意欲的な本だとは思うけど、そんなに入り込めなかったな。「知ってることと知らないこととのバランス」って話があるけど、本書に書かれていることは自分にとっては知らないことがほとんどなので、それが入り込めない理由のひとつだと思うけれど、でもリヒター――自分の数少ない知ってる人のはとり――に関する技術の少なさと薄さを見る限り、他の画家についても同じようなもんなんだろうな……とか思うとね。あと各章の冒頭「14〇〇年のある日…」みたいなエピソードがあるんだけど、これが萎えるっていうか……見てもいないものを何語ってんだ、みたいな気分になるのも、入り込めない理由のひとつ。
1 最初の痕跡
本書には、世界じゅうの多種多様な作品が登場する。すべて、今、芸術とみなされている作品ばかりだ。だが、”芸術”という言葉はいったい何を意味するのだろう?それは移ろいやすい言葉で、意味も価値も時代によって変わる。しかし突き詰めれば、芸術とは言葉を超えた何かを表現するために生み出されたものだ。現代画家のアリ・バニサドル(一九七六年~)は、洞窟壁画以降のあらゆる芸術はある種の魔術だと言っている。
芸術家は、動物を彫り、人物を描くとき、単に対象に似せようとするだけでなく、その動物や人物について何か大事なことを表現しようとする。だからこそ、傍目には互いにどれほどかけ離れていようとも、芸術作品には共通の特徴があるのだ。有史以来(そして先史時代)の芸術家たちは、自分たちの思想を表現する最良の方法をつねに求め続けてきた。これが芸術の持つ“魔力”、つまり、人とつながり、たとえ理由を説明できなくても人の感情を揺さぶることができる力だ。芸術には、世界に向ける私たちのまなざしを変え、世界における自分の立ち位置をはっきりさせる力がある。とても意味のある力が。
2 ひもとかれる物語
3 人生の幻想
ギリシアの彫刻家たちは紀元前六世紀にはブロンズを使い始めていたが、本格的な作品づくりが始まったのはペルシャ戦争後である。もっと大きく、もっと力強い像をという欲求に、ブロンズはぴったりの素材だった。磨けば光を受けた肌を輝かせることができ、芸術家たちがガラスの目と銀の歯をはめ込むこともできた。残念ながら、ブロンズは溶かすこともできたので、現存するギリシアのブロンズ像はごくわずかだ。そうして残っているものは、リアーチェの戦士のように、輸送中に海に沈んだ船から釣り上げられたものもあれば、《デルフィの者》のように、地震で崩れたがれきの下に埋まっているのを発見されたものもある。
プラクシテレスは存命中に大きな成功を治め、かなり裕福だったと思われる。彫刻家の息子としてアテネに生まれ、彫刻の制作には生身のモデルを使った。初めはブロンズの作品を作っていたが、のちに大理石への転換を選び、硬い石を柔らかい肌のように見せることに成功した芸術家として知られる。作品のひとつ《クニドスのアフロディテ》は特に大きな称賛を浴びた。紀元前三五〇年頃の作品で、等身大の裸の女性像としては世界初、西洋美術の歴史における女性ヌードの先駆けである。
4 模倣者
ローマ帝国の拡大と共に、彫像の制作年代を知るのは困難になる。なぜか? ローマ人にとって、作品を横術し、過去のアイデアを流用するのは創作活動として当たり前のことだったからだ。ローマ人はギリシア人の生活様式に強いあこがれを抱いていたので、誰もがギリシアの彫像を欲しがったが、全員に行きわたるほどあるわけではない。だからそれを模倣し、あるいはオリジナルをもとに新たな彫像を作るのが流行った。
ローマ時代の芸術家たちがギリシア芸術からのインスピレーションを受けていない分野の一つが、胸像と呼ばれる人物像だ。古典的なギリシアの彫像では、男性はきれいにひげをそった若者として、女性はしわのない左右対称の顔で表現されていた。いわば、その時代のスーパーモデルだ。対照的にローマ人は、年齢と経験を重ねた顔を好み、突き出た耳やたるんだ頰、しまりのない表情など、それぞれの久点を描き出している。
昔から、貴族やアウグストウスのような皇族が作らせた彫像は、依頼主よりも長く残るよう大理石かブロンズのような硬い材質でできていた。このため、ヘルクラネウムやポンペイといったイタリアの都市は、美術史家にとってはまたとなく貴重な資料の出どころとなっている。こうした都市は、紀元七九年に近隣のヴェスヴィオ火山が噴火した際に、四~六メートルにもなる灰と軽石で埋まり、住民は金持ちも貧乏人も等しく、その下に閉じ込められてしまった。一七三八年に始まった発掘は今も続いている。
