オレ真面目な日本人だから,「なぜ古典を読むのか」と言われれば,その「なぜ」にこたえるような内容があることを期待するんだけど,残念ながら直接的にはないんだよね。まぁちゃんと読んだらそれが薄っすらと分かってくるのかもしれないけれど。
古典といえば,池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』の方が面白かった──っていうか,性質が違うものだから比べるようなものじゃないんだろうけど。
その池澤夏樹が「自分が知っている作品について、ああそこまでは気づかなかったと思って読み、知らないものについては絶対に読まなければと思いながら読んだ。」って書いてた。うーん,自分がカルヴィーノのこれを読んで思ったのは,「自分が知っている作品については面白く読めるんだろうけど,知らないものについてはとっつきづらい文章」ということ。訳者あとがきにあるように,「没後にまとめられたこともあって、この本にあつめられた文章は、質的にも文体としても、どこか不揃いである。すらすらと読めるものもあるし、著者自身が(そして、いいわけみたいになるけれど、そのために翻訳者までが)どこかいいよどんでいるような、ごつごつした文章もある」んだけどね。
- なぜ古典を読むのか
- オデュッセイアのなかのオデュッセイア
- クセノポン『アナバシス』
- オウィディウスと普遍的なつながり
- 天、人間、ゾウ
- 『狂乱のオルランド』の構造
- 八行詩節の小さなアンソロジー
- ガリレオの「自然は書物である」
- 月世界のシラノ・ド・ベルジュラック
- 『ロビンソン・クルーソー』、商人が守るべき徳性についての帳簿
- 『カンディード』あるいは速度について
- ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』
- スタンダールにおける微細な認識の方法について
- 『パルムの僧院』入門 はじめて読む人たちのために
- バルザックのなかの小説都市
- チャールズ・ディケンズ『我らが共通の友』
- ギュスタヴ・フロベール『三つの物語』
- レフ・トルストイ『ふたりの軽騎兵』
- マーク・トウェイン『ハドリバーグを堕落させた男』
- ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』
- ロバート・ルイス・スティーヴンソン『砂丘のあずま屋』
- コンラッドの船長たち
- パステルナークと革命
- 世界はチョウセンアザミ
- ガッダ『メルラーナ街の厄介きわまる件のごたごた』
- エウジェニオ・モンターレ「たぶんある朝、歩いて」
- モンターレの岩礁
- ヘミングウェイと私たち
- フランシス・ポンジュ
- ホルへ・ルイス・ボルヘス
- レーモン・クノーの哲学
- パヴェーゼと人身供犠
- x
なぜ古典を読むのか
古典とは、ふつう、人がそれについて、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である。
ただ「読む」とだけいわないで、「読み返している」というのは、有名なその本をまだ読んだことがないと告白するのが恥かしいので、それを隠すための、小さな偽善だろうか。でも、心配することはない。個人の「教養」として読む本の数がどんなに多くても、その人がまだ読んでない基本的な本の数は、つねに読んだ本の数をはるかに超えているのだから。
古典とは、読んでそれが好きになった人にとって、ひとつの豊かさとなる本だ。しかし、これを、よりよい条件で初めて味わう幸運にまだめぐりあっていない人間にとっても、おなじくらい重要な資産だ。
古典とは、私たちが読むまえにこれを読んだ人たちの足跡をとどめて私たちのもとにとどく本であり、背後にはこれらの本が通り抜けてきたある文化、あるいは複数の文化の(簡単にいえば、言葉づかいとか慣習のなかに)足跡をとどめている書物だ。
「自分だけ」の古典とは、自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨に、もしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある。
古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが[古典の]系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。
オデュッセイアのなかのオデュッセイア
オデュッセイアのなかにはいくつのオデュッセイアがあるか。詩の冒頭にはテレマコスの旅の物語がおかれているが、これは、まだ現実に存在していない物語、すなわち、やがてオデュッセイアになるはずの物語を探しに行く話、といえるだろう。イタケーの王宮にいる歌い手のフェミウスは、すでに他の英雄たちが〈それぞれの〉国に帰りついたことを知っている。まだ帰っていないのは、ただひとり、自分たちの王だけだ。ペネロペーが、彼のうたう歌をこれ以上聴きたくないというのは、そのためだ。そこで、テレマコスがこの物語をもとめて、トロイ戦争の古強者たちをひとりひとりたずねあるくことになる。物語さえ見つかれば、たとえ始末がよくてもわるくても、イタケーは、長年つづいた時間も法もないあの無形の状態から脱出できる。
クセノポン『アナバシス』
いまクセノポンを読んで受ける印象は、まずこの本が、ときに映画やヴィデオで見るのとあまり変らない、古代の戦争のドキュメンタリーだということだ。すこし色の褪せたモノクロフィルムの魅力、どぎつい光と影のコントラスト、せかせかした人の動きなどが、たとえばつぎのような箇所を読むと目に浮かぶ(巻4、第5章)。
