はじめに
本書は、一九六〇年代の終わりから現在までに至る、この国のポピュラー・ミュージックの流れ、すなわち「ニッポンの音楽」の歴史を、出来るだけコンパクトに通覧してみようとするものです。
そこで本書においては、あらかじめ「ニッポンの音楽」の幾つかのポイントを提示しておいて、それらの問題意識に寄り添いつつ、その「歴史」を語っていきたいと思います。
まず第一に、本書では、広い意味での「日本のポピュラー音楽の歴史」を、われわれが普段なにげなく使っている「Jポップ」という言葉が登場する「以前」と「以後」に、大きく二分割して論じていきます。
先回りして述べてしまうなら、筆者は「Jポップ」なるものが、六〇年代末に胚胎され、二十年の歳月を経て、八〇年代末に「言葉=概念」として誕生し、いつのまにか世の中にあまねく行き渡って、ほとんどこの国の音楽そのものを覆い尽くしたあげくに、そこからまた二十年を経たゼロ年代の末ごろに、いちおうの役割を終えた、と考えているのです。言い換えれば、このことを多少とも客観的に証明しようとするのが、本書の目的ということになります。
各章で中心的な役割を担う音楽家たちは、紛れもない実在の人物であると同時に、筆者が語ろうとする「物語」の文字通りの「登場人物」なのです。彼らの言動や振る舞いに記述の視点を思い切って収斂させることで、ひとつの「物語=歴史」としての「ニッポンの音楽」は展開していきます。したがって各章のタイトルは「〇〇の物語」と呼ばれることになります。
第三に、そのようにして「物語=歴史」を紡いでいくにあたって、本書の論述では「二ッポンの音楽」にとっての二種類の「外部」の存在を重要視しています。ひとつは「洋楽(海外)」という外部、もうひとつは「音楽以外の文化的/社会的事象」という外部です。前者は「ニッポンの(地理的・空間的な)外部」というファクター、後者は「音楽という営みを取り巻く種々の条件/状況」というファクターです。
本書の基本的なスタンスは、「ニッポンの音楽」の「歴史=物語」とは、先行する者たちによる達成を、後からやってきた者たちが引き受けて更に先へと進めてゆこうとする試みの、あえなき「不成功」の連鎖である、というものです。しかも、この「不成功」は、実は「成功」でもあるのです。
第一部 Jポップ以前
第一章 はっぴいえんどの物語
アルバム『はっぴいえんど』は(…)デビュー作としては最高と言っていい評価を得ました。そしてその評価は、翌七一年十一月にリリースされたセカンド・アルバム『風街ろまん』で、決定的なものとなります。このアルバムは、はっぴいえんどの最高傑作であるばかりでなく、七〇年代の日本のロックを代表する最重要作品であり、音楽史上に残る名盤です。
はっぴいえんどが現れたのは、ちょうど「政治=運動の時代」から「ノンポリ=シラケ」への転換期に当たる頃だったと言えます。
彼らは、彼ら以前の、そして彼ら以外の同時代の日本のバンドと、どこがどう違っていたのでしょうか?/第一に挙げられるのは、彼らの楽曲には、六〇年代の基調であった「政治=運動」的なるもの、すなわち“プロテスト”なスタンスが、ほぼ皆無である(ように見える)ということです。
『風街ろまん」の中でも屈指の名曲と言うべき、細野晴臣作曲の「風をあつめて」です。ここにあるのは、透明で詩的な文体で書かれた、淡々とした情景描写、ただそれのみです。物語もなければ主題もない。いや、よく読んでみれば、どうやら「都市」と「自然」の相克というようなことが描かれているらしいことはわかるのですが、かといって松本隆の狙いが、そうした言語化されたテーマとして抽出できるようなことにはないのは明らかだと思います。重要なのは、むしろ言葉の連なりが醸し出す「雰囲気」なのです。
松本隆=はっぴいえんどの歌詞には、政治性・社会性がないばかりではなく、共同体やトポスへの帰属意識や、生活感のような実感もなければ、あるいは実存的、観念的な苦悩や絶望などといった要素も、まったくと言っていいほど存在していません。ただあるのは「風景」、それもほとんど能動的な意味を持たない、いわば空っぽな「風景」のみです。そして筆者の考えでは、まず何よりも第一に、この「空っぽ」さゆえにこそ、はっぴいえんどは七〇年代初頭の音楽シーンにおいて抜きん出た存在となり、後続のミュージシャンをちに多大な影響を与え続けることになったのです。
はっぴいえんどの楽曲は、大瀧と細野がほぼ半数ずつ、約八割の曲を作曲し、残りを鈴木茂が手掛けていましたが、コンポーザーとしての資質はかなり異なっている大瀧と細野が、二人ともBS(バッファロー・スプリングフィールド)に惹かれていたという事実には興味深いものがあります。
細野晴臣と大瀧詠一は、この「風景」と「音楽」の二重の「新しさ」に惹かれたのです。彼らは自らのバンドで、日本版バッファロー・スプリングフィールドをやろうとしたのでした。それはつまり、ニッポンの「新しい風景」の中に、アメリカの「新しい音楽」を響かせる、ということです。そして、そうすることによって、ニッポンの「新しい音楽」を作り出そうとしたのだと思います。
はっぴいえんどには、「アメリカ音楽」への憧憬はあっても、「アメリカ」という土地=場所=国家へのシンパシーは希薄だったことを示しています。この点はとても重要です。
幾つかの証言からわかることは、じつは大瀧も細野も、最初は「日本語ロック」に対して懐疑的だったらしいということです。彼らを説得して、全曲日本語詞でやることに同意させたのは、他ならぬ松本隆でした。松本だけが、最初から確信をもっていたのです。しかしそれはもちろん勝利への確倍ではなく、ひとつの大胆な賭けに挑む蛮勇への確言でした。
「日本語とロックを融合する」のは、少なくともはっぴいえんどにとっては、じつはそれほどの難問ではなかったのだということです。福田一郎がいうような「日本語もロックのリズムに乗るということ」は、彼らにはまったくもって自明のことでした。先の座談会で、ミッキー・カーチスは、「普段話してるような言葉がそのまま歌になって、バッチリ乗ってるってとこが、すごくいい」と賞讃していますが、実際のところ「日本語ロック」なるものを、日常言語を駆使してテクニカルな次元で達成することは、彼らは最初から出来るとわかっていたし、実際に難なく出来た。だから内田裕也を急先鋒として、はっぴいえんどへの批判として当時よく言われた「歌詞とメロディとリズムのバランス」の不具合というものは、意識的か無意識的かはともかくとして、むしろはっぴいえんど自身によって選び取られたものだったと考えるべきなのだと思います。
「日本語ロック論争」にかんしては、雑誌「ユリイカ」二〇〇四年九月号の特集「はっぴいえんど」に掲載された増田聡による論考「日本語ロック論争の問題系」が示唆的です。「内田裕也と大瀧詠一は何において対立したのか」という副題が附されたこの文章で、増田は、内田がはっぴいえんどに苛立ったのは「日本語か英語か」という二分法ゆえではなかったのだと指摘しています。
増田の整理によれば、内田は「三つの問題系、メッセージ性/サウンド重視、ローカリズム/普遍主義、商業主義/対抗文化のそれぞれの対立項のうち、望ましい価値である後者三つに繋がるものとして、英語詞ロックは必然である」と考えた。これに対して大瀧詠一(はっぴいえんど)は、第一の問題系では内田と同じ「サウンド重視」を掲げ(「メッセージ性」を軽視し)、第三の問題系にはほぼ無関心を貫き、そして第二の問題系については、内田とは反対に「ローカリズム」を標榜する、そこから「日本語」という選択が導き出されてくる、というのが増田の論旨です。
