Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

ダグラス・マレー『大衆の狂気:ジェンダー・人種・アイデンティティ』徳間書店 361.4

これ読む限りでは「ほんと欧米終わってんなー」って感じ。

イントロダクション

私たちはいま、大衆の大いなる狂気を目の当たりにしている。公的な場でも私的な場でも、オンラインでもオフラインでも、世間の人々はますます、自制力を失った集団のように、非合理的で不愉快なだけの行動をとっている。毎日のニュースには、そんな行動の結果があふれている。だが私たちは、結果を見るばかりで、原因にはあまり目を向けない。

その基盤は数十年にわたって築かれてきたとはいえ、かつては学界のなかの傍流中の傍流でしかなかったその思想が主流へと躍り出てきたのは、二〇〇八年の世界金融危機以後のことである。この新たな思想の魅力がどこにあるのかは、いまさら言うまでもない。もはや資本を蓄積できなくなった世代がいまだに資本主義を支持している理由はよくわからないが、一生、家を持てないと思い込んでいる世代が、周囲の社会の不平等だけでなく世界のあらゆる不平等の解消を約束するイデオロギー的世界観に惹かれる理由は、容易に理解できる。つまり、先に述べた新たな形而上学とは、「社会的公正」や「アイデンティティ・ポリティクス」(訳注/性・人種・性的指向など、社会的不公正の犠牲になっている特定のアイデンティティ集団の社会的地位の向上を目指す政治活動)、「インターセクショナリティ」(訳注/性・人種・性的指向などのアイデンティティが複数重なることによって起こる特有の差別や抑圧に関する研究)を指す。

これはいわば、オーディションである。要求されていようがいまいが、この新制度への忠誠を公の場でまくしたてなければならない。こうした問題は、かつての崇高な闘いに従事してきた人々でさえ認識していた、リベラリズムの有名な問題の延長線上にある。いまは亡きオーストラリアの政治哲学者ケネス・ミノーグは、そのような傾向を、「隠居後の聖ゲオルギウス」症候群と呼んだ。身敢な戦士だった聖ゲオルギウスは、ドラゴンを退治すると、さらなる栄光を獲得できる戦いを求め、荒野をさまよう。彼にはドラゴンが必要なのだ。だが、立派なドラゴンをどんどん退治していけば、残るドラゴンは次第に小さくなっていく。そしてしまいには、ますます小さくなるドラゴンを追うのにも疲れ果て、かすみに剣を振るうようになる。そこにドラゴンが隠れていると思い込んでいるのだ(注15)。聖ゲオルギウスでさえそんな誘惑に駆られるのなら、聖人でもなく、馬や槍も持っておらず、誰の目にも留まらないような人間はどうなるだろう?自分も、歴史的なチャンスさえ与えられれば間違いなくそのドラゴンを退治しただろうと吹聴して、どんな行動を起こそうとするだろう?

第1章 ゲイ

いずれにせよ、運動に携わる人々が勝利したときにどうふるまうかで、その人たちの本質が明らかになる場合がある。その人たちは、自分たちに都合がいい論拠を、ほかの人にもあてはめることを認めるだろうか? 互恵や寛容といった言葉は普遍的な原則なのか、それとも自分たちの主張を通すための隠れみのに過ぎないのか? これまで検閲されてきた人々は、検間の権利を手に入れたら、ほかの人を検閲するようになるのか?

それにもかかわらず、現代世界は前述の考え方に根差した道徳規範を採用するようになった。これは、ハードウェア対ソフトウェアの問題だと考えてもいい。/ この場合、ハードウェアとは、自分では変えられないものを指す。そのため(この論法の帰結として)、それをもとに人を判断すべきではない。一方、ソフトウェアは、自分の意思で変えることができるものを指す。そのため、それをもとに人を判断することができる(そこには道徳的な判断も含まれる)。このような仕組みのなかでは必然的に、ソフトウェアの問題かもしれない問題を、ハードウェアの問題にしようとする衝動が生まれる。本当はソフトウェアの問題だったとしても、そうしておいたほうが共感を得やすいからだ。

同性愛も、とりわけ生殖という観点から見れば、社会に負担をかけているといえなくもない。そのため、同性愛は実際に変えられるものなのかという問題が、社会がかかわるべき至極正当な問題となる。

