Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

筒井功『日下を、なぜクサカと読むのか:地名と古代語』

はじめに

わたしは、大字(おおあざ、幕末から明治時代初めにかけての村の名だと考えてよい)でさえ、地名研究の資料としては広すぎることが珍しくないと思っている。

第一章「日下」と書いて、なぜ「くさか」と読むのか

要するに、わたしは先に挙げた地名に付くクサとは、コサ(日陰地)のことにほかなるまいと直感したのだった。この地方の言葉で、コサとクサとどちらが古いか、あるいは古くは、どちらがより一般的であったのか、にわかには決しがたい。あるいは、もとは普通にはクサといっていたのが、植物の草と区別するために、日陰地を指す日常語の方は、あえてコサと発音をずらしたことも考えられる。

実はカサ(笠、傘)もコサ、クサと語源が同じというより、同一の言葉であった。カサは、その発生からいえば雨を防ぐことを目的にしたものではなく、日差しをさえぎるための用具だったらしい。これはヨーロッパでも同様だったようで、例えば英語のアンブレラは「影」が、パラソルは「日光を防ぐ」が原義だという。

これも妙な名だが、「柿」の漢字を当てているカキとは、カケ(欠け)すなわち崖と同語に間違いあるまい。この言葉はガケ、カケ、カキ、ハケ、ハキ、ホキ、ボケ、バケ、バッケ、ボッケ、ハガ、ハギ……などと少しずつ音がずれながら、全国に数万以上の単位でちらばっている。ひょっとすると、同一または同語源の地形語としては、日本で最多かもしれない。

地形、地物の特徴によって付いた名が、最寄りの集落名になることは例が非常に多い。というより、それが通常のことだといっても過言ではない。

日下と書いて「くさか」と読むことは、すでに『古事記』(七一二年成立)の時代には始まっていた。

卑見では、クサカは草地名の一つで「クサ(日陰)・カ(処)」の意だと思う。カは「在り処」「棲み処」などのカで、松岡静雄氏がクサカは「草処」すなわち「草生地」のことだとしているカと同語である。

そうだとするなら、「日下」は「日の下(真下)」のことではなく、「日が(山の向こうに)下がっている」の意を込めた漢字だといえる。これは、地形の特徴を的確にとらえた当て字で、この文字を用いた人物または集団は、どうも「クサカ」の語が何を意味するのか知っていたように思われる。

要するに、ある時代までの日本人(にかぎらないかもしれないが)は、早朝の日の光を暮れ方のそれより、ずっと重視していたのであろう。できることは何によらず、そういう時間にする、これが生活の基本だったのではないか。

第二章「笠置」は「日陰地」を意味していた

「不動」の名は、険しい沢や谷、滝などに、しばしば付けられている。これは不動明王とのかかわりはなく、ホト、ホド、フト、フドという地形語による名である。人体で、二本足の付け根のあいだ、つまり陰部を指すホト(漢字なら「秀処」とでも書くべき言葉)という古語と同義、同源になる。あたかも、二つの山にはさまれた、どん詰まりのような個所だからである。

群馬県吾妻郡草津町/は、古くから温泉で有名な観光地である。この草津の地名について、角川書店『群馬県の地名』は次のように記している。/〈地名の由来は、強酸性の温泉で硫化水素臭が強いことから、くさい水の意で、「くさみず」「くそうず」といったことによる〉

第三菜「日本書紀」の「頬枕田(つらまきだ)」は円形の田を指す

日本の地名は意味不明のものだらけだというのは、内外の研究者、観察者のほぼ一致した感想であり、嘆息である。わたしも、そのとおりだと思う。なぜ、こんなにわけのわからない地名が多いのか、その理由さえはっきりしないほどである。

「アイヌ語地名は、北海道をはじめ、日本海側では秋田県の最南部まで、太平洋側では、もう少し南へ下がって宮城県の北部三分の一くらいまでにしか存在しない」となる。つまり、それより南西の地名をアイヌ語で解釈する立場を真っ向から否定している。

わたしが、いまツルマキを取上げて詳しく調べてみようとしているのは、第一に、地名研究には膨大な知識の蓄積(むろん、あった方がよいに決まっているが)よりは、できるだけ同一または類似の地名に広く当たり、現地に足を運ぶことが有効だと示したいからである。いいかえれば、アイヌ語地名や朝鮮語地名を問題にする場合でも、言語に通じるより、フィールドワークにこだわる姿勢が大事だとしていることになる。

それでは、各地に珍しくないツルマキという地名は、何にもとづいて付けられたのだろうか。わたしの答は、はっきりしている。これは疑いもなく、弦巻による名である。/弦巻は、弓に張る弦(つる、げん)を入れておくための器具である。薄いドーナツを二枚重ねたような直径十数センチの器具で、あいだに弦を巻いておく。

古代から近世にかけて、弦巻は身近に見られる代表的な円形の物品であったろう。その連想から丸みを帯びた地形、地物にツルマキの名を付けたのだと思われる。

とにかく、それだけの膨大な数の地名が図上に記録されていたのである。正本は東京帝国大学の、ある大教室を倉庫代わりにして保管されていたが、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災で、すべて焼失してした。新生の国民国家が総力を挙げて収集した地名集成は、本格的に利用されることがまっのないまま失われたのである。

