Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

ポール・オースター『リヴァイアサン』新潮社(新潮文庫)

事実と虚構を混ぜ合わせることを/許可してくれたソフィ・カルに感謝する。/――作者

冒頭にの献辞のひとつにこんなものがあるように,「事実と虚構」の混濁はこの小説の大きな特徴であり,それはソフィ・カルをモチーフにした登場人物マリアの「作品」がそうであると同時に,この物語=虚構の中にも事実――当時のアメリカの政治情勢であったりサンフランシスコの地震であったり――が混ぜ合わされる。その混濁に振り回されて,僕は読み進めながら興奮したしめまいがする思いがした。

そういった試み,そして「物語を書くことについての物語」であることは,オースターにとってある種の危険な賭けだったと思うけど,成功したと僕は思う。「六日前,一人の男がウィスコンシン州北部の道端で爆死した。」という出だしは,通常の小説なら凡庸だが,この小説の設定を考えればこのぶっきらぼうさこそがリアリティだし,その設定――「警察が答えにたどり着く前に語り終えないことには,これから書こうとしている言葉も意味がなくなってしまう」――があるからこそ,読者はドライブ感をかんじながら読み進めることができる。

なんとも不思議な小説である。が,現実の世界で他人を完全に理解することが不可能であるのと同じ意味で,この小説を完全に理解するのも不可能だと思った。と思って読み返してみたら,こんな一節があった:

たしかにサックスは私に多くを打ち明けてくれたが,彼という人間を自分が全面的に理解しているなどと主張する気は私にはない。私は彼に関して真実を述べたいと思ってはいるし,彼をめぐる記憶をできる限り正直に記述したいと思っている。それでもやはり,自分が間違っているという可能性,真相は私の想像とはまるで違っているという可能性を排除することはできないのだ。

あるいは

一冊の本がどこから生まれてくるのか,誰にも言えはしない――とりわけ,それを書いた人間には。書物は無知から生まれる。本というものが,書かれたあとも生きつづけるとすれば,それはあくまで,その本が理解されえない限りにおいてなのだ。

これらの言葉は,この物語の書き手という設定の「私」のものだが,読者としては当然,ここにオースターの存在をも感じるのだ。

933.7

リヴァイアサン (新潮社): 2002|書誌詳細|国立国会図書館サーチ