だが、ここで指摘しておきたいのは、進化において同性愛がどんな役割を果たしてきたのか、進化のなかで同性愛を正当化するどんな理由があったのか、あるいは、進化のなかで同性愛者への不信感を正当化するどんな理由があったのか、といった研究が、まともな生物学的議論の対象になってこなかったことだ。プライベートな場では、それを生物学界の怠慢と、潔く認める学者もいる。だが現代において、このテーマ全体を覆う水域は深く危険であり、終身在職権(訳注/大学が優れた教員に与える終身雇用の権利)を求める学者は誰も、そこに飛び込もうとはしたがらない。

科学に同性愛の起源に関する問いに答える意思も能力もないのであれば、ほかの分野がこの問題をめぐる議論の責任を負うしかない。こういう場合、たいていは哲学がその責任を担う。だが哲学の歴史を振り返っても、この問題に関する進歩はほとんど見られない。実際、どうひいき目に見ても数千年にわたり進歩していないのだ。

実際、同性愛の男性と同性愛の女性の間には、共通点がほとんどない。あまりにもありきたりすぎて口にするのもはばかられるほどだが、同性愛の男性と同性愛の女性は、必ずしも仲睦まじい関係を築いているわけではない。同性愛の男性はたいてい同性愛の女性を、野暮な身なりをしていてつまらない存在だと考えている。一方、同性愛の女性はたいてい同性愛の男性を、大人になりそこなった姿をさらしているくだらない存在だと考えている。どちらもさほど互いを必要としておらず、「共有」スペースで会うこともほとんどない。同性愛の男性同士が出会う場所や、同性愛の女性同士が出会う場所はあるが、同性愛者解放運動から数十年がたつうちに、同性愛の男性と女性が定期的に集まるような場所はほとんどなくなってしまった。

現在も、ゲイの権利を求めるデモ行進はよく見かける(もっとも有名なのが、世界中で実施されている「プライド」パレードである)。だが、こうしたデモではたいてい、法的平等を求める声に(これは大半の欧米諸国で実現されている)、異性愛者どころか同性愛者さえ赤面させるような要素が混じっている。自宅のようなプライベート空間でそのような要素を楽しむのなら、何の問題もない。だが、さほど潔癖な人間でなくても、フェティシズムに満ちた衣装や革ズボンなどを身につけた人々が密集して抗議すれば、それがどんな運動であれ不快感を覚えるに違いない。黒人の公民権運動にこうしたフェティシズムの要素が含まれていたとしたら、その道義的な意味はいとも簡単に無視されていたことだろう。

間奏 マルクス主義的な基盤

第2章 女性

スティーヴン・ピンカーは、二〇〇二年に発表した著書『人間の本性を考える──心は「空白の石版」か』(訳注/邦訳は山下篤子訳、日本放送出版協会、二〇〇四年)のなかで、いまやジェンダーは「強い関心を呼ぶ」問題の一つになったと述べている。だが、それにもかかわらずピンカーは、いずれは科学的見解が勝利を収めると確言しているようだ。実際、この著書には数ページにわたり、男性と女性の間に存在する生物学的相違がリストアップされている。たとえば、男性は女性より「(体のサイズで補正しても)脳が大きく、ニューロンも多い」が、女性は男性より「灰白質の割合が多い」といった事実や、男性と女性の心理学的相違の多くは、進化生物学者の予想と正確に一致しているといった事実である(平均して男性のほうが女性より体格が大きいのも、進化の歴史を通じて男性が、交尾の相手を獲得するために激しい競争にさらされてきたからである)(注1)。さらにピンカーは、まもなく別の問題として登場することになる問題をも取り上げ、少年と少女の脳の発達に違いがあることや、テストステロンなどの男性ホルモンが脳に影響を及ぼすことも指摘している。これは、男性と女性の生物学的相違は存在しないと主張する人々を刺激しかねない科学的反論である。ピンカーは言う。「性器を除けば男性と女性は生まれつき同じであり、そのほかの相違はすべて社会が生み出す、という理論が発展する見込みがあるとは思えない」(注2)/ だが、それから二〇年もたっていないとはいえ、この理論は発展するばかりである。

