プロローグ
戦後企業史にも特筆されるであろう「メディア買収劇」の本質を理解するには、堀江が登場するはるか以前からのフジサンケイグループの歴史を知らなければならない。そして、混乱の直接の引き金は、十三年前に日枝がしかけた「鹿内宏明・議長解任事件」にこそ見出されるはずだ。/ その日以来、日枝は鹿内宏明を“抹殺”するためにあらゆる手だてを尽くしてきたと言っていい。ひとつには、経済合理性などまったくないニッポン放送の上場も、買収の危機に壊されることを承知の上で、大株主である宏明の影響力を殺ぐために日枝がそうさせたのである。まるで鹿内倉隆、春雄、宏明と続いた「鹿内家三代」の影に怯えるかのような行動も、すべては自身の権力を強化するためであった。
このグループの歴史と保有する価値には、たとえば皇室にもつながるようなおびただしい秘密が詰まっている。それを作り上げたのが借隆だが、継承するはずの宏明がクーデターによって追放されたことで、重要な意味を帯びたものほど活かされることなく死蔵された。/ それらは村上や堀江が目をつけたような財務諸表に載る資産もあれば、歴史的な無形の価値を持つものもある。その一つひとつを知ることは、戦後史のなかでこの特異なメディアグループが帯びた役回りを確認する作業でもあった。
第一章 彫刻の森:鹿内信隆のつくった王
第二章 クーデター:鹿内宏明解任
フジテレビの「会員名義割り当て一覧」と記された内部資料に目を凝らすと、社長、専務といった役員の格、序列に見合うゴルフ場が、各人に割り振られていることがわかる。言い換えると、あてがわれたゴルフ場のグレードを見れば、組織内の真の序列、役員間の力関係がほの見えてくるという寸法である。
二人が議長と呼ぶ鹿内宏明は、正確には新聞、テレビ、ラジオそれぞれの代表取締役会長だ。議長とは法的裏付けのある役職ではなく、フジサンケイグループ会議という任意団体、その長の名称である。とりわけ隆時代はカリスマ、象徴といった性格を帯びたが、マスコミに限らず、日本の主だった企業グループでも議長なるものが置かれたところはほかにない。/ 企業グループと呼称する際、三菱、三井、住友といった旧財閥グループを例に取れば財閥解体以降は実質は緩やかな結合体であって、グループを統括する最高権力者は存在しない。一方、このフジサンケイグループに限っては緩やかな結合体などではなく、強固に統率され、権力が一点に集中する存在が議長であった。
坪内には、ダイヤモンド社会長という顔のほかに、戦後財界の裏舞台で働いてきたもうひとつの顔がある。戦後まもなくは若手経営者の集まりである日本青年会議所の設立に参画し、長く専務理事を務めてきた。さらに、昭和三十年代には、財界の秘密組織の事務方を担い、いわば財界の裏仕事に携わってきたことで、フジサンケイグループ設立の経緯にも通じていた。それは後述するようなグループ誕生にもかかわる秘密の史実なのだが、年内はそれを知っているだけに、表向きは一出版社の代表に過ぎないが特殊な存在感を持っていた。/ 戦後ほどなく日本経営者団体連盟(日経連)の専務理事となった信隆にとって、長く弟分的な存在だったが、坪内はある時期から反鹿内の急先鋒となっている。/ 坪内は宏明のことを直接にはほとんど知らない。ただ、故人とはいえ、あの隆に一矢報いる好機には違いなかった。/ 坪内と樋口は、日枝の依頼を快諾、二人が財界工作の一翼を担うことになった。
