Dribs and Drabs

ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

ジョン・フェインスタイン『天国のキャディ』日本経済新聞社

ブルース・エドワーズのことはうっすらと知っていた――主にぺブルの17番でトム・ワトソンがチップインしたとき「Told you so!」と言った相手として――つもりだけど,彼が今のキャディーの姿のパイオニアだったことは知らなかったし,ターンベリーの〈Duel in the sun〉のときはバッグを担いでいなかった――当時はキャディーの旅費は自己負担なのでスコットランド行きを見送ったから――ってことも知らなかった。あと,トム・ワトソンは2014年のライダーカップのときの印象が強かったので,彼に対する印象も少し変わったな。

早すぎる死を迎えた名物キャディの生涯を描く、感動の全米ベストセラー。 30年間にわたってトム・ワトソンの専属キャディをつとめ、その誠実な人柄とユーモアで「キャディ界のアーノルド・バーマー」と呼ばれた男、ブルース・エドワーズ。ツアー39勝をあげたワトソンの隣には、栄光の時も失意の時も、つねにブルースの姿があった。

はじめに

ワトソンがなぜ特別なプレイヤーなのか、ということにも話は及んだ。「不利な状況に陥った時によくわかる。彼はかえって調子を取り戻すんだ。決して愚痴をこぼしたり、言い訳をしたりしない。ただひたすらプレーに打ち込む。そういう人だから、キャディとして働く喜びがある」

ALS――筋萎縮性側索硬化症に罹るというのは、確かにひどい話としかいいようがない。ニューヨーク・ヤンキースの名選手ルー・ゲーリッグは、ALSで一九四一年に亡くなった。そこでルー・ゲーリッグ病という名で知られるようになった。当時もいまも、ALSの治療法はない。この病気は後発性発感と説明され、神経細胞と脳および脊髄への神経路に障害が起きる。ALSによる麻率が横隔膜にまで逃すると、呼吸ができなくなって死に至る。

「ぼくは本をつくりたいと思う。ただし、書くのはきみでなければ嫌だ」

一九八一年に初めて会った時、ブルースはわたしに、ゴルフについて、そしてPGAツアーについて懇切丁寧に教えてくれた。わたしはこの一年で彼から勇気について、重圧に負けず人間としての品格を保つことについて、寛容な精神について、限られた命をいかに生きるかについて、教えられた。

01 家族の再会

ブルースはキャディとしては、なにからなにまで型破りだった。ワトソンとの関係も、通り一遍のものではなかった。彼は臆せずボスに異論を唱え、時には食ってかかることすらあった。ワトソンは農揚な人物で、間違いを指摘されても気を悪くしたりはしない。ふたりはよく議論したが、深刻な対立に発展することはまずなかった。

「こんなに多くの人たちがブルースのことを心配してくれているのだと感動し、同時にその声援をきいて胸がつぶれる思いだった。わたしとブルースの最後の数カ月は、よくほろ苦いと表現されたが、正直なところ、ほろ苦いどころではなく苦かった。とてつもなく、苦かった」

02 キャディになりたい

医学情報の乏しい一九五〇年代とは違い、現在だからいえることだが、ジェイとナタリーは長男であるブルースが注意陥多動障害(ADHD)だったと確合している。当時はADHDというものは知られておらず、プルースのように頭はいいのに学校で集中できない子どもたちは、怠けているか、あるいは自分の潜在能力を生かすように努力していないといって非難された。

その週末を境に、ブルースは高校卒業後の進路についての迷いがなくなった。(…)「ぼくはPGAツアーのキャディになりたい」ブルースはいった「ロープの内側に初めて足を踏み入れた時にわかったんだ。あの感覚がたまらなく好きだ。プレーに関わることが大好きなんだ。その場の状況をつかみ、そこに関わっていることが好きでたまらな思った。緊張なんかまるでしなかった。とにかく楽しかった」

03 ワトソンとの出会い

「ぼくはブルース・エドワーズといいます。コネチカット州ウェザーズフィールドの高校を卒業したばかりです。これから一年間、ツアーのキャディをするつもりです。まだキャディが決まっていないようなら、ぜひぼくを使ってください」