「商業主義/対抗文化」という対立軸そのものが機能しなくなっていったプロセスこそ、「ニッポンの音楽」の、いや「ニッポンのカルチャー」の辿った道程であるからです。
解散のきっかけとなったのは、大瀧詠一がソロ・アルバムの制作に着手するなど、個々の活動が活発化したせいとされていますが、メンバーの発言によると、『風街ろまん』が本人たちにとってもあまりにも完璧な出来映えであったがゆえに、はっぴいえんどというバンドでやれることは全てやり尽くしたという思いが全員に生じてしまったということのようです。
はっぴいえんどのユニークネスの核心は、大半の曲で作曲とヴォーカルを務めた大瀧詠一と細野晴臣が、シンガー/プレイヤーであるよりもむしろ、コンポーザー/アレンジャー気質の強いミュージシャンであり、更にそれ以前に、どちらも重度の音楽ファン、レコードマニアであった点だと思います。二人の作る、かなりマニアックといってよい楽曲は、松本隆の抽象的な日常性を帯びた言葉と合体することによって、その偏りを矯正されて、普遍的なポップスとしての魅力を獲得したのです。そしてこのような「リスナー型ミュージシャン」ともいうべきメンタリティは、九〇年代に「渋谷系」によって強力に反復されることになります。
細野のベースもヴォーカルも実に味わい深いものですし、大瀧だって同様です。しかし重要なことは、音楽家としての彼らの個性が、テクニックに基づいたものとは決定的に違っていたということです。
「当時、ただ絶叫すれば唄だった」と松本隆は書いています。プロテストするか、シャウトするか、でなければ内向/内省するか、このいずれかが、六〇年代から七〇年代にかけての日本のフォーク/ロックの基本モードでした。しかしその中で、はっぴいえんどは、そのどれとも異なるモードを打ち出してみせたのです。
「四畳半フォーク」は総じて当時の若者たちの慎ましやかな(貧乏な)日常と、その内側に潜む生々しい心象を映し出すものであり、はっぴいえんどの世界とは一線を画しています。陽水の音楽は、フォークともロックとも異なった、いうなればシティ・ポップスの走りだったと言えますが、歌詞で描かれている情景は、かぐや姫や拓郎から遠くありません。時代は、連合軍事件(一九七二年)を経て、第一次オイル・ショック(一九七三年~七 四年)の頃でした。一九七三年には山下達郎や大貫妙子がシュガー・ベイブを結成しています。また、六〇年代末にザ・フォーク・クルセダーズとして「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」などの問題作を放った加藤和彦(一九四七年~二〇〇九年)は、一九七一年にサディスティック・ミカ・バンドを結成し、七四年にリリースしたセカンド・アルバム「黒船」を引っさげてイギリス・ツアーを行っています。
彼らが同時代に登場した他の数多のしいずれも才能溢れるー音楽家たちと異なっていたのは、海の向こうで次々と生まれ、かまびすしく奏でられている様々な音楽から多大なる影響を受けながらも、それらを「日本/語」でやるにあたって、たとえば「日本のサイケ・ロック」「日本のプログレ」などと呼ばれるようなスタイル上の直截的な踏襲(直訳)にも、あるいは逆に、日本/話の特殊性に安住したドメスティックな態度(超訳)にも陥ることなく、いわば「ニッポンから見たアメリカ」と「海の向こうから見たニッポン」が交叉するポジションで音楽を作り出そうとした点にあるのではないかと筆者は思います。
つげ義春、乱歩や谷崎を彷彿とさせる「時間が止まったような風景」。そして、あえて早川の言葉に乗っかって述べておくなら、ここで言われている「嘘」や「小細工」なるものが、二度や三度はおろか、後からやってきた者たちによって何度となく繰り返されていき、そのこと自体が、豊かな、と言っていいだろう成果を次々と生み出していったのが、その後の「ニッポンの音楽」の「歴史」だったのではないか、そう筆者は考えているのです。
第二章 YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の物語
この時期は、ポスト・パンクの時代であったと言っていいと思います。パンク・ロックのムーヴメントが一息ついて、これからどういう形でその後の音楽が展開していくか、ということが模索されていた時代であり、八〇年代に多種多様な変化と発展を遂げてゆくポピュラー音楽の、とば口にあった時期だと言えます。
パンク・ブームが去ったからといって、何もなかったかのように、それ以前の段階にまた戻るわけにはいきません。そうではなくて、パンクの持っていた過数なアマチュアリズムを踏まえながらも、音楽を先に進めていくにはどうすればいいのか、という命題が新たに生じてきたのです。それがポスト・パンクが背負っていた課題でした。
音楽の様式は、七〇年代の前半までは、技術・構造を中心に動いていた。けれども、それがパンクによって非常にプリミティヴな状態に戻されてしまった。しかし聴く側は、ずっと3(スリー)コードだけの単純明快なロックだと、どうしたって飽きてしまう。それを回避しようとして、しかしパンクによって切り拓かれたラディカリズムをも生かしながら前に進もうとすると、パンク以前のテクニック進行や楽曲的な進化論に戻るのではなく、パンクのアンチ・プロフェッショナリズムやアンチ楽理(譜面)的スタンスを備えたまま「新しさ」を追求する方向に舵を切るしかない。そこで出てきたのが、第一にテクノロジーの寄与、第二に非"西欧音楽的な要素の導入だった、と総括できると思います。
まず、演奏技術でなく録音技術の重視。レコーディング・スタジオの設備やエンジニアのスキルが七〇年代の後半くらいから飛躍的に向上してきます。音質的なことだけではなく、トータルな意味での録音芸術としての音楽の可能性が、もっぱら新機材の登場や従来機器のスペック・アップによって大きく広がったのがこの時期です。また、ジャマイカで発明されたダブが入ってきて、この頃はまだデジタル録音以前でしたが、アナログのテープ・トゥ・テープで録音をクリエイティヴに用いるアイデアが次々に出てきます。ポスト・パンク、ニューウェーヴは、ダブからの影響が非常に強い音楽という側面があります。
言うまでもなく、西欧以外の土地にも伝統的な音楽はあるわけだし、ポピュラー音楽も存在している。遅ればせながらそのことに気づいたイギリスの若いミュージシャンたちは、厳しい見方をすればとにかく新奇なものを求める気持ちから、そうした要素をパンク以後の文脈に導入していった。八〇年代には、この流れでワールド・ミュージックのブームも起こることになります。
七五年にはこの二人(井上陽水と吉田拓郎)に加え、小室等(一九四三年~)、泉谷しげる(一九四八年~)などが一緒になって、レュード会社「フォーライフ・レコード」が設立されています。YMOが登場する七〇年代の終わりの時点で、日本の音楽、日本のポップスの中心は、広義のフォーク・シンガー、のちにシンガーソングライターと呼ばれたり、「ニューミュージック」と総称されるようになる人たちだったわけです。
七〇年代後半にシーンへと躍り出たミュージシャンで、特に重要なのは、言うまでもなくユーミン(荒井由実~松任谷由実)とサザンオールスターズです。