一〇年ほど前まで、性(あるいはジェンダー)や染色体は、人類という種のなかでもっとも基本的なハードウェアだと認識されていた。男性として生まれるか女性として生まれるかは、私たちの生活において変えることのできない主要ハードウェア要素の一つだった。男性であれ女性であれ、私たちはみな、このハードウェアを受け入れ、それに関連するさまざまな場面に対応する方法を学んできた。そのため、もっとも基本的なハードウェアがソフトウェアの問題に過ぎないという主張が定着するようになると、男女それぞれに関することも男女関係に関することも、何もかもが混乱をきたした。この主張が表れ、数十年をかけてそれが社会に組み込まれると、突如として誰もが、性は生物学的に固定されたものではなく、「社会的成果の反復」に過ぎないと考えなければならなくなった。/ この主張により、フェミニズム運動は過数化した(それは予想されていたとおり、ほかの問題にも影響を及ぼした。これについては「トランスジェンダー」の章で取り上げる)。その結果、フェミニズムは、男性も女性になれると主張する男性に対して無防備になったかもしれない。だが、ハードウェアをソフトウェア化しようとする試みは、男性にも女性にも、ほかのどんな問題よりも多くの苦しみをもたらした。それはいまも続いている。現代の狂気の基盤はここにある。現代の思潮は、女性はもはやこれまでのような存在ではないと考えるよう求めている。昨日まで女性や男性が目にしていたこと、理解していたことすべてがまぼろしであり、男女の相違(および男女が仲良く暮らしていく方法)について私たちが受け継いできた知識はみな間違っていると訴えている。被壊的なほど激しい男性憎悪、二重思考、自己妄想なども含め、あらゆる怒りは、そのような思潮から生まれている。つまり私たちは、本能が教えてくれることは正しくないかもしれないという主張に基づいて、生活や社会を根本的に変革していくよう求められているだけでなく、そう期待されてもいるのである。

間奏 テクノロジーの衝撃

物議をかもす難しい問題には、それ相応の熟慮が必要である。熟慮するためには、たいていは自分の考えを試してみる必要がある(その過程で過ちを犯すことは避けられない)。だがいまでは、きわめて異論の多い問題について自分の考えを口にするのが、きわめてリスクの高い行為になってしまったため、単純に損益比の観点から見ても、誰もそんな方法を採用しようとはしない。たとえば、男性の体を持つある人物が、自分は女性だと訴え、女性と見なしてほしいとあなたに言ってきた場合、あなたには二つの選択肢がある。その人物の言うとおりにすれば、あなたはテストに合格し、これからも無事に人生を歩んでいける。だが、その人物の言うとおりにしなければ、「トランスジェンダー嫌い」というレッテルを貼られ、これまでの評判や経歴をふいにすることになるかもしれない。あなたはどちらを選ぶだろう?

グーグルは、人間が抱く偏見をコンピュータから排除するため、偏見や先入観を持たない検索エンジンを開発するつもりだったのだろう。だがそれは、歪んだ歴史とともに、新たな偏見を生み出した。その偏見は、特定の偏見を持つとされる人たちを攻撃しようとする人々により、検索エンジンに意図的に組み込まれた。人間が抱く偏見を排除するため、システム全体を偏見でがんじがらめにしてしまったのだ。

だが検索エンジンは、いまに至るまで「中立」的な空間だと考えられてきた。奇妙な結果を出すとは思われているかもしれないが、まったく新たな編集方針を採用しているとは思われていないに違いない。だが実際には、明らかに一方向に偏った編集方針が採用されている。これではまるで、海外の報道についてはかなり肩頼できる一般紙が、国内の報道については極端な偏りを見せ、そのスポーツ面で、スポーツ好きな人たちをまさにそのために処罰・矯正すべきだと主張しているようなものである。

第3章 人種

これは、フェミニズム運動と軌を一にしている。黒人研究も一時は、勝利にたどり着こうとしていた。だが、人種間の不平等がかつてないほどなくなったと思われたそのときに、この研究分野に新しい過澈な表現や思想が入ってきた。フェミニズム運動の人気要素が女性の称賛から男性の中傷へと変わったように、一部の黒人研究も、黒人でない人々を攻撃するようになった。汚名を返上することを目的としていた研究が、汚名を着せるようになったのだ。こうして生まれた「白人研究」は、フェミニズム運動の第四波に相当する。批判的人種理論から派生したこの研究は、いまではアメリカの名門大学はおろか、イギリスやオーストラリアの大学にも浸透している。ウィスコンシン大学マディソン校では、「自人の問題」という講座が提供されている。オーストラリアのメルボルン大学では、「自人研究」をまったく関係のない学問分野の必須課目にしようとする動きが進んでいる。インターセクショナリティの問題を無理やり教え込まれた経験のある人なら、何の話をしているのかすぐに理解できるはずだ。