ニッポン放送がフジテレビの五一%の株を握る親会社という意味で、ニッポン放送社長はフジテレビのそれより格上に映る。だが、それは両社長の上に誰もいない場合の話だ。二人の上位には、鹿内宏明という商法上、代表権を持った共通の会長が鎮座している。しかも、ニッポン放送の株は当時、主に百五十八社の法人株主で分け合っており、支配的株主がいない。その中で宏明は、一三・一%と群を抜く筆頭株主でもある。/ したがって鹿内宏明の下にいる二人は、仕組みの上では同格だが、片や売上げ、利益、社会的影響力といった物差しではフジテレビ社長がニッポン放送社長をはるかに凌駕している。ニッポン放送はラジオ専門局としては世界最大の四百億円の売上げを誇っていたが、フジテレビの三千億円と比べるとはるかに見劣りがする。しかも、ニッポン放送の売上げの半分は事業収入で占められ、グループとりわけフジテレビの協力が不可である。
こうした軋轢が生じることを宏明は知らなかったわけではない。だが宏明には、日枝を社長から外すという考えはなかった。アイデアマン、プロデューサーとしての川内の能力は高く買ってはいたが、経営者としては日枝のほうをより買っていたのである。/ とはいえ、日枝のグループ内での力が年々強まっていることには一抹の危惧を覚え、バランスを取る意味で、川内をグループ本社専務に就けたというのが実情だった。
望みがないでもなかった。フジサンケイグループの親会社的存在であるニッポン放送は、戦後、財界が人とカネを出し合って作ったという歴史がある。そのため、日本の名だたる一流会社二百五社(設立時)と財界人が株主として名を連ねた。
「静観する」と言った金丸は、竹下と違って宏明とはつきあいらしきものもない。ただし、一年半ほど前、金丸が宏明に直接電話をかけてきたことがあった。用件はカリフォルニアの名門ゴルフ場、リビエラ・カントリークラブの会員権を二口ほど買ってくれないかというのである。/ このゴルフ場は八九年、金丸のファミリー企業である丸金コーポレーションがバブルを背景におよそ一億ドルで買収したものだ。なお、金丸が逮捕された直後、アメリカの捜査当局がこの買収資金についてマネーロンダリングの容疑で捜査をはじめたと『ロサンゼルスタイムズ』が報じている。
宏明は無念の思いをかみしめながら、辞表を書いた。それを受け取りながら日枝は、はじめて敗者への哀れみの視線を投げ、引導を渡した。/ 「私は議長が四年前に来たときに、こう申し上げました。「マスコミで働く人間は一人ひとりが志を持っています。しかも彼らの心は非常にナイーブです。それを頭の中に入れておいてほしいのです。そうでないと彼らの心は議長から離れていきます」。議長はこのことばを覚えていますか」日枝らしい物言いだった。人心が宏明から離れたから、自分はやむなく動いたのだと言外に匂わせている。/ だが、本当にそうだったろうか。事実は、宏明がグループ入りした時点で、この日を目指して動き始めたと言っていいだろう。後先の順序で言えば、宏明の個人的資質の是非は、後から付けられた「理屈」に過ぎない。
第三章 抗争:日枝久の勝利
MoMAとは、ロックフェラー家が世界に誇る「ニューヨーク近代美術館」のことである。かって国外に持ち出されたことがない門外不出の所蔵品、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンといった名品の数々を、上野の森美術館で大々的に展示することが決まっていた。/ 「飛行機が墜落でもしたら取り返しがつかない」と真顔で心配し出展を渋るMoMA側を説得し、ロックフェラーの了解を取り付けたのは宏明である。海外初のMoMA展は、ロックフェラー家とグループの結びつきをこれまで以上に強固にする重要な事業であった。/ 美術品の至宝の数々は、ロックフェラー家にとって一族の繁栄と足跡を象徴する重い意味を持つ。それを借り受けることは、ロックフェラーから無条件に等しい頼を勝ち得たことを意味し、その名声は世界中に広まるのである。ひとえに隆の遺産の賜物と言ってよかった。
第四章 梟雄:鹿内信隆のメディア支配[前]
