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ランダムな読書歴に成り果てた

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか:創発から見る認知の変化』筑摩書房(ちくまプリマー新書)

表面をひっかく程度の記述しかないが,新書という形式上しょうがない。そのかわり,各章末に参考文献が紹介されている。

〈練習による上達〉と〈発達〉と〈ひらめき〉とが,同じメカニズムで捉えられているのが興味深い。

はじめに

本書はこうした認知的変化に働く無意識的なメカニズムを創発という観点から検討する。

いわゆる発見,発明と創発には違いがある。創発という用語には専門的には,少なくとも「還元不能性」,「意図の不在」というふたつの意味が含まれる。

創発に大事な条件は,そこに多くの要素が存在していること,そして要素どうしの相互作用によっめ揺らぎが生じること,またその相互作用の仕方は環境からの影響を受けることである。

第1章 能力という虚構

能力というのはアブダクションから生まれた仮説である。そこに不適切なメタファーが加わることで,誤った能力観が広まっている。それは能力の安定性,内在性という見方である。なぜこれらが誤っているかと言えば,人の認知にほぼ普遍的に見られる文脈依存性が説明できないからである。よって認知的変化を考えるときに,能力という仮説は不要である。

こうした原因の推定はアブダクションと呼ばれている

同じ構造の問題であっても,その構造が現れる文脈によって答えが大きく異なってくるのだ。それを認知(あるいは思考)の「文脈依存性」と呼ぶ。

この文脈依存性は,構造的に見て同じ問題に対して,私たちは複数の異なる認知的リソースを用いていることを示している。

認知的変化を含めた人の知性を文脈,つまりそれが発現する環境あら切り離して論じることは適当だはない。さまざまなリソースが特定の文脈との出会いによって現れたり,隠れたりする,つまり揺らいでいるのが人間の知性なのである。

第2章 知識は構築される

知識は伝わらない。なぜならそれは主体ぁ自らの持つ認知的リソース,環境の提供するリソースの中で創発するものだからだ。この過程では,これまでの経験から得られたさまざまな認知的リソース,環境(状況)の提供するリソースを利用したネットワーキングとシミュレーションが行われる。また知識は環境の提供する情報をうまく組み込むことで生み出される。だから知識はモノのように捉えてはならず,絶えずその場で作り出されるという意味で,コトとして捉えなければならない。そうした性質を持つ知識は,粗雑な伝達メディアであるコトバで伝えることはとても困難だ。

有用性を持つ知識は,以下の3つの性質を持たなければならない:

  1. 一般性:いろいろな場面で使えるという性質
  2. 関係性:孤立した知識はほとんど何の役にも立たない。知識とは他と知識とのリッチな関係を持っていなければならない。
  3. 場合応答性:知識はそれが必要もされる場面において発動,起動されなければならない

このように知識を捉えると,ある事柄が伝えられた途端,知識として定着することは原則的にないことが容易に理解でにるだろう。伝えられた事柄,本で読んだ事柄がどのような範囲をカバーするのか,それは他の知識とどう関係するのか,そしてどこで使われるのか,そうしたことを考える作業を行わない限り,その事柄は単に記憶としてしか存在せず,知識とはならない

人間の認知的過程,知識の構築過程の研究は,ここ20年ほどで劇的な変化を遂げた。その鍵は身体化(embodiment)ということに尽きる。

こうした知見を支持する研究は,多感覚知覚(multimodal perception)という分野で活発に研究がされている。ある感覚情報を与えると,それと共起する別の感覚が生み出される。

コトバは万能選手ではない,得手不得手があるのだ。コトバは,全体性を持つような場面や対処,また直感的な理解を表現するのには適していない。そうしたものをコトバで表現すると,認識が阻害されることもある。=言語隠蔽効果(verbal overshadowing)

知識はさまざまな感覚の競合,協調によるマルチ・モーダルシミュレーションであること,また認知が環境・状況のリソースをふんだんに活用していることは,知識がモノとして存在しているのではなく,その場その場で生み出される,つまり創発されるということを示している。

