Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

ポール・オースター『偶然の音楽』新潮社(新潮文庫)

久しぶりにオースターの小説を読んだ。こないだ友人との会話でポーカーの話になり,それで思い出したのだ。

出だしが最高で,すでに破滅の予感に満ちている:

まる一年のあいだ,彼はひたすら車を走らせ,アメリカじゅうを行ったり来たりしながら金がなくなるのを待った。こんな暮らしがここまで長く続くとは思っていなかったが,次々にいろんなことがあって,自分に何が起きているのかが見えてきたころには,もうそれを終わらせたいと思う地点を越えてしまっていた。

ピアノを売って,その金でカーステレオ用のテープを買った主人公のナッシュ。

ひとつの音楽の形を,別の形に変える。いい使い方だ,と思った。その交換の効率性が快かった。

この「交換の効率性」というフレーズが印象的だった。何かの伏線になるのかと思っていたけど,よく分からなかった。

宝くじを買うときの話を雄弁に語るフラワー。「数の性格」を語る箇所は,驚くほど同意できる(原文は数字の箇所は漢数字):

「たとえば,12ってのは13とは全然違う。12は生真面目で知的だが,13は一匹狼で,ちょっとうさん臭いところもあって,欲しい物を手に入れるためなら法を破ることも辞さない。11はタフで,森を闊歩したり岩登りをするのが好きなアウトドアタイプ。10はどっちかというと単純素朴で,言われたとおりのことを大人しくやる奴です。9は奥が深くて神秘的で,御釈迦さまみたいに瞑想的。」

これはオースター自身が思いついたのだろうか。それとも他に数の感覚の鋭い人の助けを借りて書いたものなのだろうか。

全体の半分弱のところで,いよいよゲームが始まろうとしている。ここでゲームが始まって,物語の後半はどのような展開になるんだろうかと思わずにいられない。ゲームに負ける予感が十分にするからこそ,そう思ってしまうんだろう。

ナッシュが久しぶりに本を読むシーン,

フォークナーの本(『響きと怒り』)を手にとって,でたらめにページを開くと,センテンスのただなかの次の言葉に行きあたった。「……やがていつの日か何もかもにほとほとうんざりして彼はたった一枚のカードの偶然の出方にすべてを賭ける……」

これがこの物語のタネ(のうちのひとつ)なのか? 『響きと怒り』というタイトルを括弧書きにしたのは,どういう意図や効果があるのだろう。単に「フォークナーの本を手にとって」だとしたら? あるいは「フォークナーの『響きと怒り』を手にとって」だとしたら?

訳者あとがきで柴田元幸はこう記している:

ある意味で,『ムーン・パレス』の終わったところからはじまっているわけだ。オースター自身,あの赤い車のなかにもう一度戻ってみたかったんだ,とインタビューで述べている。

また柴田はこうも述べている:

オースターは(……)移動の自己目的化という事態を極端に推し進めている。しかも,そうした極端な事態を,文明批判,アメリカ批判といったかたちで正面から否定するのではなく,自分でもやましく思ってしまうくらい主人公がそれを楽しんでしまう,というところが面白い。

「面白い」のひとことで片づけるのが,批評家ではない翻訳家のいいところ(良くも悪くも)だなと思う。

933.7

偶然の音楽 (新潮社): 2001|書誌詳細|国立国会図書館サーチ