Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

柴田南雄「印象派以降」,『柴田南雄著作集 1』国書刊行会

柴田南雄はもちろん最近『音楽史と音楽論』を(ようやく)読んで興味を持ったからなんだけど,なんで「印象派以降」を読もうと思ったんだっけな。とにもかくにも,こっちの方が圧倒的に面白い。文章量はやっぱり多い方が面白い。ドビュッシー以降の〈純音楽〉――柴田がこういう用語を使っていたからそれに倣おうと思うんだけど――の世界がだいぶ分かったといういか,自分が今までだいぶ分かっていなかったということがよく分かった。柴田にいわせればこの期間の三巨塔はドビュッシー、シェーンベルク、ストラヴィンスキー。それ以外の作曲家と作品についてもだいぶ名前が知れて良かった;パーカッショニズムあたりの作家・作品が特に面白いなと思った。

岡田暁生による解説もまた良くて,柴田の文章というか思考の特徴――形容詞を用いて情緒を語る吉田秀和や小林秀雄との対比で特に――がよく分かった。本当は「印象派以降」だけ読もうと思ってたけど,岡田の解説の中にある柴田がブラームスを語る箇所の説明がまた面白くて……「西洋音楽の歴史」も読みたくなってしまった。嬉しい悲鳴。

『音楽史と音楽論』でも柴田は〈通時的〉と〈共時的〉というふたつの軸を用いて音楽の歴史を語っていたけれど,この「印象派以降」でもふたつの軸が用いられる。ひとつは時代。もうひとつは地域。書く方にしたらしんどい作業だと思うけれど,これを当然のこととして書く柴田はすごい書き手だなと思う。

序章

一般歴史における〈現代〉

二〇世紀の音楽の概観を、どの時点から説き起こしたらよいか、ということはこの種の書物の著者をつねに悩ませる問題であるが、今試みに一般歴史の書物の現代編についてしらべて見ると、これらの書物の執筆者もまた、同じ問題に対して決定的な指標を持ってはいないようである。

従って一八七一年〔普仏戦争、パリ・コミューン、統一ドイツ帝国の成立〕よりはむしろ、音楽史独自の立場から、一八九〇年頃を現代への最も重要な出発点とみるのが適当であると思う。その最も積極的な理由は、ドビュッシーが印象主義の作風を確立する時期に当たっていることである。さらに、消極的ではあるが小さくない理由として、ほぼ一八九〇年前後がロマン派音楽の解消点と考えられることである。それは、一九世紀後半に活躍した多くの新ロマン派、民族主義ロマン派の作曲家たちが、一八九〇年を中心とするほぼ十年間に大量に世を去ったからである。

音楽史的時代区分と用語の関係

一般に名演奏家ほど、自己の曲目を選ぶ上で保守的な態度をとるものであるが、そのために音楽の世界では文学や絵画にくらべ、〈現代〉が鑑賞者に伝わるまでに多くの年月を要し、今日の音楽会の一般聴衆が、ドビュッシーさえもなお〈現代的〉(モダン)であるという実感を持つことさえ、あり得ると思う。

二〇世紀の何年代までが,音楽史の対象となり得るか
半音階の系譜

〈印象派以後〉の音楽には第二次大戦を境に大きな断層が見られるにしても、全体としての二〇世紀の音楽作品にあらわれている反古典的な諸特質は、決して音楽史上はじめて突然に生じたものではなく、ほとんどは一九世紀に至るまでの音楽作品の中でつちかわれて来た要素の発展した姿、より適切に言うならばそれらのいっそうラディカルな表現と考えられる。とくに第二次大戦までの作風についてはこのことがよくあてはまる。

半音階法はまず最初に中世のオルガヌム=モテット様式が頂点に達した一四世紀後半に、次には教会旋法による多声声楽の様式が成熟の極に達した一六世紀後半に、より大規模に発生するのを見た。さらにバロック時代の未期、その通奏低音様式が弱まり古典的書法に移行しようとする時期に小さな波としてではあるがかなり豊かな半音階法が現われるのである。たとえばバッハの作品の中では、ロ短調のフルート・ソナタの第一楽章や《カンタータ第六〇番》のリディア調のコラール(旋律の作者はルードルフ・アーレ)に対する和声付け(譜例7)などはその一例である。しかし、この時期は調性の生命力がいまだいささかも衰えていないばかりか、むしろ来たるべき古典派での開花期を前にしてもっとも旺盛な時期であるため、装飾的な半音階法とも言うべき形に終わっている。

このような音組織の変化の遠因を考えるなら、いつの時代にあっても政治情勢の変化や文化の進歩が人々の生活や感情や思想を変え、ひいては音感覚上の好みを変えていくものであることは言うまでもない。では一九世紀から二〇世紀にかけて音感覚の変化に最も直接的に影響した要素は何であろうか。

余談であるが、このように調性の体系が民族的作曲家により次第にあいまいに導かれる経過は、ハプスブルク帝国の支配力が次第にゆるみ、スラヴ系、マジャール系の諸民族による相つぐ民族主義運動を抑え切れなくなっていく経過と時期的に一致している。

以上のように東欧のスラヴ、マジャールおよびジプシーのエクゾティックな音感覚による調性への挑戦と複雑にからみ合いながら、ロマン主義音楽の本質である、主観性の極度の強調から来る情熱の異常なたかまりや夢や幻想などの要素が、半音階を豊富に伴ないながら標題的な交響詩やオペラの中で実現されるのである。

拍節法・形式・テクストの変遷

両大戦間の〈新古典主義〉の時代の諸作における古典形式の優位については言うまでもないが、一九三〇年代の傑作とされているバルトークの《楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》(一九三六)を想起してみるならば、その緩・急・援・急の楽章配置はバロックの〈教会ソナタ〉あるいは〈教会コンチェルト〉の楽章配置の復興である。これはこの曲が一六世紀ヴェネツィア業派からバロックにかけて流行した、二群に分かれた弦楽器群の協奏様式で書かれていることと無関係ではない。また、第一楽章(ここは全体を一つの群として扱っている)ではフーガを独自の形式ー主題の入りを十二の調で呈示するなどーで扱い、さらに、フーガの各部分の比例は黄金分割によるなどの創意が見られる(詳しくは第一章第二節で触れる)。一方、この曲が第一、第二楽章にもっとも内的な楽想を盛り、第三楽章、第四楽章に民族的な色彩を強調している点に、古典派の交響曲の伝統を感じさせるのである。このように、一見きわめて独自な形式感を持つと言われる現代曲も、古典、バロックから次第にルネッサンス、中世へと遡って各時代の諸形式を復活させ新たな息吹を与えたものが多く、とくに両大戦間の作品にその感が深い。

元来、いつの時代にあっても作曲技法上の斬新な着想とか音楽語法上の新奇な試みというものは、純器楽曲よりはまず劇音楽や標題音楽に現われるのである。音楽外の要求によって新しい音楽語法が工夫され、新発見され、作曲技法が拡大されるという過程がつねに見られる。従って背後の文学、思想がどのようなものであるか、ということは音楽様式と密接に関連してくるのである。

第一章 概説

序説 時代区分と種々なイズムについて

印象派以後今日までのヨーロッパ音楽には、作曲様式その他の理由から決の三つの時代区分が認められる。/(I)一九世紀末から第一次大戦の終りまで(一八九〇年頃―一九一八年)/(II)両大戦間(一九一八年―四五年)/(III)第二次大戦以後(一九四五年以後)/これら三つの時期にあらわれた主要な作曲様式は第一表に示す通りであるが、時にはある様式が一時代を越えて決の時期にまで及ぶこともあり得る。

第一節 一九世紀から第一次大戦終りまでの音楽

ほぼ一八九〇年頃から一九一八年までの三十年足らずのこの時期には、前述のように印象主義、原始主義、表現主義のような新しいイズムの出現も見られるが、全体としてはロマン主義の影響がなおひじょうに根強く残っており、全体像としては諸国に拡散され、またいっそう個性化されたロマン主義音楽、という観を呈している。これらを総括的に後期ロマン主義の音楽と呼んでもかまわないであろう。何よりも、一八九〇年という時点において、すべての人の前に大きくたちはだかっていた音楽現象はヴァーグナーのオペラであったことを忘れるべきではなかろう。

印象主義

音楽における印象主義はそれ自身の開花というよりは、他の芸術分野からの影響であり、反映であると言えよう。しかしその結果、音楽自体の開花であった一九世紀のドイツ音楽のヘゲモニーが打ち破られるに至ったことは注目すべきである。

