Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

池澤夏樹『世界文学を読みほどく:スタンダールからピンチョンまで』新潮社(新潮選書)

池澤夏樹の小説って読んだことがなかったけど,この本は面白かった。作家という立場から他の小説を読みほどく。場(世界)があって人物があって,それで小説は〈世界〉を描く,という話。作者の視線(神の立場なのか,登場人物たちと同一の地平にいるのか)とか,描写の仕方とか,得るものが多かった。

はじめに

ぼくは文学についてアカデミックな訓練をまったく受けていない。好きなものを勝手に読み、その中から抽出した原理のようなものと自分の体験を素材に、一種の変換操作を施して作品を生み出している創作者である。では、その原理のようなものを語ることはできないか。最初に京大から依頼の話があった時、まずそう考えた。しかし、改めて自分の中にあるものを精査してみると、それは原理としてまとめられるようなものではなかった。そこで具体に徹して、これまでに読んだものを学生たちと共に読み返す、という方針を立てた。

総論:1

この一週間でぼくが話すのは、「小説」という形式が、十九世紀に西欧である意味では完成して、「小説の幸福期」というのがあった。それから、それがだんだんに崩れて変わってきて、果たして小説はいま幸福なのか、あるいはその十九世紀に出来た形がどう変わってきたか、これからどうなるのか、ということです。

ぱくは、小説というのは自分たちが生きているこの世界を表現するための道具の一つであって、世界が変われば小説は変わると思っています。

明日からは、十の作品を一回に一つずつ解析していきます。ストーリーの展開、主人公の設定、そして一番大事なのは、「どういう〈世界〉で事が起こっていくか」ということです。/ここに言う〈世界〉は、単なる舞台ではない。もっと積極的、能動的に作品に関わってくる「場」としての<世界>を、それぞれの作品について解析していきます。

しかし残念なことに、『サチュリコン』が到達したものが、その後小説の伝統として受けつがれ発展してきたわけではありませんでした。「サチュリコン』は、むしろポツンと孤立した例としてあったという感じで、このあと小説は、さほどふるわないまま近代に至りました。

小説が本当に盛んになって、文芸の基本形になったのは、ここ三百年ぐらいのことです。場所は西ヨーロッパ。市民社会が成立して、奥さんたちが暇を持て余す。それから識字率の向上。そして最も大事なことは印刷技術の進歩です。本というものが比較的安価に作られて、大量に売られるようになったことは大きかったと思います。

職後の混乱期が終わって、経済的に少し上向きになって、住む場所がきちんと確保された時です。住む場所ができると、本棚の一つぐらいは置いてみたくなる。本棚というのは空っぽではしようがない。でも、一冊一冊買っていこうとすると、どれがいい本かわからない。セットになっていれば一気に本棚が埋まる。

変わるものがあり、変わらないものがある。その変わらないものを真ん中に据えて、変わっていく姿を添わせる。そうすると、重たい話が書ける。変わるものの話だけを書いていくと、風俗の小説になります。それはそれでいいんですけれど。

この『スローターハウス5』の中に、「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、『だけどもう、それだけじゃ足りないんだ』」という言葉がある。

過去の小説の中にすべての事例は書かれてしまった、だから、これ以上書かないでいいよね、ということにはならない。やっぱりぼくたち小説家は新しい話を書きますし、それから、同時代の作家たちが書いているものをお互いに読み合います。そして、世界の、社会の方が変わったところを何とか表現してやろうと工夫する。この変化は何なんだと格闘する。いま自分たちはどういう「場」に生きているのかを知るため、われわれは何者なのかを明らかにするために、小説は書きつづけられるのだと思います。

ギリシャの英雄というのは、ちょうど神様と人間の間ぐらいにあって、それだけ大きな人格を持っているものですから、その点を読者に納得させれば、その終りかたの必然性はうまく伝わる。つまり、いい加減な奴がとんでもない失敗をして滅びてしまうのは、むしろ喜劇だということです。その失敗の前に充分な努力がない。滅びの裏に充分な努力がない。つまらないことでドジをする。それはコメディにしかならない。/努力の裏付けがちゃんと読む者に伝わって、どうにもしようがないものだったんだということがわかった時に、それはきちんと悲劇になるんです。

つまり時間感覚というのは、過去へ延ばすにしても、未来へ延ばすにしても、想像力の問題なのです。その力がシマウマにはない。犬には少しあるかもしれない。

総論:2

物語、小説というのは、どうしても主人公、つまり人間中心に考えがちである、しかし実際には、人が動く「場」の方もかなり重要なのだ、という話をします。

つまり「ロビンソン・クルーソー」はフレームとして使いやすい話なんですね。一人の男、ないしは女、あるいは一群の人々が無人島に流れ着いて、そこで何とか生活を立てていく。その過程で、では生活とは何か。今の世界、文明世界で人が生きるとはどういうことか。文明がなくなった場合に、どうしたら生きていかれるか。何のために生きるか。そういうことを煎じ詰めて考える、一つの思考実験の装置として島は有効なんです。

書いてみて気づいたのですが、島というのは舞台として使いやすい。なぜならば閉じているからです。入ってくる者と出て行く者がはっきりとわかる。閉じているということは、視線の届く範囲に全てがあるということですから。つまり、言ってみれば芝居の舞台と大変似ているのです。しかも無人島の場合は、最初は誰もいないわけだから、空っぽの舞台に人が登場するところから始められる。そういう、演劇的な方法が小説に応用しやすい。

シェイクスピアが最後に書いたこの『テンペスト』という芝居の舞台はやはり島です。非常に舞台らしい舞台です。シェイクスピアの中でぼくはこれが一番好きで、ですからもう一つこの中からタイトルを盗んでいます。『骨は珊瑚、眼は真珠』(一九九五)。(…)ぼくが『テンペスト』をシェイクスピアの中で一番好きだというのは、この話の形と展開が好きなんだと思います。

