Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち:男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』河出書房新社

『多様性の科学』で引用されていた本。カテゴライズするなら〈ジェンダー論〉とか〈フェミニズム〉ということになるんだろうけど,日本でのフェミニズムというか上野千鶴子の最近の言説がなんだかよく分からない方向に向かって逆宣伝効果あるんじゃないのと思う一方,本書の主張はいたって冷静で論理的で説得力があって,「これぞ本当のフェミニズムだよな」と思う。

たとえば意思決定のプロセス――都市計画だろうと政治だろうと職場だろうとにおいて――に女性が含まれていないか含まれていてもごく少数であるがゆえに,その政策は女性のニーズを考慮していないし,そもそもそのようなニーズがあることが想像すらされていない。そのエクストリームなケースとして,災害や戦争時には,多くの女性がその人権が脅かされる状況に陥ってしまう。「フェミニズムは女性の生死に問題である」っていうと大半の人は――女性も含めて――「そんな大袈裟な」って思うだろうけど,それが大袈裟でもなんでもないということは,本書の「第4部 医療」を読むとよく分かる。「大量にデータを集めて客観的に分析すればいいでしょ」と思っても,そもそもその〈データ〉には女性が含まれていないか,含まれていたとしてもそれがどの程度なのか明示されていないケースが多々ある。

すべての人にとって生きやすい世界をつくるには,女性たちも意思決定に参加する必要がある。すべての人に影響を及ぼす決定を下す人たちが,全員,白人の屈強な男性(しかもほとんどアメリカ人)だったら,データが偏るのは当然だろう――医学研究において,女性の体に関するデータを収集していないせいで,データの欠落が生じるのと同じことだ。

男性が考慮を怠っている女性特有の問題は広範囲に及ぶが,本書を読み進めるうちに,3つのテーマが繰り返し登場することに気がつくだろう。すなわち,女性の体の問題,女性による無償ケアの問題,男性による女性への暴力である。いずれもきわめて重要であり,生活のほぼすべての面に関わる問題だ。公共交通を利用する,政治に参加する,職場で働く,手術を受けるなど,ありとあらゆる生活体験に影響を及ぼしている。ところが,男性は女性の体をもっていないから,そういうことには気がつかない。

データにおけるジェンダー・ギャップは,人間=男性と想定するのが当たり前のような思考停止の原因でもあり,結果でもあると言いたい。本書では,そのような偏見がいかに頻繁に,多くの場所で見られるかを示していく。また,そうした偏見のせいで,本来は客観的であるべきデータ,私たちの生活をますます支配しているデータが,いかに歪曲されているかを示してく。さらに,きわめて公明正大なスーパーコンピューターがますます幅を利かせている,きわめて合理的なこの世界においてさえ,女性はいまだにボーヴォワールの「第二の性」に甘んじていることを示していく――軽んじられ,せいぜい男性の亜型(サブタイプ)としかみなされない可能性は,相変わらず現実のものなのだ。

『存在しない女たち』(インビジブル・ウィメン)は,人類の半数を考慮しないとどうなるかを描いた物語だ。そして,データにおけるジェンダー・ギャップが,日常生活のなかで常識としてまかりとおり,女性たちにどのような害を与えてきたかを暴露する本でもある。そこには,都市計画や政治や職場も含まれる。さらに病気になったり,洪水で自宅が壊れたり,戦争で避難を迫られたりするなど,万が一のとき,男性のデータにもとづいて構築されたこの世界で,女性たちがどのような目に遭っているかについても論じていく。

これまで何千年ものあいだ,医療は,男性の体が人体の代表であるという前提で行われてきた。その結果,女性の体に関するデータは歴史的に不足している。医学研究の対象に雌性細胞,雌性動物,人間の女性が急務であることを,研究者たちがいまだに無視し続けている現状において,データにおけるジェンダー・ギャップはますます拡大している。21世紀になってもこんなことがまかりとおっているのは,まさに不祥事であり,世界中のニュースが大々的に取り上げるべきことなのだ。女性たちは次々に死亡しており,医学界はその死に加担している。いいかげん,目を覚ますべきだ。

367.1

存在しない女たち : 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く (河出書房新社): 2020|書誌詳細|国立国会図書館サーチ