Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

大岡信[編]『現代詩の鑑賞101』新書館 911.568

『現代日本女性詩人85』よりは興味を惹かれる詩(人)が多くあった。が,『現代日本女性詩人85』では編者・高橋順子がすべて解説を書いていたが,こちらはそうではないのが残念。その中でも高橋順子の解説はすぐにそれと分かる特徴を持っていた。

読者諸賢に編者から

私に起きたことは、他のだれに起きても少しも不思議ではないだろう。この熱病とは、要するに「言葉に心臓をひっつかまれる」病いであるから、だれに突然この「病」が伝染したとて不思議ではない。「言葉に心臓をひっつかまれる」のであって、「現代詩」に心臓をひっつかまれるのではない。

有難いことにそんなおぞましい歴史の所産とは別種の意味をもっているたくさんのもの、その一つが、人類の掛け値なしに最も貴重な所有物たる「言葉」の歴史である。その「言葉」の一角を占めているのが「詩」であり「現代詩」である。これを理解すること、所有することは、しないよりはずっと、あなたの人生そのものにとって意味があるのではなかろうか、と私は思う。それに値する「現代詩」の作品を、数の制限の許す範囲内で選んだものが本書である。

及川均:わきめもふらず。ジグザグに。

すぐに気づくのは、この詩には形式があるということだ。一連すべて二行である。また。句点「、」が一つもなく、読点「。」のみが用いられている。そのためとても歯切れよく読め、きっぱりとした印象を受ける。現代詩には形式がないとよく言われるが、詩人一人ひとりが一つひとつの詩に、そのつど見事な形式を与えているのでああ。重要なことだ。

アイロニーといえば、反語、皮肉と訳される。が、分かりやすく言ってしまえば、美しい苦痛とか、甘い悲哀といったように、矛盾した表現によって人間の真実に迫ろうとする手法のことなのだ。ロマン主義以降、詩の手法の主流になった。及川均は漢詩文を愛したが、正真正銘のヨーロンパ風ロマン主義者だったわけである。それは「わきめもふらず。ジグザグに。」という表題にも明らか。言うまでもなく、普通は「わきめもふらず。まっしぐら。」とあるべきところなのである。

石原吉郎:葬式列車/足利

石原吉郎は、戦後詩ならではのある特異な一面を代表する詩人である。敗戦後長らくシベリアに抑留され、帰国後に旺盛な詩作活動を開始したが、その極限的なラーケリ体験を、きりつめたメタファーと断定の語法によって描きつづけた。

黒田三郎:賭け/秋の日の午後三時/誕生日

「賭け」の時代の黒田三郎は、放送局に勤務していたが、結核で一時帰郷し、病をおして再び上京して結婚した時期である。「五百万円の持参金付の女房」とは職場で知りあったひとりの女のことである。敗戦後の何もかも荒席した時代に、貧乏で飲んだくれの詩人が出会ったかけがえのないひとりの女、自分の妻となる彼女との愛をうたった詩集である。

吉岡実:過去/僧個/サフラン摘み

戦後にあらわれた最高の詩人と目される吉岡実。昭和の後期において、昭和初期の萩原朔太郎のような位置を占めることになるのではないか、そういう見方もされ始めている詩人である。その戦後詩への登場を告げる詩集『静物』(一九五五年)——ただし、刊行当時は一部の炯眼の詩人をのぞいてあまり反響がなかった——の巻末に置かれているこの「過去」は、数あるすぐれた吉岡作品の中でもとりわけ傑作の呼び声が高い。解釈もさまざまに呼び込んでいるが、同時に、あらゆる解釈をはねつけてしまう詩それ自身の強度もあり、そこがまた傑作の傑作たるゆえんであろう。

宗 左近:来歴

宗左近の最近の執筆活動は噴火の様相を呈している。「縄文シリーズ」と銘打った詩集が相次いで刊行され、現在は第三期目に入り、総用数で約二十冊である。これらの噴火の遠い原点に詩集『炎える母』(一九六七年)がある。

安東次男:みぞれ

駒井哲郎との詩画集「CALENDRIER」(一九六〇年)所収。「CALENDRIER」はフランス語で暦。本書の収録詩篇は一月から十二月までの季節に沿ったもの十二篇であるが、内容的には反自然、反花鳥風月といってよい。安東次男は一九五二〜六一年ころフランス文学の翻訳・評論に積極的に取り組んでおり、ダダ、シュルレアリスム以降の重要な詩集の紹介者でもあった。/この詩もシュルレアリスム的な手法を取り入れている。言葉に意味のつながりや意見の伝達のみを求めず、意識下の非合理な世界を明るみに出そうとするもので、暗喩と爆縮性に富む。