行動する作家としてのクセノポンは、模範的だ。現代作家でもっとも彼に近い人物のひとり──ローレンス大佐──に比べてみるとつぎのことがわかる。すなわち、ローレンス大佐においては、英語のすばらしさが、事件と映像──事実だけを記した散文の正確さと理解したうえで──の周囲に、美的、倫理的な驚嘆という光背を加えることで成立しているが、クセノポンの場合、正確で乾いた文章はなにも期待せず、ただ単に、正確で乾いているのである。兵士の堅固な美徳は、兵士の堅固な美徳である以外のなにものでもない。
オウィディウスと普遍的なつながり
「天気のよいとき天の高みに見える一本の道がある。乳の道、とそれは呼ばれ、その自さゆえにきわだっている。神々はこれを通って、雷をとどろかせる偉大な者[ユピテル]のところへ、その王宮に行く。右に左に扉が開け放たれているのは、高貴な神々の住居の玄関で、いつも人で賑っている。平民は別の場所のあちこちに住んでいる。もっとも権力があり、名のある神々は、通りに面して住居をかまえている。(“...a fronte potentes/caelicolae clarique suos posuere penates”)こういう表現が不敬でなければ、これこそは大いなる天のパラティヌムといってよい場所だ」 『変身譚』の冒頭で、オウィディウス[前43–17]はこのようにして、私たちを天上の神々の世界に招じ入れるが、都市の形態、社会階級の分割、風俗のありよう(たとえばクリエンテス[顧客]が込みあっている)などを、日常のローマそっくりに近づけて表現することによって、彼はこの都市を私たちのそばに引き寄せる。
男性の欲望のたえまない追跡にくらべて、女性の側から恋をしかけるのは、非常に稀だ。だが、そのかわりに、彼女たちの恋はより複雑で、不意のたわむれ、というのではなく、情念の愛だから、心理的にもより豊かだし(たとえばアドニスに恋したヴェヌスの場合)、しばしば、より隠徴なエロティスムの要素をふくんでいて(たとえば、ヘルマプロディトゥスと抱きあったニンフのサルマキスは、溶けてしまったあげく、男女両性の生きものになる)、不倫の恋もいくつかある。その中には近親相姦あり(たとえばミュラや、ビュブリスの場合。ビュブリスが兄への情念をどのようにして気づくか、夢、心のまどいなどは、オウィディウスの心理描写がもっとも冴える挿話だ)、同性愛あり(イピスのように)、または邪悪な嫉妬(メディアのように)がある。イアソンとメディアの物語は、そのまま『マクベス』に用いられるが、冒険と情念の暗さ、魔女の秘薬の処方箋の「黒い」グロテスク趣味など、この長詩の中心(巻7)に心の、まさに小説そのものの空間が設けられている。
天、人間、ゾウ
大プリニウス[前23–79]の「博物誌』を愉しく読みたいと思われる向きには、つぎの3巻をとくにお薦めしたい。まず、彼の哲学の要点が含まれている巻2(宇宙について)と巻7(人間について)、そして、博学と幻想の野に駆ける彼の力量がもっとも顕著なものとしては、巻8(陸生動物について)。もちろん、どの巻にもすばらしい出会いがある。地理について述べた巻3から巻六、また、水棲動物、昆虫、薬学および比較解剖学についての巻12、20、および22、さらに金属、宝石および美術についての諸冊(巻33より37まで)。
独自な宇宙への感覚と、知識と神秘についての独特のパトスをもった詩人で哲学者のプリニウスと、データを蒐集し、憑かれたように編纂の作業に熱中し、形大な資料の注釈をひとつたりとも見逃すまいと躍起になる神経症的なプリニウスとは、区別して考えたほうがよいかもしれない(原典を利用するとき、彼は雑食的で折衷主義だが批評眼をケくことはない。彼が有用と判断するデータ、目録の便宜のために記録するだけのデータ、明らかに作り話として反駁するためのデータというふうに、彼はきちんと分類している。
『狂乱のオルランド』の構造
「狂乱のオルランド』という長詩は、書きはじめては迷い、終わろうとしては迷うかにみえる作品だ。始まりに迷いが見えるのは、アリオスト[ルドヴィーコ、1474–1533]がこれをマッテオ・マリア・ボイアルド[1441–94]が未刊で残した長詩『恋するオルランド』の続編のようなつもりで書いたからで、終末での迷いは、アリオストが最後まで推敲の手を止めなかったことによる。じじつ、彼は1516年に40歌からなる初版を上梓したあとも、これを拡張しつづけ、最初の考えでは続編になるはずだった(通称「五歌」Cinque Canti と呼ばれ、死後に発表された)部分をやがて中断し、それとは別に、中心となる物語に加筆するかたちをとった。その結果、1531年に第3稿として発表した最終稿は、[最初の40歌から]46歌にふえている。第1稿と第3稿のあいだに位置する第2稿を執筆したのは1521年で、これを読むと、長詩の結末について作者が迷っていた二番目の理由がうかびあがる。それまでに書いたものに加筆しつづけたアリオストは、最後まで語句と詩法上の問題点の推敲をあきらめなかったのだ。
八行詩節の小さなアンソロジー
アリオスト生誕500年にあたって、私は『狂乱のオルランド』が自分にとって意味するものについて考えてみたい。とはいっても、私がなによりも大切に思ってきたこの物語詩のどの部分が、あるいは、この詩が、どんなふうに私の作品のなかに痕跡を残しているかを明らかにするには、すでに完結してしまった自分の作品に立ち戻らなければならないし、私にとってアリオストの精神とは、けっして振り返ることをしない、たえまない前進を意味するものだ。だいいち、私がこの物語詩をどのように愛したかの痕跡は、かなりはっきりしているから、それは読者に見つけていただきたい。そんなことよりも私はこの機会にこの書物をもういちど開いて、記憶の糸をたぐりよせながら、あるいは得然にまかせて、私の個人的な八行詩節のアンソロジーを編んでみることにする。
ガリレオの「自然は書物である」
ガリレオ[1564–1642]が書いたもののなかでもっともよく知られた──そして、あたらしい哲学の萌芽をやどしている──比喩は、自然は数学の言語で書かれた書物であるという、あれだ。