人種や人種的特徴を掘り下げていくこの行為を、食い止めるいい方法がある。その境界を次第にあいまいにしていけばいい。たとえば、伝達・共有可能な人種のさまざまな側面を、ほかの人々に広く経験させる。ある人種の文化を、それを高く評価しているほかの人種と共有すれあらゆる分断を超えた理解が進むかもしれない。それが、私たちの悲願だったのではなかったか? だが不幸にも、その悲願がまもなく達成されようというときに、ある理論が邪魔に入った。それもやはり、大学のキャンパスで産声をあげ、現実世界にあふれ出していった。その理論とは、「文化の盗用」である。/ ポストコロニアル研究(訳注/植民地支配やそれが後世に残したものを対象とする研究)に端を発するこの理論は、こう考える。植民地の宗主国は、植民地に自国の文化を押しつけただけでなく、植民地のさまざまな文化を自国に持ち帰った、と。これを好意的に解釈すれば、宗主国が植民地の文化を模倣したのであり、きわめて誠実な形でその文化を賛美しているといえる。だが、ポストコロニアル研究が注目を浴びるようになったのは、そのような好意的な解釈をしたからではない。むしろ、このうえなく悪意に満ちた解釈がなされたからにほかならない。

キリスト教の伝統の中核には、神の目から見た平等という教義がある。だが、神の目から見た平等は、やがて世俗的なヒューマニズムの時代になると、人間の目から見た平等に変わってしまった。そこに問題がある。というのは、たいていの人は、人間はまったく平等ではないことに気づいていたり、それを直感的に知っていたり、危惧していたりするからだ。人間はそれぞれ、同じように美しいわけでもなければ、同じような才能に恵まれているわけでもない。同じように強くもなければ、同じように賢明でもない。財力が違うことは言うまでもない。愛されるレベルでさえ一様ではない。政治的左派は絶えず、平等や公正が必要だと主張する(政治社会学者のエドゥアルド・ボニーラ=シルバらは、結果の平等が望ましく、その実現は可能だと訴える)が、政治的右派はそれに対し、結果の平等ではなく機会の平等を主張する。だが実際のところ、どちらの主張もほぼ間違いなく実現できない。そんなことは全世界ではおろか、一国の国内、あるいは一部の地域だけでも不可能だろう。

この世には踏み入るべきでない危険なテーマがいくつもあるが、その最たるものが、知能指数や遺伝学の研究だと思われる。アメリカの政治学者チャールズ・マレーと行動計量学者リチャード・J・ハーンスタインは、一九九四年に出版した『The Bell Curve(釣鐘曲線)』のなかで、知能は人種ごとに異なると主張し、まさにこの地雷を爆発させようとした。実際、二人に批判的な人たちはほとんどこの本を読まなかったとはいえ、人種の遺伝的特徴に関するこの研究は、幅広い批判の対象になった。確かに、この重要なテーマを議論の対象にするのを避けるべきではないとする主張も、わずかながらあった。だがほとんどの反応は、書籍の内容や著者の発言を抑え込もうとするものばかりだった(ハーンスタインは幸か不幸か、この本の出版直前に急死したため、この「著者」というのはマレー一人である)。書評を掲載したほとんどの新聞・雑誌が、この結論は「危険」だと指摘した(注63)。そして、この危険な結論に対して、きわめてはっきりとした態度を示した。つまり、その危険物を、あらんかぎりの土で覆い、その上から叩いて、これ以上できないほど固めてしまったのだ。同じ分野を研究するある学者は、「学術的なナチズム」という見出しのもと、この書籍について以下のような過激な記事を響いている(このような記事はほかにいくらでもあった)。「これは、疑似科学的な信用をまとったナチスのプロパガンダ本であり、アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』の学術版である」(注64)。ほかのいかなる『わが闘争』でもないことを示すために、わざわざ「アドルフ・ヒトラーの」としている。