《牧神の午後への前奏曲》(一八九二―九四)がそれであり、これによって彼はそれまでの伝統的な作曲法をはなれて、一挙にして印象主義の手法を確立し、また一躍有名な存在になった。この曲では、これまでの一九世紀音楽の伝統的なリズム感は単調な持続に、運動のエネルギーは忍耐のエネルギーに、メロディーは精妙な和声や音色の対照へとそれぞれ変えられた。動機的展開のかわりに短い主題が何回となく反復されるが、しかし、そのたびに楽器や和声のニュアンスが微妙に変化する。

彼にとって音楽は「水の運動や気まぐれなそよ風の描く曲線のたわむれ」であった。彼の曲の題名には不定形の流動体と関係あるものがきわめて多い。雲、霧、風、海、波、水、匂い、音、光……。印象主義の絵画が、光の振動の結果である色彩を優位に立たせ、自然には存在しない線を描かないように、ドビュッシーも形態の明確さや輪郭のはっきりした旋律をきらい、音色とニュアンスを重視した。彼の創作態度は文学的であるよりはむしろ本質的に絵画の発想法に近かった。要するにそれはいわゆるファン・ド・シエークル(世紀末)に発生した、きわめて感覚的な音芸術であり、音楽における象徴主義(サンボリズム)、あるいは耽美主義の代表者と言えるであろう。

ドビュッシーを中心とする印象主義の作風の技法上の諸特徴を概観しておこう。まず形式の面では、曲の性格に密着した有機的な形式がとられ、ひじょうに多様であるが、まず開始と終止の伝統的な明確さは多くの場合すてられている。しかし、小規模な部分のシンメトリーや二部形式、三部形式はきわめてしばしば用いられている。その反面、調性音楽の世界で完成された様式である、ソナタ形式やフーガが用いられないのは言うまでもない。旋律の面では古典派、ロマン派に比べ、いちじるしく断片的である。(…)音組織の上では何よりもまず非ヨーロッパ的音組織からの影響が濃厚に感じられる。すなわちエクゾティシズムの一つのあらわれという面がひじょうに強い。この点はドビュッシー自身若い頃にロシアや東洋の音楽に接した体験に発していることは明らかである

原始主義

そしてこれらすべての頂点に、ストラヴィンスキーの三大バレエ曲を中心とする彼の原始主義のスタイルが登場したのである。それら原始主義の本質はたんにエクゾティックな題材、あるいは音楽素材を用いるにとどまらず、何よりもその原始の生命力を音楽の力として赤裸々に、既往の作曲上の約束にとらわれずに表現することにあった。/それは言わば、一九世紀の微温的エクソティシズムの灼熱的高まりであり究極点でもあった。また、ドビュッシーの印象主義が、印象主義の絵画と切り離せないように、ストラヴィンスキーの原始主義とフォーヴィズム(野獣派)の絵画や彫刻は同じ精神的基盤に立脚していることを忘れるべきではなかろう。

ストラヴィンスキーは後期ロマン派特有の大編成の管弦楽を媒体として、民謡や民族舞踊のもつエネルギーをより直接的に放出しようとする。従って強烈なリズム、原色的な音色が前面に押し出される。

プロコフィエフはストラヴィンスキーよりも叙情的な要素が勝っており、つねに伝統的な手法で旋律を歌わせるために、後者ほど衝撃的なリズム感を与えることはない。

バルトークの習作時代の作品は、前二者〔ストラヴィンスキーとプロコフィエフ〕よりもはるかに、ドイツ・ロマン派の様式に近かった。それはハンガリーが長くドイツの音楽文化圏に属していたからでもあるし、また彼の幼時からの教育や専門的修業の環境からの当然の帰結と考えられるが、それだけに、彼は二三歳(一九〇五)の折、パリに初めて旅してドビュッシーに接し、その印象主義の和声法に大きな衝撃を受け、その影響下に、かねて注目しつつあった自国の農民歌を素材とする創作に向かうに至る。

神秘主義

神秘主義とは、一般に事物の本質なり神なりをある独特の方法で直観的に認識し、その結果精神を高揚させて主観的に至高の境地、いわゆる法悦感にみちた、至福の状態に達するものと考えてよいだろう。二〇世紀の作曲家の中でこの種の体験をもち、その上この思想を音で表現しようとしたおもな人として、サティ、スクリャビン、ジョリヴェ、メシアン(中期まで)等の名が思い浮かぶ。いずれにしてもそこにはロマン主義的な傾向がきわめて強く感じられる。

スクリャビンは今日不当に忘れられた作曲家の一人であり、その晩年の無調的傾向をおびた作品はなおまれにしか演奏されない。彼はその初期にはショパン、リスト、ヴァーグナーの影響下から出発したが、中期以後は前述のように独自の音体系を排他的に使用するに至っており、その点ではドビュッシーをさえしのいである。(…)彼のある時期の作品群は、この六個の和音から成る音列から、旋律も和声も統一的に導き出されるのであるが、このようなアイディアは前記リストの 《葬送の前奏曲と行進曲》(一八八五)の手法(四九七ページ参照)を継承していると共に、じつにシェーンベルクの〈音列作法〉(後述)の先駆をもなしている。スクリャビンのこの種の傾向は第三ピアノ・ソナタ(一九〇三)から漸次明確化し、管弦楽の《法悦の詩(第四交響曲)》(作品五四、一九〇八)に至って〈神秘和音〉はその完全な形で姿を現わすが(譜例27)、さらに、《プロメテ(第五交響曲)》(作品六〇、一九一〇)に至ると全曲がこの和音一音列のみから形成されるに至る(譜例28)。しかし、スクリャビンは以後の全作品をこの手法で押し通した訳ではなく第六ピアノ・ソナタ(作品六二、一九一二)以後はそれぞれ独自の音組織を基礎とするに至った。

表現主義

狭義のロマン主義に属する作曲家の中でも、生涯のある時期に表現主義的な傾向をとった人々をここではとりあげることにしたい。まず、レーガーであるが、彼はスクリャビンに似て不当に忘れられた作曲家の一人であり、ドイツ音楽史上ではブラームス―レーガー―ヒンデミットの系譜に属している。彼ら三人はいずれも北ドイツ系のプロテスタントの音楽家なのに対して、リスト、ヴァーグナー、マーラー、シュトラウス、シェーンベルク(さらにその弟子のベルク、ヴェーベルン)らは南ドイツ、オーストリア系で、カトリック圏(ただしマーラーとシェーンベルクはユダヤ人)に生まれ育った。バロックの昔からドイツの南と北では作風はいちじるしく相違し、すべての点で対照的である。ここでプロテスタント・コラールの伝統に育った北方の人たちがいかに一部の作品の中で半音階を用いても、全体としては調性世界から脱し切ることがないのに反して、グレゴリアン・チャントの旋法音楽の伝統に育った人たちがむしろ調性に対して自由な態度をとり、無調に赴くに至ったのは興味深い事実である。ヴィーンの批評家ハンスリックが、ブラームスの側に立ってヴァーグナーやブルックナーの一派を攻撃したのは芸術のタイプの相違もさることながら、その深い根源は上述の点にあると思われる。

さて、マーラーその他前にあげた民族的作曲家の場合は、音楽語法も音楽的想念もレーガー以上に新しいことはほとんどあり得ないのだが、わずかにブゾーニの場合、一部の作品(たとえば、ソナチナ第二番)にひじょうに革新的な試みが見られるのは注目に値する。これに反して、中期までのリヒャルト・シュトラウスや、とくにシェーンベルクおよびその弟子たちは次第にドイツにおける絵画や文学の新しい傾向であった表現主義の、音楽上の実装者という立場を明瞭に打ち出すようになる。

元来、一九世紀後半に、絵画の世界でフランスの印象主義が時代の先頭に立ち、やがて音楽の分野でもドビュッシーが印象主義の作風を樹立したが、この頃ドイツでは絵画でも音楽でも、フランスのそれのような目ざましい新しさはなく、すでに古典主義、ロマン主義の輝かしい時代を過去の記憶としていわば後進性を示していた。これは当時の保守的な、軍国主義的なドイツ・オーストリアの社会を考えれば当然と言える。

印象主義 Impressionism と表現主義 Expressionism は言葉の上で対語をなしているが、内容的にも両者はあきらかに対立する芸術思潮であり、また後者が前者の反動として起こったと考えられる。前者が何よりも芸術家の個性を通しての自然の客観的観察であるのに対して、後者は対象を拒絶し、もっぱら芸術家の内部から外へと創造するのである。前者が本質的にラテン的、南欧的な芸術(絵画・音楽)であるのに対し、後者はゲルマンまたはスラヴの、つまり中・北欧の芸術(絵画・文学・音楽)である。印象主義が、何よりも感覚的なものであり、芸術家の感情表現に役立つ多様な要素をいわば装飾的に配列しようとするのに対し、表現主義は独自の感情世界の主観的な表現であり、とくに、極限まで高められた情緒、極度の内的興奮の状態において、悲劇的なもの、予言的なもの、謎めいたもの等々を探求しようとする。それはロマン主義の芸術の一つの究極点であり苦悩の体験にみちている。文学や絵画、また劇音楽や標題音楽において、表現主義が好んでとり上げた主題をより具体的に列挙するなら、生への矛盾、生への不安、恐怖、孤独、悲惨、病、死(殺人または自殺)、性的要素の過度の強調、奇怪な悪魔的な幻想、消費的な享楽、精神分裂定的自己崩壊、無我夢中の恍惚、宗教的疑問、急進的な人間性探究、といったものである。とくに、現代人の自我の危機が、表現主義芸術の好個の主題である点が重要である。