量子力学は、要するに「場」と「素粒子」から成っている。その間の相互作用が世界全体の現象として記述されます。そこでは、「場」と「素粒子」はそれぞれ同等な資格を持っています。この場合の「場」は、単なるバックグラウンド、背景、空っぽな舞台ではなく、もっと積極的な性質を持っていて、それが「素粒子」の動きを規定している。/そういう関係を見ていると、そのような一種力学的な動きとして、人の動きをも読みたいという気持ちになる。世界、ある事件が起こる「場としての世界」は、とても大事であると思えてきます。

つまり、見える形でしか見えない、見られない。物語の構造と物理学的世界の構造は案外近いように見えるけれど、これは偶然の一致ではないと思うんです。なぜなら、人間が必死になって理解しようとして、その結果、人間という項目によって、遥か遠いはずのものが介在されて、繋がってしまったというこのなのだと思うから。

スティーヴン・J・グールド(一九四一ー二〇〇二)という生物学者がいます。彼の本が一番面白いとぼくは思います。『パンダの親指』(一九八〇)とか「ニワトリの歯」(一九六三)とか、早川書房の文庫でたくさん出ています。残念ながら二〇〇二年に亡くなってしまいましたけれども、もし生物学の本を読もうと思うなら、まずグールドを読んで下さい。俗流進化論を接滅するのに非常に力のあった人です。社会的な不正義、不公平、理不尽を、通俗生物学的な理由、言い訳で誤魔化してはいけない。ひと言で言えばそういうことを言った人です。

スタンダール『パルムの僧院』

『パルムの僧院』は、イタリアのパルム公国を舞台とした、一人の非常に魅力的な男の生の物語です。それにまた非常に魅力的な彼の叔母という女性の運命が、さまざまに絡み合う。ひと言で言ってしまえばそういうことになります。「非常に魅力的」。人の魅力というものが話全体を動かしてゆく力になっている小説です。

それからもう一つ、「幸福」という概念が、全体の真ん中にあるということがあります。登場人物たちは途中さまざまな不幸に見舞われるけれど、その不幸まで含めて彼らは幸福であるという印象がある。ストーリー全体が祝福されていると言ったらいいか、そこが面白いところです。

では、どうしたらそういう幸福感、祝福されている印象を醸しだすことが可能なのか。その辺を少しずつ解読していきたいと思います。

『パルムの僧院』は、そういう限られた「場」「世界」で、限られた「力」の駆け引きが行われる、一種の非常にゲーム的な要素を持った小説なのです。

今の日本の作家たちの中で、内なる批評家の力が一番強いのは、たぶん丸谷才ーさん(一九二五ー二〇一二)でしょう。非常に優れた批評家です。したがって彼が提示している批評の基準、「小説とは何か」という見解は正しい。というよりも、大変役に立ちます。有難い。しかしその批評家の能力と、小説を次々に書く力とはちょっと違う。それかあらぬか、丸谷さんは十年に一本しか書きません。見事な運営だと思います。

須賀敦子さんを例にしましたが、近代と現代の文学では、こんなふうに国境を越えた人たちがたくさんいます。スタンダールはその先駆でしょう。越えたけれども、結局最後まで彼はフランス語で書きました。彼がしたかったのは、イタリアという国、特にイタリアの人たちの生きかた、物の考えかた、愛しかたを、フランス人に見せてやる、教えてやるということだったのではないか。

スタンダールの作品がわかりやすい、非常に明快な印象を与える理由の一つに、描写ではなくて記述が多い、ということがあると思います。批評家が言うのは、人物を説明する部分が多く、風景がほとんど出てこない、ということです。ある場面を、一旦時間を止めた感じでずうっと言葉で描写していくということが、ほとんどない。

ゴールディングやファウルズとは対照的に、スタンダールは、主人公たちにもう手放しで惚れ込んでいます。彼らを幸福にしてやりたいと願っている。彼自身の伝記を読めばわかりますが、スタンダールは非常に惚れっぽい男でした。自分の好きなタイプの人たちについて書きたいというそういう動機から、ひたすら小説を書いた、とぼくには読めます。

彼が基準とした価値は何か。それは情熱、パッションなんですね。つまり、イタリア人は奉放にふるまう、自分の心に正直に、ブレーキをかけずに思いのままにふるまって生きている、その点フランス人は自分を抑制してしまうから、そこが駄目なんだ、というのが、彼がこの小説でイタリア人の主人公たちに託して言いたかったことなのだろうと思います。

その「恋愛論」の中で、スタンダールは恋愛を四つに分けていました。〈情熱恋愛〉〈趣味恋愛〉〈肉体的恋愛〉〈虚栄恋愛〉。詳しくは大岡昇平訳の文庫本(新潮文庫)を読んでみてください。面白いです。

小説というのは、組み立てだけでは、本当はよくはわからないものです。人々の魅力をスタンダールがどう書いているか。彼自身がそれをどう受け止めてきたか。これは、実際に読まなくてはわかりません。

今回の十作の全てについて言えるのは、それぞれの意味合いにおいて、読む努力には見返りがあるとぼくが保証できることです。なかでも『パルムの僧院』は、一度読んでこの世界を知ると、その後一生ずっとついてくる作品だと思います。

トルストイ『アンナ・カレーニナ』

今回何十年かぶりで読み返してみたら、ぼくはこの話が全然好きではないことがわかった。もちろん、最後まで読みましたけれど。そこで、「何で好きじゃないんだろう」という疑問を論の中心に据えていくことになるという、いささか変則的な内容になります。

今度読み返して気づいたことがあります。それは、この小説が正にメロドラマだということ。この「メロドラマ」が何を意味するかはゆっくり説明しますが、ぼくにとっては何かが過剰で、それに違和感をおぼえたのだと思います。作者自身の姿勢ということかもしれない。ズレを感じてしまった。