治安対策で企業が最も欲しがったのは、組織内部に棲息する共産党の秘密党員やシンパの情報だ。/ 昭和二十年代後半に日経連で隆の部下だった人物によれば、日経連弘報部が会員企業に対して提供する各種情報、媒体には機関紙といった公刊されるもののほかに、「特殊情報」があったという。/ 「定期的に全国の治安、公安情報を二~三センチの厚さの冊子にまとめ、高額の会費を取って三百社に配っていた。隆の下で実務をやり、配布にあたっていたのが弘報部長になった松本龍二さんだった。情報源は主にアメリカ大使館筋で、二十七、八年まではアメリカのほうが日本の治安情報を把握していた」/ 日経連は情報機関からそうした情報を受け取り、とりまとめて企業に伝達する役割だったという。
「反共を唱えて矢面に立ちたくはないが、カネなら出してもいいという経営者は多かった」/ 経営者は保険をかけるつもりで、カネを出し続けた。反共はカネになる──信隆はこの頃に確信めいたものを抱いたのではないだろうか。/ これは戦後、なぜ後発で日経連が誕生し、冷戦下で長期に存在し得たか、そしてまた今日終焉したかということとも通じるはずだ。共産党組織が企業内に根を張る限り、日経連は自身の役割を訴え存在意義を見出すことができたのである。
ラジオ東京は、朝日、毎日、読売の新聞資本と電通が共同で設立、規模からして民放の本流と言っていい。もともと新聞社は放送事業に消極的だったが、それを動かしたのが「広告の鬼」と呼ばれた電通社長の吉田秀雄である。吉田は全国紙ばかりではなく地方紙の経営者に対しても放送の将来性を説き、地方ラジオ局の開設にあたり、最初のネットワークが形成されていく。この働きによって、吉田は日本の民放を育てた第一の功労者とされ、電通は世界最大の広告会社へ発展する足場を築くことになった。
この昭和三十六年(一九六一年)には、日枝久など二十数名の大卒第一期生が入社した。/ 日枝の回想。/ 「四年になった三十五年春、僕は大学(早大教育学部)でもずっとボーイスカウトをやっていたから教師になるか、マスコミ、それもテレビ局に入りたいと就職課に希望を出していた。夏に『就職とは関係ないがフジテレビで実習生の募集がある。どうか』と声をかけられ「行きます」と。報道で実習したが、開局から一年で人数が少なかったから、いまから思えば体のいいアルバイトをやらされた。結局、大勢いた実習生から入社できたのは二人だけだった」
国有地が新聞事業の「公益性」に鑑みて払い下げられたという建前である以上、少なくとも新聞社が所有するのが筋である。だが、前田の後に産経を手中にした水野は新聞社から関連会社のサンケイビル(当時は産経会館ビル)へ土地を譲渡した。水野にとっては、新聞もビルも自身が社長で同じことだという理屈なのだが、第三者から見ればただでさえ格安で手に入れた土地を新聞事業外で使用する道を開いたと映る。/ 払い下げられた土地にはたしかに新聞社用の社屋を建てたのだが、実際にはその多くを新聞用途以外で店子に賃貸することで莫大な収益を生み出した。こうした“目的外使用”のほかにも、産経のトップにはいささか眉を顰めるような行状が多かった。前田、水野時代を通じて、二人とも内縁関係者が雑貨店や蕎麦屋を本社ビル内に堂々と店開きしていた。/ 日本における新聞業は格安で入手した国有財産を土台とし、産経では初期からその私物化が始まっていたのである。/ 今日のサンケイビルという東証一部上場企業は、もとをただせば払い下げで手に入れた国有地を主要な資産に成立した不動産賃貸業であり、超一等地の元国有地にそびえる利権ビジネスの結晶と表現してもいい。/ こうした無節操なビジネスが可能だったのは、ひとえに頭に新聞社の名が付いたからにほかならない。先進国で、新聞事業に国有地を格安で払い下げるようなことをしているのは日本だけである。
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