中桐雅夫:会社の人事

全詩集版『中桐雅夫詩集』が刊行されたのは一九六四年。中桐雅夫四十五歳のときであり、これが何と初めての詩集だった。十五年後に詩集「会社の人事」は刊行された。全六十二編のうち一編を除くすべてがソネットである。

「会社の人事」という作品は、会社勤めをする人なら誰もが身につまされ、ほろ苦い共感をよぶ作品である。作者は大学卒業後二十五年間の新聞社勤務を経験している。この作品には、そうした経験もどこかしら反映しているかもしれないが、会社の人事を直接の題材としながら、ここで語られているのは、営々とこの社会に生きている私たち自身に対する、抑えられた怒りや嘆きや苦さといったものであることは、すぐに読みとることができよう。

安西均:朝、電話が鳴る/エレベーターの朝

この詩は第二詩集『美男』(一九五八年)に収録されたものだが、こういう題名は余人にはなかなか付けられるものではない。「あとがき」の中で、「美」とは「単なる「男」という名詞に冠した接頭語的な軽い美称のつもりである」と詩人は記しているが。晩年の安西は白髪の美しい老優といった趣きがあった。このような色好みの詩は安西均の「よろめきもの」とか「不良中年もの」と呼ばれていたようだ。たんなるダンディズムであって、思想性がないと軽んじる向きもあるようだが、一筋縄ではいかない「美学」をここに見ることができる。

女についての詩を書きながら、じつは男の友情のほうを浮かび上がらせているところが、面白い。この女はどんな女か顔が見えないのだ。安西の詩の比喩の巧さは定評があったが、読ませるところを憎いほど心得ていた人だった。

##### 関根 弘:この部屋を出てゆく/奇態な一歩

関根弘は長谷川龍生や黒田喜夫らとともに、「列島」グループの中心メンバーだった。現実社会のさまざまな場面にコミットしながら芸術活動に参加し実践し、前衛の意識をもち、議論し、いくつもの論争の狼煙をあげた。評論集『狼が来た』『水先案内人の眼』をはじめ、『東大に灯をつけろ』『くたばれ独占資本』などのルポが、彼の“闘士”としての面を物語っている。

彼の詩は“闘士”の部分ともちろん無関係ではなかったけれど、それがストレートに強面に作品に反映していたわけではない。調刺のきいたファンタジーとなり、棘をもつロマンとなって詩に忍びこんでいたりする。それゆえ人は、彼を「詩の秘密を心得た、寂しがり屋の闘士」と呼び、「天衣無縫の名人芸」「達者で元気」と評した。

石垣りん:シジミ/表札/土地・家屋

日本の女性詩人で、ここまで直に、自己愛への傾きを断ち切った表現をなし得た詩人は、ほかにいるだろうか。その点では、石垣りんは女性の詩人の埒外に出て、多年詩を作ってきたのだと、言っていいだろう。/では彼女の自意識は、むしろ男性詩人に遅いところに位置しているのか。とんでもない。石垣りんに較べれば、男の詩人たちのほとんどが——ほとんどが、どいったのは、ひょっとして例外があるかも知れないからだが、私はそれは知らない——自己の価値や能力への何らかの幻想を、意識的・無意識的に支えにして書いている人たちだからである。

鮎川信夫:繋船ホテルの朝の歌/天国の話/いまが苦しいなら

戦後日本の貧寒な風景、いたる所で露出していた敗戦国のあらゆる種類のはらわたと、その上で営まれていた暮らし、残されたのはもはや希望だけ、とさえ逆説的に言うしかないような、がらん洞な時間・空間の感じ、しかも「出発」への衝動によって絶えず高揚している青年たちの、すきっ腹をかかえながらの形而上の欲望——そういったものを、鮮烈な背景として持っている詩がここにはあった。

三好豊一郎:囚人/われらの五月の夜の歌

三好豊一郎は、第二次大戦直後のもっとも重要な詩人たちのグループ「荒地」において、非常に重要な役割を果たしたということになっている。ほかに、鮎川夫、田村隆一、北村太郎といった人々がいたが、戦時中に書いていたその詩が先駆的な役割を果たしたというのだ。その通りかもしれない。だが、戦時中のほうが、すぐれた作品を書いていたようにも思える。「荒地」は、詩に「意味の回復」を目指す運動として自己規定していた。そしてこの運動を何らか意識した段階から、三好豊一郎の詩には「私」という言葉に代わって「われわれ」という言葉が頻繁に登場するようになったと思える。また、豊かなイメージを引きつれることのない漢字二字の抽象語が増えるようにもなった。

