今年の夏に北海道に行ったときに観光ガイドから分水嶺の話を聞いたもので、それでこの本を読んでみた。
そんな軽い興味で読むには深すぎる内容だったというか、自分はそこまで〈地形〉に興味が(今のところは)ないんだなってことが分かったけれど、著者のパッションはよく伝わった。
読み進めながら、なんでこんなに回りくどい書き方というか構成にするんだろうと思ったけれど、〈あとがき〉を読んでその理由が分かった。峠が海から生まれるように、著者は何かが生まれる過程を記録し、それを読者に感じてほしかったのね。
最近、音楽の文脈で「不完全なものを完成形として出すことを多くの人が恐れている」みないな言説を目にしたけれど、この本はまさに〈不完全な完成形〉。それがロマンチックだよね。
はじめに
地形に対して拒否反応を示す人はいないでしょう。なぜなら、人はいつも地形を見ているから。人はどこでも、地形の上に立っているから。都心では、坂道くらいしか地形を意識しないかもしれません。それでも、有給休暇をとって温泉や観光地に出かければ、自然がつくった絶景を見ないことはないでしょう。近所の坂道から観光地の絶景まで、それらはすべて目に見える地形なのです。難解な専門用語を覚える必要もなく、理解不能な概念を勉強する必要もなく、ただ目の前に広がっている景色そのものが地形なのです。地形は見て楽しむもの、登って楽しむもの、滑って楽しむもの。楽しくないはずはありません。地質学者である私にとって、地形はちょっとうらやましい世界なのです。
この本では、ずっと気になっていた日本列島のが水をたどり、その成り立ちの謎に迫ってみたいと思います。分水嶺とは、太平洋に流れ出る河川と日本海に流出する河川を分ける尾根で、中央が水獄とか中央が水界と呼ばれています。本州には、青森県の下北半島から山口県の天関まで続く中央分水嶺が一本だけ存在しています。そのなかでも、今回は多くの地形学者を魅了してきた中国地方の分水嶺を、東から西に観察していきます。
第1章 分水嶺の旅
旅の準備 地形の基本を知る
この旅では、地形図の上で分水嶺を追跡していきます。使用する地図は、国土地理院の縮尺 2万5千分の1の地形図。でも今回は、紙の地図は使いません。国土地理院のホームページに無料で公開されている地理院地図(電子国土Web)を使います。
滝や瀬は、川底が侵食されると徐々に上流に移動していきます。例えば、アメリカとカナダの国境にあるナイアガラの滝は、1年間に1mほど上流に移動しているといわれています
本書では、川による侵食作用が進行している最前線を、「侵食フロント」と呼びましょう。下流からやってくるこの侵食フロントによって、古い地形は逃まれていきます。そのため、下流から前進してきた侵食フロントが到達するまで、その上流域の地形が流水によって大きく削られることはありません。/ということは、この侵食フロントがまだ到達していなければ、古い地形が温存されていると予想することができます。
一般的に広く知られた分水嶺ですが、学術的には分水嶺ではなく分水界という用語が用いられます。この本で紹介するように、雨水を分ける境界が、必ずしも山稜や尾根など“嶺"の形になっていないケースがあるからかもしれません。降った雨を両側に分ける境界なので、分水界と名付けているわけです。
分水界に囲まれた範囲に降った雨は次々と合流して、谷や川は段階的に流量を増やしていきます。それとともに、集水域を分けていた尾根は合流点で分水の役目を終え、一回り大きな分水界に囲まれた範囲の中の、尾根の一つになるわけです。そして、小さな谷のわずかな流れから始まった川は、本州であれば最終的に太平洋か日本海に流れ出てその一生を終えるのです。
利根川の東遷事業によって、関東平野の水理環境は大きく変わりました。かつての利根川の下流域は広大な集水域を失い、土砂の供給が一気に減少したはずです。その結果、遠浅の東京湾は埋め立てられることなく、江戸時代から現在まで、日本の首都に隣接し続けることができたのでしょう。
降った雨は尾根によって両側に分水され、尾根を連ねた分水界によって集められて川となり、合流を繰り返して海を目指します。そして、本州に降り注いだ雨は、最終的に太平洋か日本海のいずれかに注いで川の一生を終えます。二つの海を目指すそれぞれの川が、交わることはありません。したがって、本州には太平洋側と日本海側に分ける尾根(分水界)が一つだけ存在します。その尾根を本書では分水嶺とよぶことにしました。
谷中分水界の谷中は、”こくちゅう”と読みます。 初めて聞く方も、少なくないと思います。大丈夫、私も3年前に初めて知りました。