彼の「トロピカル」とは、もともとエキゾチカという音楽がそうであったように、まず第一に想像された音楽、夢見られた音楽なのであり、本当に南国の音楽であるかどうかは、さほど重要ではありません。むしろこれは一種のアンチ・リアリズムなのであって、空間的には「ことではないどこか」、時間的には「今ではないいつか」を志向します。三部作にはマーティン・デニー的エキゾチカの他にも、沖縄であるとか、カリブ海であるとか、あるいは中国、あるいは昔のニッポンなどなど、非"西欧的音楽のフレイヴァーが大量に投入されていますが、どれもこれもフィールドワークに基づく民族学的・文化人類学的な観点に立ったものというよりも、あくまでも想像上のトポスとして導入されている。だからこそ、たとえば一曲の中に複数の場所性や時間軸を入れることだって可能になってくるわけです。
細野晴臣は立教大学の社会学部観光学科卒で、後に中沢新一との共著で『観光』という本も出しています。「観光」というキーワードは、細野の音楽に対する基本姿勢を端的に言い表しているように思います。たとえ現地に行けたとしても、調査や研究といったアプローチではなく、もちろん同一化とも全然違う、外からやってきて、興味の向くままにあちこち見聞して、また去っていくだけの者=観光客としての視線で、その場所の音楽を取り入れること。あるいは、一度も現地には行かずに、ただイメージだけを頼りに、想像力を駆使して、未知なる場所の音楽を作り上げること。このようなスタンスが、YMOに繋がっていくことになります。
トロピカル三部作の三枚目に当たるアルバム『はらいそ』は一九七八年にリリースされています。そして、この作品がYMOに直接的に繋がっていきます。イエロー・マジック・オーケストラの「イエロー・マジック」というのは、字面だけ取ると、黒魔術でも白魔術でもない、イエローの魔術ということで、すなわち黄色人種であるアジア人、日本人によるマジック、というテーマをそこに見てとることができます。/『トロピカル・ダンディー』と同じ一九七五年にリリースされたティン・パン・アレーのファースト・アルバムに「イエロー・マジック・カーニバル」という曲が収録されており、細野晴臣の頭には、この頃から「黄魔術」というテーマがあったのだと思います。
このセッションに手応えがあったのか、細野は坂本と高橋を家に誘って、炬燵でおにぎりを食べながら、自分の書いたメモを見せたのだそうです。そのメモには「マーティン・デニーの『ファイヤー・クラッカー』をシンセサイザーを使ってディスコ・アレンジし、シングルで世界で400万枚売る」と書いてあった。これが半ば神話化したYMO誕生の逸話です。/しかし、のちのインタビュー等で明らかになっていることですが、細野にとって必ずしも坂本龍一と高橋幸宏はファースト・チョイスではなかったようです。
YMOのファースト・アルバムが出る直前の段階で、まだ述べておかなくてはならないことがあります。一つは、先ほども触れた坂本龍一の『千のナイフ』というソロ・アルバムです。サウンド的には、まさにプレYMOと言っていいもので、現代音楽的な曲もありますが、ヴォコーダーから開始され、オリエンタルなメロディ・ラインを持った冒頭のタイトル曲は、YMOのアルバム『BGM』でリメイクされることになります。このアルバムには日本のシンセサイザー音楽のパイオニアである冨田勲(一九三二年~)のマニピュレーターだった松武秀欄(一九五一年~)が参加しています。松武はYMOの四人目のメンバーと言っていい重要な役割を果たすことになります。また前述のように、細野晴臣がライナーノートを執筆しています。
細野はアメリカとエキゾチカ、坂本はクラシックや前衛音楽、高橋はイギリスやフランスという風に、共通点を持ちながらもそれぞれに異なる音楽的バックグラウンドを持った三人によって結成されたのがイエロー・マジック・オーケストラだった、ということになります。
細野晴臣の「トロピカル三部作」とYMOの違いは、まさにこの電子音=エレクトロニクス=テクノロジーの追求という点にこそあると思います。ことから、程なくテクノロジーを駆使したポップ・ミュージック、すなわち「テクノポップ」という言葉が生まれてくることになります。
先ほどの細野晴臣のコンセプトを少しひねるならば、YMOは「マーティン・デニーをクラフトワーク化して400万枚売る」と言い換えることが可能です。エキゾチカ(トロピカル)+テクノロジー。クラフトワークはYMOのデビューと同じ七八年に『人間解体(The Man Machine)』というアルバムを出しています。この原題に込められているのは、クラフトワークが一貫して持っているモチーフです。人間と機械の共生と接近。彼らのライヴ・パフォーマンスでは、楽器の生演奏はまったくありません。メンバーは皆、非常に没個性的で無機質な、ユニフォームのような服装をして、淡々と無表情でエレクトロニクスを操ります。もちろんギターもベースもドラムもいません。ヴォーカルはヴォコーダーを通した機械的な音声です。クラフトワークは音楽性のみならず、ルックスや動作まで、一種のロボット・バンドと言っていいアティチュードを貫いていました。音楽のハイテク化を徹底しつつ、そのことへの批判的視座も保持したクラフトワークは、九〇年代に百花繚乱の様相を呈することになるテクノ(ロジカル)ミュージックの先駆的存在だと言えます。
ところで、YMOには言うまでもなく、高橋幸宏というドラマーがいます。これは重要なポイントです。(…)これはある意味で結果論かもしれませんが、高橋幸宏というドラマーは、まるで機械のようなドラミングをするドラマーなのです。ちょうどこの頃から、のちにクリックと呼ばれる、ヘッドホンで精確なパルスを聴きながら演奏する手法が出てきますが、YMOにおける高橋のドラムは、そもそも最初からあまり人間的には聞こえません。おかしな表現ですが、まるでドラムマシンを人間のドラマーが模しているかのようなのです。
先の人民服も『中国女』の有名なシーンから来ています。ゴダールが二本の映画を撮った背景にあったのは、もちろん当時の中国で進行していた毛沢東主義による文化大革命、より精確に言えば、それのフランスの文化人や学生たちへの影響です。それから十年後に、YMOは政治的イデオロギーをほぼ完全に漂白して、視覚的なイメージだけを自分たちのヴィジュアル、ファッションに取り入れてみせたわけです。ほぼ、というのは、共産主義国家である中国のイメージのあからさまな導入には、凄まじい勢いで資本主義の階段をかけ上がりつつあった当時の日本へのアイロニカルな視線が多少とも込められていたと考えられるからです。ともあれ、YMOが戦略的に身に纏ってみせたテクノ・オリエンタルなヴィジュアルは、世間では突飛だけれど先端的なセンスだと思われたのでした。
細野 (前略)それまではわれわれみんなヨーロッパ的な味つけよりもアメリカ一辺倒でやってきたミュージシャンですから。特に坂本君はフュージョン、僕はニューオーリンズで、(中略)針葉林地帯の感覚は一度も出したことないし、アプローチしたことがなかった。幸宏というエレガントな感覚の人間が入ってきたおかげで刺激されたわけです。
デビューに当たってのYM Oのセルフ・イメージの操作は、非常に複雑かつ屈折しています。そしてそれは八〇年代の日本の社会と文化が身に纏ってゆく複雑さと屈折度を予告していました。
テクノ・オリエンタリズムは、もちろんYMOの音楽にも刻印されています。特に最初の二枚のアルバムで中心となっている曲、先の「東風」や「中国女」、それから彼らの定番曲である「テクノポリス」と「ライディーン」、或いは「ビハインド・ザ・マスク」等といった名曲の数々は、サウンドは電子音が中心ですが、メロディラインは極めてオリエンタルなものです。それは日本的な旋律というよりは、もっと汎アジア的というか、大陸的な雰囲気を持っています。