那珂太郎:繭/〈毛〉のモチイフによる或る展覧會のためのエスキス

那珂太郎は孤高の詩人だ。しかも寡作である。詩集「音楽」には十九篤の作品が収録されているが、それらを書くのに九年間を要している。そうした長い時間をかけて那珂氏が追求したもの、ひとことで言うならそれは、詩の空間の自律性である。戦後詩の主流がメタファーを中心とした意味性偏重に傾くなかで、ひとり那珂氏は、氏自身の言葉を借りるなら、「虚心にことばの自律的うごきに随」いながら、「ことばをしてことばを呼ばしめ、ことばをしてみつから行かしめることによって、おのれの未知の領域に達しようと」試みたのだ。そしてこの「期」は、戦後詩にあって特異なそうした言語実験の、まさしく極点ともいえる作品なのである。

清岡卓行:石膏/耳を通じて/無精三昧

「石膏」は第一詩集「氷った焔」(一九五九年)の巻頭を飾る作品である。あとがきに「詩集をつくりたいと思ったのは十九歳の頃であったから、十五年程かかって、やつと処女詩集ができたことになる」と記されている。

北村太郎:雨/朝の鏡

「雨」「朝の鏡」はいずれも「北村太郎詩集」(一九六六年)に収められており、四十四歳のときにまとめられた最初の詩集であった。そこに収められている作品は、なんと二十年間に及ぶ二十二編だけである。/十八歳の頃、田村隆一や鮎川信夫らと詩誌「ル・バル」の同人として参加していた詩人が、その間にたった二十編余りの詩しか書かなかったわけではない。敗戦時までに書いた詩は戦災で消失し、「北村太郎詩集」をまとめるに際して、作者はさらに厳選して多くの作品を捨てたのだった。詩集をまとめた後、北村太郎は「灰になった詩篇には未練がない」「羞恥と自棄と終末感」(『現代詩大系④』略歴)と心境を記している。

田村隆一:腐刻画/沈める寺/詩や

田村隆一の記念碑的な詩集「四千の日と夜」(一九五六年)とともに、戦後詩は、言葉が思想であり思想が言葉であるような、最も緊迫した言語空間をもったといってよい。「腐刻画」は、そうした田村的ポエジーの出発を告げる作品で、詩人自身、「この詩を書くことによって、ぼくはぼくの『詩』を発見したといっていいかもしれない」と自作を語っている。筆者なりにパラフレーズするなら、距離の創出によるめまいの詩学を発見したのだ。めまいが最高度にもたらされるのは高さの感覚であろうから、田村的な距離とは多くの場合、垂直的なそれである。でなけれは倫理的でありえぬというように。

吉本隆明:異数の世界へおりてゆく/佃渡しで

『吉本隆明全著作集1定本詩集』(一九六八年)の「解題」を書いている川上春雄氏は、その結論的な部分で次のようにのべた。注目すべき意見として引いておこう。「詩は、著者(吉本隆明)にとって全業績中のまったく特異な事件である。著者にとっての詩は、自然であり、可能性であり、いうならば解説を拒否するところにある。著者は、詩に対して、真摯な問いかけを繰返してきた。詩への期待はいつも新鮮であり、純粋であった。詩に著者の見たもの、見ているものは、根源的究極的な存在形態であった。著者にとって詩は、最初のものであるとともに最後のものであった。そのような存在の仕方が著者にとっての詩であり、反対に著者の存在であったということができるのではなかろうか。初期の習作は別としても、一種名状すべからざる意思傾注の所産であったし、いまだ開かれざる詩にむかって期待を持続している著者の思想方法について、あらたに注意せられねばならない。」

吉野弘:I was born/タ焼け/祝婚歌

「I was born」は吉野弘の詩の最高傑作としてよく知られている作品だが、さらに言えば、現代詩が生んだ最高傑作の一つと言っていい。(…)この作品が単に、少年による生の受身形の発見に終ることなく、同時に死の原理をも発見し形象化しているところに、鋭い認識に支えられた構成力を感じさせる。命はかない蜉蝣のほっそりした腹のなかにぎっしり充満している卵、その矛盾した構図自体が透明な生と死を鮮やかに物語っている。

「タ焼け」は、ある日の電車のなかで目撃した事実がモチーフになっているけれども、それは格別異常な事態でもないし、驚くべき光景というわけでもない。都心から郊外へ向かう電車のなかで、多くの人たちが日頃体験しているような光景である。ありふれた日常のある部分を切りとってきて、人生論や存在論、倫理観といったものを作品の核として全体を熟成させる、そうした方法に吉野弘の作品の特徴がある。