一方で、書かれたのが一八七七年、百二十年以上も経っているにもかかわらず、とても現代的な話であることには感心しました。人々の心の動き、あるいは自分のふるまいに対する説明のつけかた、周囲の受け取りかた。今の話として何の違和感もありません。つまり、われわれは今このように行動をしているし、このように自分たちを説明している。

いかにもメロドラマであると見える一つの理由は、作者が登場人物全員の心の中を完全に掌握していると肩じていることによると思います。つまり、登場人物を人形を糸で動かすように動かしている、そして一番問題なのは、その手つきが見えてしまう、ということです。不幸な巡り合わせの役、あるいは笑われてもしかたがない滑稽な役に対して、その役割に適切な台詞やふるまいを配っているのがわかる。作者の目からは全部がすっかり見えるという前提で、話が進んでいく。

スタンダールの場合も作者は登場人物の心の中をぜんぶ知っている。そのうえで彼とトルストイが違うのは、スタンダールは登場人物と同じ地平に立っているのに対していトルストイは登場人物を上から冷ややかに見ているという点だと思います。だからスタンダールは登場人物を操作しているようには見えない。

最初にモスクワ駅で見た時に、ヴロンスキーはアンナ・カレーニナという美しい人妻にクラッとしてしまいました。心に留めて、気になってしかたがない。アンナもヴロンスキーに対して同じような気持ちをいだきます。この辺りの人間の動かしかたがうまいと言えば本当にうまいし、あざといと言えば相当あざとい。まさにメロドラマです。

トルストイはいかにもスペクタクラーな場面作りがうまい。細部の描写、場面の作りかた、盛り立てかた。それは上手なものだと改めて思いました。

基本的には存在とか生きかた自体を深く疑ってはいない。この辺りがやっぱり、今と似ている、そのままぼくらの今の世界観と重なるところが多いんじゃないかと思うのです。

映画の手法で言えば、トルストイはクローズアップを使い過ぎです。だから品がなくなる。一番わかりやすい画面の作りかたです。相手を見てある思いを顔に出している顔のアップ。それを受けて驚いている顔のアップ。切り返しを繰り返す。いくらでもできる。それで全部説明したっもりにはなるのだけれど、これは何の奥行きもありません。あまり悪口を言うのもいけないんだけど(笑)。

ぼくは似たような思いを三島由紀夫 (一九二五ー七〇)に対して持ったことがあります。三島も嫌いなんです。好きな人がいたら、ごめんなさい。彼の、全部わかっているという、あのポジションからの書きかたがどうしても鼻について、楽しく読めない。日本語で読もうとすると、途中で嫌になってしまう。それでも、十代ではそれがまだよくわかっていなかったし、一通り読みましたから一応頭には入っています。しかしその後読み返そうとするたび、なにか嫌な感じになって止まってしまう。

「偶然の出逢い」も、一つの作品で一回までならいいとぼくは思います。二回以上使うと、「ちょっとそれはずるいよ」という気がする。だけどそれをやる人もいます。ポール・オースター(一九四七ー )も偶然の出逢いが好きで、しょっちゅう使います。ありえないだろうと思うんだけど、逢ってしまったんだから仕方がないと作者は言うわけです。「まあ、それはそうだけど。でもね」と、ぶつぶつ言いながら、こちらは引っ込むことになる。それでもぼくはオースターが好きなのですが。

何度も言ったようにメロドラマであり、通俗的で、誰にもわかりやすくて、結論がきちんとしている。つまりこれこそが大小説です。「アンナ・カレーニナ』のような小説を、言ってみれば縮小再生産しながら大衆化して、今のこの映画やテレビドラマまで含めた小説的なるものの盛況に至ったわけで、そういう意味では現代のメディアはトルストイには大変恩義があるんだと思います。

夫との生活に耐えられず、人妻が浮気をして、煩悶した挙句に自殺をするという傑作がもう一つあります。『ポヴアリー夫人」(一八五七)。こちらの方は面白いのですけれど、今回はたまたま入れませんでした。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

父親は彼に輪をかけた好色漢で、だらしのない男で、金に汚くて、息子たちを可愛がる気持はかけらもない。この小説は、言ってみれば父親と長男が一人の色っぽい女を争う話です。情欲、そういう情動が一番基本筋にあるという話ですから、この〈情欲〉の部分は当然強調されます。

これがカラマーゾフの五人です。このカラマーゾフという一家の血には、どうにもしょうがない好色なものがあって、淫夢なものがあって、それに突き動かされるような生きかたをしていると言われている。それと同時に、非常に純真な、厚い雲の間にポッと青空が見えるようにスカーッと抜けた、ひどく素直な瞬間、敬虔な一面もある。これら全部含めてカラマーゾフだと自他共に認めています。

このロシアを一体どうすればいいのかという問題で、インテリたちは散々議論をする。ところが同時に、インテリたちは「どうせインテリというのは、お茶を飲んで喋っているばかりで、何をする力もない」と自嘲気味に思っている。そういう無力感がある。/その一方でインテリたちには、ロシアにはあの民来がいる、彼らの信仰がある、という民衆への言頼感があります。特にドストエフスキーはそれが強い。

それから、「カラマーゾフ」には〈笑い〉という要素が実は大きい。『アンナ・カレーニナ』にはほとんど笑いは出てきませんが、この『カラマーゾフ』には非常にたくさん出てきます。それも微笑などではなくて、爆発的な哄笑のような笑いかた。それにヒステリックな、止まらないような笑い。/それから、ドンチャン騒ぎ、大盤振る舞い。この要素については、〈カーニバル〉という言葉を使って説明した、ロシアの文芸学者バフチン(一八九五ー一九七五)のドストエフスキー論が有名です。今日は詳しくは言いませんけれども、頭に留めておくべき名前とテーマです。