5 黄泉への旅
6 神を崇める芸術
7 風雲急を告げる
8 プロパガンダとしての芸術
別の世俗の芸術として、この時代の日本の作品もやはり、芸術家に課された制約によって作品がどんな完成形を迎えるかを示す好例だ。一〇一〇年頃に紫式部によって書かれた「源氏物語』は世界最古の小説とされている。五四帖から成るこの物語は日本の宮廷での当時の生活とロマンスを描き、写本が何部も出た。知られている限り最古の挿絵の入っている版は二〇巻で一一三〇年頃に完成した。現存するのはほんの一部のみである。調書は男性によるものだが、絵は宮廷に住む女性によって描かれたという説もあり、こうした女性たちは平安時代の日本の文化的な暮らしに大きな影響を与えていた。絵に動きがないのは、この時代の宮廷では、感情をあらわにすることに眉をひそめる向きがあったからだ。
絵巻物というのはひとりでじっくり楽しむ芸術作品だった。机の前に腰を下ろし、なかばほどいた形で目の前に置き、ゆったり時間をかけて鑑賞するものだ。読み進めながら絵巻物の右側を巻き取り、左側を少しずつ開いていくと、物語に沿った場面が目の前に立ち現れてくる。《源氏物語絵巻》は、世の中のあらゆることを上から見下ろすかのように特職で描かれ、大世紀に中国の莫高窟で描かれた壁画の画期的な手法を思わせる。日本美術は中国美術の影響を多分に受けているのだが、その歴史上のある期間――たとえば平安時代――には、かなり独特の様式を見せてもいる。《源氏物語絵巻》はフルカラーで、その頃中国で流行っていた白黒の風景画とは対照的だ。ただ日本画を描くのは、何段階にも色を塗り重ねたり、輪郭や対象物を金緒で際立たせたりと、骨の折れる作業だった。
9 石工、モアイ、材料
一二世紀のキリスト教美術が、神と、神を取り巻く聖人や天使たちの象徴的かつ超自然的な力を伝えるものだったとすれば、一三世紀のそれは血肉を備えた人間を描き、現実世界に人々を引き戻すものだった。神はもはや、畏れるのではなく理解すべき対象だ。シャルトル大聖堂は、新たに生まれたゴシック建築の最高峰に数えられる。この様式の彫像、ステンドグラス、そして建築技術が一体となって、神の栄光を讃え、高くそびえる荘厳な一つの建造物を創り出す。光に満ちた巨大な聖堂は、それ以前のロマネスク様式に見られた石造りの重苦しさを脱ぎ捨て、ガラスをはめ込んだ壁と、見る者の目を天へと導く先のとがったアーチを特徴としている。ゴシック彫刻は一三世紀前半にヨーロッパじゅうに広まり、ますます高さを増してゆくゴシック様式の聖堂を飾った。聖人や預言者の像もどんどん大きくなり、シャルトルの入口に見られるように、石工たちが柱やパネルなどの支えがなくても自立するよう作ったため、まるで生きているかのようだ。
10 ルネサンスの幕開け
11 北方からの光
12 視点の問題
ここからの三章あまりでは、イタリアでしのぎを削った三つの都市国家(フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマーが、いかに芸術家たちを支援し、ルネサンスに貢献したかを見ていこう。一五世紀、ローマはカトリック教会の総本山として再び台頭し、教皇から惜しみない金銭的援助を受けていた。ヴェネツィアの富は国際交易の上に築かれ、フィレンツェは共和国として、自由を貴ぶ成功した商人たちによって治められていた。どの都市でも、ギリシア・ローマ時代以来なかった規模で芸術が花開いたのだ。
芸術家たちはメディチ家や教会の庇護を利用して、新しい技法を試みるようになり、それがルネサンス芸術の重要な柱となる。遠近法だ。ロレンツオ・ギベルティ(一三七八年頃~一四五五年)が五〇年の歳月を費やして聖書のレリーフを彫ったフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の華麗な扉は、一四五二年にようやく完成を見た。最初の作品についてはドナテッロが助手を務めたが、彼がシェナへ渡り、新たな遠近法という数学的概念を学んでくると、ギベルティは次の扉にその技法を取り入れようと、みずからの設計を練り直したのだ。