『釣鐘曲線』への批判を見ると、知能テストのスコアが人種により異なること、高いスコアを獲得する人種もあれば、低いスコアを獲得する人種もあることを示唆する証拠を、誰も検討したがらない理由がわかる。これはもちろん、その人種のなかの誰もがスコアが高い、あるいは低いと言っているわけではない。マレーとハーンスタインが何度も指摘しているように、人種間の格差よりも人種内の格差のほうが大きい。それでも、人種間の知能指数格差に関する学術文献を調査してきた人たちは誰よりも、その分野の文献が「倫理的悪夢」(ジョーダン・ピーターソンの言葉)であることを理解している(注65)。そのため、誰もが必死にこの悪夢を遠ざけようとする。

間奏 ゆるしについて

ソーシャルメディアの時代の到来により、まるで理解できない事態が起こり、いまだ対処の糸口さえつかめない問題が生まれている。その一つが、私的な言語と公的な言語との境界の崩壊である。だが、それ以上に重要な、何よりも深刻な問題がある(その一因はこの境界の崩壊にあるのだが)。その問題とは、テクノロジーが生み出したこの状況から脱け出す仕組みがない、ということだ。現状では、災難を引き起こすことはできるが、災難を収めることはできない。傷つけることはできるが、治すことはできない。たとえば、「パブリック・シェイミング」(訳注/公の場で特定の人物を吊るし上げる行為)と呼ばれる現象を見てみよう。

実際のところ、インターネット上の住民が立ち止まって目を向けるのは、最悪の視点から見た誰かの人生だけである。そこは、パブリック・シェイミングやシャーデンフロイデ(訳注/他人の不幸や災難を喜ぶこと)に夢中になっている人たちにとって、宝の山である。私たちは誰もが、他人が失墜する姿を見る喜びを実感している。罪人の処罰に加担することに正義の感覚が伴うことを知っている。その罪が、私たちが犯した経験のある罪だったとしても、である(あるいは、その場合にはいっそう正義を感じやすいのかもしれない)。さらには、人類学・哲学者のルネ・ジラールの著作により、そのようなスケープゴートを見出すことによって社会的開放が得られることも認識している。そのため、誰かの人生に対して、まったく細部を顧みず、思いやりのかけらもない解釈を追い求める傾向が強くなる。最大の衝撃を与えるとともに、最大の衝撃を受ける解釈である。

ノートンやチョンらの事例を重視すべき第二の理由は、それが、インターネット時代がいまだ取り組もうともしない問題を明らかにしているからだ。それは、現代人は他人をゆるすことができるのか、という問題である。誰であれ、生きていれば間違いを犯す。そのため、健全な人間や社会には、ゆるす能力がなければならない。これはある意味では、忘れる能力ともいえる。だが、インターネットは決して忘れない。どんなことであれ、いつでも新たに掘り起こすことができる。将来また別の雇用主が、差別語を使用したノートンのツイートを見つけ、当時の文脈など度外視して、採用していい人物なのだろうかと悩むことにもなりかねない。

第4章 トランスジェンダー

本書で取り上げたあらゆるテーマ、この時代に見られるあらゆる複雑な問題のなかでも、トランスジェンダーの問題ほど、激しい混乱や思い込みを引き起こし、有害な要求を促すものはない。比較的わずかな人だけに関係する問題でありながら、これほど急速に社会に確固たる地位を築いた問題は、ほかにない。いまでは、トランスジェンダーの最新の動向に新聞の全紙面が割かれており、トランスジェンダーにかかわる言葉の変更ばかりか、それを対象とする科学の醤立までもが、絶えず求められている(注3)。一部の人から見れば、ゲイの権利に関する議論もあっという間に進んだように思えるかもしれないが、それでも、同性愛の存在を認め、それを受け入れる必要があると考える段階から、ゲイの結婚を合法化する段階に至るまでには、数十年の月日が必要だった。一方、トランスジェンダーはそれを上まわる記録的な速さで、もはや常識といっていいものになった。いまやイギリス政府の保守派の閣僚までもが、出生証明書の修正や出生時の性の変更を容易にする運動に参加している(注4)。トランスジェンダーの子どもに配慮して、男児も含め「あらゆるジェンダー」に生理がありうると教えるべきだと小学校の教師に指導している地方自治体もある(注5)。アメリカでも二〇一九年五月、「性自認」を含めて性を再定義する連邦法が可決された(注6)。/ どこでも同様の現象が見られる。私たちがいま経験しているこの大森の狂気のなかで、トランスジェンダーはいわば破城槌となっている。つまり、過去の因習という大きな壁を打ち砕くための最終手段というわけだ。イギリスのゲイ人権団体(ストーンウォール)もいまでは、ゲイの人権を訴えるために長らく使用していたTシャツの文言を改めている。そこには「トランスジェンダーの人もいる。それを受け入れろ」とある。だが、その人たちは本当にトランスジェンダーなのか? 私たちはそれを受け入れるべきなのか?

