Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

青野太潮『パウロ:十字架の使徒』岩波書店(岩波新書)

なんでパウロについて読もうと思ったかというと,竹田青嗣『ニーチェ入門』に以下のような記述があったから。

ルサンチマンから発した「善悪」という「僧侶的評価様式」をはじめに作り出したのは初期キリスト教である。ただそれは,まだ現実的な弱者としての自分たちを心理的に補償するための思考法にすぎなかった。ところが,パウロによって打ち立てられた世界宗教としてのキリスト教(教会)は,この「善悪」の評価をさらに屈折させて独自の価値の体系を築きあげることになった。(pp.88-89)

あと,「目から鱗が落ちる」という慣用句も実はパウロに起因している*1という話もあり,パウロのことはずっと気になってたが,Amazonのカスタマーレビューによれば,パウロについての入門的著作はほかにないらしい。

確かにこの本,記述のレベルがちょうどよくて,たとえば他なら解説なしで出てくる「ファリサイ(パリサイ)」や「割礼」についても,

ファリサイ人とは,伝統的なモーセ律法と,その新しい生活形態への適用としての口伝伝承とを,実際の生活において厳格に守ろうとしたユダヤ教内の一グループ「ファリサイ派」に属する者たちのことである。

とか

割礼(生まれて八日目の男児の陰茎包皮の先端を切断する儀式)

とか書いてくれていて,初学者にはとてもありがたい。

第1章「パウロの生涯」ではパウロの3回の伝道旅行のことなどが語られるのだが,パウロが「異邦人」への布教を目指していたという書き方がされていて,この「異邦人」という概念も初学者にはまたなじみがないのだけれど(そもそもユダヤ教とキリスト教とイエス・キリストとかの関係がよく分かってないから),読み進めていくうちに理解できてきた。つまりは,キリスト教はユダヤ教の一派として発生して,イエスの側近(使徒)たちはユダヤ教(=割礼を施した人たち)の中だけで宣教していこうぜって主張してた(=ヘブライスト)のに対して,パウロは異邦人(=割礼してない人たち,ユダヤ人以外の人たち)に宣教しようぜ(=ヘレニスト)って主張したわけね。

で,第1章は,西暦70年のローマ軍によるエルサレム神殿を含むエルサレムの破壊の話で終わり,これがヘブライストの勢力を弱めるきっかけとなり,教会内部で勢力図が変化して,「律法からの自由を説くヘレニストたちの普遍的な考え方が,キリスト教徒の間では支配的になっていった」んだそうな。Wikipediaでは「ユダヤ教からのキリスト教の自立」というかたちでさらっと書かれているところ。*2

第2章「パウロの手紙」では,パウロ自身の手による真筆と認められた七つの手紙について,執筆の経緯をはじめ,執筆意図と手紙に綴られた思想的特徴が解説される。……んだが,そもそもそれらパウロの手紙を含めて,新約聖書はいろんな文書(マルコ/マタイ/ルカ/ヨハネによる福音書とか使徒行伝〈=最初期キリスト教の使徒たちの伝道活動を記録したもの〉とか)から構成されてるとか(旧約聖書はユダヤ教の聖書),そういうことも教えてくれて,なんとも嬉しい…。で,その「思想的特徴」については,著者は意図してか意図せずか,細かい議論に深入りするのを避けて,さらっと紹介するにとどめていて(たとえば「コリント人への第一の手紙」における「復活論」とか),詳細は第3章に先送りされる。これは賛否は分かれるだろうけど,僕は読みやすくていいと思った。また,話の流れで「コリント人への第一の手紙」では日本聖書協会による口語訳と新共同訳で翻訳の仕方に問題があることを指摘し,ついで著者が翻訳した岩波訳聖書の例を挙げている。

第3章「十字架の神学」が,この本のクライマックス。著者は「十字架につけられたままのキリスト」という,ギリシア語の現在完了形の表現の持つ意味合いや,あるいはローマ帝国における十字架刑の方法やその意義なども引き合いに出しながら,パウロの思想を丁寧に読み解いていく。ともすると(当時も現在も)「十字架につけられたキリスト」を「贖罪の象徴」(≒ルカが強調した「悔い改めよ」)と見なす風潮があるけれど,それはユダヤ教の思想が根底にあるもので,それはパウロの思想とも相容れなければ,イエスが目指したものでもないと。イエスが言いたかったのは,贖罪しようが何しようが,人間は最初から神に赦されているということであり,パウロ的には,十字架につけられたままのキリストは無残で哀れな姿だけど,だからこそそこから目を向けるなということであり,その姿はユダヤ人にとっては「躓き」でありギリシア人にとっては「愚かさ」と捉えられるものだけれど,だからこそ,キリスト教徒の歩むべき道と生のあり方は,そこで規定されているのだ……というのが,著者の主張。

弱さことが強さ。貧しさこそが豊かさ。哀れさことが幸福。パウロのこうした逆説的な主張は,上記のようにユダヤ人やギリシア人などの論敵がいたからという背景がありそうだし,そしてパウロ自身も身体に弱さを抱えていたというあるようで,そういったことも含めてパウロの思想,そして著者の解釈や主張もよく理解できた。

最後に著者は以下の参考文献を挙げて,「パウロの思想の再構成の作業についての,さらなる基本的な情報を入手してくださるように,と強く希望している。それはまた,私が本書で展開した議論を,それらの文献を参照することによって吟味していただきたい,という意味でもある。」と述べている。知的に真摯な態度だと思う。

192.8

パウロ : 十字架の使徒 (岩波書店): 2016|書誌詳細|国立国会図書館サーチ