13 東西の出会い
ヴェネツィアはさまざまな国籍と文化のるつぼであり、すばらしい芸術品を買ってくれる裕福なパトロンはそこかしこにいた。ヴェネツィアの芸術家の多くはほかの都市国家に行って職を探す必要を感じなかったが、イタリアの別の地域では必ずしもそうではなかった。イタリアでも野心に満ちた芸術家の多くは、ローマへ向かい、教皇の仕事をしたいともくろむようになっていった。次章では、もっと実入りのよい仕事を求めてフィレンツェを離れた三人の偉大なルネサンスの芸術家を紹介しよう。彼らは現代の私たちにとって身近すぎる存在なので、ファーストネームだけで通用する。ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロの三人だ。
14 ローマの復活
レオナルドはこの絵をリザにもその夫にも渡さず、死ぬまで手元に置いていた。今では傑作とみなされているが、レオナルドはこの絵を未完成だと考えていたのかもしれない。彼が着手した絵を完成させることはかなり稀で、依頼主を苛立たせた。さまざまな絵画手法を試すことも多く、いつも成功したとは限らない(五百人広間の戦争画は、完成しないうちに壁から滑落し始めていた)。彼は世界のあらゆるものに魅了されていた。死体を解剖してそれを調べ、胎児から老年期に至るまで人体のあらゆる段階と奇形な体をスケッチした。鳥がどのように飛ぶかを研究し、それを基にヘリコプターの原型を設計した。戦争用の武器、水道、市の要塞も手がけた。左利きで、手稿は右から左へと書いた。これは、文字がこすれないようにするためとも、盗み見されるのを防ぐため(鏡に写さなければ読めない)とも言われている。
女性よりも男性の裸体をスケッチするほうを好み、未婚の同性愛者だったミケランジェロは、女性の肉体に関する知識が限られていたのだ。
15 地獄の責め苦
16 夷狄がやってきた
17 スペインの支配
フェリペ二世は一五五六年から一五九八年に及ぶ長い治世の間に、田舎くさかったスペイン美術を国際的に認められるものに変えた。外国から芸術家たちを呼びよせ、ヨーロッパじゅうの作品を収集したのだ。集めた絵画は一五〇〇点に上り、これをあちこちの宮殿で展示したのが、今の美術館のもとになっている。フェリペ二世の帝国はヨーロッパと南北アメリカ、フィリピン、ネーデルラント(今のベルギーとオランダ)にまで拡大し、彼はネーデルラントで十年暮らしたのち、アンギッソーラが宮廷に入った一五五九年に祖国に戻り、その後再びスペインを出ることはなかった。スペイン統治下のネーデルラントでは一五六〇年代を通して民衆の不満が高まり、一五六八年には両国は戦争状態にあったからだ。
振り返ってみると、エル・グレコはまったく異なる二つの潮流にはざまにいた画家であり、イタリア時代の作品は、今ではさほど感動を呼ばない。スペインへ渡り、かの地で息を引き取るまでの四〇年近くを過ごすうちにスタイルが徐々に熟していき、それまでの過程で吸収してきたすべてがみごとに融合して独特な形を成したのだ。後期の作品は色彩にあふれ、遠近法をあえて無視し(イコン画家としての修行に起因する)、感情と魂が火花を散らす画法は、スペインの異端審問会から狂信的だと非難された。
18 人生劇場
十七世紀への転換期、ローマは優れた芸術家たちで沸き返っていた。なぜこれほど多くの芸術家たちがローマを目指したのか?カトリック教会が再び勢いを盛り返したローマは、潤沢な資金と大きな仕事の宝庫だったのだ。また、古典芸術やルネサンスの華であるミケランジェロやラファエッロを学びたいと、ヨーロッパじゅうから芸術家たちが集まってきたことも一因だ。ローマでは、そうした芸術家たちが一つの場所での仕事を求めて互いに競い合い、しのぎを削っていた。
19 新しい視点
