内容を要約すれば,「(いい小説を書きたければ)いっぱい読んで,いっぱい書け。正直に書け。簡素に書け。ドアを閉めて書いて,そしてドアを開けて書け」ということになる。
面白いエピソードとユーモアと気の利いた言葉が詰まっている。
- われわれ三文文士の多くもまた,及ばずながら言葉に意を注ぎ,物語を紙の上に紡ぎだす技と術に心を砕いている。
- 本書が短いのは,世の文章読本のほとんどが戯言を詰めこみすぎているからである。小説家は総じて自分が何をしているのかを理解していない。何がよくていいものを書けたのか,何が悪くていいものをかけなかったのか,わかっていない。だから,その本が短ければ短いほど,戯言も少なくなるということになる。
- 小説に関するかぎり,アイデアの集積所も,ストーリーの中央駅も,埋もれたベストセラーの島も存在しない。いいアイデアは,文字どおりどこからともなく湧いてくる。
- 気分が乗らなかったり,イメージが湧かなくなったからといって,途中で投げだすのはご法度だ。いやでも書きつづけなければならない。地べたにしゃがみこんでシャベルで糞をすくっているとしか思えないようなとき,いい仕事をしていることはけっこうあるものだ。
- 創造的な行為と向精神薬は切っても切れない関係にあるというのは,われわれの時代の通俗的な知的神話のひとつである。
- まずはどこから始めたらいいのか――とりあえずは,机を部屋の隅に置いてみよう。そして,その前にすわったら,それがなぜ部屋のまんなかに置かれていないのかを考えてみよう。人生は芸術の支援組織ではない。その逆である。
- 動機は問わない。だが,いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す,いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。
- 書き手が受動態を好むのは,臆病な受動的な人間が受動的なパートナーを好むのと同じだ。受動態は安全なのである。
- このような副詞の使い方は,ヴィクター・エイブルトン作の少年向け冒険小説の勇敢な発明家トム・スウィフトにちなんで,”スウィフティ”と呼ばれることがある。たとえば,”「やれるもんならやってみろ!」と,トムは勇ましく叫んだ”とか
- ここで理想的と思えるのは,冒頭に主題を提示し,そのあちにそれを説明したり,敷衍したりする文章を持ってくるというパターンである。
- 文法にばかりとらわれていると,文章はしなやかさを失い,硬直化する。原理主義者は嫌悪感をあらわにして頭から否定するだろうが,事実は事実だ。言葉は無理にネクタイを締めなくてもいいし,ドレスシューズをはかなくてもいい。
- いい文章は基本(語彙,文法,文章作法)をマスターし,道具箱の三段目には必要なものを詰めていく作業から生まれるということ。もうひとつは,三流が二流になることはできないし,一流が超一流になることもできないが,懸命に努力し,研鑽を積み,しかるべきときにしかるべき助力を得られたら,二流が一流になることは可能だということ。
- 小説界のシェイクスピアであるチャールズ・ディケンズですら,批評家の執拗な攻撃を免れていないのだが,その理由は,ときとしてセンセーショナルなテーマと,野放図な生殖能力(文章をつくっていないときには,子供をつくっていた),そしてもちろん同時代から現代に到るまで大衆的な人気が高いことである。
- 作家になりたいのなら,絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み,たくさん書くことだ。
- 食事中に本を読むのはハイソサエティの礼儀作法に反するとされている。だが,作家として成功したいのなら,そんなことは気にしなくていい。礼儀作法は気にしなければならない事柄の下から二番目にある。ちなみに,いちばん下にあるのはハイソサエティそのものだ。
- 私の考えでは,短篇であれ長篇であれ,小説は三つの要素から成りたっている。ストーリーをA地点からB地点に運び,最終的にはZ地点まで持っていく叙述,読者にリアリティを感じさせる描写,そして登場人物に生命を吹き込む会話である。
キングが終始『The Elements of Style』に言及していたのが印象的だった。
また,「トピック・センテンス」*1 と同じ考え方を勧めているのも印象に残った。
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