Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

高階秀爾『近代絵画史:カラー版』中央公論社(中公新書)

「もっと深く絵画を理解したい」という気持ちはずっと抱いていました。この本を読もうと思ったのは,それがきっかけです。

(だから書影に帯を入れるなってば)

上巻を読み進めてほどなくして思ったのは,願わくばもっと文中で言及されている絵の図版を盛り込んで欲しい,ということでした。が,「あとがき」を読んで分かったのは,この本の初版(1975年)はそもそも,

井上靖氏と私の共同編集による中央公論社版『世界の名画』全二十四巻の歴史概説として書かれた。

らしいんですね。だとしたら,この本の文章が図版の存在を前提にしているのも納得できて,同時に,なのに図版が少ないのは不親切ではないかと思います。

さて,本書は,次の一文で始まります。

近代絵画は,いったいいつから始まったと言えばよいのだろうか。(改行)普通にそれは,十九世紀後半の印象派の運動とともに始まると言われる。そしてそのことは,カンヴァスの上に現れた結果から判断するかぎり,おそらく誤ってはいない。ルネサンス以来,四百年間にわたって西欧絵画が追い求めてきた統一的な視覚像は,印象派においてひとつの頂点に達したと同時に,そこで解体し,崩壊して,「近代絵画」と呼ばれる新しい表現に席を譲った。一八七四年から一八八六年まで,前後八回にわたって開催された印象派グループの展覧会は,絵画におけるルネサンス的世界像の終焉を告げる弔鐘であったと言ってもよい。(上巻 p.2)

これを読んだ瞬間は,「なんだかとっつきにくい文章だな」と思ったんですよね。こちらは「近代絵画」についてほとんど何も知らないからこの本を読んでいるのに,「普通にそれは」なんて言われても,「あぁそうですか」としか思えない。「ルネサンス的世界像の終焉を告げる弔鐘」なんていう,評論家の評論文っぽい言い回しを見せられると,なんだか反射的に辟易してしまうんですよね。

しかしまぁそれは取り越し苦労で,そのあとは数々の興味深い史実が描かれ,そして冒頭の感想を持つに至るのでした。

ターナーについては,「イギリスの有名な画家」「漱石の文章に出てきたな」「なんだかボワボワっとした風景を描く人」ぐらいの認識しかなかったんですが,この箇所を読んで非常に興味を惹かれました。

ターナーの歴史的重要性は,ただ単に風景画を描いたことにあるのではない。ラスキンが正当に指摘したように,従来の風景画家たちとは違った目で自然を眺め,そしてそれを表現したところに,ターナーの独自性があるのである。事実,ターナーは,一方では,スコットランドやウェールズ地方はもとより,しばしば英仏海峡を越えてアルプスの渓谷やヴェネツィアの海などに写生に出かけ,全部で二万点に近い厖大な数のスケッチを残すほど熱心な自然の観察者でありながら,他方ではその自然のなかに,ほとんどつねに,人間の存在をはるかに越えた強力な力ーーそれもしばしば悪意に満ちた力ーーのみを見ていた。(上巻 pp.24-25)

と言われると,ターナーが1666年のロンドン大火を描いたのも,非常にストンと腑に落ちるわけです。

セザンヌについては,20年ほど前の『美術手帖』で特集が組まれていて,かつその表紙に「試験官がセザンヌの絵を見たら指摘だらけ」みたいなのがあって,そのことだけがいつまでも記憶から離れなかった(と同時に「下手だけど有名な人」というイメージを持ち続けていた)のですが,

セザンヌは,その色彩世界の豊かさはそのまま保ち続けながら,しかもりんごや山の実在をも同時に捉えようとした。「印象派の世界から美術館の作品のような堅固なものを創り出すこと」という彼の有名な言葉は,感覚と知性とがひとつになっている認識の根源を,いわばなまのまま手づかみで捉えようとしたセザンヌの野望を,われわれにつたえてくれるものと言ってよいであろう。(上巻 p.139)

という一文を読んで,もっと深く知りたくなりました。

ターナーやセザンヌ以外にも,「なんとなく名前は聞いたことがある」あるいは「名前すら聞いたことがない」画家たちも,以下のような評価,歴史の中での位置づけが行なわれることで,とたんに興味が湧いてくるわけです。

例えば,コンスタブル。ターナーからの話の流れで,

ターナーよりもわずかに一歳だけ年少であったジョン・コンスタブル(一七七六-一八三七)は,ターナーと並ぶ風景画家であるが,あらゆる点で《難破船》の画家と対照的であった。彼は毎年のようにどこかに旅行をしていたターナーとは正反対に,若いころロイヤル・アカデミーに学ぶためロンドンに滞在したことを除けば,生涯を通じてほとんど生まれ故郷のスタゥア川の畔を離れず,近くのデダムの水門やハムステッドの野を飽かず描き続けた。彼の画面には,吹雪も,雪崩も,洪水もなく,古代の伝説や物語への暗示も見られない。そのかわり,コンスタブルは,あれほど多産であったターナーがほとんど描こうとしなかった野の草花を愛し,その草花の上に置く小さな露や,その露を輝かせる朝の太陽や,その上を吹くさわやかな風を愛した。(中略)事実,絵画表現の上から言えば,印象派の母体となった十九世紀のフランス絵画に最も大きな影響を与えたのは,おそらくコンスタブルであった。(上巻 pp.28-30)