一六世紀のヨーロッパで探検の旅に出たのは多くがポルトガル人とスペイン人だったが、一七世紀になって国を越えた交易を支配するようになったのはオランダ人だった。オランダ共和国は戦争を通じて存在感を強めており、スペイン王国から領土を奪い取っていた。スペインはなお南ネーデルラントのフランドル地方で勢力を保っていたが、中国からの磁器製品のような品物がオランダ共和国に入ってくるようになると、利益を得たのはスペイン王国ではなくオランダ人中産階級であり、人口の密集していた町や村は潤った。そのおかげで美術界は活況を呈し、いわゆるオランダの黄金時代が到来した。だがそれはルーベンスのフランドル様式の祭壇画のように壮大なものではなかった。人々が市や店や美術商から買うのは小さめの絵であり、その際に選ぶ題材は、身近にある生活に密着した事物や風景だ。美術市場の中心はいまや教会でも貴族でもなく、芸術家たちは新たに顧客となった人々の要求に応えなければならなかった。現存する美術品は、もともと高貴な顧客のために描かれたものが多いため、市井の人々が芸術とどのように触れ合っていたかについて、私たちの見方は痛ってしまっているかもしれない。だが、オランダの黄金時代の芸術のおかげで、もし私たちが一七世紀のオランダ共和国で暮らしていたら自宅のの壁にはこんな絵が飾ってあっただろうと想像してみることができるのだ。
静物画はこの頃生まれた新しい種類の絵画だ。クララ・ペーテルス(一五八八年頃~一六五七年以降)はその先駆けで、朝食や晩餐会などの食事を載せたテーブルの絵を描いた。北方ルネサンスの精緻な自然主義に則り、かつ、作品ごとに様々な対照法を取り入れている。たとえば、硬いパンの皮と柔らかな羽の光沢、白目の酒入れのつややかな曲線、といった具合に。
20 地形
風景画は、ただそこにあるものを描くだけの自然描写ではない。風景そのままではなく、人間と地球との特別な語らいを見せるように選び抜かれた風景の一部を描くのだ。プッサンやクロードにとってそれは、ローマ時代の寺院が点在し、古典主義の曙光を彷彿とさせる景色だった。オランダの画家にとっては対照的に、風景画はその時代の生活を映し出すものだった。平坦な草地にそびえる風車や教会、暗い空の下で帆を張る船。オランダの風景画の流行は、主な買い手であった中産階級の関心が導いたものだ。
21 静物画と静かな人生
今ではレンブラントとして知られるレンブラント・ファン・レイン(一六〇六年〜一六六九年)は、際立った個性の持ち主だ。だが、どんな個性だったかは、その時々で異なる。生涯を通して描いた油絵、素描、版画などの自画像のうち八〇枚以上が今も残っている。二三歳の自画像では、湿った絵の具を絵筆の反対側で引っかき、瑞々しい顔をふちどる言うことをきかない茶色の髪を、猛々しい力をみなぎらせて表現した。また、二五歳の自画像はペルシャ風のターバンと厚手のシルクのローブをまとい、足元にプードルをはべらせ、世界に認められた画家であることを誇示するような自倍あふれる姿を描いた。毛皮のふちどりがついた胴着とキルトのジャケットを着て、最初の妻サスキアと笑いながら酒を飲む姿、裕福な名土として白い上等の購襟をつけて着飾った姿。自分をどんなキャラクターにも当てはめながら、一貫して写実性を保つことができ、しかも依頼主に対しても同じ技量を発揮した。彼はたちまち、都会に住む金持ちの商人やギルドの間で名を馳せ、皆がこぞって彼に肖像画を描いてほしがった。
フェルメール、デ・ホーホ、テル・ボルフなど一七世紀の画家の絵は、同時代のイタリアの作品のように、歴史的な文学や聖書から引いた物語を描いたものではない。テーブルに置かれた物や人物の配置から、道徳的なメッセージが伝わってくることもあるが、一七世紀のオランダ画家は物語性を排し、光や形や構図といった絵画の技巧そのものを前面に出すことに心を傾けたのではないだろうか。物の見え方や光の加減、当時の科学に関する最新の話題などに重きを置いたのだ。熱心に研究したのは、世界がどう見えるかであり、物語によってどう想像させるかではない。
22 ロココの現実とロンドン生活
謹厳を重んじる一九世紀の目からすると、ワトーやブーシェの作品が入れられた“ロココ”というカテゴリーは、軽蔑的な含みを持つ。軽浮薄でエロティックで浅薄で、現実離れした階級、いずれギロチンの露と消える運命にある階級向けの、現実離れした芸術だった。ロココは古典主義とは対極の存在だ。ルーベンスを崇拝し、線よりも色に重きを置いたロココの画家は、古典教育の洗礼を受けたアカデミー会員たちに、芸術の異なる一面を見せた。
23 ロイヤル・アカデミー——故郷と異郷
24 自由、平等、博愛?
