Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

毛利嘉孝『ストリートの思想:転換期としての1990年代』日本放送出版協会(NHKブックス)

ストリートカルチャーについて知見を深めるつもりで適当に手に取ったら,社会科学/現代思想の本だった。「〈ストリート〉の思想」じゃなくて「ストリートの〈思想〉」だったというか。要するに以前はアカデミアの世界にあった〈思想〉が,今やストリート――物理的な意味でも象徴的な意味でも――に飛び出して,実践と結びつている,みたいな。

この本は『政治』と『文化』,そして『思想』のトライアングルを主題にしている。この三つの中に『ストリートの思想』は,どこかおさまりの悪いまま位置づけられている。

ということで,その「政治」「文化」「思想」の話を行ったり来たり戻ったり進んだりし,ここでいう「ストリート」あるいは「ストリートの思想」が何なのか分かりそうで分からなそうで,つかめそうでつかめなそうで,そういう〈不安定感〉が面白い本である。「80年代は前半と後半とで分断があり,バブル経済も東京とそれ以外とでパーセプションに違いがあった」みたいな80年代論,あるいは90年代論としても,十分に面白く読める。

ここで私の言う「ストリートの思想」と最初に区別すべきなのは,広告やメディアが振りまいている一見「ストリート的」なイメージだ。ナイキからA BATHING APEまで,一般に「ストリート的」と思われているものの多くは,ビジネスである。つまり,アメリカのアフリカ系アメリカ人の若者文化からパンクやアナキストの文化までの――あるいは貧困さえも――さまざまな先鋭的文化を商品化することでビジネスを成立させている。けれども,それはあくまで「ストリート的」なイメージにすぎない。〔太字部分は原著では傍点〕

あるいは渋谷・宮下公園のネーミングライツをナイキが購入した上で公園を有料のスペースにする案について,

ナイキという企業が有力な候補として挙がっていることは象徴的だ。というのも,サッカーやバスケット,スケートボードなどのスポーツを通じて,いわば「ストリート感覚」をファッションの中にいち早く取り入れてきたのがナイキだったからだ。有名スポーツ選手を広告で街中の「不良」として描くことで,不良性やストリート性を,ナイキはブランドイメージ作りに活用してきた。一般的に「ストリート的」というと,ナイキ的なファッションを思い浮かべる人も少なくないだろう。しかし,ナイキをはじめとする多くのスポーツメーカーがこれまで発信してきた「ストリート感覚」とは,消費者向けにアレンジされた「不良の感性」という商品にすぎないのではないか。

では著者の言う,イメージではない本当のストリートとは何か?

本書では「ストリート」という言葉を,この「ストリート・カルチャー」〔注:1997年の『現代思想』の特集号における意味合い〕よりは幅広い意味で用いている。それは,一言でいえば,サブカルチャーやポップカルチャーをその重要な構成要素と捉えている点である。『現代思想』では,文化的アクティヴィスムよりは,むしろ政治的アクティヴィスムに力点が置かれている。

あるいは

ストリートとは何か。この場所とも非場所とも呼ぶべき空間には今,多くの興味深い人が集まり,おもしろい出来事が起こりつつある。それは,自ら持続的な空間を所有しているわけではないので,常に突発的で,一時的で,流動的なのだが,それゆえに今日の新しい対抗的な政治の可能性を示している。

本書のねらいは,新しく生まれてきた若者たちの運動を,「ストリートの思想」という観点からとらえなおすことにある。けれども,こうした動向を左翼思想史や社会運動しの中に回収しようとしているわけではない。むしろそこからこぼれおちていくものとして「ストリートの思想」を位置づけようとしちえるのだ。あるいは伝統的な「左翼的なもの」に対して距離を取りつつ,それを乗り越えるものとして「ストリートの思想」を構想しようとしているのである。

「ストリートの思想」とは,徹底的に個人的でありながら,同時をそれを多種多様な人々に開いていく思考法である。ストリートはあらゆる階級に,あらゆる世代に開かれている。「ストリートの思想」が問うべき相手は,そうした開放性を脅かす存在である。

かつて「公共」と呼ばれた民主的な領域は国家に回収されるか,資本によって私有化されてしまっている。/「ストリート」も例外ではない。私自身が子どもの時でさえ,道路は人や自動車の移動の空間であると同時に,コミュニケーションの場だった。道端で人々が話し込む姿は珍しくなかったし,自動車が来ない時は,ドッジボールや縄跳びなどの遊び場として使われた。夜になると屋台が現れ,そこは会社で疲れたサラリーマンが立ち寄る憩いの場になった。政治的な紛争があると,デモが起こり,人々は自分たちの言論の場,メディアとして道路を利用した。/高度経済成長とともにモータリゼーションが始まり,道路は次々と整備され,ストリートからは公共性が失われてしまった。道路は国家が管理する,自動車通行の場になってしまった。