騒音主義

第二節 両大戦間の音楽

一九一八年から一九四五年に至るいわゆる両大戦間ほぼ三十年の経過は、一言で言えば一九世紀以来の〈ロマン主義音楽〉時代のコーダに当たる部分である。また、前述のように一九世紀末から第一次大戦までのほぼ三十年間の様相を大づかみに〈後期ロマン主義〉(広義の)の時代と呼び得るように、両大戦間の様相は粗大な観点から〈新古典主義〉(広義の)の時代と呼んで差しつかえないと思う。たしかに両大戦間はおしなべて作曲界に新古典主義的傾向の横溢した時代であり、さらにこれにつきものの折衷主義、足踏み、さらには退歩の傾向さえも、とくに両大戦間の後半にいちじるしかった。しかし、両大戦間の当初、新古典主義は現代音楽をその迷路から救うものとしてひじょうに大きく評価されたのであった。その底には混乱する現代芸術の様式を古典的なものに復せしめようという一種の倫理的な願望――その実、多分に感傷的なものであるが――があったことは否めない。しかし第二次大戦後の大きな変化を考えるなら、両大戦間の成果はシェーンベルク、ヴェーベルンらの十二音技法やメシアン、バルトークらの独自の語法による新たな音世界をのぞいては、新しいものへの探究というよりはむしろたんに古いものの復活という面が強かった。ともかく、この三十年間の経過をくわしく眺めると、二〇世紀特有の政治的影響の点からも、音楽の世界はひじょうに複雑な様相を呈していることが判る。

大戦前夜の高まりの時期にうずまいていた、形の不分明な、もやもやした雰囲気的なもの(印象主義、神秘主義に見られた)、異国趣味(印象主義、原始主義に見られた)、心理的な深刻な内容(神秘主義、表現主義)、怪奇な幻想(原始主義、表現主義)などは第一次大戦の終了という一種の楽天的気分とともに雲散霧消し、普通の意味で健康な人間感情に訴えるような、率直な、より日常的な作風が好まれるに至った。

とくに《兵士の物語》ではきわめてユニックな室内楽ふうの楽器編成がとられており(クラリネット、ファゴット、コルネット、トロンボーン、ヴァイオリン、コントラバスと打楽器の七名。以上の木管、金管と弦はそれぞれ一対の極端な音域をもつ楽器を選んである)、これは、大戦中のスイスでは奏者が容易に得られぬことや、上演の経済上の理由からも小編成にする必要があったのだが、同時に期せずして簡素な編成による新古典的作風への先駆となったのである。

なお、今日のオーケストラ演奏会における二〇世紀音楽のレパートリーのうち、新古典主義の作品、なかでも一九三〇年代の折衷的傾向の作品が圧倒的に多い。たしかにこの傾向が、現代の曲目の突破口をつくっているのだが、それはこの種の作風が聴き手に理解されやすい、いわば一九世紀のそれに近いスタイルをとっていることの証左であろう。なお、第二次大戦後二十年余をへた今日でも実用的な宗教作品や式典用の楽曲、あるいは各種のコンクールに入賞する作品などは世界的にほとんど、広い意味での新古典主義的な作風をとっており、この状態は今後もなお当分つづくと考えられる。

新古典主義

美術史の分野では、真の古典はギリシア、ローマであり、従って古典主義の作品とはその精神と様式を受け継いだ作品一般を指すのである。具体的にはルネッサンス時代のその種の作品とか、さらにより一般的には一八世紀末から一九世紀前半の一時期が古典主義の時代と呼ばれている。しかし、前述のように真の古典は古代にあるから、一八、九世紀に跨がるそれを美術史の分野では新古典主義と呼ぶ場合がある。音楽史の分野ではギリシア、ローマはもちろん、ルネッサンス時代の作品をも古典と呼ぶことはあり得ず、一八、九世紀にまたがるヴィーン楽派が音楽史上の最初の古典主義音楽であり、従って新古典主義 Neoclassicismとはヴィーン古典派以後に現われた音楽で、明確な調性感と輪郭のはっきりした形式感をそなえた、概してホモフォニックな様式に対して名づけられる。音楽史上、最初に新古典主義と呼ばれたのはブラームスの音楽であるが、それはほぼ同時代のヴァーグナーやブルックナーの音楽が半音階的転調の多い、形式の見通しにくい作風であるのに対していちじるしくヴィーン古典派の精神とスタイルを受けつぎ、復興させようとの意図が明らかなためにそう呼ばれたのである。しかし、今日ではブラームスに対するその呼称はほとんど用いられない。新古典主義と言えばほとんどもっぱら、これから述べる二〇世紀のそれを指す。

ストラヴィンスキーの新古典主義的な徴候はドビュッシーと同様、第一次大戦中からすでにあらわれていたことは前述の通りである。しかし、古典時代の作品そのものから直接古典の様式を汲みとったという点で《プルチネラ》は画期的な意味をもつし、事実この作品が彼の、ひいてはヨーロッパの新古典主義時代の出発点となった。

初期に印象主義の作風を示したラヴェルも、この時期以後は新古典主義の作風に転じており、従って彼の場合はドビュッシーに比べていっそう新古典主義時代の作品の比重が大きい。しばしば、ラヴェルはドビュッシーと並べて印象主義の作曲家とされるが、初期の若干の作品はともかくとして、われわれが最もよく接するラヴェルの中期以後の諸作、たとえばト調のピアノ協奏曲(一九三一)などは、むしろ新古典主義のカテゴリーに属するものである。

民族的新古典主義

この名称は、バルトークの一九二〇年代、三〇年代の独自な作風――一言でいうなら、なまの民謡素材の採用を止揚し、ソナタやコンチェルトなど抽象形式の大作を多く産出した時期――に対してここで仮に名付けたものである。第一次大戦までの原始主義の闘将たちのうち、ストラヴィンスキーはバロックの調性音楽を目指して狭義の新古典主義、ないしは言葉の真の意味での新古典主義の態度をとり、プロコフィエフもまた一九世紀ふうの民族主義ロマン派のスタイルに後退したのは前述したとおりである。しかし、ひとりバルトークはそうでなく、この時期に全く独自の音楽語法を組織化して数々の傑作を生み出している。もっとも彼も第二次大戦中アメリカに渡ってからの、一九四三年以後の作品では結局新古典主義的、ないし彼自身の第一次大戦以前の民族的ロマン主義の作風に後退するに至ったが、両大戦間のヨーロッパ滞在中の主要作、たとえば第三弦楽四重奏曲(一九二七)、第四弦楽四重奏曲(一九二八)、《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》(一九三六)、《二台のピアノと打楽器のソナタ》(一九三七)等では特異な語法による厳しい姿勢を崩していない。

ともかく倍音列音階はバルトークの鋭敏な直観力と透徹した英知の産物というべきもので、きわめて巧妙な、ほとんど奇蹟に近い不思議な存在というほかない。後述するシェーンベルクの《奇蹟の音列》と共に、二〇世紀前半において最も考えぬかれた音組織ということができる。なお、《二台ピアノ》(一九三七)の終楽章で木琴が力強く打ち出す主題はこの音階そのままの上行形である。

新神秘主義

メシアンはドビュッシーの技法を広範な基礎にしながら、スクリャビンとサティの音楽理念を継承する新世代の音楽者と考えられるが、彼の両大戦間――といっても時期的にはほとんどその後半に当たるが――のスタイルを仮に新神秘主義と呼んでおく。

たしかに、彼の音楽は多くの人々が指摘するように仰的、禁欲的であるどころか甘美で官能的でさえあるし、新古典主義をとび超えてドビュッシーの印象主義の色彩性の重視に傾いているため、華麗な和音の花房を眺めるようであり、ある場合は豊麗な輝やくばかりの音響の滝といった観を呈している。一曲は概して長大であり、しかも多楽章から成り、また、極端にゆるやかなテンポの楽章が多いのもメシアンの特徴であろう。たとえば前記《世の終りのための四重奏曲》の終曲である第七楽章《イエズスの不滅性への賛歌》は、「極度にゆるやかに、おだやかに、恍惚として」という発想標語と共に、四分の四拍子で書かれているのに八分音符で約三十六という指定がある。一分間に四分音符十八というテンポは未曽有の遅いものであるが、それが彼の音楽的想念の表現に――いいかえれば聴き手に対する効果の上で――必要なものであることはうなずける。

