりになる。私たちはこれを頼りに、メロディを解釈し、記憶することができるのである。地位の高い音が目印となってくれるおかげで、メロディは単なる音の羅列ではなく、ひとつながりのものとして聞こえるのだ。
音楽理論においては、地位の高い音は、安定しているとされる。これは、他の音に移る可能性が低いように感じられるということである。
音楽が単純に音が音を引き寄せる力だけでできあがるものであれば、作曲家のすることなど何もない。メロデイは山間に水が流れ落ちるごとく自然にできあがることになる。重要なのは、引力にあえて逆らうこともできるということである。どのタイミングで、また、どのように抵抗するか、それを決めるのが音楽家の仕事である。
ジャズミュージシャンは、「間違った音」、つまり音階や和声から外れた不安定な音を使うが、すぐに近くの安定した音に移動することが多い。そうすれば、「間違った」音は、「正しい」音の装飾音のように聞こえる。聴く者はすぐに忘れてしまい、おそらく気にも留めないだろう。音響心理学者のアルバート・S・ブレグマンは、ジャズの即興演奏のことを「絶え間ない間違いの訂正」と言っている。
メロディの知覚や予測に、私たちが過去の経験から得た「どういうときにどの音がよく使用されるか」というデータが大きく影響しているという考え自体は広く受け入れられている。私たちの頭の中には、各音の調性階層に関するデータがあり、そのデータを絶えず参照することで、童謡からバッハまで、あらゆる音楽のメロディに関して予測や判断をしているということだ。確かにこれはあり得ない話ではない。人間の脳は、パターンを見つけることが非常に得意だからである。それは、人間の持つ最も高度に進化した能力と言ってもいいかもしれない。
人間という動物は元来、こういうことが得意なのだ。特別な音楽教育を受けておらず、調性などについて専門的な知識がなくても、普通は音楽を何秒か聴くだけで主音がどれかわかってしまう。特に訓練を受けなくても、五、六歳になれば、曲の調を感覚的に察知する能力を身につける。そして、伴奏の調に合わせて歌を歌うということもできるようになる。どの調で歌っていいか迷うということは少なくなる。そして、七歳になれば、調の変化も察知するようになる。耳慣れた曲なら、途中で調が変わってもそれについていくことができるのだ。このように、ほとんどの人は素晴らしい音楽的才能を持っている。
西洋音楽以外のルール
もちろん、どの音が重要でどの音が重要でないかがわかっただけで、異文化の音楽を理解したとはとても言えない。そのことについてはあとで詳しく述べる。しかし、調性階層を把握することが重要な一歩であることは間違いない。これは、単に、ある音楽における音の使用頻度を経験によって学習するというだけのことではない。調性階層を知ることで、音楽の背後にある理論、原理のようなものも察知することができるのだ。使用頻度の高い音は、おそらく、その音楽の基本構造を支える音階や和音を構成する音だと推測できるからだ。
調性階層は、音楽の構造を知る手がかりになるというだけではなく、おそらく、音楽を音楽として知覚する上で矢かせないものなのだろう。この章ですでに触れたとおり、ただ、音を無作為に羅列しただけでは、私たちにはまったく音楽には聞こえない。たとえハ長調の音階から音を選んでいても、ハ長調の曲には聞こえないのだ。それは、調性音楽における通常の音の使用頻度を無視しているためだ。調性階層を無視した音楽は、私たちの脳にとっては処理の難しいものなのである。そういう音楽を聞かされてもただ戸惑うだけだ。
メロディの形
音によって出現頻度に差があり、重要な音とそうでない音があるということは、おそらく「良いメロディ」というのは、一般に出現頻度の多い音、重要な音を多く使い、そうでない音をあまり使っていないメロディなのだろう、と推測できる。だが、それだけで「良いメロディ」というものを完全に説明できるわけではない。
そのメロディが良いメロディになるかどうかは、その構成要素間の関係がどうなるかによって決まるのだ(同じことはサッカーの試合にも言える)。そして、良いメロディであることを認知するには、聴き手が、音と音の関係が通常どのようになるのかを知っていなくてはいけない。実際にある程度音楽を聴いて、頻度の高い関係を記憶し、事前の予測もできるようになる必要がある。
一つ重要なことは、ある音が聞こえると、それによって必ず次の音が暗示されるということだ。ある音の次に使われやすい音と使われにくい音というのがあるのだ。私たちが経験によって学ぶのは、次に使われる確率が、今、聞こえている音からの距離によっても変わるということである。つまり、今の音から何度離れているかで使われる確率が変わるのだ。実際に使われている値について統計を取ってみれば、確かにそのとおりであることがわかる。
大きな音程変化が突飛に感じない理由は他にもある。『虹の彼方に』や『雨に唄えば』では、一オクターヴ変化する部分の音符が、他の多くの部分よりも長くなっている。いったん大きく変化した後、“-where”の部分が長く伸ばされ、しばらく音程が変化しないのだ。その後の“over the rainbow”の部分は、音程が小幅に変化する滑らかなメロディになっている。大きな音程変化があってもメロディが途中で断ち切られず、全体が一続きに聞こえるのはそのためだ。大きな変化の後、しばらく立ち止まって待っていてくれるので、脳が動きに追いつけるのである。
よく見られる音程変化のパターン
だが、それでも、「大幅な音程変化の後の逆方向の移動」が経験的事実であることに変わりはない。つまり、おそらく、私たちの脳はメロディを聴くときに、そのような音程移動が起きることを事前に予測するだろうということだ。事実、音楽家を対象に、大きな音程変化を聞かせ、「次にメロディがどの方向に動くか」と尋ねる実験をすれば、「逆方向に動く」と答える人が多い。興味深いのは、大幅な音程変化の起点と終点がどこであっても関係なく、同じように予測する人が多いということだ。統計的には、この傾向は、中間部から上限、下限への移動にのみ顕著に見られるものなのだが、それは関係がないようである。この点に関して、私たちは不完全な経験則しか持っていないらしい。本当は、中間部から上限、下限への移動の後にだけ適用されるルールを、常に適用できるものとして利用しているのだ。だが、これは無理もないことだろう。経験則は単純な方が記憶されやすいし、不完全とはいえ、適用できないケースはそう多くないからだ。音楽に関する経験則には、このように、正確さと単純さの間のせめぎ合いが起こっている場合が少なくない。ある程度以上、正確であれば、あとは単純さが優先されると考えていいだろう。
アーチ形のメロディパターンがこれほど多いのはなぜだろう。確かな理由は誰も知らない。だが、推測することはできる。一つ言えることは、メロディには主音から始まるものが多いということだ。おそらく、主音から始まっていれば、聞く側にとって主音を把握するのが最も易しくなるからだろう。主音が把握しやすければ、必然的にその音楽は理解しやすいものになる。理解しやすいものの方が好まれるのは、ほぼどの音楽でも共通している。少なくとも、伝統音楽や民族音楽の場合はそうだろう。また、主音で終わるメロディも同様に多い。主音は最も安定した音なので、「終わった」という印象を最も強く与えることができるからだ。メロディの始めも終わりも同じ音になることが多いということである。
音楽の多くは「歌」である。そのため、「上がって下がる」アーチを描くメロディが多いのは、話し言葉の音程から来ているという考え方もできなくはない。文の最後に音程が下がるというパターンは、多くの言語に共通して見られる。子守歌にゆっくり音程が下がっていくメロディが多いのは、母親が赤ん坊に優しく語りかけるときの音程パターンに倣っているのだという考え方もある。
メロディの息つぎ
チャーリー・パーカーやジミー・ペイジなど、超一流のジャズミュージシャン、ロックミュージシャンの演奏で目立つのは、そのスピードである。そのため、速く演奏できるよう十分に訓練を積めば、彼らのようになれると思い込んでいる人も多い。だが、実際にはそうはいかない。彼らの演奏で素晴らしいのは、その驚異的なスピードだけではないからだ。重要なのは「息つぎ」である。絶妙のタイミングで息つぎが入るからこそ、音の洪水のようなソロが単なる混海に陥らず、秩序立った音楽に聞こえるのである。
小節は、リズムや拍が明確にわかりにくい曲にも。ある種の「律動」を与えることができる。小節の切れ目がわかりやすい曲ほど、曲の構造を把握するのが容易である。反対に小節の切れ日がわかりにくい曲は、理解しづらくなる。「無調音楽」と呼ばれる音楽の中には、ただ音が何のまとまりもなく羅列されているだけに聞こえるものがあるが、小節の切れ目がはっきりしないということがその理由になっていることがある。だが、意図的にそういう音楽を作ろうとする人もいる。現代音楽の作曲家の中には、まさにそれを目指す人がいるのだ。切れ目なく、ただ、まとまりなくだらだらと音が流れていく音楽は、聴く人を瞑想でもしているような状態、いわゆる「トランス状態」にさせることもあるが、多くの場合は、単に退屈なだけである。
歌は変わらない
アーロン・コープランドは「今、そこに存在する音を、個々にばらばらに聴くだけでは、音楽を聴いていることにはならない」と言っている。今、この瞬間に聞こえている音は、直前に聞こえた音、直後に聞こえる音と結びつける必要があるのだ。この本ではすでに、私たちが音楽の調性をどのようにして察知するのかということには触れた。私たちの脳には「どの調ではどの音がよく使われるか」という記憶があるのだ。その記憶と聞こえてくる音とを照らし合わせることで調がわかる。聞こえてくる音と記憶との比較は絶えず続けられ、必要に応じて解釈が訂正されていく。
音楽の場合も、画像と同じように、私たちはいくつかの「ピクセル」をひとかたまりにして扱い、大づかみに認識、記憶している。いくつかをひとかたまりにする操作のことを「チャンキング」と呼ぶ。チャンキングには、ルールが必要である。何と何とをまとめて扱うか、それを決める暗黙の基準が必要なのだ。たとえば、「音程変化が小幅な部分をまとめる」、「調が同じ部分はまとめる」などの基準である。/チャンキングは、音楽の認知には不可分である。
たとえば、もし、ある一つの音を聞かされて、その後にもう一つの音を聞かされ、「これはさっきの音と同じですか、違いますか?」と尋ねられたとする。私たちはどのくらい正雄に答えられるだろうか。実験によれば、一音目と二音目の間隔が一五秒くらい(音楽にとって一五秒間は長い時間だ)空いても、ほぼ間違いなく答えられることがわかっている。脳には、この「音程の短期記憶」のための機構が備わっている。その機構の少なくとも一部は、「下前頭回」と呼ばれる部位に存在している。これは、この機構を作るための遺伝子が存在しているということだろう。ただし、音楽のために進化したものではなさそうだ。音程の違いを聞き分ける能力が、私たちが生存していく上で価値があったということだと考えられる。音程の違いがわかれば話し言葉も理解しやすいし、声から相手の感情を察知するにも便利である。動物の鳴き声など、自然界に存在する色々な音を区別するのにも役立つ。
「まったく同じではないが似ている」というフレーズを繰り返し使うと、メロディにつながりが生じ、覚えやすくなる。この手法は、非常によく使われる。民族音楽やポピュラー音楽の場合は、特にその傾向が強く、二つか三つのメロディを順に歌うことを繰り返すだけ、というようなものも多い。それで簡単に覚えられるのだ。現代のダンス音楽などを「単純な繰り返しが多すぎて稚拙」と非難する人もいる。しかし、実は世界中のほぼすべての音楽、イヌイットの喉歌から、ノルウェーのポルカ、ナヴァホ族の戦勝祈願の歌にいたるまで、数秒以上の長さのある音楽なら、その大部分(約九四パーセント)に何らかの繰り返しが見られるのだ。しかも、これは、完全な繰り返し以外は除外しての話だ。
クラシック音楽では、繰り返しは一つの「楽式」にもなっている。たとえば、「ソナタ形式」と呼ばれる種類の曲では、提示部に使われた主題が展開部にも形を変えて使われ、その後、再現部でもわずかな変更を加えて使われる。ソナタ形式について何ら知識がなくても、その構成を楽しむことはできる。ただ、ほんの短い間、一度聴いたメロディを記憶できればいいのだ。同じメロディが形を変えてまた現れたことが認識できれば楽しめる。また、繰り返しは、変奏曲においてはさらに顕著である。同じメロディが何度も何度も、形を変えて使われるからだ。全体の構成があらかじめ決められていて、それに合わせて作曲されるソナタとは違い、変奏曲の場合は、ただ、同じ短い主題に変更を加えて繰り返していくというシンプルな作りになっている。しかし、バロック時代には、バッハをはじめとする優れた作曲家たちにより、美しく洗練された変奏曲が数多く作られた。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の均整美、構成美は、今なお、音楽家だけでなく、数学者をも魅了している。