「祝婚歌」は詩画集『風が吹くと』(一九七七年)に収められている。(…)吉野弘の作品は時に理屈が頭をもたげたり、お説教的なにおいが立ちのぼることなしとしない。しかし、この作品は若い二人の前途に向けて、そうした頭もにおいもなく、さわやかでごく自然に気楽に耳かたむけることのできる調べをもっている。同時にユーモラスな風も吹いている。

茨木のり子:わたしが一番きれいだったとき/自分の感受性くらい/木の実

茨木のり子ほど背筋のぴんと張った詩を書く人を他に知らない。茨木のり子を読むことで女性の読者はほぼ例外なく励まされるが、男性は素直に鼓舞される人と、ケムったい思いをする読者とにどうやら二分されそうだ。誰もが読みすごすことができない。茨木は誰かに——それは自分をも含むのだが——向けて言葉を発している。この「発信」ということが茨木の詩の特徴の一つである。

中村 稔:夜/凧

中村稔の詩の表立った特徴といえば、ソネット(イタリアに起こった掃情詩の一形式で、四行・四行・三行・三行から成る十四行詩)とその変形が圧倒的に多いということだろう。この詩が載っているのは第一詩集『無言歌』(一九五〇年)だが、つい最近まで詩人はこの定型を崩さなかった。 三好達治・中原中也・立原道造らの影響をこの点で認めることができるだろう。/このころソネット形式の詩集は、谷川俊太郎の『六十二のソネット』(一九五三年)、岸田衿子の『忘れた秋』(一九五五年)などがあるので、当時魅力的な詩型だったのだろう。だがその後長くこの形式に固執し、体にしっくり合ったスーツのように着こなしてしまったのは、中村稔ただ一人である。したがってこの端正な形式を中村が採用したのは、ある種の必然性があったということだ。

辻井喬:白い馬

辻井喬の詩の特徴は観念的で生硬な隠喩と閉塞感にあるが、この詩は珍しく己れをゆるやかにひらいている感じがする。自分自身の置かれている状況を明らかにし、隠喩の魅力を存分に引きだしながら、一時代の心象風景を描き、それを現在の都市生活者の心情に通ずる普遍にまで高めえている初期の代表作といえよう。

長谷川龍生:土工の眼

「土工の眼」は詩集『詩的生活』(一九七八年)に収められている。「詩的生活」とは大胆にしていかにも意味ありげな、長谷川龍生らしい人を喰った題名である。けれども、同じタイトルをもった作品は存在しない。よく知られた「王貞治が6番を打つ日」という長い詩を含む十九編の作品である。これらを一束にまとめて、詩が生活そのものであり、生活が詩そのものである、という意思表示をしているのだ。

岸田衿子:音無姫/なぜ花はいつも

「音無姫」/第二詩集『らいおん物語』(一九五七年)より。機械いじりの好きな少年が少女を好きになったというメルヘンのような詩で、機械から人間に興味が移ってゆくところ、さらに興味が恋にかたちを変えてゆくところを描いて、ほほえましい恋の原型、というか恋の生まれるさまをユーモラスに形象化している。

新川和江:わたしを束ねないで/歌

「わたしを束ねないで」ということは、つまり「わたしを束縛しないで」ということだが、こう言ってしまっては、自分を守ろうとする狭い拒絶の意志ばかりがあらわになる。「束ねないで」、とまるで花言葉のように口にしてはじめて、「わたし」が豊かに広がるものであることを、女たちは了解する。

川崎洋:はくちょう/結婚行進曲/鉛の塀

川崎洋には鳥や魚や海をうたった作品が多い。なかでも「はくちょう」はごく初期の傑作である。白鳥をじっと見つめ、色や姿や動きから白鳥そのものの美しさに目を奪われ圧倒されながら、しなやかに悠然と泳ぐ白鳥に呼びかけていく。詩とは対象の内実まで深く観察するところから始まる、などと野暮なことを今さら言わせない格調が、この詩にはある。

飯島耕一:母国語/宮古島の道/ジャック・ラカン

「母国語」は『ゴヤのファースト・ネームは』(一九七四年)所収。初出は一九七〇年である。この詩は同年刊行の詩集「私有制にかんするエスキス」の遠心的な運動、たたみかけるリズム、散乱するイメージ群とはまったく質を異にするものである。言葉を一語一語噛みしめ、確かめながら、紙の上に置いていっている。この自らの裡に沈潜したリズムが詩集『ゴヤのファースト・ネームは』に通底するものである。/飯島耕一はこの詩を書いた翌年から心身の違和感をしばしば覚えるようになり、翌々年、極度の不安状態に陥り、抑鬱症の診断を受ける。約半年間の通院の後、恢復。同詩集は精神的閉塞状況からの手さぐりの快癒を描いたもので、広く感銘を与えた。