十二音音楽主義

十二音音楽とその技法についてはしばしば二〇世紀の作曲界の最大の問題と見なされ、そのためさまざまな挑判が跡を絶たず、彼による調性の否定がすなわち音楽からの逸脱であると断じる極端に保守的な言説さえ今なお行なわれている。しかし五音音階、七音による教会調、七音による調性音楽、その組織の中に半音階の使用、やがて無調のさまざまな書法、そして十二音音楽という発展過程は、ともかく西洋の音楽の歴史の必然の進路であったと思われる。長調、短調という音階そのものはヨーロッパの中心部という限定された地域にわずか数世紀前に出現したものにすぎず、よりながい時代、よりひろい地球上の諸民族の音楽現象を比較観察するならば、調性そのものが芸術音楽の成立条件であるという証明は成り立たないであろう。しかし、調性音楽には、たんに歴史的民族的背景のほかに、三和音体制とドミナントの重視という、自然倍音列から導かれる自然の根拠があることは見逃せない。

シェーンベルクの技法がひじょうに革新的な一面をもつことは否定できないが、それをたんに恣意的なドグマと考えることも明らかに誤りである。

半音階使用の頻度を多くして調性をあいまい化する傾向は多声音楽の発生以来数百年間に何度かくりかえし起こった傾向であり、とくに一九世紀以来その傾向は一貫した上昇線をたどって来たのである。シェーンベルクがその一般的傾向の変転ないし趣味の変化を組織化し、理論化するに際して独自な十二音技法という〈規則〉を打ちたてたのは事実だが、たとえばルネッサンス期の数多くの理論書の中にも、実作品の慣用例とは思えぬある種の規則が記述され、それが定着して以後の大作曲家たちの作風に影響したと思われる例は決してまれでない

新即物主義

ヒンデミットやヴァイルら、この時期におけるドイツの新世代の音楽傾向を新即物主義 Neue Sachlichkeit と呼ぶが、この語は文学や美術における一九二〇年代の新傾向の音楽への転用である。その傾向は一言でいうなら一時代前の表現主義への激しい反動である。

第一次大戦直後の頃から各地の現代音楽祭を通じて発表されて来たヒンデミットの新作器楽曲は、表現主義(後期ロマン主義)の鬱然たる気分や大袈裟な絶叫、あるいは陶然たる甘美を払いのけ、演奏家気質(ムジカンテントウーム)にみちた、ブッフォ的で陽気な、キビキビした運動的な音楽であった。それはヴァーグナー以後のドイツ語圏から生まれた最も反ヴァーグナー的な最初の音楽であった。技法的にはネオ・バロックふうな、線を主とした対位法的な書法が優越し、半音階や不協和音も遠慮なく頻出してくるが(その点でより全音階を固守したフランスの六人組と異なる)、全体としては調性を失なうことのない、いわゆる〈拡大された調性〉のスタイルであった。

シゲティ、ギーゼキング、トスカニーニら、両大戦間に生産の頂上期を迎えた大演奏家たちの反ロマン的な演奏スタイル、すなわち楽講に忠実に従い。作曲家の精神を再現しようとする客観主義的な演奏態度を新即物主義)と呼ぶが、これは用語としては前記作曲様式からの転用であろう。

社会主義リアリズム

ソヴィエトでは、一九一七年の革命直後から引きつづいて一九二〇年代の終り頃までというものは、芸術においても革命的なもの、前衛的なものが容認された。一九一八年、レーニンの下で文化人民委員だったルナチャルスキーはプロコフィエフに向って「君は音楽における革命家だ。われわれは実生活での革命家だ。一緒に仕事をしようじゃないか!」と言ったと伝えられる。

一九二八年、ソヴィエトでは第一次五カ年計画が開始され、この頃から次第に思想、文化、芸術の領域でのイデオロギー強化がはじまる。一九三〇年、第一六回覚大会でスターリンは社会主義社会の文化について論じこの時、「形式において民族的、内容において社会主義的」という有名なスローガンが生まれた。しかしこの時点ではいまだ〈社会主義リアリズム〉の話は生まれていない。

一九三四年秋、第一回文学者会議の席上、文学者マクシム・ゴーリキーがはじめて〈社会主義リアリズム〉を提言した。そして「社会主義リアリズムはソヴィエトの芸術と芸術評の基本的方法であり、現実をその革命的発展において真実に、また歴史的具体性をもって描くことを芸術家に要求する。またそれは勤労大栄を社会主義の精神に向かって思想的に改造し教育するような課題と結合することが望まれる」との規約がこの会議で採択された。これにもとづく党の指導方針は当面、文学や演劇の分野を日標としたが、やがて美術、音楽の領域にも漸決及ぼされることは必至の情勢にあった。

交響曲においても、民族主義ロマン派ふうの。絶吸型の旋律をもつ感動的なスタイルがとられ、形式は古典の図式が悪実に守られた。その結果、二、三の例外はあるが、大量にイージーゴーイングな悪作が生産されることになった。

打楽器主義・微分音音楽・電気楽器の開発

両大戦間には、十二平均率内での新たな音組織(バルトーク、メシアン、シェーンベルク)の発見とならんで、新たな音素材発見の努力も少なからず行なわれたのである。打楽器主義 Percussionism、微分音音楽micro-tone music と電気楽器 electric musical instrument は一見まったく別物だが、この観点からすればこれらの試みは一つの共通の理念から出発したと考えられなくはない。それらはまた、自ら意識したと否とを問わず、第一次大戦前後のイタリアの騒音主義(未来主義)と、第二次大戦後のミュジック・コンクレート、電子音楽とを結ぶ連結線(トレ・デュニオン)の役をも果たしたのである。

パーカッショニズム(打楽器主義)は多種多数の打楽器、あるいは多数のピアノ(ピアノは機構的には精巧な打楽器と考えられる)を用いた合麦などにその本領があるが、その前段階としてある種のピアノ曲におけるピアノの用法が該当すると思う。たとえば何度も引用したバルトークの《アレグロ・バルバーロ》(一九一一)やピアノ・ソナタ(一九二六)は原始主義ないし民族的新古典主義の例からパーカッショニズムに接近した例である。

打楽器主義のオリジンには民族的な要素と機械主義の要素の二つが考えられるが、純ピアノ曲以外では前者に属するものとしてストラヴィンスキーのバレエ《結婚》(一九二三、声楽のほか、四台のピアノと十一種の打楽器)やバルトークの二台のピアノと打楽器(九種類)のソナタ(一九三七)があり、後者の例としては、楽器編成の面ではさして特徴的ではないがオネゲルのオーケストラ曲《パシフィック二三ー》(一九二四)やプロコフィエフのバレエ《鋼鉄の歩み》(作品四一、一九二七)をあげることができよう。

名実ともにパーカッショニズムの作品――ルッソロの騒音音楽のより洗練された子孫――と称し得るのは年代的にはまずアメリカのジョージ・アンセイルのヘバレエ・メカニック)(一九二四)であろう。これは元来画家のフェルナン・レジェの原案によるシュールレアリスム映画の音楽として書かれた曲だが、その編成は木琴、電鈴(エレクトリツク・ベル)、自動車のホーン、鉄詁、打楽器、自動ピアノ、そして十台のピアノという途方もないもの(のち縮小改訂版が出た)だが、彼自身は「抽象的な、もっとも抽象的な」作品と称した。

両大戦間に特異な打楽器主義的な作風を打ちたてた作曲家としてカール・オルフの存在を忘れることはできない。彼は元来リヒャルト・シュトラウスふうの後期ロマン主義の作風から出発したが、《カルミナ・ブラーナ》(一九三六)、《カトゥリ・カルーミナ》(一九四三)といった中世ないしローマ古典を題材とする声楽作品で、一挙にロマン的和声の世界と訣別し、全音階による、対位法を全く除した、えんえんたるオスティナート・リズムの作風に転じた。とくに《カトゥリ》の器楽パートはピアノとティンパニ各四および十四種類の打楽器(奏者十~十二)から成り、この種の特徴を最もよく発揮している。オルフの発想はいわば古代世界の生命力をあらわす原始のリズムと、現代の機械のリズムを直結したとでもいうようなもので、単調さの中にも適度な時間間隔をおいて音色や強度の刺澈の変化が起こり、冗長感におちいるのを巧みに防いでいる。オルフのこの作風は、ナチ時代のドイツで前衛的な作風の音楽がすべて追放された空白を補充するかのように突如出現し、公的にも、また聴衆からも大きな支持を得たのであった。

