Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

山根明敏『テクスト探究の軌跡:ヘンリー・ジェイムズ、レイモンド・カーヴァー、村上春樹』大阪教育図書

図書館の新刊コーナーでたまたま目にしたので読んでみた。序文にある以下の文が気になったからだ:

何故今精読なのか。筆者は過去数十年間にわたる様々な文学研究の潮流を目のあたりにし,常に疑問に思うことがあった。本来文学研究の中心となるはずの文学テクストが,著しく軽視されているのではないかということである。

この箇所が気になったのは,きっと自分の中にずっとある「小説をしっかりと『読める』ようになりたい」という願望に呼応したからだと思うし,たまに文学理論の本を眺めてみても,ピンとこなかったからだと思う。

ということでこの本,サブタイトルにある3人の作者の小説を,さまざまなスタイル――「文学作品は,その作品に最も適していると考えられるアプローチで研究するのがよい」*1――で「精読」していくもので,あるものは自分が求めていたものであり,またあるものは求めていたものとは違うが面白く感じ,そして他のものはそうでもなかった。

たとえば自分が求めていたものにいちばん近かったのは,第2部「レイモンド・カーヴァー編」の第3章「『シェフの家』を精読する」。この論文では,まず『シェフの家』の語り手の文体――せりふが括弧なしにつづく――の持つ効果,語り手の持つ「語りの戦略」を明らかにし,そしてその語り手を含めた登場人物たちの心情の機敏,「スプリンクラーのエピソード」といったもにに込められた意味合いを,丁寧に読みこんでいく。

求めていなかったが面白く感じたのは,第3部「村上春樹編」の第1章「村上春樹『アイロンのある風景』を間テクスト性から読む」。ここで間テクスト性とは,クリア・クリステヴァ *2 が定着させた概念で,

文学テクストとは,つねに先行する文学テクストから,なんらかの影響を受けているものだ。つまり文学テクストは孤立して存在するものではなく,他の文学テクストとの間に関連がある。この関連性を「間テクスト性」という。この概念を定着させたブルガリア出身の批評家ジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941–)によれば,あらゆるテクストは他のテクストを吸収し変形したものとされる。作品の中で作者は,先行作品に言及したり,意識的,あるいは無意識のうちにそれについてほのめかしたりするのである。

とのこと *3

で,その「間テクスト性」の観点から「アイロンのある風景」を読んでいくわけだが,これに先行するテクストとして Jack London "To Build a Fire" やカーヴァーのいくつかの短編小説があるとのこと。興味深かったのは,"To Build a Fire" には二種類の版――1902年版と1908年版で,後者は前者を全面的に書き換えたもの――があるのだが,「アイロンのある風景」の登場人物そして村上春樹がどちらの版を読んでいるかということを,丹念に分析していく箇所。これは一般読者の「読み」とは違うと思うけど,これはこれで面白い分析だと思った。

930.268

テクスト探究の軌跡 : ヘンリー・ジェイムズ、レイモンド・カーヴァー、村上春樹 (大阪教育図書): 2021|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

*1:あとがきで書かれているもので,著者が参加した武庫川女子大学の院生会で玉井暲が発言したもの

*2:懐かしい。たしかプルーストに関する評論も書いてるよね? 大阪の職場近くの古本屋でそれが売られていて,買いたくても値段が高くていつも買えなかった,という記憶がある。

*3:この箇所,廣野由美子『批評理論入門:「フランケンシュタイン」解剖講義』中央公論社からの孫引き