04 理想のボス

心理学の学位を手に入れ、ワトソンはPGAツアーのQスクールに出発した。一九七一年秋のことだった。その年のQスクールの参加者は三五七名(二〇〇三年には一五〇八名)。彼は地元の予選を通過し、七五名の最終予選会出場者の一人となった。ここで二〇位(およびタイ)までに入ればPGAツアーの出場権が得られる。ワトソンは最終日は75という危ういスコアだったが、五位というすばらしい成績で終えた。これで晴れてPGAツアーの出場選手だ。

彼のプレーは、ぼくが見たいと思うプレーそのものだった」ブルースがいう。「それはてきばきとした積極的なプレーだった。打ち損なっても決して愚痴をいわない。ミスをしてもへそを曲げたりしない」ワトソン自身も、それが自分の強みであると認めている。「わたしの得意技はダブルボギーから持ち直してパーディを決めることだ。それはつまり、つねに次のホール、そして次の試合に向けて気持ちを切り替える、という意味でもある。くよくよしたりはしない。前進あるのみだ」

「プレイヤーがつねに正しいわけではない。そしてキャディもまたつねに正しいとは限らない。そこのところをプレイヤーは理解しておくべきだ。もしもブルースの言葉に逆らってわたしが誤った決断をしたら、それはあくまでもわたいの決断だ。彼の言葉に従ったために失敗したとしても、それもまた自分の決断。ふたりの意見が正しい方向で一致した場合、球を打つのはわたしだ。意見が一致しなくても、やはり打つのはわたしだ。優勝してもキャデイは称賛を浴びるわけではない。ならば、負けたからといって責められるべきではない」

ブルースをはじめ彼と同世代のキャディは、キャディという職業を変えたといわれている。彼らはキャディの仕事内容ばかりか、プレイヤーや一般の人々の目から見たキャディ像を変えてしまった。有能なキャディはブルース以外にもいたが、トム・ワトソンについているということで、ブルースは変革の象徴的存在となった。

ブルースは、キャディを真の職業にするために尽力した、いわばプロフェッショナルなキャディの第一世代であり、そのなかで一番よく知られた存在だった。キャディという仕事の進化において知かせない人物、というのがブルースに対する現在のキャディたちの評価だ。「彼はわれわれキャディにとってアーノルド・パーマーみたいな存在だね」と語るのはジム・マッケイである。彼はフィル・ミケルソンが一九九二年にプロに転向して以来、専属キャディを務めている。

05 初めての優勝

ネルソンはワトソンにコーラを勧め、並んですわった。それから数分間、自分がワトソンのゲームについてどのように考えたか、そして自分はゲームにどう取り組んできたのかについて語った。ネルソンはぜひワトソンの力になりたいと申し出た。ゴルフのこと、スイングのことについて話したい時にはテキサスの自分のところまで来てくれ、歓迎する、とネルソンはいった。

当時、全英オープンはテレビで生中継されていなかったので、ブルースはラジオの報道を選ご追い、ワトソンの試合の進捗状況を確認した。ワトソンの優勝が決まると大喜びした。と同時に、イギリスに同行しなかった自分に腹を立てた。/「来年は行こう。来年こそ、絶対に行くぞ」ブルースはリーヒーにいった。/彼はその足でパスポートを取りに行った。

06 "新帝王"の誕生

ワトソンとブルースがどん底を味わったのは、ワトソンが全英オープンのタイトルを守るために再びイギリスに渡った時である。ブルースは自分に誓った言葉通りイギリス行きの計画を敢行し、ロイヤルバークデールでの初日、ワトソンが1番ホールのティーグラウンドでティーアップした時にはそこに立っていた。一五分後、ブルースはここまではるばるやってきたことを後悔していた。ワトソンのこの年の全英オープンはトリプルボギーで始まり、最後まで持ち直すことはなかった。54ホール終に一打差で予選落ちした。ワトソンにとって、そして彼のキャディにとって苦々しい週だった。