平らな大地の上を川が流れていて、大地の一部が断層運動などによって隆起したとしましょう。河川の侵食が大地の隆起にると、川は同じ場所を侵食しながら流れ続けるので、川が尾根を横切ることになるのです。先行谷は山が隆起する前から、川がその場所を流れていたことを表しています。先に山があったら、川は山を迂回するように流れたはずですから。
実は大草川のこの奇妙な地形は古くから知られていて、河川の争奪によってつくられたと考えられています。その過程は、堀淳一さんの著書『意外な水源・不思議な分水 ドラマを秘めた川たち』(堀、1996)の中に紹介されています。
分水界を挟んで片側だけが深く切れ落ちた非対称な峠を片峠(かたとうげ)といいます。/例えば、群馬県と長野県の境の碓氷峠(うすいとうげ)は、典型的な片峠です
第2日 気まぐれな分水嶺
尾根にばかり集中していると、またルートを間違えてしまいそうです。注意すべきは尾根ではなく、尾根の両側の川のつながりだと気が付きました。川がつながっている限り、その間の尾根を進んでいけばいいのです。別の川に置き換わったとき、地理院地図をズームアウトして確認すればいいのです。
第3日 断層を横切る分水嶺
第4日 標高がそろう峠の不思議
連続する尾根の途中で分水嶺が突然斜面を下ってしまうのは、これまで何度も経験してきました。必ずしも、一番高い山並みを分水嶺が通過しないことも、中国地方の地形の不思議な特徴の一つです。
第5日 分水嶺を越えられない
花尚岩は風化するとサラサラの真砂(まさ)になって、容易に雨水に流されてしまうので、花崗岩地帯は比較的なだらかな地形をつくります。
分水嶺は"嶺”なのだから、普通はそのまま尾根に沿って西に続いていくと考えがちです。 ところが、ここでも分水嶺は尾根を離れて急斜面を下り、わざわざ平坦で幅の広い谷底を通過していきます。2日目に見た藤坂峠や鼓峠の片峠、3日目に見た遠阪峠(とおざかとうげ)の断層線谷分水界でも、分水嶺は連続する尾根から突然谷底に下ってしまいました。分水嶺は、どうしてそのまま標高の高い尾根に沿って続いていかず、低い谷底に下ってしまうのでしょうか。
谷中分水界の手前で流れの向きが90度変わることも、隣接する片峠の標高が大きく異ならないことも、もはや定石です。ここ野原の分水界(537m)は、見事な谷中分水界です。でもどうして分水嶺は、わざわざ谷中分水界を横切るのでしょうか。まさに謎だらけの分水嶺です。
第6日 匍匐前進する分水嶺
岩石が誕生した1億年前のスタートと、ゴールである現在の山地までの生い立ちをつなぐ学問が地質学です。そして、その過去と未来の間のスナップショットが目の前に広がる地形です。なので、いつどのようにして中国山地がつくられたのか、それをひもとくためには地質学の視点が不可欠なのです。
第7日 最大の難所の世羅台地
世羅台地の標高は300〜450mほどで、尾根と谷の高度差が小さいことが最大の特徴です。言葉を換えるなら、地形の起伏が小さいのです。まるでアルミ箔をくしゃくしゃに丸めたあと、机の上に広げたような状態です。この陰影地形図から分水嶺を追跡するのは不可能でしょう。
第8日 川は川を奪わない?
デービスの河川争奪説は、河川を争奪したと考えられる地形については説明できますが、その周囲にある数多の河川は、なぜ河川を争奪していないのか説明できないのです。圧倒的に多数を占める、争奪を行わなかった河川の存在を説明しなければ、河川の争奪説はあまりにも都合のよい解釈に過ぎません。もはや、河川争奪説を鵜呑みにはできないのです。
第9日 分水嶺をつなぐのは谷中分水界
日本列島のあちこち探してみても、河川の争奪があったと納得できる地形を私は見つけることはできませんでした。絶対にないとは言い切れませんが、自信を持って河川争奪があったとも言えません。多数の状況証拠から、河川の争奪は起こらないのではないかと考えているのです。
第2章 分水嶺の謎
1 関門海峡の謎 本州で最も低かった分水嶺
ネットでいろいろ調べてみると、「大きな川に海が入ってきて関門海峡になった」という説明しかありません。川は山から海に向かって流れるのに、関門海峡は両側とも海ではないか。仕方がないから、地形図と地質図、そしてGoogle Earthを見比べながら、1週間かけてひねり出した答えが「関門海峡は、日本(本州)で最も低い分水嶺だったから!」でした。
水深が浅い九州地方と朝鮮半島の間の日本海は、最終氷期の極大期には広い範囲が陸地でした。そして、平均水深が30mほどの瀬戸内海もすべて陸でした。瀬戸内海は、かつて北側を中国山地に、南側を険しい四国山地に挟まれた、東西に延びる幅の広い平原だったのです。
当時(2万年前)の関門海峡は、高度差が200mほどの火の山と古城山に挟まれた、幅の広い分水嶺の戦部だったはずです。
