Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

柳田国男『地名の研究』中央公論新社(中公クラシックス)

「過去への道標」を毀損してはならない 今尾恵介

自序

地名の話

申すまでもなく地名は人のつけたものである。日本の地名は日本人のつけたものである。前住民がつけたとしても少なくともわれわれの採用したものである。新たにつけるのも旧称を採用するのも、ともに人の行為である。すでに人間の行為であるとすれば、その趣旨目的のないはずはない。

自分は永田方正氏〔一八三八〜一九一一〕の『蝦夷語地名解』を熟読した。なるほどアイヌの地名のつけかたは単純にして要領を得ている。かれらは長い地名をも意とせずにつけている。十シラブル、十五シラブルの地名を無頓着に用いてかる。これに反してわれわれの祖先は、はやくから好字を用いよ、嘉名をつけよという勅令を遵奉(じゅんぽう)して、二字つながった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五、六音節までの地名をつけねばならなかった。そのために元来はさほどへたでなくても、いかにもかゆいところに手のとどかぬというような、多少謎に近い地名のつけかたをするようになったのかもしれない。

地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。これが自分の女房・子供であるならば、われわれは他人をして別の名称をもって呼ばざらしめざる権利をもっているが、その他の物名になると、どうしても相手かたの約諾を要する。早い話がわが家の犬ころでも、せっかくハンニバルとか、タメルランとかいうりっぱな名をつけておいても、お客はことわりもなくその外形相応に、アカとかブチとか呼んでしまう。ゆえに一部落・一団体が一の地名を使用するまでには、たびたびそこを人が往来するということを前提とするほかに、その地名は俗物がなるほどと合点するだけ十分に自然のものでなければならぬのである。地名にほぼ一定の規則のあるべきゆえんであって、かねてまたその解説に趣味と利益とのあるべきゆえんである。

地名と地理

明治十七年前後の内務省地理局の事業としては、この中小字を全部書き上げさせる企てがあった。これにも簡単な地図をとものうていたというが、私はその二、三点しか目賭(もくと)していない。字名集のほうは幸いにして大部分目をとおし、また少々の書き抜きをしている。地理局が縮小して課になった際のことであったろう。この全記録がいったん内閣の記録課に引き継がれ、それから東京の帝国大学へ寄託せられてあって、最近の大震災〔関東大震災 一九二三年〕に焼失してしまった。府県にはまれにその副本を存するものがあり、現に愛知県などは近くこれを出版しようとしているが、全日本を取り揃えることは、もはやほとんど望みがたい。それほどまた浩瀚なものでもあったのである。なんでも大学の旧本館の階上数室に、ぎっしり積み込まれてあったという話である。

地名と歴史

地名考説

一 地名の研究
二 地名研究の資料
三 地名の宛字(あてじ)

雑誌「地球」に発表せられた中村新太郎君の地名研究を見ると、朝鮮のほうにも同じ事情があったらしいが、漢文学の日本征服は、残念ながら、ほとんど完全であった。地名にかぎらず何か物の名をいうと、どんな字を書きますかと聞く人が、今でもざらにある。どんな字はたいていこのとおり、みな、やたらな字だったのである。われわれはむしろ地名を見て、必ず何とよみますかを尋ねなければならぬ。そうすれば、誤りにもせよ、これを用いた人の境遇がわかり、したがってやや前代生活の一面が尋ねられる。それが日本に限られたる地名研究の興味の一つである。

四 地名の発生

野と原とはもとは明瞭に異なった地形であった。そしてハラだけが漢字の平野を意味していたように思う。したがってノに野の字をあてたことは、最初から精確でなかった。日本語のノまたはヌは、今の花合せの骨牌(かるた)の俗称坊主を、一にまたノというのがもとの意味に近い。すなわち火山国に最も多い山のふもとの緩傾斜、普通に裾野と称するものが、これにあたっていることは、すでに故人も説いているのである。こういう地形には水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に居住しえられた。上代の土着計画者が、まずこれに着目したのは自然である。境を隣して候補地がいくつかある場合には、形容詞を付添して甲乙を区別し、すなわちいろいろの何野・何々原が世に残ることになったのである。

五 開墾と地名
六 分村の地名のつけかた
七 荘園分立の実例
八 久木
九 帷子
一〇 阿原
ーー ドブ、ウキ
一二 真間
一三 江角(えずみ)
一四 湿地を意味するアイヌ語
一五 福良
一六 袋
一七 富士、風戸

昔の人の感情は驚くべく粗大であった。羞恥(しゅうち)という言葉の定義が輸入道徳によって変更せられたまでは、男女ともにその隠し所の名を高い声で呼んでいたらしい。そうしてその痕跡をとどめている地名のごときは、よほど起原の古いものと見てよろしいのである。これも海岸において往往遭遇するフトまたはフットという地名は、疑いもなくホドすなわち陰部と同じ語である。