子供に対する姿勢を持っている作家と、持っていない作家がいます。一般的にアメリカ文学には子供の要素は大きい。明後日マーク・トウェインの話をする時に言うと思いますけれども、アメリカの場合、国全体がどこか幼児的とまでは言わないまでも、少年的な要素をたっぷり持った国であって幼い。したがってアメリカ文学にとって少年、少女の像というのは、大変意味深いものがあります。

この小説のミステリとしての仕掛けは、とてもうまく出来ています。つまり、その意味でもこの話は先駆的なのです。言ってみれば、二十世紀になってから書かれたミステリは、『カラマーゾフの兄弟』の長い長い議論や何かを全部省いてしまって、ストーリーの骨格だけ残したものだと言っていいかもしれない。

作者はほぼ全知全能です。しかし、全知全能であるけれど、この事件が起きた町のどこかに住んでいて、どこにでも出入りできる誰か、見えない誰かであるような書きかたをしています。つまり、上から見おろしているのではなくて、同じレベル、目の高さで、例えばアリョーシャが走っていくと、その後をスーッとついていってその場面を目撃するというような感じです。視点が決して神ではない、上からの視線ではなくて、同じ地面の上の視線があるように読める。しかしもちろん、登場人物たちにとっては透明人間であり、いかなる場所にも行けるし、同時に二箇所にも身を置ける。だけど、人々の心の中には入らない。つまり神ではないわけで、そこが好ましいとぼくは思います。

今日は、ここまでが長かったので、この講義全体のテーマである、この作品と世界との関係については、言わないでおきます。しかし、『カラマーゾフの兄弟』を成立させている世界は、われわれが今生きているこの世界と非常に近い。情欲、信仰、無神論と哲学、それから自由の問題。パンとサーカスのことも含めて、今の時代と非常に重なるところが多い。その上で別の要素が加わったのが今だとすれば、これはまさに現代の小説としても読むことができます。思想的なリアリズムとして一つ一つ機能しています。

メルヴィル『白鯨』

この『モービ・ディック』の場合は、内容において、あるいは思想的に、人間論として繋がっていると言う以上に、形において繋がっているということが言えます。前三作よりもこの作品のほうが「今の」小説であり、それから何よりも「今の」われわれの世界観なのです。

そして、これから先は、ひたすら鯨の話、捕鯨の話になります。その細部が、ストーリーとは別に、肥大して、増殖して、全体の図柄が見えにくくなるほどになっている。ここのところが、ぼくが「ポストモダン」と呼ぶ理由です。

つまり、頭に、イシュメールが船に乗るところ、それからエイハブにもう一遍モービ・ディックを捕まえるという野望があるというところを書く。そして尻尾で、エイハブとモービ・ディックの対決を書く。この間、何をどれくらい書いて埋めるかは自由、書きたい放題ということです。したがって、ストーリーの説明はこれ以上はしません。『カラマーゾフ』に比べるとずっと楽ですね(笑)。

さて、『モービ・ディック』には、鯨に関することはすみからすみまで、鯨学と呼べるものすべてが書き尽くされている。鯨学とは、例えば鯨をキーワードにした博物学、思想史、文化史、経済史、というようなものです。そしてそれぞれに、ちょっと捻った、意地の悪い、拗ねた解釈や意見が添えられている。この文章は非常に魅力があります。エッセイの文章として非常にうまい。

これは小説です。にもかかわらず、エイハブの復讐という全体を通すストーリーによって小説の体裁が整ってはいるものの、この容器の中に詰め込まれているのは、実はむしろエッセイに近い内容の文達が圧倒的に多い。そしてその部分が、一八五一年から後のわれわれが生きているこの現実の世界のありかたと、実は大変に深く関わっているのです。

この見かた自体が非常に新しいものでした。要するに『モービ・ディック』は、あるいはメルヴィルが見ている世界は、一個の(…)データベースなんです。

ジョイス『ユリシーズ』

『ユリシーズ』は、これまで読んできた作品の中で一番読みにくいかもしれない。作者は、素人の読者のことをあまり考えていません。文学の研究者だけを相手に書いたとは言わないけれども、非常にスレた小説読み、むしろ「小説を解読する」という姿勢で読むような読者が喜ぶような話です。スラッと読んで面白い、感動する、役に立つ、人生の指針になるというようなものではないという言いかたもできる。大変な話です。

二十世紀に入ってから、一番丁寧に解析的に読まれたのがこの『ユリシーズ』と、プルーストの『失われた時を求めて』という、長い長い話です。どちらも新しい、非常に読みやすいいい訳が、ここ数年で出ました。なぜかどちらも集英社です。とても熱心な編集者がいたのです。

では、なぜ『ユリシーズ』と『失われた時を求めて』であるか。なぜジョイスとプルーストであるか。プルーストは大変だし、ぼくもさほど詳しくないので今回は省きましたけれども、この二つがセットにして扱われる、論じられることが多いというのは、二十世紀文学史の一つの常識です。

神話の系譜を最後まで突き詰めて、神話的なるものを小説として徹底的に展開すると『ユリシーズ』になる。/一方、十九世紀末から二十世紀初頭のフランスの上流階級の人たちの間のゴシップを、非常に精密に書いて、それぞれの心の動きを辿って、延々と仕上げると『失われた時を求めて』になる。

書けるかぎり書くためにジョイスがしたことは、その限られた時間にあったことをベタに全部記述するのではなくて、その要所要所で立ち止まっては深みに入るということです。表面だけを書いていても全部にはならない。ではどこまで深みに入るか。入りだせばこれがまたきりがない。そういう両方の要請の間で引き裂かれながら、とにかく一人の作家の頭と、有限の執筆時間で書けるかぎりを書く、ということを試みた。