多田智満子:初夢

詩集『祝火』(一九八六年)に所収。多田智満子といえば、幅広い西洋的教養を背景に、たとえば「あなたの乳房のなかに大理石の母乳がねむっている」(「蓮喰いびと」)というような詩句を書き、また、詩集一冊を古典的な交響曲の楽章構成に擬して編むというような、高雅な詩人として知られている。そのようにして知を官能的に歌い、独自の詩的宇宙を築いてきた詩人にしては、いくら初夢とはいえ、のんびりと炬燵でみかんをむいたりして、すこし平俗にすぎないだろうか、そう思う人もいるかもしれない。/しかし、もちろん、全然そういうことではないのだ。

淡沢孝輔:水晶狂い/越冬賦

渋沢孝輔の第三詩集『漆あるいは水晶狂い』(一九六九年)は、難解かつ美しい名詩集である。難解だという意味は、たんに抽象語を駆使しているからだけではなく、否定に否定を重ねるその詩的エクリチュールが、螺旋のように渦巻いて容易にその結尾をみせないからである。にもかかわらず美しいのは、その螺旋状がいつのまにか言葉の官能的な動きそのものに変貌して、そこから不思議に伸びやかな音楽が立ち昇るからである。渋沢詩の特質を語るのに、硬質な叙情という言い方がしばしばされるけれど、それだけでは不十分なのだ。

大岡 信:春のために/地名論/調布V

全詩集版『大岡信詩集』(一九六八年)が刊行されるまでにまとめられた大岡信の詩集は、『記憶と現在』(一九五六年)、ユリイカ版『大岡信詩集』(一九六〇年)、『わが詩と真実』(一九六二年)の三冊のみであった。したがって、この全詩集版には単行詩集数冊分が収められた。

堀川正美:新鮮で苦しみのおおい日々

詩集『太平洋』(一九六四年)に所収。第一行、「時代は感受性に運命をもたらす。」ーあまりにも名高い詩句である。どうしてそんなに名高くなったのか、それを説明することは、そのままある時期(一九五〇年代から六〇年代にかけて)の戦後詩の物語を語ることにも等しい。大岡信の言葉を借りるなら、「感受性の祝祭としての詩が、詩人ひとりひとりの個性を存分に発揮させながら、全体としては鮮やかに戦後詩の〈肉声〉をおしひろげた時期への、ひとつの訣別がある」ということになる。さらに、言葉と行為との解消しがたい乖離を深く自覚するあまり、ついには沈黙するに至るこの鋭敏な「感受性」の詩人堀川正美そのひとの「運命」を思うとき、この詩句は、予言的な機能さえ帯びてたち現れていたことにもなろう。

白石かずこ:鳥(bird)/男根(penis)

白石かずこの第一詩集「卵のふる街」(一九五一年)は、彼女が所属していた北園克衛らのVOUグループのモダニズムの影響を残しながらも、天衣無縫とも言えるロマンの夢を自在に散りばめての詩的出発であった。

安水稔和:鳥〔四章〕

詩はどのように動物を描き、うたってきたか。ボードレールにおける猫、朔太郎における犬という古典的動物誌から、吉岡実におけるタコ、石垣りんにおける蜆というややバロックな例まで、ありとあらゆる場合が想起されるが、なかでも鳥は、詩にとって特別な位置を占めるだろう。花鳥風月としてくくられる歳時記的な意味合いを持っているからだけではない。それはとりわけ、飛行の夢や墜落の恐怖と結びつきながら、空無、彼方、超越、あるいは不可能性といったものへの夢想を誘うからである。安水稔和ー戦後現代詩の書き手のなかでは、「存在の歌」(一九五五年)という詩集をもち、シンプルな語りロのうちにも、すぐれて形而上的な詩をくことで知られるこの詩人が、同時に、たぶんほかの誰にもまして鳥のイメージにこだわりつづけたというのも、うなずける話だ。

入沢康夫:失題詩篇/季節についての試論/未確認飛行物体

入沢康夫は、おそらく、戦後に現れた最も重要な詩人のひとりである。というのも、詩とは何かという聞いを、詩の存立基盤が危うくなるぎりぎりのところで追い求めつづけているからだ。行分け、メタファー。情主体、作品と作者との関係しすべてが疑問に付された。この「失題詩篇」は入沢氏の事実上の詩的出発を告げる作品だが(処女詩集「倖せそれとも不倖せ」〔一九五五年〕の冒頭に所収)、いきなりそれが題を失っているというのだから、人を食っているというか、いかにも入沢作品らしいところである。