社会学者よりも科学者を倍頼するのであれば、また、当人が主張するアイデンティティより見たままのアイデンティティのほうが理解しやすいことに同意してもらえるのであれば、以下のように言っていいだろう。トランスジェンダーの議論のなかでもっとも異論の少ない部分とは、「間性」の問題である。/ 間性は、何世紀も前から医師に知られていた自然な現象だが、それ以外の人には必ずしも認知されていない。人間のなかには、どちらの性とも判別しがたい性器や、両性の間のどこかに位置づけられるような生物学的特徴(異常に大きなクリトリスや異常に小さなペニスなど)を持って生まれる人が、わずかながらいる。これらの症状が外見だけでわかるとはかぎらない。外見上は一方の性の特徴を備えていながら、体内に別の性の臓器の痕跡をとどめているというまれなケースもある。たとえば、ミュラー管遺残症候群(PMDS)の人は、男性の性器を持っている一方で、女性の生殖器官(卵管や子宮など)も備えている。

だが、現代に至ってもなお、間性が比較的ありふれたものだということが、一般には理解されていない。最近の推計では、アメリカで生まれる子どものおよそ二〇〇〇人に一人が、どちらとも判別しがたい性器を持っており、およそ三〇〇人に一人が、専門医に診てもらう必要があると判断されている(注7)。もちろん、間性に関する認識が広がるにつれ、この余計な困難を抱えて生まれた子どもの処遇に関する議論も深まってきた。二〇世紀後半にはジョンズ・ホプキンス大学が、そのような子どもを診断する専門医のための標準モデルを考案している。どちらの性がより優勢か、どちらの性がその子に適合しやすいかを見きわめ、それに従って手術やホルモン治療を進めるためのモデルである。

トランスジェンダーと呼ばれる領域の一方の端に、間性として生まれた人たちがおり、それが何よりも明確なハードウェアの問題であるとすれば、残りのトランスジェンダーは間違いな、そこからその領域を内側へ向かっていくことになる。つまり、両性の間にいることが視覚的・生物学的に証明されている人たちから、自身の証言以外に性が異なる証拠がない人たちへと移っていく。そのどこで、証明可能な「ハードウェア」的な領域が終わり、どこから「ソフトウェア」的な領域が始まるのか?それを判断する行為には、憶測にまつわる多大な危険が潜んでいる。

結論

社会的公正、アイデンティティ・ポリティクス、インターセクショナリティを支持する人々は、よくこう主張する。この社会には、人種差別、性差別、同性愛嫌い、トランスジェンダー嫌いが蔓延している。これらの抑圧は複雑に絡み合っている。その本質を見抜き、それを解きほぐせるようになったときに初めて、複雑に絡み合った現代の抑圧から解放される。その後、新しい何かが生まれる、と。だが、それが何であるかははっきりしないままだ。社会的公正というのは、いくら追い求めても手に入れられず、絶えず注意が必要なものなのかもしれない。私たちは永久にそれを見出せそうにない。/ というのは第一に、さまざまな抑圧がすべてきつく絡まり合っているわけではなく、異なる抑圧同士で、あるいは同じ抑圧の内部で、やかましい音を立てて激しくこすれ合っているからだ。それは、摩擦をなくすどころか摩擦を生み出し、心の平安をもたらす以上に、対立や大衆の狂気を高めている。本曹では、この社会において絶えず取り上げられる四つの問題を重点的に扱った。毎日のニュースの定番になっているだけでなく、まったく新しい社会道徳の基盤にもなっている問題である。いまでは、女性やゲイ、人種的背景の異なる人々、トランスジェンダーである人々の苦境を取り上げれば、同情を示すことになるばかりか、ある種の道徳性を示すことにもなる。それが、この新たな宗教の肩仰形態である。これらの問題のために闘い、これらの運動を称揚すれば、自分はいい人間なのだと証明できる。