25 ロマン主義とオリエンタリズム
26 厳しい現実
27 印象派
28 芸術家は立ち上がる
29 ポスト印象主義
30 巨人の肩に立って
31 ルールブックを破り捨てて
ヨーロッパじゅうの芸術家の多くが、それまでとはまったく異なる一つの方向へ向かい始めた。抽象美術だ。 では、抽象美術とは何か?それは、芸術そのもののほかに主題を持たない芸術の形だ。表そうとしているのは人でもヴァイオリンでも馬でもない。絵画として表現したい色、形、光、線。関心があるのはそれだけだ。第二八章で述べたホイッスラーと唯美主義運動はこうして抽象美術にまで発展し、彼らが提唱した”芸術のための芸術”というモット1が、西洋の抽象美術を端的に言い表している。西洋以外の地域では、抽象美術はけっして目新しい考えではなかったが、ルネサンス以来、西洋美術はひたすら横側と写実主義にこだわり続けてきた。二〇世紀に入り、芸術家たちが従来の創作活動のあらゆる面に反発し始めると、多くの人は抽象美術が画期的な新しい時代を開いてくれると考えるようになった。
32 政治化する芸術
ダダは一九一六年、スイスとニューヨークで同時に生まれ、またたく間にヨーロッパじゅうに広まった。名前には何の意味もなく、一説によると、仏独事典から適当に選ばれた言葉だという(“ダダ”はフランス語で“揺り木馬”を意味する)。ダダの芸術家たちは反道徳的で気性がしく、不条理を尊び、戦争を憎み、伝統的な美術を否定した。あちこちに誕生したグループの中でも、ベルリンのダダは飛び抜けて政治色が濃い。第一次世界大戦に敗れたドイツには、ワイマール共和国という民主主義政府が誕生していた。経済状況は厳しく、さまざまなグループが暴力的な抗議活動を行なっていたため、漂う空気は不穏だった。
芸術家たちは、一六〇〇万もの命を奪った世界大戦を招いた政治家や社会に幻滅していた。ダダの目標は、この社会が生んだ伝統的な芸術を壊すこと、そして、それに代わる新しい何かを作り出すことだ。ベルリンで開かれた第一回ダダ国際見本市は、主要なダダの展覧会としては初めての試みであり、参加した芸術家はみな成功を祈った。だが、この展覧会で、彼らは何を表現したのだろう?商業的には失敗であり、しかも二人の芸術家が、侮辱的な作品を展示したとして、のちに裁判にかけられている。八週間の会期で、チケット代を払った来場者数は千人に満たなかった。だがダダは頑固に、彼らの成し遂げた成功は、芸術そのものの価値を貶める芸術市場の破壊なのだと主張した。
33 自由の地?
十八歳でバスの事故に遭って以来、カー口は四六時中痛みを抱えていた。背中、腰、右脚はすべて複雑骨折し、何か月にもわたってギプスをはめ続けなければならなかった。怪我を負った彼女に、母はベッドに横たわったままでも絵を描けるように特殊なつくりのイーゼルを渡した。彼女が描いたのはおもに、感情に直結するような、そしてときには損なわれた体を表すような強烈な自画像だ。心臓につながる血管が四肢に絡みついている絵、またギリシア神殿の崩れ落ちた柱に見立てた背骨の絵を描くこともあった。目から涙があふれ、血まみれになり、あるいは矢で傷を負った絵もある。絵の中で自分の感情をさらけ出すことはためらわなかったが、けっして同情は望まなかった。二人の生前は終始リベラのほうが高い評価を得ていたが、現代の私たちの心には、カーロの作品にある燃えるような思いが強く訴えかけてくる。
リベラは大作《デトロイト産業の壁画》を一九三三年に完成させた。彼はこれを自身の最高傑作だと考えていた。報酬も最大額の二万ドルで、注文主はデトロイトのフォード自動車工場の創立者の息子エドセル・フォード、モデルはフォード一族が所有する世界最大の自動車工場だ。リベラは、そびえ立つ鈴色の機械が絶え間なく振動し回転する中、つなぎと縁なし帽を身に着け、工場の床で自動車部品を組み立てている労働者を描いた。窮屈なネクタイ姿の男たちがにこりともせず製造の様子を監督し、手にしたクリップボードに進捗を記録している。左派だったリベラがどちらに共感したかは明らかで、それはけっして雇い主の側ではない。
一人の画家の登場によって、地方主義画家たちでさえ、一九三〇年代のアメリカを記録する単なる年代記作家のように見えてしまう。エドワード・ホッパー(一八八二年~一九六七年)は、イラストレーターの仕事を経て、四二歳で専業の画家になった。ホッパーは映画と演劇を愛し、作品には、若い頃に映画ポスターのデザインで培った手法、すなわち、舞台のセットのように背景を組み立て、その中に登場人物を配するという手法が覗く。一九三九年のヘニューヨークの映画館>では、暗くした映画館で白黒映画に見入る人々の一部を描いている。脇の廊下には、紺の上着とズボンをいた案内嬢が、壁にもたれてハイヒールの足を休めている。考えごとをしているようにややうつむきながら、映画が終わるのを待って出口の横で立っているのだ。ホッパーは彼女の退屈と孤独を捉え、強調して描き出すことで、この街全体、この国全体の孤独を感じさせるような作品に仕上げている。
34 戦争の余波
第二次世界大戦が終わり、ナチスの強制収容所の衝撃的な実態が暴かれると、人道に対する言頼は危機に瀕した。いまだヨーロッパの芸術の中心とみなされていたパリでは、芸術家たちが疑問を抱いていた。これほどの虐待や破壊を前に、芸術がいったい何をなし得るというのだろう。一九四三年に発行されたジャン=ポール・サルトルの『存在と無』は、実存主義をについて考えさせる一冊だ。実存主義とは、生きている間の経験を重んじ、一人ひとりが自分の行動と、自分自身の人生に意味を与えることに責任を負うべきという哲学である。第二次世界大戦のトラウマが長く尾を引く中、実存主義はパリの人々の生きる指針となった。自分はなぜここにいるのか、と人々は自問した。自分の使命は何なのか?