調整階層の破壊
アルノルト・シェーンベルクは、一九〇七年に書いた『弦楽四重奏曲第二番』の終楽章に調号をつけなかった。楽譜の冒頭にシャープやフラットを一つもつけなかったのだが、これはハ長調(あるいはイ短調)という意味ではない。「この曲には調自体がない」という意味である。シェーンベルクは、この曲にとって調という概念は何の意味も持たないと考えたのだ。特定の音階や調を基本に音を選んだわけではなかった。それはまさに「無調音楽」だった。
シェーンベルクはそうなるよう意図して曲を作っている。調性階層がなくなる作曲法を自ら考え出したのだ。彼は、人が音楽を聴くとき、必ず主音を探すということを知っていた。そして、どれが主音かの判断は、「統計」によるのだということも知っていた。つまり、最も使用頻度の高い音を主音とみなすのだ。シェーンベルクは、一九四八年に「主音の地位が高くなるのは、多く繰り返し使われるからだ」という文章を書き残している。つまり、調性をなくしてしまうには、ダイアトニックスケールの外にある音を多用してやればよい。他のどの音よりも多用されている音があれば、私たちはそれを主音とみなしてしまうので、そういう音を作らないようにするのだ。
シェーンベルクが無調音楽を作った目的は、「新しい音楽を作る」というよりもむしろ「古いものを壊す」ということだった。これは根本的な問題である。いくら自由を語ったところで、実際には、「排除」を目的として考え出した手法だったのだ。シェーンベルクは、調性を痕跡すら残さずに排除したかった。その理由は、音楽的というより、哲学的なものだった。政治的と言ってもいいかもしれない。シエーンベルクにとって、調性音楽はもはや、陳腐な使い古しの音楽であり、自己満足に浸った退廃的な社会階層のものでしかなかった。
いかにランダムに音を選んで並べたとしても、このような組み合わせがあると(図4・23のような例は極端としても)、聴き手は、その部分に調性を感じ取ってしまう。ストラヴィンスキーなどは、こうした「一瞬の調性」を感じる音列を効果的に使っているし、シェーンベルク自身も、後期の作品ではこの手法を使っている。ただ、デヴィッド・ヒューロンの調査によれば、シェーンベルクの作品に「一瞬の調性」を感じる音列が使われることは多くなく、完全にランダムに音を並べた場合よりも少ない頻度でしか使われないとわかっている。これは、シェーンベルクが、できるだけ調性を排除できるよう、意図して音を選んでいるということだ。そういう理由から、ヒューロンは、セリエル音楽は「無調」音楽というより、「反調性」音楽と呼ぶべきと主張している。
価値のある試み
たとえシェーンベルクが、人間の音楽の認知に関心を向けなかったとしても、それは責められないことだ。彼の時代には、認知の原理はまだ発見されていなかったのである。それがいかに極端なものであろうとも、実験は音楽にとって重要なことだ。そして、当然、実験は成功することも失敗することもある。そのことを忘れてはならないだろう。たとえ、失敗したとしても即、非難するべきではないのだ。シェーンベルクの実験は、少なくともある程度までは成功したと言える。音楽に新しい響きを持ち込むことができたし、新たな音楽のスタイルが見つかる可能性も生まれた。 作曲家たちを、ある意味で、東縛から解放する役割も果たした。無調音楽は、ストラヴィンスキーや、ペンデレッキといった作曲家たちを動かす力ともなった。ただ、問題なのは、そうした新しい試みの多くが、哲学的、観念的な動機によるもので、過去の伝統に根ざし、それを発展させようとしたものは少ないということだ。優れた芸術というのは、単にその背後にある理論のおかげで素晴らしくなっているわけではない。過去の伝統や、先人の作品を参照し、それを取り入れていくということが重要になる。既知のものを踏まえ、それに新たなものをつけ加えていくということが必要なのだ。どんなに斬新な音楽であっても、既知のものを出発点とすべきである。過去を無視して、何もかもを新しく一人で作り上げることはできない。完全に新しいルールに基づく音楽などあり得ないのだ。仮にそういう音楽を作ったとしても、聴き手にはそのルールは知覚できないだろう。主音や調性階層を排除したからといって、長年の経験でその存在に慣れてきた聴衆の感覚を突然、変えることはできない。聴き手も、ある程度ならば訓練によって、音楽の聴き方を変えることはできる。かなり過激なセリエル音楽でも、訓練次第で許容できるようになる可能性はある。だが、許容できるからといって、本当に楽しんで聴いているとは言い難い。伝統的な音楽のように、緊張と緩和があり、始めと終わりがある、というような構造になってはおらず、ただ、均一に並べられた音たちと静寂だけから成る音楽を心から楽しむのは難しいだろう。ロジャー・スクルートンは「どこにでも行ける音楽は、どこにも行けない音楽である」と言っているが、まさにそのとおりである。
第5章 レガート:音楽とゲシュタルト原理
私たちは、果たして、音楽を聴くときに、流れる音のすべてを聴いているのだろうか。コープランドが追究しようとしたのはそのことだ。アイヴズの曲にしろ、バルトークの弦楽四重奏曲、ジョン・コルトレーンの「ブルー・トレイン』、ジャワ島のガムランにしろ、間違いなく言えることは、音楽を構成する音は恐ろしく多い、ということである。音程も音色も様々な音が複雑に絡み合っており、多くのリズムが混在している。しかも、聞こえる音は時々刻々と変化し、互いに重なり合い、混ざり合っていく。音楽の中には難解なものもあるが、それは不思議ではない。本当に不思議なのは、どのようなものであれ、私たちがそもそも音楽を「理解できる」ということである。
こうした聴覚情報の処理に、いわゆる「ゲシュタルト原理」が関わっていることは、すでに前の章で述べたとおりである。私たちは、この原理により、複雑な知覚情報の中に一定のパターン、秩序を見出すことができる。それは、聴覚情報でも視覚情報でも共通である。この章では、ゲシュタルト原理についてさらに詳しく見ていく。この能力には、「生まれつき」の部分もあるが、音楽を聴いた経験や教育によって身につけていく部分もある。規則や慣例を知ることで、無意識にそれに従うという側面もあるのだ。ともかく、私たち人間が「音楽を持った生物」たり得ているのは、ゲシュタルト原理のおかげということが言える。
世界を単純化する
人間には、パターンを見つけ出そうとする傾向がある。レナード・メイヤーは、「私たちは、無意識のうちに感覚刺澈の中にパターンを見つけようとする。できる限り、複数の刺澈を一つにまとめようとするのだ」と言っている。時には、パターンを簡単なものにするために、現実を曲げて解釈してしまうこともある。実際に見えたもの、聞こえたものとは違うものを見てしまう、聴いてしまうことがあるのだ。ゲシュタルト心理学では、これを「プレグナンツ(簡潔さ)の法則」と呼ぶ。
ゲシュタルト心理学は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、主にドイツで盛んに研究された。中心となったのは、マックス・ヴェルトハイマー、クリスチャン・フォン・エーレンフェルス、ヴォルフガング・ケーラー、クルト・コフカなどの研究者である。彼らが主張したのは、「私たちの脳は、複数の感覚情報をひとまとめにすることにより、その総和以上の体験をする」ということである。全体が部分の総和以上のものになるということだ。たとえば、目がとらえた視覚情報は、多数が組み合わさることで、単なる色の小片の集合以上のものになる。脳は、色の小片を一つ一つ処理するのではなく、いくつかまとめて、それを一つの「物体」と解釈するのだ。それによって、世界は単なる混沌とした場所ではなく、理解可能な場所になる。
いくつもの音をまとめ、ひとつながりのものとして認識する高度な能力は、音楽を聴くときにも非常に役立つ。私たちは、歌手の声とバックバンドの出す音とを容易に区別できるし、ギターの音だけ、ピアノの音だけを取り出して聴くことも簡単にできる。しかし、この「分離」が行き過ぎになってしまうことはない。一人一人が勝手に演奏しているのではなく、一緒に演奏しているということは認識できるのだ。脳には、ハーモニーを認識しようとする傾向もある。これも前に見たとおり、楽器の音も人間の声も、実は多くの倍音から構成されているが、その倍音の集合は、常にひとかたまりのものとして認識され、他の音の倍音と混ざり合って聞こえるようなことはない。脳は、「個々の音がばらばらに聞こえてしまうこともなく、すべてが完全に混ざり合ってしまうこともない」という絶妙のバランスが常に保たれるよう、巧みに調整をしているのである。
複数の音が同時に演奏されたときの聞こえ方
「ポリフォニー音楽(多声音楽)」というのは意味が曖昧な言葉で、複数の意味がある。厳密には、「あらゆる時点において二つ以上の音程の違う音が同時に鳴っている音楽」という意味になるはずである(同時に複数の音が鳴っていても、すべてがユニゾンであれば、それは「モノフォニー音楽」ということになる)。だが、この言葉は、同時に複数のメロディが演奏される場合にのみ使われることも多い。一つのメロディにハーモニーをつけている場合には使われないことがあるのだ。一つのメロディにハーモニーをつけた音楽は、「ホモフォニー音楽」と呼ぶことがある
対位法のルールに従うのは、同時に多数の音が存在しても、単なる混沌に陥らないようにするためだ。ルールに従って作曲することで、個々の音が他と明確に区別できるようになり、また、各パートの音の動きを、他と混同することなく追えるようになる。これは、視界に存在する物体を他と区別でき、個々の物体の働きを他と混同せずに追えるというのと同じである。作曲家は、個々のパートの連続性、一貫性を維持し、他のパートと混ざってしまわないようにしなくてはならない。だが、一方で、個々のパートがあまりに明瞭に他と分かれてしまうのもよくない。曲が退屈なものになってしまう恐れがあるからだ。
バッハの対位法では、協和度が高い音が同時に使われることは意外に少ないが、その理由はおそらくこういうところにあるのだろう。意図的に使うのを避けているのだと考えられる。実際、バッハの曲を調べてみると、協和度の高い音ほど同時に使用される頻度が低いとわかる。オクターヴは五度より使用頻度が低いし、ユニゾンはオクターヴよりさらに使用頻度が低い。協和度が高い二音を同時に鳴らす場合、バッハは、鳴らし始めるタイミングを少しずらすなどして、二つが混じり合ってしまうのを防いでいる。始まるタイミングが違うと、二音はそれぞれ違うメロディに属する音であると解釈されやすくなる。
バロック音楽の作曲家は、この錯覚を逆に利用することもある。音程を次々に大きく変化させることで、複数のメロディを同時に演奏しているように感じさせる。これを「ヴァーチャル・ポリフォニー」と呼ぶこともある。ヴァーチャル・ポリフォニーの例は『平均律クラヴィーア曲集第二巻』「前奏曲四声のフーガ 変ホ長調」に見られる(図5・12)。大きな音程変化が繰り返されるために、メロディが二つに聞こえる箇所がある。ただ、メロディが二つに聞こえるかどうかは、音程変化の幅の大きさと、繰り返しの頻度によって決まる。音程変化の幅がある程度以上大きく、繰り返しの頻度もある程度以上高くなければ、メロディが二つに聞こえることはない。一つの音の持続時間がだいたい一〇分の一秒以下で、音程変化の幅が、三半音を超えるくらいでなければ、確実にメロディを二つに聞かせることはできないだろう。
パートの聞き分け
パウル・ヒンデミットは、訓練を積んだ人であっても、三声を超えるポリフォニー音楽の個々のパートを聞き分けるのは不可能だと考えていた。だが、バッハは特にそういう限界を意識してはいなかったようで、四声の曲も多く作っているし、中には六声の曲もある。ただ、パートを増やすほど、聞き分けるための「手がかり」が多く必要になるということもわかっていたようだ。それに、四声、六声と言っても、すべての音を常に同時に鳴らすというわけではなく、通常、同時に鳴らすのはその一部だけということが多い。
メロディに自然の流れがあれば、その流れの中で使われた音は、他のパートと不協和であっても、そうは知覚されないことが多いのだ。バッハのフーガにも、実は他とかなり不協和なはずなのに、よほど注意深く聴かないとそう感じない、という音が含まれていることがある。楽譜を見てはじめて気づき、驚くことも多い。たとえば、「平均律クラヴィーア曲集第一巻」「前奏曲 四声のフーガハ長調」には、高い音域の「ソ(G)」と低い音域の「ファ(F)♯」が同時に演奏される部分がある。この二音は本来、非常に不協和になるはずだが、そうは聞こえない(図5・17)。
