2016年にトランプが勝ってヒラリーが負けたとき、「アメリカ人ってバカなのか?」って思ったのを覚えてるんだけど、アメリカ人(のすべて)がバカなわけではなく、単に自分がアメリカの内実を知らなかっただけだったという。
区の図書館と国会図書館とでつけているNDCが違うように、この本は個人の回顧録であると同時に/それゆえにアメリカの白人労働者階級の困難な現状をリアルに描写している。またトランプが大統領選挙に勝ちそうな今再注目されていると思うけど、これ読むと確かにトランプはいまのアメリカを表象するのにある意味でもっともふさわしい人物なんだってことが分かるわ。
はじめに
私は何か特別なことを成し遂げたから本書を書いたわけではない。むしろ、私と同じような境遇に育った多くの人たちには実現できない、ごくふつうの生活を送っているから本書を記したのである。
本書は、私の人生の偽りのない物語である。自分自身に見切りをつけようとしたときに、どう感じるのか、なぜそうせざるをえないのかを、多くの人に知ってほしい。本書を通して、貧しい人たちの生活がどのようなものなのか、精神的・物質的貧困が子どもたちの心理にどれだけ影響を及ぼすのかを伝えたい。
私は白人にはちがいないが、自分がアメリカ北東部のいわゆる「WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)」に属する人間だと思ったことはない。そのかわりに、「スコッツ=アイリッシュ」の家系に属し、大学を卒業せずに労働者階層の一員として働く白人アメリカ人のひとりだと見なしている。/そうした人たちにとって、貧困は、代々伝わる伝統といえる。先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。/アメリカ社会では、彼らは「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首すじが赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている。/だが私にとって、彼らは隣人であり、友人であり、家族である。
民族意識(エスニシティ)がコインの片面だとすると、もう片面は地理的環境だ。/18世紀に移民として新世界にやってきたスコッツ=アイリッシュ(アイルランド島北東部のアルスター地方からアメリカに移住してきた人々のこと。アルスター地方にはスコットランドから移住してきたプロテスタントが多く住んでいた)は、アパラチア山脈に強く心を惹かれた。アパラチアは、南はアラバマ州やジョージア州から、北はオハイオ州やニューヨーク州の一部にかけての広大な地域だが、グレーター・アパラチア(大アパラチア)の文化は、驚くほど渾然一体としている。/ケンタッキー州東部の丘陵地帯出身の私の家族は、みずからを「ヒルビリー」と呼んでいる。カントリー歌手のハンク・ウィリアムズ・ジュニア(ルイジアナ州生まれ、アラバマ州在住)も、田舎の白人を賛美する「ア・カントリー・ボーイ・キャン・サバイブ」という曲で、自分はヒルビリーだと歌っている。
グレーター・アパラチアが民主党の地盤から共和党の地盤へと変わったことが、ニクソン以降のアメリカ政治の方向を決めることになった。そして、白人労働者階層の将来がどこよりも見えにくいのもまた、グレーター・アパラチアなのである。社会階層間を移動する人が少ないことに加え、はびこる貧困や離婚や薬物依存症など、私の故郷はまさに苦難のただなかにある。
本書で焦点をあてるのは、私がよく知っている人たち、すなわちアパラチアに縁のある白人労働者階層である。しかし私は、そうした人たちのほうが同情に値すると主張したいわけではない。本書は、黒人よりも白人のほうが強い不満を抱いている理由を論じるものではない。読者の皆さんには、本書を通じて、人種というレンズを通したゆがんだ見方をするのではなく、「貧しい人たちにとって、社会階層や家族がどのような影響を与えるのか」を理解してほしい。
第1章 アパラチア――貧困という故郷:崇拝すべき男たち、避けられる不都合な事実
ジャクソンは、私と姉と祖母のために存在するような場所のひとつだった。オハイオも大好きだったが、そちらはつらい記憶だらけだ。ジャクソンにいるときの私は、町の誰もが知っているたくましい女性の孫であり、また、町で最も腕のいい自動車修理の達人である祖父の孫だった。一方、オハイオにいるときの私は、どんな人かも知らない父親に捨てられ、どんな人なのかできれば知りたくなかった母親のもとに生まれた子どもだった。
ジャクソンにはびこる薬物依存は、祖父母の長女(私の母)を生涯にわたって苦しめている。 マウンテンデュー・マウスは、とりわけジャクソンに蔓延しているが、祖父母もかつては、ミドルタウンでマウンテンデュー・マウスと闘っていた。祖母は、私が生後9か月のとき、母が哺乳瓶にペプシを入れるのを目にしたという。また、ジャクソンにはまともな父親が足りていない。だがそれは、祖父母の孫(つまり私)にとっても同じだった。
