Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

細野豪志『東電福島原発事故自己調査報告:深層証言&福島復興提言 2011+10』徳間書店

この本にいろいろとケチをつけるのは簡単で,それは編者解題で開沼博が述べているように,「それは結局,自分(細野豪志)の功績強調・責任回避・イデオロギー耽溺なのではないか......」ということに尽きるのだけど,こういう書を著したということ,その対談の内容,あるいはこの本以外での場(Twitterとか)における細野豪志の発言から垣間見える彼の「本気さ」,それが感じられるからこそ,細野豪志という政治家のことを信じてみたい,という気にさせられるんだよな.

佐藤雄平・前福島県知事との対談の中で,故・渡辺美智雄が「細野君は素晴らしい政治家だ.総理大臣にしたいな」ということを言っていたと佐藤は言うんだけど,実際確かに細野のような真摯な政治家が総理大臣になったらなんと素晴らしいことだろうかと思う反面,その真摯さが逆に権力闘争としての政治の世界では仇になるじゃないのかということも思ってしまって,なんとも.

そして,対談は対談で面白かったけど,さらに面白かったのが林智洋による「取材構成者手記」で,鋭い言葉がどんどん飛び出してくるんだな.

その象徴の一つが,特に原発事故初期に多用された,カタカナ表記の「フクシマ」でした.〔...〕これは福島が外部から一方的に押し付けられた「被害者としての記号化であり,負の烙印(スティグマ)」でした.

とか,

「フクシマ」神話とは,福島を「自分達の日常とかけ離れた異質な存在」であるかのように規定・錯覚させることで,事故や放射能不安を対岸の火事,他人事として切り離し安心を得ようとする試みであったとともに,福島とそこに暮らす人々が自分達と同じ故国の人間,同じ生活者であることを忘れさせ,より便利に,より冷徹に,より純粋な被害者性を政治的な文脈,あるいは商売や娯楽の上で搾取・消費しやすくする性質のものでした.

とか,

彼らが繰り返してきた「反論」とは,つまり科学の積み重ねという膨大なプロセスと結果を都合よく無視し,薄っぺらい個人のイデオロギーや独善的な思い込み,「神話」気取りのオカルトを拠り所に科学的事実の受け容れを一方的に拒否してきただけであり,「意地でも負けを認めなければ負けではない」と駄々をこねているに過ぎないのです.

とかとか.

369.36