その年の秋、ワトソンはふたつのことを実行した。まず、テキサスのバイロン・ネルソンに会いに行った。ネルソンの好意に初めて甘えたのだ。ふたりは数日間、スイングについて、ゲームについて、プレッシャーのなかで成功する方法について、そして人生について語り合った。ワトソンはネルソンとともに過ごすひとときを、これ以上ないほど心地よく感じた。それはネルソンという人物がありのままの自分を受け入れ、その姿勢が自然と相手にも伝わってゆくからだった。

こうして自分のゴルフに対する感覚をあらためて確かめたうえで、ワトソンは日本に飛んで晩秋の大会に出場した。水曜日のプロアマの18番ホールで、彼は傾斜したライから9番アイアンで打った。この時、練習場であれこれ工夫を重ねていたスイングを試した。クラブを下に振りおろす際、両肩をより平行に保とうとしたのである。クラブを振ると同時に、ワトソンはスイングのカギを見つけたと実感した。球の飛距離だけではなくーパーフェクトな距離を出したースイングの感覚だ。「これだ、つかんだぞと実感した」彼はいう。「いままでよりもうまくゴルフボールを打てる、しかも継続してそれをくり返すことができるという自信を得た」/それがきっかけとなって、ワトソンは自分のゴルフにいままでになくいい感覚をおぼえた。

「彼が全英オープンで初優勝した時には自宅にいた。それで、イギリスに行ってみれば予選落ち。行かずにこちらにいればゴルフ史に残る最高にドラマティックな瞬間を逃す。その後、トムはすべてのメジャー大会でぼくにキャディをさせてくれたのだから、たいした人だ」

その時のワトソンは自分が勝つのか負けるのか、まるで考えていなかった。ただ、いま何かとてつもない事が起きている、そのまっただなかに自分は置かれているという事実だけは明確につかんでいた。14番のティーグラウンドに立ち、ワトソンはニクラウスのほうをふり向いて静かにいった。「すべてはこれに尽きる、ということなんでしょうね」

「ジャックはああいう場面を、何度も何度もくぐり抜けてきた。勝敗とは別の次元の、かけがえのない場面に自分は立っていると感じていた。全英オープンの最終ラウンドで自分はジャック・ニクラウスと同じ組で回り、タイトル争いをしている。それ以上にすばらしいことがあるだろうか。勝ち負けはどうでもいい。ただそこにいることに価値があった。闘技場に立っているだけで」

「一九七七年を起点として、わたしの人生は延々と転がり続けているのだと思う」彼はいった。「転がり続けるあいだ、わたしとブルースはパートナーだった。あのメジャー大会でバッグを担げなかったことで彼が気を落としているのはわかっていた。でも、彼がいてくれたからこそ、わたしはプレイヤーとしてここまで到達できた」

07 ペブルビーチの奇跡

「メジャー大会でプレーする時には、その週、自分のゴルフができることを祈るしかない。それだけだ」ワトソンはいう。「過去に何をした、などということはまったく意味がない。いまの瞬間どんなプレーをしているのか、それしかない。あの時期のわたしは最終日の優勝争いにからむことが多かった。そういう水準で一貫していた。プレーにはあらゆることがかかわってきた。緊張、運、相手が熱くなる、とかね。争いにからんでも毎回必ず優勝できるわけではないが、優勝争いにからむポジションをつかんでいれば、それだけ優勝の可能性は高くなる」

ティーグラウンドを下りたワトソンは自分自身に少しうんざりしていた。ブルースに2番アイアンを放り、ボブ・ロスバーグの台詞を吐いた。「あの球は死んだ」 /その時、ベン・ホーガンの言葉がブルースの胸をよぎった。「ゴルフはミスショットのゲームだ。その後どうするかが重要なのだ」偉大なプレイヤーの言葉だった。

ワトソンは球からピンまでをさっと見て素振りを二回すると、ウェッジのフェースを可能な限りひらいた。そこで、重要な瞬間には楽天的な気分になるブルースが声をかけた。「頼んだぞ。寄せてくれ」/寄せるのは、奇跡を起こすことに近かった。しかしワトソンもまた、きっぱりと迷いのない言葉を返した。「寄せるだと?必ず入れるぞ!」