と位置づけられ,たぶんコンスタブル単体で見ただけでは分からないその特徴や歴史上の意義が浮かび上がってきます。

あるいは,スーラ。《アニエールの水浴》がジャケットに用いられたラヴェルのピアノ曲集のCDを持っていたので,その絵だけは見ていた(でも名前は知らなかった)のですが,

当時の最新の自然科学と結びついたこの新印象主義の美学も,わずか三十一年と数か月の短い生涯に,驚くべきほど完成された静謐な抒情的世界を創り上げ,彗星のように強烈な光芒を放ってたちまち消えていった天才スーラの存在がなければ生まれなかったにちがいない。ピサロも,シニャックも,フェネオンも,スーラの作品に深い感銘を受けたからこそ,あれほどまで熱心に「分割主義」を擁護し,実行したのである。彼らの美学理論も,基本的な骨組みはすべてスーラによって与えられた。その若さゆえのみならず,気質的にも控え目で孤独を好み,肉体的にも頑健ではなかったスーラは,およそグループの中心となって華やかに活動するタイプの人柄ではなかったが,誰しも認めずにはいられないその作品の稀有の質の高さは,おのずから彼を新印象主義の指導的存在たらしめたのである。(上巻 p.156)

クールベについては,こんな面白いエピソードが。

一八五五年のパリ万国博覧会は,アングル,ドラクロワというふたりの巨匠にそれぞれ特別室を提供してその画業を称えたが,それと同時に,もうひとりの天才を大きく歴史の前面にクローズアップすることとなった。ドラクロワより二十一歳年少で,アングルと比べれば三十九歳も若かったオルナン生まれの画家クールベがその人である。といっても,クールベがこの万国博覧会に参加したわけではない。いや,参加したと言えばたしかにそうなるのだが,その「参加」の仕方は,一風変わっていて,いかにもクールベ的であった。クールベは,この万国博の美術展に,《画家のアトリエ》《オルナンの埋葬》(ともに,ルーヴル美術館)など,彼の代表作を含む十四点の作品を送りつけたが,その大部分は,展覧会審査員たちによって拒否されてしまった。怒ったクールベは,審査員たちの判定に対して抗議を表明するため,万国博の会場のすぐ向かいの側の建物を借りて,それまでの自分の仕事の成果を示す大がかりな個展を独力で開いたのである。そのうえ,自分のその展覧会に万国博と同じ一フランの入場料を徴収するということまでやったのだから,その意気込みは大変なものだったと言ってよいであろう。(上巻 pp.54-55)

さて,本書の冒頭で「近代絵画は印象派とともに始まった」と言われている印象派については,いかのように述べられています。

印象派の美学は,絵画の歴史の上で,色彩の表現のみならず,色彩の観念をも根底から変えてしまった。モネやシスレーは,単に黒や茶褐色をそのパレットから追放して,虹の七色を基本として描いたから印象はだったのではない。それ以上に,彼らは形態に対する色彩の従属性を否定し(固有色の否定),世界を色彩の輝きのみによって捉えようとした(筆触分割)点において印象派であり,そして,まさにそれゆえに,革命的だったのである。事実,印象派の登場とともに,色彩は,明確な輪郭線に規定された形態の内部を彩るだけの二次的なものではなく,それ自身で世界を構成する基本的な要素となった。色彩は「解放」され「自律性」を与えられたのである。(上巻 p.127)

当然それも歴史に定着していく中で,批判され,乗り越えられていくわけですが,

ルドンは,印象派の「天井が低い」こと,すなわちその世界がかぎられていることを強く非難したし,ゴーギャンにいたっては,もっと激しく,こう述べている。(改行)「彼ら(印象派の画家たち)は,自分たちの眼の周囲ばかり探しまわっていて,思想の神秘的内部にまではいりこもうとはしない。それは完全に皮相的で,完全に物質的で,媚態だけからできあがっているような芸術である。そこには思想は住んでいない」

という眼で見ると,ゴーギャンの絵にも,さらなる意味合いが付加されます。

ロートレック。

一八七八年と翌年七九年の二度にわたる思いがけない事故は,彼の両脚を子供の時のままそれ以上発育できないものとしてしまった。それ以降,普通に歩くのには不自由はなかったが,あらゆる種類の肉体的な運動や競技は,彼には無縁のものとなってしまった。後年,彼があの激しく脚を振り上げるフレンチ・カンカンの踊りや,自転車競走の選手,サーカスの曲芸師など,肉体の「動き」を生命とする主題を繰り返し描き続けたのも,現実に禁じられた世界をペンと鉛筆で取り戻そうとした試みであったとも言えるであろう。

当然これはひとつの「解釈」でしかないわけですが,とはいえこの説得力は無視できないし,絵画鑑賞の厚みと深さを増すのだと思うのです。

723.05

近代絵画史 : カラー版 (中央公論新社): 2017|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

近代絵画史 : カラー版 (中央公論新社): 2017|書誌詳細|国立国会図書館サーチ