第二次世界大戦は世界を根本から変えた。一九四五年に終戦を迎えたとき、オーストラリアのような国々は復興が早かった一方でヨーロッパは壊滅状態になり、ニューヨークはわずか数年で、初めて西洋美術の中心に躍り出る。
35 アメリカ美術の成熟
ポロックは酒酔い運転の事故で一九五六年に亡くなる。この頃にはアメリカ、中でもニューヨークが西洋美術界の中心になっていた。大物コレクター、豊かな美術館、大勢の美術商が集まり、野心と厚かましさを備えたさまざまな芸術家がひしめく街だ。冷戦中、アメリカ政府は現代美術を国外展覧会の目玉として宣伝した。芸術的に解き放たれた自由な絵画や彫刻には、個人の感情表現をよしとしない共産主義のソビエトを挑発する意図があったのだ。強く打ち出されたのは、今やアメリカ美術が(ひいてはアメリカが)世界を率いているのだというメッセージだった。
36 型破りな彫刻
なぜ全世界で突然、自分の肉体を使って作品を生み出そうという芸術家の欲求が高まったのだろう?ダダが第一次世界大戦への反動で、既存の芸術の限界を、ひいては理性を超えようとしたの同じく、これは第二次世界大戦への反動だったのだろうか?大量生産される“芸術”への反発だったのだろうか?絵画は今やそこらじゅうにあふれている。本、雑誌、新聞やテレビ、広告、それに誰でも壁に貼ることができるポスター。それとも、資本主義への反発か? 自分の肉体を使って芸術を生み出すことは、消費者主義への対抗手段とみなすこともできる。この芸術は現実の世界で体験されるほかなく、けっして終わることもなければ、パフォーマンスが誰かの所有物になることもない。
パフォーマンス・アートは、あらゆる世代の芸術家にとって、強力な表現手段となった。ありがたいことに、パフォーマンスは写真やビデオで記録できる。だから今でも、若き日のオノ・ヨーコ(一九三三年~)が一九六四年に行なったパフォーマンス《カット・ピース》を見ることができるのだ。フルクサスの一員だったオノは、お気に入りの黒い服を着て床に膝をついている。彼女はよく、自分の体を使って支配、権力、信頼といった大きな思想を表した。観客が舞台に呼ばれてハサミで彼女の衣服を切り取っていく。初めは男も女も慎ましやかに近寄っては、袖や標といった小さな部分を切り取るのだが、パフォーマンスが終わる頃には、彼女はズタズタの下着姿で座り、観客はぼろぼろになった布切れを手にしている。これによって、観客は彼女を裸同然にしたのは自分たちだと意識しただろうか? 服を切り取った人々はみな共犯だ。/《カット・ピース》は、初期のパフォーマンス・アートの貴重な例である。芸術家と観客との間にある強い結びつきをあらわにしているからだ。芸術の鑑賞はいつの間にか芸術への積極的な参加にすり替わり、その結果、パフォーマンス・アートをみずから体験できるというのは、そうそう忘れられるできごとではない。
コンセプチュアル・アートの作家たちは、最新の言語論、とりわけ記号論に関心を寄せた。芸術家にとって、記号(言葉)と私たちがそれにどう意味を持たせてきたかという研究は、絵画にも応用できるものだった。記号論が問いかけるのは、私たちが何かのしるしを読み解く際、その判断に先入観や価値観がどう影響しているのかということだ。女性芸術家は記号論を使って、いかに社会が自分たちを偏見の目で見ているか、自分たち女性の体がいかに男性の芸術家、広告主、演出家、テレビプロデューサーによって、単なる物として扱われてきたかを告発し始めた。フェミニズム運動が高まりを見せるにつれ、女性芸術家は、今こそみずからの体をみずからのものとして声を上げるべきだと決意したのだ。
37 ヒーローもうはいらない
マーサ・ロスラーの《キッチンの記号論》は、幸せいっぱいの女性が設備の整ったキッチンで調理をする、という設定だった一九七〇年代のアメリカの料理番組を揶揄した作品だ。ロスラーはコード化された言語の研究、すなわち“記号論”を使って、女性の居場所はキッチンだということを、わざとらしく大仰な構成で強調してみせた。ニューヨークのマンションの最上階の一室で、テーブルの前に立ち、アルファベット順に次々と道具を披露する彼女を見ていると、社会に押しつけられた性差別的な役割に対する怒りと恨みがひしひしと伝わってくる。今ではYouTubeで無料で見られる《キッチンの記号論》は、フェミニスト芸術の貴重な一例だ。
38 ポストモダンの世界