先のインタビューの中で、細野は音楽というものは「その時代にべつに反響しなくたって全然構わない」と言っていましたが、確かにそれはそうです。その音楽が産み落とされた時代には反響しなくても、それから何十年、何百年も経ってから反響してゆくことになる音楽。まさにサティなどはそうでしょう。しかし、その時代だからこそそのようなものとしてあり、それだからこそ反響することになった音楽だって当然ある。筆者はYMOという存在が、八〇年代目前の日本の東京で誕生した、という時代の条件を無視することはやはり出来ないと思います。もしも数年ズレていたら、YMOにドラマーは居なかったかもしれない。メンバーは違っていたかもしれない。海外での評価は違っていたかもしれない。日本でも、あれほどの人気は得られなかったかもしれない。yMO自体、存在しなかったかもしれない。そこには文化的、社会的、経済的、政治的、等々の無数のパラメータ ーが関与していて、それら様々な条件の相互作用によって、彼らはあのYMOという形を取ることになった。
はっぴいえんどを批判した内田裕也は、ロックをやるなら英語でやれと主張した。それはたとえ日本国内であっても、そうすべきだという考えだった。「内=日本=日本語」と「外=アメリカ=英語」の間には、歴然とした壁が存在していたのです。/ところが、その壁はYMOの「逆輸入」によって、非常に独特な形で乗り越えられてしまった。YMOは「外」に向けては「日本」や「アジア」を象徴的に背負い、西欧人のテクノ・オリエンタリズム的視線を誘導することで注目を集め、翻って「内」においては、先んじた「外」での評価という事実を誕子にして、いわば舶来品のような扱いで人気を獲得した。
日本文化は――お望みなら「コンテンツ」と呼んで もいいですが――海外に輸出される場合、そのままの姿で出て行っても駄目だし、完全に「外」と同じ文脈でも勝負出来ない。「外」から見られたイメージを再回収して、それを意図的に被ってみせるしかない。そして、そのようにして獲得された「外」でのプレゼンスが、今度は「内」へと反転してくる。次章で述べるように、後にこれと同じ回路で海外での成功を収めるのが、ピチカート・ファイヴというグループです。
もちろん「東京」という単語は、それ以前の六 〇年代、七〇年代から、多くの歌詞や曲名に出ているわけですが、YMO以後の「東京」は、かぐや姫や吉田拓郎や岡林信康が描き出した東京とは違う。たとえ「東京」や「TOKYO」と記されていたとしても、それは「TOKIO=トキオ」なのです。「テクノポリス」の「トキオ」は、まずそう言えたことが大きい。そこには現実にかつてない速度で進化=変化してゆく東京と、その果てにあるヴァーチャルな未来都市トーキョーと、外国人によって夢見られたトキオが、いわば三重写しになっているのです。
『BGM』と『テクノデリック』の二枚のアルバムには、三人のメンバーそれぞれの、そしてメンバー間の、あっという間に巨大になり過ぎてしまった「YMO」という存在――それはある意味で三人を足したものをすでに大きく超えていました――に対する苦悩や迷いや逡巡のようなものが随所に滲み出ているように思えます。最初の二枚のアルバムに較べると、明らかに音作りが内省的になっており、特に『BGM』は全体的にかなり陰鬱な印象を受けます。/しかし同時に、音楽的にもテクノロジー的にも、更に先に進んでいる感があります。
坂本龍一には、YMOのブレイク以後、グループと距離を取ろうとしている感じが見て取れます。ソロをYMOとはかなり異なるアプローチで作ろうとしたり、TACOなどのアンダーグラウンドなバンドとも積極的に共演するなど、「YMOの坂本龍一」ではない自分を打ち出そう、個人としてのアイデンティティを維持しようという意志が、この時期の活動から特に強く感じられるように思います。では、YMOはそのまま空中分解してしまったのかといえば、そうではないところが面白いわけです。
この発言からわかるのは、YMOもやはり、紛れもないポスト・パンクの申し子であったということです。細野晴臣の頭の中には、間違いなくそういう意識が最初からあった。つまり、すでにミュージシャンとして十年のキャリアのあった細野にとって、また他の二人にとっても、続々と出てくるテクノロジーに対応した音楽を作っていくことは、音楽的な進化のみならず、パンク以後のラディカリズムを、あるかなり特異なやり方で引き受けようとすることだったのだということです。
それから、もっと重要なのは、細野が語っている「匿名性」と「誰でもできる」という部分です。マニュアルさえあれば、誰もがYMOになれる、というのは極めて過澈な考えです。そしてそれは「3コードが弾ければ音楽はやれる」と嘯いたパンクスと、やはり似ています。アーティストが顔や名前を持つことをやめ、そして誰でもなろうと思えばアーティストになれる、という、まったく新しい音楽のユートピアを、細野は夢想していたのかもしれません。しかし、それは、彼ら自身がキャラクターとして人気を獲得するとともに、潰え去っていくことになったのでした。もちろん、それを細野自身も回避はせず、むしろ自ら乗っていったのだと思います。したがって右の発言は、やはりとてもアンビヴァレントなものだと言えます。そして、このこと自体、とてもYMO的です。
YMOの振る舞い、そのアティチュードを一言でいうならば、期待に応えない、ということではないかと思います。彼らは常に必ずと言っていいほど、こうなったからには次はこうなるだろう(こうなるべきだ)という周囲やリスナーの予想や期待からズレた展開へと向かいます。それはシニカルでありアイロニカルであり、パロディアスで自己批評的です。それは半分は戦略であり、もう半分は本能だったのだと思います。/そして何よりもおそろしいことは、にもかかわらず、YMOは成功し続けてしまった、ということです。
そして同年五月には、高橋幸宏の提案で、パシフィコ横浜国立大ホールで小児がんのためのチャリティ企画「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのコンサートが行われました。/筆者もこの会場に居ましたが、終始リラックスした親密な空気に覆われたライヴで、三人の関係がとても良いことがはっきりと窺えました。中でも感動的だったのは、一九八一年四月にシングルとしてリリースされ、追ってアルバム『BGM』に収録された「キュー(Cue)」です。この曲は、当時非常に人気のあったイギリスのエレクトロ・ポップ・バンド、ウルトラヴォックスの強い影響下で、細野と高橋の二人によって作曲され、その場に居なかった坂本にキーボードを加えることを提案したものの、ウルトラヴォックス的過ぎるという理由で坂本はこれを拒否、結果として坂本龍一のパート抜きで完成したものです。それゆえライヴで披露される際は、坂本はするととがないので様に叩けないドラムスを担当するのがお決まりのパターンになりました。YMOのメンバー間の不和を示唆するエピソードとして知られているのですが、パシフィコ横浜ではこの曲がラストに演奏され、ちゃんと坂本龍一が楽しそうにドラムを叩いていたのです。
ややこしいのは、九〇年前後に「テクノ」という言葉が海外で生まれたことです。アメリカのデトロイトやシカゴなど都市部の黒人が、ヒップホップやハウスを背景に、安価なシークエンサーやドラムマシン等で制作した、12インチ盤シングル・ベース、DJユースのダンス・ミュージック、またそれらに呼応する形でイギリス等ヨーロッパ各地から現れてきた若きトラック・メイカーたちの音楽が「テクノ(・ミュージック)」と名付けられ、欧米の音楽シーンを圧倒的な勢いで賑わしていきました。