ガリレオがもたらした、世界は書物であるという比喩による貢献がなにより革新的なのは、それが独自のアルファベット──「それが書かれた文字」──に注目している点にある。すなわち、真に比喩的なつながりが、書物と世界のつながり、というよりは、むしろ、世界とアルファベットのつながりにあるとする点があたらしいのだ。
アルファベットについて語るとき、ガリレオのあたまにあるのは、宇宙の多様性のすべてについて説明できる、組みあわせの方式である。ここでも、ガリレオは、絵画を例にとって比較する。アルファベットの文字の組みあわせ方は、パレットのうえにある絵具の組みあわせ方に相当するというわけだ。しかし、さきに引用した文章によると、この組みあわせ方が、アルチンボルドの画法のそれとは異なっているという。すなわち、すでに意味をもたされた物体(羽毛を〈コラージュ〉して、すなわち集めて描いたアルチンボルドの絵やアリストテレスからの引用の寄せあつめなどのような)の現実をすべて表すことはできないというわけだ。これに成功するためには、ミニマルな要素の組みあわせから出発しなければならない。たとえば単色、たとえばアルファベットの文字のように。
月世界のシラノ・ド・ベルジュラック
ガリレオ・ガリレイが教皇庁の[異端問題をあつかう]検邪聖省とうまくいってなかったころ、パリにいたひとりのガリレオ支持者は、太陽中心説について、なかなか示唆に富んだひとつのモデルを提案していた。すなわち、宇宙はタマネギのように作られていて、「これを包んでいる百の薄い皮が大切な芽を保護し、これを保たせる。というのも、あたらしい千万のタマネギがこの芽から、それぞれの精を汲みあげるのだから。……タマネギにとって胚芽はこの小さな世界の小さな太陽であり、集団ぜんたいの成長作用に有益な化学物質をあたため、ぜんたいに栄養を補給するものである」。
また、地球の運動について彼はこう書いている。「ちょうど私たちが球体を手で叩いてこれを回転させるのとおなじように」太陽光線が地球に「当ると、その循環によってこれ[地球]を回転させ」、さもなくば太陽に暖められた地球から[発散する]蒸気そのものが、「極地の寒さに打たれて、ふたたび地球に落ちるのだが、斜めの方向からしか着陸できないために、これ[地球]を回転させることになる」。 空想ゆたかなこの宇宙学者は、ふつう、シラノ・ド・ベルジュラックの名で知られているサヴィニアン・ド・シラノ(1619–55)、いまお読みいただいたのは、『月の国家と帝国の愉快な物語』と題された著作からの引用である。
シラノにおいて、知性と詩人の感性はひとつに合わさり、17世紀のフランスにとどまらず、あらゆる意味で最高の資質をそなえた作家をつくりあげている。知性の種類でいうと、彼は「自由思想家」であり、論客としては、世界についての古い概念を覆そうとする争いに、ともすると巻きこまれる人物だった。たとえば、ガサンディの感覚主義[sensisme]、コペルニクスの天文学を、彼は支持する。だが、この人がもっとも影響を受けているのは、カルダーノ、ブルーノ、カンパネッラなど、16世紀イタリアの「自然哲学」者たちだ(それでは、デカルトはどうか。シラノは、まず『太陽国家群への旅』、さらに月の国への旅で、デカルトに出会い、この哲学者がトンマーゾ・カンパネッラが支配する最高天に入れるよう、手をまわしてやる。やがてカンパネッラはみずからデカルトを出迎え、抱擁する)。
『ロビンソン・クルーソー』、商人が守るべき徳性についての帳簿
『難破した船の乗組員が全滅したにもかかわらず、ただひとり岸にうちあげられ、大河オリノコの河口に近いアメリカ大陸沿岸の無人島で28年間、孤独の人生をおくったヨークの人、水夫ロビンソン・クルーソーの生涯とその奇異にして驚嘆すべき冒険譚、さらに同様に奇異な状況のもとに、どのようにして海賊に救われたかの顕末についての実話。本人自著による」。これは1719年、ロンドンの大来的な出版社主W・テイラーの《船じるし》叢書の一冊として出版された『ロビンソン・クルーソー』初版の扉の文章だ。難破した水夫による実話回想記として読まれるようにと、著者の名は故意に伏せられていた。
『カンディード』あるいは速度について
糸状のひょろひょろした人間が、まるで魚が跳ねまわるような動きで、長くなったり、くねくねと身をくねらせたりしながら、はっとするような軽さで踊りまわっている。1911年、パウル・クレーは、ヴォルテール[1694–1778]の『カンディード』をこんなふうにイメージ化している。彼は、この本が──ひとつの時代、ひとつの文化の引用という、厚い殻を越えたところで──今世紀の読者にいまも語りつづける精力的なほがらかさに、目に見えるかたち──ほとんど音楽をといいたい──を与えた。 『カンディード』に今日の私たちが魅せられるのは、もはや哲学小説)としてでもなく、風刺とか、ある種の倫理、あるいは世界観の具体化などではなくて、作品にそなわったリズムのためだ。
ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』
現代文学の父としてのディドロ[1713–84]の評価は高まるいっぽうで、それは彼のアンチ・ロマン、メタ・ロマン、ハイパー・ロマン作品である『運命論者ジャックとその主人』の功績に負うところが多いが、この作品がもつ、ゆたかさや独創性のインパクトは、いくら探索してもきりがないだろう。 まず、こんなところから始めよう。当時のどの小説家もが主な目標としたもの──すなわち、本を読んでいることを読者に忘れさせ、あたかも彼自身が物語を生きているように思わせる──を反転させて、ディドロは、自分の物語を語っている作者と、それに耳を傾けるのにいっしょうけんめいな読者とのあいだに起きるせめぎあいを、まず前景にもってくる。読者の側からの好奇心や、期待、幻滅、反論など、さらに作者側からいうと、話の進行を決めるにあたっての意図や論争や気まぐれは、この場合、二人の主人公のあいだに交わされる対話の枠としての対話になり、それがまた他の対話の枠となるといった調子で話が進められる。