第2章 中流に移住したヒルビリーたち:1950年代、工場とそして豊かさを求めて
祖母はよく、ケンタッキーから自分の子どもを連れ出すことはできても、子どもからケンタッキーを追い出すことはできないと語っていた。/祖父(ジム)が実際に何を考えていたのか、私には想像もできない。祖母は、「議論するぐらいなら撃ち殺したほうが手っ取り早い」と考える一族の出身だったのだ。
私はよくこう考える。もし祖母があのとき妊娠していなかったら、はたして彼女はジャクソンから出ていただろうか。ジム・ヴァンスとともに見知らぬ土地に逃げていっただろうか。祖母の人生と、私たちの家族の将来は、たった6日しか生きられなかった赤ん坊のために変わったのかもしれない。
いまでも、感謝祭やクリスマスの翌日に、ケンタッキー州やテネシー州のハイウェイを車で走っていると、周囲の車のナンバープレートがほとんど、オハイオ、インディアナ、ミシガン州のものだと気づくだろう。どの車も、休暇を故郷で過ごしたヒルビリーの移住者たちを運んでいる。
『アパラチアン・オデッセイ(Appalachian Oayssey)』(未邦訳)という本には、アパラチアの人たちがミシガン州の都市デトロイトにこぞって押し寄せたようすが記されている。/街には“場ちがい”な田舎者であるアパラチアからの移住者は、中西部の都会で暮らす自人にとって目降りだっただけではない。移住者は、北部の白人たちが白人らしいと考えている外見や話し方、行動様式、さらに白人はこうあるべきだという考え方をも混乱させた。表面上、移住者は、人種的には、地域社会においてもアメリカ社会においても、経済的、政治的、社会的な力で他に勝っている白人というカテゴリーに属している。ところがヒルビリーは、デトロイトにやってきた南部出身の黒人と共通の特徴を多く有していた」
祖父が民主党を支持していたのは、民主党が労働者を守ってくれたからだ。この祖父の方針は、祖母にも引き継がれた。つまり、政治家はすべてペテン師だが、例外があるとすれば、フランクリン・デラノ・ルーズベルトのニューディール連合のメンバーだけだったのである。
第3章 追いかけてくる貧困、壊れはじめた家族:暴力、アルコール、薬物……場違いな白人たち
ある日、祖父は、いつにもまして酔っ払って帰ってくると、家のなかでひと暴れした。祖母は、「こんど酔っ払って帰ってきたらぶっ殺してやる」と言い放った。1週間後、祖父はまたしても酔って帰宅し、ソファの上で眠りこけた。すると祖母(けっして嘘はつかない人だった)は、ガレージからガソリンの入った缶を持ってきて、夫の頭の上にガソリンを振りかけた。そして、マッチに火をつけて夫の胸のあたりに落としたのだ。だが、火の手が上がると、11歳の娘がすぐさま駆け寄って、なんとか火を消した。祖父は奇跡的に軽いやけどですんだという。
第4章 スラム化する郊外:現実を見ない住民たち
私は1984年の夏の終わりに生まれた。その数か月後、祖父は共和党候補への最初で最後の一票を投じた。ロナルド・レーガンだ。/レーガンは、祖父のようなラストベルトの民主党支持者の大部分を取りこんで、アメリカ史上最大の地滑り的勝利をおさめた。「レーガンがそんなに好きだったわけじゃない。モンデールの野郎が大嫌いだったんだ」と、祖父は語った。レーガンの対抗馬だったこの民主党候補は、北部出身の高学歴なリベラルで、ヒルビリーの祖父とは文化的に対極にいた。そんなモンデールに祖父が票を投じるわけがない。
ジミー・カーターの地域社会再投資法から、ジョージ・W・ブッシュのオーナーシップ社会まで、連邦政府の住宅政策は、家を持つことを国民に積極的に勧めてきた。しかし、ミドルタウンのようなところでは、持ち家にはきわめて大きな社会的コストがともなう。ある地域で働き口がなくなると、家の資産価値が下がってその地域に閉じこめられてしまうのだ。引っ越したくても引っ越せない。というのも、家の価格が底割れし、買い手がつく金額が、借金額を大幅に下回ることになるからだ。引っ越しにかかるコストも膨大で、多くの人は身動きがとれない。もちろん、閉じこめられるのは、たいていが最貧層の人たちで、移動できるだけの経済的余裕のある人は去っていく。
ミドルタウンに住む子どもたちの親や祖父母の多くが、同じように感じていたにちがいない。親たちにとって、アメリカンドリームとは前に進むことだ。肉体労働は立派な仕事だが、それは親たちの世代の仕事で、私たちは何か別のことをしなくてはならない。前進するとは、社会的に上昇することだ。そのためには大学に行く必要がある。
第5章 家族の中の、果てのない静い:下がる成績、不健康な子どもたち
うちの家族は完璧というわけではなかったが、周りの家族も似たようなものだった。たしかに両親は激しいけんかをしたが、ほかの家でも同じだった。また私にとって、祖父母が果たす役割は両親と同じぐらい大きかったが、これもヒルビリーの家庭では普通のことだ。少人数の核家族で落ち着いた生活を送るなどということはない。おじ、おば、祖父母、いとこらと一緒に、大きな集団となって混沌とした状態で暮らすのだ。これが私に与えられた、少年時代のそこそこ幸せな生活だった。