多数の音の融合
一九世紀になると、作曲家たちは、複数の楽器の音を組み合わせることで、個々の楽器とは違うまったく新たな音色を作り出そうとするようになった。一つ一つはありふれた楽器でも、それを組み合わせることで、誰も聞いたことのない斬新な音色が生まれることがあるのだ。たとえば、ラヴェルは『ボレロ』の中で、チェレスタ、フルート、フレンチホルンの音を並行して鳴らすことで、斬新な音色を生み出した(図5・19)。/各パートの音を聞き分けるための手がかりはいくつかあるが、互いに矛盾する手がかりが同時に提示されると、明確な聞き分けは難しくなる。その、いわば判断の「揺らぎ」によって、音楽がより豊かなものに聞こえることがあるのだ。
これまでの歴史の中で、音楽家たちは、様々な試行錯誤をしてきた。そうした試行錯誤のかなりの部分が、実は、ゲシュタルト原理に関わるものだったと言えるだろう。とはいえ、今までに試みられたことは、豊かな可能性のごく一部でしかないのかもしれない。現代音楽の作曲家の中には、大量の音の塊の中に各パートを埋没させるなど、従来のポリフォニー音楽の常識を完全に覆してしまった人もいる。スタンリー・キューブリックの映画『二〇〇一年宇宙の旅』に使われて有名になったジェルジュ・リゲティの『アトモスフェール』などはそうした作品の一つだろう。この曲では、多数の楽器を使い、オクターヴを構成する一二音のほとんどが同時に鳴らされる。一般に言われる「和音」にはなっていないし、メロディ、ハーモニー、リズムなど、通常、音楽にとって重要とされている要素のすべてを放棄してしまっている。冒頭の部分では、五六人の弦楽器奏者がそれぞれに音程の違う音を鳴らす。
第6章 トゥッティ:協和音と不協和音
(ケプラーの)宇宙の調和」を読むと、ポリフォニー音楽とその理論が、ルネッサンス期の終わり頃の知的文化に深く影響を与えていたのだということがわかる。複数の音を同時に鳴らして美しい響きを作るということが、当時の音楽にとって重要な課題となっていたこともわかる。これは、調和し合う音とそうでない音の区別が重要になったということだ。ケプラーの著書によって、この課題の重要性はさらに高まったとも言える。ハーモニーの問題が単なる音楽だけのものではなく、宇宙全体の成り立ちにも関わる重大なものになったからだ。
ハーモニーに関しては、協和音、不協和音以外にも色々と考えなくてはならないことがある。ポリフォニー音楽は、そのほとんど全体がハーモニーで満たされる。メロディが道だとすれば、ハーモニーはそこから見える風景であると言ってもいいだろう。道はどれも、その周囲の土地と無関係には存在し得ない。この章では、周囲の土地、つまりハーモニーについて詳しく見ていくことにしたい。
不協和音とは何か
協和音、不協和音の問題は、調性音楽、無調音楽の問題とは本質的には無関係である。協和音と不協和音の問題の方がはるかに微妙だろう。ショパンを例にとるとわかりやすいかもしれない。ショパンの音楽は、私たちに作り手の非常に繊細な心を感じさせるものだが、一方で、俗世間とは無縁なところで日々、愛想笑いを浮かべながら暮らしている貴婦人たちのための音楽だ、などと揶揄されることもあった。ところが、よくよく聴いてみると、そんなショパンの音楽は不協和音だらけなのだ。
私たちが二音の組み合わせを感覚的に「不協和」であると感じるのは、二音の周波数の差が一定の範囲内にあるときだということだ。周波数が非常に近いときは、同じ音程の音が同時に二つ鳴っていて、音量が増減していると聞こえる。周波数の違いが一定以上大きくなると、二音がばらばらに聞こえる。不快な響きに聞こえるのは、その中間のときである(図6・1b)。/驚くのは、ここで言う二音の周波数の差というのが、「周波数の絶対値」の差であるということだ(図6・1c)。そのため事情が複雑になっている。音程の差が同じでも、高い音域になると、周波数の差は大きくなるからだ。つまり、高い音域では協和音になる音程差が、低い音域では不協和音になってしまう場合があるということだ。言い換えれば、「絶対に不協和になる音程」というのは存在しないことになる。同じ音程差でも、どの音域で演奏するかによって変わるからである。
ヘルムホルツの不協和曲線
そもそも「周波数比が簡単な整数比で表される二音を重ねれば綺麗な響きになる」というピタゴラス学 派の考え方自体、正しいと言えるのだろうか。果たして私たちが耳で音楽を聞いた実感に合うのだろうか。私たちの耳は、この理想をかなり大きく逸脱しても許容するようにできている。たとえば平均律の音階で和音を作った場合、ピタゴラス音階とは周波数比がかなり異なるが、やはりオクターヴ、四度、五度は調和して聞こえる。そして、ヘルムホルツも指摘しているとおり、たとえ周波数比が同じでも、演奏する楽器によって、協和度が違うという点も重要だ。たとえば長三度の関係にある「レ(D)」と「ファ(F)♯」の音をクラリネットとオーボエで同時に演奏する場合は、レをクラリネット、ファ井をオーボエが吹いた方が、その逆よりも良い響きになるとヘルムホルツは言っている。
だが、長三度、完全四度、長六度がさほど深くなく、どれも深さがあまり変わらないというのはどうか。特に、新しい方のグラフ(図6・3b)では、長二度から長七度にいたるまで、完全五度を除くほぼすべての音程で、協和度にさほど大きな変化は見られない。半音より細かい微分音とも、 さほど協和度が違わないのである。完全四度の協和度が、短六度と長六度、あるいは、長六度と短七度の間というのも不自然だ。さらに驚くのは、一般に非常に不快な響きだとされる三全音が、グラフ上、長三度や短三度より不協和度が低くなっているということだ。結局、ほとんどの音程の協和度には元来さほど大きな差はないということになる。経験や文化によって、受け取り方が簡単に変わり得るということだ。グラフから間違いなく言えることは、五度とオクターヴの協和度が非常に高いということ、短二度は非常に不協和であるということだけだろう。残りは大同小異である。
短二度の和音の響きは打楽器のようでもあり、独特の「厚み」も感じられる。木と木を打ち合わせたときの音にも似ている。楽器の音というより、元々、自然界に存在するような音と言ってもいいだろう。 バルトークには、「夜の音楽」という表題のつけられた作品がいくつかあるが、その中ではよく、「トーン・クラスター」と呼ばれる技法を使っている。ピアノ組曲『戸外にて』の第二楽章などはその例である。いくつかの弦楽四重奏曲でも同様の技法は使われている。トーン・クラスターとは、長短二度の音程をいくつも積み重ねる技法だ。これによって、バルトークは、瞑想的な不思議な雰囲気を作り出している。夜の雰囲気だ。夜の空気の中、時折、セミやカエル、鳥などの鳴き声がする、そういう様子を思い起こさせる。少々、不気味な響きではあるが、耳障りではない。
人間が協和音を好むのは生まれつきか
すでに書いてきたとおり、和音を音響学的、物理的に分析することで、定量的に協和度を判定するということは一応、不可能ではない。だが、音楽で大事なのは、結局、私たちの耳にどう聞こえるか、ということである。協和音、不協和音の分類の仕方も色々だが、どのような分類にしろ、「協和音」とされる音を実際に耳で聴いて「不協和音」よりも快いと感じるかどうかが重要なのだ。耳で聴いて「協和音」だと感じる和音と「不協和音」だと感じる和音の間に何か明確な違いはあるのだろうか。
今のところ、この問題は解決からはほど遠い状況にあると言っていいだろう。残念なのは、この問題について論じるときに、自分の趣味嗜好を押しつけようとする人や、感情的に物を言う人が珍しくないことである。「現代音楽の不協和音は擁護すべきもの」と言う人もいれば、「人間の生理に反し、害を及ぼすので一切排除すべき」と言う人もいる。どちらの意見も感情的で根拠の乏しいものだ。そんなことを話し合っても、結局は、ほとんど何一つ解決しない。人間が和音を協和音と感じたり不協和音と感じたりする能力は、おそらく、ある程度まで生まれつきのものだろう。とはいえ生まれつきの部分は決して大きくはない。経験や文化の影響によって、協和、不協和を判断する基準は簡単に変わってしまうだろう(事実、現代の我々ならまったく不協和とは感じない和音の中にも、モーツァルトの時代にはとんでもない不協和音だった、というものは少なくない)。また、ヘルムホルツが考えたように、和音の不協和度が倍音構成などの物理的な特性だけによって決まるのだとしたら、音楽理論はもっと、音域や音色を重視するものになっているはずだ。それに、平均律以外の音階への関心も、もっと高いに違いない。
正しい公式
古代ギリシャの音楽は、すでに述べたとおり、主としてリラやキタラなどの楽器を弾きながら歌う、いうものだったようだ。そう言うと、つい、ボブ・ディランのような歌手の姿を思い浮かべてしまう。だが、古代ギリシャの歌手の演奏には、ボブ・ディランとは決定的に違うところが一つあった。それは、楽器では歌と同じメロディを弾くだけだったということである。つまり、楽器は今で言う「伴奏」をするためのものではなかったということだ。
曲の調は色々だが、その調の主和音と、五度上、五度下の調の主和音が使われる点は同じである。通常、調の主和音のことを「トニック(Ⅰの和音)」、完全五度上の調の主和音を「ドミナント(Vの和音)」、完全五度下(あるいは完全四度上と言ってもよい)の調の主和音を「サブドミナント(Ⅳの和音)」と呼ぶ(短三和音の表記は小文字の「v」、「iv」となる)。
こんなエピソードもある。ある若い作曲家がベッドに横になっているときに、ドミナントの和音が聞こえてきた。しかし、そのまま長い間、トニックの和音が聞こえてこないので、いら立った彼はベッドから起き上がってピアノのところまで走り、自分でトニックの和音を弾いた、という。
古典派の時代には、一般に、長調の曲ならば長調のトニックが、短調の曲ならば短調のトニックが最後に置かれた。だが、バロック時代には、短調のトニックは長調のトニックに比べて安定度が低いと考えられたため、短調の曲であっても、正格終止の部分は長調の和音に置き換えられることが多かった。これは「ピカルディ終止」と呼ばれ、バッハの曲に非常によく使われている(図6・8c)。/ただ、このように決まった和音パターンで終わる曲は、現代に近づくにつれ減っていく。明確に「いかにも終わり」という雰囲気で終わる曲が減るということだ。ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ』のように、何の前触れもなしにいきなり終わる曲なども作られるようになった。聴き手は、突然、自分の立っていた足場がなくなってしまったように感じられる。あるいは、サミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』などのように、すっきりとは終わらず、歯切れの悪い終わり方になっている曲もある。
なぜ「偽」という名前がついているかというと、曲やフレーズの終わり近くでVの和音が使われると、次にIの和音が使われることを聴き手に予感させるからだ。次はエと見せかけておいて、違う和音を使い、聴き手を欺くのだ。うまく欺けば、非常に小気味良い音楽になる。私が気に入っているのは、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第一巻』「前奏曲 三声のフーガ 変ホ短調」に使われている偽終止だ。本来、トニックが入るべき箇所にVの変化和音が入っている(図6・11)。これこそ、まさに音楽の持つ魔法の力を実感する瞬間である。簡単な和音の連続だが、私はここを演奏するとき、いつも感動を覚えずにはいられない。まったく同じ和音進行は、ショパンの『前奏曲第一五番変ニ長調(雨だれ)』にも使用され、大きな効果をあげている。予想に反して聞こえる和音の響きが、まるで、嵐雲の後ろから突然顔を出した日の光のように感じられるのだ。
ドビュッシーは、カデンツの最後のトニックを変形させるという技法を使った。たとえば六度の音など、本来トニックに含まれない音を加えるのだ(図6・12)。余分な音が加わることで、「まだ終わっていない」という感じが長く残ることになる。こうしてカデンツを変形させるアイデアは、まずジャズに取り入れられ、その後、一九六〇年代頃には、ポップスにも取り入れられた。たとえば、ビートルズの『シー・ラヴズ・ユー』や「ヘルプ!』の終わり方は有名だろう。特に、『ヘルプ!』は、最後の和音の「すっきりと終わらない感じ」が、その部分の「ウー」という悲しげなコーラスや、曲に何度も出てくる「助けて!」という悲痛な叫びによく合っている。
なぜ和音がわかる?