当時、それらの地名が何を意味するのか、だれでも知っていたろう。そうでなければ、地名がもっていなければならない記号としての役割を果たせまい。

わたしが、右のような話を長々とつづけてきたのは、地名学も実証にもとづく人文科学の一分野であり、もっぱら言葉の引き当てによる地名解釈は所詮、砂上の楼閣にしかならないといいたいためである。

第四章「鳥居」のトリとは境のことである

本草では、神社の前に立つ鳥居が、もとはどんな目的をもち、その語の原義は何かについて考えてみることにしたい。おおかたが奇妙に思われることだろうが、わたしが、そのもっとも重要な手がかりにしようとしているのは、峠に付けられた名である。それで、まず「峠」のことを取上げておきたい。

タワとは、「撓む(たわむ)」すなわち弓なりに曲がるという動詞の語根であり、右の場合には山並みが下方にたわんで、低くなっている部分(鞍部)を指している。労力と時間を惜しんで、できるだけ楽な道筋をたどろうとするのは人間にかぎらない。獣でも鳥でも同じであり、峠とその上空は彼らの通り道でもあった。/峠の語源について、わたしは文句なしに、タワゴエ説を支持している。

ここまで来たところで、鳥坂の「鳥」とは何のことか、とりあえず卑見を述べておくことにしたい。/それは、「境、境界」を意味する言葉であり、空を飛ぶ鳥とは何らのかかりもない。

第五章 卑弥呼のような女性ことを「大市(おおいち)」といった

要するに、イチとは一種の宗教者のことであり、ここ何世紀かの使用例では神楽を舞うミコや、口寄せなどにかかわる祈禱者を意味していたと理解して大過あるまい。だが、これから追いおい記していく事実によって、イチがわが国の固有信仰をつかさどっていた中核的な宗教者であったことが明らかになってくると思う。

先に引用した柳田國男『分類祭祀習俗語彙』中の「イチ」の項は、記述の大半が高知県の例についやされている。祭祀関連にかぎらず、同県は一般に古い言葉が多く残存している土地として研究者に知られているらしい。イチも、あるいはその一つかもしれない。

イチ地名のうち、イチノセがきわだって多いのは、川の瀬(浅くて流れが速くなっているところ) は禊(みそぎ)に適しているからではないか。イチノタニも、これであろう。のちに例示するように、そのように受け取れる場所は珍しくない。

第六章「国」は「山に囲まれた土地」のことだった

この言葉(注:クニ)は外来語ではあるまい。中国でも、朝鮮でも、同じか似た音で、クニに近い概念を指す語があったことは知られていないらしいからである。かといって、全くの新語でもなさそうである。つまり、すでに使われていた言葉に、新たな意味を付加してつくられた可能性が高いことになる。

クニキハラのクニとは、ここのように四周をぐるりと山がめぐっている土地を指すことは、これから挙げていく多数の「国」地名によって、おおかたに納得していただけると思うが

第七章「山中」と「中山」は同じか、違うか

ところが、これが地名になると、不思議な現象が見られる。山中が山の中にあることは当然として、中山もまず例外なしに山の中にあって、この二つのあいだに意味上の区別がないかのように思われるのである。/そうして、中山の方が山中よりも、ずっと多い。

山中が「山の中」を指すように、川中と聞けば、だれでも「川の中」のことだと受け取ることだろう。ただし、これが地名になると、川に面した場所すなわち、ふだんは陸地であっても、いったんまとまった雨が降れば、しばしば水につかってしまうところを意味する場合が多い。/しかし、中には言葉どおりに川の中のこともある。

第八章「ツマ(妻)」の原義は「そば」「へり」である

中妻は単に川に面しているだけではない。土地が低くて、いったんまとまった雨が降れば水につかってしまいそうな地形が大部分である。そこは大河の氾濫原であったり、小河川沿いの低平地であったりするが、水損をこうむりやすいという特徴をもっている。逆にいえば、その不利を覚悟すると、水田経営には向いていることになる。

コウチに高知とか高地の文字を当ててみても、漢字を学んだ人間にしか意味もわからなければ、なぜそんなことをするのかも了解できなかったといえる。ちなみに、高知市の「高知」の文字は、河内が水損地による地名であることを嫌って、当時の政治権力に連なる者たちが縁起のよい字に変えた結果であった。

今日、妻といえば、夫婦のうちの女性の方だけを指しているが、古代には、男性側をもツマと呼んでいた。そうして、それは恋愛中の男女にとっても同様であった。ツマの語のそのような使用例は、八世紀に成立した記紀万葉にも珍しくない。

つまり、人のツマ(妻、夫)も刺身のツマも、語源は一つだったとしているのである。

同辞典には、もっと別の語義も、いろいろと示されている。しかし、それらを含めてツマという日本語のもっとも根源的な意味は、「そば」「へり」にあると思われる。

なお、ツマの音に漢字二文字を当てる例は、このあとにも出てくるが、日本の地名では古代の好字 令(地名は縁起のよい文字二つで表せとの法令)以来、一文字を避ける傾向があり、ここもそれによったものではないか。

第九章「アオ」「イヤ」は葬地を指す言葉であった

しかし、それ以前の縄文時代から弥生時代そして、おそらく古墳時代ごろまではアオは色の種類ではなく(その後半には、何らかの色を指す場合もあった可能性はあるが)、「葬送の地」を意味していた。

本書で、わたしが取上げたいのは、やはり葬地のことを指す「イヤ」という言葉の方である。アオの話は、いわばそのための前置きであった。

第一〇章「賽(さい)の河原」とは、どんなところか

おわりに

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