第6章 次々と変わる父親たち:――そして、実の父親との再会
実際、リンジーは、祖父が言うところの「うちで唯一の本当の大人」で、祖母以上に私を守ってくれた。必要なときには夕食をつくってくれたり、洗濯をしてくれたりした。あのパトカーの後部座席から助けだしてくれたのも、リンジーだ。私は完全に頼り切っていたので、ありのままのリンジーを見ていなかったのだろう。まだ車を運転できる年齢にすら達していない少女であるにもかかわらず、自分自身と小さな弟の面倒を、同時に見なくてはならない。それがりンジーだった。
確実にわかっていたのは、マイナス面があるにせよ、私は新しい教会と、それを紹介してくれた父を愛していたということだ。タイミングも完璧だった。これから後の数か月間に起きる出来事を乗り越えるために、私には天上の父と地上の父が切実に必要になったのだから。
第7章 支えてくれた祖父の死:悪化する母の薬物依存、失われた逃げ場
いまでも私は、「利用できる」人がいるというのは、つまり親がいるのと同じことだと思っている。私とリンジーは、人に負担をかけてはいけないと刷り込まれていた。そういう意識は、食生活のことにまで及んでいた。実際には私たちはさまざまな人に頼って生きていたが、その多くは本来、私たちに対してその役割をはたすべきではない人たちだった。そのことを私たちは本能的に感じていた。
あまりにも強く意識していたから、リンジーが祖父の死を知ったときにまず考えたのも、そのことだったのだ。私たちは、人に頼ってはいけないと感じる環境で育ち、子どものときですら、誰かに食事をねだったり、壊れたバイクを修理するのを手伝ってもらったりするのは、ぜいたくなことだと思い込んでいた。生活の安全弁になっている善意の蓄えを使い切ってしまわないために、人にはあまりお願いしすぎないようにしなければいけないと感じていたのだ。
私が、母やリンジーや祖母に向かって怒りを爆発させたときには、祖父はめずらしく厳しい一面を見せたが、それは祖父いわく、「男の価値は家族の女性をどう扱うかで決まる」からだ。この智恵は経験に根ざしたものだった。祖父自身がかって、家族の女性に感じよく接することができなかったからだ。
第8章 狼に育てられる子どもたち:生徒をむしばむ家庭生活
それまでにも、けんか、暴力、ドラッグなど、私の周りにはごたごたが山ほどあった。けれども、逃げ場がないと感じたことは一度もなかった。これからどうするのかとセラピストに尋ねられたので、たぶん父のところで暮らすことになると答えた。すると、いい考えだと言われた。オフィスから出るときにはセラピストに、時間をとってくれてありがとうございましたと挨拶したが、二度と彼女に会うことはないと思った。
母と恋人のマットとの暮らしは、この世の終わりを最前列の席で見ているようなものだった。ふたりのけんかは、私や母の基準ではたいしたレベルではなかった。かわいそうなマットは、いったい自分はいつどうやって、こんなクレイジー・タウンに来るための特急列車に飛び乗ってしまったのか、と自問自答し続けていたにちがいない。私たち3人だけでうまくいくわけがないのは誰の目にもあきらかだった。時間の問題だった。マットはナイスガイだったが、リンジーとよく冗談で言っていたように、うちの家族と出会って生き残ったナイスガイはいない。
しかし私は、貧しい子どもがなぜ学校で苦労するのかについて議論するのに、公的機関のことばかりがやり玉に挙げられていることが引っかかった。母校の高校教師が最近、こんなことを言っていた。「私たちに、その子たちの羊飼いになれと言うんです。でも狼に育てられている子がたくさんいることは、誰も話したがりません」
私は生まれて初めて、姉のリンジーとのあいだに距離を感じるようになった。リンジーは結婚して1年以上がたち、赤ん坊もいた。リンジーの結婚には、どこかヒロイックなところがあった。惨状をさんざん目にした後に、彼女にとてもよくしてくれ、まっとうな職についている人と一緒になったのだ。心から幸せそうだった。よき母で、小さい息子を心から愛していた。祖母の家からそう遠くないところに小さな家を構えて、なんとかうまくやっているようだった。/そんな姉を見てうれしかったが、私の孤立感はさらに深まった。リンジーとは、生まれてからずっとひとつ屋根の下に暮らしてきたのに、いまリンジーは、ミドルタウンにいて、私はそこから30キロ以上離れたところに、ケンと住んでいる。
第9章 私を変えた祖母との3年間:安定した日々、与えてくれた希望
誰にも邪魔されることなく、祖母とふたりきりで過ごしたこの3年間が、私を救ってくれた。 当時は、それが変化のきっかけだったとは気づいていなかったのだが、祖母と暮らすことで、私の人生は完全に方向転換したのだ。祖母の家に引っ越した直後から成績が上がり出したことにすら、気づいていなかった。まして、そのとき自分が、生の友人をつくりつつあることなど知るよしもなかった。