谷川俊太郎:かなしみ/私の家への道順の推敲/鷹繫山

谷川俊太郎の第一詩集『二十億光年の孤独』(一九五二年)は、戦後現代詩の最初の方向変換を告げる事件であった。なかでもこの「かなしみ」は、たった六行という短い詩だが、戦後詩への谷川俊太郎の登場を決定づけるには十分な意味を持つ、名高い作品である。その意味とは、いまここに在るということのどうしようもない無根拠性を、はっきり主題にしたということだ。

岩田 宏:いやな唄/動物の受難

岩田宏については、「毒を持った詩人である。猛毒ではないが、(中略)一度あたると徐々に利いてきて全身がしびれてしまうらしい」(鮎川信夫)という評言があり、その詩については、「毒にはなっても薬にはならない」(川崎洋)という評言がある。岩田宏の作品を読む場合には、とりわけ絶品のユーモアや諷刺や卓越した言葉のリズム、それらを覆っている稀有の毒に十分な注意を要する。そうしたことについて、金子光晴が読者におもしろおかしく注意を喚起している。「おもしろくて、バカ笑ひがしたくなりますが、すぐそのあとで、その笑ひがおしつぶされてほうがえしのつかない鼻づらをひっぱたかれたような半端な心境で放り出されます」と。

新藤凉子:曠野

第三詩集『薔薇ふみ』(一九八五年)所収。この詩は少女時代、運命をくつがえす出来事を回想した自伝的作品であり、新藤涼子がその人となりを遂げた基いにこの原体験が横たわっているはずである。この体験を詩として結晶させるには、四半世紀という時間が必要だった。

吉原幸子:無題(ナンセンス)

第一詩集『幼年連禱』(一九六四年)より。詩人としての出発点であるとともに、代表作。「ああこんなよる立ってゐるのね木」は忘れがたい一行である。自分が現在この地上に生きていることが疑わしく思えたり、あるいは理由のない不安感に苛まれたりしているとき、目にうつった木であろう。

財部鳥子:フィールドノート

『中庭幻灯片』(一九九二年)所収。この詩集は中国を主題にした詩ばかりを集めたものである。財部鳥子は中国の旧満洲で十二歳まで育ち、敗戦によって帰国した。中国は財部にとって第二の故郷ともいえる国である。中国詩人との交友もあり、彼らの詩の邦訳にも力をそそいでいる。中国現代詩集「億万のかがやく太陽」(共訳)がある。

中江俊夫:夜と魚/語彙集第九十章

中江俊夫は詩作品のあり方について〈地球型〉という考え方をしている。〈地球型〉とは「詩作品全体の秩序の型を、感性としての、心性としての、思想としての、主義としての論理にこだわらず、全体としてそれらをひとつの認識とそれを超えたものの型」(「詩作品の意識構造」一九六四年)と説明している。この考え方は難解に思われるかもしれないが、短いなかに奥行きのある意味がこめられている作品「夜と魚」にあてはまる考え方だと言えそうだ。

安藤元雄:むずかしい散歩

第三詩集『水のなかの歳月』(一九七八年)の巻頭詩である。全体の序詩のような味わいをもつ。というのも、この詩集の最後に「橋」という詩が置かれ、両者に共通するものとして、川について、そして「橋を二度わたる」という行為が描かれているため、呼応しあっているのが分かるからである。丁度この二つの詩の間を川が流れているような感じである。とすると、この詩も何らかの橋であるのかもしれない。

三木 卓:客人来たりぬ

「客人来たりぬ」は第一詩集『東京午前三時』(一九六六年)に収められており、この詩集にはすでに三木卓の資質を色濃く示す作品がそろっている。それらは現実社会と向きあうなかで、人間の本来的な温もり、やさしさの日常性をしっかり獲得している。いずれも柔軟で鋭い切れ味とユーモアによって構築された世界である。「客人来たりぬ」をはじめ、「スープの煮えるまで」「系図」などがそうした傑作であり、「東京午前三時」という奇妙なタイトルの長編作品は、やさしい父と対峙し、父を断罪する。しかし、父を断罪し追いつめてことたりるという世界ではない。

鈴木志郎康:私小説的処女キキの得意なお遊び/草多という名

「プアプア詩」を“代表作”とみなす評者もあろうが、それに対しては反論が出ることも十分に予測される。けれども、この一連の作品を除外して鈴木志郎康を語ることはできないことも事実だ。現代詩の正統として具体的にどのような作品をあげるかは、容易なことではないけれど、まあ、現代詩の正統な嫡男があるとして、一連の「プアプア詩」は嫡男を脅かす鬼子であった、と言えよう。六〇年代なかばに突然のように出現したこの鬼子 は、たちまち多くの驚嘆と戸惑いと歓呼の海にとり巻かれた。