プロの演奏家であれば、メロディを聴いて、その場で伴奏をつけていくということができる。素人目には奇跡のようにも見えるだろう。まるで何もないところから、次々と色々な物を出して見せる奇術師のようにも見えるに違いない。しかし、実際には、「何もない」というわけではない。簡単なルールに従っているだけのことだ。メロディの中に、合う和音を知るための手がかりになる音が含まれているのである。どういう音にどういう和音が合うのか、そのルールを学習や経験であらかじめ知っていれば、ただそれを当てはめていくだけで、ほぼ適切な伴奏ができる。
ヒンデミットによれば、西洋音楽を聴き慣れた人は、他の文化のモノフォニー音楽を聴いても、無意識にそこに和音をつけて聴いてしまい、純粋の単音のメロディとしては聴けないという。これまでの経験から「音楽には和音があるもの」という常識が強く染みついてしまっていて、そこから逃れることができないのだ。
転調
転調には必ず、「主音の変更」が伴う。仮に、ある人が、ビルの五階にいるとする。そこは、常に五階であって、急に一階に変わるなどということはない。突然、地面がせり上がって来ることはないからだ。だが、音楽の場合は、それに近いことが起きるのである。転調というのは、ハ長調からト長調の転調ならば、五階だった場所が急に一階に変わり、それに伴って他の階の階数もすべて変わってしまうというのに近いことだ。言葉で説明すると、とんでもないことのようだが、実際に体験してみれば、さほど戸惑うことなく受け入れられるはずである。ローリング・ストーンズの『愚か者の涙』という曲は、終わり近くでへ長調から、その平行短調(二短調)に転調する。はっきり「あ、転調した。二短調に変わった」というふうに認識できる人は多くないだろうが、転調したことは、ほぼ誰にでもわかるだろう。主音が変わり、一つ一つの音、和音の持つ意味がそれまでとは変わったことが認識できるはずである。
プロコフィエフなどのモダニストたちは、転調や和音進行に関する古くからのルールを破壊した。たとえば、『ピアノソナタ第五番』の冒頭部分の、ヘ長調から変ホ長調への転調は、過去のルールからすればあり得ないものだ。また、バレエ音楽『シンデレラ』のワルツでは、ホ短調から変ホ長調へ、というさらに大胆な転調が行われる(図6・20)。無調音楽も斬新だったかもしれないが、聴き手にとっては、プロコフィエフが使うこうした転調の方が大きな驚きだったかもしれない。一見、伝統的な調性音楽のように聞こえるため、安心してしまうからだ。そこでいきなり大胆な転調が起きると驚愕する。
ポピュラー音楽で定番になっているテクニックとしては、「半音上げの転調」があげられる。聴き手に新鮮な印象を与え、気分を高揚させる効果がある。実際に使われている曲の例は、スティーヴィー・ワンダーの『サンシャイン』、アバの『マネー・マネー・マネー』などいくらでもあげることができる。単純なテクニックなので、非常によく使われているが、あまりに使われすぎて、もは や「陳腐」と言ってもいい。同様に、全音上げの転調もよく使われている。ビートルズの『ペニー・レイン』が代表例である(イ長調からロ長調への転調)。半音上げ、全音上げの転調が特によく使われるのは、曲の終わり近くである。そろそろ曲に飽きかけていた聴き手の興味をこれで引きつけることができる。クラシック音楽の定義からすれば、これは厳密には「転調」ではなく、「移調」ということになる。変更前の謝と変更後の調の間に、何ら理論的な関係がないからである。単に、別の調でまったく同じ曲を演奏しているというだけだ。ちょうど、地面の高さが変わって、それまで二階だったところが一階になるようなものだ。
和声の関係を図示する
和音進行や転調にも、確かにある程度の自由度はあるが、メロディほど自由な動きはできない。たとえば、ダイアトニックスケールを基礎とした調性音楽に慣れ親しんだ人々(マイケル・ジャクソンのファンも、マイケル・ティペットのファンも、その点では同じだ)にとって、和音進行や転調というのは、一定の論理に基づいて行うものであり、一般に認められた論理の裏づけがない進行に出会うと、理解に苦しむことになる。もちろん、勝手な順序の進行をすることは不可能ではないが、ルールから逸脱していれば、聴き手に奇異な印象を与えることになるだろう。適切な和音進行や転調をするためには、そうしたルールを熟知し、和音や調が互いにどのような関係にあるかをあらかじめ知っておく必要がある。
関係が近いと感じられる和音は、やはり共通する構成音が多いのだろうか。あるいは構成音が物理的に調和しやすいのだろうか。それとも、単にこれまでに聴いてきた音楽で共に使われていることが多かったというだけか。クラムハンスルによれば、調性階層と同様、和音の「親しさ」の認識にも、やはり経験が大きく影響するという。一八世紀から一九世紀後半(一八七五年頃まで)にかけてのクラシック音楽でよく使われていた和音の組み合わせと、聴覚上、相性が良いと判断される和音の組み合わせは、ほぼ一致するということもわかっている。言い換えれば、共に使われる頻度の高い和音ほど、相性が良いと認識されやすくなるということだ。一方、二つの和音の(倍音成分に基づく)物理的な協和度の高さと、聴覚上の相性の良さとの間には、あまり一致は見られない。
和音や調の旅
和音進行や転調などは、一種の「旅」と考えることができるだろう。あちこちに次々に移動していくからだ。その旅についてもう少し詳しく見てみよう。
どの調で始まり、どの調で終わらなければならないか、それを定めたルールは特にない。ただ、重要なのは、転調の仕方によっては、聴き手が自分の位置、進もべき方向を見失って戸惑うということである。それをあえて利用するような作曲技法もある。クラシック音楽では「転調が始まったはずなのに、それが完結しない」という印象を与えるような技法もよく使われる。根音が明確でない和音を使うという技法もその一つだ。ショパン「前奏曲第九番ホ長調』では、第七小節の四拍目の和音がそれにあたる。左手で「ファ(F)♭」を弾き、その上で「シ(B)♭」、「レ(D)♭」、「ツ(C)」を構成音とする和音が演奏される。これでは根音がどれかがわかりにくい。
転調には比較的、関係の近い調への転調もあれば、関係の遠い調への転調もあり得る。関係の近い調への転調なら、受け入れやすいが、遠い調への突然の転調には戸惑う人が多いようだ。実験によれば、関係の遠い調への転調が起きた場合、被験者は、できるだけそれに抵抗しようとするということがわかっている。できる限り、調が変わっていないという前提で音を解釈しようとするのだ。いよいよ解釈が不能だとわかってはじめて、転調を受け入れる。関係の近い調の間で転調をしている間は、安心していられるが、関係の遠い調への転調が起きると不安に陥ってしまうのだ。
二つの調を行ったり来たりする曲というのはあるが、二つの調が併存する曲というのはあり得るだろうか。チャールズ・アイヴズをはじめとするモダニストたちは、二つのオーケストラに同時に演奏させるなど、様々な実験を行ったが、二つの調の併存についてもやはり実際に試している。中でも特に有名なのは、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』の第二場である。ハ長調の長三和音と嬰へ長調の長三和音が同時にアルペジオで演奏され、重ねられる(図6・28)。この和音は「ペトルーシュカ和音」と呼ばれている。この和音があるために、この部分は歪んだ感じに聞こえる。普通に言う「不協和音」とは違う。個々の和音はどちらも協和音だからだ。しかし、それでも聴き手の神経をいら立たせるような効果を生んでおり、主人公の人形「ペトルーシュカ」のギクシャクした動きとも合っている。
メロディ、和音の関係を幾何学図形で表現する
すでに見てきたとおり、クラムハンスルは、和音や調の聴覚上の関係をわかりやすく図示することに成功した。ただ、その図は完全に正確なものとは言えない。本来、多次元的なはずの関係を、二次元の図に無理にまとめてあるからだ。そのため、どうしても不正確なところはある。プリンストン大学の音楽学者、ディミトリ・ティモチコは、さらに正確な図示を試みた。音楽理論だけでなく、数学をも駆使して、和音や調の関係をすべて、あますことなく図に表現しようとしたのだ。だが、調べれば調べるほど、関係の複雑さが明らかになり、次元を増やしても完璧な図示は非常に難しいということがわかってきた。
ティモチコによれば、たとえば本質的に同じ和音であっても、五種類の操作によって違ったものに見えるという。五種類の操作の中には、オクターヴの移動、音の順序の並べ替え(和音の転回はその一つ)、重複の排除(「ドミソミ」という和音があったら、「ドミソ」に高い「ミ」が加えられているとみなす)などが含まれる。こうした操作は、単独で行われるだけでなく、複数が組み合わされることもある。そのため、合計すれば、同じ和音に三二通りの「変形バージョン」が作れることになる。/このように変形バージョンを考慮に入れると、把握すべきメロディ、和音の数は大幅に減る。もちろん、個々の間の関係が非常に複雑であることに変わりはないが、論理的な解析はかなり容易になる。第一、感覚的にもわかりやすい。メロディや和音の間の関係を図示しようとすれば、変形バージョンを含めて実質的に同一と思われるメロディや和音をまとめて一つの図形で表す、ということができるだろう。個々のバージョンが、その図形を構成する点の一つ一つになるということだ。たとえば、そのグループ全体を円錐で表すとしたら、個々のバージョンは円錐を構成する一つ一つの点になる。長三和音のグループを表す円錐は、色々な形の長三和音に対応する点が集まって作られる。その他、いずれかの音を半音上げた「増和音」のグループなども、やはり色々な形の増和音に対応する点から成る図形として表現できる。
第7章 コン・モート:リズムとは何か
読者が今まで一度もジャズという音楽を聴いたことがないとする(本当に聴いたことがない、という人は、一度、聴いてみてから、この先を読んで欲しい。おそらく、自分が大変な損をしていたことに気づくはずである)。そして、ジャズのリズムについて、実際にジャズを聴かずに、文章と楽譜だけで学ばなくてはならないとしよう。果たしてそんなことが可能だろうか。「音楽のことを文章で説明するのは、建築のことを踊りで説明するのに似ている」エルヴィス・コステロはそんなことを言っている。これは少し大げさな言い方かもしれない。しかし、リズムに関しては、確かに彼の言うとおりだろう。/「そもそもそんなことを考えること自体、バカげている」そう思う人もいるに違いない。だが、ストラヴインスキーは実際に、そのバカげたことを試みたのだ。『兵士の物語』(一九一八)の作曲をしたときのことだ。ストラヴィンスキーは、第一次世界大戦勃発とともにスイスに亡命していた。当時、ジャズはまだヨーロッパではあまり知られていなかった。ストラヴィンスキーは、この斬新で刺激的な音楽のことは噂には聞いていたが、今のようにちょっとユーチューブで聴いてみるということもできない。彼の手元にあったのは、楽譜だけだ。友人のエルネスト・アンセルメ(指揮者。ローザンヌでの『兵士の物語』の初演でも指揮を務めた)がアメリカへの演奏旅行から持ち帰ったものだ。ストラヴィンスキーは、その楽譜だけを頼りに、ジャズがどんな音楽なのかを想像した。
こうして私たちの身体を動かしてしまう。これがリズムの持つ力だ。リズムには一体なぜ、こんな力があるのだろうか。誰もが、何の知識もなしに理解できるほど簡単なのに、なぜ、楽譜に書くのは難しいのか。そもそもリズムとは何なのだろうか。
拍子とは
リズムのない曲、あるいはリズムが感じられない曲というのは、やはり少数派である。世界中に存在する音楽の大半にはリズムがあり、ほぼ一定の拍子に合わせて演奏されるのが普通である。たとえば、オーストラリアのアボリジニは、規則正しく、棒やブーメランを打ち鳴らしながら、あるいは手拍子を鳴らしながら歌う(図7・1)。ただ、リズムというのは打楽器だけのものではない。打楽器が入らなければリズムがない、というわけでもないのだ。リズムは誰にとっても馴染み深いものだが、「リズムとは何か」を改めて定義しようとすると驚くほど難しい。リズムを拍子や拍と混同している人も多い。「拍」とは、厳密には、音楽を等間隔に分割する単位のことである。そして、「拍子」とは、拍の連なりのことである。音楽を構成する音の長さや、鳴らすタイミングは、必ずしも拍と一致するわけではない。拍とタイミングが一致する音もあれば、拍とはタイミングがずれる音、あるいは、複数の拍をまたぐ音もある。
日常の会話では、「リズム」、「拍子」という二つの言葉を混同して使うことも多い。しかし、ここでは、リズムや拍などを人間がどう認識し、様々な音楽でどのように使われているかを詳細に見ていきたいので、両者を厳密に区別して使うことにする。そうしなければ、話がわからなくなってしまうからだ。
西洋の音楽家にとって、二拍子や四拍子、あるいは三拍子以外のリズムは易しいものではない。まれにデイヴ・ブルーベックのように「変拍子」に挑戦する人はいるが、『トルコ風ブルー・ロンド』(八分の九拍子)などの曲を聴いても、かなり無理をして「頑張っている」という印象になってしまう。途中で変拍子をやめてしまう曲も多い。『トルコ風ブルー・ロンド』やピンク・フロイドの『マネー』(四分の七拍子)も即興演奏の部分では四分の四拍子に変わる。即興演奏まで変拍子というのは、やはり無理があるのだろう。
リズムの非対称性
リズムにとって重要なのは、アクセントの強弱と、音の長短である。つまり、すべてが均一でないこと、「非対称」であることが大切なのだ。それによって音楽が単調なものにならずに済む。これは音楽だけでなく言語でも同じである。私たちは言葉を話すとき、音節を一つ一つ均一に発音したりはしない。強く言うところ、弱く言うところ、そして、長く伸ばすところ、ほとんど発音しないくらい短くしてしまうところなどができる。すべての音節を同じ強さ、長さで発音すると、まるでロボットが話しているような感じになる。