一緒に暮らしながら、祖母と私はよく、コミュニティが抱える問題について話すようになった。祖母は私に、アルバイトをしたらどうだと言ってきた。自分のためになるし、1ドルの価値を学ぶ必要もあるというのだ。耳を貸さない私に、今度は強く命令してきた。私はしかたなく、ディルマンという近所のスーパーでレジのバイトを始めた。
2週間に一度、私はわずかな給料を小切手で受け取るのだが、かならず連邦政府と州の所得税が引かれている。そして同じぐらいの頻度で、近所の薬物依存者がTボーン・ステーキを買っていく。私は自分では金がなくてステーキなど買えないのに、合国政府に税金を徴収され、私が払ったその税金で、他人がステーキを買っているのだ。/これが17歳のときの私の考えだった。大人になったいまは、高校生のときと比べると怒りは収まってはいるものの、祖母が「労働者の政党」と呼んでいる民主党の政策が、さほどめられたものでもないと、このころから思うようになった。
実際、私がディルマンで働いているときに目にしたものを、まさに白人労働者階層の多くもその目で見てきた、というところに原因があるのだろう。1970年代にはすでに、白人労働者階層はリチャード・ニクソンに拠りどころを求めていたが、その背景にあったのは、こんな考え方だった。「政府は生活保護をもらって何もしていない連中に金を払ってる。やつらは、おれたちの社会をバカにしてる。働き者はみんな、あいつら毎日働いてるぜって笑いものにされてるんだ」
ここに住む人たちは、絶望的な悲しみを抱えて生きている。それはいろいろなところに見てとれた。ここには、つくり笑いはしても、けっして心から笑うことはない母親がたくさんいる。「クソみたいにぶったたいてくる」母親のことをそう話す10代の女の子もいる。その子がこんなふうに、冗談めかした口調で母親の話をするその裏で、いったい何を隠そうとしていたのか、私にはわかる。かつて自分も同じだったからだ。「笑って耐える」という言い回しがある。祖母以上に、この言葉をかみしめていた人はいないだろう。
私は、社会政策やワーキングプアに関する本を片っ端から読みあさったが、とりわけ心をとらえられた一冊がある。著名な社会学者、ウィリアム・ジュリアス・ウィルソンの『アメリカのアンダークラス――本当に不利な立場に置かれた人々』(邦訳:明石書店、1999)だ。初めて読んだのは16歳のときで、内容を完全に理解したとはいえないが、核となる主張はよくわかった。/何百万もの人が、工場での仕事を求めて北へ移住するにつれて、工場の周辺地域にコミュニティができたのだが、コミュニティは活気がありながらも、きわめて脆弱だった。工場が閉鎖されると、人々はそこに取り残される。だが、町はもはや、これだけの人口に質の高い仕事を提供することはできなかった。
どんな本も、どんな専門家も、どんな専門分野も、それだけでは現代アメリカのヒルビリーが抱える問題を、完全には説明できないということだ。私たちの哀歌(エレジー)は、社会学的なものである。それはまちがいない。ただし同時に、心理学やコミュニティや文化や信仰の問題でもあるのだ。
なぜ私がドラッグに興味を失ったのか、なぜSAT(大学進学適性試験)で高得点をとれたのか、なぜ勉強が大好きになるよう刺激を与えてくれるふたりの先生と出会ったのか。/きっと社会学者と心理学者が机を挟んで議論すれば、説明できるのだろう。/だが、何にもまして私が覚えているのは、私は祖母の家で「幸せだった」ということだ。もう、帰宅の合図となる授業終了ベルが鳴るのを怖がる必要はなかった。翌月にはどこに住んでいるのかわからないなどということもなくなった。誰かの色恋沙汰に振り回されることももうない。/そんなふうに幸せだったからこそ、その後、現在にいたるまでの12年のあいだに、私はさまざまなチャンスに恵まれたのだ。
第10章 海兵隊での日々:学習性無力感からの脱出
高校生活最後の年、大学のゴルフチームの入部テストに挑戦した。私はそれまでおよそ1年間、年配のプロゴルファーからレッスンを受けていた。高校4年(12年生)になる前の夏には、地元のゴルフコースでのアルバイトを見つけていたので、無料で練習もできた。祖母はスポーツにはまったく興味がなかったが、私がゴルフを習うことは応援してくれた。というのも、「金持ちはそこでビジネスをする」からだ。
私は初めて、自分の家からも家族からも離れたことで、自分自身と自分の文化について多くを学ぶことができた。軍隊は、ほかではどうしようもない低所得層の子どもたちが行きつく場だと一般には思われているが、実際はそんなことはない。私のブート・キャンプ小隊にいた69人のなかには、黒人も白人もヒスパニックもいた。ニューヨーク州北部の金持ちもいれば、ウェストバージニアの貧しい子もいた。カトリック、ユダヤ人、プロテスタントに加えて、無神論者も何人か見られた。