「テクノ」は海外で幅広く連鎖的に起こった現象ですが、「テクノポップ」はあくまでも日本国内のドメスティックなブームに過ぎなかったからです。しかし、このことによって、どうしても日本では、この二つの言葉の間で用語上の混乱や短絡が起きてしまいがちです。「テクノ」の基本はハウスと同じく四つ打ち(バスドラムの四拍の繰り返し)ですが、YMOに限らず「テクノポップ」で四つ打ちは稀です。「テクノ」はダンス・ミュージックですが、「テクノポップ」はそうではありません。
『構造と力』が思想書、哲学書としては破格のベストセラーになったととがきっかけで、日本中に「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる特異な流行が巻き起こっていくのと、YMOが「散開」していった時期は、完全に重なっています。そしてそれ以後、坂本龍一と浅田彰、それから細野晴臣とニューアカ(デミズム)のもう一人のスターである中沢新一という二組のペアが誕生し、さまざまな形でコラボレーションをしていくことになります。
~幕間の物語 「Jポップ」の誕生~
七〇年代、八〇年代の「ニッポンの音楽」は、「Jポップ」とは呼ばれていませんでした。この言葉が生まれたのは、一九八八年の十月以降だと言われています。つまり、それ以前の日本のポップ・ミュージックは、まだJポップではなかったということです。
「Jポップ」という言葉の最もよく知られている誕生エピソードは「J-WAVEが作った」というものでしょう。Jポップの基本文献として非常にしばしば参照されている鳥賀陽弘道の岩波新書『Jポップとは何か――巨大化する音楽産業」の最初に、J-WAVE が「Jポップ」という言葉を最初に作ったという話が出てきます。
「Jポップ」という言葉を作ったのはJ-WAVEだったが、それを日本中に拡散させたのはJリーグ・ブームだったということです。九〇年代半ばになると、「Jポップ」という言葉は、ほぼ現在と同じような使われ方が定着していました。
J-WAVEが作った「Jポップ」という言葉は、『Jポップとは何か」を読む限り、単に「ジャパニーズ(もしくはジャパン)・ポップス」の略称にすぎません。もう一度日本語に戻せば「日本の大衆音楽」ということになります。J-WAVEは、れっきとした日本の放送局でありながら、基本的に洋楽しか流さず、DJは英語を喋っているという特殊なラジオ局です。そこから聞こえてくる日本の音楽は「邦楽」や「歌謡曲」であってはならなかった。そこでこしらえられたのが「Jポップ」です。この命名、言い換えは、それ自体、極めて「日本」的なものだと筆者には思えます。
筆者は、すでに述べたように、この「J」には、ただ単に「日本」への揺り戻しのベクトルだけではなく、「外」を「内」に包含しようとする、トポロジカルな無意識の欲望のようなものが宿っていると思えます。そこには、海外文化へのコンプレックスと、自国文化へのこだわりが、複雑に入り交じりながら両方とも存在しているのです。
第二部 Jポップ以後
第三章 渋谷系と小室系の物語
九〇年代の「ニッポンの音楽」の立役者は、複数存在しています。そこで、時代を二分割して、九〇年代の前半を「渋谷系」の物語、後半を「小室系」の物語、と名付けようと思います。
逆に言えば、「渋谷系」のような音楽が人気を獲得したことが「九〇年代」の特徴のひとつだったと考えられます。
渋谷系とは、まず一言でいえば「リスナー型ミュージシャン」の完成形です。そして彼らが好んで聴き、影響を受けていたのは、もっぱら外の音楽、海外のポップ・ミュージックでした。渋谷系とは、東京の街の名前が冠されているにもかかわらず、あくまでも洋楽出自の音楽であった、ということです。九〇年代は、洋楽出自のニッポンの音楽が存在した最後のディケイドだったとさえ言っていいかもしれません。/つまり渋谷系は、七〇年代にはっぴいえんどとともに始まったプロセスの終焉であったと位置付けることができます。
八〇年代後半から九〇年代前半にかけて、輸入盤レコード店が、一部のマニアだけではなく、広く音楽ファン――特に若い世代――に開かれていきました。これによって、同時代に関しても、過去に関しても、大量の洋楽を聴くことが可能になりました。こうして「膨大な音楽を聴いて、それらを踏まえて自分の音楽を作る」ということが可能になったのです。
そのインプットの「方向」には、幾つかあります。 まず、過去に向かうか、もしくは今現在起きている同時代的な表現/作品を参照するか、という二項があります。それから、本書で繰り返し問題にしてきた、ここかよそか、内か外か、という二項。この二×二、四通りのベクトルがあります。つまり、過去の海外か、過去の国内か、現在の海外か、現在の国内か、ということです。CDの普及と輸入盤レコード店の登場によって、これらすべてのベクトルにおいて、大量の音楽と、それらに伴う情報や知識が流入してくる――つまりインプットが大量になってくる。その結果、膨大なインプットをそれぞれの回路で処理したアウトプットの音楽が生まれてくることになる。これが「渋谷系」です。
ファースト・アルバムにおけるフリッパーズ・ギターの音楽は、当時人気を誇っていたバンドブームのバンドたちとは大きく違っていました。英語で歌っているということで、すぐに思い出されるのは、はっぴいえんどの「日本語ロック論争」における内田裕也の主張です。内田はロックはもともと英語の国の音楽なのだから、英語で歌わなければ駄目だ、と言っていました。フリッパーズ・ギターは、要するにそれをやったわけです。そしてそれは言語のレヴェルだけではなく、音楽性そのものからしてそうでした。
二人が傾倒していた音楽は、イギリスで八〇年代以降に出て来た一連の人気ギター・バンド、日本ではネオ・アコースティック、略してネオアコと呼ばれた人たちです。(…)八〇年代半ばには異様なまでに商業主義化、巨大化していた音楽シーンへの反動のような形で現れた流行で、ザ・スミスあたりを皮切りに、少しずつスタイルは異なりますが、続々とニューカマーが登場してきました。代表的なバンドは、アズテック・カメラ、エブリシング・バット・ザ・ガール、オレンジ・ジュース、ペイル・ファウンテンズ、モノクローム・セット、ヘアカット100等がいます。
フリッパーズ・ギターには、音楽性からアティチュードから何から何まで、重度の洋楽オタクである彼らが、同じ洋楽オタクに対して目配せをしているような感があります。ネオアコそのもののサウンドも、歌詞や曲名も、その元ネタがわかる同好の士に向けて差し出しているわけです。しかし当然、彼らと趣味や知識を共有する人たちは、ものすごく多いわけではありませんでした。けれども彼らはそれがやりたかったのだし、何ゆえか、フアースト・アルバムでそれが許された、ということだと思います。
『カメラ・トーク』は、もともと優れていたメロディ・センスが更に磨き上げられ、明るくキャッチーな曲調が増えて、スタジオ・ミュージシャンによって演奏レベルも向上し、何よりも日本語で歌われていたため、前作をはるかに超える好評価を獲得します。
サード・アルバムは、セカンドから一年も過ぎていないにもかかわらず、更なる音楽的飛躍を遂げています。(…)フリッパーズ・ギターの残した三枚のアルバムを並べてみると、核になっている要素――小山田圭吾のキャッチーなメロディ・センスとサウンドへのこだわり、小沢健二の文学的な世界観や独特な言語感覚――は変わらぬまま、音楽的な試みはすごい勢いで変化、進化しています。