次に微分音音楽であるが、元来半音より狭い四分音その他の音程はギリシアから知られており、また一六世紀後半には純正調を奏するためにオクターヴに十九の鍵盤をもつチェンバロが作られており、この場合は微分音そのものを得ることが目的ではなかったにしろ、それは具体的に微分音を奏出し得る楽器であった。

シェーンベルクはオペラ《モーゼスとアーロン》(一九三二)を作曲しながら、この音楽が人声や楽器では演奏不能であり、将来電気的にスコアの完全な再現がなされるであろうとの予言的観測を洩らしていたことを付言しておこう。むろん近年の演奏技術の向上によって、このオペラは現在までにたびたび舞台にかかっているが、反面、このスコアを再現できる能力ある電気楽器も電子音楽もいまだ生まれていない。

第三節 第二次大戦の音楽

ミュジック・セリエル
電子音楽
コンピューター・ミュージック
ミュジック・コンクレート
偶然性の音楽

第二章 作曲家と作品

第一章では印象派以後に起こったさまざまな作曲様式とその背景をなす種々のイズムを中心に紹介した。第二章の目的は、同じ期間の音楽創作の経過を、各国別、各民族別にたどり、これに関与した主要な作曲家と作品を紹介することにある。そもそも一九世紀までの音楽史が対象である場合には、後者の方法のみによって記述を進めていくのが普通なのだが、本巻ではそれに先立ち、まず、第一章の方法による観察を先行させるのを適当と考えた原因は、やはり二〇世紀音楽の特性そのもののうちにあると思う。

さて、ドビュッシー――ラヴェル――〈六人組〉――メシアン――ブーレーズといった系列はたしかに一九世紀のラテン諸国にはみられなかったものであるし、また両大戦間におけるパリ音楽院(コンセルヴァトアール)の後進国の創作界への大きな影響とそれに伴う多くの外国人作曲家のパリ滞在、またナチの追放による多くの作曲家のパリ在住という事実はあるにしろ、しかしドビュッシー以後のフランスが一貫してヨーロッパ音楽の主流に立ったと考えることはできない。むしろ、創作の中心が世界的な規模で急激に散開していく過程に、両大戦間のパリにおける創作上の繁栄があった、と見るべきであろう。

第一章の記述の形式と内容にも現われているように、今日では民族を異にする作曲家が同じ作曲様式をとり、遠隔の二地点で同一傾向の創作と発表が行なわれ、その反面、一国に、いな同一都市に各種の様式が混在する現象はますます日常化しつつある。これはある土地に一つの音楽様式が根をおろした往古の音楽のあり方とはなはだしい対照を示している。この事実がまず第一章の記述方法を先行させた有力な理由と言えるだろう。/しかしながら、今世紀においても、民族的特性や一国内の音楽伝統が依然重要な要素を占めているのもまた争えぬ事実であり、従って第二章においてはこの観点からの記述によって前章の久を補いたいと思う。いわば両章は同じ対象に向けられた異なる観点、異なる視線による二つの鳥瞰図なのである。従って記述上のやむを得ない重複が起こるのを許された い。

第一節 ラテン系諸国:フランス,イタリア,スペイン

フランス

ドイツの沃野を流れていた一八、九世紀ヨーロッパ音楽の主流が、ヴァーグナーに至ってあたかもみずから堰を切って溢れ出たかのように方向性を失ない、これと正反対の感覚的、色彩的な性格をもつフランス音楽の領土に一条の、後にいっそう成長する流れを形成しはじめる。その分流点に立つ巨大な姿がドビュッシーである。

《牧神の午後への前奏曲》(一八九二ー九四)で印象主義の作曲法に決定的な一歩を踏み込んだのである。やがて一〇年の歳月を費して成った歌劇《ペレアスとメリザンド》(メーテルリンクの戯曲による、一九〇二年初演)により独自の劇音楽の様式を確立したが、ここではとくに声楽のパートはいわゆるアリアを歌う代わりにフランス語の自然のアクセントやソノリティーに密着した、レシタティーフに近い独自の表現法で歌い進められていく。合唱や重唱さえも存在せず、オーケストラも全く抑制され、微妙なニュアンスの表現に終始する。登場人物や事物に対応させて一定の動機が十数個使われているが、ヴァーグナーにおけるライトモティーフの用法とは著しく異なり、暗示的にあらわれる。節度と洗練の極致を示すこの舞台作品は、はじめはごく少数の敏感な人たちに、やがて広い廳衆に支持され、今日では二〇世紀オペラの数少ない傑作の一つとされるに至った。

ドビュッシーは異国的芸術精神からの強い影響といい、はかなくえ去ろうとするものの最後の一瞬をすばやく抱えて不朽なものに化そうとする、その不安の精神といい、本質的にロマン主義の音楽家であった。しかし、ドイツ人のように心情の重みを音にかけようとはせず、従ってドビュッシーの音は、ドイツ後期ロマン派の重く暗い半音階の渋さとは正反対の、明るさと透明さを持っている。そこに彼がその晩年にみずから〈フランスの音楽家 musicien français〉と名乗り(最後の三曲のソナタの扉にわざわざそう書き記した)、新古典的傾向に走った素因を求めることができよう。それらの中で、彼はかつて詩的なものや視覚的なものから触発されて得た語法を、自律的な音楽構造の中に移し、来たるべき新古典主義の先駆となったのである。

天与の創造力においてドビュッシーに及ばなかったにしても、作品の上にアンチ・ヴァグネリズムの態度をもっとも早く、鮮明に打ち出したフランスの作曲家はエリック・サティErik Satie(一八六六―一九二五)であった。彼は疑いもなくこの時代の先駆者であるばかりか、続く時代の予言者でさえあるが、その音楽史上の地位は今日なお安定しているとは言えない。その原因をたんに彼の奇矯の性格のみに帰することはできないであろう。独特な魅力と単調な退屈さ、純粋な輝きと通俗な平凡さが彼の作品にはしばしば同居して、われわれをとまどいさせる。

サティの父は海運業者、母はスコットランド人。この母の血と、サティが六歳の時に彼女が死んで、一三歳の折に来た継母がピアノ教師であったことなどは、おそらくサティのエクセントリックな性格や反伝統的な作品の形成に影響を及ぼしたと思われる。

エンジニアの父とバスク出身の母との間に、スペイン国境からわずか三キロほどの、ビスケー湾にのぞむ低部ピレネーに生をうけたラヴェル Maurice Ravel (一八七五ー一九三七)は、しかし生後まもなくパリに移り、そこで教育を受けた。彼は和声法や形式の面でサティやドビュッシー、あるいは〈ロシア五人組〉の影響を多分に受けているが、一方パリ音楽院でフォーレやジェダルジュから受けた伝統的な教育の影響が彼の生涯に抜きがたい強さをもって支配したように思える。むろん彼は天来の資質から古典主義的な均整を理想とし、作品にあくことない彫球を加えたが、主としてスペインの素材、形式、情緒を反映させた諸作でとくに成功をおさめたのは、彼の出身を考えればないことではない。

ラヴェルがドビュッシーの印象主義音楽に強い接を示したのは初期に限られ、中期以後の室内楽や管弦楽の大作では、ドピュッシーの存在とそこからの影響をけっして忘れさせることはないにしても、むしろ書法の巧妙さと洗練さによってサン=サーンス、シャブリエ、フォーレ、デュカらのラテン的=古典主義的伝統に直結している。まそれだけにフランス音楽におけるドビュッシーの存在をいっそう独特な、孤立したものと感じさせずにはおかない。

彼(ブーレーズ)の作曲技法を一言で言うならば、本質的に彼自身の発明、創始にかかるものは皆無か、ひじょうに少量である。ということは彼はドビュッシー、ストラヴィンスキー、ヴェーベルン、メシアンらの話法を慎重にとりあげ、精徴かつ複雑きわまるものに鍛え直し、多くの数字の操作を駆使して焼き直し、また飽くことなく修正をほどこして磨きをかけ、自己の語法につくり変えるのである。とくにリズムの面では驚くべく精緻な工夫にみちている。また彼の激しい性格は極端に早いテンポ(《マルトー》の第一曲は四分音符二〇八で始まる、譜例70参照)、極端な強弱の対比、音域や音色の対比、爆発的な部分と沼のように淀んだ部分の対比などを作り出し、これが独特な魅力となっている。つまりは音楽を構成するすべてのパラメーターの総動員が行なわれ、時にはそれがセリエルに扱われる。(…)いずれにせよ、彼の感覚、思考、創作態度は深くフランス音楽の伝統に根ざしており、その長所と短所をあわせ備えている。ドイツの一批評家による〈抽象的印象主義〉という呼称は彼の音楽によく当たっていると思う。