心理学者が「学習性無力感」と呼ぶ現象がある。自分の選択が人生になんの影響も及ぼさないと思い込んでいる状態のことで、若いころの私もそういう心理状態にあった。将来に対して期待を持てないミドルタウンの世界から、いつも混沌としていた家のなかまで、それまでの人生では、「自分ではどうしようもない」という感覚を深く植えつけられてきたのだ。/だが、祖母と祖父が、そういう感覚に完全に屈してしまわないよう私を救ってくれ、さらに海兵隊が、新しい境地を開いてくれた。故郷で学んだのが無力感だとすると、海兵隊が教えてくれたのは強い意志を持って行動することだ。
昔は考えもしなかった疑問を抱くようになった。砂糖が入っているのか。この肉には飽和脂肪がたくさん含まれているのではないか。塩はどれだけ入っているのか。たんに食べもののこととはいえ、以前と同じような目でミドルタウンを見ることはもうできないとわかった。たった数か月で、私は海兵隊にものの見方をすっかり変えられてしまったのだ。
私は、突然神が降りてきて、すべてががらりと変わるなんてことがあるとは信じない。自分がいきなり変化する瞬間のようなものがあるとも思わない。変化は一瞬で成し遂げられるものではないからだ。変わりたいという真摯な気持ちがありながらも、実際に変わることの難しさに直面して、気持ちを挫かれた人を、これまで数えきれないほど見てきた。/しかし、私がその瞬間、その男の子に接した瞬間に感じたことは、自分が変わるという経験にかなり近いものだった。私はそれまでずっと、世の中に対して恨みを抱いていた。母と父に対しても腹を立てていた。ほかの子たちが友だちと一緒に車で学校へ送ってもらっているのを尻目に、バスで通学していたことにも憤りを感じていた。/アバクロンビーの服を着られないことにもむかつき、祖父が死んだことにも怒っていた。小さな家に暮らしていることも恨めしかった。それまでの恨みつらみが一瞬にして消えてなくなったわけではないが、戦争に引き裂かれた国に暮らす子どもたちや、水が出ない学校や、あんなにささいなプレゼントに大喜びする男の子をそこで目にしたことで、自分がどれだけ幸運なのかを実感できるようになった。
海兵隊で初めて仕事の命令をする経験をして、命令される側の態度を目にする機会もあった。そこでわかったのは、リーダーシップは、部下から尊敬されることによって初めて身につくもので、成張り散らすことで獲得できるものではないということだ。/どうすればその尊敬を得られるかも学んだ。階層や人種が異なる男女が、ともにチームとして仕事をし、家族のような絆を結ぶのも目にした。本当の意味で失敗する機会を与えてくれたのも海兵隊だった。挑戦させてくれて、失敗したら、再びチャンスを与えてくれた。
能力は関係ないと言いたいわけではない。もちろんあるにこしたことはない。ただ、自分を過小評価していたと気づくことと、努力不足と能力不足とを取りちがえていたと気づくこと。それにはとても大きな意味がある。/だから、白人労働者階層のどこを一番変えたいかと問われるたびに、私はこう答えてきた。「自分の選択なんて意味がないという思い込みを変えたいです」海兵隊は、外科医が腫瘍を切除するように、その思い込みを私から取り除いてくれた。
第11章 白人労働者がオバマを嫌う理由:オハイオ州立大学入学で見えてきたこと
コロンバスにあるオハイオ州立大学のメインキャンパスは、ミドルタウンから160キロほどのところにある。週末には家族に会いに行ける距離だ。数年ぶりに、私は気が向けば自由にミドルタウンに行けるようになった。
私は長いあいだ、将来に不安を抱えながら生きてきた。隣人や家族がそうであったように、自分も最後は、ドラッグやアルコールにおぼれたり、逮捕されたり、子どもがいるのにその面倒を見られない状態になったりするのではないか、と心配していた。ところがその不安がなくなったことで、驚くべき力が発揮できるようになった。子どものころ、ソーシャルワーカーのオフィスでパンフレットを読み、自分が生まれた町には成功者が少ないことを知った。低所得層向けの歯科医院に行ったときに、歯科衛生士から哀れみの目で見られたこともよく覚えている。私が成功するなんて、誰も思っていなかった。だが、私は自分の力でここまできたのだ。
権力者は、自分が助けようとしている人たち(たとえば私)の現状を知らないままに、ことを進めるのだ。
2008年の時点で、ブッシュを支持する人はほとんどおらず、ビル・クリントンはそれなりに愛されてはいたものの、彼をアメリカの道徳的衰退の象徴とみなす人のほうが多かった。ロナルド・レーガンはもうはるか昔の人だ。ミドルタウンでは軍隊の人気が高かったものの、現代の軍隊には、ジョージ・パットンのような人物はいない。住民たちはおそらく、軍幹部の名前をひとりも挙げることができなかっただろう。/長いあいだ私たちの誇りの源だった宇宙計画も時代遅れとなり、宇宙飛行士に対する尊敬の冬もすでに薄れていた。アメリカ社会の核心に、私たちミドルタウンの住民を結びつけるものは、何ひとつなかったのだ。