「ヴィレッジ・ヴォイス」紙は“タイムズスクエア・ショー”を「八〇年代初の革新的なアートショー」と呼んだ。ジャン=ミシェル・バスキア(一九六〇年~一九八八年)やキース・ヘリング(一九五八年~一九九〇年)のキャリアがスタートしたのもここからだ。一年後、この二人の若い芸術家は一躍有名人となり、またたく間に人生を駆け抜け、そして若くして死んだ。バスキアは十五歳で家を出て、ニューヨークのイーストヴィレッジにある友人宅のソファで眠る日々を過ごしていた。彼は、道ばたの落書きとアメリカの抽象画と解剖図、ブラックカルチャー、ジャズとヒップホップなど、さまざまな要素を混ぜ合わせ、活気あふれる大きな作品を、スプレーペイントや油絵の具、アクリル絵の具などで描いた。一九八二年には初の個展で作品が完売。ポップスターのマドンナとつきあっていた頃だ。翌年にはアンディ・ウォーホルと親交を結んでいる。作品には粗削りな力があり、一九八〇年代のニューヨークと、サイトクラブ、ダンス、落書き、ドラッグといった生活が放つ混沌としたエネルギーに満ちていた。バスキアはヘロインの過剰摂取のため二七歳で命を落とす。その作品は今なお輝きを放ち、コレクター垂涎の的だ。
対照的に、ヘリングはペンシルヴェニアの保守的な家庭に育ったが、一九七八年に絵の勉強をするためニューヨークへ移った際、グラフィティアートに魅了された。“タイムズスクエア・ショー”のすぐ後、地下鉄の落書きに感銘を受けた彼は、これだ、と思った。地下鉄の広告掲示板は、次の広告を載せるまでの間、黒い紙で覆われる。この黒い紙は自分にとっての黒板であり、絵を描く格好の場所だ。数分後、彼の初めてのストリートアートが完成する。続く五年間、ヘリングはニューヨークの地下鉄を、抱き合い、キスし、踊り、フラフープで遊ぶ人々を戯画化した絵で埋め尽くし、愛や死やセックス、戦争に対する考えを表明した。自分の作品は、すべての人が見られるようにストリートに置きたい、彼はそう思った。「芸術を讃え、鑑賞するのに、知識はいらない」と彼は言っている。「理解しなければならない秘密など、何も隠されてはいないんだ」。
キーファーは、第二次世界大戦後、国家の罪を背負いながら芸術家はどう作品を創り続けていったらいいかを模索した。彼は、ナチスに関連した建築物や、何百万というユダヤ人を収容所へ強制連行した列車を彷彿とさせる線路を描いた。一九八六年の《鉄の路》では、真ん中を線路が貫き、絵を左右に分けている。死へ向かう線路はどちらで、生へ向かう線路はどちらだろう?知るすべはない。カンヴァスに絵の具やほかの素材を厚く塗られているため、キーファーの絵はまるで彫刻のように見え、ほんものの木の枝が、鈴の針金で絵の中の線路に留めつけられている。彼の絵からは、土と、その下に埋もれている骨の持つ歴史の深みが感じ取れる。
ドイツ人画家ゲルハルト・リヒター(一九三二年~)も「絵画における新しい精神」展に参加したひとりであり、画風の転換期に既存のイメージを使った画家だ。彼は、写真に写った風景や人物を絵として描き出す方法を模索した。彼の旗印のもとでヨーロッパ絵画はますますコンセプチュアルの色を増していく。
39 成長し続けよ、さもなくば去れ
同じ頃、アメリカのアーティストは大がかりなアートフィルムを制作するようになっていく。ビル・ヴィオラ(一九五一年~)は複数のスクリーンを使った映像を頻繁に制作し、そのひとつが一九九二年の(ナントの三連祭壇画>で、フランス、ナントの礼拝堂のために描かれた祭壇画を基にしている。それまで三連祭壇画、つまり三枚のパネルでできた作品は宗教画の範疇だったが、ヴィオラはこれを使って人生そのものを描いてみせた。暗くした部屋で、生命の誕生と終焉がリアルタイムで映し出される。赤ん坊が生まれ、年老いた患者(アーティスト自身の母親)が病院のベッドで息を引き取る。その中間には水に浮かぶ一人の男。映像に合わせて流れる人の息遣いの音は人生を想起させ、両側のスクリーンはひとりの人間の人生において最もプライベートで最も大事な瞬間、誕生と死を表している。
マシュー・バーニー(一九六七年~)が制作したアートフィルム五部作《クレマスター・サイクル》は、女王やカウボーイ、コーラスラインのダンサー、両性具有の裸の人間などが登場する、九時間にわたる現実離れした作品で、男らしさとは何かを問いかける。作品はそれぞれ独立しているがつながりあってもいる。一九九五年の第一作《クレマスター四》は、マン島を舞台に、バーニー演じるタップダンサーのサテュロスと二つのサイドカーレースのチームを中心にした作品だ。どの作品にもセックス、暴力、死と再生がふんだんに盛り込まれ、性別がどう決定づけられるかについて、観客にいやおうなく考えさせる。
