第1章 キャリアと家庭の両立はなぜ難しいか:新しい「名前のない問題」
職場での男女平等がようやく私たちの手に入ったように見え、かつてないほど多くの職業が女性に開かれているのに、なぜ収入の差が相変わらず続くのだろうか? 女性は実際に同一労働に対して低い賃金を受け取っているのか?概して言うと、もはやそれほどではない。同じ仕事についての不平等な収入という賃金差別は、総収入ギャップのごく一部しか占めていない。今日の問題は違うところにあるのだ。
時間は万人に平等に与えられている。私たちは皆同じだけ持っていて、その振り分けについて難しい選択をしなければならない。キャリアの成功と楽しい家庭のバランスを取ろうとする女性にとっての根本的な問題は、時期が重なることだ。キャリアへの投資は、多くの場合、早い段階でかなりの時間を投入することを意味するが、その時期が、まさに出産「すべき」年齢に重なるのだ。家庭を楽しむことにも、かなりの時間がかかる。
時間の制約とは、基本的に、「誰が自宅で待機するか」を交渉すること――つまり、何かあったときに、誰がオフィスを離れて自宅にいるかの問題である。父も母も可能かもしれないし、カップルの公平性から、究極の五分五分の役割分担が生まれるかもしれない。しかし、そのために、家族はどれほどのコストを表やすことになるだろう? 現実のカップルは、これまで以上に、大金がかかることに気づいている。
柔軟なポジションを増やし、さらに生産的にする必要がある。それが可能であるのか、そしてどのようにできるかについて、この旅を通じてたどってゆく。それにより明かされるのは、親や他の養育者が経済の生産的な一員になるためには、さらなる支援が必要とされるということだ。そして、経済の生産性と未就学および学齢児童の世話との関係性についても明らかにする――これは家庭に持ち込まれるようになり、突如として非常に身近なテーマとなった。
第2章 世代を越えてつなぐ「バトン」――100年を5つに分ける
女性たちがたどってきた旅の感覚をつかむために、第1グループから第5グループまでの女性の各グループについて簡潔に説明しよう。/グループ間の区別において焦点を当てたのは、雇用と家庭の領域においての女性たちの願望と、「実際に下した選択」「奨励された選択」「可能だった選択」である。ジャネット・ランキンの大卒グループは、ほとんどの場合、雇用(場合によってはキャリアだが、多くの場合はジョブ[job])と家庭のどちらかを選択する必要があった。1世紀後のダックワースのグループは、両方を手に入れたいという願望と期待を持っている。
第1グループの女性たちは、1878年から1897年頃に生まれ、1900年から1920年頃に大学を卒業している。彼女たちは、人生で得たものという点では、すべてのグループの中で最も統一性がない。半数は子どもを持ったことがなく(または養子を取ったことがなく)、半数は子どもを持った。子どもを持たなかった女性のうち、おそらく大多数の人が生涯のどこかの時点で仕事を経験した。そして子どもを持った残りの半数のうち、一度でも仕事をした人はほとんどいない。結婚しなかった人はグループ全体の3分の1。難した10%の人たちは、その多くが人生の後半に結婚した。
第1グループは、雇用と家庭の両立がほぼ不可能であるという制約に直面していた。後年、結婚しなかった理由を聞かれたとき、多くの人が「結婚する必要がなかったから」と答えている。裕福でない家庭の出身者であっても、教育を受けた労働者として高い給料を得れば自活できる。多くの人が結婚しなかったのは、地位の高い職業に就くためではない。むしろ、当時の家父長制的な規範から逃れるために、独立を求めていたのだ。
1898年から1923年に生まれ、1920年から1945年に大学を卒業した第2グループは、移行期のグループである。このグループの状況は、というと、始点は第1グループのように結婚率が低いが、熊点は第3グループのように結婚率が高く、初婚年齢が低く、子どもの数が多いという特徴がある。
第2グループの女性の結婚年齢は、第1グループと同様に比較的遅かったため、この移行グループは、「仕事を得てから家庭を持った」と大まかに分類される。最終的に結婚した女性のほとんどは子どもを持ち、大多数は結婚前にある程度の期間雇用されていたものの、結婚後は有給の仕事をあまりしなかった。/彼女たちの多くは、比較的広い視野を持っていたにもかかわらず、世界恐慌の発生などの外的要因によって、道が聞まれてしまった。大規模な経済不況に伴い、制限的な政策が拡大し、既婚女性の事務職への就職を禁止する、数師などの公共部門の職業にも同様の結婚禁止を拡大するといったことが行われた。