「セカンド・サマー・オブ・ラブ」からは、幾つもの人気バンドが登場しました。ハッピー・マンデーズやインスパイラル・カーペッツ、ザ・ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリーム、特に後の二つは極めて重要です。彼らは、それぞれのアプローチで、ロックとダンスの融合に挑戦していました。彼らの多くがマンチェスター出身だったことから、こうした傾向はマンチェスター・サウンド=マンチェ、あるいは「マッド=狂気」に引っ掛けて「マッドチェスター」などと呼ばれていました。
小山田、小沢の二人は、海の向こうの音楽的流行に、ほとんど即時的に反応して、自分たちのサウンドを成長させていったのです。
彼らの音楽性はおそろしくマニアックな、洋楽オタク的なものであり、彼ら自身、そのことをまったく隠そうとはしておらず、それどころか多くの機会にそのオタクぶりを披露していました。/しかし、実際に彼らが全国規模の人気者になったのは、もちろんそのマニアぶりによるのではなく、二人のルックスやファッション、あるいはトリックスター的な言動によるところが大であったのです。
二〇一四年に刊行された若杉実のその名も『渋谷系』という本は、渋谷という街の音楽史を、渋谷系という言葉が生まれた九〇年代よりもずっと以前から辿り直してみせた好著ですが、そこにこの言葉のルーツを探る部分があります。
フリッパーズ・ギターは渋谷で結成されたわけでも、主な活動場所が渋谷だったわけでもありません。渋谷系のもうひとつの焦点となるバンド、後に出てくるピチカート・ファイヴも同様です。では、なぜ渋谷なのか。それは、ほぼ例外なくリスナー型ミュージシャン=音楽マニアだった彼らが、新旧さまざまな音源を買い漁っていたのが、もっぱら渋谷の宇田川町界隈に密集していた沢山の小規模な輸入レコード店であり、そして彼ら自身のリリースを日本で一番推していたのが、渋谷のHMVという大型レコード・ショップだったからです。
渋谷系とは、このようなマニアックな音楽愛好家の、けっして規模は大きくはないが濃密なネットワークを、外側から名指したものだったと考えることが出来ると思います。日本の東京の渋谷という場所に、ある時間をかけて形成された、音楽ファンにとってのユートピア。そこでは、ありとあらゆる「最新の/知られざる/趣味の良い」音が渦巻いていました。フリッパーズ・ギターの二人も、この渦から登場したのです。渋谷系という言葉があちこちで囁かれ始めたとき、すでに二人は袂を分かっていましたが、フリッパーズ・ギターこそは、その極めて趣味的な音楽性といい、音楽マニア的な言動といい、渋谷系の定義そのもののような存在でした。
シングル「STAR FRUITS SURF RIDER」を含み、ヴァラエティに富んだ音楽性と遊び心溢れるギミックに彩られた『FANTASMA』と、世紀を跨いで発表された『POINT』では、音楽性が激変しています。コーネリアスの九〇年代のリリースは、その狙いは作品ごとに違っていても、基本的に非常に音数の多い、ゴージャスなサウンドになっていました。しかし『POINT』の収録楽曲は、徹底してミニマルな、ほとんど静謐とさえ言えるほどの、声と音の点猫のような音楽になっています。
おそらく小山田圭吾という人は、音楽を通じて何かを言いたいのではなく、ただ「音楽がしたい」だけなのだと思います。そして彼には音楽が出来た。ある意味では音=楽しかできないと言ってもいいかもしれません。これは小沢健二とはまったく対照的です。小沢は音楽で「言いたいこと」がある人だからです。
フリッパーズ・ギターだった二人、小山田圭吾と小沢健二は、そもそもの性格や気質も違っていて、解散後の歩みもまったく異なります。けれども共通しているところもあります。それは、二人とも発想や行動の仕方が極めてコンセプチュアルであるということです。次はこういうことをやる、そのためにはどうすればいいのか、もっとも効果的かつ面白いやり方は何か、彼らは何につけ、こんな風に考え、考え抜き、そしてそのように実行する。アイデアの実現とコンセプトの遂行。このような態度自体、とかく野放図で放縦な振る舞いを理想に掲げがちなロックバンドや多くのミュージシャンとは一線を画しています。
Double K.O. Corp.=小山田圭吾と小沢健二がフリッパーズ・ギターをプロデュースしていたように、小山田圭吾はコーネリアスを、小沢健二はオザケンを、ある意味ではまるで自分のことではないかのように客観的に眺めながらプロデュースしてきたのです。そしてこのような姿勢は、渋谷系のもう一組、ピチカート・ファイヴにもはっきりと言えることです。
田島貴男と野宮真貴は、どちらも個性と力量を兼ね備えた魅力的なシンガーですが、ヴォーカル・スタイルはまったく違うし、そもそも性別が違います。また、田島と違って野宮は曲は書かず、歌うのみです。田島がオリジナル・ラブとは別に、彼自身の内にあった音楽性をピチカート・ファイヴに持ち込んでいったような貢献の仕方は、野宮にはもともと不可能でした。しかし、その代わりに彼女は、それ以前のヴォーカルには成し得なかった破格の成功の武器を、ユニットに齎すことになります。そう、キャラクターです。
フリッパーズ・ギターや、コーネリアス、あるいは小沢健二と較べると、九〇年代に入ってからのピチカート・ファイヴには、アルバムごとの大きな音楽性の変化はありません。基本的には、同一路線がずつと連続している印象があります。これは野宮真貴という強力なミューズを得て、彼女の魅力を最大限に活かす形でとことんやってみようということだったのだと思えます。
ピチカート・ファイヴは、ファイヴと言いつつ四人でスタートし、三人目の異なる三人組で二つの時代を歩んできて、遂に小西康陽と野宮真貴の日人きりになってしまいました。
九〇年代の末頃には、ピチカート・ファイヴは、リリースごとのチャート・アクションこそ浮き沈みがありましたが、ニッポンの音楽シーンにおいて、独自の確固たる地位を築いていました。彼らは、渋谷系と呼ばれたムーヴメントの中でも、ひときわセンスが良く、マニアと大衆のどちらからも支持され、更には海外でも認められた存在として、別格といえるポジションにありました。ところが、またしてもということになりますが、九〇年代が終わり、二十世紀が終わった二〇〇一年の三月半ば、小西康陽は突然、ピチカート・ファイヴの解散を発表します。
フリッパーズ・ギターについて述べたように、渋谷系のアーティストは、音楽との向き合い方も、その作り方も、活動の仕方も、つまりは音楽家としての存在のありようの全てが、おしなべてコンセプチュアルです。それはつまり、立てられたコンセプトは必ず実行されなければならない、ということです。いうなれば小西康陽は、「ピチカート・ファイヴ」というコンセプトを完璧に遂行した。幾つもの変化を経ながらも十五年にわたって走ってきたプログラムは、見事に完結した。したがって解散する。解散するということ自体が最後のコンセプトなのであり、それは当然、完遂されねばならない。このような潔さがある。言い換えればそれは、奇妙なまでのこだわりの薄さ、あらかじめの諦念にも似た感覚です。
ピチカート・ファイヴの、いや、これはもう小西康陽の、と言った方がいいのだと思いますが、その音楽家としての特徴は、フリッパーズ・ギターと較べて、音楽に留まらず、それ以外の文化やカルチャー、とりわけ映画からの影響が色濃いことです。けれども、〔フリッパーズ・ギターに比べて〕小西の方がより手が込んでいるというか、マニア度が上という気がします。とりわけ一連のヴィデオにおける、野宮真貴のシアトリカルでフィクショナルなイメージには、六〇年代ゴダールの傑作群の多くでとロインを務めたアンナ・カリーナの姿が見事に「引用」されています。