そして「ストリートの思想家」とは,

伝統的な知識人のように大学にこもって研究しつつ,文章の力で人を動かすのではない。むしろ人をいろいろな形で組織することで政治を作り出す存在で,労働組合のオーガナイザーや編集者,知的産業を支えるる印刷工などもここには含まれる。/けれども「知識人」では伝統的な大学人と混同されるおそれもあるため,本書ではあえて,彼ら・彼女らを「思想家」と呼びたい。そして「ストーリーの思想家」と名づけるのは,彼ら・彼女たちの匿名性とその高い移動性のためである。

今振り返れば,坂本龍一というミュージシャンは,この時代のパンク/ニューウェイヴ・シーンの本当にラディカルな部分を,最後までつかむことができなかったのではないか,という気さえしてくる。いや,より正確には,おそらくある時期まで無意識のうちにつかんでいたのだが,それはあくまでも偶然で,結局は自覚的に意識されることはなかったのではないか。そして,そのラディカルな部分を切り捨てていくことによって,八〇年代後半のバブル期に「神々」の一人として成功することができたのかもしれない。

八五年から九四年までの一〇年は,八〇年代の前半に生まれた対抗的な思想や文化が,バブル崩壊を受けて本格化した新自由主義とグローバリゼーションによって,新しい形を取り始めた国家と資本主義によって包摂されていく時期である。

ということで,それを著者は「資本によるラディカリズムの包摂」と呼んでいるのだけど,その例として音楽の話に続いて著者はこう述べる。

思想も例外ではない。八〇年代のニューアカデミズムを牽引したのが,たとえば雑誌で言えば『現代思想』や『ユリイカ』(いずれも青土社),あるいは『GS』(冬樹社~UPU)や『夜想』(ペヨトル工房)といった,中小またはインディーズ系の出版社の刊行物であったのに対して,八〇年代後半のバブル期になると,こうしたインディーズ系の出版物をむしろ大手資本や広告代理店が積極的に企業イメージ戦略の中で活用しようとしていく。/その典型的な例がNTTのメディアアート・センタープロジェクトと結びついていた季刊『インターコミュニケーション』誌(九二~〇八年)だろう。『GS』を編集していた荻原富雄を編集長として,浅田彰,伊藤俊治,彦坂裕が編集委員を務めた,アート&サイエンスをテーマにしたこの雑誌は,『GS』的な八〇年代ニューアカデミズムのオーバーグラウンド化とでも呼ぶべきものだった。

著者の毛利嘉孝,いわゆるカルチャラル・スタディーズの人で,もしかしたら過去に著作を手にしているかもしれない。ただ著者がいっているように,

「カルチャラル・スタディーズ」という語は,日本で過剰な意味を付与された。ある文脈では,それは難解なポストモダン用語を駆使したポピュラー文化の分析であり,またほかの文脈では国民国家批判の歴史学であり,当事者主義的なアイデンティティ・ポリティクスであった。あるいは,哲学や人文学理論の社会学や文化人類学への応用や,古い左翼政治理論の復権の試みのようにも理解された。

ということで,確かに自分も昔カルチュラル・スタディーズの本を手に取り,しかしなんだか期待外れand/orよく分からなくて読み終えられなかったのを覚えている。そのカルチュラル・スタディーズ,本書内では〈文化研究〉と記されているが,その理由は

本書はここまで,九〇年代の日本の文脈に即して記すところは「カルチャラル・スタディーズ」と英語で表記し,それ以外は「文化研究」と表記してきた。私は五年ほど前まではともに「カルチャラル・スタディーズ」としていたが,これは,単にこの研究領域が,「文化」の研究であればなんでもいいというわけではなく,七〇年代のイギリスのバーミンガム学派やヨーロッパの構造主義やポスト構造主義とかかわりながらアメリカに導入された,はっきりとしたひとつの理論体系であり,なんでもありの「文化研究」と区別しようという意図があったからだ。

イギリスで七〇年代に発展した文化研究が八〇年代以降アカデミズムの中で制度化されるのは,アメリカのコミュニケーション研究やメディア研究,比較文化や比較文学の領域においてである。映画やテレビ,音楽などのポピュラー文化が,伝統的な文学に代わり人文学の研究対象になったことに加え,非西洋系の学生や留学生が急激に増加したことによって,従来の古典中心でエリート主義的かつ西洋中心的な人文学のカリキュラムは徹底的な見なおしを迫られた。イギリスで始まった文化研究の理論は,そうしたカリキュラムを埋める数少ない体系的な理論として採用されていった。

たまに〈悪文〉に近い文章がある。読点のかかりかたが微妙で,意味が取りづらい文章が。

「社会工学」なるものに対する講釈が途中で飛び出すけど,その意味合いがよく分からないし,なぜその語・概念を説明する必要があったのかよく分からない。

309.021

ストリートの思想 : 転換期としての1990年代 (日本放送出版協会): 2009|書誌詳細|国立国会図書館サーチ