1924年から1943年生まれの第3グループの女性たちは、他のどのグループよりも互いによく似ている。彼女たちは同じような願望を表明して成果を示し、若くして結婚し、子どもを持った人が高い割合で含まれ、大学の専攻と最初の仕事も似ていた。第1グループの女性たちが、家庭を持つか、仕事やキャリアを持つかの2つの道に分かれたとすれば、第3グループの女性たちは一列に並んで歩いている。/第3グループに均一性が見られる理由の一つが、いくつかの雇用の障壁が取り除かれたことだ。
第4グループは、1944年から1957年に生まれ、1960年代半ばから1970年代後半に大学を卒業した。このグループの女性たちは、先輩たちの経験から学んでいる。歴代グループの中で、この第3グループから第4グループの間に起きた結婚、子ども、職業、雇用などの方向転換は、もっとも極端なものとなっている。
第4グループの女性たちは、女性運動が成熟してきた頃に成人した。そして、ベティ・フリーダンが「新しい女性の創造』で書いたような制約や不満についての知識があった。
第4グループが斬新だったのは、まずキャリアの道を歩み、家庭を持つのは後回しにするという考え方だ。多くの人が、キャリアを確立してしまえば、子どもを持っても脱線することはないと考えていた。家族を作るのは簡単なこと――少なくとも第3グループの出生率の高さから見て、そう思えたのだ。第4グループの女性は、それまでの世代が若い頃に持っていなかった特別なものを持っていた。「ピル」である。
第5グループは、1958年以降に生まれ、1980年頃以降に大学を卒業した人である。このグループのメンバーが子どもを産み、産んだ後の選択を観察するのに十分な時間を確保するため、ここでは、生年を1958年から1978年までと定義するが、このグループは現在も進行形である。このグループは、第4グループの女性たちがしていた計算違いを観察していた。それは、先延ばしにしたことは、往々にして達成されないということだ。第5グループは、もはやキャリアに家族の可能性を失わせまいと宣言した。/彼女たちは、結婚と出産の両方を遅らせるというパターンを続け、両方とも遅らせる期間を延長したが、出生率は大幅に上昇している。第4グループと同様に、多くの生殖技術の援助を受けている。
ではどうして、キャリアと家族の大きな変化が第1グループから第5グループの間に起きたのだろうか?この変化は、経済と社会の本質的な変化によって中断されながら、1世紀にわたって、世代を超えて続いている。それぞれのグループがバトンを取って、ハードルを飛び越え、障壁をかわしながら、追加される道路を走ってきた。各世代は絶えず変化する制約に直面してきた。そして、家庭内や生殖関連での技術の発達によって、道の前方がなめらかになっていった。
第3章 分岐点に立つ:第1グループ
たとえ公式・非公式の障壁がなかったとしても、家庭の膨大な要求を考えると、キャリアと家庭の両方を持つのは困難だっ焼。都市部のほとんどの家庭には1920年までに電気が通っていたが、現代のような冷蔵庫や洗濯機、掃除機、乾燥機はなく、もちろん電子レンジもない。十分な収入のある人はハウスキパーを雇うことが多かったが、それでも家庭をまわすのは大変な仕事だった。
第4章 キャリアと家庭に橋をかける:第2グループ
第2グループは、「結婚や出産の割合が低かった人たちから、両方の割合が高い人たちへ」、「女性の投票権を獲得した人たちから、ベビーブームの母親となった人たちへ」と変化していった世代である。このような劇的な変化には理由がある。大学を卒業した女性が、家庭を持ちながら外でのアイデンティティを目指せるようになった背景には、どんな変化があるのだろうか。
変化はたくさんある。そのほとんどは、女性とその社会的・経済的変化への潜在的な要求に直接関係するものではなかったが、当時、家庭や企業において、さまざまな技術的な進歩があったのだ。1920年代には、都市部のほとんどの住居が電化され、冷蔵庫、掃除機、洗濯機などの近代的な家電製品が普及した。企業では、家庭よりも先に大規模な電化が進み、あふれんばかりの数の機器が、現場やオフィスに急速に導入されていった。
女性の仕事が主に工場や家事である場合、女性の雇用、特に既婚女性の雇用に関して社会的なスティグマが生じることが多い。結婚している女性に与えられる仕事のほとんどが安全ではなく清潔さに知ける場合、働く妻は、健常な夫が怠け者であることを(近所や教会などの)他人に知らせることになる。つまりその夫は、妻を子どもや家のケアから切り離すだけではなく、妻に健康を害するかもしれない仕事をさせているというわけだ。
