Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

植田かおり『古典ギリシア語のしくみ』白水社

やっぱり言葉の裏にある文化に厚みがあると,その言語についての文章にも自然に厚みが出る。無理に面白い文章を書こうとはしていないのに,自然に面白い。それが本書。

あと,古典ギリシア語と現代ギリシア語との違いを知りたくて,同僚のギリシア人に質問してみた。その解答は,以下の通り:

Ancient greek from Homer time and time of Pericles, Sokrates, Plato is very very different. The writing is the same, but we do not quite know how it was pronounced, they had short and long vowels. Every greek can read them but they would not know what it means unless taught. Then Hellenistic period, around the time when the gospels were written is very much recognisable, almost identical to the 'pure' form of Greek prevailing in most formal written situations till the mid seventies. Then eventually the language kept being simplified and youngster nowadays will not be able to understand the gospels in the original language though most people over 50 will.

ホメロス,ヘシオドス,サッフォー,ソフォクレス,ヘロドトス,プラトン,アリストテレス...挙げだしたらきりがありませんが,ヨーロッパの文化の基礎となる古代ギリシアの作家たちは,叙事詩や情詩,悲劇や喜劇,哲学や歴史など,広い領域で,豊かな作品を現代に残しています。

有名なあの作品,どこかで聞いたあの言葉は,一体どんな言語で語られ,書かれていたのでしょう。原文を知りたいと思っても,そのために一つの言語を習得するのは時間もかかって結構大変です。しかも「古典」とつけばなおさら難しそうにも思えてきます。一歩踏み出すには,大きな決断が必要になることでしょう。

でも,この本を読む人には,大きな決断は必要ではありません。この本は,古典ギリシア語がどんな言語なのか,少しだけ触れてみるためにあります。少しだけではありますが,それでも,思いがけない面白い発見がもしかしたらあるかもしれません。そんな期待を胸に,気楽に読んでいただけたらいいなと思います。

i

1章 文字と発音のしくみ

ギリシア語にはもともと大文字だけがありましたが,時代が下って中世になってから,丸みのある小文字が作られました。石などの硬い素材に刻印するために角張った形になった大文字と違って,インクで続けて書くのに適した形ですね。

小文字で書くときには,通常,アクセント記号も表記します。ギリシア語のアクセントは,英語などのような強弱のアクセントではなく,日本語のイントネーションと同じ,高低のアクセントです。

古典ギリシア語とは,紀元前5世紀頃にアテナイで使われていたアッティカ方言のことです。そもそもギリシア語に classical「古典の」がつくことになったのは,ローマ人たちがこの時代と地域を中心としたギリシアの文化を classicus と呼んだからです。このラテン語は「第一級のもの,お手本」を意味しています。さまざまな分野のギリシア語文献が,手本としてローマ文化を経由して現代に至るまで引き継がれてきました。

ギリシア語の母音には長い音と短い音があります。その対比がリズムになって,特に詩の領域で大きな効果を生みます。

2章 書き方と語のしくみ

最後のΩ,ωの名前は,時計の「オメガ」でご存じですね。[オーメガ]の「メガ」は「大きい」という意味です。この文字の音が,口を大きく開けて長く発音する[オー]であることを意味しています。「メガ」とペアで「ミクロ」もあります。上から五列目,Ο,οの名前の「オミークロン」は「小さいオ」という意味です。

上から二列目のΕ,εと下から二列目のΥ,υの呼び名にはどちらにも「プシーロン」という言葉が入っていますね。「プシーロン」の意味は「単純な」です。より複雑な音[エイ][ユイ]などと区別して,それぞれ「単純なエ」。「単純なユー」という呼び名になっているのです。

ギリシア語の語はどんなふうにできているのでしょう。特徴を一言で言えば,語にはそれぞれ軸になる基礎的な部分(語の根に当たる土台の部分)があるということです。

ギリシア文字をローマ字になおすときには,κはcで,χはchで置きかえる決まりになっています。

ギリシア語では,人の名前は性格や由来などを表す意味を持ち,また所属する家系や土地などの名前を伴うことによって,人物を特定することになっているのです。日本語の姓名と似ていますね。

天賦の才能を表す talent (タレント)という言葉は,重さや,その重さの金銀に値する貨幣の単位τάλαντονからきています。さらに言えば,タラントンはもともと「(金銀を量る)秤」という意味でした

3章 文のしくみ

語の読み方やしくみの次は,文のしくみを見ていきましょう。ギリシア語の特徴として「自由」ということが言えます。

古典ギリシア語はヨーロッパ諸言語のルーツに並も近い言葉の一つで,近現代の言葉のいくつかにも残っている,いろんなしくみを備えています。ここではそれらのしくみの中で,大きな特徴を三つだけ挙げましょう。

1 たとえば日本語で「私は本を持っている」と言うとき,持っている本が一冊なのか,二冊以上なのかは区別していません。これに対して,ギリシア語では,一冊なのか,二冊以上なのかが,「本」の語を見れば分かるようになっています。同様に,日本語では何か物事を指して「あれ」と言っても,何を指しているのかは必ずしもはっきりしません.でも,ギリシア語では「あれ」にも区別があって,「あれ」が馬のことを指しているのか,本のことを指しているのかなどがある程度分かってしまいます。