イタリア

イタリアは過去二千年の音楽史に最大の貢献をした国の一つであるが、その度合は上代ほど厚く近代になるほど比較的薄いという印象を受ける。もっとも、このことは音楽ばかりでなく他の宗教文化、文芸、美術などの分野についても、多少とも似た事情にあると思う。それはともかく、イタリアの音楽的特質は、俗に歌の国と言われるとおり、全音階的な、整斉感の備わった歌唱旋律による表現力(それが長調・短調を組織し、劇音楽を育てた)と、音色への敏感な感受性にあるといえよう。この特質がグレゴリアンからパレストリーナ、ヴェルディに至る芸術をささえて来た。論理的な構成力や組織力、内に沈潜する心理的なものや象徴的、暗示的な表現といったものは決定的に不得手であり、このことは一八世紀後半以来のイタリアの創作界が、劇音楽以外の分野で全く振わなかった理由と考えてよかろう。つまりイタリア人は前記の能力はきわめて高い代りに、音楽表現のさまざまな要素や局面に対処する能力にはややけるように思われる

第二次大戦後のヨーロッパの前衛音楽の世界に、純粋に戦後の世代のチャンピオンとして現われたのが、シュトックハウゼン(独)、ブーレーズ(仏)、ノーノ(伊)の三人であった。その一人であるヴェネツィア生まれのノーノLuigi Nono (一九二四ー)はマデルナとシェルヘンに師事、またその妻はシェーンベルクの娘である。

スペイン

スペインの音楽は、モラーレス、ビクトリア、カベソン、オルティスらのいた一六世紀の繁栄ののちは見るべきものがなかった。しかし、一九世紀末以来、ふたたび多くの才能を送っている。しかし、国際的に活躍している作曲家のほとんどはフランスまたはさらにドイツで学んだ経歴を持っている。

ラヴェルとほぼ同じ世代のファリャ Manuel de Falla(一八七六―一九四六)は前二者よりはるかに確実に自己の創作の才能を結実させた。二〇世紀前半のヨーロッパ作曲界を語るのにファリャの仕事、とくにいくつかのバレエ音楽を抜かして語ることは不可能である。

ファリャの音楽は色彩的で激しく、はかなく、また神秘的なスペインの民族的特性を濃厚に保有しており、とくに民族的題材に密着したものでは民謡旋律を使用している。書法としてはドビュッシーの印象主義の手法と新古典的な様式の中間に立っており、おそらくラヴェルのすぐ傍に位置させることができよう。バルトークほどに、独自のドグマティックな語法を駆使していないためと、またスペイン民謡の近親さから彼の音楽は容易に受け容れられた。

第二節 ドイツ・オーストリア

一九世紀を通じて、ドイツ・オーストリアの音楽が爛熟の極にあったことは今さら言うまでもないが、この状態は世紀の境い目を超えてなおつづいた。たとえば、ロマン・ローランは一九〇五年に「ドイツには音楽家が多すぎる。……音楽が音楽家たちを溺れさせる。……音楽国ドイツは、音楽の大洪水の中で溺れつつあるのだ。」と書いた。たしかにこの頃、大部分はヴァーグナーの亜流にぞくする後期ロマン主義作曲家たちが大な量の作品を生みつつあったのだが、それらがドビュッシーの新鮮さとは対照的に、落日の巨大さを思わせながら、無調の混沌のうちに沈みつつあるとローランは感じたのであろう。

シェーンベルクは最初の無調音楽の作曲者そして何より十二音音楽の創始者として一般に革命的な存在とされている。しかし、すでに十二音主義の項(五六八ページ参照)でも述べたように、たんに十二音音楽そのものの真の創始者という点では、それが果たしてシェーンベルクであるのか後述するヴィーンのハウアーであるのか、あるいはその他のロシアかアメリカの作曲家であるのかはなお今後の研究にまたねばなるまい。さらにその前段階の無調的な書法に至ってはひとりシェーンベルクのみならず今世紀初頭以来のごく一般的風潮でさえあった。にもかかわらず、シェーンベルクが無調音楽の成立に関して他の人々を凌駕して圧倒的に重要であるのはまず第一に彼の芸術的価値の高さであり、理論的著作や教授による影響力の絶対の大きさであり、さらに政治的圧力や反対者、誤解といったものに対して、節をまげず信念を貫き通した闘争的、英雄的な態度にかかっていると思われる。これらの点については今後次第に知られるようになるであろう。

ベルクの生来のロマン的発想、印象派ふうの音色、きわ立った叙情性に対して、彼が十二音技法を用い、オペラに器楽形式を導入したことは様式の不統一を結果した、としばしば指摘される。しかし筆者などは、ベルクは十二音技法を自分の楽想に適合した独自の方法で展開させており、また器楽形式に対する態度もひじょうに自由なものであって、彼にあっては内容と形式の間に完全な調和が存在していることを感じるのみである。

ダイナミズムおよび音色による刺が適度に到来して近代感覚から逸脱しないように配慮されている。シェーンベルク一派の十二音技法による錯綜たる対位法様式のまさに対極をなすオルフの音楽は、その古典的題材と相まってナチ治下のドイツでさかんに上演され、同時代のソヴィエトにおける社会主義リアリズムの諸作品(ショスタコヴィッチらの)と似た地位をドイツ国内で占めた。しかし、オルフの音楽がたとえシェーンベルクやヒンデミットの追放されたあとの間隙を埋める形で進出したにせよ、同時期の他の凡庸な御用作品と同列に論じることはできない。

最後にシュトックハウゼンについて略述して、ドイツ・オーストリアの項を終わることにしたい(彼につづく世代に見るべき人物のいないことこそ現下のドイツ・オーストリア作曲家の大きな問題なのであるが)。(…)このように彼は、第二次大戦後のほとんどの作曲家が一度は経過したシェーンベルクふうの十二音旋律によるテーマの考案や、線と線による対位法の織物の工夫という段階を経験せず、一挙に次の段階から出発したのであった。こうして彼はドイツ人特有の理論的裏づけを行ないながら創作の領域を次第に拡げ、また電子音楽と器楽音楽の双方の創作を両立させつつ、空間音楽の問題、器楽と電子音楽の結合の問題、偶然性の導入の問題、グラフィックの問題等々を次第に発展させていった。彼にあっては論文と実作品は平行関係に立っており、共に等しく重要である。

第三節 スイス・ベルギー・オランダ・北欧諸国・イギリス

スイス

ザンクト・ガルレン修道院の中世におけるグレゴリアン・チャントに対する大きな寄与の後、スイスがヨーロッパの音楽界に果たした役割はまことに微々たるものであった。この国ではドイツ語を話す人々、フランス語を話す人々、そして少数のイタリア語を話す人々はそれぞれ言語上の母国の文化、芸術を糧として来たが音楽もその例外ではなかった。今世紀初頭以来、ようやくスイス出身の作曲家が誕生しつつあるが、後の項で触れるように、才能ある人々はほとんど外国で学び、またこの国に永住しようとせず、アメリカ、フランス、ドイツその他へ移住してしまうのが見られる。この事実は今日でも、この国が芸術や文化の創造に適しない風土である事を物語っていよう。むしろストラヴィンスキーが第一次大戦中に風光明媚なジュネーヴ湖畔に滞在し、ここで《兵士の物語》などを作曲した事実が想起される。

ベルギー

フランドル楽派の栄光のあと、グレトリーやフランクを生んだこの国も近代はあまり振わない。この国の北半分はゲルマン系のフラマン人だが、主要な作曲家は多く南半分のラテン系ワロン人から出ている。

オランダ

オランダはベルギーにくらべ人口の絶対数もやや多い上に、国の全体がゲルマン系である。そのためこの国の音楽生活はドイツのそれに近く、コンセルトヘボーのようなすぐれたオーケストラの存在は創作活動の鼓舞にも大きな寄与となっている。従って創作活動はベルギーよりははるかに盛んであり、それを支援する努力、たとえば現代音楽の演奏、録音などの事業もヨーロッパの小国の中では最もよくなされている方であろう。

北欧諸国

民族、政治、言語の上でたがいに密接な関係をもっているデンマーク、スウェーデン、ノールウェイのいわゆるスカンディナヴィア三国は、九割以上がゲルマン族と言われ、オランダと同様高い音楽生活を持っている。作曲家の数も決して少なくないが、とくにスウェーデンの将来が期待され、ノールウェイからは目立った才能は出ていないように思われる。

フィンランド人は人種的には周知のように、ハンガリー人と共に東方起源のフィノ=ウグリアンに属し、周囲のスラヴ素やゲルマン系と全く異なる言語構造を所有しているが、一方歴史的にはスウェーデン文化の影響を強く受けているのみならず、多少の混血も見られると言われている。