私の新しい友人の多くは、大統領に対するこうした見方を、人種的偏見であると非難する。しかしじつは、ミドルタウンの住民がオバマを受け入れない理由は、肌の色とはまったく関係がない。/私の高校時代の同級生には、アイビー・リーグの大学に進学した者がひとりもいないことを思い出してほしい。オバマはアイビー・リーグのふたつの大学を、優秀な成績で卒業した。聡明で、裕福で、口調はまるで法学の先生のようだ(実際にオバマは大学で合製国憲法を教えていた)。/私が大人になるまでに尊敬してきた人たちと、オバマのあいだには、共通点がまったくない。ニュートラルでなまりのない美しいアクセントは聞き慣れないもので、完璧すぎる学歴は、恐怖すら感じさせる。大都会のシカゴに住み、現代のアメリカにおける能力主義は、自分のためにあるという自僧をもとに、立身出世をはたしてきた。もちろんオバマの人生にも、私たちと同じような逆境は存在し、それをみずから乗り越えてきたのだろう。しかしそれは、私たちが彼を知るはるか前の話だ。
オバマ大統領が現れたのは、私が育った地域の住民の多くが、アメリカの能力主義は自分たちのためにあるのではないと思い始めたころだった。自分たちの生活がうまくいっていないことには誰もが気づいていた。死因が伏せられた十代の若者の死亡記事が、連日、新聞に掲載され(要するに薬物の過剰摂取が原因だった)、自分の娘は、無一文の怠け者と時間を無駄に過ごしている。バラク・オバマは、ミドルタウンの住民の心の奥底にある不安を刺激した。オバマはよい父親だが、私たちはちがう。オバマはスーツを着て仕事をするが、私たちが着るのはオーバーオールだ(それも、運よく仕事にありつけたとしての話だ)。オバマの妻は、子どもたちに与えてはいけない食べものについて、注意を呼びかける。彼女の主張はまちがっていない。正しいと知っているからなおのこと、私たちは彼女を嫌うのだ。
私はミドルタウンのバーで会った古い知り合いから、早起きするのがつらいから、最近仕事を辞めたと聞かされたことがある。その後、彼がフェイスブックに「オバマ・エコノミー」への不満と、自分の人生へのその影響について投稿したのを目にした。/オバマ・エコノミーが多くの人に影響を与えたことは否定しないが、彼がそのなかに含まれないことはあきらかだ。いまの状態は、彼自身の行動の結果である。生活を向上させたいのなら、よい選択をするしかない。だが、よい選択をするためには、自分自身に厳しい批判の目を向けざるをえない環境に身を置く必要がある。白人の労働者階層には、自分たちの問題を政府や社会のせいにする傾向が強く、しかもそれは日増しに強まっている。/現代の保守主義者(私もそのひとりだ)たちは、保守主義者のなかで最大の割合を占める層が抱える問題点に対処できていない、という現実がここにはある。
民間助成財団ピュー・チャリタブル・トラストが支援する「エコノミック・モビリティ・プロジェクト」で、アメリカ人は、自分たちの生活が向上する可能性をどのように評価しているかについて、調査が実施された。その結果は衝撃的なものだった。白人の労働者階層は、ほかのどんな集団よりも悲観的だったのである。
第12章 イェール大学ロースクールの変わり種:エリートの世界で感じた葛藤と、自分の気質
ちがっていたのは、金銭感覚や、私のほうがお金に困っているという点だけではない。ものの見方もまるでちがっていた。イエールに来て、私は生まれて初めて、ほかの人が私の人生に興味を持っていることに気づいた。私にとっては何のおもしろみもない出来事、たとえば、さえない公立高校に通っていたことや、両親が大学を卒業していないこと、オハイオ州出身であることに、教授やクラスメートは本気で興味を示した。地元の知り合いはみんな同じ境遇なのに、イェールでは誰ひとりとして、同じような境遇の人はいなかった。オハイオでは海兵隊での従軍経験もめずらしくなかったが、イェールでは戦争から帰還した元軍人と会ったことすらない学生がほとんどだった。要するに、私は変わり種だったのだ。
世間から隔絶された生活をしていると、通常のレベルの成功であっても、ふつうにしていたら達成が不可能なことだと思うだけでなく、自分たちとは関係のない世界のことだと考えるようになる。私の場合は、こうした考えを持たないように、祖母がつねに注意してくれたおかげで、それほど卑屈にならずにすんだ。/もうひとつわかったのは、世間からの疎外感を強める原因は、コミュニティのなかだけでなく、生活が向上する過程で出会う人や、場所にもあるということだ。イェールのロースクールは州立大学の卒業生を受け入れるべきではないと主張した私の教授などは、その典型だ。このような態度が、労働者階層に与える影響は計りしれない。
第13章 裕福な人たちは何を持っているのか?:成功者たちの社会習慣、ルールのちがうゲーム