こうした非難、申し立て、遺恨は、驚くほどの速さで広まった。これは、スマートフォンやツイッターの時代が始まってまだ一〇年ほどしかたっていないとはいえ、これらの新たなテクノロジーの登場と無関係ではない。だが、その前からすでに、人権に関する言葉づかいやリベラリズムの実践において、何かが間違った方向に進んでいた。ある時期に、探求的な側面を持つリベラリズムが、リベラルな独断主義に取って代わられた。未解決の問題を解決ずみだと断言し、未知のことを既知のことだと主張し、十分に議論されていない方針に沿った社会の構築をよしとする独断主義である。そのためいまでは、権利の産物が、それをもとにしても不安定なものしか生み出せないのに、権利の基盤とされている。せめてこのリベラリズムにより、の確実性が蔓延しているところに謙虚さが注入されるのであれば、まだ救いがある。というのは、独断的で復讐心に満ちたこの種のリベラリズムはいつか、リベラルな時代そのものを損な崩壊さえさせかねないからだ。だが結局のところ、大多数の人々が、受け入れるよう命じられている主張を受け入れ続け、受け入れなければ浴びせられる悪口に怯え続けることになるのかどうかは、まだわからない。

同性愛や異性愛の男性や女性は、出生時の性とは異なる性を子どもに割り当てる人々の主張について、どう考えているのか? どうしておてんばな性格の少女を、女性から男性へ性転換させるべき人間と見なすべきなのか? なぜプリンセスのような服を着たがる少年を、男性から女性への性転換を待っている人間と考えるべきなのか?そういう人たちは間違ったパッケージに入ったお菓子と同じだとする主張は、パッケージから読み取れる情報はすべて間違っているという主張になりかねない。だが推計によれば、性別に違和感を感じていると診断される子どものおよそ八〇パーセントは、思春期の間に問題が自然に解決するという。つまり、出生時に認定された生物学的性に満足するようになる。そしてこうした子どもの大半が、成長して大人になると、ゲイやレズビアンになる(注2)。ところが、同性愛が社会に受け入れられるようになって数十年がたったいま、将来、ゲイやレズビアンになるはずの新世代の子どもたちは、女性的な特徴を持っていれば女性であり、男性的な特徴を持っていれば男性であると教えられている。それについて、同性愛の男性や女性はどう思っているのだろうか? また、フェミニズム運動を推進してきた女性たちは、これをどう考えているのだろうか? 女性として長い年月をかけて女性の権利を確立してきたのちに、男性として生まれた人々に(発言する権利を含め)女性の権利を語られることを、どう思っているのだろうか?

フェミニズムの世界に限らず、まっとうな文明社会には、男性は女性をぶったり殴ったりしてはいけないというルールがある。それなのにこの社会は、男性として生まれた人間がさまざまな接触型スポーツにおいて定期的に女性を叩きのめしている事実から顔をそむけている。総合格闘技の世界では、何年も前からそんな論争が持ち上がっている。

私たちの文化はいまや、解決不可能な問題が埋め込まれた領域に足を踏み入れている。世界的に名を知られた一部の女性たちは、女性には性的対象として見られることなくセクシーでいる権利がある、と主張している。世界的に著名な一部の文化人たちは、人種差別に抵抗するためには多少人種差別的にならなければならない、という姿勢を示している。いまではこのように、妥協点など探りようのない、ありとあらゆる不可能な要求がなされている。

あとがき(ペーパーバック版) ダグラス・マレー

価値観の衝突である文化戦争もほかの戦争と同じように、鎮まったかと思うと数日後にまた燃え上がることがある。二〇一九年九月に本書を出版した際には、いまだ存在するいかなる上流社会からも即座に破門されることを覚悟していた。ところが、非難の声はあがらなかった。/ 前作の『西洋の自死ー移民・アイデンティティ・イスラム』(訳注/邦訳は町田敦夫訳、東洋経済新報社、二〇一八年)同様、今作でも現代最大の地雷原に足を踏み入れたのだが、まだ生き残っている。生きているだけではない。本書は前作と同じように、すぐさまベストセラーになり、レビューも好評だった。確かに、ある程度説得力のある反証を提示する必要に迫られたのか、告も多少はあった。だが、本書の主張はおおむね暖かく迎え入れられ、まともに受け止められた。

大衆の狂気 : ジェンダー・人種・アイデンティティ | NDLサーチ | 国立国会図書館

361.4