『ユリシーズ』には、こういうジョーク、こういう品のない無駄口、駄洒落のたぐいが山ほど入っています。でもそれは、単に品のない遊びというだけではなくて、連想ゲームとして、心理の奥の方を掴んでいく、そういう技術の一つなのです。

大和言葉は、歴史上のある時点から、語彙を分化させなかったということです。新しい語彙を作る作業をさぼって、その代わりそれを全部漢字に任せてきたのが日本語なのです。

様々な色の材質の石を集めてきて首飾りを作る、それを繋ぐ糸として三人の登場人物がいる、というふうに考えて下さい。だからこの『ユリシーズ』の場合も、例えばスタンダールにおけるようには、ストーリー、物語の流れは最も大事なものではない、ということです。

マン『魔の山』

特にイギリスの知識人にとって、第一次世界大戦のショックというのは大きかった。一世代が丸々なくなってしまったのです。みんな従軍して、みんな帰ってこなかった。ここでみんな、というのはつまり、ケンブリッジ、オックスフォードのインテリたちです。一世代抜けてしまったのです。フランスについてならばマルタン・デュ・ガール(一八八一ー一九五八)の『チボー家の人々』(一九二二~四〇)が大戦とインテリの関係をよく描いています。

そのナチス台頭前の、大戦と大戦の中間の時期に、この『魔の山』は成立しました。

このように、様々な国から様々な思想やイズムを体現する人物が、スイスに集まって議論をする。それら全体がヨーロッパである。もうドイツ云々ではないんです。ハンスはドイツ人だけれども、ドイツがどうなのかではなくて、ヨーロッパとはどういう場所で、いかなる思想に導かれているかということが論じられる。いわば、中立国スイスの山で、ドイツ人ハンスを前に「ヨーロッパ」のプレゼンテーションが行われたということです。

第一次世界大戦が終わって焼け野原になったドイツにあって、今後はドイツだけを考えていては駄目なんだ、ヨーロッパ全体を視野に入れたものの考え方をしなければ、という思いがトーマス・マンにはあったと思います。それを『魔の山』というサナトリウム小説、教養小説の形で書いたわけです。

非常に面白いけれども、実際に読むのにはいささかの忍耐を要します。/ただこれは、ここで話す話全部について言えることで、美味しい果物は皮が厚いというか、殻が硬いというか、そうそうすぐには食べられません。何とかその皮に切れ目を入れようと思って、ぼくはこうやって話しているのですから、そのつもりで立ち向かって下さい。

フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

ウィリアム・フォークナー(一八九七ー一九六二)という人は、非常にローカルな書きかたをしました。アメリカの南部、ミシシッピー州で生まれ育って、最後までミシシッピーを拠点にして仕事をし、「ミシシッピー州のある町」という設定で、自分のほとんどの小説の舞台となる架空の町を勝手に創りました。実際には彼が住んでいたオクスフォードという町がモデルなのですが、「ジェファソン」という町を創って、町ばかりか、さらにそれを取り巻くカウンティー、郡までも創ってしまいました。そしてもっぱらその架空の、だけど非常にリアルな場所「ヨクナパトーファ郡」を舞台にした話を書き続けるという、そういう意味では相当変わった姿勢、強烈な地域性を持った作家でした。

それから、この話ばかりでなく、彼の話には一家の没落の話が多い。成り上がるところはだいたいあんまり面白くないんです。没落しかけていろいろジタバタもがく。それでも崩れていく。他人の目から見ればこの時期が一番面白い。

一人の、非常に野心的な男が一家を興して、大きな屋敷を構えて、たくさんの黒人奴隷を使って成り上がる。それが、昔行なったあることをきっかけに崩れ始めて、彼が作ったものが全て消えていく。この長い過程を、非常に複雑な話法で伝えていくのです。

フォークナーの小説は、「あらすじ」に圧縮できません。「あらすじ」はない、「あらすじ」というものをまとめられる立場の人間はいない、という考え方に貫かれています。人間の歴史はーこの場合、一家の歴史ですけれどー全て主観の絡んだ見かたしかできないのだから、その主観の絡んだ見かたを積み重ねて、全体像を描くしかない。人間の人生は客観視できない、人生の局面は主観でしか語れない、という態度に徹しています。

奴隷制というあの制度によって栄え、その倫理的問題を突かれて、そこから崩れていった地域。南北戦争で負けた後、十九世紀後半のしばらくは、南部の人々は何をする気力もなくなって、ただ座ってひたすら昔を偲ぶだけだった。そういう時期の南部、一八三〇年代から最後一九〇九年の南部が、この話には書かれているのです。

このように、過去が追いかけてきて今に絡みつくということが、しばしばこの話の中では起こります。なぜかというと、これがジェファソンの閉鎖性であり、南部の閉鎖性であるからです。フォークナーの話には、全ては閉じているという感じが、いつもついてまわります。一つの町に舞台を限定しているからということではなくて、話全体が運命のある一つの区画から外へ出られないのだ、ということがわかります。誰もが逃れようとしているのだけれど、そこへどうしても戻ってきてしまうのです。そのような印象が、このジェファソンという町自体についてまわっています。

『アブサロム、アブサロム!』。最後に「!」がついています。旧約聖書の「サムエル記」の中に、アブサロムというユダヤのダビデの三男坊の話があります。母親の違う兄を殺して、それから父親に反抗して反乱を起こす。反乱を鎮圧に行った部隊が、父親のダビデはそこまで望んでいないのに、アブサロムを殺してしまう。ダビデは非常に嘆いて「我が息子アブサロムよ!」と泣くのだけれども、そのダビデの呼びかけがそのままこの本のタイトルなのです。だから「!」がついている。