つまり、関門海峡はかつて、典型的な谷中分水界(こくちゅう分水界)だったのです。
2 谷中分水界は海峡だった
日本の地形学においては、谷中分水界はデービスが提唱した河川の争奪によってできたとずっとじられてきました。しかし、私は河川(かせん)の争奪(そうだつ)説を全く受け入れていません。また、中国地方の大地形は、デービスの侵食輪廻説(しんしょくりんねせつ)が説くように、準平原(じゅんへいげん)が隆起してつくられたと言じられてきました。しかし、私が描く中国地方の地形の成り立ちは、全く異なります。すなわち、中国地方は多鳥海から隆起して、山地に成長したと考えているのです。陸ではなく、海から誕生したと考えているのです。
英虞湾の地形はリアス海岸だけではなく、多数の島々からなる多島海で特徴付けられます。ハワイ諸島の例で示したように陸が隆起しなければ、陸地は波浪によって侵食されつくされ、なくなってしまいます。なおさら陸が、たとえゆっくりでも沈降していたら、陸地はすべて水没してしまうでしょう。つまり、リアス海岸や多海島は、大地がゆっくり隆起していることを示しているのです。
3 隆起の原因は東西圧縮
プレートは、冷えたマントルとその上に乗る地殻で構成されています。地殻はマントルに比べて密度が小さい(軽い)ので、マントルの中に沈み込んでいくことはありません。大陸が地球創世以降ずっと地球の表面に存在し続けた理由は、大陸は密度の大きい(重い)マントルの上に浮かぶ、軽くて厚い地殻でつくられているからです。
海洋底を構成する地殻は玄武岩質の岩石のみで、厚さが6〜7km程度と非常に薄いのが特徴です。水に浮かべた木の板が薄ければ、水面上に露出する板の高さはわずかです。海洋底では重いマントルに浮かぶ軽い地殻が薄いので、海底は海面よりも低くなってしまいます。だから、海底なのですね。/これに対し、大陸や列島の地殻を構成する岩石は、花崗岩質の岩石と玄武岩質の岩石に大別されます。玄武岩質の岩石は花崗岩質の岩石よりも密度が大きいので、大局的には地殻の下部を構成します。つまり、地殻の上部を花崗岩質の岩石が、下部を玄武岩質の岩石が構成し、これらの浮力によって陸地の標高が保たれています。/大陸の地殻は非常に厚いので、海面を超えて高い標高を維持することができるのです。地球の表面が大陸と海洋に分かれているのは、マントルに浮かぶ軽い地殻の厚さの違いに起因しているのです。
4 中国地方は瀬戸内海だった
5 謎の答えは地形が語ってくれる
6 盛り上がり続ける中国山地
このように、中国地方の地形は海底が盛り上がって大地が誕生し、隆起し続けることによって形づくられたと考えられます。そして、中国地方に降り注いだ雨を太平洋側と日本海側に分ける分水嶺は、海底が隆起して海面上に現れた島の、ほんの小さな分水界として誕生しました。島と島の間の海峡が離水して谷中分水界となり、分水嶺は少しずつ延伸していったのです。分水嶺は、中国地方の隆起運動とともに成長してきました。言い換えるならば、島漁からなる"古瀬戸内海”が降起して、中国地方の大地形が形成されていったのです
7 海から生まれた中国地方
8 分水嶺のあみだくじ
おわりに――私の分水嶺
コロナ禍に伴い自宅でテレワークを始めた2020年の4月、自宅の2階の8畳間で気になっていた書籍の執筆を始めると、勝手に気持ちが高まって一気にこの本を書き上げました。全く無計画に書き始めたので何度もルートを間違えましたが、そのまま記述を進めました。そのため、スタートとゴールは最短距離で結ばれていません。しかし、人生とはそのようなもの。あとからきれいに整理してまとめ上げるのではなく、その瞬間を、その過程をそのまま綴ることによって、私の気持ちのリアリティーを残したいと思ったからです。
科学者は、有限の言葉の世界の間に、広大な無限の世界が広がっていることを知っています。言葉で表現できる有限の世界から無限の世界に迷い込んだとき、最初に感じるのが違和感です。そして、違和感というサイエンスの種子を拾い上げ、大切に育て始めるのです。/その種子のほとんどは芽が出なかったり、途中で枯れてしまうけれど、千粒か一万粒の種子の中の一つが育ち、ゆくゆくは大木となって見事な果実を実らせることを科学者は知っています。ただし、自分が拾った種子が、のちに果実を実らせるたった一つの種子かどうかは最後まで分かりません。ちょうど海峡が離水して、小さな谷中が水界が誕生したとしても、最終的に分水嶺になるのかどうか分からないように。それでも、サイエンスの種子を見つけると、科学者は必ず拾ってポケットに入れます。今回私は、地形の種子を拾いました。
文献リスト
分水嶺の謎 : 峠は海から生まれた | NDLサーチ | 国立国会図書館
454.54