現代の心理学のセントラルドグマ(中心教義)「人間は自分で思っているほど,自分の心の動きをわかってはいない」
心の動き=知覚 情動 行動の本当の理由
本当とは? その検証方法は? セントラルドグマは,行動科学の方法論の変革と表裏一体の関係にある
(〈無意識〉の存在(とそれにまつわるエピソードや実験)は,自分の中では当たり前になりすぎている)
第一講 自分はもうひとりの他人である――自己と他者の社会認知心理学
認知的不協和 払った犠牲が大きいほど,その結果得たものがつまらないとは認めにくい。
自己知覚理論 自分の態度や感情を推論する過程と,他人の態度や感情を推測する過程とは,本質的に同じ。←自分の内的状態を認識し,それを言語で表現する過程は,幼児期からの経験の中で,むしろ他人からの教示や訓練によって習得されていくものだから。←「自分の態度や感情などの内的状態を直接知る手がかりは,案外乏しい」という前提
まとめ「自己に対する内的な知識はきわめて不完全である。それは無意識的な推論によって補われているものであり,極限すれば自己とはもうひとりの他人であるにすぎない」。
(各章末に参考文献が記されているのが誠実)
第二講 悲しいのはどうしてか?――情動と帰属理論
「泣くから悲しいのか,悲しいから泣くのか」問題
心理学者Wジェームズ「興奮するようなできごとを知覚すると,ただちに身体に変化が生じる。そしてこの変化に対するわれわれの感じ方(feeling)が情動(emotion)である。
→ジェームズに触発されたさまざまな理論は,一見ジェームズに反対しているようでいて,大筋では実は賛成している。つまり,「あくまで身体の変化が先」というのは共通で,その身体の変化の実体が何であり,それがどのようなメカニズムで情動の質的差異と主観的経験をもたらすかという問題に論争は移っている。
「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」
情動二要因理論 情動経験について次のような二段階のシナリオを考える(シャクター)
- 生理的な喚起(興奮)状態の認知(原因は何でもよい。生理的喚起そのものはなくてもよく,生理的喚起の認知があればよい)
- 情動ラベルづけ(喚起状態の推定,あるいは原因への帰属)
生理的興奮そのものは重要ではなく,その〈認知〉の方が重要
行動に顕れる無自覚の認知過程と,言語報告に現れる意識的な過程とは別物である可能性=私たちの知覚や態度や行動は,いずれも無自覚のメカニズムに支えられており,私たちが自覚的に体験しことばで報告でにるのは,その出力のほんの一部分だけ。
第三講 もうひとりの私――分割脳の「自己」
分割脳のデータから分かるのは,右半球の高度に知的なふるまいを左半球な直接知ることはできず,絶えず推測しつつ,しかし推測しているということには気づかずに,〈事実〉として認知し記述しているらしいということ。
未知の理由によって行動している他人を見るとき,私たちなしばしば無意識のうちにその原因を想像し,あたかも熟知しているかのやうに行動と結びつける。これと同じように,左半球の言語系は,右半球の認知系による行動を「外的に」観察し,その知識に基づいて現実を解釈するらしい。
心とはひとつの〈心理学的実体〉ではなくて,いくつかのサブシステムからなる〈社会学的な実体〉=「心は単一の実体ではなく,ゆるく連絡されたシステムの集合」←ミンスキーの本を思い出す
言語システムは,当人の実際の行動・認知・内的興奮やムードなどを常時観察ひ,モニターしている。そして,とぼしい内的手がかりをおぎなうために,「暗黙の因果理論」に基づいて解釈をほどこす。
「行動を通じて外的に自分とコミュニケートする」という戦略は非効率ではないか?→多数のメンタルシステムが存在し別々の機能を持っていると仮定する。それらの調和を保ち完全に統合するために必要な連合ネットワークを内的=神経学的に形成するとすれば,その量は膨大になる!
「人は,自分の認知過程について,自分の行動から無自覚に推測する存在である」
第四講 否認する患者たち――脳損傷の事例から
潜在的な知覚的な気づき(awareness)と「意識よ意識的なふるまい」とは乖離している
第五講 忘れたが覚えている――記憶障害と潜在記憶
「同一性」の問題は記憶の問題=過去の記憶が「私」の人格としての同一性や連続性を支えている。
海馬が脳の他の場所にある記憶の貯蔵庫に情報を転送したり,そこから読み出したりするプロセスに関与している。→この部位の損傷によって忘却の速度が異常に速まることが,健忘の原因だとされている。
神経心理学=脳に障害を受けた患者の認知機能を損傷部位と関連づけて調べる
HMという患者,てんかんの治療のため,両側海馬などの摘出手術を受けた。〈ハノイの塔〉と言われるゲーム,検査者の名前も顔も覚えないのに,ゲームの成績は実験するごとに上昇しつづけた。自転車乗りのような感覚-運動技能でも似たような結果。
記憶障害は,さまざまな種類の記憶に対して選択的=スクワイアによれば「宣言記憶」は損なわれるが,「手続き記憶」は損なわれない。哲学者ライルの「事柄の知識(knowing that)」と「やり方の知識(knowing how)」の区別に対応している。
ハンチントン病では大脳基底核という部位が冒されており,HMらの場合とは逆に宣言的記憶は大丈夫だが,手続き的記憶が損なわれる。→宣言的記憶と手続き的記憶はふたつの別の記憶システムといえる
記憶はひとつのシステムではなく多元的で複数の脳内システムからなっている可能性があり、しかもそのうち一部が潜在的・無自覚的でありうる。
第六講 見えないのに見えている――閾下知覚と前注意過程
「見えた」「聞こえた」という自覚のない知覚によっても,私たちの行動や好みは影響を受けるのか?
「カクテルパーティー効果」の解釈として,自覚化されていないがある程度の処理をおこなっている「前処理」過程を想定すること。
第七講 操られる「好み」と「自由」――サブリミナル・コマーシャリズム
第八講 無自覚の「意志」――運動制御の生理学と哲学
141.27 : 普通心理学.心理各論