これはたぶん、ヨーロッパ人には決して書けない小説、アメリカでしか生まれ得なかった小説だと思います。アメリカという、とても不思議な、それまでにはなかった経緯でいきなり生まれて、生まれた途端に大人扱いされた、あるいは大人のようにふるまわなければいけなかった国。露骨に真っすぐ繁栄を求めて走って、そのために奴隷制に頼った。三百年前はない、断ち切られた過去を持った国。しかし二百年前から後は、ともかく何もかもを自分たちで調達しなければいけなかったために、しばしば逸脱をしてきた、そういう国の小説です。

トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』

「尋」というのは水深を測る時の単位で、一尋は約一・ハメートル、「ここの深さはいま二尋」というのが「マーク・トウェイン」というかけ声なのです。二尋あると船を安心して進めることができる。彼はそれをそのまま自分のペンネームにしました。本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズです。/つまり、トウェインにとって川の生活が一番の理想だったということです。これは、『ハックルベリ・フィン』を読めばよくわかります。川の上で暮らすこの自由な感じが人生の理想であって、それに対してきちんとした、日曜日ごとに教会に行く、そういう市民的な暮らしは相当窮屈である、と彼自身が思っていたのでしょう。  

トム・ソーヤーは読書少年。ハックルベリも字が読める。ハックでさえも完全な野生児ではなかった。その辺りにトウェインのバランス感があると思います。

トム・ソーヤーは夢想家で、もっぱら空想に頼って冒険を頭の中でして、せいぜい友達と棒きれを振り回してそれをなぞるだけですけれど、ハックルベリ・フィンは非常に実務的で、具体的です。逃げようと思ったら本当に逃げる算段を繰り出します。この実務の力があるから、自由な生活が得られる。ハックは一人前なのです。

この口調、加島祥造さん(一九二三ー二〇一五)の訳ですけれど、とてもいいですね。加島さんは翻訳家で詩人で、最近は老子の研究をしながら山の中で暮らしている不思議な人として、評判になっていますね。『ハックルベリ・フィン』の一番真ん中にある、一番大事なものは生動感だ、それが伝わらなければ翻訳として駄目なんだ、と言いながら、加島さんは何度も何度もこの翻訳に手を入れてここまできたそうです。いかにも少年らしい、しかししっかり者のハックルベリ・フィンの印象がよく出ていて、素晴らしい翻訳だと思います。

川に憧れて逃げ出したハックですから、そういう意味でも川からは離れられません。しかしミシシッピー川は南へ流れる。南へ行けば行くほど、黒人に対する白人の視線は厳しくなって、ジムが逃げつづけるのは難しくなる。このままで行くと、最後に逃げ場がなくなるはずなんです。これが『ハックルベリ・フィン』という話が最初から抱えている矛盾です。

つまり、人は良いことをしたいのです。良いことをした気持ちになれるのだったら、一ドル、ニドルは出す。だから、そういうシチュエーションを作ってやる。これが普遍の集金システムです。集金装置を用意してやればお金は入ってくる。これを仕掛けるのがペテン師。今も昔も変わらないことですね。

ハックがジムのことを密告しようかするまいかと悩むところ。本当に彼は真剣に悩んでいるし、この悩みに大人も子供もありません。社会の通念と個人の倫理が衝突する場面として、典型であるがゆえにわかりやすい。いい場面です。

実はこれは、アメリカが自分自身に対して言おうとしてきたことなのです。アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだれていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから。アメリカはイノセントである、という念が、最初にあるわけです。

この「イノセントとは何か」という議論は、アメリカの精神史を考える時にずっとついてまわります。いまだにアメリカ文学の大変大きな主題です。/このアメリカの、自分たちのありかたに対する頼、自分の判断に対する倍頼は、『アブサロム、アブサロム!」の時にも触れたように、新しい国家であることと、地方分権の強い国家であるということに由来します。何事も自分たちで判断し、裁きをつけるという精神的な習慣が背景にあるのです。何か事が起こったとき、彼らは必ず、自分たちの倫理的感度、常識、判断力を言じます。

このことについては、ジェイムズ・エルロイ(一九四八ー)の『アメリカン・デス・トリップ』(二〇〇一)という小説を読むとよくわかります。ケネディ暗殺とマーティン・ルーサー・キングの暗殺までの裏の動きを追いかけたフィクションです。フィクションだけど、実名がどんどん出てくる。こういう連中がこうしたら、こういう結果になったのだろうと、納得させるだけの説得力のある小説です。大変に暗い。暴力と殺しと陰謀と足の引っ張りあいだらけです。しかし、これもアメリカだなあ、という意味では、読むに価するものです。

ガルシア゠マルケス『百年の孤独』

一九六七年にこの『百年の孤独』が発表された時、ほぼ世界中に非常に大きなショックを与えました。こんな話が書けたのか、小説にはまだこんなことができたのかというのが、その驚きの理由です。

小説は神話とゴシップがその源であると言ってきましたが、この『百年の孤独』の場合、基本にあるのはむしろ「民話」です。

つまり民話というジャンルでは、長いものは無理だというのがそれまでの常識だったのです。『百年の孤独』は、その通念をひっくり返して、民話の面白さを大量に用意して、それを巧妙に組み上げていった。四百頁を超える話を支えるだけのストーリーがあり、構造がある、しかし基本的な材料は民話的な語りである、こういうことが実現できるとは、誰も思っていなかった。しかし、ガルシア=マルケスはそれをやすやすと実現してしまったのです。

では、どういう話か。/ひと言で言えば、マコンドという町を舞台にした、ブエンディアという一家の百年間の歴史の物護です。

これについて、ラテン・アメリカの作家たちは、確かにそう呼んでもいい、マジック・リアリズムと呼んでもいいけれども、と承諾をしながら、異をとなえます――あなたたちが「マジック・リアリズム」という時には「マジック」の方に力が入っているでしょう。不思議なこと、とんでもないことがたくさん起こるということを強調して、この言葉を使いたがる。しかしわれわれの側からすれば、これは「マジック」より「リアリズム」の方を強調して考えてほしいと思う。なぜなら、これがラテン・アメリカの現実であるから――こういう反論をしたのです。/ラテン・アメリカという土地の本質への理解が求められたわけです。