最後にニルソン Bo Nisson (一九三七―)の台頭について述べよう。彼はスウェーデン北部のシュルレフテオの出身だが、ここはラプランドに近いじつに北緯六五度のあたりで、おそらく彼は音楽史上最北からやって来た作曲家であろう。ジャズ・ピアニストを経験したというが、独学で作曲を学び、急速にヨーロッパの前衛の仲間に加わった。一九歳の一九五六年にすでにストックホルムで電子音楽を試み、五七年にはセリエルなピアノ曲《量》、《運動》を、五八年から翌年にかけてはこの国の神秘主義詩人ゲスタ・オスワルドをテクストとする三部作(《乙女の死の歌》、《迷える子》、《そして彼の目の針はゆるく逆転した》)を完成している。その他室内楽の《情景Ⅰ Ⅱ Ⅲ>(一九六〇―六一)、四人の打楽器奏者の《反応》(一九六一)など、独自な音色と精緻なリズム感覚に裏づけられた彼の個性は高く評価され、ヨーロッパの現代音楽祭で彼の作品はかなり頻繁に取り上げられつつある。

フィンランドであるが、この国はシベリウスJean Sibelis (一八六五―一九五七)という巨人の存在によって創作界の様相は他の北欧諸国と大きく相違している。彼は生前すでに若い頃から国家年金を受領しており、死後は毎年〈シベリウス音楽祭〉が国家行事として開催され、いわば音楽の祭神として神格化されつつある。デンマークのニールセン、スウェーデンのアルヴェーンやアッターベリーは、国内的にはそれぞれの国でシベリウスの位置を占めているが、これらを同列に論じることは到底できない。しかしその反面フィンランドではシベリウスの偉大な栄光の後、つづく世代が勇気を失なって萎縮した傾向が見られなくはない。これは彼の異常な長命とも無関係ではあるまい(もっとも一九二九年以後、創作活動は完全に停止されていたのだが)。

イギリス

イギリスの音楽創造は中世以来、時には独自の様式を生み出し、時には大陸と密接に交流し合い。また時を得なければ外国の様式または音楽家を直輸入(ヘンデル、クリスティアン・バッハ等)するという方法によって、ともかくも高い音楽文化の水準を保ちつづけて来た。それは音楽のみならず、この島国の文化全はのあり方にも通じる一種独特な発展の仕方である。ともかく、この国は一六世紀後半のエリザベス朝における音楽の異業と、一七世紀後半のパーセル以後。真に偉大な創造的天才には恵まれることなく今世紀を迎えた。

第四節 東欧・バルカン・イスラエル:ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ルーマニア,ユーゴスラヴィア,ギリシア,イスラエル

ポーランド

ポーランドは現在東欧諸国中最大の面積と人口を有している。この国は、人種的には西スラヴ族であり、かつて一五世紀にはひじょうに強大な王国を形成したが、一七世紀以来弱化の傾向をたどると共に、西方のドイツ、東方のロシアからつねに脅威を受けつつ今日に至った。おそらくその長年にわたる不安な国民生活からくるのであろうが、一種の激しい性格がこの国の芸術家に認められる。第二次大戦中は長期にわたり、ナチ・ドイツの占領下にあり、戦後は一転してソヴィエト軍の下で共産主義国家となり、社会主義リアリズムの教条が支配した。社会情勢のこうしたたび重なる急激な変化と、古来のカトリックにつちかわれた高い文化との間に生じる矛盾は、五六年の〈雪どけ〉以後急に堰きとめられていたエネルギーのはけ口を見出し、今日のポーランドの急進的、前衛的な映画、音楽、絵画を生み出した。またこの国の最近の前衛音楽の急速な勃興の一因として、両大戦間の作曲界にはシマノフスキーの新古典主義が抜きがたい影響を与えていたが、彼は一九三七年に没しており、そのため、戦後(東欧圏の戦後は事実上〈雪どけ〉以後と考えるべきであろう)極端な反動的傾向が育ちやすい状態にあったと思われる。しかしフランスに留学してブーランジェ女史の門下であった幾人かの人々もこの時期にみずからの作風を急速に前衛的な傾向に転換させた事実は、なんとしてもこの国の特殊な環境が生み出した現象のように見える。彼らの芸術は伝統の香気に乏しいとは言え、激しい創造精神の営みは感動を誘わずにはおかない。一九五六年以来開かれている音楽祭 ヘワルシャワの秋)は共産国としては最も前衛的な色彩の強い、かつ大規模な音楽祭である。

チェコスロヴァキア

今日のチェコスロヴァキアは、西から東へ、チェク人の住むボヘミアとモラヴィア、スロヴァーク人のスロヴァキアと以上の三つの区分が認められる。いずれも西スラヴ族だがこのうちボヘミアは十数世紀にわたってゲルマン文化の影響下にあり、音楽史の上ではヴィーン古典派の成立にボヘミアの作曲家たちが大きな寄与をなしたのは周知の事実である。しかしロマン派に入って、ボヘミアからはスメタナ、ドヴォルジャック、モラヴィアからはややおくれてヤナーチェクが出て以来、彼らに比肩する才能はこれらの地方から出ていない。

ハンガリー

ハンガリーは人種的に近隣諸国と全く異なり、東方起源のフィノ=ウグリアンのマジャール人である。千年あまり前にキリスト教国として建国し、以来西欧文化の影響下にあるとは言え、言語構造、したがって民謡の音階やリズムに全く独特の性格が見られ、これに別系統のジプシーの音楽が加わって、民族音楽は複雑な様相を呈している。/この国の一九世紀までの芸術音楽は、ボヘミアと同様ゲルマン、とくにハンガリーと二重国家を形成していたオーストリアの全き影響下にあったが、バルトーク、コダーイに至って独自の道を歩んだ。しかしバルトークの語法はあまりにも個性的な、独自の音楽語法で一貫しており、そのためドビュッシー以上に後継者や楽派をつくることが困難であり、彼自身の晩年の亡命という事情もあって、今日に至ってもその作風は一種の孤立した存在となっている。したがって、この国に第二次大戦中も踏みとどまり、今日なお高齢で現存のコダーイの民族的新古典主義が、彼の大きな教育的業績と相まってこの国の作曲界に今日なお大きな支配力をふるっている。

今日、ハンガリー人がコダーイ Zoltán Kodály (一八八二―)に捧げる尊敬の念はきわめて大きく、おそらくフィンランドにおけるシベリウスの生存時をもしのぐほどである。今日のハンガリーで書かれた現代音楽の紹介は、まずコダーイの業績から説き起こし、これに大半が費されるのが普通である。たしかに、彼がこの国の演奏家、教育家、作曲家に対して与えた影響はひじょうに大きいのだが、彼自身の作品の芸術的価値、そのヨーロッパ現代音楽への影響度、将来の生命といった点を客観的に考えるならば、バルトークの比ではなく、また筆者の感想では、音楽界をあげてのコダーイへの過度の信頼と忠節が一種の閉鎖的な雰囲気を譲成し、国内から新しい世代の才能が台頭するのをはばむ結果となっているように感じられる。

ルーマニア
ユーゴスラヴィア
ギリシア

ギリシア人はきわめて古い歴史をもつ複合民族だが、今日では文化的にフランスとの近親性がいちじるしく。音楽家もパリで修業するものが多いようである。現代作曲家の数は相当の多数に上るが、国際的に知名の人物はきわめて限られている。

第五節 南北アメリカ大陸:アメリカ合衆国,ラテン・アメリカ諸国

アメリカ合衆国

アメリカにおける芸術音楽の成立はほぼ一八八〇年代である。フォスターの民謡さえ、ほとんど一八五〇年以後の作曲(最後の《夢みる人》は一八六四年)であることを思えば、この国の音楽創作の経験がヨーロッパのロシアにくらべてさえいかに新しいかがわかる。フォスターは、スコットランド・アイルランド系の作曲家であるが、彼の英謡のアクセントに密着した叙情的旋律の性格は、その後のアメリカ音楽の一つの基調をなしているが、より大規模な楽曲の構成的な面ではドイツ古典派、ロマン派を模範として出発し、やがてフランス印象派の影響を受けるに至った。

ガーシュウィンはヨーロッパの伝統とアメリカのジャズの要素、白人と黒人の音楽才能を巧みに結合した。夢みるような甘美な旋律と強烈なリズム、センチメンタルな要素と冷淡な、つめたい気分といった両端を一つに結合する独特な才能をもっていた。これに加えて、一九二〇年代のアメリカで完成されたシンフォニック・ジャズの独特な音響効果――映画音楽を通じてアメリカニズムの音楽的顕現の典型となったもの――をガーシュウィンは自己のものとしたのである。

ケージ一派のような特殊な存在を別にして、アメリカ作曲界の第三の世代はきわめて多数の作曲家たちが、押しなべて技術的高水準を保ちながらも決定打を欠くのが特徴的であり、これにつづくより若い世代についてもほぼ同様な印象を受ける。