あえてリズムをわかりにくくする
音楽を作る側の人間は、普通、聴き手に曲のリズムパターンを正確に認識してもらいたいと望む。そのため、認識の助けとなるような要素を曲に盛り込むことになる。リズムを認識する手がかりになりやすいのは、「強拍(アクセントが置かれる拍。たとえば強弱格なら、まず強拍、次に弱拍というパターンになる)」である。強拍を確実に認識してもらうためには、強拍の音をできるだけ明確で聴き取りやすいものにする必要がある。そのため、強拍が短い音符に分割されることは少ない。また、休符になることも少ない。前の拍から音が長く伸ばされるということもあまりない。拍子記号や小節線を使うことをやめてしまったエリック・サティですら、拍を無視するような曲作りをしていたわけではない。
リズムパターンは、ごく短時間で無意識に認識されるからだ。そのため、パターンの乱れも聴き手は素早く察知する。人間には、パターンを見つけ出す素晴らしい能力があるが、その能力を逆手に取って聴き手を翻弄するということもできるのだ。パターンを知る手がかりを同時に複数提示するというのもその一つの方法だ。互いに矛盾するような手がかりが同時に提示されると、聴き手の注意力は研ぎ澄まされる。うまくやれば、曲が刺激的で活き活きしたものになるということだ。
レッド・ツェッペリンの『俺の罪』のような例もある。この曲は、オクターヴの音程変化が変則的な位置に入っているために、拍を正しく認識するのが難しくなっている(図7・14a)。レッド・ツェッペリンには『ブラック・ドッグ』のような例もある。この曲のリフは複雑に聞こえるが、実際にはそうでもない。ただ、フレーズの開始位置を半拍ずらしてあるだけである。ドラムが普通に一定の拍を刻んでいる上で、半拍ずれた演奏をしているために込み入って聞こえるのだ。これは、混同しやすい、「拍」と「リズム」の違いがよくわかる例だと言えるだろう(図7・14b)。ベーシストのジョン・ポール・ジョーンズによれば、この曲のリズムはかなり意図的にわかりにくくしてあるらしい。
生まれつきの能力
ここで重要なことは、人間が繰り返し同じパターンで音を出せること(繰り返し同じパターンの動きができること)ではない。それだけならば同じことのできる動物は多くいる。大事なのは、人間には、耳で聴いた音のパターンに合わせて身体を動かす能力があるということである。いわゆる「リズムに乗る」ということができるのだ。私たちはつい、この能力を、原始的なもの、本能的なものと考えがちだ。だが、興味深いことに、高等生物の中に同じような能力を持つものはほとんどいない。
私たちの先祖が音楽というものを生み出せたのは、リズムの感覚を持っていたからであることは間違いない。しかし、リズムの感覚自体は、音楽とはまったく無関係に進化した可能性が高いのである。
第8章 ピッツィカート:音色
オーケストラでロックを演奏するのは、肉が食べたい人にベジタリアン向けの料理を出しているようなものではないだろうか。どんなに料理が上手な人でも、その料理の主役の食材を使うことを禁じられたらどうすることもできない。たとえば、『紫のけむり』を木琴で演奏しろと言われるのは、それと同じようなことだ。
第8章では、この「音色」がテーマになるが、この章は比較的、短くなっている。なぜ知いかというと、音化というものについての研究がまだあまり進んでいないからだ。音楽の主要な属性の中でも、おそらく取ち研究が進んでいないものだろう。研究が進んでいないのは、音色の重要性が他の展性に比べて低いからではない。研究しようにも、あまりにとらえどころがないからである。
音色の不思議なところは、その正体が何なのかがよくわからず、明確に定義すらできないにもかかわらず、その微妙な違いを私たちが驚くほど敏感に察知できるということだ。従来、音色は、その音の倍音構成によって決まると説明されることが多かった。だが、その説明はどうも怪しい。たとえば、小さな安物のラジオから流れてくる音の場合、元の音の倍音成分はかなりの割合で失われているはずだ。しかし、私たちはそれでも、サクソフォンの音とトランペットの音を瞬時に聞き分けることができる。一体、なぜなのだろうか。
楽器の特性
すでに書いたとおり、楽器の音にはいくつもの倍音が含まれる。基本になる周波数(基音)以外に、その整数倍の周波数が多数含まれ、複雑な構造になっているのだ。この倍音の集合を「倍音列」と呼ぶこともある。倍音列の中でどの倍音が強く、どの倍音が弱いかは、楽器の種類によって異なる。 同じ種類の楽器であっても一つ一つ微妙に違っている。音色の違いの一部は、確かにその違いによって説明できる。たとえば、クラリネットの音色は少し鋭い感じに聞こえるが、これは、奇数次倍音が強いことと関係がある(図8・1)。第三倍音、第五倍音などが強いということだ。トランペットのように、きらびやかな音色の楽器の場合は、高次の倍音が豊かである。ヴァイオリンの音色は、弓の使い方でかなり変化する。弓をどう使うかで、倍音構成が変わるからだ。同じように、ピアノも、鍵盤を叩く強さを変えることで、音色を変えることができる。
倍音構成は始めから終わりまで同じではなく、時間の経過とともに変化することもあり、それも音色に大きな影響を与える。特に音色に影響するのは、音の立ち上がり、「アタック」と呼ばれる部分である。始めの何分の一秒かの間に、どのくらいの速度で音が大きくなるかが重要ということだ。試しに、楽器の音を録音して、アタックの部分を取り去ってしまったら、どれがどの楽器の音なのかほとんどわからなくなるはずだ。ピアノの音を録音して逆回転再生すると、まったくピアノには聞こえなくなる。倍音構成が変わらなくても、音色はまるで違って聞こえるのだ。/つまり、音色は、その音が常に変わらず持っている特性だけによって決まるのではないということだ。
ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーなど、ロシアの一九世紀後半から二〇世紀前半の作曲家たちは皆、音色を操る名人と呼ぶにふさわしい人たちだった。常にその時々に応じた的確な音色を選ぶことができ、またいくつもの音色を組み合わせて新鮮な音色を作り出すことができた。
音色の構成要素
音楽学者、ジョン・グレイは一九七〇年代に「音色は主に三つの要素によって決まる」という説を主張した。つまり、音程と大きさが同じにもかかわらず音が違って聞こえる場合、そこには三つの要素が関与するというのだ。三つの要素を簡単にまとめれば、「音の明るさ(高次の倍音の強さ)」、「アタック(音の立ち上がりの速さ)」、「音量の経時間変化(音がどのくらい持続するか、またどのように減衰するか)」となる。
今のところ、誰もが賛成する見解というのは存在しない。
幻影楽器
倍音を人為的に複数組み合わせて新たな音色を作り出すということは、電子楽器が生まれる前からすでに行われていた。モーツァルトやハイドンなどの古典派時代には、フルートにヴァイオリンと同じメロディを吹かせるという技法がよく用いられた。これは、ヴァイオリンには少ない高次の倍音を加えることで、音色をきらびやかにするためだ。さらに後の時代、特にベルリオーズ以降の作曲家たちは、同様の原理をさらに広く応用し、いくつもの楽器を様々に組み合わせて多彩な音色を作り出した。個々の楽器が元々持っている音色をそのまま使うのではなく、個々の楽器を新たな音色を作るための素材として使うようになったのだ。楽器の標準化が進み、同じ名前の楽器であれば、どれでもほぼ同じ特性を持つようになると、さらにその傾向は強まった。オーケストラを全体として一つの「シンセサイザー」のように使うことが増えたのだ。ピエール・ブーレーズは、そんなオーケストラを「幻影楽器」と呼んだ。
同じメロディを演奏するのでも、短い間隔で次々に音色が変わっていくと、揺らめく光を見ているのに少し近い印象になる。メロディを細かく区切って、次々に楽器を変えて演奏していく技法(「ホケット」と呼ばれる。ラテン語でしゃっくりを意味する“ochetus”が語源と思われる)自体は古くからあるので、シェーンベルクらが使った技法はその発展と考えていいだろう。ホケットは一三世紀頃から使われており、ベートーヴェンも、後期の弦楽四重奏曲の何曲かで使っている。また、インドネシアやアフリカの音楽では、この手法がより頻繁に、さらに洗練されたかたちで使用されている。
西洋音楽において、音色が表現の一要素として確固たる地位を得たのは、二〇世紀に入ってからだという意見もある。バロック時代、古典派時代において、作曲家のスタイルは、音色ではなく、主にメロディやリズムによって決まるのが普通だった。しかし、ベルリオーズ以降、特にドビュッシー以降は、メロデイやリズムなどとともに、音色が作曲家の「トレードマーク」のようにとらえられるようになってきた。
ピート・タウンゼントが風車のように腕を回してギターを弾き、Eコードを奏でれば、それは他の誰のEコードとも違ったものになるのだ。その音楽的価値は、ワーグナーの有名な「トリスタン 和音」に勝るとも劣らないものだろう。新たな音色を追究し、積極的に実験をしていく姿勢は、ソニック・ユースやミニストリーなど、さらに後のロックミュージシャンたちにも受け継がれている。
第9章 ミステリオーソ:音楽を聴くと、脳はどう活動するのか
「モーツァルトで頭が良くなる」と言われれば、レコード会社がそれを商機と見て飛びついても不思議はない。ただ、問題は、モーツァルト効果が本当に存在するという証拠がどこにもないということだ。音楽と知性の関連についての研究要請があまりに多かったため、やむを得ず本格的な調査を実施したドイツ教育省は、「モーツァルト効果は存在しない」と結論づけている。モーツァルト効果が一般に知られるようになったきっかけは、一九九三年に『ネイチャー』に掲載された短い論文である。ただし、この論文では、直接的に「モーツァルトを聴くと子供の頭が良くなる」ということを言ったわけではない。そもそも、モーツァルトで知能が発達することを証明しようとした研究でもなかったのだ。
おおざっぱな言い方をすれば、音楽を聴く際には、脳のあらゆる部位が一斉に活動しているようにも見える。身体の動きを制御する運動中枢や、脳の中でも原始的な部位である感情中枢、言語の文法や意味の情報を処理する言語モジュールなどが同時に機能し、そして当然、聴覚経路もはたらく。同じく耳を使うにもかかわらず、音楽の場合は、言語とは違い、少数の専用の回路があって、そこで処理が行われるというわけではない。音楽を聴くというのは、脳全体で行う活動であると言ってもいい。そのため、音楽が脳でどう処理されているかを知るのは容易なことではない。また、同時に、この事実は、音楽が人間にとっていかに重要なものであるかを示していると言える。脳内のこれほど多くの部位が同時に処理に関わるものは、音楽以外には見当たらない。部位間の相互作用も、音楽を聴く際には、他の場合には見られないほど活発になる。一般に論理を扱うとされる左脳と、感情を扱うとされる右脳の間の連絡も盛んに起こる。音楽が子供の認知能力の発達、社会への適応などに大きく影響を与えることは間違いないだろう。それは、モーツァルト効果の実在を証明しなくてもわかることだ。おそらく「音楽を聴くと頭が良くなる」というような単純な話ではないだろうが、これだけ脳が活発にはたらいて影響がないと考える方が難しい。きっと音楽は、脳にとってスポーツのようなものなのだ。
灰白質の旅
モントリオール大学の神経科学者、イザベル・ペレツらの研究によれば、曲全体のメロディを一つのものとして理解することには右脳が関与し、個々の音程について詳しく理解することには左脳が関与しているという。音程に関する情報の処理は、音楽の認知において、特に重要な位置を占めていると言っていいだろう。リズムや音の長さといった情報も重要だが、その情報は、メロディにとって重要な音程とそうでない音程を知る手がかりに利用されることも多い。個々の音程の重要度がわかれば、メロディやハーモニーがどう変化するかを予測することもできる。曲全体のメロディを一つのものとして理解する右脳のはたらきは、言語の処理における「ブローカ野」のはたらきに類似している(ただし、ブローカ野は左脳に位置する)。連続して聞こえてくる音程をばらばらに処理するのではなく、全体における個々の意味を理解してつなぎ合わせ、複数をまとめて処理するのだ。
人間は音楽を聴いたとき、それをただ認知するだけではない。音楽は、人間の身体にいくつもの生理学的反応を引き起こす。たとえば、音楽を聴くと、免疫系のはたらきもその影響を受ける。微生物感染と闘うタンパク質(抗体)を増やすなどの変化をもたらすのだ。また、音楽を聴いたり、演奏したりすると、コルチゾールなど、気分に影響を与えるホルモンが作られることもわかっている。この事実を考えると、いわゆる「音楽療法」には、十分な生化学的根拠があるということになる。
障害による研究
自分のことを音物だと思っている人のほとんどは、真性の音痴ではない。大半の人は、脳の音程や音程差の認知機能に障害があるわけではないのだ。カナダの心理学者がクイーンズ大学の学生を対象に実施した調査によれば、サンプルとして選ばれた学生の一七パーセントが、自分のことを音痴だと思っているという結果が得られた。だが、彼らを対象に音楽の認知能力のテストをしたところ、結果は自分を音痴でないと考える人たちと何ら変わらなかった。自分に音楽の才能がないと思っている人の大半は、それまで自分で音楽を演奏したり歌ったりする機会の少なかった人である。
脳内に専用の部位が見つかっていないことからすると、音楽に進化上の意味はなく、他の目的のために進化した能力が偶然、音楽にも使えているだけと考えるのが妥当にも思える。だが、そう考えると説明できないこともある。たとえば、自閉症の人に時折、素晴らしい音楽的才能が見られるという事実である。音楽に使われるのが汎用の認知機能ばかりだとすると、自閉症の人は不利なはずだ。これのみで音楽に何か進化上の意味がある、と言うことはできないが、奇妙であることに違いはない。
音楽は頭の栄養?