九〇年代には、選曲家の橋本徹が主宰する「サバービア」が、当時の「今の耳」にもオシャレだったりカッコ良く聴こえ、DJでも使えるような過去の知られざる名曲、名盤、アーティストを次々とクローズアップして、それらが渋谷の音楽好きの間でブームになる現象が起きていました。サバービアも渋谷系の重要な要素のひとつだと言えます。そして、そこでフックアップされる音楽は、六〇年代~七〇年代くらいが非常に多かった。
いうなれば九〇年代には、最新であることの価値が限りなく退潮し、むしろ過去とそがある意味では新しいのだというモードが登場してきて、そこに小西康陽という人物の趣味性やメンタリティが合致した、ということなのではないかと思います。
第二章でも触れておきましたが、日本/人の特殊性、特異性を、敢えて(実像以上に?)打ち出すのは、ニッポンのカルチャーが海外に出ていく際の範例になりました。アメリカでの展開にあたって、筆者にはピチカート・ファイヴが十五年前のYMOという成功モデルを意識して、戦略的にイメージを作っているように思えたのです。そして外国で評判を取っていることが、今度は日本国内での評価や人気へとポジティヴに折り返されて来る。これもYMOが先をつけたことです。筆者には、こうしたことの全てが、どうにもスノッブに思えてしまったのです。また、戦略が実際に狙い通りに非常に上手くいってしまうという状況自体にも、どこか浅薄な、うんざりさせられるものを感じていました。
最終的に、二〇〇一年の三月末日が、最後の日に選ばれた。こんな想像(妄想)を、筆者は抱くようになりました。ピチカート・ファイヴという存在は、九〇年代を、二十世紀を、越えてはならないのだと、小西康陽自身が、そう思っていたのではないかと。
小室哲哉のプロデュースは、筆者がオールインワン型と呼ぶタイプの、ほぼ最初と言える成功例です。オールインワンとは文字通り、作詞、作曲、編曲、レコーディングから仕上げに至るまでの全工程をトータルに手掛けることです。小室はTM NETWORK〜TMNですでにそれを行っていたわけですが、日本の音楽業界では、作詞家、作曲家、編曲家などは基本的に分業されており、それぞれの地位も確立/保護されていたので、小室のように、たった一人で全部をやってのけてしまうプロデューサーは、まだかなり稀な存在でした。
小室は、TMNではそこまで踏み込み切れなかった「レイヴ」に対応するサウンドを追求するため、trfを作り出したのです。
八〇年代末のイギリスのレイヴ・パーティでは、アシッド・ハウスやテクノといった音楽がDJによってプレイされていましたが、それ以前から、ディスコ・ミュージックをより高速にしたような「ユーロビート」と呼ばれるジャンルが、日本では人気を得ていました。もともとはイタリア発の通俗的なディスコ=イタロ・ディスコから派生したもので、ハイエナジーとも呼ばれていた、かなりハイテンションなダンス・ミュージックです。日本においては、レイヴのイメージは、むしろユーロビートと結びつけられていました。
八〇年代末のバブル最盛期には、東京の港湾地域がウォーターフロントと呼ばれて急速に開発され、立ち並ぶ高層マンションや商業施設とともに豪奢なディスコ・クラブが幾つもオープンしていました。この頃までにディスコという空間は、八〇年代前半に原宿にあった、スネークマンショー/クラブキングの桑原茂一がオーナーだったピテカントロプス・エレクトスから、都築響一がプロデュースしていた芝浦GOLDなど、どちらかといえば流行に敏感なセンス・エリート向けのスペースと、麻布十番のマハラジャに代表されるような、まさにバブリーな空間に二極化していましたが、巨大化が進むにつれて、より一般向けの営業方針を打ち出すようになり、九〇年代に入ると一挙に大衆化します。
trfの所属レコード会社、エイベックス(・トラックス)は、もともとはユーロビート系の直輸入盤を扱ったり、コンピレーション盤をリリースする会社でした。エイベックスが送り出した初の日本人アーティストが、trfです。そしてそのプロデュースは、全面的に小室哲哉に任されました。小室は以前からユーロビートに強い関心を持っており、TMNの音楽性にも取り入れていました。彼がレイヴ対応のユニットとして、ユーロビートを彼独自の解釈で日本向けに仕立て直し、満を持して放ったのが、trfだったのです。
trfの音楽は、確かにサウンド的にはユーロビートが基調になっていますが、その上に、小室哲哉ならではのフックの多いエモーショナルなメロディが乗せられており、歌を活かすためのアレンジによって、ユーロビートのスタイルに、さまざまな改変が加えられています。結果として、どの曲も、単なるユーロビートの日本版とはかなり違った仕上がりになっています。
そもそも小室は小学六年生のときに大阪万博で冨田勲による「東芝IHI館」の音響作品に衝撃を受けて以後、シンセサイザーオタク、機材オタクになり、さまざまな洋楽ジャンルを、楽曲面と技術面の双方から研究していました。イエロー・マジック・オーケストラが登場したとき、彼は大学生でしたが、すでにYMOの三人に引けを取らないほどの知識を、少なくともテクノロジーという次元においては持っていたかもしれません(小室はYMO、とりわけ坂本龍一へのリスペクトを度々公言しています)。そしてユーロビートのような打ち込みの音楽は、何よりもまず第一にテクノロジーに立脚しています。
「ジャングル」とは、ハウス/テクノ以降にイギリスを中心に大流行した音楽で、ドラムンベースとも呼ばれていました。ジャングル=ドラムンベースはテクノのフォーマットにダブ/レゲエのビートを掛け合わせて高速化したようなハイブリッドなダンス・ミュージックで、ヒップホップやハウス、テクノと同じく、オリジネイターの多くは黒人でしたが、次第に白人ミュージシャンも進出して、九〇年代半ばの最盛期には、エイフェックス・ツインやルーク・ヴァイバートといったテクノを代表する白人アーティストたちが、次々と変名などを用いてそのスタイルを取り入れた楽曲を発表していました(それらはドリルンベース等と呼ばれました)。
一九九八年とは、日本の音楽シーンに安室奈美恵が不在だった年なのです。そして、にもかかわらずというべきかもしれませんが、この年は、日本でCDの年間売り上げ枚数が最高を記録した年でもあります。
筆者は、宇多田ヒカルを「最後の国民歌手」と呼んでいます。彼女のように、日本全国の老若男女をその音楽と歌声によって一遍に虜に出来るような存在は、おそらくニッポンの音楽に二度と現れることはないでしょう。
坂本龍一と小室哲哉は六歳違い、実はそれほど年の差はありません。とはいえもちろん、二人がこの時点までに過ぎ越して来た経験は、やはりかなり異なっていた筈です。けれどもしかし、こと音楽マニア、洋楽マニア、リスナー型ミュージシャンという意味では、二人は同じカテゴリに属していたのです。そしてそれは、いまや稀少種になりつつあるのだと、二人は微かな嘆きと自嘲を込めつつ、和やかに語り合っています。
一九九八年は、「Jポップ」という言葉を生み出したとされるJ-WAVEの開局から十年目です。この年は日本の音楽史上、最高のCD売り上げ枚数を記録した年であり、安室奈美恵が居なかった年でもあります。これ以後、この国の音楽産業は、それまでの桃源郷から反転して、歯止めの利かない下降曲線に陥っていきます。
第四章 中田ヤスタカの物語
彼〔中田ヤスタカ〕は小室哲哉以上に、エンジニアやアシスタントの助力を全く得ずに、一個の曲を、一枚の作品を、ゼロの段階から完パケ(完全パッケージ。そのまま商品にできる状態)まで持っていけるサウンド・クリエイターです。