物は形と材料から成っています。普通の小説の場合は、材料がわかったら形はこうだと言えるのです。どういうことかというと、例えばぼくが皆さんにこの十の作品を読みますと言った時に、全部が読みきれなければ、それぞれ百ぐらい読んで文体を掴んだうえで、あらすじは文学事典などで掌握しておくだけでもいいです、と申し上げた。つまり百頁でわかる文体と手法は、そのまま構造的に展開すれば全体になるわけです。それが普通の小説。/ところが『百年の孤独』の場合は、構造的に展開する必要はない。材料がそのまま全体の形なのです。だから五頁読んだだけでもいい。それでも読んだことになる。しかし全部を読めば、やっぱりそれは全部読んだことになる。そこの細部と全体のバランス、文体とストーリーのバランスが、欧米のそれまでの小説と全然違う。

この話の人々は、それぞれに何かが過剰で、派手な性格だと言いましたけれど、この派手な性格は個性ではありません。資質です。その資質が世代から世代へ受け渡されていく。パターンが繰り返される。繰り返しながら世代を経てそれが少しずつ変わっていく。この辺が民話なのです。

ガルシア=マルケスは、作家になりたくて苦労して、非常に貧乏だった。何を書こうかと思い悩んで、自分が子供の頃祖母に散々聞かされたおとぎ話、祖母が現実のことであるかのように話したたくさんの話を思い出した。あのトーンで書けばいいんだと思い立って、書き始めたという。

並べていく。隙間なく埋める。この印象です。これは言ってみれば、ジャングルの自然観です。

ともかくこの『孤独の迷宮』は長らくラテン・アメリカ的思考の入門書でした。/しかし、それよりもはるかに深く具体的、説得的に面白く「ラテン・アメリカとは何か」を説明したのが、この『百年の孤独』だと思います。この作品を入口にして、さまざまなラテン・アメリカ文学が世界中で読まれるようになりました。

この二つの作品のタイトルの「孤独」は、「寂しい」という意味はさほど強くない。ガルシア゠マルケスの場合、あるいはパスの場合の、「孤独」とは何かと言うと、愛しえないことです。愛する能力を持たない。それがそのラテン・アメリカの人々の宿命なのだといわんばかりなのが、この二冊の「孤独」という言葉がついた本なのです。

池澤夏樹『静かな大地』

一番最初の総論の時に、小説を読むというのは旅に似ていて、一時的に別の所へ行って、そちらで暮らしてやがてまた元の現実へ戻ってくる、と言いました。あの感じで言えば、旅は長いほうが面白い。遠くまで行ける。

当時和人がアイヌに対してしたことは、全体として悪逆非道の限りです。侵略であり、搾取であり、さらにジェノサイドです。アメリカで、新大陸に渡った白人たちがインディアン、今の呼びかたではネイティブ・アメリカンに対してしたこととほぼ同じ。あるいはそれ以上かもしれない。

本来だったら小説家というのは最後に来るものです。どういうことかというと、何か歴史的な事件が起こる。そうするとまずジャーナリストが駆けつける。それからしばらくして、この問題をどう扱うかと論じる、評論家が出てくる。社会学者が分析する。それからさらにしばらくして、社会全体に一定の了解ができたときに、はじめて作家は出ていって、その話全体をフィクションに仕立てる。その出来事が持っている本当の意味、当事者の側と周囲の側、被害者と加害者、両方を含めた大きな輪を描いて、意味を中に閉じ込める。これが作家の本来の仕事なんです。作家は出来事にまつわること全てに均等に目を配ったうえで、好きに物語を構成して書いていくものなのです。だから早すぎる時に出ていくと、一方の側に加担せざるを得なくて、のびのびと筆が運ばない。/しかしそれでも、それを承知でしなければいけない時もあります。

ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

これが今回の十作の中で一番新しい作品で、これまでの九作とはまったく、本当にまったく小説として違うものです。/何が違うかというと、まず主人公の人生、体験、成長等を追う話ではないということ。確かに主人公は、物語の最初の状態と最後の状態では違っています。しかし彼女は、より大きな何かを伝えるための導き手であって、彼女について語ることは作者の目的ではない。/では、そのより大きな物というのは何かというと、それは「謎」です。あるいは「謎があるかないか、謎は本当に存在するかしないかという謎」です。あるいは「陰謀」と言ってもいい。

このようなアメリカ社会のありかたは次第次第に他の国へも伝染しているかもしれない。ありもしないことをわれわれは追いかけているのかもしれない。あるいはそれに囚われて生えているのかもしれない。それが「パラノイア」であり、この問題について、たぶん今一番面白いことを書いているのが、トマス・ピンチョンだと思います。

そういう意味では、ピンチョンもまたジョイスに似て、素人の読者が楽しんで読むタイプの小説家ではないのかもしれない。最初からプロの研究者たち、アメリカ中の大学の、現代文学、近代文学の研究者たちが、寄ってたかって何とか読み解こうとして苦労して、さまざまな説を出す。そういう一種の「ピンチョン産業」みたいなものすら成り立たせている、鉱脈のごとき作家です。

普通は、作者が作品を書いて世に提示し、読者はそれを読むということで終わるんだけれども、ピンチョンには作品と読者の間に研究者というのが割り込んでくる。ある研究者が、読んだ上で何かを見つけてそれを発表すると、それが他の研究者に影響を与える。あるいは熱心な読者によって読まれる。