富岡多惠子:身上話/静物

「身上話」は第一詩集『返禮』(一九五七年)に収められている。富岡多恵子はまだ二十二歳の学生だった。/この詩集は当時の詩人や読者に、語り口のおもしろさをまず強烈に印象づけ、魅了した。作者と同年生れの三木卓はこんなふうに語っている。「読んでみて正直言ってビックリした。ぼくのもっている、いわばお勉強した詩みたいなものからまったく離れたところで成り立っていて、他の人たちがどうあってもアタシはこうやるよみたいな、わがままというか我の強さというか、そういうものを強く感じました」(「現代詩手帖」一九七六年五月臨時増刊〈富岡多恵子〉・座談会)

天沢退二郎:朝の河/反動西部劇

かつて、こんなに過激で、わけのわからない、凄い詩が書かれていた、ということを、若い読者は知っておいた方がいいかもしれない。いわゆる六〇年代詩の旗手と謳われた天沢退二郎は、最初、宮沢賢治を思わせる静謐な詩的世界から出発したが、一九六〇年前後から、ほとんど突如、このような過澈なイメージにあふれた詩を着くようになった。時代背景というものもあっただろう。六〇年代はあらゆる芸術の前衛的な実験がピークを迎え、そしてまた、安保闘争に代表される政治の季節でもあった。そうした状況の中に詩の行為を投げ入れ、突出させていったのが天沢退二郎であり、この「朝の河」第二詩集『朝の河』(一九六一年)の表題作)は、題名にもふさわしくその輝かしい第一ページなのである。

高橋睦郎:薔薇の木/箱草の研究

詩集『薔薇の木 にせの恋人たち』(一九六四年)に収録された十一行という短い詩だが、詩学と神学とホモセクシャルを三位一体的に展開する高橋睦郎の特異な詩的世界を、ひとつのミクロコスモスのように映し出している。この詩人の代表作のひとつに数えてよいだろう。

清水哲男:チャーリー・ブラウン

詩集『スピーチ・バルーン』(一九七五年)に所収。詩と漫画との出会いを試みたこの意欲的な詩集は、売れないとされる詩の本のなかで、例外的によく売れた方のべスト3に入るだろう。たしかに、目次を見ただけでも、この「チャーリー・ブラウン」をはじめとして、「ミッキー・マウス」「ポパイ」「のらくろ」「あんみつ姫」「鉄腕アトム」と、ある世代以上の者にとってはたまらなくなつかしい漫画のキャラクターが、そのまま詩のタイトルになっている。売れない方がおかしい。けれども、清水哲男は、詩による漫画史の構築を試みたわけでもなければ、広く大衆(みずからをも含めた)のノスタルジーを満たすためにそれらの詩を書いたわけでもない。サプカルチャーを詩に取り入れた先駆的例として、そういう要素が皆無というわけではないだろうが、主はむろん別のところに置かれている。

吉行理恵:青い部屋

第一詩集「青い部屋」(一九六三年)の巻頭作品にして代表作。文字どおり吉行理恵の詩業の出発点といえよう。ここにはまぎれもなく吉行その人の心と精神のかたちが現れている。/そこには侵入するものを拒み、すがたを現さないものをいとおしく思う心のありようが描かれている。つまり現実を拒み、幻想に傾きやすい資質を見てとることができる。ゆがんだガラスのような詩篇だと思う。孤独な出発だったのではないだろうか。

辻征夫:亀戸

亀戸は東京都江東区亀戸のこと。この町にはよく知られている亀戸天神があり、境内には大きな池があり、藤の花の名所としてもよく知られている。天神様は学問の神様として有名である。濁った池にはたくさんの亀が甲羅を干しているし、スッポンも悠々泳いでいる。「天神様の池」とはこの池のことであり、夜明けに「亀とスッポンがその辺の道を/歩いてい」ても、何ら不思議はない下町のロケーションだ。亀戸の亀。

岡田隆彦:ラブ・ソングに名をかりて/大股びらきに堪えてさまよえ

吉増剛造らとともに詩誌「ドラムカン」に拠った東京生まれの岡田隆彦は、都市を主要なモチーフとしつつあった六〇年代詩人のなかにあっても、とりわけ都市的な感受性に恵まれていた。都市的な感受性とは、たとえばランボーや吉増剛造がそうであるように、詩と都市との構造的な類同性を夢みて、いわば言葉による建築をめざすようなデミウルゴス(創造主)的スタンスのことではない。そのような、都市に対してある種超越的な姿勢をとるのではなく、むしろ都市に内在して、そこにひっそりと主体を息づかせながら、そこでなければ生じないようなさまざまな主体の光学的変成を語りうる感性のことである。この初期詩篇(処女詩集『われらのちから19』〔一九六三年〕に所収)にもそうした特質は遺憾なく発揮されている。