そこで、男性が労働市場で働き、妻子を養うことを奨励する社会的規範が生まれだ。この社会的規範は、男性の仕事でさえも厄介な内容が多かった時代に生まれたものであり、近所のパブや無駄遣いになる活動に慰めを求める夫や父親を叱責するためのものだった。仕事は多くの場合において過酷であった。そして、社会的弱者を保護し、他の市民の負担を軽減するために、社会的基準が発展していったのである。
第5章 「新しい女性の時代」の予感:第3グループ
このような就労の難しさは、質の高い、手ごろな価格の保育サービスが得られないことにも起因している。当時も今も、就学前の子どもを持つ女性で、高給取りでない人は、育児費用と所得税を払った後の収人は、わずかしか残らない。ある女性はこう言っている。「もし、適切なベビーシッターを適切な料金で雇うことがもっとたやすくできたなら、私はおそらく2人目以降も働いていたかもしれません。でも、ベビーシッターにお金を払うために働くのは、理にかなっていません。
第6章 静かな革命:第4グループ
静かな革命は、幸福の方程式を根本的に変えた。ピルは、騒々しい革命の中で女性たちが渇望していた解放の一つを提供した。第4グループのメンバーは、法律、医学、学間、金融、経営など、時間とお金の大きな先行投資を必要とする職業に就くことが可能になった。彼女たちには、自由と時間が必要だった。しかし、メアリー・リチャーズと同じように、出会いの場から退いたり、異性との親密な関係をあきらめたりすることはなかった。
このような若い女性は、第3グループの大卒女性の後続にあたる。大半が卒業後すぐに結婚し、多くの子どもを設けたグループである。これまで見てきたように、子どもが大きくなったら再就職しようと思っていた人が多く、ほとんどがそうしていた。教師などの職業に就ける科目を専攻していた。
ピルが幸せの方程式をどれほど変えたかを理解するために、ピルがない時代に、なぜあれほど早く結婚したかを考えてみよう。1950年代から1960年代にかけて、結婚を先延ばしにするということは、異性との積極的な交際を見送るということでもあったはずだ。しかし、実際には違った。そうはならないのだ。結婚の前には常にセックスがあり、無防備なセックスはロシアンルーレットのようなものだ。ピル(とIUD)以前は、予防をしたセックス(バリア方式)であっても、ちょっとした賭けのようなものだった。
女性がコントロールできて、簡単で、頼性の高い避妊具がなければ、妊娠する可能性は大いにあり得る。早婚は妊娠のリスクを考えた結果であることが多く、妊娠するとほぼ必ず結婚することになる。本当に効果的な避妊法がない時代には、女性は性的に活発になってからすぐに結婚することが多かった。
1700年から1950年までの250年間(!)に、およそ20%の花嫁が結婚式の日に妊娠していたことがわかった。この20%という数字は、婚前妊娠が恥ずべきことであり、隠すべきことであると広く考えられていた時代のものである。
かなり確実で女性にコントロールできる避妊法がない中で妊娠するリスクから身を守るために、「ステラーな間係に、指輪の交換、ピンバッチやラバリエ(社交クラブのグッズ)を受け取る、そして究極は、華やかな指値をもらって番初する、といったきまざまな約束事が用意された。これらはすべて、万が一妊娠した場合、女性を保護するという公的な宣言である。久親が誰であるかは、誰もが知るところであり、必場に上がるしかないのだ(たとえ脅しのような状態であっても)。
しかし、その安全策は、たとえ結婚を遅らせたいカップルにとっても、早婚につながる。世間、特に自分の両親に交際について話すことで、期待が高まり、可能性が必然的に高くなった。
第7章 キャリアと家庭を両立させる:第5グループ
第4グループの大多数は、出産を遅らせる結果について、わからないことだらけだった。これに比べて、第5グループは情報を持っているだけではなく、「体内時計を出し抜く」ための優れた方法を知っていた。医学的なエビデンスから、出産を延期すると妊娠め確率が下がる理由を学び、その対抗策を手にし始めた大卒の女性の多くは、夫やパートナーがいなくても、首尾よく一人で子どもを持つことができることになが付いた。
人工授精(AI)は古くからある技術で、最初は家畜を妊娠させるために使われていた。大まかな見積もりによると、米国では1960年代前半には、この方法による出生数は少なかった。1970年代半ばには、未婚の女性にこの方法を用いることの合法性が疑問視され、1979年になっても医師たちは、子どもが生まれる際の法的制約のために、未婚の患者にこの方法を用いることに葛藤を表明していだ。しかし、体外受精(IVF)など、より複雑で高価な方法が考案され、採用されるにつれて、よりシンプルな人工授精(AI)が支持されるようになった。しかも、自分でもできる方法であり、ある程度の成功率もあったのだ。
