Dribs and Drabs

ランダムな読書歴に成り果てた

最近の読書を通じて思ったこと|主に「反権力の権力化」ついて

イントロダクション

「25歳のとき左翼にならない人には心がない。35歳になってもまだ左翼のままの人には頭がない。」とウィンストン・チャーチルが言った,というのは間違いらしく,実際にチャーチルが言ったのは「20歳までに自由主義者でなければ情熱が足りない。40歳でも保守主義者でなければ知能が足りない。」ということらしいんですね。フランスの首相、政治家ジョージ・クレマンソーは, 「20歳で社会主義者でなければ、情熱が足りない。30歳でもそうならば、頭が足りない。: “Not to be a socialist at twenty is proof of want of heart; to be one at thirty is proof of want of head.” 」と言ったらしいですが。

http://blogos.com/article/20699/

いずれにしろ,若い人が左の思想・反権力的なものに憧れるのは,全体的な傾向としてはそうだと思うけれど,ただまぁ最近の日本における左側は憧れるに足るほどの知的カッコよさ・理論的支柱がまるでない,なにかといえば「反◯◯」を言うだけで,世界をこうしたい・こうあるべきだというビジョンがない,それってファッションにすらなりえないよね,というのが,私を含めてきっと多くの人が思っていることだと思います。

ビジネスとしての反権力
朝日新聞がなくなる日 - “反権力ごっこ

朝日新聞がなくなる日 - “反権力ごっこ"とフェイクニュース -

 

「この本は朝日新聞への口汚い応援歌である」と,「おわりに」の中で述べられているこの本は,朝日新聞への批判であると同時に,いまの日本に蔓延する朝日新聞的・「リベラル」的な言動への批判です。要するに,かつて朝日新聞は「きれいごと」とはいえ,その理想像を堅牢なロジックで主張してきた,しかしその背景にある理想主義的な国連中心主義が瓦解し,まして朝日新聞自身も慰安婦問題や吉田調書の問題で信頼性を失っていくなか,いま朝日新聞が行なっているのは「ビジネスとしての反権力」であり,自らが「権力」と見なすものの揚げ足取りに終止している,そしてそれは「反権力」という姿勢をとりながら自らが「権力化」しているゆえに誤謬がある,もちろん私企業がなにをするかは自由であるが,新聞社の場合は再販制度などいくつかの公的優遇措置がとられているゆえ,クオリティペーパーたる質を取り戻すべきだし,読売新聞が行なっているような政策提言を(その中身がなにであれ)行なうべきだ,朝日新聞にはそれを行なえるだけのリソースがある,といったものです。朝日がしっかりしないと読売もおかしくなる,そこには健全な言論空間は生まれない,それはまるで,野党が落ちぶれたゆえに与党のタガが外れつつあるのと相似形だ,といったことも言われています。

興味深かったのは,「ではのかみ」のくだり。

宇佐美(典也) 役所では「ではのかみ」といいますが,「アメリカでは」「欧州では」といって,外国の例を紹介するだけでは駄目なんですね。そうした例を参考にしつつ,先進国として,どういうふうに世界をリードする制度を作るかということを考えなければならない。(p.160)

このあとで,「今の時代,新聞は批判だけしていればいいのではなく,中身を作って提案することまで踏み込むべきなんですよ。」と続くのですが,個人的にはこのくだりで,自分の仕事のこと,あるいは日本における保険規制のことなどを想起しました。

メディアが祭り上げた小池百合子

さて,この本の中で,「権力側の人間でありながら,なぜか反権力の象徴としてメディアに祭り上げられている」と称されているのが,小池百合子です。小池百合子については,希望の党結党のプロセス,あるいはそれ以降の言動の中で,いろいろとボロが明るみに出てきていると思いますが,そもそも都知事としての小池百合子のメチャクチャぶりを明らかにしたのが,この本だと思います。

「小池劇場」が日本を滅ぼす

「小池劇場」が日本を滅ぼす

 

著者の有本香はいい仕事をしたと思います。都知事としての小池百合子が,築地市場の問題をその最たる象徴として,いかにいい加減かというのがよく分かりました。東京都民は都知事選挙を繰り返すたびに,「こんなんだったら前の方がまだ良かった」と思いつづけなければならないのでしょうか。「すべては猪瀬直樹が5000万円をバッグに詰められなかったのが悪かった」というツイートを見かけましたが,本当にそうなのかも。そして,石原慎太郎は(いろいろとアレな人ではあると思いますが)知事としては優秀だったのだなぁと,この本を読んで思いました。そういう意味では,僕自身もメディアの報道にかなり影響されているのかもしれません。

過去を振り返ると
外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

 

 そんな小池百合子が引っかき回している衆議院議員総選挙が真っ只中ですが,結果的には自民党公明党が合わせて300議席に迫る勢いとの報道が出ています。なんとなくそれに安堵させられているのですが,この本の中で著者は,1979年の総選挙に関して「自民党は十月初めの選挙で『安定多数』をとれなくてよかった。」と述べています。「もし『安定多数』をとれていたなら,日本は不適切な内政基盤をもって,1980年台の困難な国際情勢に立ち向かわなくてはならなかっただろう。」「なぜなら,1980年代の世界はまことに困難で,たとえ形式的には自民党が単独で議会を切り回すことができても,それでは対処できないようなものとなるだろうからである。」ということらしく,なんというか隔絶の感を抱かざるを得ず,その裏に「健全に機能している野党」も想起されるのでした。(実際のところはどうだったか知りませんが,中選挙区制/派閥政治によるさまざまな弊害が表立っていたのかしらとう想像)

参考:永遠の価値を持つ時評とは|細谷雄一の研究室から

http://blog.livedoor.jp/hosoyayuichi/archives/1943901.html

憲法学,「反権力の権力化」として
ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)

ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)

 

「反権力の権力化」という点では,ここで書かれている「戦後日本憲法学」というのもその例かも。

日本の憲法学では「国民が権力を制限することが立憲主義だ」とされ、「抵抗」を英雄視する物語が延々と語られている。あたかも憲法9条が国際法をも超越した存在であるかのようなロマン主義を流布しつつ、自衛隊日米安保を否定し、安全保障問題を語ってはいけない裏事情であるかのように扱ってきた。なぜこのような憲法学がまかり通るようになったのか。その歴史的経緯を解明し、日本が国際社会の一員として国際協調主義を採り、真に立憲主義国家になるための道筋を問い直す。

「国民が権力を制限することが立憲主義だ」というのは,僕もまさにそう理解していたのですが,それも歪められた(あるいは数ある観点の中のひとつでしかない)見方なのだということが分かりました。「そもそも日本国憲法は,戦争で敗北を喫した後に受けた占領統治の結果として生まれた憲法典だ。」という背景を軸に据えた著者の憲法解釈(特に第9条に関して),合衆国憲法との類似性に関する記述は自然なものに思えましたし,これまで解釈,あるいはそもそもの翻訳の段階で,さまざまなかたちでの「政治」があったということも分かりました。この本の中で批判されている憲法学者たちの啓蒙主義的で独善的なスタンス(平たく言えば「上から目線」)は,上述の朝日新聞的なものと通じるなと感じました。