ディドロの自由なエクリチュールは、アンチ「哲学」的であると同時に、アンチ「文学」的でもあるのだが、今日、私たちが真の文学的エクリチュールと認識するものこそ、彼の方法なのだ。『運命論者ジャックとその主人』が、ミラン・クンデラという明晰な作家によって、現代的な演劇形式に書きなおされたのは偶然ではない[「ジャックとその主人』1981年]。そして、クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』が、情緒の小説と実存小説、哲学とアイロニーを混ぜる腕前において、同時代作家のなかで彼こそはもっともディドロ的な作家であるのも、偶然ではない。
スタンダールにおける微細な認識の方法について
とりわけきらめいていたかどうかは別として、それまでは社交界の人間であり、ディレッタントで、本職もはっきりせず、成果もおぼつかない雑文を書いていたアンリ・ベイルがある著作に手をそめるのは、彼がミラノに滞在していたときのことだ。だが、これを彼の哲学と呼ぶわけにはいかない、というのも、哲学とはまったく反対の方向に仕事をすすめているからで、そうかといって、これを小説家スタンダール[1783ー1842]の詩学と呼ぶわけにもいかない。それは、まさに小説にたいして挑発的な論調を用いているからで──このことは、たぶん、やがて彼自身が小説家になるなど考えていなかったためだろうと思える──、究極のところ、彼の認識の方法とでも呼ぶしかない作品なのである。
『パルムの僧院』入門 はじめて読む人たちのために
テレビのためにあたらしく撮影された『パルムの僧院』は、このスタンダールの小説に何人のあたらしい読者を呼びこむだろうか。どうせそれはテレビ視聴者の全体数に比例すればとるに足りない人数であるだろうし、イタリアの読者数の少なさを考えれば、おびただしい数ということもできるだろう。だが、統計が大切な事実を明らかにした例はかつてない。というのも、多くの若者がこの小説のはじめの何ページかを読んだだけで魅惑され、予期せずに手にとったこの作品が、比類ないすぐれた小説であると確言し、これこそずっと読みたいと思っていた小説だと思いこみ、そのあとの人生で彼らが出会うあらゆる小説の基準になることなど、統計は明かしてくれないからだ(以上のことは、とくに冒頭の数章にあてはまる。読みすすむにつれて、これは別の小説に進展し、そのひとつひとつが、さらにいくつもの別の小説にわかれ、読者は、それぞれの出来事にふさわしい関与の仕方を、自分で調整しなければならなくなるから。それでも、最初にうけた衝撃は作動しつづけるのではあるけれど)。
バルザックのなかの小説都市
小説をひとつの都市に仕立てる。区画や街路に、それぞれが他に対して反対の性格をもたせて表現する。人々の容姿や状況を、あれこれの街路の舗石のあいだに生える雑草のように呼び覚ますかと思えば、周囲からひどくかけ離れたものであるために、天変地異をおこす原動力となる……その結果、真の主人公は、刻々に移り変る瞬間を生きている都市であり、その物理的な継続性であり、怪物としてのパリということになる。それが、『フェラギュス』を書き始めたときのバルザック[1799–1850]が、これこそ自分にあたえられた天職と感じたひとつの冒険であったことはまちがいない。
チャールズ・ディケンズ『我らが共通の友』
橋脚をつたって満ち潮が上ってくる夕暮れどきの、どす黒い泥をふくんだテムズ河。 今年、かぎりなく陰惨な光をはなった一連の[事件]ニュースが現実性をとりもどしたこの情景のなかを、波に浮き沈みする丸太や、はしけや、さまざまなものの残骸をかすめて、一般のボートが河を上っていく。へさきには、禿げ鷹の目をした男がひとり、なにかを探している様子でじっと流れを見つめている。漕いでいるのは、雨よけのマントとフードの下にほとんど隠れてはいるが、天使の顔をした少女だ。なにを探しているのか。男が、自殺者の、あるいは殺害され河に投げこまれた死体収集人であることはまもなくわかる。こういった釣りの獲物を、テムズ河は毎日のようにたくさん用意してくれるらしい。水面に浮く死体をみつけると、男はすばやくポケットにはいっている金貨を掴み出し、あとは縄をつけて最寄りの官詰所までひっぱってゆくだけだ。天使のような少女はボートの主の娘で、このおそろしげな戦利品を見ないようにしながらも、舟を漕ぐ手を休めはしない。
ギュスタヴ・フロベール『三つの物語』
Trois contesはイタリア語ではTre raccontiと訳されていて、これ以外の訳は考えられないのだが、フランス語でconteとは(récitとnouvelleに対して)口述による物語、怪奇、あるいは素朴、またはおとぎ話などへの興味が強調されたものをいう。このことばのニユアンスは、近代における中世の庶民的な芸術の「プリミティフ」への共鳴を表わす最初の資料のひとつといえる「聖ジュリアン伝」にとどまらず、幻想的で美学的で、学識に支えられた歴史の再構築である「エロディアス」にも、また作者の同時代の現実がまずしい女中の心の単純さで共感された「純なこころ」を含む、三つの物語のすべてに共通した特徴だ。
レフ・トルストイ『ふたりの軽騎兵』
トルストイ[1828–1910]がどのように話を構築しているかを理解するのは容易でない。多くの小説家がむき出しにしておくこと──釣合のあるぜんたいの枠ぐみ、これを支える梁、均整または回転のための蝶番など──が、彼の作品では隠れているからである。隠れているというのは、しかし、不在というのとは違う。トルストイは、「人生」という(それを定義するためにはどうしても作品から出発しなければならないのではあるが)神秘にみちた実体をそのまま作品にもってきたような印象を与えるが、それは芸術[技術]の産物なのであって、すなわち、多くの作家よりも叡智にたけた複雑な技巧の所産なのである。
マーク・トウェイン『ハドリバーグを堕落させた男』