経歴のよしあしや面接の出来不出来が、就職とは関係ないと言っているわけではない。どちらも大切だ。だが、経済学者が「社会関係資本」と呼ぶものには、計り知れない価値がある。これは学術用語だが、それが意味することはシンプルだ。社会関係資本とは、「自分が周囲の人や組織とのあいだに持つネットワークには、実際に経済的な価値がある」ことを意味する。このネットワークは、私たちを会うべき人に引き合わせてくれたり、価値ある情報やチャンスを与えてくれたりする。ネットワークがなければ、自分ひとりですべてをこなさなければならない。
教授のアドバイスの価値を測るのは難しい。どちらかというと、配当のように少しずつ効いてくる類いのものだからだ。ただはっきりしているのは、このアドバイスは、実際に経済的な価値を持っていたということだ。/社会関係資本とは、友人が知り合いを紹介してくれることや、誰かが昔の上司に履歴書を手渡してくれることだけをさすのではない。むしろ、周囲の友人や、同僚や、メンター(指導者)などから、どれほど多くのことを学べる環境に自分がいるかを測る指標だといえる。私は、選択肢に優先順位をつける方法を知らず、ほかによい選択肢があるかどうかもわからなかった。自分のネットワーク、とくに思いやりのある教授を通じて、それを学んだのである。
以下に、イェールのロースクールに入学した時点で、私が知らなかったことを列挙してみよう。/・仕事の面接に行くときには、スーツを着る必要がある。/・ただし、そのスーツは、大人のゴリラが着られるほど大きなものであってはならない。/・テーブルの上のバターナイフは、たんなる飾りではない(とはいえ、バターナイフを使うより、スプーンや人さし指を使ったほうが、万事うまくいく)。/・合成皮革と本革は、ちがう素材である。/・靴とベルトは、色と素材を合わせる必要がある。/・一部の都市や州では、よい仕事が見つかりやすい。/・よい大学に進学することには、「自慢ができる」以外にもメリットがある。/・金融とは、実際に人が働く業界でもある。
私の祖母は、ヒルビリーに対するステレオタイプ的な見方、つまり、「全員がよだれをたらした間抜けだ」という考えに、いつも怒っていた。だが現に、私は、成功するにはどうすればいいのか、まったくわかっていなかった。
第14章 自分のなかの怪物との闘い:逆境的児童期体験(ACE)
私にとってはあたりまえになっていた行動が、じつは重要な研究テーマとして繰り返し取り上げられていることがわかった。心理学者は、私やリンジーが体験したことを「逆境的児童期体験(ACE)」と呼んでいた。ACEとは、子どものころのトラウマ体験のことで、その影響は大人になってからも続く。
ACEは、どんな場所でも、どんな社会でも起こる可能性がある。ただし統計上、貧困層が多い地域では、ACEの発生率が高いことがわかっている。ウィスコンシン州児童信託基金の報告によれば、大卒か、それ以上の学歴を持つ人(非労働者階層)のうち、ACEを経験したのは全体の半分以下だ。それに対して、労働者階層の場合には半数を優に超え、全体の約40パーセントが、何度もACEを経験している。
ロースクールの2年目が始まってから、数週間たったころのことだ。母とは何か月も言葉を交わしていなかった。それほど長いあいだ、母と連絡をとらなかったことはなかった。そのとき、私は気づいたのだ。これまで母に対して、愛情や哀れみ、許し、怒り、憎しみなど、さまざまな感情を抱いてきたが、共感したり、理解しようとしたりしたことは一度もなかったことに。母に同情的な気持ちになっていたときでも、きっと母は、先祖から最悪の久点を受け継いだのだと思うのがせいぜいで、その欠点が自分には遺伝していないことをひたすら祈った。その後、自分が母親と似たような行動パターンに陥っていることに気づいたとき、私はようやく母を理解しようと思い始めたのである。
イエールでは法律をたくさん勉強した。だがそれだけではない。新しい世界と自分のあいだには、つねに少しのずれがあることや、ヒルビリーである自分には、ときおり、愛と争いの区別がつかなくなるということも学んだ。これこそ、修了式のときに私の胸のなかにあった最大の不安だった。
第15章 何がヒルビリーを救うのか?:本当の問題は家庭内で起こっている
その昔、二度と母を助けないと誓ったことがあるが、いまの私は、そのときとはまったくちがう人間だ。私は、ずっと昔に捨てたキリスト教への信仰を、おそるおそるではあるが、ふたたび模索していた。そして生まれて初めて、母が幼少期に受けた精神的な傷の深さを知った。小さいころに受けた傷が癒えることはありえない、私自身の傷だって同じだとわかった。だから、母がひどい状態にあるという電話があったときも、ぶつぶつ文句を言ったりせずに、静かに受話器を置き、母を助けることに決めたのだ。
