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ランダムな読書歴と音楽にまつわる備忘録

アレックス・ハッチンソン『限界は何が決めるのか?:持久系アスリートのための耐久力の科学』TAC株式会社出版事業部

著者は,極端とも思える方法で人間の限界を押し広げていこうと突き進んだ人たちの物語を織り交ぜながら,過去から現在までの科学的知見を駆使し,人間の耐久力を決めるものや,痛み,筋肉,酸素,暑さと熱,のどの渇き,エネルギーといった肉体に影響する要素について詳細に解き明かしていく。/また,2017年にエリウド・キプチョゲがマラソンサブ2に挑戦したナイキのプロジェクト『Breaking2』に関し,世界でたった2人,舞台裏の取材を許されたうちの1人である著者が,その模様を紙上で再現する。

PART 1 限界を決めるのは心か体か?

1章 耐久力――過酷な1分

問題の一端は,耐久力がスイス・アーミーナイフのようなもので,ひとつでさまざまな用途に使われる点にある。耐久力はマラソンを走る際に必要だが,同時に,長距離のフライトでエコノミークラスの客室に不機嫌な幼児と一緒に押し込められながら正気を保たせてくれるものでもある。

耐久力の定義として私が気に入っているのは,研究者サムエレ・マルコーラによる“やめたいという欲求が高まっても必死に続けること”だ。実際には,これは努力についてマルコーラが述べたものだが,肉体面と精神面の耐久力をともにうまく表現している。肝心なのは,本能の指図と時間の経過を無視することだ。

脳と体はつながっており,特定の状況下で何が限界かを決めるのかを理解するには,両方を一体として考えなければならない。それが,これから登場する科学者たちが取り組んできたことであり,彼らの研究の驚くべき成果によれば,人間の限界を押し広げることについては,私たちはまだスタートを切ったばかりなのだ。

2章 体――人間機械

3章 心――セントラル・ガバナー

ノークスは推論した。私たちの限界がなんめあれ,限界を越えすぎないよつに防いでいる何かがある。そしてその何かとは,脳にちがいない。

1996年のアメリカスポーツ医学会年次大会の公演で,ノークスはA.V.ヒルのVO2maxの概念には根本的な欠陥があると論じた。肉体的な疲労は,心臓が十分な酸素を筋肉に送り込めない結果ではない。そしそうなら心臓と,おそらくは脳までが酸素不足に陥り,最悪の結果につながるだろう。

セントラル・ガバナー説を初めて聞いた時,まず最初に頭に浮かんだ疑問は「設定は変えられるのか? 脳が守る非常用エネルギーと蓄えをすこしは利用できるのだろうか?」だった。結局のところ,この疑問に答えることが,セントラル・ガバナーの存在を最も説得力をもって証明することにつながるだろう。

従来の“人間機械”的な耐久力の考え方では,筋肉の物理的疲労がペースを落としたり止まったりする直接の原因となる。つまり努力がどれだけきつく感じられるかは,付随的なものでしかない。一方,サムエレ・マルコーラの心理生物学的モデルでは,主観的運動強度,つまり運動強度の認知が肉体の疲労とパフォーマンスの間にある。したがって,強度の認知に影響をおよぼすもの(サブリミナル・メッセージ,精神的疲労,その他)ならどんなものでも,筋肉のなかで何が起こっていようと関係なく,耐久力を変化させる可能性がある。

カフェインで体力や耐久力ぁ向上する仕組みについては多くの説がある。(…)マルコーラが最も納得できるのは,カフェインがアデノシンを感知する脳の受容体の働きを阻害するという説だ。

4章 心――意識的放棄

「ですが,内面は変わっていくのではないかと思います」。つまりキプチョゲにとって,この挑戦で重要となるのは肉体よりもメンタルなのだ。今回の試みに対する懐疑的な意見で,そこまで想像したものはない。他のケニアのランナーはどう思っているのかと尋ねると,キプチョゲは答えた。「ほとんどの人は,人間が2時間以内で走るのを見るより,自分が先に死ぬだろうと言っていました。でも私は,彼らが間違えていることを証明しようと思います」

