たしかにこのシリーズが「実力は執筆陣による渾身の書き下ろし」と謳うように,著者の熱意が伝わる伝記である。
「著者紹介」では「専門はフロイト,羅漢精神分析学と20世紀オーストリア文学」とあって,どうしてこれでマーラーの伝記を書くのにふさわしいのかと思ったが,「あとがき」を読んで理解した。小学三年生のときにマーラーを聴いて以来「四十年にわたって常にマーラーは私の最愛の作曲家だった」のみならず,マーラー好きであることは「大学で文学部ドイツ文学専攻へ進んだこと,現在,フロイトの研究者であることなど,私の生涯における進路選択にも決定的な影響を及ぼしたと思う」。
という著者によって書かれたこの伝記のユニークさは,第一章が「フロイトとの出会い」から始まることにも現れている。この第一章の最終版で,著者はこのように述べている。
マーラーの幼年期について客観的に知りうる資料は,ほとんどない。頼りになるのは,バウアー=レヒナーやアルマといった周囲の人々によって伝えられたマーラー自身の記憶であるから,その記憶は原則的にすべて「隠蔽記憶」であると見なければならない。でも,これでいいのである。われわれはグスタフ・マーラーの心のなかで自分の幼年時代がどのようなものとしてイメージされ,それが彼の作品にどんな影を落としているか,われわれが知りたいのはこのことだからである。
本書内では随所に,著者の「伝記作者の矜持」のようなものが感じられる。たとえば作品篇で「交響曲第九番ニ長調」を語る箇所で,
論ずる対象が傑作であればあるほど,「なぜ傑作なのか」「どのように傑作なのか」を説く言葉は空しく空転し,うつろに響きがちなもの。読者の皆さんには党の作品を聴いていただくのが最も早道,まさしく「百の言葉も一聴に如かず」という状況である。とはいえ,だからといって伝記作者としては黙り込んでしまうわけにもいかない。力の及ぶ限り,前述の課題に答えるとしよう。
もちろん著者は音楽の専門家ではないので,金聖響・玉木正之『マーラーの交響曲』*1 のような内容は望めないし,金・玉木の本のように読むとすぐにマーラーを聴きたくなるというような本では,本書は決してない――特に作品篇は。が,これはこれでいい気がしてきた。
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