球はピンに当たり、ほんの一瞬静止し、カップに入った。ワトソンはいまや猛スピードで走っている。カップのまわりを駆け回っている。ワトソンはブルースのほうを振り返り、指さして叫んだ。「いっただろう!必ず入れるといっただろう!」

「バイロンは口癖のように『トップして勝利を手に入れろ』といっていた」つまりダフるのに比べれば、トップするほうがトラブルを回避できるということだ。

そのワトソンをいち早く迎えたのがニクラウスである。/「また、きみにやられてしまった。こんちくしょうめ」ニクラウスは満面に笑みをたたえてワトソンの肩を抱いた。その声には称賛が込められていた。「見上げた男だ」/ワトソンはニクラウスがこう付け加えたのをおぼえている。「一生かかってでも取り返したい気分だよ」

08 試練の時期

ある晩ワトソンはブルースに話をした。「機会があるのなら、他のプレイヤーにつくことを真剣に考えてみるべきではないかな。きみのキャリアのためにも」/ブルースはあぜんとした。どこか腹立たしさも感じた。「冗談じゃない。ぼくはこの一五年間、あなたのキャディとしてやってきた。いまさら他の誰かにつくなんて、できるはずない」

「電話を切ったとたん、泣き出してしまった」ブルースはいう。「あれは、それまでの人生で一番つらいことをした瞬間だった。トムがぼくの決断に心から賛成しているのはわかっていた。でも、とんでもないことをしてしまったような気分だった。罪悪感でいっぱいになった」

09 ノーマンとの日々

ブルースがなによりも驚いたのはノーマンのすさまじいエネルギーだった。彼の人生には活動を停止している時間がまったくなさそうだった。「18ホールのプレーをして練習し、設計するゴルフコースについてのプランづくりの打ち合わせに出席し、夜にはビジネス関係の商談をする、などという日もあった。時には乗り気ではない日もあったのは知っている。でも彼は必ずこなしてしまう。疲れているとか飽き飽きしているとか、同じようなことをこれまで数え切れないほどくり返してきたなどという印象をまったく与えない。ただひたすらやり続けるんだ」

10 ホーム・アゲイン

一九九二年の秋、ブルースはワトソンのキャディに復帰した。日本に飛んでダンロップ・フェニックス・トーナメントに出場したのである。ワトソンが秋に矢かさずプレーする大会だった。ダンロップは長年彼のスポンサーである。日本で毎年秋にプレーすることはワトソンの楽しみとなっていた。七六年に日本で9番アイアンで打ったショットをきっかけにスイングに開眼し、世界のベストプレイヤー入りできたと彼は思っていた。そして今回はブルースとの再会の場でもあった。

11 復活、そしてプロポーズ
12 最悪の宣告

「ALS、ですか。ええ。知っていると思います」/自分は確かにその病気を知っている。ブルースにはわかっていた。でも、それは自分の間違いであってほしいと願った。/「ルー・ゲーリック病とも呼ばれます」ソレンソン医師は続けた。「治療法はありません。余命は長くて三年、早ければ一年といったところでしょう」しばらく間を置いた。「わたしからのアドバイスを申し上げます。ご自宅に戻られたら、身辺整理することをお勧めします」

13 話しておきたいことがある
14 マスコミの寵児
15 涙の抱嬢
16 干し草のなかの針
17 ぼくたちは、まだ終わっていない
18 「ハワイで会おう」
最後に

ゴルフに関心のある人ならば、その日、それから起きたことはご記憶だろう。ワトソンのあの異例の記者会見の模様を目にしていることと思う。ラウンド後の記者会見の席上でワトソンは涙を流しながら、ALSを必ず捕らえてみせると宣言した。彼にとっては自分の友を殺した殺人犯と同じなのだ。/あるテレビのインタビュアーから、その朝きかれた。ワトソンがブルースの死を知って一時間も経たないうちにスタート時間を迎え、それでも出場するということに驚きませんか、と。わたしは笑い声をあげた。「冗談いっちゃいけない。もしもトムがプレーをしていなかったら、ブルースがこっちの世界に戻ってきてトムにガツンと活を入れただろうよ」

天国のキャディ | NDLサーチ | 国立国会図書館

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