私たちのコミュニティが抱える問題に“解決策”はないのかと、ときおり尋ねられることがある。何を求められているのかはよくわかる。魔法のような公共政策や、政府の革新的な施策を思い浮かべているのだろう。だが、私たちが抱えている問題は、家族、信仰、文化がからか複雑なものであり、ルービックキューブとはちがう。誰もが考えるような形での“解決策”はおそらく存在しないだろう。/ホワイトハウスで働いた経験があり、労働者階層問題に深い関心を持つ友人が、私にこう言ったことがある。「この問題については、根本的な解決は不可能だと考えるのが妥当だろうね。 そこらじゅうでたえず問題が起こっているから。でも、境界線のぎりぎりのところにいる人たちに、手を差し伸べることならできるかもしれない」
私にも、たくさんの人が手を差し伸べてくれた。わが身を振り返ると、自分の人生の方程式には、多くの変数があったことに気づく。母や継父が、祖父母とのかかわりを拒否しようとして遠くに引っ越したときも、いつもそばにいてくれた祖父と祖母。すぐにいなくなってしまう父親候補のかわりに、私を温かく見守ってくれた一族の男たち。多くの問題を抱えながらも、私に生涯続く向学心を与えてくれた母。私のほうがからだが大きくなってからも、いつも私を守ってくれた姉。私が遠慮したにもかかわらず、部屋を貸してくれ、何より、愛し合う幸せな夫婦の姿を初めて私に見せてくれたおじとおば。手を差し伸べてくれた教師、親戚、友人たち。/方程式からどの人が欠けても、私の人生はだめになっていただろう。逆境に打ち勝って成功を収めた人たちから、似たような話を何度も聞いたことがある。
問題の一端は、州が法律で、「家族」をどのように定義しているかにある。私のような白人労働者層、あるいは黒人やヒスパニックの家庭では、祖父母やおじ、おば、そのほかの親族が、子どもに対してはたす役割は、きわめて大きい。/ところが、私の場合もそうだったように、裁判所は、彼らを蚊帳の外に置くことが多い。一部の州では、里親になるのに(看護師や医師のような)公的な資格が必要となる。たとえ、祖父母などの近親者が育ての親になる場合でも、この要件は変わらない。/別の言い方をすれば、この国の福祉制度は、ヒルビリー向けにはつくられていないのである。この制度のせいで、子どもを取り巻く状況が悪化することもよくある。
おわりに
人々は、富める者と貧しき者、教育を受けた者と受けていない者、上流階層と労働者階層というように、大きくふたつのグループに分けられる。そして、実際に私たちは、属する集団によって、ますますちがう世界を生きるようになっている。一方の集団からもう一方の集団への文化的移住者である私は、ふたつのグループのちがいに、いまでははっきりと気づいている。
謝辞
原注
解説
ニューヨーク生まれの富豪で、貧困や労働者階級と接点がないトランプが、大統領選で庶民の心を掴んだのを不思議に思う人もいる。だが、彼は、プロの市場調査より、自分の直感を肩じるマーケティングの天才だ。長年にわたるテレビ出演や美人コンテスト運営で、大楽心理のデータを蓄積し、選挙前から活発にやってきたツイッターや予備選のラリーの反応から、「繁栄に取り残された白人労働者の不満と怒り」、そして「政治家への不信感」の大きさを嗅ぎつけたのだ。/トランプを冗談候補としてあざ笑っていた政治のプロたちは、彼が予備選に勝ちそうになってようやく慌てた。都市部のインテリとしか付き合いがない彼らには、地方の白人労働者の怒りや不信感が見えていなかったからだ。そんな彼らが読み始めたのが、本書『ヒルビリー・エレジー(田舎者の哀歌)』だ。
ヴァンスが「Hillbilly(ヒルビリー)」と呼ぶ故郷の人々は、トランプのもっとも強い支持基盤と重なるからだ。多くの知識人が誤解してきた「アメリカの労働者階級の白人」を、これほど鮮やかに説明する本は他にはないと言われる。
タイトルになっている「ヒルビリー」とは、田舎者の蔑称だが、ここでは特に、アイルランドのアルスター地方から、おもにアパラチア山脈周辺のケンタッキー州やウェスト・ヴァージニア州に住み着いた「スコッツ=アイリッシュ(アメリカ独自の表現)」のことである。/ヴァンスは彼らのことをこう説明する。/「そうした人たちにとって、貧困は、代々伝わる伝統といえる。先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。アメリカ社会では、彼らは『ヒルビリー(田舎者)」『レッドネック(首すじが赤く日焼けした白人労働者)』『ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている。だが私にとって、彼らは隣人であり、友人であり、家族である」/つまり、彼らは「アメリカの繁栄から取り残された白人」なのだ。
都市に住む知識階級のリベラルは、すでにこの裏切りに気付いているが、そこを指摘しても、分断したアメリカの溝を埋めることはできない。現在のアメリカは、海外との交流以上に、都市と地方との交流が必要になっているのかもしれない。/50年後のアメリカ人が2016年のアメリカを振り返るとき、本書は必ず参考文献として残っていることだろう。
ヒルビリー・エレジー : アメリカの繁栄から取り残された白人たち | NDLサーチ | 国立国会図書館
361.85 289.3