ラテン・アメリカ諸国

中南米諸国は、かつては先住民の高い文明があり、また一六世紀初頭以来、スペイン文化が移継されると同時に音楽生活も都市に根を下したのであるが。しかし現代の作曲家の層はきわめて薄い。軽音美の公野での中南米音業の世界的はんらんにもかかわらず、統音楽のな野では一九世紀後半以来、特異な才能をもった数人の作曲家が出ているのみであり、いまだ楽派や伝統を生み出すには至らない。

第六節 ソヴィエト・ロシア(付・亡命ロシア人)

亡命ロシア人

ストラヴィンスキー lgor Feodrovitch Stravinsky (一八ハニ―ー九七ー)が印象派以後の最も重要な作曲家の一人であることは改めて述べるまでもない。芸術家の番付けを試みるのは愚行だが、筆者は作曲家の重要度と作品の質、量を考慮に入れた場合、ドビュッシー、シェーンベルク、ストラヴィンスキーの三人の偉大さは、ヴェーベルン、ベルク、バルトークの三人を凌駕すると考える。

一九三四年にフランスに帰化した彼は三九年アメリカに亡命、四五年にはアメリカに帰化している。この新古典主義の意義と影響についても既述した(五三五ページ以下参照)所であるが、彼のこの時期の作品はその保守的な響きのために彼に多くの聴衆と名声をもたらしたと同時に、作風が次第にますます折衷的、無内容に(たとえば一九四〇年の《ハ調の交響曲》とそれにつづく数年間の小品群)に堕していったことも否定できない。しばしば触れたように、これは第二次大戦中、アメリカに亡命した作曲家の誰をも襲った一種の倦怠感のようなものかも知れないが、ともかく子象のために作曲された《サーカス・ポルカ》や《四つのノールウェーのムード》(共に一九四二)などはほとんど彼の創作活動の終末を思わせる。しかし、《三楽章の交響曲》(一九四五)、つづいて緊密な《ミサ》(一九四八)の頃から立ち直りの徴候が感じられ、《カンタータ》(一九五二)や七重奏曲(一九五三)では、新たな意欲と共に、一種の音列作法の世界に彼は踏み込む。これは前にも触れたように(五八八ページ参照)、シェーンベルクの死が一つの機縁となっていること、また第二次大戦後の若い世代に十二音技法が急速に一般化したことからの影響を受けたのであろう。こうして、今や七四歳のストラヴィンスキーは、三五年前に四七歳のシェーンベルクが歩んだ道程を、きわめて個性的にではあるが、原理的にはほぼ再現しつつ《カンティクム・サクルシン》(一九五六)、バレエ《アゴン》(一九五七)、そして《トレーニ(エレミア哀歌)》(一九五八)と、次第に厳格な十二音作法の部分を作品の中に増大させていく。シェーンベルクは無調の半音階から、ストラヴィンスキーは全音階から、とアプローチの仕方は異なっているが、やがてストラヴィンスキーはヴェーベルンへの賛美の念とともに、点描ふうな書法をとりはじめるに及んで、第二次大戦後の前衛のスタイルに近接する。しかもそれを老成枯淡の筆触で自家薬籠中のものとして《説教・物語・祈り》(一九六一)のような宗教的作品においては余人の近づき得ない境地に到達している。もし、彼の生海が、新古典主義の未期において挫折を見ていたならば、彼はしばしば言われたように、時流にして衣装を次々と替えた作曲家という批判をあるいは甘受せねばならず、三一歳の《春の祭典》を最高作に置かねばならなかったのであろうが、一九五〇年代の後半から以降の作品群の出現はストラヴィンスキーの上に新たなパースペクティヴによる再評価の機会を与えたと言えよう。彼は原始主義、新古典主義、音列主義(セリエスム)に身をもって真に取り組んだ。これら二〇世紀作曲界のそれぞれの時期における最大の問題に、一人で立ち向った人間はストラヴィンスキー以外にはいない。

ソヴィエト・ロシア

ショスタコヴィッチ Dmitri Shostakovitch(一九〇六―七五)であるが、われわれは何よりも彼がこの国における公式的な作曲家のシンボルという印象を受ける。つねに作曲界への批判の矢面に立ち、公的な回答も作曲界への勧告も、その最も重大な局面ではすべて彼の署名の下になされた。また、ある音楽作品のラジオによる全国初演放送が、事前に新聞などで十分にPRされ、事後には大々的な絶賛の批評が大きなスペースで載る、ということはスターリン時代のソヴィエトにはしばしばあったことだが、ショスタコヴィッチの作品が最も多くそういう機会を経験したと思われる。

第七節 アジア:日本,韓国,中国

日本

もっともその点は北欧や東欧、バルカン諸国においても、程度の差はあれ同様なのである。そして、これらの国々において、一九世紀ロマン主義と現代を結ぶ世代に一人の重要な人物が出現して、その国の作曲界に重要な影響を与えていることはすでに見たとおりである。たとえば、フィンランドのシベリウス、デンマークのニールセン、スウェーデンのアルヴェーン、ポーランドのシマノフスキー、ハンガリーのバルトークとコダーイ、ユーゴのスラヴェンスキーらがそれに当たる。むろん彼ら相互間の才能にははなはだしい懸隔があるが、それぞれの祖国の作曲果への姿勢には似たものが認められる。わが国の作曲界に、これに該当する人物を求めるならば山田耕筰(一八八六―一九六五)であろう。しかし彼の作品表には器楽の大作を全く欠き(日本人として最初の交響曲《かちどきと平和》がベルリン留学中の一九一二年に書かれているが)、主要作が歌曲とオペラで占められているため国際的な知名度、国内への影響力ともにいちじるしく制限されていることは否めない。/しかし、その個性的な芸術歌曲の様式は山田によって前述の第二期で完成され、その後今日までつづく日本における芸術歌曲や小合唱曲が大量に生産されるもっとも有力な基礎となった。

韓国
中国

参考文献

解説 岡田暁生

同時代の日本の音楽批評(音楽著作)の中にあって、文学性と決定的に縁を切っていたところに成立していたという点で、柴田のスタイルは非常に特異なものであった。吉田秀和のような批評家はもちろん、武満徹や三善見のように文筆家としても秀逸な作曲家たちですら、しばしば音楽をレトリカルな形容詞のオーラに包んで記述するのが常であった。しかし柴田は形容詞に頼ることをほとんどしない。「……のような……」という比喩表現が滅多に出てこないのだ。あくまで事実を名詞の形で淡々と積み重ね、最後に控えめながら揺らぐことのない推論を一言加える。これが柴田の著作の基本スタイルであって、こうしたある種の科学性が彼の著作をユニークなものとしていた。/当然ながらここで思い出すべきは、柴田がもともと東京帝国大学で植物学を専攻していたという事実であろう。「科学性」といっても柴田の音楽著作のそれは、例えば諸井誠の楽曲分析がミュージック・セリエル的な工学的構造分析に傾くのとは対照的に、博物学とか分類学などのそれに近い。私が柴田の文章を連想したのが、よりによって昆虫学の雑誌であったことは、偶然ではあるまい。昆虫学者や植物学者が新種を記載するときのように、柴田の西洋音楽史は徹底した「個体」の蒐集(それはまさにベンヤミン的な意味での密かなコレクター的愛を伴う)、そしてそれらの形態学的な比較に基づくものである。この収集と比較は本書の顕著な特徴であり、例えば古典派の章の記述にしても、これでもかこれでもかと群小作曲家についての記述が並べられる。でもかと群小作曲家についての記述が並べられる。芸術史の書き方には、「個」を超えた歴史のデュナーミクから個別例を説明する演繹的な方法(パウル・ベッカーの西洋音楽史などはこの典型だ)と、「個」を網羅し尽くすことで歴史を再現しようとする帰納的な方法があるとすると、柴田の西洋音楽史は明らかに後者にあたる。こうした叙述の感覚は、ある意味で「図鑑」の編集に近い。あるフィールド(時代や地域)でこれまでに発見記載された種をすべて列挙し、そうすることでその「ファウナ(生物相)」を明らかにしようとするのである。

「西洋の音楽」と、例えば「日本の音楽」というグループを決定的に区別する、も根本的な形態学上の特徴は何か。この巨大な問いに対する答えを、柴田は大胆にも本書の冒頭にもってくる。洋と日本の音楽の根本的な違い、それは五度を基礎とするか四度を基礎とするかの違いであるー!これが柴田の解答だ。何というラディカルな、そして意表をつくほどシンプルな答えだろう。五度という自然倍音列に基づく音程を基礎とすることで、基音からの遠江により諸音程の協和/不協和の等級ヒエラルキーが生じる。これがポリフォニー音楽の成立のための絶対前提となる。しかし四度を基礎とする限り、こうした倍音列に基づく諸音の遠近法は生まれない。つまり調性とポリフォニーは出てこないというわけだ。

柴田南雄著作集 1 | NDLサーチ | 国立国会図書館

760.8 762.3