音楽家、特に、だいたい七歳以前の幼い時期から音楽教育を受けた音楽家の脳を調べると、普通の人よりも脳梁が大きくなっていることが多い。脳梁は、左脳、右脳を連結し、両者を統合する役割を果たす部位である。神経科学者のクリスチャン・ガゼル、ゴットフリート・シュラウクは、音楽家(特に、ピアニストなど、鍵盤楽器を演奏する人たち)と一般の人の脳の機能を比較し、いくつもの違いがあることを発見した。音楽家は一般の人に比べ、運動、聴覚、視覚、空間把握などの能力が発達していたのである。手を使って楽器を演奏する人の場合、脳内の手に対応する部位が通常より発達していることもわかった。
どうやら、音楽を聴くと、一時的にわずかながら認知能力が向上するということはあるらしい。だが、それは音楽そのものに、能力を向上させる力が宿っているからではなさそうだ。あくまで、音楽を聴くことで気分が良くなるということが重要なのだ。明るい気分で、覚醒レベルが高ければ認知能力もそれだけ向上する。心理学の世界では古くから知られていたことである。興味を惹かれるような刺激、心地良い刺激があれば、覚醒レベルは上がるだろうし、気分も明るくなるはずである。何もモーツァルトの音楽に、子供の頭を良くするような魔法の力があるわけではない。
第10章 アパッショナート:音楽はなぜ人を感動させるのか
音楽に対する反応が具体的にどういうものになるかは、文化や歴史的経緯によって変わってくる。しかし、音楽に私たちの心を動かす力があるということは間違いなく世界共通だろう。トルストイは「音楽と感情は表裏一体である」と言っている。これは、音楽の持つ力を認め、その力を称賛する意味で発せられた言葉だろう。だが、五世紀に生きた聖アウグスティヌスは、人間の心を動かさずにはおかない音楽の力に不安を感じた。彼自身は音楽を愛していたが、聖歌を歌う礼拝者たちが、歌の内容ではなく、歌そのものに心を動かされているのではないか、と疑い気に病んでいたのだ。中世の聖職者たちも、音楽には神への肩仰心を高める力と同時に、人間の欲望、渇望を煽る力があることに気づき、やはり不安に思っていた。
まず音楽で重要なのは、「目に見えない」という点である。そして一瞬で消えてしまうという点も重要である。ささやくような静かな音楽だろうと、大音響輩く派手な音楽だろうと、すぐに消えてしまうという点では同じだ。さらに、音楽が絵や文章と決定的に違うのは、この世界に存在する他の何物とも関係がないということである。作曲者の意図として、「何かを表現した」ということになっている音楽は確かにあるが、絵や文章のように、誰が見ても何を表現しているかが明らかにわかるということはない。
音楽と感情の間の関係が科学的に解明されることはないだろうというハンスリックの考えは、ある意味で正しいのだろう。とはいえ、まったく何もかもわからないままということでもない。音楽が感情にもたらす影響に何らかの法則性があるというのもおそらく確かである。その法則性の一部は綿密な調査をすれは明らかにできるはずだ。ただ、法則がわかったところで作曲家や演奏家がそれを肩じるかどうかは別問題である。
音楽が感情を生む仕組み
実際、私たちは音楽を聴くと、多くの場合、何らかの感情が表現されているように思う。たとえ自分が同じ感情を持つことがなくても、音楽が表現している感情は感じ取るのだ。ヒンデミットによれば、音楽は感情を引き起こすわけでなく、感情の「写し絵」のようなものを私たちに伝えるということになる。そして、感情の記憶を呼び覚ます。哲学者、ピーター・キヴィもそれとほぼ同様の意見である。キヴィによれば、私たちは音楽が伝える感情は認識するが、同じ感情を必ずしも抱くわけではないということになる。
聴いて喜びを感じられるかどうかには、その曲の「美しさ」など他の属性も大きく影響する。音楽では、怒りや絶望、嫌悪など、あらゆる不快な感情が表現されるが、それでも私たちが聴こうと思うのは、たとえ不快な感情が表現されていても、聴けば喜びが感じられるからだ。それはたとえば、バルトークの「中国の不思議な役人』、ムソルグスキーの『展覧会の絵』の中の「小人」、ストラヴィンスキーの「放蕩者のなりゆき」第三幕第二場、教会墓地の場面への前奏曲などに言えることである。どれも意図的にグロテスクで不快なものを表現するよう作られているが、そこに「美」が感じられるからこそ多くの人が聴くのだ。
問題なのは、音楽によって引き起こされる感情は、「喜び」や「悲しみ」といった典型的なものばかりではないということである。むしろ、そういう簡単な言葉では言い表せない微妙な感情が多い。たとえば、音楽を聴いて「寒気がした」、「鳥肌が立った」といったことを言う人がいるが、これは必ずしも嫌な気分になっているわけではない。正負どちらともつかない感情の表れである。私はよくバッハの音楽を聴くと涙が出てくるが、これは嬉しいからでも悲しいからでもない(この種の感情については、またあとで詳しく述べる)。またスティーヴ・ライヒの音楽を聴くとリラックスすると同時に、張り詰めた気分にもなる。これは決して曖味な感情ではなく、非常に明瞭な感情なのだが、一言では表現ができないのだ。
音楽は共通言語か?
私は『平均律クラヴイーア曲集』をこれまで何度も聴いてきたが、ある時、どこかで「第一巻の前奏曲へ短調が特に美しい」という記述を読んだ。その後、改めて同じ曲を(もちろん、特別に耳を澄まして)聴いてみると、間もなくひとりでに涙があふれてきた。神経科学者のイザベル・ペレツは「音楽に対する感情は、本人の意識や意思とは無関係に起こるものなのではないか、と私は直感している」と言ったが、どうやら彼女は正しかったようだ。まさにこれこそが解明すべき謎なのではないかと思う。
音楽は、ごく基本的な感情であれば、あらゆる国の人に伝えることができる「共通言語」のようなものと言ってもいいのだろうか。パトリック・ジュスリン、ペトリ・ロッカによれば、人間は、たとえ異文化の音楽であろうと、その中で表現されているのが基本的な感情ならばかなりの程度まで認識することができるようだ。西洋人に、キルギスタンやインド、あるいはナヴァホ族など異文化の音楽を聴かせ、それが喜びと悲しみのどちらを表現したものかを尋ねると、ほぼ正しく答えられることがわかっている。同様に、カメルーンの奥地に暮らすマファ族の人たち(西洋音楽には一度も触れたことのない人たち)に西洋音楽を聴かせ、「喜び」、「悲しみ」、「怖れ」のうちのどれを表現しているかを答えてもらうという実験でも、偶然より明らかに高い確率で正解できるという結果が得られている。この時、主な手がかりとなるのは、テンポのようである。喜びを表現した音楽の方が、悲しみを表現したものよりテンポが速くなるのだ。
音楽に生命を吹き込む
表現力の鍵となるのは、あえて一言にまとめれば「逸脱」である。音楽心理学の先駆者、カール・シーショアは次のように言っている。/> 音楽における表現の源泉は、声楽においても、器楽においても、純粋さ、忠実さ、正確さ、完璧さ、厳密さ、均一さ、精密さなどからの逸脱にある。その逸脱から無限の表現が生まれるのである。それこそが、美を創造し、感情を伝える媒体だと言ってもいい。
西洋音楽の作曲家の中でも、そのことに最も早く気づいたのはおそらくバルトークだろう。バルトークは、自らが生まれたハンガリーとその周辺地域の伝統音楽に強い関心を寄せ、謙虚な態度で接していた。
演奏家が既成の曲に独自の表現を加えるために使える手段は、音程を揺らすことだけではない。同じ音を演奏するのでも、人によって微妙にタイミングや強弱が違うし、時にはメロディ、フレーズにわずかな変更を加えることもある。そうしたことすべてが、聴き手に与える印象を変えるのだ。加え得る変更には、いわば無限の可能性があるのだが、その時々にどういう変更をどの程度加えればいいかを的確に感じ取れるのは、感受性の鋭い演奏家だけである(訓練を積んだからといって必ずそうなれるとは限らない)。
緊張度の評価
メイヤーの説に従うならば、良い音楽とは、「聴き手の予測通りになりすぎず、また予測を裏切りすぎないもの」ということになるだろう。つまり、聴き手にとって「易しすぎず、難しすぎないパズル」のようなものであればいい、ということだ。あっさりすぐには解けないけれど、解けることは間違いない、そうどきるものなら理想なのだ。確かにこの説明は感覚的に納得しやすい。また、音楽と感情の動きの関係について、これまでに知られている様々な事実とも合致するようである。だが、果たしてメイヤーの説明は本当に正しいのだろうか。/メイヤーの言うことが多少なりとも真実を突いていると信じるに足る証拠は、いくつも見つかっている。たとえば、曲には、大抵の場合、「ホットスポット」とでも言うべき箇所、聴き手が特に強く感情を動かされる箇所というのがある。そういう箇所について調べてみると、聴き手の側の予測が感情の動きに大きく関わっている場合が多いのだ。
音楽に対する人間の予測に関するナームアの理論は非常に複雑で、簡単にはなかなか説明しづらいが、音楽学者、グレン・シェレンベルクによれば、大きく二つのことに要約できるという。まず一つは、人間は急な音程変化をあまり予測しないということ。次に聞こえる音程も、今、聞こえているものに近いはず、と無意識のうちに思うわけだ。そして、もう一つは、仮に急激な音程変化が起きた場合は、その「揺り戻し」の動きを予測するということ(すでに書いたとおり、統計的に見て「揺り戻し」が起きるのは当然とも言える。急激に音程変化をしてしまうと、その後に使える音には必然的に逆方向のものが多くなるからだ。一七〇ページ参照)。ナームアが主張していることでもう一つ重要なのは、私たちが音楽に「終了感」を求めているということである。つまり、どんな音楽にしろ、聴き始めれば、どこかで「ああ終わった」という感じがすることを予期しているというわけだ。その感じを起こさせるものが、カデンツであり、強拍に置かれた主音である。また、リズムの変化によって終了感を得ることもある。
私たちが音楽を聴くときには、無意識のうちに、細部の小さな構成要素をいくつかひとまとめにして少し大きな構成要素とし、その少し大きな構成要素をいくつかまとめて、さらに大きな構成要素にする、というようなとらえ方をしているということである。言い換えれば、音楽を「階層的」にとらえているということになる。たとえば、フレーズがいくつか集まってヴァースやコーラスが構成され、また、ヴァースやコーラスが集まって曲が構成される、という認識である。音楽をきながら、「この曲はどういう構成になっているか」、「個々の構成要素はどういう構造になっているか」といったことを逐一予測しているのだ。一つの曲を色々な倍率で観察し、個々のレベルで展開を予測していると言ってもいいだろう。/もし、本当にそうだとすれば、階層ごとに「緊張と緩和」があるということになる。予測を裏切られれは緊張し、予測のとおりになれば緩和するということが、いくつもの階層で起きるわけだ。
「予測と裏切り」は本当に大事か
スロボダによれば、音楽による「予測の裏切り」には一〇通りのパターンがあるということになる。ただ、もしその一〇通りのうちのどれか一つにでも当てはまればいいということになれば、当てはまらない箇所の方が少ないことになるだろう。そのことはスロボダ自身も認めている。つまり、感情が動いた原因を予測の裏切りに求めたとしても、それではほとんど何も言っていないに等しいというわけだ。聴き手が曲のどの箇所に感動したとしても、当てずっぽうに「予測が裏切られたからだ」と説明すればいいことになってしまう。
以上のように、音楽と感情の関係を、予測や裏切りで説明する理論には、まだ大いに検討の余地がある。何より大事なことは、この理論では、「なぜ音楽は楽しいのか」という根本的な問いにはまったく答えることができないということだ。ただ、残念ながら、その問いにまともに答えるような理論は今のところどこにも存在しない。ひとまずこれ以上、深く追求するのはやめておこう。私たちが音楽に対して抱く感情には、音色や、その音楽の持つ全体的な質感とでも言うべきものが影響しているのは確かだろう。
芸術に関して何か理論ができると、「はじめに理論ありき」という状態に陥りやすい。理論に合わない作品を「良くないもの」とみなす人が現れるのだ。実際、ハインリヒ・シェンカーは、自身の考えた「音楽学的分析」の理論(五四九ページ参照)に合わない音楽を低く評価した。それと同様にメイヤーも、聴き手に先の展開を予測させる力に欠けるとして、ミニマリストの音楽やポピュラー音楽を批判した。
残される謎
音楽の認知研究が現在、行き詰まっている最大の原因は、音楽に対して人間が持つ感情を基本的に二種類に限定してしまっていることではないだろうか。基本的には肯定的な感情と否定的な感情の二種類だけで、ただ、その両極端の間を揺れ動いているだけ、という見方である。音楽に対して私たちが持つ感情は、総じて言えば、肯定的なもののはずである。それは当然のことだ。私たちは、音楽を聴いて楽しんでいるからだ(楽しいからこそ聴く、とも言える)。その楽しみの中には、確かに「自分の予測したとおりに曲が展開した」ということによる満足感もかなり含まれているだろう。しかし、それだけではないはずだ。単に音の与える感覚刺が心地よいというときもあるに違いない。その音自体は、音楽的に喜びも悲しみも表現していない中立的なものであったとしても、ただ心地よいがために肯定的な感情を生むことはあり得る。それは、ちょうど花火を見ると楽しい気分になるというのに似ている。見ること、聴くこと自体が楽しいということはあるのだ。