第8章 それでも格差はなくならない:出産による「ペナルティ」
では、今日の収入の男女差は、上司や同僚による差別や、女性の交渉能力の低さが大きく影響しているのだろうか。女性であるという理由、あるいは有色人種であるという理由だけで、差別され、賃金が低くなっている人は、確かにいるし、軽視するべきではないが、答えは断固としてノーである。今日の男女の所得格差(フルタイム労働者の場合、男性1ドルに対して20セント程度)のうち、これらの要因によるものは、ごく一部なのだ。
職業を変えて平等を実現するという困難な課題を達成できたとしても、男女の収入格差の3分の1程度しか解消されない。職業的分離は主な問題ではないのだ。多くの人が、これが主犯格だと主張しているが、実際には半分にも満たない。男女の性差をこれ以上縮めることができないのは、この格差が、ほぼすべての職業に存在するからだ。さらに、職業内の収入格差は、高学歴のほうが大きくなるのだ。
実際のデータから予想されることに戻ると、男女の所得格差が小さくなるのは、長時間労働の価値がそれほど高くない職業に限られる。つまり、会社が代替可能な就労チームを編成することができ、サービスや製品が標準化されている分野である。オンコールや不規則な勤務に相当の価値があり、金持ちの顧客が特定のスペシャリストを要求し、異なる補完的な仕事をする人々でチームが構成されていて、サービスや製品が特異な職業のほうが、格差が大きいはずなのだ。
男性の方が、予測が立てにくく、時間の融通が利かない仕事をする傾向が強い。つまり、同じだけの時間を仕事に費やしても、平均して女性の収入は男性より少ないのだ。そして、融通の利かない仕事の方が出世につながるとしたら、女性は昇進することが少なくなる。その結果が男女間の不平等である。女性は、予測しやすく時間の融通が利く仕事に就くことで、子どもや家庭の要求や緊急事態の対応に多くの時間を割くことができるようになる。その結果、夫婦間の不公平が生じぶ。しかし、もちろん、女性の方が、そもそもフレキシブルで予測しやすい仕事に就く理由の根底には、ジェンダー規範が存在する。
第9章 職業別の格差の原因:弁護士と薬剤師
第10章 仕事の時間と家族の時間
他の多くの職種でも――会計、法律、金融、コンサルティング、学問の世界では――女性と男性の競争の場は、さらに不平等になっている。これらの分野でのキャリアの進歩は、この半世紀あまりで、女性が全体のほぼ半数を占めるようになったにもかかわらず、あまり変わっていない。こういった業界の昇進ルールにおいては、早々に大量の時間を投じることが求められるからだ。あらかじめ設定された期間を終了する際に、従業員(アソシエイトと呼ばれることが多い)が評価される。勤勉な者(または幸運な者)には終身雇用やパートナーシップの付与がなされ、それ以外の人は、お払い箱になる。これらの職業は、一般に「アップ・オア・アウト」と呼ばれる。「アップ(上)」の人はそのままでいい。「アウト(外)」になった人は、企業や機関、大学の序列が一段下がることが多い。
当然ながら、オンコールや不規則で予測不可能な時間帯に働く従業員は、定時に近い時間帯に働く従業員より一般的に収入が多い。さらに重要なのは、この割増賃金が女性のキャリアと夫婦の公平性に問題を及ぼすことだ。長時間労働やオンコールの仕事に対する時給プレミアムが高ければ高いほど、特に子どもがいる場合、夫婦それぞれが「専門化」しようというインセンティブが働く。
2人を合算した収入があまり多くないときは、夫婦の希望に基づいて、そのままの状態を維持することもできる。つまり、両方が、予測しにくい時間帯の仕事を断るのだ。そうすれば、給料を見送った分、事実上「カップル公平性」を購入することになる。しかし金額が大きくなると、「カップル公平性」のコストが高すぎて断念することもある。「カップル公平性」は捨てることもできる。しかし、犠牲はそれだけではない。「カップル公平性」が捨てられると、職場における男女平等がそれに追随しがちなのだ。女性は男性より収入が少なくなる。時間単位でさえも、女性の時給が少なくなる。問題は、労働市場における仕事の報酬のあり方と、家庭における仕事と世話の性別による役割分担の両方である。
重要なのは、弁護士と薬剤師のケースから学んだように、ジェンダー(不)平等とカップル(不)公平は同じコインの裏表であるということだ。
エピローグ 旅の終わり:そしてこれから
なぜ男女の賃金に格差があるのか : 女性の生き方の経済学 | NDLサーチ | 国立国会図書館
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