一八 強羅
一九 コ(カ)ウゲ、カガ、カヌカ
二〇 ナル、ナロ
二一 アクツ、アクト
二二 アテラ
二三 ハンタテバ
二四 魚ノ棚という地名のこと
二五 教良石、教良木
二六 玉来
二七 反町
二八 一鍬田
二九 五反田

五反田は五反を一区とする田地のあったゆえの地名である。三反田・八反田などの地名も多くある。

三〇 横枕
三一 峠をヒョウということ
三二 アエバ
三三 田代と軽井沢

しからば軽井沢のもとの意味如何というと、自分はカルフという動詞の連体言カルヒであろうと思う。カルフは普通の辞典には見えぬが背負うという意味の中古の俗言である。九州には今も用いられているが、一地方のみの方言ではないらしい。有働良夫氏〔農業指導者 一八七六~一九三七〕の話に、肥後の菊池では村民の不都合な者を排床することを「臓鍋かるわせる」という。すなわち炊具一つ負わせて居村を追い出すことだ。

このついでに一言したいのは軽井沢と田代(たしろ)という地名との関係である。この二地がしばしば相接してあることは、よもや偶合ではあるまい。

要するに開けば水田になるべき地のことと考えられる。その田代が今はたいてい開かれて一区の村里の名になっていることは、以前その下流または隣接地に本村などがあって、早くから水田適地としてこの地に着目していたのを、人口が増すにつれて開作に手を下したということを意味し、多くの田代がずいぶんの山奥にあるのは、今日でも北海道・樺太の新村で米を栽培したがると同一の人情で、水の手の乏しい高地を拓くにいたり、いよいよ米作の希望を痛切にした結果が、地名となって残ったものと思う。こうしてその田代に接近して存する軽井沢が、負搬してまでも道路を求めた、人間移動の流れの溝口を意味するとすれば、これだけでも昔の田舎の生活がしのばれる。

三四 イ(ヰ)ナカ
三五 サンキョ
三六 垣内と谷地
三七 タテ

各地のタテはいずれも下館が代表するごとく、(イ)土地高燥快活にして平素の生活に適し、 (ロ)水田に適する平地があって多くの農民を住ましめ得、(ハ)また卑湿にして敵の攻めよするに不便なる低地をひかえ、(ニ)かねて展望の都合よろしく、(ホ)なお戦利あらざる場合に静かに立ちのきうる山地と一方に連絡し、(へ) その上に清浄なる飲水と燃料があるのを条件として選定せられたものらしい。

三八 堀之内
三九 根岸および根小屋
四〇 土居の昔
四一 竹の花
四二 八景坂
四三 新潟および横須賀

カタもしくはガタという地名は、太平洋岸にも愛知潟・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。この方面においては、北は津軽の十三潟、秋田の八郎潟から、南は筑紫の香椎(かし)潟・宗潟(むなかた)に及んでいる。北国においては、ガタとはまた平地の湖を意味する普通名詞である。そうして多くのガタはその一面が、はなはだ海に近い。海とガタとを隔絶するところの陸地は、おおむね幅の最もせまい砂浜であり、そのうえ往々にして水がその海と通っている。この事実から推せば、ガタは英語のラグーンにあててよろしい語である。

四四 カクマその他

朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かもしれぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西にあたる日影に乏しい所は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオンジと呼ぶのは陰地の音読らしい。

四五 ダイ

バチェラー氏の語彙によれば、taiタイ =forest 森とある。金田一君の説にしたがえば、これは少し誤りで、タイとは傾斜地のことだと いう。木のあるタイは特にニタイと言う。陸中胆沢(いさわ)郡姉体村または陸奥二戸郡姉帯村などのアネタイなども、せまい傾斜地を意味するアイヌ語と解せられるという。かつて会った秋田県の人に何平とか書いて平をサカとよませた苗字があったことを記憶する。平をサカというのは不思議だが、おそらくは平の字をあてたタイが傾斜地のことであるがためで、日本語に訳すれば坂に該当するためであろう。

四六 丘と窪地の名
四七 ウダ・ムダ
四八 グリ
四九 金子屋敷
五〇 多々羅という地名

自分は久しく東西の各府県にわたってタタラという地名があって、とりわけ山中に多いことを注意していたが、いかに砂鉄の分布でも、おおよそ限りのあるものであろうから、その起原をととごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし小此木氏の諸国刀鍛治の話を聴くにおよんで、これにもしかるべき子細のあることを理解し、かくのごとき多数のタタラは、必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、かも燃料または用水の関係、および場所の清浄をたもつ必要などからも、逐次に移って行ったのかもしれぬと思うようになった。

五ー トツラ・トウマン
五二 破魔射場という地名
五三鉦打居住地
五四 京丸考
五五 矢立咔

大唐田または唐千田という地名

アテヌキという地名

和州地名談

水海道古称

地名の研究 (中公クラシックス ; J65) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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