「悲しい音楽」や「怒りに満ちた音楽」というのはあるが、私たちはそういう音楽を聴いて、日常生活と同じ意味で悲しんだり、怒ったりするわけではない。それは考えてみれば不思議なことだが、音楽によって生じる感情が、先に述べたような言葉で表現しにくい類のものだとすれば、その謎が少しは解けるだろう。キヴィはそう主張する。音楽によって感じる「悲しみ」は、実は、「悲しみについて深く考えること」に近いのだ。キヴィによれば、たとえ悲しみが表現されている音楽であっても、それを聴いて私たちが抱く感情は、高揚感や喜びに近いものであるという。
哲学者のスティーヴン・デイヴィスもキヴィとほぼ同意見である。音楽によって感情を喚起される場合、その感情に結びつく事象や、感情の原因となる出来事などは存在しない。そのため、私たちはその感情に対し何ら行動をする必要はなく、ただ、ひたすら感情に浸ることができるのだ。もし、悲しみの原因となる出来事が存在したとしたら、「あんなことが起きなければよかったのに」という悔恨に苛まれるかもしれないが、音楽による悲しみにはそれがない。具体的に何か問題が起きているわけではないので、それを解決しなくてよいし、解決できない焦りもないのだ。
キヴィの見解を、先述の「音楽は聴覚のチーズケーキ」という考え方に近いものととらえ、反発する人もいるかもしれない。キヴィの言うとおりだとすれば、音楽を聴くことは「音のマッサージ」を受けるようなものというふうにもとれるからだ。音楽を聴くことで快感が得られるのは確かである。しかし、それは、砂糖や脂肪を摂取することによる満足感や、熱い風呂に浸かったときの快感とは種類の違うものである(それと重なる部分もあるが、少なくともそれだけではない)。そこには生きる喜びや、他者とつながる喜びが含まれている。そして、他者の偉大な能力が生み出したものに触れることによる驚異の念も含まれているのだ。
第11章 カプリッチョーソ:音楽のジャンルとは何か
なぜ、音楽にはジャンルの違いがあるのか、これは実に不思議なことである。この本では、調性、メロディにおける音程変化パターン、和音進行、あるいは「予測と裏切り」、音楽と感情の関係、といったことについてあれこれと書いてきたが、たとえそのすべてを理解したとしても、音楽にジャンルがある理由を説明することはできないだろう。第一、ジャンルが違っても、使う音階や音程変化のパターンはそう違わないことも多いのだ。それなのに、聴いてみると違うということはわかる。それが不思議なのである。ビバップは大好きだが、ベルリオーズは大嫌いだという人がいる。パリのカフェ音楽なら好きだけど、京劇は一切受けつけないという人もいるに違いない。私自身もそうだ。私にもやはり、どうしても好きになれないジャンルというのがある。いくら聴いても何が良いのかわからないのだ。その感じは、きっとほとんどの読者にわかってもらえるだろうと思う。
違いを知る手がかり
音楽家の中には、「音の署名」とでも言うべき、その人を象徴するような特徴を持っている人もいる。たとえば、セロニアス・モンクなら、それはパーカッシブなトーン・クラスターである。ビーチ・ボーイズなら、他に類を見ないほどの豊かなハーモニーだろう。ドビュッシーなら、全音音階や、七度、九度の和音の平行移動などがそれにあたる。そうした音の署名が特徴と感じられる理由はどこにあるのだろうか。メロディやリズム、ハーモニー、音色といった音楽の構成要素がどのように他と違えば私たちは「特徴的」と感じるのだろう。音楽家は、数多くの選択肢の中から自分の音楽の構成要素を選び取っているのだが、具体的にどういう選択をすれば、スタイルやジャンルの違いが生じるというのか。
作曲とは「音の配列を見つけ出す作業」であるという考え方がある。認知音楽学と呼ばれる学問などでもそういう認識のようだ。音程をどのように組み合わせ、どのように並べれば美しく、心地よくなるかを探る、それが作曲だという考え方である。だが、それはまったく事実とは異なるだろう。優れた音楽を作るのに、必ずしも美しいメロディは必要ないからだ。バッハは、平凡で陳腐なメロディを素材に素晴らしい曲をいくつも創り出した。フーガなどの技法を駆使することで、一つ一つは退屈なメロディを基に驚くほど美しい作品を生み出したのだ。
スタンフォード大学でコミュニケーション学を研究していたウィリアム・ペイズリーは、同じ方法が音楽にも応用できるのではないかと考え、一九六四年に調査をしている。それぞれに違った作曲家の書いたメロディをいくつか選び出して調べたのだ。その結果、最初の四音を見ただけで、誰が作ったのかがわかる特徴がはっきり出ていることがわかった。つまり、四音だけで、たとえば、ベートーヴェンの書いた主題を、モーツァルトやハイドンのものと区別することができたということだ。
音楽とコンピュータ
コンピュータで音楽を自動生成するなど、考えただけでぞっとするという人もいるかもしれない。だが作曲を自動化しようという試みは、実は一八世紀から行われている。当時の作曲家たちが「音楽のサイコ 口遊び」と呼んでいた遊びがそれだ。あらかじめ作っておいた曲の断片を、サイコロを振り、出た目に従って並べていく。一七九二年には、ベルリンの音楽出版社、ジムロックが、この遊びで作った曲の楽譜を出版している。ジムロックはモーツァルトの楽譜を出版していた会社である。曲の作者は不明だが、モーツァルトではないかとも言われている。(…)後の時代には、このような「偶然による音楽の自動生成」にもっと真剣に取り組んだ作曲家もいた。中でも有名なのは、現代音楽作曲家、ヤニス・クセナキスだろう。クセナキスは、コンピュータによる音楽の自動生成に取り組んだ。シェーンベルクのセリエル技法も、自動生成に近い方法であると言えるだろう。シェーンベルクの後継者たちは、彼の手法を、より人間の介入を減らし、自動の部分を増やす方向に発展させた。
優れた即興演奏とは、いわゆる「手癖」や「ストックフレーズ」の組み合わせではない。知性と感覚を最大限に駆使した、音楽の世界の「探検」とでも言うべきものだろう。これもやはり、一種の作曲と言っていい。演奏している本人でさえ、一体、何をどうしているのかと尋ねられてまともに答えることはおそらくできないに違いない。もちろん、ずっと謎のままにしておくべきだと考える人も少なくないはずだ。
馴染みのない音楽
クラシック音楽と同じ基準、同じ視点でポップスやロックを評価することが妥当とは言えないことは、ロック研究家のアラン・ムーアなども主張している。それは、リゲティやシュトックハウゼンの音楽をカデンツや和音進行、リズムなどを基準に評価するのとあまり変わらないというのだ。また、これはスクルートンも言っていることだが、ある音楽ジャンルの世界がどのくらい豊かであるかは、曲の中で他人の曲、他のジャンルの曲がどのくらい引用されるかでわかる。その意味では、ロックほど豊かな音楽はないとも言えるだろう(デヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズの曲を例にとれば、それがよくわかるはずである)。ロックは他のジャンルの技法なども食欲に取り入れるし、過去の作品の引用も盛んである。その他、第6章でも触れたが、ロックという音楽を語る際には、絶対に音色や、音の質感というものを無視することはできない。それはアフリカの音楽について語る際に、絶対にリズムを無視できないのと同じことである。
一般の通念では、音楽とは、音や拍の連なりのことを指す。いくつもの音が連なり、不可分に組み合わされていて、その組み合わせそのものが作品である、ということだ。しかし、現代音楽の中には、それとは違い、まるで「音の彫刻」のようになっているものが多い。そういう音楽は、一つ一つの音を他から独立したものとして個別に聴くべきなのだ。一つ一つを質量と体積を持った物体のように受け止めるべきだ。モーツァルトやベートーヴェンの音楽とは違い、時間とともに進行していく物語のような構造にはなっていない。そうではなく、時とは無関係の存在、永遠の存在となっているのだ。音楽理論家、ジョナサン・クレイマーの言葉を借りれば、それは「垂直の時間」ということになる。出来事が因果関係によって連続的に起きていくのではなく、出来事が次々に縦に積み重なっていく、というイメージだ。この種の作曲法を模索し始めたのは、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、メシアンといったモダニストたちである。その最も極端なかたちは、ラ・モンテ・ヤングや、ヤングの師匠でもあったシュトックハウゼンの「超ミニマル音楽」だ。たとえば、ヤングの作品「コンポジション一九六〇#七』では、「完全五度の和音をずっと長く伸ばせ」という指示がなされる。シュトックハウゼンの『シュティムング』(一九六八)は、基本的には、六人の歌手が七二分間、一つの和音を歌い続けるだけだ。ただ、その間、和音の構成音の音程はゆっくりと変化していく。時間が縦に積み重なっていくという点では、ブーレーズの『構造I』、『構造 I」も共通していると言える。この曲では、音が、ほぼ無作為、不規則に使われており、大量の音が互いに無関係に現れるように聞こえる。ちょうど気体の分子が個々に無秩序に運動しているような状態だ。気体は、個々の分子がそのように無秩序に動いていても、一定以上の体積を全体として見れば、だいたい均一な状態に見える。ブーレーズの曲にも同様のことが言えるだろう。こういう曲にカデンツの出番がないのは当然のことである。垂直の時間には始まりも終わりもないのだからカデンツは必要ない。正しい聴き方さえわかれば、必ず現代音楽の真の豊かさ、素晴らしさがわかるようになるとまでは言わない。たとえば『シュティムング』は、確かに価値の高い音楽で、聴く者を瞑想に誘うような独特の魅力を持っている。 だが、人によっては聴き始めるとあくびが出たり、落ち着きがなくなったりするかもしれない。そうなると、すぐに「この音楽はつまらない」、「自分にはわからない」と思ってしまう人は多いはずだ。それもやむを得ないだろう。ともかくここで重要なことは、音楽によって磨き方を変えないと良さがわからない場合がある、ということである。
実験的な現代音楽であっても、人間の認知のはたらきを十分に知った上で、それに合うように作れば受け入れられやすいと考えられる(ブーレーズの『構造Ⅰ』、『構造Ⅱ』は、決して人間の認知を考慮したわけではなく、あくまで論理に基づいて作り上げたものである)。たとえば、いくつもの違った音色を層のように積み重ね、その組み合わせによって斬新な音色、質感が生み出されていたとしたら、しかもその音色や質感が徐々に変化していったとしたら、私たちの脳はそれを認知するだろう。音色や音の質感は、一九六〇年代のクセナキスやシュトックハウゼン、ルチアーノ・ベリオ、クシシュトフ・ペンデレツキなどの作品においては、主要な音楽の構成要素となっている(三四七ページ参照)。ジェルジュ・リゲティは、それまでに例がないような斬新な音の質感を何種類も生み出した。これは、いわば、音楽を視覚的な芸術に近づけようとした試みと言っていい。現実世界に存在する物体の質感が様々であるのと同じように、音楽を構成する音にも多様性を持たせようとしたのだ。調性音楽における転調の代わりに質感が変わると言ってもいい。リゲティは『ロンターノ』(一九六七)という曲では、色ガラスを通して差し込む太陽光線を表現している。また、「メロディーエン」(一九七一)は、不完全な無数のメロディの断片がまるで泡のような質感を生み出している。一般によく知られる音楽が流れる川のようなものだとしたら、リゲティらが作る音楽は、レンガを積み上げた建築物のようでもある。その中でも先駆的だったのがストラヴィンスキーの作品ということになるだろう。ジャクソン・ポロックは、キャンバスに絵の具やペンキを滴らせるという方法で絵を描いたが、それに似ているとも言える。初期のセリエル音楽にも似た部分がある。アントン・ヴェーベルンは、「一曲の中で、一二音階の構成音すべてを使い尽くそうとしていた」という発言をしている。
スタイルとクリシェ
一方で、逸脱もあまり行きすぎると問題である。メイヤーの言うように、さしたる意味もなく「逸脱のための逸脱」をするようになるのは、堕落と言う他はない。芸術に関わる者は、伝統的な規範がどういうもので、それを逸脱するのがどういうことかをよく知っていなくてはならない。その上で、逸脱しない範囲のことだけをするのが保守的な芸術家ということになる。反対に、真に革新的な芸術家とは、どこまでなら逸脱してよいかをよくわきまえた上で、あえて逸脱する人のことである。
問題は、「調性音楽の技法はすでに使い古され、死んだも同然」というシェーンベルクの考えがそもそも正しかったのかということだ。当時はバルトークやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ヒンデミット、オネゲルなどの絶頂期である。シェーンベルクの主張はまるで根拠のないものに思えたはずだ。 その時期にあえてこんな主張をした意味を考えるべきだろう。実を言えば、シェーンベルクの支持者たちの一部、とりわけ、社会学者、音楽評論家だったテオドール・アドルノにとって、これは単なる音楽の問題ではなかった。調性音楽体系は、彼にとってブルジョア資本主義の産物、利己主義と自己満足の象徴に他ならなかった。一九世紀の保守主義体制全体の象徴と言ってもいいだろう。保守主義体制からの解放を目指したモダニズムにとって、調性音楽は、新しいものに置き換えるべき旧時代の音楽だったわけだ。ただ、ことはそう単純ではなかった。彼らにとって保守的なはずのストラヴィンスキーも、調性音楽を作っていたとはいえ、そのあまりの斬新さから、まさにブルジョアたちの非難を浴びたのである。その事実は都合よく無視している。また、セリエル音楽自体があっという間に、かつての調性音楽でさえあり得なかったほどエリート主義的で硬直化した世界になってしまった。これはシェーンベルクにとっても予想外のことだっただろう
音楽の「好み」とは?