長田弘:ふろふきの食べかた

長田弘は、一九六〇年代に、そのみずみずしい感性としなやかな論理で、詩と批評の両面にわたって旺盛な活動を示したが、その後(それはちょうど、戦後詩が飽和に達した時期と一致していた)、現代詩のメーンストリームからは次第に離れて、より幅の広い読者を対象とする、平易でメッセージ性に富む詩を書くようになった。メッセージ性といっても、何らかの政治的意見なり社会風刺なりを詩的形式に乗せて、というものではない。言葉や文学をめぐるあらゆるものが変化し、消滅しても、なお、言葉の送り手と受け手とのあいだに、ひとすじの心温まる通路ぐらいは残るだろう、というような意味でのメッセージ性である。

清水昶:野の舟

清水昶が「現代詩手帖」新人賞を受賞して詩壇にデビユーしたのは一九六七年初め。蒼ざめた暗い影、時代に対する尖った感性をひっさげての鮮やかな登場だった。彼はそれまでに『暗視の中を疾走する朝』『長いのど』の二冊の詩集をすでに私家版で刊行していた。/「野の舟」は一九七四年に発表され、同年刊行された詩集「野の舟」に収められている。清水昶は当時三十四歳、もはやまぶしいばかりの新鋭というわけではなかったが、新たな抒情を獲得した若い詩的世代の旗手として注目されていた。

吉増剛造:燃える/初湯

「燃える」は第二詩集『黄金詩篇』(一九七〇年)に収められている。この詩集でエンジンを全開にして、ポエジイのパワフルな疾走ぶりを示す。彼の疾走は日常性を蹴破って宇宙スケールの壮大さを獲得し、言葉は大胆にして鮮烈、縦横無尽に躍動している。全にわたって太陽が登場し、風が吹き、ほとんどアジテーションにも似た声を連発しつづける。全に「!」が飛び交う。

佐々木幹郎:シャクナゲ・ホテル

佐々木氏は、一九七〇年前後の騒然とした政治的季節を背景に、暗く屈折した青年の無根拠的な情念を、しかし豊かなメタファーの駆使によって描き出す内面性の詩人として出発したのだ。それが、十数年の歳月を経て、この「シャクナゲ・ホテル」という、およそメタファーの詩学とは対極にあるような、しかも散文形式の作品を書くに至ったのである。

荒川洋治:見附のみどりに

第二詩集『水駅』(一九七五年)所収。この詩の中の「口語の時代はさむい。」という一行がひろく知られている。一九七五年は石油ショックに見舞われた年で、物価は不安定になり、失業者も増大した。そういう時代の空気を見事に言ってのけた一行であった。言葉に対する敏感さはやはり並外れていると思われる。

伊藤比呂美:歪ませないように

不思議な詩である。すらすらと読めてしまう、しかし粘着的な詩である。性的な、しかし性的であることを越えてもいる詩である。単純で力強い、しかししなやかに撓んでもいるような詩である。そして結局のところ、伊藤比呂美の詩としかいいようのない詩である。『伊藤比呂美詩集』(一九八〇年)に収録されている、比較的初期の作品だ。

伊藤比呂美。この詩人とともに、現代詩、とくに女性によって書かれる詩は、あらたな局面へと開かれた。性交、オナニー、排泄、出産、それらがストレートに発話されるようになったから、ではない。そうした発話を通して、詩が女性性をめぐるあらゆる生成変化の相をみつめ、言葉と事物、詩と身体とのあらゆる接続の仕方を追求したからであり、そうして、「個から種への転換」(荒川洋治)という文学状況を果敢に先導する役割を果たしたからである。この詩人のペンはまさしく言葉を産み出す。ふつう、ペンは男根にもたとえられ、白紙に言葉を刻印してゆくというイメージなのに、伊藤比呂美の場合は、紙を越えた空間におびただしく言葉が孕まれ、産み出されるという感じなのだ。この意味で、彼女はどんな過激なフェミニストの論客よりも、より深く本質的にフエミニストである。自分が何かを産み出す存在であるということを、詩作においてこんなにも物質的に実践してしまっているのであるから。

現代詩の鑑賞101 新装版 (Shinshokan literature handbook) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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