2 ギリシア語の動詞には,「私」「あなた」「彼(彼女)」の主語の情報と,その主語が一人(一つ)なのか,それ以上なのかの情報も入っています。

3 ギリシア語にも「てにをは」の区別があります。

この三つの特徴のおかげで,古典ギリシア話の語順はとても自由になっています。たとえば,文の一番はじめに名詞があって,一番最後にその名詞につく形容詞があったとしても,珍しいことではありません。

これは,同じ西洋古典語であるラテン語とも基本的に共通する点です。ただ,ラテン語の場合,長い間公用語として使われたために,語順に決まった傾向が出てきたのですが,それに比べてギリシア語は原則的に自由です。/よくギリシア語が難しいと言われる主な原因は,さまざまな区別や「てにをは」のしくみがたくさんあって,語の配置も自由なため,細かく対応しなければならないところにあります。でも,考えてもみてください。しくみが多いということは,その分だけ,文意は明確となり,腰味になりにくいということです。いろんなことが分かる,意味をくみ取りやすいという意味では,ギリシア語はむしろ難しくないと言うこともできるのです。そのうえ,語順が自由であることは表現の豊かさを生むことにもつながります。他の言葉にはないしくみがあってはじめて可能になる豊かな表現こそ,古典ギリシア語の大きな魅力です。

ii

1章 区別のしくみ

ギリシア語には,男性と女性の他にもう一つ,中性(男女のどちらでもないという意味)があるのです。

両方とも,「美しい」の前には冠詞がありますね。この位置の変化で,「美しい」の文の中での役割が前の二つの文の場合とは違ってきます。/このように,冠詞があれば,その位置で文のタイプがはっきりするのです。

単数と複数のほかに,二つがペアであることを表す「双数」という数があるのです。(…)馬車の構造上,馬がペアになっているとか,手足のように生まれつきペアになっているのでなくても。双数が使われることがあります。たとえば会話中の「私とあなた」のような人間関係を表すときです。つまり,二つであることに特別意味があると思うときに使う表現なのです。

2章 人と時間のしくみ
3章 「てにをは」のしくみ

日本語では名詞の外に「は」や「を」などのいわゆる「てにをは」をつけますが,古典ギリシア語ではこんなふうに名詞の中の最後の部分の形が変化して,一語だけでそれらの意味を表します。

日本語では「パイドロスを信じる」ですが,ギリシア語では「に」の形が使われています。ちょっと分かりにくいかもしれませんが,ギリシア語では「信じる」という態度がまずあって,その態度が強く関わる相手がパイドロスだ,というニュアンスなのです。日本語で近い表現を無理矢理探せば,「彼は信頼する態度をもつが,それをパイドロスに置く」とでもなるでしょうか。

名詞の「は」と「の」の形が分かれば,その名詞がどんなタイプの名詞なのかが分かるのです。

4章 数のしくみ
  • 1 εἷς ヘイズ
  • 2 δῠ́ο デュオ
  • 3 τρεῖς トレイス
  • 4 τέσσᾰρες テッタレス
  • 5 πέντε ペンテ
  • 6 ἕξ ヘクス
  • 7 ἑπτᾰ́ ヘプタ
  • 8 ὀκτώ オクトー
  • 9 ἐννέᾰエンネア
  • 10 δέκᾰ デカ

これらの語の多くが,デュエット,トリオ,テトラポッド,ペンタゴン,ヘキサゴン,オクトパスなどの言葉の中に入っています。

5章 実際のしくみ

ホメロスの叙事詩のギリシア語は,イオニア方言を基調にした詩のための言葉で,私たちが見てきた古典ギリシア語とは異なります。でも,とてもよく似ているので,古典ギリシア語を学んでおけば大して苦もなく読むことができます。

国立国会図書館のカウンターの頭上にギリシア語の文が掲げられていることはわりとよく知られています。「ヨハネ福音書」からの引用です。(…)全部で,「真理はあなた方を自由にするでしょう」という意味になります。この言葉が図書館にあると,学芸を自由人の基盤に置いた,古代ギリシア以来の教養の伝統と重なって響きます。

古典ギリシア語の辞書で最も有名なのは,Liddellと Scottによる,A Greek-English Lexicon という英語の辞書です。この辞書からは,単語の意味,語尾の変化や用法はもちろん,さらには,どの時代のどんな著作家がその語を使ったかなど,多くの情報を得ることが出来ます。

参考図書ガイド

長い間使われてきた信頼のおける入門者です。ただ,大学での授業を念頭においていますので,独習される方には以下の本をお薦めします。

練習問題がとても充実しています。

古典ギリシア語の音をもっと聴きたい方はこの本をどうぞ。

名著の呼び声の高い文法書です。入門の段階では読む場面はあまりないかもしれませんが,ギリシア語文法を詳しく知りたくなったときに頼りになる一冊です。

ギリシアの詩について読みやすくまとまった一般向けの入門書です。

ギリシア語文献とラテン語文献にわたる西洋古典学全体(哲学,歴史,文学)についての全般的な入門者です。

「実際のしくみ」で紹介した辞書です。この辞書の中型縮新版"Intermediate"もあり,情報量は減りますが,初学者にとっての使いやすさの点ではそちらがお勧めです。

インターネットからの情報も随分便利に利用できるようになりました。

Perseus Digital Library http://www.perseus.tufts.edu/

古典ギリシア語文献を見ることができるほか,希英辞典も利用できます。

古典ギリシア語のしくみ 新版 | NDLサーチ | 国立国会図書館

891