大衆的な娯楽小説の作家としての自分の役割を、マーク・トウェイン[1835–1910]は、自覚していたばかりか、それを誇りにしていた。「わたしは知識階級の人たちの教養を、より高めようなどと考えたことはない」と彼は1889年、アンドリュー・ラングへの手紙に書いている。「そのために必要な道具さえ、わたしはもちあわせていなかった。天与の才能も、教育も。かつて私はそういった意味での野心も抱いたことはなく、ひたすら、大来という大きな獲物を追うことにかまけていた。それも彼らを教育するなどという心がけからではなくて、彼らを愉しませるために、できるだけのことをしたいと考えてきた。彼らが愉しんでくれたなら、私はそれだけで、自分がつね日ごろ抱いていた、最大の野心を満足させたことになる」
マーク・トウェインは、休むことなく新聞のために書くことを強いられていたから、あらゆるテーマから笑いを誘発できるように、たえずあたらしい文体を発明しようと苦心していた。その結果、たとえ『跳ねるカエル」の小話に現代の私たちは冷淡かもしれないが、彼がそれを、フランス語訳から英訳に重訳してみせると、やはり笑ってしまう。 自己の知的な要求に応じてではなく、洗練されたとはいいがたい読者・聴衆(彼が作品を書くかたわら、旅先での講演あるいは談話にたずさわるという、多忙なキャリアをもっていたことも忘れてはならない。このような機会に彼は自分が口にしたギャグが聴楽にどのような直接の反応を呼び起こすか、その効果を測ることができた)が相手のマーク・トウェインは、文章の軽業師、生まれつきのへエンターテイナー)で、文学から文学を編みだす前衛的な作家に似てなくはない方法をもちいた。たとえなんであろうと、もとになるテクストを手にしさえすれば、彼はそれをいじくって、たちまち短備をものにする。だが、[彼の場合]その原典は、文学にまったく関係のないものでなければならない。
ヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』
『デイジー・ミラー』は1878年、雑誌に掲載され、1879年に単行本として出版された。ヘンリー・ジェイムズ[1843–1916]の短編にしてはめずらしく(たぶん、これが唯一ではなかったか)、出版されてすぐ、一般の読者に熱狂的に迎えられた。たしかに、なにごとも半分しかいわない、差じらいにつつまれた、曖味が特徴であるような彼の作品中、若いアメリカのあっけらかんとした性格や無邪気さのあきらかな象徴である、生命にあふれた少女を主人公にしたこの中編小説は、もっとも解りやすい作品といえるだろう。それでも、たえず光と影のなかで、いくつかの主題が作品全体にわたって顔をのぞかせるように構成されたこの中編が、内向的な作家ジェイムズの他の小説に比べて、ずっと単純だとは、けっしていいきれない。
ロバート・ルイス・スティーヴンソン『砂丘のあずま屋』
『砂丘のあずま屋』は、なによりもまず、人間嫌いの物語である。それは自負と粗野に発する人間嫌いであって、若い男性の場合はなによりも女嫌いを意味するから、主人公はスコットランドの荒れ地をひとり馬に乗って旅し、テントに寝て、食物といっては粥だけという生活をすることになる。だが、人間嫌いの孤独は、物語にとって多くの可能性をひらくものではないから、この物語では、若い人間嫌い、あるいは女嫌いがふたりいて、どちらもが身を隠して、ひそかに相手を観察するところから生まれる。背景となるのは、それだけで孤独と粗野を思わせる風景。
コンラッドの船長たち
ジョーゼフ・コンラッド[1857–1924]がカンタベリーに近いビショップスボーンの田舎の別荘で死んだのは、1924年の8月3日、ちょうど30年まえである。享年66歳、その20年を彼は航海についやし、20年を書いて暮らした。生前すでに[イギリスでは]名を知られた作家だったが、ヨーロッパの批評家たちのあいだで彼が真の名声を得るようになったのは死後のことだ。『NRF』誌が24年の12月、ジッドやヴァレリーの評論を含むコンラッド特集号を出し、遠洋航路の老船長の遺骸は文壇のもっとも洗練された知性の儀兵たちに守られて海に葬られた。だが、イタリアでこの作家の最初の翻訳が出たのは、赤いクロス装丁版のソンゾーニョ社の[大衆向き]冒険小説叢書の一冊としてであって、それでもエミリオ・チェッキは、このころすでに文学通たちの注意をうながしている。
パステルナークと革命
20世紀半ばに、まるでハムレットの王の幽霊のように、十九世紀ロシアの偉大な小説が私たちのもとに帰ってきた。ボリス・パステルナーク[1890–1960]の『ドクトル・ジバゴ』の最初の読者となった[ソヴィエト・ロシアで発表を拒否されたこの作品は、他国に先がけてイタリア語に訳され、ミラノのフェルトリネッリ社から1957年に出版された]私たちの感動はざっとつぎのようなものだった。まず第一に、それが政治的なジャンルに属するものではなく、文学的なものであったこと。とはいっても、「文学的」というだけでは、なにかが足りない。読者と本の関係になにかが起こったといえばよいか。それはちょうど、若いころ、これはいったいなんだろうと胸をときめかせて本を読んだときのあれ、──まさに──ロシアの文豪たちの作品をはじめて読んだとき、私たちはそのなかにあれこれと「文学」の典型をもとめたりはしなかったし、そればかりか、人生について、直接、細部を普遍につなげることのできる、過去についての叙述が未来を含むことができる、より直接的で一般的な話として読んだように思う。未来についてなにかいってくれるかと期待しながら、私たちはこの冥界から帰ってきた小説を歓待するのだが、ハムレットの父親の幽霊が干渉したいのは、ご存知のとおり、現在の問題についてなのである。たとえいつも、彼が生きていたときに、過ぎた時間に、過去に、問題を置き換えはしていても。『ドクトル・ジバゴ』との出会いは私たちを動転させ、感動させたが、そこはかとない不満や不協和音が残っているのも事実だ。とうとう、それについて議論をたたかわせることのできる書物がやってきた! それはいいが、議論のまっただなかで、それぞれが違ったことについて話していることに気づくことだってある。父親たちと議論するのは、容易じゃないのだ。
ロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・アヴァンギャルドが燃えた時代の、未来への緊張と感動にみちた歴史の過程への問いかけを、パステルナークは大事に保存した。そして、彼が書いた本は、終ってしまった偉大な伝統の、おそまきな成果として生まれ、孤独な道をたどって、現代西洋のメジャーな文学の存在を暗黙のうちに承認するに到った。
私たち──直接的、あるいは間接的なヘーゲルの後であるものにとって、歴史や人間と世界とのかかわりを、ヘーゲルとは正反対の、あるいは異なった仕方で理解をするパステルナークの「イデオロギッシュ」な部分を受け入れることは困難だ。だが、(とくに本の前半の)歴史/自然についての、感動にみちたヴィジョンに発想を得た物語の部分は、私たちとおなじ、未来への精神の緊張を伝えている。
この意味からいって、パステルナークの世界の概念は〈真実〉──ポーやドストエフスキーやカフカとおなじょうに、普遍的な規準として負を採択したという意味において真実──であり、彼の本はその〈効用性〉において、一篇の偉大な詩よりすぐれている。ソヴィエト社会がこれを有効に用いられるだろうか。世界の社会主義文学がこれへの返答を書きあげることができるだろうか。自己批判と自己創造がさかんにおこなわれる世界だけが、これを実行に移すことができる。より偉大なものへの参加を展開することのできる文学だけが。今日から、〈リアリズム〉はより深い意味をもつことになる(これまでもずっと、より深い意味をもっていたのではないか?)。
世界はチョウセンアザミ
世界の現実は、まるでチョウセンアザミ[アーティチョーク]のように、多重的で、棘だらけで、何層にもぎっしりと重なっているように、私たちの目には映ります。文学作品のなかで私たちにとって重要なのは、まるで無限のチョウセンアザミさながら、そこにたえずあたらしい読み方の次元を発見しながら、どこまでも剥いていける可能性を具えているかいないかです。そのようなわけで、最近いろいろと話題を提供している、多くの光彩を放つ重要な作家がいるなかで、たぶん大作家と呼ばれるにふさわしい人は、ガッダをおいて他にひとりもないと私はいいたいのです。 『悲しみの認識』は、想像できるかぎりこの世でもっとも主観的な作品に見えるかもしれません。
ガッダ『メルラーナ街の厄介きわまる件のごたごた』
1946年、『メルラーナ街の厄介きわまる件のごたごた』を書きはじめたとき、著者のカルロ・エミリオ・ガッダが考えていたのは、推理小説でありながら、同時に哲学小説でもあるような作品だった。推理小説のすじは、当時、ローマでおこったある事件からヒントを得ている。哲学小説のほうは、冒頭の部分ですでに明らかにされていて、ひとつの結果に対してひとつの原因を探していたのでは、なにも解明できないという思想だ。ある結果は、多種多様な原因によって決定されるものであって、さらにその原因のひとつひとつが、他の多くの原因を背負っているからだ、と彼は考える。したがって、ひとつの事実(たとえば、ひとつの犯罪)は、いくつもの異なった水の流れがぶつかってできる渦のようなもので、ひとつひとつの流れが、それぞれ異質な圧力に促されているのだから、真実をつきとめるには、それのどれひとつをもおろそかにしてはならない、というものだ。
ローマ人でない人間が書いた、ローマについての小説。じじつ、ガッダはミラノ生まれのミラノ人だったし、自分の出自がミラノのブルジョワ階級にあることをつよく意識していたから、この北の都市が大切にしてきた価値規準(実務的な具体性、技術的効率、倫理規準など)が、もうひとつのイタリア、なにごとにもいいかげんで、騒々しくて、非良心的なイタリアに圧倒されるのを感じていた。そして、彼の作品中もっとも自伝的な本(『悲しみの認識』)が、ミラノの社会と方言の話しことばにしっかりと根を下ろしたものであるにもかかわらず、彼がより多くの読者を獲得したこの本は、その大部分がローマ弁で書かれていて、そこでは、悪魔の大宴会を思わせる、地獄的な様相までをふくむ、生理的な、といってよいほどの情熱をもってローマが描かれ、理解されている。 (それにしても、『メルラーナ街』を書いたとき、ガッダがこの都市についてどれほどの経験をもっていたかというと、1930年代に3年ほど、ローマで暮らしたことがあるにすぎなかった。当時、彼はヴァチカン市国の熱電気設備部長職に任命されていた)。
エウジェニオ・モンターレ「たぶんある朝、歩いて」
若いころ、私は詩を暗誦するのが好きだった。それは学校でもかなり勉強した──いまも、もっとすればいいのにと思う──から、ほとんど意識せずにあたまのなかで反唱していて、何年も経ったあと、ふいに記憶の水面に浮かび上がってくることもあるし、ずっと人生の道づれになったものもある。リセを卒業したあと数年間は、ひとりで、当時はまだ学校の教科書になかった詩人たちの作品をおぼえた。ちょうどそのころ、表紙が灰色のエイナウディ版の、モンターレ[1896–1981]の『鳥賊の骨』(Ossi di seppia)や「その理由』(Le occasioni)などが読まれるようになった。そんなわけで私は、十八歳ぐらいのとき、彼の詩をずいぶん暗記した。なかにはやがて忘れてしまったものもあるし、まだしっかり記憶しているのもある。
モンターレの岩礁
日刊紙の第一面で詩人について話すのは少々気おくれがする。「公的」に論じなければいけない世界と歴史のヴィジョンとか、彼の詩が暗にほのめかす倫理的な教訓などを強調しなければならないなどと考えてしまうからだ。そして、それはただしいにちがいないのだが、よく考えてみると、これらのことはどの詩人についてもいえることなので、そのうえ、これではひとりの詩人の詩が、彼以外の作品でありえない特徴に触れないことになる。そこで、私は、モンターレの詩の本質にできるだけ近いところから話すことにして、公的なことをすべて避けていた詩人、あれほど「国民的詩人」のイメージから遠かった詩人の葬儀が、きょう、国をあげて人びとの関心をあつめていることについて考えてみたいと思う(このことは、彼が、同時代のイタリア人が表明した主な仰のいずれかの奉者であろうとしたことがまったくなかったにもかかわらず、いやそればかりか、彼がすべての「赤や黒の小坊主ども」に向けた毒舌をかつて矯めたことがなかったことを考えるとき、なおさら不思議な気がする)。