PART 2 限界に影響するもの

5章 痛み

一般的なイメージでは,耐久力と痛みは密接に結びついている。たいていのスポーツでは“苦痛なくして得られるものなし”と言われる。だが,技能が必要な競技ではこの関係が弱まることがあると,ドイツのウルム大学病院でアスリートの苦痛を研究するボルフガング・フロイントは語る。

「痛みとはただひとつのものではありません」と,マギル大学痛み遺伝学研究所所長のジェフリー・モーギルは言う。痛みは,視覚や触覚のように感覚であり,怒りや悲しみのように情動であり,しかも空腹のように行動を促す”動因状態”でもある。特定の状況下でこうした要素がどう混じり合うかによって,痛みの役割が決まる。

6章 筋肉

ランナーには,ある感覚を表現する独特な言い回しがある。”リグする”がそれで,「レースに勝てると思ったのに,最終コーナーでリグし始めた」などのように使われる。ラテン語の”リゴル・モルティス(死後硬直)”に由来するこの言葉は,なぜかスピードが遅くなり,動きが止まり始めるという,本人にとっては困惑させられる感覚を見事にとらえている。

7章 酸素

フランスの生理学者シャルル・リシェは,1894~1899年,アヒルの気道を縛り,死ぬまでにかかる時間を測定した。その結果,水中に沈められたアヒルは平均23分生き続けたのに対し,空気中だと平均7分で絶命した。リシェは(…)水につけられたことが心拍数の低下といった反応を引き起こし,それが酸素の節約になると推論した。

8章 暑さと熱

人間のエネルギー効率に関する初の綿密な調査ではおおむね20~25パーセントの値が記録された。つまり食物を100キロカロリー摂取すると,25キロカロリーが有効な仕事,75キロカロリーが熱になるということだ。無駄が多いように聞こえるが,これは一般的なエンジンのエネルギー効率と驚くほど似ている。

9章 のどの渇き

運動の最中は酸素が不足している脚の筋肉に向けて,心臓から大量の血液が送られる。足を踏み出したりペダルをこいだりすると,ふくらはぎの筋肉が収縮して血管を圧迫し,血液を心臓に送り出すのを助ける。どころがフィニッシュラインを越えるとこのポンプが急に止まる。血液循環の再調整が間に合わず,血圧を維持できなくなってめまいがしたり倒れたりするのだ。

10章 エネルギー

PART 3 より限界に近づくための可能性

11章 脳のトレーニング

12章 脳への電気ショック

13章 信じること

とはいえ最近では,緊張はほぼなくなったを私はスタートラインに並ぶ時,いちばんの敵は,もともとは善意である脳の防御システムだと自分に言い聞かせるようにしている。今後は脳がどんな信号に反応してどう処理するのか,それが変更できるのかについて,もっと知りたいと考えている。だが今は,アスリートがこれまで感じてきたことが,科学によって裏づけられたとわかっただけで十分だ。もし最後の瞬間がやってきたとしても自らがそう信じるなら,“限界はまだ先にある”。

3月のハーフマラソンで彼は,60パーセントの力しか出していないと言った。今回はそんなはずはない。「今日は100パーセントです」。ゴールから数分後,キプチョゲは微笑みながら認めた。「ですが,まあ,私たちは人間ですから」/モンツァのトラックでレース後の温かな興奮に包まれながら彼が主張したように,あのレースはけっして彼だけの闘いではなかったからだ。キプチョゲは言う。「世界はいまや,2時間の壁を越えるまで,残り25秒になったのです」

限界は何が決めるのか? : 持久系アスリートのための耐久力の科学 | NDLサーチ | 国立国会図書館

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