音楽自体の持つ特性も好みに影響することは間違いない。それに関しては、トロント大学の心理学者ダニエル・バーラインが一九六〇年代に行った調査の結果が参考になる。バーラインは、芸術作品の善し悪しの判断に、その作品の持つ定量的な特性がどの程度影響するのかを調べたのだ。「定 最的な特性」の中でも特に重要視されたのは、その作品の「情報量」である。すぐにわかるのは、情報量に関しては、一種の「トレードオフ」があるということだ。たとえば、メロディがたった二音からできている、というように、情報量があまりに少なければ、その曲は退屈であるとみなされ、高く評価される可能性は低いだろう。一方、オクターヴを構成する一二音がランダムに選択されている上、半音より細かい徹分音までが使われている、という具合に情報量があまりに多ければ、複雑すぎて理解できずに興味を失ってしまう人が多いはずである。バーラインの行った心理学的実験でわかったのも、基本的にはそういうことだ。作品の情報量(複雑さ)と、鑑賞者の持つ好感の高さの関係をグラフに表すと、逆U字型になる。単純すぎず、複雑すぎず、情報量が程よい作品が最も好まれるということだ(図11・5)。
音楽家の中には、ジャンル分けを嫌う人は多い。細かな違いを無視して、他とまとめられてしまうことに反発を覚えるのは当然と言えるだろう。だが、ジャンル分けというのは、何もCDショップが商品を並べるのに便利というだけのものではないのだ。実は、私たちが音楽を聴くときにも、知らない間に役立っている。「この曲はこのジャンル」という先入観があるおかげで、認知が容易になっているのである。「このジャンルの曲はだいたいこういう構造になっていて、こういうルールに従うはず」という意識があるから購きゃすい、というわけだ。だからバッハの曲の中では耳障りに響くような不協和音を、バルトークの曲の中でならごく当たり前のものとして受け入れられるということが起きる。
第12章 パルランド:音楽は言語か
フランスの作曲家、アルベール・ルーセルは、「音楽家は、世界で唯一、明確な意味のわからない言語を扱う人たちである」と言っている。この発言は、二つの理由で注目に値するだろう。一つは、暗に「音楽は言語である」と言っていること。そして、もう一つは、音楽は言語であるにもかかわらず、その意味は誰にも明確にはわからないと言っていることだ。作曲家や演奏家は、聴き手にとっては異邦人のようなもので、向こうは懸命に何か伝えようとしているのだけれど、こちらはうつろな顔でそれを見ているしかない、そんなふうに言っているようだ。/だが、幸い、音楽はルーセルが言うほど理解不能なものではない。そう言っていい理由は、ここまで読んできた人にはある程度、わかるはずだ。問題は、果たして音楽は言語なのか、ということである。
この章では、音楽の「構文規則」について詳しく見ていきたい。音楽の構文規則とは具体的にはどういうものなのか、どこから生まれたのか、私たちが音楽を認知する上でどう役立っているか、といったことに触れる。言語にも構文規則があるが、両者の脳内での処理のされ方は果たして同じなのか、ということに興味を持つ人も多いだろう。もし、同じなのだとしたら、音楽と言語が元々一つだったという説の正しさを裏づけることになるのだろうか。
言語と作曲
言語と音楽に少なからず関係があるだろうということは、おそらく誰もが感じているに違いない。世界中の多くの地域で、音楽と言えばまず「歌」であり、歌詞がついている。そのため、音楽は必然的に、それぞれの言語の持つ韻律、リズムに支配されている(あるいは、少なくとも影響されている)。たとえば、古代ギリシャにおいては、音楽と詩は不可分のものであった。叙事詩のことを“lyric”と呼ぶのは、元々、竪琴(lyre =リラ)の伴奏とともに歌われるものだったからである。
バルトークも、ヤナーチェクと同じょうに、話し言葉のイントネーションやリズムが、音楽における感情表現に有効であると考えていた。二人はともに、民族音楽の収集にも熱心だった。その民族の真実の声が開けると考えたからである。ロシアの作曲家、ミハイル・グリンカは、「音楽は民族が作る。作曲家の仕事はそれをうまく組み合わせ、並べることだけだ」と言っている。だが、実際、民族の言語は、その音楽にどの程度、影響しているのだろうか。
(神経科学者、アニルダ・)パテルは、一九世紀末から二〇世紀初頭のイギリス人作曲家とフランス人作曲家の曲を比較し、それぞれの言語の持つイントネーションやリズムが確かに両者の音楽に影響を与えているという証拠を得ている。
音楽の文法
言語と音楽の間に一種不思議な関係があるということは十分にわかってもらえたと思う。だが、ここまで書いてきたのは、いわばどれも「表面的」なことである。もっと深い根本的な構造の部分で両者がどう関係しているのか、そのことについては触れていない。果たして、言語と音楽がどこまで似ていると言えるのか。たとえば音楽にも一応、言語と同じような構文規則、文法のようなものがあることはすでに述べたが、それはどこまで言語の文法に似ているのか。
音楽が言語と同じように階層構造を成しているというシェンカーの考え方自体は正しいと思われる。そのため、音楽の「文法」について調べようとする際には、今日でもシェンカーの解析手法を基礎に置くことが多い。いずれにしろ、「曲を構成する音には地位の違いがある」ということが前提になる。地位が上の、重要性の高い音と、それよりは下位の音、重要性の低い音があるということだ。地位が下の音を省いて、曲を「要約」することもできる。これは、画像の解像度を下げ、粗くしていくのに似ている。粗くすると細部はわからなくなるが、色や明るさの大まかな変化はよくわかるようになる。
『ノルウェーの森』という曲が音楽的に豊かなものになっているのは、このようなメロディやリズムの階層構造、あるいは音の持つ安定感、音程変化のもたらす緊張感といったいくつもの要素が相互に作用し合うことによって生まれている。それに加え、レナード・メイヤーの提唱する「予測と裏切り」に関する理論なども考慮すれば、曲に対して聴き手がどのような感情を抱くかもある程度わかるだろう。「裏切り」には、半音などの音階外の音の使用、リズムの急激な変化などが関係する。
「音楽の構文解析」をする際に、そうした耳で聴いてわからない要素を解析しても意味はない。音楽に関する専門的な知識のない人にも納得できるような文法、理論が必要である。誰もが無意識のうちに体得しているような、音楽の「暗黙のルール」に合致するような文法が必要なのだ。誰もが六歳か七歳くらいになれば、音楽教育など受けなくても自然に体得しているような暗黙のルールだ。
階層構造を知覚しなければ、要素間の組み合わせによって生じる緊張感を知覚することもおそらくまずないだろう。近接する音と音との不協和の度合いによって緊張感の強さが変化することはあるだろうが、調性音楽のような緊張と緩和は起きないのだ。無調音楽(セリエル音楽)にも、音楽を支配するルール(このルールは通常、非常に厳格に適用される)はあるのだが、それは、体系的な文法と呼べるような種類のルールではないのだ。言語や調性音楽のような、重層的な構文を有してはいない。/これは重要な事実ではないだろうか。音楽が私たちの注意を惹きつけるのは、多くが言語に似た構造や文法を持っているからかもしれない。私たちの耳に音楽は「擬似言語」のように聞こえるということだ。だとすれば、音楽は、心地よいだけの無意味な音の羅列ではないことになる。脳内の言語処理機能がはたらくことで、私たちは音楽にある種の論理の存在を感じ、その論理により、複雑な音楽を理解できるのではないだろうか。世の中に存在する音楽が童謡のような単純なものばかりにならずに済んでいるのは、私たちが音楽に言語のような構文の存在を感じられるおかげなのかもしれない(もちろん、童謡にもやはり簡単な構文はあるわけだが)。逆に言えば、ただ音を直線的に並べたような音楽、明確な構文、階層構造を持たないような音楽は、言語のようには認知できないことになる。シェーンベルクの代表作に小品が多いのはそのせいかもしれない。
資源の共有
音楽と言語の脳内での処理がどう関係し合っているかについては様々な意見があり、長年、論争が続いているがいまだに明確なことはわかっていない。重要なのは、脳の損傷により失語症になった人が、音楽の認知に関しては何の問題もないというケースがあり、またその逆のケースもあるということだ。
全般的に見れば、音楽と言語の処理回路が同じでないことはすでに明らかになっている。言語の処理は、かなりの部分が、脳内の特定の部位で行われている。それに対し、音楽の処理回路は、脳内のあちこちに分散していて、特定の場所に集中しているということはない。にもかかわらず、構文に関する処理回路だけが、音楽と言語の共有になっていることはあり得るだろうか。
現代では、脳の撮像技術が進歩したため、脳に損傷を受けた患者がいなくても調査ができるようになった。アニルダ・パテルなどは実際にそうした技術を利用した調査をしている。その結果、ごく一般的な和音進行の中に急に不調和な和音がはさまったときに見られる脳の活動と、構文的に適切でない文を耳にしたときの脳の活動が似通っているとわかった。意味のわかりにくい言葉を聴いて、「えっ?」と聞き返すときと、不調和な和音を聴いたときとで、脳の反応が似ているということだ。しかし、脳で行われている処理が同じかどうかまではこれだけではわからない。それに、そもそもこの反応が「構文の不適切さ」によって起きているとは限らないのだ。文の「意味がわからない」ということ自体、あるいは和音が不調和であるということ自体に反応している可能性もある。仮に、構文の不適切さが原因の一部だとしても、それはさほど重要でないということもあり得る。
意味プライミング
実は、どうやら音楽がそれ自体で意味を持つということはあるようなのだ。最近の神経科学の研究により、それがわかってきた。言語の意味とまったく同じとは限らないにせよ、音楽もやはり何らかの意味を持ち得るのだ。
ケルシュらはこの結果から、「音楽は、その曲の感情表現とは無関係に、具体的、抽象的な意味を聴き手に伝えることができる」と考えた。音楽というのは、どうやら、従来考えられていた以上に、意味を持っているらしいのだ。/ただ、「この音楽を聴くと何となく英雄のことを考える」というのと、音楽が聴き手に明確に「英雄」という意味を伝えるというのはまったく別のことだ。仮に「絶望に打ち勝って前進していく英雄の姿を描写した」という曲があったとしても、その曲が聴き手に明確に「英雄」という意味を伝えるとは限らない。たとえばモールス肩号のように、一定のパターンで音を並べれば、それで何か意味が伝わるというものでもないだろう。もし音楽がそういうものだとしたら、かなりつまらない話だし、これまでの研究成果を見る限り、どうやらそういうことはなさそうだ。では、音楽が何かの意味を伝えるとき、その意味は一体どこから生まれているのだろうか。最終章ではそのことについて考えてみたい。
第13章 セリオーソ:音楽の意味
コーダ:音楽の条件
訳者あとがき
原注
参考文献
図版出典
音楽の科学 : 音楽の何に魅せられるのか? | NDLサーチ | 国立国会図書館
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