ヘミングウェイと私たち
私にとって──私にかぎらず、ずいぶん多くの人、たとえば、私の同年配、同世代の人たちにとっても──、ヘミングウェイ[アーネスト、1899–1961]が神様だった時代があった。思い出してもにんまりしたくなるような、すてきな時代だったが、私がこういうとき、どこか皮肉まじりの寛大さで若いときの熱狂や流行を眺める、というようなことではまったくない。それはきまじめな時代で、私たちはそれをきまじめに、なまいきに、純真な気持で生きていた。もしかするとヘミングウェイから悲観主義を教えられていたかもしれないし、個人主義的な無関心や、過酷な体験に同意することを彼の作品から学んだかもしれないところを、というのもこれらすべてがヘミングウェイにはあったからだが、私たちにはそれを読みとることはできなくて、事実上、彼の作品から漠然と引き出していたのは、人びとに開かれたこころの寛さ、おこなうべきことは、実践──倫理的、技術的に──を以て真摯に取り組む、透明なものの見方、自己礼讃、自己憐憫の拒否、人生の教訓や人間の価値を、なにげなく交わされた言葉や身振りのなかに、いつどこにでもとりいれようとする態度、などであった。やがて私たちは、それらの限界や矢点を見抜くことになる。私が文学の道をおぼつかなく歩みはじめたころに賞讃を惜しまなかった彼の詩的世界や文体が、すこしずつ狭いものに見えはじめ、マンネリズムに陥りやすいものであることがわかり、彼の生き方──そして人生哲学──も、なにやらうさんくさく思え出し、はては、それらに対して反感や不快感をさえおぼえるようになった。だが、結論からいってしまうと、あれから十年余を経たいま、わがヘミングウェイ〈修行〉(apprenticeship)をふりかえったとき、差引残高は黒字といってよいだろう。「よお、おれはだまされなかったぜ、おやじ」。彼の文体をまねるのはこれが最後としても、私はこう彼にいってやりたい。「あんたは、ぼくのわるい教師(mauvais maître)になりそこねたぞ」。今回ノーベル賞を受賞した──それ自体これといった意味もないのだが、彼について年来私が考えて来たことを書きしるしてみるよい機会であることはたしかだからで──ヘミングウェイが私たちにとってどういう人だったのか、また現在、どういう人であるのか、なにが私たちを彼から離れさせたのか、また、それらすべてをさしひいても、彼の作品にはあって、他の作家には見あたらない要素とはいったいなんなのかなど、その辺について解明を試みたい。
フランシス・ポンジュ
『とびらをめぐる快楽』と題されたこの短いテクストは、フランシス・ポンジュ[1899–1988]の詩のよい一例だ。なによりも平凡な物体やこれ以上日常的でありえない動作を選んで、それをあらゆる視覚的な馴れのそとで検討し、使いふるされた語彙のあらゆるメカニズムのそとで描写してみせる。そのことから、たとえばドアのような取るに足りないものが、予期しない焼きを放つことになる。そして私たちは、開けたり閉めたりすることのできるドアが山のようにある世界にいることの幸福を、突然に味わう。そしてそれも、事物そのものに属さないなんらかの理由(たとえば、象徴的とか思想的とか、美学的といった理由)のためではなくて、ただ単に私たちが、物体としての物体と、ある物体が他とは違っていて、さらにひとつひとつの物体が私たちとは違っているという関係を結ぶからなのである。存在するということは、私たちの精神がなんとなく馴らされてしまっている、うわの空な日々の繰り返しではなくて、ずっと密度の濃い、興味ぶかい、ほんもの)な経験なのだと、私たちはまったく突然、悟らされる。フランシス・ポンジュが私たちの時代には稀に偉大な賢者のひとりであり、もういい加減このからまわりを止めるために、あたらしい〈基地〉としてそこから出発することのできる、数すくない作家のひとりと私が考えるのは、このような理由からだ。
ホルへ・ルイス・ボルヘス
ホルへ・ルイス・ボルヘス[1899–1986]の名がイタリアで知られるようになって、かれこれ30年になります。最初に訳されたのが『伝集』で、イタリアでは『バベルの図書館』の題名でエイナウディ書店から、ついでモンダドーリ社の(メリデイアーニ)叢書の一冊として訳出刊行されました。たぶんセルジョ・オルミだったと思いますが、彼がフランス語訳で『伝奇集』を読んでひどく興奮し、作家のエリオ・ヴィットリーニにそれについて話したところ、ヴィットリーニがすぐさまイタリア語版を出すのをきめたというようなことだったと記憶しています。それがまた、フランコ・ルチェンティーニという、熱心なしかも適役の訳者に任されたことも、幸運なことでした。 そのあと、イタリアの出版界はきそってこのアルゼンチンの作家の作品を訳して上梓することになったのですが、今回、モンダドーリ社がこれらすべてを集め、さらにこれまで未訳だったものも加えて出すことになりました。これまでに出た彼の作品集として、現存のものではもっとも完璧な『全作品集』になるはずです。まもなく発売される第一巻は、作者ボルヘスの誠実な友人でもあるドメニコ・ポルツィオが編纂しています。 出版物としての商業的な幸運に加え、ボルヘスの著作は、文学作品としても画期的な幸運にめぐまれました。もちろんこのふたつのことは因果関係にあるのですが、なにが画期的だったかというと、詩学としてはまったくかけ離れた人々にいたるまでのイタリアの作家たちが、彼の作品に賛嘆の声を捧げたことにあります。それとともに、彼の世界への批評的解釈がぐっと深まりました。さらに、いや、なによりも私はイタリアの文学作品と文学という概念そのものにボルヘスがおよぼした影響について考えてみたいのです。私の世代を嚆矢として、この20年間にものを書いてきた人はみな、彼から深い影響を受けずにはいられなかったのですから。