カメラが持ち運びしやすくなったという理由で、写真を使い始める芸術家もいた。かさばらず、目立たないので、ごく個人的な瞬間を写真に収めることができるのだ。ナン・ゴールディン(一九五三年~)は、友人がプライドパレードに参加し、女装して自転車でニューヨークを駆け抜け、麻薬を使い、エイズで死んでいく姿を写した。ソフィ・カル(一九五三年~)は、“プライベート・ゲーム”と呼ぶ観察の旅の記録に写真を使った。彼女はパーティで会った男をパリからヴェネツィアまで二週間にわたって尾行し、ホテルのメイドとして働きながら客の部屋にあるものを撮影する。そして、自分の発見を本や額装した写真として発表し、偶然のできごとや名も知らぬ人の生活から物語を創造したのだ。
文化観光のおかげで、ビエンナーレという名で、二年ごとに都市全体で数か月にわたって行なわれる現代美術の大展覧会も急激に増えた。この国際的な催しでは、世界中の美術品がグループ展や国別のパビリオンで展示される。イタリアで開かれるヴェネツィア・ビエンナーレの始まりは一八九五年、ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレは一九五一年だ。ドイツのドクメンタは異例で五年ごとにしか開かれないが、一九五五年から続いている。ところが一九九〇年代には、アラブ首長国連邦のシャルジャ・ビエンナーレから、韓国の光州ビエンナーレまで、多くのビエンナーレが次々誕生した。二一世紀を迎える頃には三百近いビエンナーレが存在し、五〇万から百万もの観客を集めるほどの人気を誇ったものもある。/ビエンナーレは巨大な展示ホールで開かれるため、サイズの小さな絵画や彫刻や写真、ビデオなどの作品をひと目で見渡せる。それに資金も潤沢に用意されていることが多いため、開催都市の公共スペースや部屋全体を占めるような大型の新規作品を置くこともできる。特にその場所に設置するために作られる作品も多く、サイトスペシフィックアートと呼ばれている。自然、一九九〇年代に活躍した多くの芸術家たちが、こうした場所を埋めるために、ますます大規模な作品を作るようになった。
40 抵抗としての芸術
監修者あとがき
本書『若い読者のための美術史』は、そのようなシャーロット・マリンズという優れた書き手が渾身の力をふるって執筆した、注目の美術史概説書である。我が国に、美術史の通史の入門書や概説書は(本書のように、外国語の原典から翻訳されたものも含めて)たくさんあるが、本書の特長としてまず挙げたいのが、類書にしばしばある教科書的な堅苦しさを感じさせない、まるで小説を読んでいるかのような読みやすさである。マリンズは、先史時代から二十一世紀の現在に至るまでの長大な美術の展開を、四十章に分けて――一冊を四十章で構成するのは、〈リトル・ヒストリー〉シリーズ全体の方針である――それぞれ短すぎもせず長すぎもせず、ほどよい分量で語ってゆく。そして各章は、まるで私たちがその時代にタイムスリップしたかのような臨場感たっぷりの書き出しになっている。各章、その冒頭で私たちは、一瞬にして当時の刺激的な創造の現場に引き入れられ、そうしてマリンズの道案内によって、数万年前に始まる人類の美術の世界を旅していくことになる。
本書の特長の二つ目として、マリンズは、西洋美術の流れを主軸に置きつつも、しかし、西洋中心的な美術史記述をできるだけ抜け出して、アジアやアフリカ、オセアニア、南アメリカにも努めて広く目を配っている。それと同時にマリンズは、男性中心的また白色人種中心的な価値判断を修正し、女性や非自色人種の芸術家たちを積極的に取り上げてゆく。たとえば、二十世紀半ばのアメリカの抽象表現主義について説明している部分では、マリンズは女性のリー・クラズナーや黒人のノーマン・ルイスなどに多くの字数を費やしている。ひと昔前までの通史的概説書であれば、抽象表現主義のところで、ウィレム・デ・クーニングやマーク・ロスコよりもクラズナーやルイスの方が詳しく説明されるということは、ありえなかった。こうして本書では、世界の美術においてこれまで確かに存在していたのにあまり(あるいは、ほとんど)触れられることのなかったさまざまな興味深い側面が――いや、もはやそれは「側面」としてではなく、それぞれ一つの「正面」として――活き活きと新しく記述されてゆく。
若い読者のための美術史 (Yale University Press Little Histories) | NDLサーチ | 国立国会図書館
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