0歳児がことばを獲得するとき―行動学からのアプローチ (中公新書)
- 作者: 正高信男
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1993/06/01
- メディア: 新書
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子供を育てる親として,もうすぐ新たに子供を向かい入れる者として,あるいは純粋に言語の獲得に興味を持つものとして,非常に興味深い書物でありました。この本の中では「余談」の位置づけであるが,「モチを喉につまらせて死ぬ」メカニズムが説明されている箇所が,とてもおもしろかったです。
そんな本なのですが,「あとがき」を読んで愕然としまして,長いですがその箇所を引用します。
世間では,子どもは欲しいが初めのころの子育ては大変だという女性の会話をよく耳にする。夫婦のあいだに子どもができた場合,負担の比重はなんといっても女性の方が圧倒的に大きくなってしまう。しかし手間のかかる赤ちゃんの世話を,もし無しで済ませられるならば,それに越したことはないと考える受け身の発想は,われわれおとなに,まったく別の認識世界への目を見開かせてくれる絶好の機会の目をつんでしまう態度であると感ずるようになってきた。社会に出て働く女性にとって,子どもをもつことは,とてつもないハンディキャップに違いない。身体を疲労させ,時間を拘束する。けれども子育てには,さまざまなコストを埋め合わせてなお余りある,われわれの人間としての眼を成長させてくれる潜在的可能性が付与されているように思う。それを巧妙に取り込んだとき,女性は社会のなかで単に「男性並み」になるのではなく,自らの性の特性を活かして活躍できるのではないだろうか。赤ちゃんに対して深い好奇心を持って子育てに臨むことが大切なのではと,最近感じている。
この箇所,「子育ては女性がするもの」っていう考えが疑いもなく前提されているように読めるのですが,気のせいでしょうか? 「女性のみなさん,子育ては大変だろうけど,深い好奇心を持って望めば面白いし社会の中で活躍(なんじゃそら)できるから,頑張って」としか読めないんですが。確かに授乳は女性にしかできないけれど,それ以外はすべて男性でもできるでしょ。であれば「負担の比重」が「女性の方が圧倒的に大きくなってしまう」原因ってなんなのさ。女性が社会の中で「男性並に」活躍するとかなんとかいうなら,男性が家庭の中で「女性並みに」活躍するという視点だって少なくとも持つべきではないのか。「自らの性の特性」ってなんなのさ。それをいうなら育児なんて圧倒的に体力勝負なんだから,男性だって「自らの性の特性」を活かして家の中で活躍すればいいじゃないか。
いくら1993年の書物とはいえ,この感覚ははひどいなぁと……。非常に後味の悪い読後感になってしまいました。