レーモン・クノーの哲学
レーモン・クノー[1903–76]とはだれなのか。一見、この質問は異様にきこえるかも知れない、というのも、今世紀の文学、とくにフランス文学に親しむものにとって、この作家のイメージはきわめて明快に思えるからである。しかし、もし私たちひとりひとりがクノーについて知っていることをひとつのイメージに束ねようとすると、その輪郭はたちまち切れ切れの複雑なものになってしまう。ひとつにはまとめきれない要素があまりにも多くて、彼を特徴づける部分が明るみに出れば出るほど、また、ニュアンスに富んだ多面体のいくつかの面をひとつのかたちにつなぎあわせようとすればするほど、こんどは必要な他の部分が見えなくなってしまうからだ。つねにもっとも楽でリラックスした姿勢で、まるで仲間どうしでカードゲームでもするように、こちらと肩を並べてくれ、たえずくつろぐようにと誘いかけてくれるこの作家は、しかし、ほんとうのところは、永遠に探りつくせない地平を背後に秘めていて、それが意味するもの、前提となるものが決して底をつくことがない人物なのだ。
パヴェーゼと人身供犠
パヴェーゼ[チェザレ、1908–50]の小説はどれもひとつの隠れたテーマ、彼がほんとうはそれをいいたいのだがいわず、いわないことでしか表現することのできないテーマを軸に回転している。そしてそのまわりに、彼は可視的な記号や(だれかがいったことばなどを織り込んでいく。さらに、これらの記号のひとつひとつは、隠された、あるいは明言されたものより重要な局面(多義的、あるいは伝達不可能な意味)をもっていて、しかも真の意味は、ことばに出されなかったものと、それをつなぎあわせる関係のなかにある、といった具合である。
x
編者覚え書き
訳者あとがき
『不在の騎士』や『見えない都市』など、明晰でリズム感にみちた文体と、ゆたかな寓意性にいろどられた一連の物語の作者として20世紀後半の世界に名を馳せたイタロ・カルヴィーノは、また、戦中、戦後のイタリア文化のかがやかしい担い手であったエイナウディ出版社を代表する編集者のひとりとしても、傑出した存在だった。ここに集められた文章の多くは、同社の文学叢書の「まえがき」として書かれたものだ。 カルヴィーノが残したこれらの文章を訳そうとわたしが思いたったのは、なによりもまず、翻訳することによって、作家としての彼らしい作品への目のつけどころや読み方を、かつて心を奪われたことのある詩や(ときには読んだことのない)小説のなかにたどる作業を自分に課してみたかったのと、もうひとつは、カルヴィーノがとりあげているこれらのテクストを読む愉しみを、自分自身に贈りたかったからだ。
没後にまとめられたこともあって、この本にあつめられた文章は、質的にも文体としても、どこか不揃いである。すらすらと読めるものもあるし、著者自身が(そして、いいわけみたいになるけれど、そのために翻訳者までが)どこかいいよどんでいるような、ごつごつした文章もある。でも、どれにも、かならず、刈り取った麦わらのなかにかがやくヤグルマソウの青のように、むねがときめく思考があちこちにきらめいていて、ときには壁にぶつかって投げ出しそうになりながらも、つぎの「青」との出会いをもとめて、この困難で愉しい仕事を終えることができた。
文庫版解説──お節介な男を擁護するために 池澤夏樹
人間を古典を読む者と読まない者に分けてはいけない。そんな失礼なことをしてはいけない。そう思う一方で、古典を読む者の間になんとなく連帯感が生まれるのも事実で、カルヴィーノがいちばん最初に言っているように、ある種の人々は具体的な古典の作品が話題になると「いま、読み返しているのですが」と言うのだ。いわば古典クラブの会員であることの表明。その先には「あなたがまだ読んでいない必読の古典」という意地の悪いアンケートがあって、みなおずおずと白状したりする。
では、人を古典に誘うにはどうすればいいか? 古典はいわば一つの都市である。美しい都である。しかしこの都市の城壁の中の道は錯綜して、分岐や行き止まりや隘路に満ちている。宮殿は見えているのになかなか辿り着けない。あるいはすべてが地面の下にある隠れた都市(と書きながらぼくは当然カルヴィーノの傑作「見えない都市』のことを考えているのだが)。だから勝手知った者が入口から少しだけ手を引いてやれば、人はやがてその都市を自在に歩き回れるようになる。
なぜカルヴィーノがこの本を書いたのか、「訳者あとがき」を読んでその理由を知ったぼくはとても嬉しくなった。彼は作家であると同時にエイナウディという出版社の編集者だった。ここが刊行する文学叢書の「まえがき」として書いた文章を集めたのがこの本だという。ああ、自分も同じことをしたと思った。 この何年かをかけてぼくは河出書房新社と一緒に『世界文学全集』30巻を作った。 これに関してぼくの仕事はどういう作品を入れるかを決めることと、1巻ごとに「月報」という文章を寄せることだった。入口がわからなくてとまどう読者がいると困るから、ある程度は開けたところまで読者の手を引いて連れてゆくのが「月報」の仕事である。いわば城門から小道を辿って広場まで。まだそれだけを1冊にまとめてはいないけれど、まとめるとすれば「なぜこの全集を読むのか」というタイトルにしてもいいかなと思う。お節介であり善意の押しつけかもしれないが、原理的には文学の福音を広めるということだ。
案内人としてカルヴィーノはおそろしく有能だ。彼の読みの深さは驚嘆に値する。自分が知っている作品について、ああそこまでは気づかなかったと思って読み、知らないものについては絶対に読まなければと思いながら読んだ。それほど古典は深いのだ。 感心したことをぜんぶ羅列したら本文とこの「解説」が同じ長さになってしまう。全文引用という文学的ジョークになってしまう。