中田ヤスタカのような存在が登場してきたのは、もちろんテクノロジーの寄与によるところが大です。九〇年代後半以降のデジタル・オーディオ技術の進化はまさに日進月歩であり、とりわけパソコンに搭載できるデジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)Pro Toolsの登場は、音楽制作を根本から変えてしまうほどの画期的な出来事でした。筆者も深くかかわった「ポスト・ロック」と呼ばれる九〇年代後半の米英での音楽動向においても、その中心的なバンドだったアメリカ、シカゴのバンド「トータス」が、ドラマーでエンジニアも兼ねるジョン・マッケンタイアがレコーディングにPro Toolsを導入して、その可能性を鮮やかに示した傑作アルバム『TNT』を一九九八年に発表し、それ以後、プロデューサーとして引っ張りだこになるといった現象が起きていました。
このように試行錯誤の連続とも思えるcapsuleの歩みは、彼自身のユニットと並行して中田ヤスタカが手掛けていた、あるプロジェクトの歴史と突き合わせることで、幾つかの推論を得ることができます。それはもちろん、彼のプロデューサーとしての評価を決定付けた女性三人組「Perfume」です。
彼女たちがこれほどの人気と評価を得たのは、もちろん中田ヤスタカのサウンド・プロデュースだけではなく、三人のメンバーのキャラクター、ルックス、そしてとりわけダンサーとしてのスキルとセンスが強く作用しています。音のイメージに合わせて、他の/従来のアイドルのように笑顔をふりまいたりすることなく、どちらかといえばクールな(無機質な)表情のまま、アンドロイドのように精確無比にめまぐるしく踊る=駆動するPerfumeの姿は、ヴィジュアル的な強度の訴求力を持っています。近年のライヴ・パフオーマンスでは、気鋭のメディア・アーティスト集団Rhizomatiks(ライゾマティクス)による斬新な映像も話題になりました。Perfumeというアーティストにとっては、今やリリース音源と、ステージ及びそれをパッケージ化した一連のライヴ・ヴイデオ作品は、同じくらい重要な要素になっていると言えます。
この加工処理は主にオートチューン(Auto-Tune)等のソフトウェアによって行われています。オートチューンは本来は音程(ピッチ)を補正するためのソフトですが(実際に歌唱力に難のあるシンガーやアイドルに使われています)、設定やパラメーターをいじることによって生声の極端な変形が可能です。この効果に目をつけたアメリカのヒップホップやR&Bのアーティストたちがオートチューンで自らの声を変形した楽曲を発表し、ゼロ年代半ばに話題となりました。その代表的な作品は、エーペインが二〇〇五年にリリースしたデビュー・アルバム『Rappa Ternt Sanga』です。オートチューン自体は九〇年代半ばからある技術なので、もちろんエーペイン以前にも、ハウス/テクノ/エレクトロのアーティストが、折々の機会に使用してきました(ダフト・パンクなど)。そして「人間の声を機械化する」という意味では、テクノロジーは異なりますが、オートチューンは八〇年代のYMOやそれ以前のクラフトワークが使っていたヴォコーダーにまで遡ります。このようにオートチューンの流行は世界的な現象であり、また声の加工という方法論自体はそれなりに長い歴史を有しています。
Perfumeと初音ミクは、いうなれば「不気味の谷」の両側に居るのです。オートチューンのエフェクトをもう少し掛け過ぎてしまったら、Perfumeの「声」は谷底に落ちてしまうか、それを越えたら今度は機械そのものになってしまう。初音ミクも、音声合成技術の行き着く先は「人間の声」そのものです。そこまでは行かず、絶妙なバランスで「谷」の手前に踏み留まることによって、彼女たちの歌声は、多くのリスナーの心を掴むことに成功したのだと思います。そして中田ヤスタカは、このことを本能的にわかっていた。それは彼の「音」に対する鋭敏な感覚と、それゆえに音楽の全てを「音」の次元で思考する独特なスタンスによるものだと、筆者は考えます。
コーネリアスと同じく、中田ヤスタカもまた、ある一つの曲をトータルな構築物として捉える、一種のホーリズム(全体論)的な考え方を持っています。つまり歌詞が僅かでも変わったら、その曲全体の効果も変わってしまうのです。これは彼が「オールインワン型」であること、パソコンの中だけでほぼ完結した音作りをしていることと、明らかに繋がっています。
きゃり1ぱみゅぱみゅにおける中田ヤスタカのプロデュース・ワークは、マニアックなクラブ/ダンス系エレクトロ・サウンドのcapsule、最新型のテクノ(ロジー)ポップスを追求するPerfumeに続く、第三の方向性だと、ひとまずは言えます。「PONPONPON」「つけまつける」「CANDY CANDY」「ちゃんちゃかちゃんちゃん」「ふりそで1しょん」「にんじゃりばんばん」「インベーダーインベーダー」「み」「のりことのりお」「くらくら」「もったいないとらんど」「きらきらキラー」「ピカピカふ ぁんたじん」「ゆめのはじまりんりん」「こいこいこい」などなど、曲名を列挙してみるだけでもすぐにわかる平仮名や擬音や語呂合わせの多用は、他の二つのユニットとはまた異なる仕方で、中田ヤスタカが「音」としての「言葉=歌声」の実験を行っていることを示しています。もちろんそれはきゃりーぱみゅぱみゅという特異なキャラクターに合わせて、ということなのですが、それにしてもこの振り切り方は過激とさえ言えます。
この点において、坂本龍一と小山田圭吾と中田ヤスタカは、一本の線で繋がっています。彼らは何よりもまず「耳」のミュージシャンなのです。それは「リスナー型」すなわち音楽マニア/オタクであることと、必ずしも完全には重なりません(音楽に無知でも耳の鋭いひとはいます)。しかし彼らはいずれもたまたま「リスナー型ミュージシャン」でもあった。このことは重要です。
聴いたことのない音楽、言い換えれば、それは「未知の音楽」です。更に言い換えれば、それは「外の音楽」です。空間的な「外」、時間的な「外」。ここまで語ってきたように、「ニッポンの音楽」の物語=歴史の主人公たちは、それぞれの時代に、それぞれの仕方で、日本の「内」にありながら、「外」を志向してきました。
「ニッポンの音楽」の登場人物たちは、このように「内=ここ」に在りながら「外=よそ」を夢見ようとするさまによって、明らかに繋がっています。彼らは、ある意味では、ひとつのメンタリティを抱え持った同一人物のようなものだとさえ言ってもいいのかもしれません。しかし時代が移り、物語が次の章へと進むごとに、彼らはその「外(の音楽)」との関係性のあり方を次第に変えていった。変えていかざるを得なかった。その変化は、振り返ってみれば、かなり大きなものだったと言えます。
彼らはいずれも、それぞれの時代に、あるいは幾つもの時代を越えて成功したミュージシャンです。しかし、その成功の理由は、彼らが貪欲で健康な「耳」を持っていたから、「外の音楽」への飽くなき夢と欲望を抱いていたからというよりも、むしろその反対に、彼らが皆、ある意味で「外」への旅立ちに失敗したから、失敗し続けたからなのではないか、そう筆者には思えてしまうのです。
あとがき
ニッポンの音楽 (講談社現代新書 ; 2296) | NDLサーチ | 国立国会図書館
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