そういうことがあるたびに、言われつづけているのは、アメリカ中枢部はある程度は知っていたのではないかということです。これもまことしやかに、後から必ず聞こえてくることです。結局、結論は出ないでしょう。決定的な証拠が出ないままに、状況証拠が次々と提示されて、真ん中の部分が空白のままである。それがアメリカという国の、何かもう一つの特質であるように見える。少くともピンチョンが、例えばこの『競売ナンバー49の叫び』を書いた六〇年代頃から、アメリカはたぶんそうだったのだと思います。

独裁者、皇帝、王様が勝手なことをするから、世の中がうまくいかない。みんなで知恵を出せば全体はよくなるはず、と民主主義は倍じているのですが、それがどこまで通用するか。民主主義の投票をする人々の大多数が、「温室」の中の現状維持を望み、ぬるま湯で潤った人々であるとしたら、外の連中はどうすればいいのか。「街路」の側は暴動を起こすしかないのか。それら全部が、よくわからない形で――というのは、これがたぶん現実に近いということなのだと思いますが――折りたたんで入っている。この『競売ナンバー49の叫び』というのは、そういう印象の、実に変な面白い小説です。

総括

今の世界の姿というのは、ここ二、三十年、次第にこういう印象が強くなってきた気がするのです。これは何となく収まりが悪い。お任せのコースできちんと出てくると納得するのに、このビュッフェの食べかただとどうもどこか釈然としない。/個人的な趣味で言うと、ぼくはビュッフェは嫌いなんです。わざわざ立って行くのが面倒くさいというのもあるけれど、一番大きい理由は、自分のお皿の上が美しくないということです。いろいろなものをゴチャゴチャ載せるから、自分の欲望、浅ましさが露骨に表れる。そのうえ残しちゃいけないと思って無理して食べる。それは個人の趣味の問題ですが。/何かこの世界で生きていくということが、そういう底の浅いことになってしまったような気がするのです。これは今、どうにもしようがない事実です。

大きな物語が作れないだけではなくて、大きな物語を作ることは敷瞞であるということが、もう明らかになってしまった。その辺がたぶん、カート・ヴォネガットがかつて言った、「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだよ」というあの表明に繋がるわけです。足りない分を一気に補うことはできません。誰にももう「カラマーゾフ』は書けない。あとはこうやって、個々に頑張っていくしかない。言ってみれば、正規の戦争で負けてしまって、この後は散発的なゲリラ戦を続けるしかないという、イラクの状態ですね。

補講「国際ハーマン・メルヴィル会議」基調講演

まず「クウェスト」という言葉を仮に立ててみることにしましょう。これは厳密に規定された文芸用語ではなく、どちらかと言えば通俗的な言葉ですね。出発点は通俗的であっても、そこから離陸して、通俗の素材をより大きなものに組み立て直す。メルヴィルとピンチョンはそういうことをしたように思われるが、それは如何にして行われたか。

普通の人たちがこの概念に具体的に接したのはたぶん映画『スター・ウォーズ』がきっかけでした。監督のジョージ・ルーカスは制作に先立って、ジョーゼフ・キャンベルというアメリカの神話学者が書いた、『千の顔をもつ英雄 The Hero with a Thousand Faces』という本が役に立つと気づいた。彼はキャンベルのところに行っていろいろ聞いて徹底的に応用して、映画は大ヒットになった。

メルヴィルとクウェスト、それにピンチョン

これくらいまで話を崩して、多様な要素を入れて膨らませて、基本の構造であるクウェストを覆い隠していく。もしメルヴィルがモダニズムだとしたら、ピンチョンのポストモダンはそこまで過激です。ぼくはメルヴィルもポストモダンと言っていいと思いますがね。

基本的に物語には一つの軸が要る。しかし軸だけではハリウッド映画風の陳腐でしかないわけでおもしろくない。いったん提示した軸を仮に使いながら、それを次々に覆い隠し見えにくくして前人未踏の境地を目指す。

誰だったかアメリカの作家が、「僕らは小説を書こうとする時に、言ってみれば石を一つ、野原で遠くに投げるんだよ。で、それからその石を探しに歩きはじめる」と言った。石は見つかることもあるし、見つからないこともある。書き始める時に、だいたいあっちのほうへいくんだぞという目安として石を投げる。これは実際小説を書くときに、参考になります。

こんな風に作家というのは、他の人の作品を先例として参考にしながら、それから逃げようとする。どこまで逃げられるかは力量です。

メルヴィルの場合は百六十年早かった。そういう意味では、読んでも読んでも、研究しても終わることのない作家である。

付録『百年の孤独』読み解き支援キット

あとがき

ここに取り上げた作品についてその後の話題を取り上げれば、『白鯨』は岩波文庫から八木敏雄さんの訳が刊行された。訳は流麗で、ぼくには好ましく思われる。またこちらにはロックウェル・ケントの木版による挿絵が入っているのも魅力。この画家と『白鯨』の関係は、『不思議の国のアリス』とジョン・テニエルの挿絵の仲に似ている。それほどの親密さがテクストと絵の間にあるということだ。

『ユリシーズ』を教室で読んだ時はハードカバーの大きな三冊本をテクストにしたが、その後で集英社文庫で四分冊という版が出た。携帯に便利であり、池内紀、三浦雅士、鹿島茂、ならびに不肖池澤のエッセイがそれぞれの巻の最後に付いている。この大作を読むのに結城英雄さんの『「ユリシーズ」の謎を歩く』(集英社)がとても役に立つことも付記しておこう。

またドストエフスキーについては亀山郁夫氏の『ドストエフスキー父殺しの文学 上・下』(NHKブックス)という非常におもしろい研究書が刊行された。『カラマーゾフの兄弟』をはじめ、この作家の主著を丁寧に読み、伝記を辿り、主要な土地には自ら赴き、これまでの主要な研究にも広く目を通して、要するにできるかぎりのことをした上で、いくつもの大胆な仮説を提示している。

世界文学を読みほどく : スタンダールからピンチョンまで 増補新版 (新潮選書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

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