第3章 上達する--練習による認知的変化--

練習による上達にはうねりがあり,直線的に上達が進むわけではなく,複雑なうねりが存在する。このうねりは,そこで用いられる複数のリソースが,微細に異なる環境のなかで相互作用する中で創発する。そしてうねりは次の飛躍のための土台となる。

ある意識化された運動は,無数の意識できない運動と調整から創発されるものなのだ。この章では,そうした無意識レベルで働くメカニズムを解き明かしたいと思っている。だから,以下で述べることはマクロな分析に基づいたものとなる。

上達の過程ではスランプも存在する。タイムがまったく縮まない,逆に悪くなる時もある。ここでは新しい操作が組み込まれた時,その前後の操作との調整がうまくできなくなる。そしてその調整がうまくいったときに,プレークスルーが起きる。そういう意味でスランプというのは,次の飛躍のための準備段階として捉えられるだらう。

第4章 育つ--発達による認知的変化--

発達は段階的に進むとされている。しかし,発達による変化にはうねりがあり,階段状に進むわけではない。そしてうねりはそこで用いられる,複数のリソースが絶えず揺らいでいるから生み出される。そしてうねりは創発のための土台となる。

多様性:ひとつのタイプの状況に対して,異なる行為を生み出す複数の認知的リソースが存在している。

環境:環境は各リソースに適合度の異なる手がかりを与える。

揺らぎ:その結果,各リソースの活性の度合いは異なり,そのため認知や行為は揺らぎを持つ。

創発:この揺らぎをバネにして,より適切な行為が生み出される。

U字型発達→歩行反射:歩行反射の一時的な消失は体重の増加によるものであり,復活は筋力の増大によるものだという。

平均がさまざまな場面で有用なツールであることを否定するつもりはない。しかし,変化が問題となる場面における平均値に利用は非常に慎重であるべきだろう。平均は発達過程の揺らぎを平準化し,ひとつの数値へと還元してしまう。そして還元されてしまったあとには,その数字以外何も残らない。次の段階への発達の芽は平均値の算出過程でごみとして捨てられてしまったのである。

第5章 ひらめく--洞察による認知的変化--

ひらめきは突然訪れるかのように語られることが多い。しかしひらめきは練習による変化,発達による変化と同じ,つまり多様で冗長な認知リソースとその間の競合のよる揺らぎが,それが実行される環境と一体となり創発される。そしてその過程の大半は無意識的に進む。だから,ひらめいた時の驚きは,実は自分の無意識的な心の働きに対してのものなのだ。

第6章 教育をどう考えるか

教育については日常生活から生み出されま素朴理論がたくさんある。その多くは学校教育由来のとても特殊な状況での教育に基づいている。それらは100%間違いとは言わないが,多くの誤りを含んでいるし,思わぬ弊害をもたらし,認知的変化における創発を妨げる危険性がある。こうした事態を克服するためのヒントは,ポランニーの暗黙的認識の理論,伝統芸能の継承で行われる教育にある。

学校教育由来の素朴教育理論:

  • 問題は出される(既にある),正確がある,正確を知ってる人がいる(先生)
  • 基礎から応用
  • 「すべて頭の中で」
  • 「教えればできる」
  • 「きちんと」教えるの弊害→個々のスキルや能力を鍛えていけば最終的にはちゃんとした学習がなされる,という話は成立しない

人の知性は環境を前提として組み立てられている。環境に働きかけ,そこから情報を得て,そこからまた考えて再度環境に働きかれるというサイクルの中で知性は発現するのだ。ここでの環境はいわゆる物理的な環境だけでなく,周りの人々も含んだものである。必要な資料を検索する,同僚,先輩に意見を求める,そうした中で私たちは認知を営んでいるのだ。

近接項(兆し・兆候)と遠隔項(原因系):ポランニーによれば,包括的理解はこのふたつの項と結びつき=プロジェクションが生まれたときに生じる。そして包括的理解がなされたときには,近接項は暗黙化される,つまり意識の上にそれがのぼらくなる。暗黙化された知識は自分の身体の一部と同じように働くという意味で身体化されたものとなり,必要な場面で,場面に応じたかたちでほぼ無意識的に働くようになる。

「学び」の構造

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私たちはどう学んでいるのか : 創発から見る認知の変化 (筑摩書房): 2022|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

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